2018年2月19日月曜日

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)  ・【にっぽんの音】

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)  ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
 
筑前琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶と区別して、楽琵琶と言います。
横にして弾きます。
足の上に楽器を載せて構えて上からばちで弾くのが特徴です
4弦を上からかき鳴らすので低音です。
この琵琶は代々家に伝わってきた琵琶で、修復して使っています。
この琵琶は200~300年と聞いています。
舞いもあります。
陵王(りょうおう)の舞い、面を付けて赤い衣装で煌びやかな衣装です。
中国の長慶は美男子で顔が端正で、戦いの時に士気が上がらないと云うことで、おっかない形相の面を付けて戦いを挑んで勝ったことを表した舞いだそうです。
面の裏に綺麗な色彩で虹色の様な塗りが入っている。
千里を駆けるときには、光速で走ると、物理学的には虹色に見えることが最近分かって、こんなところにも細かい色彩の技が入っている、凄いなあと思います。

赤い衣装、左舞いには赤を基調としています。
舞楽には左方、右方に別れていて、左が赤、金、太陽、右が青、銀、月と別れています。
「没日還午楽」 出てくるときに、ぐるぐる円を描いてでてくるが太陽を金のごとく円で表す、舞いぶりの良さ、構成の素晴らしさを持っている。
これが日本の各神社でも普及して行く。
陵王(りょうおう)は左方独特の特徴的な舞です。
左からでて来て、出る足は左足から、左回りと決まっている。
右方は右からでて来て、出る足は右足から、右回りと決まっている。
左方は旋律に合せる、右方はテンポに合わせると云うふうに区別されている。
神様への奉納行事なので、狂言などでは神様から遠いほうの足から出なさいと教わってるが、そういった処も雅楽から来ているのかもしれない。
大きな太鼓が左右にあります。(鼉太鼓(だだいこ))
非常に迫力のある音。
舞楽の時に打つ楽器です。
「鼉(だ)」と云う生き物の皮を貼ったと云うことなんですが、「鼉」と云うものが夜中に時を告げるという鳴き声を模したのが、鼉太鼓だと言われます。
つづみのように張って、あげバチ(16本)で締めあげて音を調整します。

舞楽は自分の好きなように見て貰うのが一番いいと思います。
「胡徳楽 (ことくらく)」と言う演目は観客から笑ってもらえました。
お偉い所に接待されたものが自分で徳利のおおきなものと盃を持って上ろうの席から勧めて行くときに、その間に盗み飲みをして自分が酔っぱらってしまって、その光景が面白い。
舞楽は堅苦しいと思われないで色んな見方をしていいと思います。
「胡徳楽 (ことくらく)」の舞いはアドリブ的なものが多々あります。
*雅楽「納曽利 破(なそりのは)」朝鮮系統 右方の舞いの曲(テンポの曲)
二匹の竜が舞い遊ぶさまを表したもの。
一人舞のときには『落蹲(らくそん)』]一人舞を『納曽利(なそり)』と呼んでます。
平安時代にはつがい舞いとして舞われました。
相撲や馬くらべなどで、左が勝った時には「蘭陵王(らんりょうおう)」、右が勝ったら「納曽利(なそり)」を舞って勝利を祝ったと云うようなことも伝えられています。
高麗笛、篳篥(ひちりき)、鼉太鼓(だだいこ)、鉦鼓(しょうこ)、三ノ鼓 で構成しています。

50年雅楽に携わってきました。
先輩たちがどのように振りなど編み出したのか、探求することにわくわくする気持ちが有ります。
草木の風になびくさま、動物の仕草、自然界の現象などを垣間見て、さりげ無く取り入れ組み込んで優雅につくりあげたものを、当時どのような立場で回想していったのかという気持ちを察すると、なかなか楽しく思って取り組んでいる次第です。
深く知れば知るほど流石だなあと思います。
歌舞伎、三番叟の前に雅楽が有ってその前はどうなんだろうと突き詰めて行くことなども面白いと思います。
雅楽の名人、音が響き渡る、そして心にも、舞楽、腰を落ちつけて美味く足の所作が出来ると、綺麗な舞が舞える。
日本の舞いの所作は腰を落とす。

日本の音、間の音、静けさの音、まさに日本の音ではないかと思います。
聞こえない音はまさにいい感覚をもった音だと思います。
シーンと間を取る音、これは日本の音だと思います。
薪がパチンと割れる音、風のそよぐ音、などもいいですね。
神楽歌 「千歳」
天皇陛下の即位の後の祝宴の儀において、雅楽の演奏が4日間行われたことが有ります。
「太平楽」
太食 (たいしき) 調で新楽の中曲。朝小子 (ちょうこし) ・武昌楽・合歓塩 (がっかえん) からなる合成曲。舞は四人舞。即位の大礼のあとなどに演じる。番舞 (つがいまい) は陪臚 (ばいろ) など。武昌破陣楽。
一番豪華な舞い。
衣裳も相当重いし2時間かかり大変です。
探究心を持ってやっていきたいと思います。
*『越天楽』(えてんらく)















2018年2月17日土曜日

前田益尚(近畿大学准教授)        ・がんとアルコール依存症を乗り越えて

前田益尚(近畿大学准教授)        ・がんとアルコール依存症を乗り越えて
54歳、マスコミ論を教える近畿大学准教授。
2006年に膵管結石、2007年にはステージ4の下咽頭がんが見つかりました。
闘病は苦痛の連続でしたが治療をアトラクションととらえ、病院スタッフを笑わせながら明るく乗り越えました。
2013年アルコール依存症と診断されました。
お酒を飲むとアイディアがひらめいたり、自分の意見を堂々と言えたりすると信じていて、長い間お酒を飲み続けたと言います。
依存症治療のプログラムで回復した前田さんは、アルコール存症は治療で回復する精神疾患であると知ってほしいと、学生に、広く社会に伝えようとしています。

2006年 膵管結石はアルコールの大量摂取で膵臓に一部が石灰化して石が沢山出来て、膵管が詰まると植物を分解するインシュリンが分泌されなくなって糖尿病が悪化するとか厄介な病です。
衝撃波によって体内の硬い物質だけを破壊する技術で管に詰まった石を破壊すると云う治療を受けました。
溜まるたびに破砕手術を受け、痛さを耐えました。
2007年にステージ4の下咽頭がんが見つかる。
声帯を取ろうと言われたので即座に困ると断わりました。
放射線治療なら完治は見込めないかもしれないけれども、余命5年で生存率50%の選択肢があると云うことで即座にそれに乗りました。
京大病院に実験的に声帯を残して咽頭がんを切除する先生がいると云うことで紹介してもらい、伺いました。
手術をしての付随する悪いことを色々言われました。
食道は守りきれないかもしれないとか神経を傷つけて左手が動かせなくなるかもしれないとか言われました。
声帯を残して教壇に戻れるのであれば構わないと思い、声帯を残す実験的手術をする事になりました。
上手くいって現在こうしていられます。

放射線治療、抗がん剤治療などで10カ月喉に開けた穴がふさがらなかったり、色んなことが有りました。
アトラクションだと思って看護師さんなどを笑わせて、楽しい入院生活を送っていました。(苦しいが笑いが取れるともてるんです)
胃カメラの時にはエーリアンのことを思って、苦しかったが楽しみましたというと看護師さんに受けるんです。
そのほか色々なことをしました。
虚勢を張ってでもポジティブに考えて、自然治癒力をあげる努力をみずからしました。
2013年アルコール依存症と診断される。
癌から退院して、その後結婚したが、妻から言わせると飲み方がおかしいと言われました、一日中飲んでいると。
妻がネットで調べて、アルコール依存症と云うことだったが、自分は認めませんでした。
後で判ったが、アルコール依存症の脳は自分ではコントロールできない障害を起こしている。

隠れていても飲む。
大学にもいけなくなって、妻に導かれるようにして入院しました。
アルコール依存症になる人は大量に飲むように思われがちだが、私は余り飲めるタイプではなかった。
量ではなくて酒を常に手放せない状態に心身ともになっているのが依存症です。
厳格な父(精神科医)に厳しく育てられて、中学の中間、期末試験で90点以下だと血が出るまで殴られた。
委縮した人格が形成されたと思う。
大学に入っても自分のアイディアを自信を持って発言できなかったが、コンパでお酒を飲んで、父親の恐怖がスーと抜けていくようで、恐怖が無くなって自分のアイディアが発言できるようになったんです。
それをきっかけにお酒を手放せなくなりました。
大学の先生にも認められるようになり、お酒さえあれば自分の能力が認められると思うようになり、手放せない存在になりました。
又、良いアイディアが出ると錯覚する様になりました。

35歳で近畿大学の専任の教員の職を得るようになりましたが、お酒がやめられない状態になっていて、後のち、依存症になっていった訳です。
朝から飲んでしまいます、お酒を飲まないと不安で、不安感でついお酒を飲む、お酒で頭を浮かせておかないと大学へも通えない、と思ってしまっていました。
僕の場合は妻にたいして暴力、暴言はありませんでした。
その分発覚が遅れたと云うこともあったかもしれません。
先生からこのままでは内臓がボロボロになり死ぬことになると言われてしまいました。
アルコール専門病院を妻が見付けて家族の振る舞いを勉強して、妻の心配が取れると云うことであればということで病院に行ったのが治療の第一歩でした。

脳の前頭前野が健常者とは違った状態になっている。(コントロール障害)
自分の意志で酒をやめたいと思っても、脳から優先順位は先ず酒だろうと指令が来る。
止めたいと思っても、お酒を手に取らないと手が震えたり、汗が出てきたり、落ち着いて体が反応しないような脳が出来上がってしまって、そうなると結果とりあえず一杯飲んで、日常生活ができるようにというふうに、なっていってしまう。
日本はコンビニでいくらでも手に入ることが出来る。
体がアルコールしか受け付けず疲弊していて起き上がれないような状態でも、脳から優先順位は先ず酒だろうと指令が来るので、アルコールのためだったら起き上がってアルコールを買いに行ってしまう。
入院して隔離されないと、酒と接触させないようにしないといけない。
先ず自分ではコントロールできないと云うことを勉強しました。
自助グループ(断酒会など)に参加することを入院中に促される。
お酒がいくらでも手に入る社会に戻っても酒を止められる体質を作らないといけない。
脱落する人も必ずいますが、私の場合は3か月の入院と1年間の休職で、自助グループまわりでの会合で立ち直りました。

体験談をひたすら語り合います。
自分は一人ではないと踏ん張ります。
休職中は延べ330回行きました。(一日2回行ったこともあります)
今までに619回行っています。(行くとスタンプを貰えますので、それが励みになります)
飲酒第一の回路に上書きしないといけない。
私の場合、自助グループ第一の回路へと上書きしていきました。
君子危うきに近づかず、ですが、それぞれ個体差がある。
飲酒の回路がどう再起動するのか、色々です。
危ういと思ったものには近づかない。(酒席には絶対行かない)
卒業の謝恩会で注がれると断れないと思うので、一切酒席には出ません。
自動販売機があるとコインを入れたくなるが、「キープカミングバック」というメダルをもらって、小銭入れに入れておき、これを見ることで抑止になる。

大学の休職願いの時にはこの件は気になったが、大学にも診断書を出して退路を断って、大學も理解してくれて休職することになりました。
先ず謝罪の日記を書きました。
学生にたいして申し訳なかったと、謝罪の文章を書いたが、退院した頃は学生は社会人になっていて、15人の卒業生の中から3名がメールをくれました。
日記をみてくれて、私が断酒会へいったり、酒を辞めて辛いだろうと思うと僕の会社での辛いことなどはと、励みになります、毎日日記を読ませてもらってますとメールを貰って、教壇に戻る意義があると思って1年間毎日日記を書いて、復帰しました。
回復している姿をおおやけにすれば、後にどうしているか判らない人にたいして、そういう姿を見せると云うことも教育者の一つの有りようだと思って開示しています。
そういうことで退路を断っています。
2016年「楽天的闘病論」を出版。
癌は絶望的になれば自然治癒力が落ちる。
精神疾患は自分でのたゆまぬ努力が必要で、感動的な体験談を聞けたとか楽しみがあるという気持ちをもって、人生の苦境に陥った時にポジティブに考えて欲しいと云う意味で出版しています。












2018年2月16日金曜日

桐野夏生(作家)            ・作家生活25年 新たな挑戦へ(後半)

桐野夏生(作家)      ・作家生活25年 新たな挑戦へ(後半)
ネールサロンには月1回2時間掛かりますが、捻出する時間が大変です。
旅行にも行きたいが時間を考えるとなかなかできません。
作家生活25年になりますが、思いがけない人生です。
デビューが遅かったです。
私は20代の時には、映画関係に勤めて途中で結婚して子供を産んで、最初はシナリオライターになろうと思ったんですが、それから作家になって行くんですが、それが意外なことで、20代は本が好きだったので編集みたいなものが出来ればいいと思っていました。
27歳の頃にシナリオ学校に行きましが、小説家になろうとは思っていませんでした。
小説の方が面白いと思って書き出したのが30歳過ぎですね。
31歳の時に友達がロマンス小説の公募でやらないかと誘われて、書いてみたら心理描写なども書き込めるしシナリオより自分に合うと思いました。
桐野夏生にしたかったが男の名前みたいだと言われて、しかたなくペンネームは桐野夏子にしますと言って、そうすることにしました。

世に出てお金をもらわないと仕事として成り立たないので、小説は表現なので読んでもらって受け止めてもらわないといけない。
反応が欲しい、それによって又次に自分が書きたいものが判って来る。
誰かに読んでもらうことが大事で、多くの人に読んでもらいたいと思う。
自分が何者かというのが言葉を出してゆくうちにバレてしまうので、やっぱり書いている人間にとっては怖いことです。
人に読んでもらうと云うことは自分がどれだけの作家かとか、どれだけの人間かということ、どれだけの作品なのかということが判ってしまうので、もの凄く怖いことでもある。
おびえの壁をいくつも乗り越えていかなくてはいけない。
評判、評論家に言われたりするが、耐えなければいけない、傷ついてしまうことがある。
強くなるためにはおびえを克服するしかない。
作家の仕事は毎日コツコツやって行くしかないので、一人でやる仕事なので鬱屈する人もいると思います。
あるいは自我肥大したり、どっちかかもしれないが、そうするとポシャッとやられたり、鬱屈していると褒められたり、そういったことの連続なので、いかにして客観性をもって書いていくかとしたら誠実に書くことしかないと思います。

6時半ぐらいに起きて、ご飯、犬の散歩などをした後に、9時半から10時位には仕事を始めます。
昼ご飯を食べた後、午後は打ち合わせに行ったり、締め切り間際は打ち合わせも入れず家で書いています。
最近集中力が無くなったので、しょっちゅう切り替えています。
資料の山があり大変です。
読まなければいけない本、雑誌などもあり整理しきれなくて、一つ仕事が終わって捨てたいが単行本が出るので捨てられなくて、次に文庫本が出るので捨てられなくて、そうすると色んな資料の山が出来てしまう。
パソコンで書いてプリントアウトして推敲するので、時々捨てないで居るとなにがなんだかわからなくなってしまう。
物凄い紙の量になってしまう。
60代の後半で、私は長編型なのであと4作ぐらいなのかなあと思います。
今は若い女の人が受難の時だと思いますが、そういう人のことを書きたいとは思います。
後ゆっくりそういうものを含めて考える時間が欲しいと思います。
時代小説などもやってみたいと思いますが、でも多分書かないとは思いますが。
興味をひかれるのは明治維新の時代ですかね。
「ナニカアル」も「デンジャラス」も考えてみると昔の話ですね。(昭和初期)

最近は本があまり売れていなくて、ネットとか面白いし、ビジュアルとして入って来て、小説みたいに時間がかかるメディア、芸術は嫌われて、避けられてゆくのかなあと云う気がして、判りやすい小説だったら読んでみようかという傾向があると思う、頑張って書いていこうと思います。
谷崎の頃は作家にとって幸福な時代で、作家という人達も尊敬されて、作家が時代を率いて行くような時代だったと思う。
今は小説家の役割はそういうところでは無くなっていって、違う人達が率いていっているように思われていて、文学みたいなアートがメインではなくなって、いくつかの中の一つになっていると思う。
小説はすたらさせてはいけないと思っています。
人が違うことを想像すると云う意味では、見えないと云う所でイマジネーションを育てるもの、鍛えるものと思うので人間に必要だと思います。
だからやっていこうと思います。
今年は前に週刊誌で書いていた「路上のX」女子高生が街をさまよう話になるがもう一回ぐらいそういったものを書こうかと思っています。
「ロンリネス」が本になるので、一段落してもうちょっと自分が何をやりたいのか、考える時間が欲しいと思います。
あっという間に時間が経って行くので、何処かで立ち止まって考える時間が必要だと思っています。















2018年2月15日木曜日

桐野夏生(作家)            ・作家生活25年 新たな挑戦へ(前半)

桐野夏生(作家)       ・作家生活25年 新たな挑戦へ(前半)
1951年金沢市の生まれ65歳、1993年「顔に降りかかる雨」で江戸川乱歩賞を受賞、作家デビュー、以来社会派のミステリーから文芸性のたかいもの迄様々な作品を書き、現代文学の最前線を走り続けています。
1993年「柔らかな頬」で直木賞2003年「グロテスク」で泉鏡花文学賞、2004年「残虐記」で柴田錬三郎賞を受賞、2008年「東京島」で谷崎潤一郎賞、2009年「女神記」で紫式部文学賞、2011年「ナニカアル」で読売文学賞を受賞と、主だった文学賞を次々と受賞しています。
2015年には紫綬褒章を受章されました。
最近作は谷崎潤一郎を囲む女性たちを描いた「デンジャラス」です。

年末年始は日刊紙の新聞の方の仕事が有りますので、休む時間はなかなか取れないですが、出来るだけ休むように溜め書きして、休む時間を取るような工夫はしています。
元日は正月料理を作って近くの神社にお参りしています。(3日までは休む)
おせちは昆布巻き、田作り、煮しめあたりが好きです。
子供時代は一番覚えているのが札幌で、牧歌的な感じが有ります。
「デンジャラス」は谷崎がデンジャラスと云う訳ではなく、モデルになった女性たちとの物語で、なにがデンジャラスかというと、女性たちが小説のモデルになることによって、谷崎と、あるいはそれを読んだ読者の方と、あるいは小説によってすこしずつ変わって行く世間との距離、間柄が微妙に変わってゆくことによって、自分が変容せざるをえないと云うことがデンジャラスなんですね。
色んな内面のざわめきがあると思うのですが、そういうような話です。
「細雪」の重子さんはもしかしてこういう人かなとイメージはつきやすいが、それは本によって作られたイメージですが、生きている重子さんがそのイメージによって変わらざるを得ない面もある。
小説とは違うなかで、その違いのなかで自分がそれに対してどう対峙して行くかということは難しい問題だと思うが、谷崎家の人々は世間的な注目を浴びているので、松子夫人、重子さんが注目を浴びるが、文学的慣行が起きないと云うことで、どんどん作家の方が新しい刺激が受けたいものだから、若いちまこさん?の方に行き、そうすると自分たちと谷崎が形作っていることが変容してゆくわけです。
その辺の危うい関係がデンジャラスなのではないかと言うことで書いたんですが。

谷崎潤一郎は周りの女性から影響を受けて書いていると思う。
谷崎潤一郎は人間関係に興味を持って、特に松子さんとの関係をずーっと濃密に書いてきて、常に近くの人間の濃密さから生まれてくる虚構を作っているわけです。
だから谷崎は面白いと思っていて、周りにいる女の人たちは大変だろうと云う気持ちはあります。
「細雪」、森田家四姉妹の事を書いていて、一番上の姉朝子さんが家督を継いで東京に引っ越して沢山子がいて、二番目が谷崎夫人の松子さん、三番目が重子さん、四番目が信子さん。
重子さんは結婚するが直ぐ寡婦になって谷崎家で一緒に住んでいる訳です。
「デンジャラス」では重子さんの眼で谷崎家の周りの関係を見つめている。
松子さんは谷崎が亡くなったとエッセーを書いている。
千萬子さん(精二さん(谷崎潤一郎の弟)のお嫁さん)も手記を書いていて、書いていないのが重子さんだけで、想像してみたいと思いまして、書かせてもらいました。

2015年から書き始めて、2年以上谷崎家の人々とお付き合いした。
準備期間を含めて3から4年かかっています。
松子さんには連れ子(恵美子さん)もあり、重子さんがいて、女中が6,7人居て、しかし家はそんなに大きくない。
女の人たちは大変だったと思います。
千萬子さんと息子さんが離れに2年間住んでいたりしました。
千萬子さんが新しい風を吹き込む。
谷崎は本の所蔵はあまりなかったようです。
新しいことが好きで又時代にも敏感で、千萬子さんの様な新しい人に何か吹き込んでもらいたい、自分はどんどん歳を取って行く。
歳を取って行くが、そういう人が好きだったらこういう小説はどうなんだろうみたいに、どんどんアイディアが湧いて行ったんだろうなあと思います。
谷崎潤一郎は貪欲で凄い、面白い作家だと思います。

ストーリーで描かれるものの中に案外、真実があることがあるので、読むのに時間がかかるので小説は時間がかかる芸術で、時間の経過がストーリーと親和性が高いと思います。
谷崎もストーリーを捨てることがもったいないと言っていて、私もストーリーを書くことによって何かその時間の経過を一緒に生きる事によって、何か判ってくることがあるのではないかと思って、谷崎の意見に賛成しています。
小説は映画、ドラマみたいに目で入ってくることはないので思いうかべる。
そうすると、人間の生きている事みたいなものが、どうやって生きて、なにを感じているとか、想像することによって入って来るのではないかと思います。
小説のいいところは、想像力を鍛えることだと思うので、鍛えると今まで通りすぎていたことが判るようになったりします。
その想像力は自分だけのものなので、自分の財産になって行くと思います。
人はそれぞれ違うと云うことなので、小説の良さはそれぞれ自分の個性を育てて行くという事なのではないかと思います。

私は自分のまわりの人たちのことを書こうとは思わないし、影響を受けた事が有っても全然違うものになって行きます。
作家は同一視されがちではあります
学生時代に読もうと思った時には表記(関西弁)が好みではなかったと思います。
それが理解できなくて無理と思って読むことに途中で挫折したものも有ります。
谷崎は多作であり、それだけ小説を書く力が沢山あると云うことです。
パワフルで、小説が好きだし、生み出す力がある。
「細雪」以降が特に好きです。
「細雪」は虚構性が無く、素直にぼんと書いている所が面白いと思っています。
谷崎潤一郎と松子さんのラブレターを見せていただく機会に巡り合い、凄い、真っ赤な便せんに墨で書いてある。
やりとりの手紙をみせていただいて、物凄い人たちだと思って次第に書かせていただくことになりました。














2018年2月14日水曜日

坂本長利(俳優)             ・一人芝居ひたむきに半世紀

坂本長利(俳優)            ・一人芝居ひたむきに半世紀
88歳の俳優、坂本さんが演じる一人芝居、「土佐源氏」は民俗学者の宮本常一さんが昭和16年高知県の山奥で出会った目の不自由な老人から聞いた若き日の情事を懐古するという異色の物語です。
「土佐源氏」は性の問題だけでなく、生きるすごみや人生の奥深さを感じてもらえたことで50年1950回続いたのではないかと語る坂本さんに伺いました。

一番先、民話という雑誌に載っていたのを読んだのが、ぶどうの会と言う劇団の研究生で27歳の頃でした。
その時はこんなに凄い人がいるんだという位でした。
15年でぶどうの会が突然解散になり、1年間真っ暗闇で、その後代々木小劇場(「変身」という劇団)を作りました。
小劇場のはしりでした。
サルトルから長谷川伸まで、なんでもやろうと年に24本やりました。
「土佐源氏」を何とかやらないかと言って始めようとしたが、芝居でもない、講談でもない、語り部でもないし、自分の中に持っている演劇観があり、ちょっと違うと云う感じでした。
新宿にストリップ劇場が有り、そこで軽演劇、ストリップ、前衛劇的なものをやりたかったらしい。
話が有り見に行ったが、ここでは芝居は無理だなあと思ったが、ふっと「土佐源氏」を思いだして始めました。
一人芝居を始めたのは38歳の時でした。
段々「土佐源氏」ファンが出てきました。
短縮版の30分程度で、一日3回やりました。

或る工場の社長が見て感動して、社員に見せたいので来てほしいと云うことになり、出前芝居の発想になりました。
「忘れられた日本人」と云う本(民俗学者の宮本常一さん)が出て、「土佐源氏」も入っています。(底辺に生きている年寄りの話をまとめたもの)
人間のこれが本当の姿と言うか、自分の命を精いっぱい生きている人間は素晴らしいと、宮本さんは書いています。
理屈では言えない感動をしました。
難しくて途中で辞めようかという思いもあったが、不思議と、宿命と言うか、続けることになりました。
最初の出前芝居は工場の社員20~30人で、その工場でやりました。
今も出前芝居をやっていますが、ほとんど同じようなスタイルでやっています。
最初お年寄りが多かったが、最近は若い方も見てくださいます。
「土佐源氏」を紀伊国屋ホールでやった時に照明担当の女性の方がいて、その方が外国でやってみたいと云うことになり、実現することになりました。

最初がポーランドでした。
1回やったら凄い拍手で、初めてカーテンコールを受け、感動でした。
支配人が夜もやるべきだと云うことになりました。
ポーランドでは色々なところでやりました。
その時にオランダ人がいてオランダにも来てほしいと云うことでした。
スウエーデン、ドイツにも行かなければいけなかったので、無理だと思ったが、スタッフが1日あるから大丈夫だと云うことになってしまいました。
劇場が無くて、映画館を借りて映画が11時に終わるので、終わった後「土佐源氏」の仕込みをやって1時開演ではと云うことだったが、やりました。
或る30代半ばの男性が会いたいと涙を流しながらきてくれて、僕の手を握って帰って行きました。

ストーリーと云うのはあまりないが、人の嫁さんを寝とるという内容なので、しかし本当に素晴らしい爺さんのエロ話です。
浮気をしてそのうちに目がみえなくなって、婆さんの所に帰ってくるが、目を治そうと四国八十八か所めぐりをするが目は治らない。
橋の下で水車番をお婆さんと一緒にやっていたらしいが宮本先生が一晩話を聞いて、それがこの「土佐源氏」なんです。
岡本太郎さんは最高の文学だと言っています。
全部で1190回になりました。
ペルーとブラジルに行ったときは、年に100回やりました。
お客さんがなかなか楽屋から帰りませんでした。
ドイツのボンのセントラルシアター(ヴェートーベンの生家の近く)でやった時は支配人が終わった途端で舞台に上がって来て、「日本の俳優の坂本が私が作った床の上に汗をしみ込ましてくれた。」と言うんです。
これは嬉しかったですね。(外国は直に感動が来ます)

今は中学生に見せたいと云うこともありましたが、アンケートを見せてもらいましたが、「いままで〇〇ちゃんを虐めていましたが、明日からは優しくしてあげたいと思いました。」とあり、中学生でも全然わからないわけではないと思いました。
60代位までは、腹から声をだしますので、頑張りすぎて疲れました。
胃癌を患いましたが、今は元気に頑張ってやっています。
「土佐源氏」に関してはこのお爺さんに惚れ込んでいます。
忘れられないせりふ「良い百姓というものは神様みたいなもので、石ころでも自分の力で金に替えよる。」
「牛というものは、何年たっても逢うと必ず懐かしそうに鳴いてくれる。」
このセリフを言う時3・11の牛が右往左往している姿を思い起こします。
「女というものはかまいはしたが、決してだましはしなかった。」
その辺の爺さんの生きざまは、単なる女好きではないと、お客さんが判ってくれれば最高の文学だと思います。




















2018年2月13日火曜日

平賀勝利(日本学生相撲連盟副会長)   ・勝負は一瞬、学ぶは一生

平賀勝利(日本学生相撲連盟副会長)   ・勝負は一瞬、学ぶは一生
1942年(昭和17年)山形県の米沢市生まれ。
生まれた家には土俵があり父親も相撲が大好きという環境に育ちますが、10歳のころから柔道を始めて大学進学後も柔道部に入るつもりが入部したのは相撲部でした。
相撲に関わって57年になります。
東京医科大学時代は相撲部を強くするためにつてを頼りに大相撲の春日野部屋で指導を受けました。
その頃から禅も始めました。
平賀さんは学生相撲の全国大会や選抜大会に出場した経験もあり、医科歯科系の大学の全国大会では3年連続の優勝の経験もあります。
現役を退いた後、母校の指導や監督の他、1985年に始まった腕白相撲の全国大会では副審判長を務めました。
平賀さんは平成26年に日本相撲連盟から相撲功労賞、去年は日本武道協会から武道功労賞を授与されています。

本業は外科医です。
日本学生相撲連盟副会長、財団法人日本体育協会公認スポーツドクター、JOC強化スタッフ。
東京オリンピックの時に第一回パラリンピックがあり、ボランティアとしてやりました。
選手誘導、日常生活について回ったりしました。(東京医科大学の3年)
友人が選手として選ばれました。
日本の選手がみすぼらしかった、車椅子そのものが酷くて木の背もたれだったりしました。

祖父が東京高裁にいまして、両国に始終相撲を見に行っていたらしいです。
横綱常陸山の記録をかなり克明に残しています。
父親も学生相撲の選手でした。
いとこも3人いて、拓大の相撲部に入りました。
相撲はやる気が無かった、10歳から柔道をやっていました。
大学に入学すると柔道部に入部届けを出しました。
柔道場に上級生が来なくて、隣の部屋では巨漢がぶつかり合っていて、面白そうだと思って私もまわしをまいていいですかと言って始めたのが最初でした。
相撲は競技は単純ですが、奥の深いものがあります。
現在は166cm、60kgそこそこですが、学生時代は78kgありました。
当時春日野親方(横綱栃錦)に単身で伺って稽古をさせてもらったり、派遣させてもらうように交渉しました。(相撲部に入って2カ月後位の頃)
春日野親方は実に柔和な方です。
春日野では万事に厳格でした。
稽古場では弟子たちにまわしを触らせないで押すだけです。
相撲の稽古は本来そういうことなんですね、まわしをもってなんかすると云うことは何時でもできるんだと云うことが栃錦さんの考え方ではなかったかと思います。

春日野親方(横綱栃錦)の前の親方、栃木山の化粧回しには「丈夫玉砕、瓦全を望まず」と縫い取ってあった。
相撲精神そのものを表しているのではないかと感銘を受けました。
丈夫=もののふ(武士)、信念と勇気を持つ立派な男性。
瓦全=何もしないでいたずらに身の安全を保つこと(「瓦」とはつまらないものの象徴として使われています。)
「もののふたるものは玉と散る、かわらけとして全うすることはのぞみません」という意味。
かわらけ=瓦(かわら)笥(け)=釉(うわぐすり)をかけてない素焼きの陶器
与えられた狭い土俵(15尺)で懸命に100%の事をやると云うスポーツですね。

私はがむしゃらに人の3倍ぐらい稽古をすると云うことをしました。
相撲の選手は走らせなかったが長距離走ったり、つま先立ちだけで生活したりしました。
しこ立ちのまま階段の上り下りもしました。
私は精神主義の稽古をしました、禅もしました。
指導者になってから自分の様ながむしゃらに稽古すると云うことは駄目なんじゃないかと思いました。
もっと効率的な稽古方法をしなければいけないと思って、相撲を科学しようと思って、ノートも取らせました。
大学には明治、大正時代から相撲部がありました。
去年、95回の学生相撲選手権を記念して、長期連続出場の学校、学生横綱を出した学校、優勝経歴のある学校を抽出して、表彰しましたが、無くなってしまった学校もあります。
早稲田大学が100年迎えたりしています。
東京医科大学も100年を迎えます。

番付けを調べましたが、外国人力士が幕内に11人いますが、学生出身が14人、高校相撲の出身が9人。(外国人力士とダブるところがあるが)
腕白相撲の参加者は4万人以上いるが、相撲のスポーツとしての土壌が実は極めて痩せこけている、というか狭いということです。
中学生大会で優勝した人とか2,3位が、全員大相撲の大関になったと言う年もあります。
それだけ競技人口が少なくなったと云う反映だと思います。
初期の頃の少年相撲の判定は難しかった。
今は相撲らしい相撲を取るようになったので判定に苦しむことはなくなりました。
クラブチームは今80数チームあり優秀な子もいますが、中学に入ると学校の中で相撲を取るチャンスがない、指導者がいない、土俵もない、他に色々なスポーツがあり、結果として惜しいなあと思います。
友達との接点の無かった子たちがきちんと挨拶が出来るようになる。
武道は私達の身体を鍛えることによって、武技を学ぶことによって尊重したり礼節を守る、ずるはしない、正しいことが出来る、そういう子供たちに育ってもらいたいと考えています。
与えられ土俵で常に一生懸命にやると云うことは相撲が教えてくれたことで、普通のことをきちんきちんと普通にやる、必ずしも名選手にならなくてもいい。
修羅場にあってもたじろかない、道を究めると云うことはそんなに難しいとは思わない。
「至道無難,唯嫌揀択」「至道(しいどう)は無難なり 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う」
「ああでもないこうでもないとか、好きだとか嫌いだとか、そういうことを排除すれば、真っ直ぐに正しい道をいけるのではないか」と言うことを相撲から学びました。
わだかまりを捨てて与えられた事に全力投球する。
至道とは真理に通じる道、いわゆる悟りに至る大道
日本家屋の畳の生活(立ち居振る舞いなど)は大切な心とトレーニングの方法が隠されていると思います







2018年2月12日月曜日

原田雅彦(雪印メグミルクスキー部監督)  ・【“2020”に託すもの】どこまでも遠くへ、自分らしく飛べ!

原田雅彦(雪印メグミルクスキー部監督)・【“2020”に託すもの】どこまでも遠くへ、自分らしく飛べ!
オリンピックのスキージャンプでは長野大会での団体金メダルなど3つのメダルを持つ、原田さんに伺います。

平昌冬季オリンピックの解説者としてなるべくどういうふうに飛んでいるのか、判りやすくと云う説明をしたいと思っています。
1968年5月北海道上川町で生まれる。
東海大学第4高校、1987年の雪印乳業に入社。
現在は雪印メグミルクスキー部監督をしていて、全日本スキー連盟の理事もしています。
1992年アルベールビル、1994年リレハンメル、1998年長野、2002年ソルトレイクシティ、2006年トリノの計5回の冬季オリンピックに出場。
リレハンメルオリンピックで団体で銀、長野オリンピック 個人で銅、団体で金を獲得。
世界選手権を合せると9個メダルを獲得。
ジャンプを始めたのは、10歳小学校3年生でした。
札幌オリンピックの強化のために子供のジャンプ台が上川町にありました。
好奇心から飛びたいと思って入って行きました。
最初に飛んだ時には多分4~5mだったと思いますが、飛んだと思いました。
もっと飛びたいと直ぐ思い、私のスキージャンプ人生は始まりました。
1972年札幌オリンピックが有ったが記憶にないです。(4歳)
笠谷選手の歴史を知って凄いなあと思いました。

ジャンプがV字に変わって行くが1991年夏に変えて行きました。(アルベールビルオリンピックの前年)
最初変えるには怖かったが距離の伸びる感じが違いました。
1994年リレハンメル、団体戦で西方仁也 、岡部孝信 、葛西紀明、原田雅彦、のメンバーで1回目では日本はトップ、2回目のアンカーが私でした。
メダルは取ったことが無かったので、取れるのではないかと思っていました。
知らず知らずに1位のプレッシャーがかかってきたと思います。
飛び出してすぐに距離が伸びないと判りました。
順位が2位となった時には頭が真っ白になりました。
3人が寄って来て、肩を叩いてくれて、「良かったじゃないですか、2位になったんだから、胸を張りましょう」と言ってくれて、その言葉がなかったら今でも頭を抱えていました。
素晴らしいチームメイトだと思いました。
周辺から色々ありましたが、スキーで見返しをするしかなかったので、原田は頑張っているなと見せたかったが、焦りが有ってなかなか復活できなかった。

長野オリンピック、ノーマルヒル 1回目トップ 2回目で5位 ラージヒル1回目6位
風が難しかった。
強化合宿をして風のことも色々研究はしてきましたが、難しかった。
自分らしく飛ぼうと思って飛びました。137m飛びました。(悔いはなかった)
ラージヒルで銅、団体で金メダルを取ることが出来ました。
舟木選手はアベレージを出すのには低いジャンプが理想で、今もそうです。
私は数少ないチャンスをどうやって勝利に結びつけるかと、違ったタイプでした。
団体戦 1回目79.50m、雪が降って助走のスピードが奪われてしまいました。
2回目 競技が出来るかどうかという状況だった。
今回は金メダルを取れると云う状況できたが、1回目の結果は4位だった。
2回目が行われなければメダルを取ることが出来ない状況だった。
2回目が行われることになり、岡部選手137m、斉藤選手も凄いジャンプをした。
二人に助けられました。
2回目は向かい風も吹いていて、雪も降っていなくて、思いきって飛びました。
飛び出したときに物凄く距離が延びると思いました。
自分のジャンプを終えてホッとしたと云うのが正直なところです。(プレッシャーから解放されて立っていられなかった)
舟木選手が飛んできて、「ふなき〜ふなきい…」に関しては、インタビュアーに「今は船木が飛んで金メダルを取れるから一緒にみようよ」と言いたかった。

後輩には、自分らしく飛んでほしいと思います。
最後は自分はこうなんだと、飛ぶ人が必ず結果を出すと思います。
歴史が繋がって行くのは、その間に沢山の先輩後輩たちが歴史を繋いでいるので、いろいろドラマがあるが、感動させてくれる。
東京オリンピックが2020年に行われるが、凄いドラマ、歴史が生まれることを期待しています。