2017年8月24日木曜日

大田昌秀(元沖縄県知事)     ・明日の沖縄を信じて(1)(H24/5/15 OA)

大田昌秀(元沖縄県知事)     ・明日の沖縄を信じて(1)(H24/5/15 OA)
太田さんは今年6月12日に92歳でお亡くなりになり、先月26日に県民葬が行われました。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/05/40.htmlをご覧ください。 

2017年8月23日水曜日

田原和夫(中国の歴史と文化を学ぶ会会員)・昭和20年夏、満州

田原和夫(中国の歴史と文化を学ぶ会会員)・昭和20年夏、満州
1930年北京生まれ、87歳、昭和20年5月 旧満州の新京一中3年生15歳の時、およそ130人の同級生とともに旧ソ連との国境にある農場で勤労奉仕を言い渡されました。
8月9日の未明、重爆撃機の爆音で目を覚まされました。
ソ連軍のソ満国境の侵攻でした。
以降、言葉では言い尽くせない逃避行や、捕虜生活の後、餓死寸前の状態で10月20日新京にたどり着きました。
田原さんは満州から引き上げ後、会社員として働きながら、当時の出来事を正確に記録して後世に残そうと10数年かけて「ソ満国境15歳の夏」という著書を書き上げました。
この本は映画監督の目にとまり、日中合作の映画にもなりました。

私にとってはあの夏は私の人生を支配するほどのショックを受けた夏でした。
全ての中学生が動員、必勝の信念で頑張っていた夏でした。
日本が負けたことを聞いたときに、我慢して苦労して頑張ってきたのになんで負けたんだろう、よもや負けるとは思っていなかった。
敗戦はその後の私の人生を支配する異常な体験でした。
新京一中3年生15歳の時、250人のうちの130人がソ連との国境の東寧という所に農場(東寧報国農場)があり、そこに動員されていきました。
5月28日に130人が国境に向かいました。
5月30日に到着、作業を始めました。
水田、麦作があり、軍のために食料を作るところでした。
国のためと云うことでみんな頑張りました。
タンパク質が足りなくて、鯉を取ったりしておかずにして食べたりしました。
水質が悪いので水は飲むなといわれましたが、こっそり生水を飲んで赤痢にかかったり、腸の病気になりながらやっていました。

ガス、電気、水道もないところで、空が明るくなったら作業を始め、夕方暗くなりはじめたら帰ってくるという状態でした。
後から分かったことは農作業が必ずしも目的ではなかったようです。
関東軍は5月ぐらいから撤退して、日本軍の陣地はもぬけの殻ですが、我々はそこに残されて、カモフラージュ、ソ連側から見れば子供達は働いているので軍隊はいるだろうと思わせる、そういう役割もあったようです。(後で調べて判る。)
8月9日が来ました。
事態だけを話すと、9日午前零時を期してソ連軍は日本に参戦するということをモスクワで日本の大使に宣戦布告をしてきました。
8日の夜、ソ連軍の陣地がざわついていた。(準備をしていたようだった。)
宿舎は国境から1kmぐらいのところに掘っ立て小屋を立てて住んでいました。
午前3時ごろ重爆撃機が満州からソ連に向けて飛んで行って、その音に目を覚ましました。
日本軍が攻め込んでいると思って、また寝ました。

作業の準備をしていたらソ連領から砲撃が始まりました。
作業にはならないということで、撤退だと決断して引き揚げました。
子供を攻撃しても仕方がないと推定している。
本部にたどり着いて、昼ごろ生徒隊は帰りなさいということで、避難列車に乗れるのではないかと云うことで、徒歩で出発しました。
砲撃を逃れながら迂回して行ったので、4時の列車に間に合わないで6時ごろ着きました。
次の駅を目指して徹夜で歩きましたが、列車は無くて又歩き始めました。
山地を逃げているので水がなくて、倒れそうな状況の中で先頭の人が水があるということで、ぼうふらが湧いている水をがぶがぶ飲んで助かりました。(宝の水でした)
又生徒みんなで歩き始めました。
10日間逃げ回り捕虜収容所に収容されました。
17日、石頭と云う所にたどり着いて、日本は負けたと言って兵隊が右往左往していました。
虚脱して茫然としました。

先生が説明しても聞き入れられず、ソ連軍からは少年兵として収容されました。
一般の兵隊はシベリアに送られていきましたが、シベリアに連れていっても使い物にならないと思ったのかそのまま収容されました。
一日おかゆ二杯、それだけでした。
着るものも着たきりで虱が湧いて大変でした。
一度だけ煮沸消毒してくれましたが、3日目には又虱が湧きました。
寝るところは藁をかき集めてきて敷いて寝ていました。
餓死寸前に10月12日に解放されました。
越冬するのかと思って絶望感が漂っていたときに言われました。
新京には鉄道があるということで北に向かっていきました。
村人たちに事情を話したら助けてくれました。
お粥と卵とオンドルの寝床を提供してくれました。
敵国の子供を助けるということは政治的には非常に危険だったと思います。
石頭村自身も食べるものがなくて、100人以上を助けるのに各家に分散して家庭料理をつくってたべさせてもらいました。

我々も還暦を迎えて、40人ぐらいで報恩の旅と云うことで石頭村を訪ねました。
当時我々を知っている人が2人いました。
御礼を申し上げたら、我々も貧しくて何もしてあげることが出来ず御礼を言われるほどのことはしていない、困った人がいれば助けるということは人間の本心なのでやることをやっただけだと言われました。

昭和21年に日本に引き揚げて来ました。
東京大学を卒業して会社員になり、会社勤めを終わる頃、調べて「ソ満国境15歳の夏」を本にしました。
10月20日に家に着いたときに母親が号泣して、体が弱っていて下痢をしていて医者に診てもらって、重湯を食べました。
その後、食べ物を即座に作ってくれて食べて、下痢が止まりました。
生命を再び得たという実感がしたが、どうしてこんな目に合わなければいけないのか、それを知りたくて、いろいろ読んで日本の軍、政府の問題などを考えたがなかなかわからなかった。
自分の真相を書いて訴えたいと思ったのが、書く動機です。
正確に伝えたいと思って筆を取りました、そのために時間もかかりました。
何故15歳の少年をソ満国境に配置したのかはわかりませんが、配置した理由はソ連に対しておとりにして子供を置いておけば軍隊もいるであろうと思われるので撤退をかくすために、子供を最前線に置いたということだと思うが、それを決定した人がいたはずだがそれはだれかということはいまだにわからない。
結局は官僚は責任を取らない。

「ソ満国境 15歳の夏」は映画にもなったが反響が大きかったです。
日本大学の映画学科の教授の松島哲也先生のお力で、脚本から監督、製作まで全部先生がやりました。
全国各地の映画館で上映されて、色んな組織のところで並行して行われ、こんにちでも続いています。
当時のことは記憶と云うよりは体が覚えています。
父は59歳、母も64歳で亡くなり、もう少し長生きしていたら、もう少し孝行もできたと思っています。
軍国少年で苦労しても勝つんだとものの考え方があったが、敗戦に立ち会うことになり、ショックを受けて自分の人生観を決定的に影響を与えました。

自分に死生観、価値観、処世訓、食生活、思想を信状と、5つのことを自分なりにまとめています。
死生観、人間は生きるときは生きる、死ぬ時は死ぬんだということ。
価値観、この世には絶対の正義は無い、声高に唱えられる正義ほど疑わしい。
処世訓、物事は全て何とかなるが、しかし物事はなるようにしかならない、だが絶望はしない、希望は失うな、でも諦めも必要。
(自分さえ生きればいい、だけど人間は仲間がいないと生きていけない、と云うことを実感を持って認識しました。)









































2017年8月22日火曜日

さかもととしえ(絵本作家)    ・子どもがみた戦争

さかもととしえ(絵本作家)    ・子どもがみた戦争
金沢出身の絵本作家、さかもとさんは長い間忘れようとしても忘れられなかった戦争の記憶を、思い出すままに少女の目線で語り始め、勧められて絵本にして出版しました、2002年のことです。
平和の大切さを知ってもらおうと戦争を知らない子供や親、先生たちに頼まれて絵本の読み聞かせを行っています。

終戦の時は小学校3年生でした。
国民学校に入った時に教えてもらった音楽の歌詞、国語教科書を読んだものは覚えているのでいかに教育が大事かが判ります。
終戦の時は新潟にいました。
父の転勤で新潟に来て強制疎開が全市に命令があり、市内から郡部に疎開しました。
食べ物は悲しい思い出ばかりです。
次の世代を育てることが必要と云うことで最初東京、横浜、大阪に給食が行われその後6大都市に展開しましたが、すごくまずかったです。
フスマ、ヌカ、ドングリの粉で作ったパンなので想像が付くと思います。
そのコッペパンとお汁が出て、おかずはなしです。
お汁には一切れの豚肉が出ましが、学校で飼っていた豚を給食につかっていたことが判った時にかわいそうで食べられませんでした。(お汁だけすすりました。)

焼夷弾の怖さ、夜な夜な敵機が来て空襲警報が鳴る怖さよりも、親から離れて経験した悲しさ、恐ろしさの体験がはじめてでした。
横浜では2年生まで居ましたが、その3月10日に東京大空襲がありました。
窓に映った真っ赤な美しい景色が綺麗で思わず「綺麗」と云いましたが、東京大空襲の時の景色でしたが、あの下で10万人が亡くなった命の炎だったということが、心の重荷になっていました。
絵本の字が読めるぐらい明るかったです。
トラウマになっていて夕焼けが厭です。
新潟の海岸での夕焼けを見ているときに横浜での記憶が戻ってきて、太陽が沈んでゆく絵を書いていました。(私は記憶がなかったが大人になって妹から言われました。)
焼夷弾の音と花火の音は同じで、江の島での花火は近くでは見れません。

焼夷弾が落ちる前に照明弾が落ちてきて、目標を定めてそのあとにバラバラ焼夷弾が落ちるわけです。
空襲は夜だけだったが、その後昼間も行われるようになりました。
登校の中途で空襲警報が鳴って戦闘機が来ると、地面にぱたっとして動いてはいけなかった。
新潟で8月の初めころ、父が来て特殊爆弾で広島は全滅だと言いました。
その後だったと思いますが、毎日グラフを父が見せてくれて、めくるページが炭のように鼠色か黒で、眼を凝らすと電信柱を折ったもの、薪が燃えているような形がうっすら見えて、それが手や足が曲がっている人間の焦げた姿だと判ったページがありました。
しかし、それは直ぐに発売禁止になったようでした。
見た衝撃は忘れられません。

広島に落ちる前に、行政は新潟に原子爆弾が落ちるという秘密情報を入手して市民を強制疎開させたわけです。
新潟に原爆を積んだ飛行機が来たが、天気が悪くて引き返したということを後で知りました。
天気がもしよかったら、私は今こうして生きていなかったです。
8月15日は特別な放送があるから集まるようにと云うことで、村長さんの家に行きラジオを聞きましたが、良く判りませんでした。
大人の人たちが泣いていました。
その時よりも私は真珠湾攻撃に高揚した大人の人のほうが強い記憶がありました。(5歳)
1942年に初めて大きな飛行機(B29)を見た覚えがあり、恐怖感がありました。
父は疎開のためのキップを購入するのに、攻撃の飛行機が来る中桜木町の駅で5日間かかりました。
上野駅から金沢に経つわけですが、2日間地べたに待ちました。
20時間ぐらいかかって直江津に行きました。
新潟はアルミニュームの精錬工場があると言うので、原爆投下の対象になったようです。
色々親戚をたらいまわしになったりして、学校は6回ぐらい転向しました。

友達と佐々木 禎子さんの話しているときに、戦争体験を本にしたらどうということがきっかけになって、本を出すようになりました。
映像を文にしただけですが。
子供は強烈に残ったところは忘れられません、消せません。
小学校4年生の教科書に「一つの花」今西祐行さんが書かれた戦争の物語が出てくるが、平和教育として私が呼ばれて、朗読して話をする機会が何回もありました。
2度とあの怖さは体験したくないし、子供に体験させたくはないです。
当時の日常は生と死の境目ですが、子供はそんなことは考えずに、空襲警報が終わったら遊ぼうと云う感じでした。
焼夷弾などで何時死ぬか判らないので、「行ってらっしゃい」の後ろに言葉にならない通じ合うものがありました。
緑内障といわれて、いずれ両目失明する状況ですと云われました。
最近、頸動脈に狭窄があり、小脳が委縮してゆく病気だと宣告されてしまって、そのうち歩けなくなるといわれてしまいました。
喋れるうちに喋ろうと、出来るうちに出来ることをしていれば悔いがないのではないかと思います。

























2017年8月21日月曜日

大藏基誠(能楽師狂言方)      ・【にっぽんの音】聴きどき和楽器 2017夏編

大藏基誠(能楽師狂言方)         ・【にっぽんの音】聴きどき和楽器 2017夏編
一噌幸弘さん(能楽師笛方・笛演奏家) 6月にも出演。
わらぶき 日本のうたのCDから 
*「五木の子守唄」演奏 一噌幸弘さんの田楽笛とギターリストの高木潤一さんとの共演

*「ねぶた」 津軽三味線 はなわちえさん演奏 「Hello,World.」から
  2004年CDデビュー 世界20カ国以上の舞台で演奏

LEO(今野玲央) 16歳でくまもと全国邦楽コンクール最優秀賞・文部科学大臣賞に輝いた。
父親がアメリカ人、母親が日本人の1998年横浜生まれ。
*「さくら変奏曲」 LEO(今野玲央)さん琴の演奏(17弦琴)

箏曲演奏家  高橋雅芳さん
5歳より母(高橋雅楽郁)から箏(こと)をならい始める。15歳より箏・三味線を安藤政輝に師事。
第17回万里の長城杯国際音楽コンクール、邦楽部門第2位。第16回大阪国際音楽コンクール民族音楽部門第3位。
箏(こと)の魅力を海外の人たちに紹介しています。
*「à Paris」より 「ミステリアスな女性」 高橋雅芳さん 箏(こと)の演奏

小山豊さん 父は津軽三味線小山流家元小山貢。
国際交流基金派遣事業にてアフリカ・ヨーロッパ・アジア諸国など様々な国々を訪れ、日本文化の伝承に貢献している。
古典芸能という概念にとらわれない津軽三味線の新しい魅力、可能性と発展への活動も精力的に行っている。
*"YO" から「りゅうじゅ?」 小山豊さん(津軽三味線)小湊昭尚さん(尺八)Ty Burhoeさん(タブラ)の演奏
 インド音楽と邦楽のミックス

HANABIプロジェクト スターマイン 狂言バージョン
津軽三味線 久保田 祐司さん 尺八 中村仁樹さん(なかむら まさき)の演奏 大藏基誠さん 狂言





2017年8月19日土曜日

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】

菅野寛也(日米戦没者の慰霊を続ける医師)・【戦争・平和インタビュー】
真珠湾、たったひとりの慰霊祭
84歳、少年時代2000人以上が犠牲になった静岡空襲を体験した菅野さんは、昭和47年から45年間にわたって空襲の犠牲となった市民と、静岡市内に墜落したB29のアメリカ軍兵士の合同慰霊祭を続けて来ました
平成3年からはハワイの真珠湾を毎年訪問し、真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの上に作られた記念館、アリゾナメモリアルで日米戦没者の慰霊を続けています。
その活動は年々広がり、去年初めて開かれた日米両国の公式の追悼式典の実現に繋がりました。
安陪総理大臣とアメリカの当時のオバマ大統領の共同会見も行われ、菅野さんも出席しました。
菅野さんは敵味方無く死者を悼むことこそ、平和への道筋だと考えています。

静岡に空襲のあった6月に静岡で、真珠湾攻撃のあった12月にはハワイで、それぞれ慰霊祭を開催しています。
毎年200人ぐらい、横田の米国軍の人達40~50人ぐらいが参列してくださっています。
真珠湾の方は真珠湾攻撃の生き残り、生存者協会があるが、一般の人も多くなった感じです。
小さいが厳かな雰囲気で行われます。
鎮魂慰霊ということは国境とか民族、時代も越えて、人類共通の気持ちだろうと思います。
静岡では日米双方に犠牲者が出ている、日本の市民だけの慰霊祭をやっていたらアメリカの人たちにはその気持ちは通じないです、逆も同じです。
死んでしまえば敵も味方もない。
両国の合同慰霊祭をやらなければ、ほんとうの和解とか理解は得られないんじゃないかと思います。

当時11歳、毎晩B29が大編隊で空襲に来ました。
富士山を目標に来ていて、東京がまたやられているなあと言っていました。
11時過ぎにラジオで少数機が伊豆半島を西北進行と云う放送が入って、父がこれはいつもと違うと言ってました、市の中心街に火の手があげりました。(焼夷弾攻撃)
安陪川に逃げて、河原の近くにあった土管の中に隠れていました。
「落ちるぞ」と云う声があり、爆弾かと思ったら敵機が衝突して落ちたようだった。
一機が安陪川橋の近くに、もう一機川向こうによたよた飛んで行った。
町は黒こげの真っ平らな土地だった。(皆焼けてしまった)
防火用水の中に上半身を突っ込んで黒こげで死んでいるのを見ました。
敵愾心もわいてきたし、これでは戦争は負けではないかと思ったりしました。
アメリカ軍23人いたが、何人かの遺体をみました。
中には石をぶつける人もいました。
私はこいつらも戦争の犠牲者だとは一瞬思いましたが、口には言えませんでした、回りから袋叩きに会いますから。

祖父が日露戦争で満州で戦っていたときに、弾が飛び交う中で、ロシア兵の戦傷者にも手当をしたと、これが軍医の務めだと、私が小さい頃祖父から聞いていました。
敵兵だけどもし生きていれば祖父だったら手当をしたんではないかと私は考えたんでしょうね。
昭和47年に静岡市で初めて日米合同慰霊祭をしました。
医者になって静岡に帰って来て、浅間神社のある賤機山(しずはたやま)に登った時に、平和観音像の横にB29墜落搭乗者の碑を見て、一瞬思い出したが、慰霊碑を建てた人がいたことが吃驚したと同時に山の上に石文を作る人が凄い人だなと思いました。
伊藤福松さんが建てたということが判り、話をしたいと思いました。
死んでしまえば敵も味方もないということでした。
伊藤さんは当時市会議員だったそうで、伊藤さんのお兄さんの桑畑に落ちたそうです。
最初木の十字架を立てたそうですが、その後伊藤さんはB29の死者を弔うために修行をして坊さんに成ったと聞いています。
私財をなげうって、静岡市民のための慰霊の観音像と、B29の石文の碑をつくったということです。

米軍にそのことを連絡して、2~3人と後で電話がかかってきて、アメリカ兵の人たちと一緒に慰霊祭をやりませんかと云うことで、大使館のひとを含めてバス2台で80人ぐらい来ました。
それが日米合同慰霊祭のスタートでしたが、抵抗はありました。
間接的にもありましたが、直に私の方に2~3人来て言われました。
或るおばあさんが最初反対だったが、2から3年してから有難うと私に言って下さって、判ってくれて良かったと思いました。
あとの懇親会で、或る人が「ここへきて日本に対する印象が全く変わりました、有難うございました」と言ってくれました。
亡くなった方は新婚早々の御主人だったそうです。
それを聞いた時には慰霊祭をやって本当によかったと思いました。
遺品の軍用水筒、燃えさかるB29の中で関節の跡までくっきりと残っている、死の瞬間まで握っていたんでしょう。
たった一つの遺品で、慰霊祭の時にバーボンを入れて慰霊碑に注ぐというセレモニーを行っています。

兵士の死の瞬間を記録する様な水筒でも水はもらない。
墜落しないで帰っていたら、バーボンを飲んでいるだろうなと思って、この水筒にバーボンを入れて献酒する、インパクトの強い行事の様で献酒をしてきたことが広がる訳です。
この水筒は宝物、平和の武器かもしれません。
慰霊祭、鎮魂式、戦死者に対する行事はよりアメリカでの反響の方がはっきりしている。
評価してくれています。
真珠湾攻撃ではアメリカ側は民間人を含む約2400人、日本側は65人でした。
平成3年(日米開戦50年)ハワイの真珠湾でも慰霊を行おうと決心しました。
戦争のはじまった土地で慰霊祭をするということは意義があるのではないかと、その年の夏にハワイに行きましたが、大変厳しい空気でした。
想像は或る程度していたが、アメリカ人に知ってもらわなければならないと思って、自分はこういうことをしている知ってもらいたいと思って、12月にたった一人で慰霊に向かいました。

聖水を桟橋で献水して帰って来ました。(たった一人の慰霊祭)
一回だけでは意味がないと思った。(続けなければ成果は出ないと思いました)
恨みつらみはあると思います、数年は突っかかって来る人はいました。
しかし、水筒を見せて、説明をすると全然ガラッと変わってしまいます。
日本に対するイメージを打破しようと、そういう意味では20数年かかったけれども、それなりの目的、成果はあったと思います。
2年目からはアメリカ海軍の人たちがプライベートでエスコートしてくれました。
段々広がってきて、たった一人で慰霊祭で行ったことが、きっかけにはなったかなあと思います。
あなたと水筒がないと始まらないよといわれました。

日米双方の戦死者の慰霊をアメリカの海軍と日本の領事館の主催で行われ、80名ぐらいでやりましたが、吃驚したのは両国の国旗が入場してきて、両国国家の吹奏が行われました。
恨みつらみのある場所で君が代を聞いた時は身震いするほど感激しました。
12月には日本の総理大臣とアメリカ大統領が真珠湾で一緒に戦没者の慰霊が行われました。
もっと早く実現してほしかったなあと思うことと、安陪総理もオバマ大統領もまず第一に慰霊鎮魂と云う意を表してくれました。
かつての敵同士は本当に心底から理解しあえるかどうか、判りませんがお互いの犠牲者を鎮魂するということは、心に伝える行事だから、親善だとか、和解だとかの結果をもたらすには、まず第一にそのようなことをやらなければ始まらないと思います。
心が通じなければそれ以上は進まない。
謝罪と云うことは物凄く難しい、謝罪をしても謝りにならないこともあるわけです、却って恨みつらみに火を付けることもあり、難しい。
後何年続けられるか、できるだけ続けられるように活動するのが目標です。
国家とか自治体とか、力を持った者が顔を向けてほしいです。
私がいけなくなった時にはどうしようとすることは、相談しようと思っています。












































2017年8月18日金曜日

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】

井上万吉男(全国強制抑留者協会元理事長)・【戦争・平和インタビュー】
今こそ語り継ぐシベリア抑留 最後の証言
井上さんは1925年今年92歳、19歳で軍隊に入り、終戦は北朝鮮で迎えました。
当時のソ連によって3年間北朝鮮やウラジオストックに抑留され、厳しい食糧事情の中、炊事班長として抑留者たちの食事作りを担当しました。
日本に帰国してからは平成元年に設立された全国強制抑留者協会の一員として、何度もロシアを訪問し抑留中の労働に対する賃金の支払いなどを求める活動に取り組んできました。
また地元の鳥取県では抑留体験を語り継ぐ会を毎年開催し、戦争を知らない世代にシベリア抑留の悲劇を伝え続けて来ました。

抑留体験を語り継ぐ会を今年は5月に開催しました。
体験者は若くて91歳ぐらいで、体力的になかなか難しいと思っています。
この辺で区切りをつけようと思っています。
戦争は二度と起こしてはいけないので子や孫、国民に伝えたいというのが、思いです。
19歳で軍隊に入りましたが、よろこんで入ったのは事実でした。
郷土の繁栄を願いながら、戦争はやらねばいけないというのが本音でした。
北朝鮮に行き、教育を受けて、幹部候補生になりたいという思いがあり、夜も勉強しました。
日本が敗戦と云うことは全然頭にありませんでした。
重大な放送があるということで非常招集があり、戦争に負けたんだということが判りました。
日本を出る時にはもう二度と家族には会えないだろうというような気持で出ていたのですが、ラジオ放送を聞いた後、冷静になって考えたときに、故郷に帰れるかもしれないと思ったのも事実です。

日本に帰れるかもしれないということで、テントを使ってリュックサックを作り、出来るだけ色々な物を詰め込みましたが、ソ連兵に全部没収されてしまいました。
脱走した者もいますが、成功したのは1割ぐらいであとは射殺されたりしました。
誘われたが言われるままにした方がいいという思いがあり、脱走すると云うことは思いませんでした。
北朝鮮に1年いて、その後ソ連に行くことになります。
満州鉄道で行き、その後3日3晩歩いて着きました。
その間、道端に疲れきって倒れている日本兵もいましたが、我々自身も疲れきっているので助けるということはできませんでした。
強制抑留されたのは約60万人、そのうち亡くなったのは6万人といわれるが、不明が何万人かいます。
ウラジオストック郊外だといわれて場所が判りました。
ウラジオストックから船で日本に帰してやろうとうそを言っていました。

厚生労働省によると、57万5000人が抑留されてそのうち5万5000人が命を落としたといわれています。
体育館のような建物があり、そこに収容されていました。
寒さは零下40度ぐらいの寒さがありました。
ウラジオストックは1mぐらいの氷が張ります。
防寒具は日本の兵隊の防寒具ですが、零下30度ぐらいまでにはぬくもりを感じますが、零下30度を過ぎると動けば動くほど寒いです。
漁船が捕ってきて冷凍された魚を箱詰めしたり、箱作り樽作りしたり、缶詰め工場の作業をしたりしました。
50~70kgの魚の箱を一人で担いで貨車に積み込み、ノルマがあり終わらないと帰してもらえない。
私は水虫で靴が履けなくて、下駄ばきで出来るのは炊事が出来るということで、炊事班長と云う役割でやっていました。

器具はあるが薪がなくて、魚の箱があるのでかっぱらってきて炊き上げました。
ソ連兵に尋問されて、魚の箱は国家の財産だということで、鉄格子の暗闇の中にぶち込まれ、これで人生はおしまいかなと思い一夜を過ごしました。
一夜明けて又尋問されて、帰ることが出来ました。
主食は粟、稗、こうりゃん(モロコシ)、大豆かす、小豆など。
栄養もたらないし、栄養失調になったりして亡くなって行った人もいます。
食べるものでは、誤魔化したのではないかと云うことで、喧嘩になるようなこともありました。
或る晩夜中の12時ごろソ連の兵隊に起こされて、棚にパン、肉が残っていてくれといわれて、日本人のものだからやらないと言ったが、撃つといって足元に撃ってきたので、とびかかって行きました。
銃声を聞いて向こうの憲兵がきて、私が事情を説明すると、兵隊は連れていかれました。
1週間後、ソ連の囚人を50~60人を見かけ、その中にその兵隊がいました。
捕虜として取り扱っていたものの、我々に対するソ連兵への規律も厳しいものもあると思いました。

ここでは死んではならないという思いがあるので、何とかしのげたと自分では思っています。
何時本土に帰れるかわからなかったが、船に乗れといわれて、そのまま日本に帰ることができました。

ソ連に抑留されていた時期は青春の時期でした。
無謀な国策によって奪われたという腹立たしさは全体に感じています。
戦争自身は愚かなものであって、我々の青春が奪われと云う気がしてなりません。
捕虜は国際法で或る程度労働を課してもいいが、我々はそうではない。
ポツダム宣言があるが、ソ連だけがそれを破って、北朝鮮、満州にいた日本の連中を強制的に自分の国に引っ張って行って、重労働させたと云うことで、我々は捕虜ではない。
労働に対する報酬を出してほしいと要望した。
戦友が亡くなって、いい加減な埋葬されてるので、我々が行って整理しなくてはいけないということ、遺族を含めて墓参したい、と交渉したが全然できてなくて残念に思います。
抑留体験を語り継ぐ会では、基本的には戦争をしてはならないと云うことが根本で、事例を挙げて事実を話す、どういう労働をしたか、道路作り、鉄道作り、木の伐採、建築などを話しています。
三重苦即ち、寒さ、栄養失調、重労働に悩まされながら、何年か働いてきました。
語り部が繋がって行ってくれればいいと思っています。
ソ連に対する憎しみ悲しみはありますが、それを乗り越えて平和でなければならないと思っています。




























2017年8月17日木曜日

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】

上野麻実(国境なき医師団 助産師)・【戦争・平和インタビュー】
紛争地から世界を変えてみよう!
福井県出身33歳、妊産婦の死亡率の非常に高い紛争地のアフガニスタンやイエメンなどで国境なき医師団の助産師として働いてきました。
戦争が身近にある過酷な環境のなか、7000人以上のお産に立ちあって来ました。
帰国した際には、地元福井、横浜、大阪などの中学生や高校生たちに自分が見た戦争の平和、命の尊さを伝えています。

7000人以上のお産に立ちあって来たこと自身に対して自分でも驚いています。
現場では数を数える時間すらない忙しさなので、帰国してお産を振り返ってみると、すごい数の出産にかかわったんだなあと思います。
2013年からイエメンに6か月、2015年にはアフガニスタンに7カ月派遣されて13カ月間で7000件余りと云うことになります。
アフガニスタンでは月に900人の出産がありましたので、1日に25~30人の赤ちゃんが生まれています。(30分おきに一人の赤ちゃんが生まれる。)
赤ちゃんの産声を聞いたときにはほっとします。
基本的にはアフガニスタンの助産師を支援する働きなので必要な技術、知識の指導したり、薬剤や機材の物品が補充されているか、しっかり動くかどうかを確認する為の指導監督する立場ではありました。
新しい助産師をリクルートすることもしていました。

カブールのその地区には100万人以上の人口がいると言われていましたが、緊急のお産に対応できるのは、私たちが支援していた病院だけでした。
金曜日、土曜日は休みですが(イスラム教のカレンダー)、外に出るのは安全上難しいのでできませんでした。
外国人スタッフは誘拐されるリスクが高い。
病院の隣に家を借りて、病院への移動も5分ぐらいですが、車の移動をしていました。
市場に行ったりすると、アフガニスタンでは普通に暮らしている人たちは居るんだなあとも思いました。
他の国のスタッフとバーベキューをしたり、色々楽しみも見付けました。

イエメンでは紛争で傷ついた兵士が実際に運ばれることもありました。
イエメン人の男性はみんなカラシニコフという旧ソ連の銃を持っていて、ジャンビーアというナイフを身につけて歩いています。
イエメンに初めて行ったときに、6歳ぐらいの少年が銃の隣に坐っている様子を見たが、こういう環境にある国なのだなあとショックでした。
行ったときに、恐怖感よりももっと何が起こっているのかと云う方が強かったように思います。
或る少女との出会いがあり、16歳で結婚、出産するが、初めての赤ちゃんを亡くてしまうことが起きてしまいました。
病院に行く事が出来ず、運ばれた時には赤ちゃんの心臓の音は止まっていました。
誰が一緒にいたのかを聞いた時には、資格を持っていない女性だったようです。
病気にも成っていて、難産で苦しんだ時に直腸と膣がくっついてしまって、意識のない時に失禁失便をしてしまったりする病気(フィスチュラ)でした。(破水もしていました。)
聞いた話だが、3日かかってお産するということは、時間がかかり過ぎている。
フィスチュラという病気も合併していたので、病院で1週間ほど入院しました。(ふつ普通は1日で帰れるが)
彼女は一人ぼっちだったので、彼女とは言葉は通じないが、一緒に涙することもありました。
折り鶴を折ってやったりもしました。

彼女が願っていたのはお産をして、赤ちゃんを胸に抱きたかったろうなあと思います。
紛争によって必ず弊害があり、医療施設が正しく機能しなくなり、人もいなくなり薬品も届かない、安全にお産できる病院も少なくなってしまう。
戦争の背景には絶対に貧困で困っている人がいます。
彼女も同様で学校にも行っていなくて、二番目の奥さんになっており、家族が減ることによって家族の生活としては楽になる。
イエメンでは絶望感を味わいましたが、これを変えるためにどうしたらいいのだろうと考えるきっかけになったと思います。
医療の枠組みからすこし離れて勉強したいという思う様になりました。
公衆衛生という分野で、政策、法律、地域を巻き込んだ保健システムについて勉強したいと考える機会になりました。

高校3年生の時にインドにボランティア旅行に行ったのが、国境なき医師団への一番の始まりになるのではないかと思います。
或るきっかけで母親から行ってきたらどうといわれて、行きたいと思いました。
マザー・テレサも好きだった。
2週間ほど滞在して、そこには孤児院、訓練施設、教会があり、病院での出産を目撃する機会がありました。
突然呼ばれて、マスクとエプロンを渡されて、入るとお母さんが寝ていて、生まれる瞬間だった。
赤ちゃんが生まれてきてて女医さんの手の中で動き出す瞬間、泣き声を目撃して、赤ちゃんはピカピカしていて、命の輝き、平和の瞬間だなあと云うことを思いました。
その出来事が私の進路変更のきっかけになりました。
助産師の仕事が独り立ちできるようになり、新入社員のスタッフに指導できるレベルになってから挑戦しようと思いました。
そういった置かれた環境に感謝しています。

気持が折れてしまって、もう立ち上がれかもしれないと思うときはあります、決して自分は強いとは思わないです、ポジティブな姿勢は常に持っていたいとは思います。
廻りで支えてくれる人も必要です。
中学生、高校生に経験を話す機会を与えられて感謝ですが、自分自身の思春期の悩みと今の10代が抱えている悩みは同じだと思うので、悩みを解決する手助けになればいいなあと思っています。
講演活動を依頼された時には写真を使って、見せて、現地での活動、経験などを話します。
学生さんたちの反応を書いて送ってくれますが、それを見ると私自身が励まされるコメントが色々あります。
日本の若い世代と紛争地の若い世代と比べて、まず環境が一番違うことだと思います。
生まれた場所が違うだけで、こんなにも人生が変わってしまうんだなあと感じます。
望むことは自分の可能性を100%表現できる、そんな将来を一人一人に掴んでもらいたいと思います。
私はいつも希望を持ちたい。
難民がいて、戦争は収まらないし、そういったなかでも希望を持っていたい、一人の心が変わればそれが行動になって、一人の力が沢山の力を借りて何時か大きな力になるのではないかと信じたいし、願っています。
お母さんと赤ちゃんの命を守る、それが本当に大切に育まれて皆が笑顔で赤ちゃんの誕生が迎えられるような、そう云う社会を作ることの助け手になりたいと思います。