2024年4月26日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉

柳田邦男(ノンフィクション作家)  ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉 

柳田邦男さんは災害や事故、病気や医療、障害と福祉などについても取材と執筆を半世紀以上続ける一方で、もうひとつのワイフワークとして絵本を楽しみ、翻訳を手掛け、絵本が持つ力、魅力についての語り部としても活動を続けています。 2008年には東京荒川区が柳田邦男絵本大賞を創設、絵本を読んだ感想文を柳田さんにお便りするというスタイルで行われていて、今年で16回目となりました。 柳田邦男さんのNHKハートフォーラム絵本がひらく共生社会への扉の講演をお聞きいただきます。

「ピアノ発表会」 宮越明子? 

「今日はモモちゃんの初めてのピアノ発表会です。・・・いつものように弾けばいいからね。  先生がにっこり笑って言いました。 ・・・大丈夫、大丈夫。 ・・・モモちゃんが足元を見たら子ネズミでした。・・・大丈夫モモちゃんの番までまだ時間がありから。・・・子ネズミについてゆくと舞台袖の奥に小さなドアがありました。 ・・・モモちゃんはドアをくぐりました。 ・・・ 」(冒頭部分)

絵本の普及活動を始めて30年近くになります。 NHKの障害福祉賞というものがありまして、その選考を30年以上やってきています。 障害や、障害者問題と絵本の発表といつもも重なり合ったんです。 絵本は幼児期の本だという風に先入観で捉えられてしまっている。 描いている絵本の世界は深いんです。 絵本は人が生きる上で大切な事、人間関係で大切な事、それが全て絵本に書かれている。 障害と障害者の理解を深めるうえで絵本はとてもいいヒントを与えてくれる。 こういう活動からお話をしてみたいと思います。

東京の荒川区で大きなイベントを16年やって来ました。 絵本を読んでどういうところに感動し、気付きがあり、そして自分がどう変ったか、その体験を手紙で寄せてくださいと言う活動を始めました。 柳田邦男絵本大賞を創設。 その頼りの中からご紹介したい。

植物アレルギーを持っている小学校2年生の杉山由良?君

アイスクリーム、お菓子などが食べられない。 辛い中で一冊の本に出合いました。 「むっちゃんのしょうどうしゃ」と言う絵本です。 動物列車にむっちゃんが一緒に乗ります。食堂車で食事をしますが、むっちゃんが杉山君と同じような植物アレルギーを持っている。 杉山君は自分と同じだという事で読んでいった。 むっちゃんが「僕は植物アレルギーだから卵と牛乳が田出られないの。」と大きな声で叫ぶんです。 自分と同じだと思って読んでゆくと、アシカやペリカンは魚だけしか食べない。 ライオンは肉だけ、羊は草だけ、こういう風景になっている。 それを杉山君は手紙に書いてきてくれました。

「僕に食べられないものがあってもいいのだと思いました。 僕は僕の身体に合う食べ物を使って、お母さんや給食の人が作ってくれているので、とてもありがたい気持ちになりました。 僕はこの本を読んで、アレルギーは気を付ければご飯がもっと美味しく、これからは作ってくれた人の気持ちを考えて、残さず食べれるように頑張ろうと思う様になりました。」   感謝の気持ちをもって食べて行こうと自分を変えてゆくわけです。 

小学校5年生 村山重行?君 「見えなくてもだいじょうぶ?」と言う絵本を読んだ印象と学んだことをしっかりと書いてきました。

かわら?と言いう少女が御両親と市場で買い物をしているうちに迷子になってしまう。 誰も声をかけてくれないが、泣いていると若者が声を掛けてくれた。 ハッとみると白い杖をついている。 この場面は障害のある方とない方が表現されている。 耳で迷子になっていることに気付く。(健常者は無関心)  一緒に探しに行く。 そうするといろんな場面で障害者に対する理解がどんどん深まってゆく。 

「僕は目をつぶってリンゴを触ってもリンゴだとは判るけれども、熟れているかなんて全然わかりません。 ・・・柳田先生もし夜中にトイレに行く時には灯りを点けますか。 僕はトイレに行くときには必ず点けます。 でもまちあす?は灯りを点けなくても平気なんです。僕は目が見えなかったらどうなるだろうと、いろんなことをやってみました。・・・でもいろんな音がよく聞こえました。 かわら?はお兄さんは耳も見えるのね、と言っていますが、まさにその通りだと思います。」     「耳で見える。」と言う言葉は素晴らしい言葉だと思います。 「この本は目の不自由な人の思いが伝わって来る本なので、是非柳田先生読んでください。」と付け加えられていました。

人種差別、障害の有る無し、寝たきりの老人とか、いろんない人に対する偏見があるが、その立場に立って考えるとまた違う見え方が出来る。 それを小学5年生の子が考え、実行しているわけです。 絵本の力は素晴らしいと思います。

「ちょっとだけ」と言う絵本。 なっちゃんという2,3歳の女の子。 赤ちゃんが出来て今迄みたいに100%面倒を見て貰えない。 喉が渇くと自分で牛乳を持ってきて、ちょっとこぼしたりしながら飲んだりする。 ・・・赤ちゃんが眠った時に一杯抱っこしてあげますね、と言うと、なっちゃんは大喜びする。 お母さんのひざ元ですやすやと眠る。

一日に一回でもいいから上の子のことをちゃんと見てあげなさいと言うような物語だと思いました。 他に色々な場面で子供から気付かされたと言うおかあさんからの手紙です。

吉田千絵?さんからの手紙

3歳の息子に読み聞かせっていたら、牛乳をついでこぼしちゃった、でもなっちゃんはちょっとつげたことで満足そうな表情になっていて、そこで3歳の息子が拍手をして「凄い」と言ったそうです。 見ているところが親と子では違うんです。 親はこぼした方を見ている。 子供はついで、つげて嬉しい、と見ている対象が違うんです。 ここはとても大事なところです。 

「この時我が子が凄いねと言って、私はハッとしました。 子供にとって自分が出来た時の喜びはとてつもなく大きいもの。 それが完ぺきではなくちょっとだけだったとしても。・・・こぼさないようにしなさいと監視し、こぼしてしまうと「だから言ったでしょう」と怒っていたかもしれません。・・・ちょっとだけ成功していて本当は喜びたいはずなのに、私は怒ってしまったことはないだろうか。 この絵本を見て反省させられました。・・・ちょっとだけの成功を見落とさずに、しっかりと褒めてあげないといけない。 そして一緒に大喜びをしないといけない、と私はそう決心しました。」

平山小雪?さんから「ちょっとだけ」と言う絵本を読んだ感想。

7歳の娘さんと赤ちゃんとの関係を伝えてくれました。 お母さんが赤ちゃんに取られてしまっていてひがんでいる。  なっちゃんが隣の友達のお母さんから声を掛けられる場面。「なっちゃんね、赤ちゃんて可愛いでしょう。」  なっちゃんはためらいがちにうなづく。 平山小雪?さんは7歳の娘さんに「なっちゃんはどうしてちょっとしかうなづかなかったのかなあ。 なっちゃんの気持ち判る。?」と聞いたそうです。 7歳の娘さんははっきりと「判る、凄く判る。 なっちゃんは本当は厭なんだよ。 凄く我慢しているんだよ。」といったそうです。 

絵本の読み聞かせは、親も学びの場なんだという事を気付いて、親子で成長し合うという事に気付く必要があると思います。 

中高年層になった時にもう一度絵本を読むと、新しい気付きや発見がある、という事を訴えています。 子供の頃のみずみずしい感性がいつの間にかなくなってしまっている。    でも取り戻せないものではない。 それは絵本です。 高齢者のグループに3冊の絵本を持って行って3グループに分けて読んで語り合ってもらいました。 想像以上に内容が濃かったと言っていました。 「おじさんのかさ」 作:佐野洋子                  大事な傘なので、雨が降っても濡らさない。  公園で雨がパラパラ降って来て、男の子が来て「おじさん、傘に入れて。」と頼んでくるが、そっぽを向く。  女の子が来て傘に入れてあげると言って、相合傘で歌を歌いながら行きます。・・・ おじさんは「雨が降ったらポンポロロンと言いながら、傘を開いて雨の中に入って行きました。・・・家に着くと奥さんが「貴方 傘が濡れているわよ。」と言いました。 

「おじさんは傘と共に心を開いたのだ。 こういうコミュニケーションの極意を語り合っていました。 このメンバーはもう一度みんなで音読したそうです。 一冊の絵本を仲立ちにして、過去を語り未来を見つめ、人は心豊かに繋がるのですね・・・。 傘を開く時、心を大きく開こうと深呼吸をして出かけました。」  今日も心を開いて前向きに生きてゆく、その一歩を踏み出そうと、そんな傘を開く気持ちと言うものを、ちゃんと一冊の絵本から読み取る。 いろんなモチベーションを絵本からくみ取って、日常生活が変ってゆくという、栄養剤、刺激剤になってゆく、そういう力を絵本は持っている。

子供は大人が考えている以上に柔軟な感性を持っていて、自分に重ね合わせて自分自身を変えて行ったり、心に成長に繋がる考え方を持ったりする。 大人の絵本を介していろんなことを学んでそれぞれの生活、人生が変わってゆく、とても素晴らしい力を絵本は持っている。





 

























2024年4月25日木曜日

小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

 小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

子供のころに見た舞台で役者が化粧によって変身する姿に感動し、舞台メイクの仕事を夢見て上京します。 保険の外交をしながら夜間の美容学校に通い、23歳の時に化粧品会社に就職、販売員として主婦を相手に腕を磨く中で、化粧は女性を内面から元気にする力があるという事を知ったと言います。 その思いが肌の奥に潜む美を追求する身体化粧の原点となります。 美容部員から女性初の取締役に就任、その後独立し美容ビジネスの経営や後進を育てる学校運営にも乗りだします。 一方で小林さんが長年取り組んできたのが、人の身体に化粧を施し、肌の奥に秘められた美を探求する身体化粧、身体に優しい化粧品で全身に絵を描き皮膚と一体化させる唯一無二のアートワークです。 私が描いた絵は元々肌が持っていた記憶ではないだろうかという小林さんに追い求める美の世界についてお話を伺いました。

メーキャプと言うのは本来、清潔にするとか、衛生概念と言ったものから始まるんです。  そこから礼儀みたいな、人様にいい姿を見せようとか、メーキャプに発展してゆきました。  男性用化粧品とか男性向け美容講座も開いています。  自分自身のモチベーションを上げるのにとっても必要なものですね。 ニューヨークなどに行くと、個性をきちんと表現しないと生きていけないぐらいのキャリア―ウーマンはいっぱいいました。  演劇の世界に行くには勉強になると思いました。  

日本も変わって来ました。 ビジュアルな時代で、見た目で判断されると言う事をみんな知っているわけです。 思春期に直観力が出てきて、自分を見せたい、自分がどう見られているのか模索するのが、思春期だと思います。 直観力を押さえてしまうという事が日本のあり方だった。 本能として自分を表現するという本能があるんです。 美意識を持ち続けつつ、養いつつ高等学校の勉強をする、大人になるための勉強をする、それが私の学校の方針です。 人間は社会性のある動物なので、人とのコミュニケーションの中に表情、声は凄く大事なことだと思います。

貧乏だったので手に職を身に付けたかった。 演劇の裏方になると決めました。 キャラクターを作ることがとっても面白かったです。 扮装のプロになりたいと思った。(当時はメーキャップと言う言葉はなかった。) 保険の外交員をアルバイトとしてやって、夜に美容学校に行きました。 当時は皮膚の病気が一杯あって、伝染病学、感染学を学びました。 メーキャップアーティストになるためには化粧品会社がいいと思ってコーセーと言う会社に入社することになりました。 山口県に派遣されました。 本人も気が付かないナチュラルメークをするんです。 お顔を借りてメークするうちにどんどんお客様が増えました。 2年間山口県に通いました。 手の感覚が顔の肌と接して、人との縁が深くなるとか、そういったことに繋がるわけです。 家庭内のごたごたなども話してくれて、気持ちもスッキリしたという事もあり、私にとってもいい勉強になりました。 これも手の力だと思いました。

ヒット商品を沢山作れたことは、ラッキーだったと思います。 ヒットキャンペーンも考えることが出来て、上司も許してくれて、やりたいように進めることが出来ました。 ルックスキャンペーンで大成功しました。  45歳で辞めようと思っていましたが、50歳で女性で初めて役員になって、社長からは「あんたは何でも初めてのことをやるんだから。」と言われました。 私の目標は舞台のメーキャップアーティストになるという事なので、時代も変わって演劇集団も規模が大きくなり、100人程度のメーキャップが必要になり、学校を作ることにしました。 独立することになりました。

人間の生身の身体をキャンバスにして表現する身体化粧に挑んでいきました。 ビジネスにはならないものです。 顔から身体に延長させてゆくことは綺麗なんです。 一糸まとわない身体の化粧という事でやりました。 評価されてメイクアップアーティストになって行きました。 消されてしまうので儚いです。 写真家の藤井秀樹さんとの出会いがありました。 日曜日美術館からのお話があり動画にも挑戦しました。

10代で直感的に思った夢を、常にコツコツとやってきて、いろいろ成功してきて、自分がやってきていることは、人のモチベーションを上げることだけではなくて、自分の夢を成功に導いてゆくような凄いものなんだなと思えるようになりました。 真っすぐ進んでいるうちにチャンスが向こうから来ると言った感じです。 自分を見つめる目、芯のようなものがあり(揺るぎない直感)、それを追及している時には味方してくれる、そこからそれようとした時にガーンとした事故がある、そんなふうに思って、気付かされることをずっと感じています。 

身体化粧を75歳までやって、そこから彫刻をやりました。 彫刻は昔からやりたかった。彫刻をやることによって、それがヒントとなり大ヒット商品を発明する事ができました。 彫刻に蜜蝋を塗る事から、顔にと言うクリームが大ヒット商品になりました。 

自分を大事にするという事は人を大事にする、愛する、練習です、と言う風に思っています。  フリーダ・カーロアンリー・ルソー奈良美智の描く顔の絵が好きです。









2024年4月24日水曜日

坂嵜潮(個人育種家)           ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど

坂嵜潮(個人育種家)        ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど 

坂嵜さんは世界的に有名な育種家で、最初にその名前を知られたのはペチュニアの画期的な新品種を作ったことでした。 ヨーロッパを席巻したとまで言われたその花の爆発的なヒットは、今でも語り草になっています。 その後もこれまでにない花を作り出し、ガーデニングの世界を変えた人とも言われます。 坂嵜さんの育種はどんなもので、いかにして世界的な育種の名人になったのでしょうか。 そもそもなぜ育種世界に入ったのでしょうか。 

交配をして新しい品種を作るという仕事です。 花の育種は普通は温室のなかに素材があって、その中から親を選んで交配をしてゆくことですが、私が常に心掛けているのは、野生に存在している草花、その自然らしさ、力強さをなるべく生かした品種が出来るように努力しています。 人があまり手を加えると人工的な花になってしまうので、手を加え過ぎないように努力しています。 

ペチュニアを沢山花を咲かせて丈夫な花にして「サフィニア」と言う名前をつけ、ヨーロッパ中に広がりました。 それまで使われていなかった野生種を交配して、野生の血が半分入ったようなペチュニアを作ってみたら、凄く元気で病気にも強くて生き生きとした力強い品種が出来ました。  今までは温室の中での交配をしてきていました。 

大学を卒業した時には、果樹と野菜の栽培の研究室だったので、ブドウを生産してワインを作るというような研究室に就職することになりました。 1984年ごろにブラジルでワインを作るというプロジェクトがやられていて、その研究に行ってくれと言う話がありました。 1年半で上手くいかずに止めることになりました。 道路を走っていたら道路わきに ペチュニアの原種でした。 日本に持ち帰って品種改良のスタートをしました。  当時はバイオテクノロジーブームでした。 京成バラ園芸との共同研究チームが編成され、新品種づくりがはじめられることになった。  そして「サフィニア」ができました。

それまでは品種改良は全然やったことはありませんでした。 プロジェクトを立ち上げた育種家が薔薇の育種家の鈴木省三さんが向こうのリーダーで、面白いから一緒にやろうという事になりました。日本に帰ってからはワインの研究からは外れました。 1986年の春に始めて、実際の交配の仕事は千葉の方でやって、一番いいものを選ぶ意見が鈴木さんとぴったり合いました。 選ぶよりもいかに捨てるかが難しいです。

ヨーロッパではバルコニー、窓辺にプランターを置いて育てるというのがポピュラーです。 ゼラニウムと言う植物が一般的でした。 それに代わるものとしてペチュニアが入ってきました。 「サフィニア」が沢山窓辺を咲かせました。 

「カリブラコワ」、ペチュニアの小さな花も作りました。 原種を集めるところからスタートしました。  世界中で植えられるようなポピュラーな植物になりました。 育てやすくて、花は小さいが物凄く沢山花が咲きます。 鮮やかな黄色、オレンジとか花の色のバリエーションではペチュニアをぬいてしまいました。 

この原種が欲しいというのは文献などで調べて出かけますが、行けば必ず出会っています。 もう40年近くやっていて学びの旅ですね。 めげたことは山ほどあります。 10ぐらいのプロジェクトで計画を立てて、ちゃんと前に進むのは1割もないですね。 

45歳で独立しました。 大学3年の時に休学してドイツに留学しました。 父親から若いうちに海外に行ってこいと言われました。 ペチュニアを介して海外の人との交流も増えていきました。  ワクワクするような新しい品種が欲しいという事は変わらないので、自然らしさが感じられるような品種を作って提供できればいいなあと思います。 

2018年 世界的に権威のある「チェルシー・フラワー・ショー」でゴールドメダルを取りました。 枝垂れるような枝に一杯花が咲く紫陽花。 或る程度はそのイメージは考えていました。 でも出来ちゃったという感じです。 四国の山で野生の紫陽花を見つけました。 交配して作ってみたら吃驚しました。 3年ぐらいで最初の花は咲きました。出会った時にポッと引き出しから出てきてくれる。 引き出しを多く持つという事はプロとして一番大事です。 

自分の考えに基づいて品種改良は進めるわけですが、組み合わせを進めて行くと新しい性質のものが突然飛び出したりして来て、自分が全て品種改良を出来ているみたいな、万能感みたいなものを持つことが時々あるんです。 それは凄く幸せな感覚です。  逆に植物に利用されているみたいに思う時も感じます。 植物は人間を利用して進化している、と言う考えもあるんです。  自然の中にある力を尊重して、その中にある多様性を引っ張り出していこうというようなことを考えています。

自分の価値観で改良を進めてしまうと、やはり人工的になってしまう。 そこを繋ぐような仕事をしたいと思います。  人間が自分たちのアイディアに基づいて、人工交配で品種改良を進めるようになったのは、1800年代の中ごろだと思います。       父は植物園の関係の仕事をしていたので、日本の厳しい気候のなかでも育つ熱帯花木にはどういうものがあるのか、それはどういう風に使えるのか、と言う本をみんなでやったんだと思います。 父は76歳の時に「日本で育つ熱帯花木植栽辞典」を出しました。  10年以上かかっているかもしれません。  

まだ使われれていない新らしい品種を捜して、感動してもらえるようなものをもう一つ二つ作っていきたいと思います。  良いことも悪いことも必要だから起こっているという風に考えて、悪いことも必要な事として起こっていて、それを乗り越えてゆくために起こっている、と言う風に感じています。 受け入れるという事だと思います。









 




 




















2024年4月23日火曜日

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ 

天明鋳物は栃木県佐野市で生産が始まったとされ、江戸時代にかけて茶の湯の釜や農具、生活用品などが盛んに製作されました。 若林さんはこの1000年以上ある天明鋳物の鋳物師として、日本有数の寺院の鐘などを手掛けてきました。 製作活動と併せて2007年に天明鋳物伝承保存会を設立し、保存や普及の取り組みをしてきたなどが評価されて、今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。 先祖から受け継いだ技術や道具を次世代につなげたいという思いを伺いました。

現在製作している天明鋳物の釜です。 大きさが30cmぐらいのコロンとした形で荒れた肌です。 新しい釜で漆を焼き付けています。 お湯を沸かすと「松風」という音が出てきます。 お湯を何回も沸かして臭いを無くしてゆき、肌合いだとか生き生きとしてきます。  もう一つここに室町時代の天明釜があります。 自然と肌が荒れた様な感じになっています。 形が変わっていて二段構えの様になっています。  「尾垂釜」と言って、上半分が室町時代のもので、下の部分が新しく作ったものです。 長く使っているとそこが痛んできます。  尾垂という特殊な方法で今でも使えるように作っています。  信長、秀吉、家康公などが天明の釜を使ったという記録あり、特に秀吉公はよく使ったという事です。 天慶2年(939年)に平将門の乱を鎮めるために、河内の国から藤原秀郷公と共に鋳物師5人を長とする人たちが佐野に住みついたという事が始まりと言われています。 連綿と続いてきています。 今は数軒になってしまっています。 

鋳型を作る為の材料の砂(先祖代々繋がっている砂)があります。 砂をふるいでふるった後に粘土水を加えて、固めて鋳型を作ります。 二つ一組になっていて、茶釜でしたら鋳鉄を溶解して鋳型に流し込みます。 祖父が使っていた炉があります。(高さ5mぐらい) 一回の溶解で2トンぐらい作ります。 燃料は木炭です。 1400℃、1500℃にあげるのは至難の業です。 今はコークスを使っています。 昔は風を送るのにも「たたら」「ふいご」で大変な作業でした。(今は送風機でスイッチ一つですが) 100%うまくいくかどうかわからないが、流し終わった後に鋳型を壊して、作品を取り出し、仕上げの工程に入っていきます。 壊した鋳型は細かくして再利用します。 数週間かけて作った鋳型に数秒で溶解した鋳鉄を流し込むので、そこで作品がうまくいくかどうかが決まります。 最終的には自分の目とか肌感覚になります。 

父親の彦一郎から自然と教わりました。 28歳の時に父が亡くなりました。(10年間の修行)  自分の鋳物の作品を通して、何かほっとすろとか、元気を貰うとか、そういう作品が出来ないものか、と言った事を思っていました。  今でも変わらないです。    奈良東大寺の大仏釜、大原三千院神殿の鐘などにも作品を納めています。 三千院では薬師如来像で、お経を取り込めないものかと思って、鐘の内側に861文字のお経の一部が鋳込まれています。 その技術は最初自分でもよくわからなかった。 完成まで3年かかりました。 作り方はふっとまどろんでいたなかから考えが浮かんできました。 直径1cm程度の粘土キューブ(立方体)を作って、そこに一文字一文字のお経を薄い和紙に写して、粘土キューブ(立方体)の表面に水を付けて貼って、細いヘラで押してゆきます。 へこんだところに鋳物が流れてゆくと出っ張るわけです。 複雑な文字もあるので大変でした。 音と共にお経が広がってくれたらいいなあと思います。 

2007年に天明鋳物伝承保存会を設立しました。 先人が守ってきた技術があってこそ、いま我々が仕事をさせていただけるので感謝しかないです。  父の残してくれた鋳造道具などを含め伝えてゆくためには、どうしたらいいかという事からスタートしました。    今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。  最初は従兄弟と二人で始めましたが、現在は150人ぐらい会員がいます。  1556点が指定されました。  家にあったのが1473点でした。 指定してもらう報告書の作成が大変でした。 電子化も必要でした。(ソフトもなかった。)  ボランティアの方々の応援もあって17年間やってこられました。 

小学6年生が鋳型を作って、持ってきた鋳型にスズの溶解を自分で流し込んで作品つくりをしています。 ものを作る人間はものを大切にします。 息子が8年間修業をして、帰ってきて一緒に仕事をしています。 彼の感性のなかで、いろんな場面に出会って、いろんなスイッチを入れて、伝統に、歴史に繋いでいって欲しいと思います。 























  

2024年4月22日月曜日

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 1981年東京都出身。(42歳)  三味線奏者の尾上秀樹さんとの音楽ユニット「HIDE✕HIDE」の活動は15年以上にわたる。 ゲーム音楽の作曲、演奏も手掛けるなど幅広く活躍しています。 

元々ゲームが大好きです。 2009年ぐらいからゲーム音楽のコンサートにゲストとして呼んでいただいて、それがどんどん進んで、今はゲームの中の音楽の収録をさせていただいたりアレンジしたりしています。 有名なのが「モンスターハンター」とか「スーパーマリオン」とかあります。 父親が尺八奏者初代石垣征山、母親は琴の演奏家洗足学院音楽大学名誉教授の石垣清美です。 子供用の尺八はないので、指が大きくならないと穴がふせげないので、やらなかったです。  家では尺八、琴の音が鳴って聞いていました。  中学2年ぐらいまではお琴を年に1回やるぐらいでした。

中学2年でオーストラリアへの海外派遣の話があり、どうしても行きたくて尺八での文化交流という事を訴えて、面接を通ることが出来ました。  その後父に尺八を教えてもらいました。 「さくらさくら」を覚えていきました。 オーストラリアにも有名な曲があるのでそれも覚えて行きました。(「ワルチング・マチルダ」(Waltzing Matilda))

「ワルチング・マチルダ」 

帰国後も3年間は尺八は全く触りませんでした。 高校2年で進路の問題があり、尺八で芸大を受けたらどうかと母親に言われました。 芸大に入ることが出来ました。 大学2年の時に父が癌で亡くなってしまって(51歳)、父親の関係の周りの人から母親と一緒に演奏をするという話を頂き、いろいろなところに呼んでいただきました。 父親への恩返しは尺八を吹いて演奏したり、尺八を世に広げてゆくことと思いました。 もともとはお坊さんがお経に代わりに尺八を吹いていたと言われます。 27歳ぐらいで父親の名前を襲名しました。 

*「サウザンド・ナイブス」 演奏:HIDE×HIDE

どの音色を選択するか、どの音色を出すかという感覚が歌に限りなく近いという、自分のやりたいものが表現しやすい楽器だと思います。 骨格によっても音色は違う、同じ楽器を使っても音色は違ってきます。 オリジナルをやりますが、尺八らしさは生かしたい。   古典も大事にしたいと思います。  古典も勉強しないと説得力がなくなってしまうだろうなあと思います。 

尺八は見た目にはめちゃくちゃシンプルな楽器です。 ここの3本の尺八がありますが、一つは古典の真竹、もう一つはプラスチック製、もう一つがメタルで出来たもの。 竹は割れたりするが、プラスチック製、メタル製は周りにメンテナンスする人が居なくても、海外の方が安心して持てると思います。

*3本を吹いてみる。(判別が難しい) 

プラスチック製は軽い感じ。 メタル製は広がりが少ない。 竹製は広がりふくよかさがある。(石垣征山、談) 

*タイトル「音の簾がかかる社」  琴と尺八の二重奏曲 作曲:石垣征山 尺八:石垣征山 琴:石垣清美

〔にっぽんの音〕とは「間」、だと思います。 向こうの人が一番驚きをもって喜んでくれるのは「間」の感覚だと思います。 「間」の空気感が日本らしいなと思います。    自分が面白いと思う事をやってゆきたい。  ライブを月に一回やってきて10年になります。












2024年4月21日日曜日

加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

 加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

仲間と一緒に全国を訪ねて、その場でカレーを作り集まってきた土地の人たちに食べてもらうと言うカレーキャラバンに取り組んできました。 2021年からはじまったキャラバンは80回に及びます。 カレーの香りに誘われてやって来る人、食材を無料で提供してくれる人、美味しいカレーを作る為のアドバイスをしてくれる人など見ず知らずの人たちが、カレーの鍋を囲んで会話が始まります。 カレーを味わう、そしてコミュニケーションを味わう場所が出現するというこの取り組みはコミュニケーションの場を生み出す活動として2015年度グッドデザイン賞を受賞しました。 コロナ感染予防のためしばらく活動を自粛していましたが、今年 はカレーキャラバンの活動を再開したいと語る加藤さんにお話を伺いました。

カレーを作っていると皆さんが寄っていらっしゃるので、カレーがあるという事で皆さんリラックスしていただいて、町のこととか将来の事を話していただけるので、結果として行く先々のことを勉強させていただくような、そういった活動にはなっています。 最初は内輪でカレーの会をするという事でした。 香りに誘われてお話をする場面が出来て、カレーの力を実感したんじゃないかと思います。  町とか暮らしに興味を持っていました。  場の力の流れからカレーキャラバンが始まりました。  墨田区の曳舟、スカイツリーのふもとあたりの古いけど活気のあるキラキラ橘商店街があって、地元の方と街歩きをしたり、巻き込みながら活動するという事をやっていまして、ご当地B級グルメを作ろうかと言う話から始まって、墨東カレーを作ろうという事になりました。(商店街の中) 

アドバイスを頂いたり掛かわって来ていただいて、面白さを感じました。 2年半ぐらいは足を運びました。  初対面の人ともコミュニケーションもカレーがあると違います。   無料でキャラバンをやっています。 当時はメンバー3人で5000円ずつ出し合って、材料を買って、「赤字モデル」と言って作っていました。  或る人が「一回のみに行けば5000円ぐらい払うでしょう。」と言ったんです。 「趣味にはもっとお金をつぎ込んでいるでしょう。」と言われました。  「楽しくカレーを作って人との出会いがあるのだから、飲みに行くのと同じではないか。」とさらっとと言ってくれて、浄化された様な気持ちになりました。 ボランティアとも違います。 

市販のルーは使わないという事を決めました。(スパイスカレー) タンドリーチキンも作りました。 道具立ても行いました。  朝から始めますが、夕方になるころに完成します。  居心地のいい時間と場所が出来上がります。 大田区鵜木と言うところでカレーを作った時に、そこでは知人がギャラリーを開いていて、近くには多摩川があり食べられる植物が一杯あり、それを摘んでそれも加えて作ったのが印象的でした。  身の回りにある食べられる植物を発見できた面白かったです。  初めての人とも共通体験が出来ました。 

杉並区で作った時に、出来あがるころにたくさんの人が集まって来ました。 作っているところは私有地でいいのですが、道(公道)に行列が出来て、そこの際を盛り上げたという事があります。(食べたところがプライベートとパブリックの際の場所) 昔はあいまいな場よ、空き地が界隈にありました。 今は空き地があっても囲われていて入れない。(個人の空き地、工事用地など)   今回のところは空き地のイメージがしました。(一時的、精神的な「共」の時間と空間)  コロナ禍は空き地と言う発想は許されなかった。   「共食」は明るい方向に向かわせてくれるのかなあと思います。 





















2024年4月20日土曜日

篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

 篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

篠田さんは災害時に怪我をした人を救助したり、障害物を避けながら物資を運ぶなど、被災した時や避難生活に入って時に必要な動きをスポーツ化した防災スポーツを各地で実施しています。 その原点は兵庫県西宮に住んでいた中学生の時に経験した阪神淡路大震災です。 避難所生活の中で不慣れな作業を数多く経験し、日常的にこうした動きを身に付けておくことが大切と痛感したことが現在の活動に繋がっています。 自らの被災体験から生まれた防災スポーツの取り組みについてお話を伺いました。

小学校から高校まで西宮で過ごしました。 中学校1年生の時に阪神淡路大震災に遭いました。地響きの音に目が覚めて 、地震が来て大きな揺れを感じ、布団をかぶって揺れのおさまるのを待っていました。  家具などが倒れていて大惨事だと気付きました。 両親と3人兄弟でしたが、皆怪我はありませんでした。 夜が明けて倒壊している家屋もありました。 幸い火災はありませんでした。  コンビニへ行って買い物をして小学校の避難所に行きました。 体育館だけでは入りきれなくて、交渉をして教室も解放してもらいました。夜になって電気通じてテレビを見ることができました。  火事の様子とか広い範囲での被害状況を目の当たりにしました。 プールの水をトイレに運びました。 当日午後には自衛隊の給水車が来ました。 当日はおにぎり二つが支給されました。 

その後スポーツで生かせるものはないかと考えた時に、災害防災にスポーツを組み合わせると何か提供できるのではないかと考えました。 大学を卒業してスポーツビジネスの世界に入りました。 ラグビー関係のチームのサポート、選手のマネージメントとかなどに携わっていました。 2013年に東京オリンピックパラリンピックが決まって、2014年に独立して会社を作りました。 スポーツイベントのプロデュースなどをしていました。    

防災対策にもスポーツの力を取り入れることによって、広げることが出来るのではないかと考えました。 スポーツは本来楽しむ要素もあるので、防災対策の入口にと言う思いもありました。 被災者の声を聴いてそれをスポーツ競技化できる要素は何か、と言うところから考え始めました。 ①一輪車で物を運ぶ、②低い態勢で移動できるか、③水難時の救助のための物を投げて的当てして引っ張るという事、④物資の搬送リレーのようなもの、⑤負傷者を搬送することを想定した毛布を使ってぬいぐるみの搬送、などいろいろ種目があります。 タイム競技として身体で覚えるという事で展開しています。 

スポーツの試合会場で一つのイベントとして、体験の場を設けてファンと選手が一緒になって行って、防災意識を高めて貰えればと思います。 防災のことを学ぶこともセットして、学校でやることもあります。  防災対策にもスポーツの力を取り入れることはまだまだ入り口だと思っています。 今後さらにそういった場を広げていきたいと思っています。