2018年4月26日木曜日

杉本昌隆(将棋棋士)           ・“藤井聡太”の師匠として

杉本昌隆(将棋棋士)           ・“藤井聡太”の師匠として
史上最年少の14歳2ヶ月でプロ棋士になった藤井聡太6段、その活躍は空前の将棋ブームを巻き起こしています。
名古屋を拠点に活動する杉本さんは現在49歳。
本格的に将棋を差したい少年少女が集まる日本将棋連盟東海研修会の幹事や、杉本昌隆将棋研究所を主宰し後進の育成にも力を注いでいます。
杉本さんは藤井6段が小学1年生の時に初めて出会い、4年生の時から弟子として指導を始めました。
藤井6段との師弟対決が先月実現、結果は藤井6段が勝利を納め将棋界で公式戦で弟子が師匠に勝つ恩返しを受けました。

弟子と公式戦で戦うことは嬉しいです。
負けてしまった自分としては悔しいですが。
私はあれだけメディアが集まって指すことは初めてでした。
中学2年生の9月に昇段を決めてプロ棋士になり自分でも感動しました。
昨年6月に29連勝という新記録を達成しました。(デビュー以来の連勝)
普通デビューしたての新人は将棋が未完成ですから、大きな連勝は普通できる訳が無いですが、藤井の場合は違ったのですね。
これにはびっくりしました。
普通プロの場合は勝率は5割なんですが、デビュー以来の29連勝は今後でないと思います。
彼は今では400年に一人の人と言われています。

初めての出会いは小学校の1年生の終わりごろでした。
日本将棋連盟東海研修会に入会してきました。
何気なく見た将棋がいい内容で、いっていることが大人びていたのが印象でした。
中学生と対戦した時に、ここに歩を打っておかないと勝ちがないと言っていたのが印象的でした。(先の局面を見る能力がある)
小学校の4年生の時に弟子入りしてきました。
当時40人ぐらいいましたが、周りとは別格でした。
負けた時は悔しがり方が尋常ではなかった、将棋盤を抱えて号泣するんです、それが5分位続くんです。(しかし切り替えは早かった)
負けを真正面から全身で受け取っています。

私は小学校2年生の時に父に教わって始めました。
駒に役割があり、それぞれ能力があり魅力を感じました。
小学校4,5年の時にプロになりたいと思いました。
6年生の時に奨励会に入りました。
板谷進9段が師匠でした。
豪快で細かいことを言わない師匠でした。
「沢山食べてどんどん将棋を指せ」ということをよく言っていました。
将棋の戦法は大きく分けると、居飛車、振り飛車とがありますが、私は振り飛車が好きでした。(師匠は居飛車で、居飛車はオーソドックスです)
門下では振り飛車は当時御法度でした。
入門後勝てない時期があって、自分では振り飛車の方が向いているのではないかと思いました。
スタイルを変えたのですが、師匠からは何も言われませんでした。

相撲の世界などでは教える側と教えてもらう側がはっきりしていますが、将棋の世界では全くなくて、師匠に金銭的なメリットは何にも無いです。
師匠がいくら弟子に教え込んでも弟子が勝ってくれないと全く意味をなさない。
師匠は弟子を勝たせるのが役目なので、礼儀正しい好青年を育てることにはまったく意味がないです。
弟子は若いので師匠の言葉は重たいです。
押しつけになってしまってもよくなくて、自分で考えた末に結論を出してほしい。
彼の場合は自ら学んでゆくタイプの弟子でして、こんなに手のかからない弟子はいないと言うほど楽な子でした。
自分の意見を述べますし、沈黙が流れる事もあります、素直な弟子という表現はもしかしたら当てはまらないかもしれませんが、頼もしい弟子です。
自分の信念を持っていると思いました。
彼の持っている才能はやはり今まで類を見ないほど凄いものがありましたので、あくまでも常識的な教えはしない方が彼の才能を蓋をしないのではないかと思って、私は意識的に指す機会は減らしていました。
兄弟子たちと指して後で私がアドバイスをするという立場でやっていました。

技術的な他に人と人との相性というものがあると思うので、私と藤井とは相性は悪くないと思っています。
伸び伸びと勉強しやすい空間を作ることに関しては意識しました。
畠山8段とは小学校5,6年生のころからのライバルであり友達で、将棋の世界独特のものがあるかもしれません。
将棋は二人で戦えば必ずどちらかが勝って、どちらかが負けるので、勝ち負けが日常的にあります。
素晴らしい良い結果が出るか、負けて悔しい思いをするか、まあまあということはないです。
一生懸命やった過程を重視してそれを評価するのが保護者、指導者の方の役割なのかなと思います。
一局が終わるまでは一人なので誰も助けることはできないので、私達の決断は最後は自分で決めなくてはいけない。

若い人は見ているとこちらが勉強になることもあります。
棋士になって30年近くなりますが、お互い学びたいと言うこともあります、お互い強くなりたいと言う思いがあるので。
私が負けたら段が落ちてしまうという局面があって将棋の世界から足を洗うようかもしれないと思っていた時に、師匠がニヤッと笑って「面白い勝負だな、お前がこの先どの位将棋を指すか判らないが、今後このぐらい面白い勝負はないかもしれない、だから一生懸命やるんだな」と言ってくれて、気分が落ち込んで居た時に、この勝負は面白いんだと思うことで、勝つことができました。
師匠の一言が大きかったと思います。
私が19歳の時に師匠は47歳で亡くなられてしまいました。
藤井と一緒に上を目指せていけたらいいと思っています。



















2018年4月25日水曜日

水木悦子(エッセイスト)         ・ゲゲゲのお父ちゃんの背中

水木悦子(エッセイスト)         ・ゲゲゲのお父ちゃんの背中
漫画家水木しげるさんの次女、1968年にアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が初めて放送されて今年で50年、いま改めて水木さんの作品が注目されています。
悦子さんは水木さんが93歳で生涯を終える間30年の間、同じ仕事場で漫画家生活を支えて来ました。
悦子さんは昨年発表したエッセー「ゲゲゲの娘日記」中で多忙な日々の中で見せた水木しげるさんの父親としての素顔や優しさに触れています。
そうした思い出話を伺いました。

部屋一面に本があるが、資料、描いた本とかがあります。
新聞の切り抜き、自分が載っていた記事などスクラップブックにしています。
色んな本を読んで勉強もしていました。
漫画のセリフを考えている時は鬼気迫るものがあり近寄れなかったです。
ご飯を呼ぶ役割を担当していましたが、呼ぶと集中していましたが、「おうそうか」と返事をしていました。
主に父の遺品の整理、父の載っている記事のコピーなどの整理をしています。
つい読んでしまったりして仕事が進まないです。
未完成な物があったりして驚きました。
予定帳の様なものがありますが、文章も詰まっていてネタ帳に近い様なものです。
私のテストの日なども書いてあり、気にしていたんだなあと思います。

父と一緒に家から会社まで歩いている時に、急ぐなと言われて、「お前の足元を見てみろ」と言われてゆっくり歩くことで植物の移り変わりが見られたりするので、「お前は損をしている」と言われました。
「季節の移り変わりも判るし、虫もいるし楽しいぞ」と言われてそういうものかと思いました。
子供のころから父の漫画は読んでいました。
「ゲゲゲの鬼太郎」、「河童の三平」などが好きです。
父の本を読んで「この世の中においしい話なんてあるわけがない」と身に浸みて判りました。
「錬金術」の本の中で、「いつまでたっても金が出ないではないか」、ということに対して「錬金術は金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ、人生はそれでいいんだ。
この世の中にこれは価値だと声を大にして、叫ぶに値することがあるかね、すべてまやかしではないか、はっ」、ここのセリフを読んだ時、全てがまやかしなんだこの世の中は、て。

大人になって感じることは、見えない世界は有るんだよと伝えたかったのかなと思います。
妖怪も眼には見えないけれどいるんだよ、ということだと思います。
お化けは怖いだけではなくて愛嬌が無いといけないと、必ず愛嬌を入れていました。
父がスランプになって急に妖怪はいないんだと言い始めた時に、京都に修学旅行に行った時に、障子に目の形に並んで、増えて行くのを見たんです。
妖怪なのかなあと思って、家に帰ってから障子に映るお化けはいるのか聞いたら、父はもくもくれん(目目連)というんだと説明しました。
父の目が輝き始めて、やっぱりいるんだと元気が出ました。
たったの一度見たもくもくれん(目目連)はスランプを救った妖怪でした。

「ゲゲゲの鬼太郎」については父はあまり話さなかったです。
小学校6年生の時に、いじめに遭った時があり死んでしまいたいと言う思いがあって、幸福の量を研究している人がいるということを父が話し始めて、その後「ゲゲゲの鬼太郎」の話になって、悪いことをした妖怪を普通ならやっつけて殺してしまう様な事を、父はそうはしたくなかった。
なんでかと言うと戦争でいやというほど友達、親友を10人位死んでしまった、そういうものを見てきているから、漫画の中でも殺す、死ぬと言うことをしたくなかった。
妖怪を諭して元に帰ってもらうと言う本にしたんだと言っていました。
私が死にたいと思っていたことを父は察したのではないかと思います。
「生きていればいい事もある、それは他人が判断するのではなくてお前にしか判断できない、お前にしか見つけられないことだから、もうちょっと生きて見ないか」と言われました。
その言葉が今も支えになっています。
本当は見ていてくれたんだと嬉しくなりました。
父の言ってくれた言葉に対して楽観的になりました。

「ゲゲゲの鬼太郎」では諭して、妖怪が怒るに至った原因を突き詰めて妖怪に謝ってもらう様な形を取って、元の場所に戻ってもらう。
父の戦地での経験がそういう方に生きているんだなと思いました。
戦地ではたったの2年だけれども、20年30年の経験だったものと思います。
父の戦記ものは読んだあとに凄く落ち込むんです。
なんで人間は殺し合いをしなければいけないのだろう、殺し合いの先に何があるのだろうと思う。
99%の真実に1%の誇張をいれて書いていたと言っていました。
面白い部分もあるが、読後感は凄く落ち込みます。
「生まれたら生きぬかないといけない」、というふうに言っていました。
「命は大事にするもんだ」、というふうには言わないですが。

厭なこと、いじめがあった時に落ち込んでしまうことは凄く良く判るが、その人にしかわからない楽しさ、幸せを感じることは必ずあるのでそっちの方もあるんだよということを伝えたい。
生きてほしいということは伝えたい。
粘り強く生きるように。
体験した戦記ものが出てきて、中隊長が生きられるかも知れないのに自殺してしまうくだりがあり、どんなところでも人間は生きようとしないと、神様も助力することができない、粘り強く生きようとしないと駄目だ、と書いてあります。
父は戦争からはなにがなんでも生きて帰ってやるんだと言う気持があったと言っていました。
口に出しては言わないが、行動の一つ一つが背中で物語っていて、父の背中は大草原の様な背中です。








2018年4月24日火曜日

安藤忠雄(建築家)           ・人生はいつでも挑戦

安藤忠雄(建築家)           ・人生はいつでも挑戦
世界で活躍する建築家の安藤さん、77歳、大阪で生まれ工業高校を卒業後、プロボクサーを経て独学で建築を学びました。
1級建築士の資格を取り独立、安藤忠雄建築研究所を設立、1979年に住吉の長屋で日本建築学会賞を受賞、代表作「光の教会」を初めコンクリートの素材を使って空間や光を取り入れた斬新な作品で注目を浴びます。
東京大学やハーバード大学で後進の指導にもあたり、2005年には国際建築科連合ではゴールドメダル賞を受賞、2010年に文化勲章 2013年にはフランス芸術文化勲章を受章するなど国際的にも高い評価を受けています。
現在も精力的に活躍している安藤さんですが、2009年にがんが発見されて、胆のう、胆管、十二指腸を切除、そして5年後2014年には膵臓、脾臓も切除しています。
5つの臓器を取りながらも手術後は規則的な生活で、医師も驚くほどの健康を取り戻しました。
人生はいつでも挑戦と、今はフランスでの新しいプロジェクトに取り組んでいます。

毎日1万歩、歩くことを目標にしています。
朝6時45分位から40分位歩いて、5000歩位になり、後は仕事などで歩いているうちに1万1000歩位になります。
4年前に手術した後に、内臓が無いので筋肉でカバーして消化を支えないといけない、そのためには毎日1万歩、歩かないといけないと言われました。
朝は10分位で食べていた時間を40分、昼も40分、夜はもう少し長く時間を掛けて食べています。
体重も64kgでほとんど変わっていません。
2009年の7月に小澤さんらと食事をしていた時に体力には自信があると言っていたんですが、8月末に病院から呼び出されてがんがあるので、胆のう、胆管、十二指腸を切除しなければいけないと言われました。
10時間位の手術で3つの臓器を取りました。
11月に小澤さんもがんになって、自信を持っていたらいけないと思って、その後、食べ物をゆっくりするようにと言われ、仕事ももっと控えるようにとも言われました。
山中さんらとの対談があると言うことでしたが、また膵臓脾臓にがんがあると言うので直ぐに取らないといけないと言われました。
膵臓を全部取って生きていけるのですかと聞いたら、全摘で生きている人もいますが、元気になった人はいませんと言われてしまいました。

7月10日に講演会を6時~8時までして、8時~9時までパーティーをして翌日の8時から11時間の手術をしました。
その後山中先生からは出来るだけ早くiPSを作りますとは言われましたが。
食事は40分、仕事を少なくする、それを決めて規則正しくやっています。
痛い、しんどい、下痢、便秘だとか全然無いです。
希望が前にあれば元気よくいけるんです。
私は病院で出てくる食事は薬だと思って全部食べました。
中国から色々仕事が来ます。
5つも臓器を取って元気にしているのでこんな縁起のいい人はいないので、縁起のいい美術館をつくってほしいということで話が来たりします。
去年秋に新国立美術館で美術展があり「光の教会」をそのまま建てて30万人来ました。
場所は借りられるが他は事務所の自前費用、15万人来れば何とかなると思ったが厳しい。
「光の教会」に7000万円、他の展示に7000万円、トータル1億5000万位掛かる。
20万人でプラスマイナスゼロ位かなと思いました。

カタログを沢山売ればいいと思って交渉したが2300円ということだった、別のところで交渉して3万5000部だったら710円ということだった。
その代わり全部の本にサインをするということだった。
その後2万5000部、また増えていって結局10万部売れましたが、サインは大変でした。
大阪人は発想が大胆、合理性があり、強引なところあり、東京では嫌われる、厄介なんです。
日本では女性が長生きで元気なのが売りで、映画、音楽会、本を読んだり色んな事をするが男性は飲んで寝る、これでは頭がしっかりで長生きは難しい。
私は自分が今なにが出来るかということを真剣に考えている間は何とかなるだろうと思っています。
自分が社会に何ができるか自分の建築の設計に何ができるか、ということを考え続けている間は元気だろうと思っています。
フランスで古い建築の中に新しいアイディアを、という話がありました。
2018年10月10日から12月一杯日仏友好160周年記念の中で実施。
古いものから貰えるオーラみたいなものがあるので、ベニスでサン・マルコ広場の前に古い建物の中にピノンさんという人が新しい世界を作った。
パリで同様の事をやる事になり私の処に話が来て、今年中に出来て来年の秋にオープンします。

食生活は大切にしないといけない。
朝はほとんど食べない、昼は簡単、夜コンビニでは長生きしない。(そうすると寿命は63歳だそうです)
朝から晩までパソコンをやっていると、いけない、食べながら一緒にやるとか。
人生を楽しまないといけない。
日本の建築技術は世界一だが値段が高い。
日本では生き生き働いている様には見えない、イタリアでは働いている人が生き生きしている。
古い建物を残して中にあたらしいものを作ることは、手間もお金もかかるかもしれないが、いいものを残すということが大事です。

被災地の古民家のなかを改造して子供の図書館をつくりませんかと、東北の三知事に話しました。
大阪でも作ろうと(中之島の公会堂に)話を持ちかけましたが、建築費が無いということで、では私のところで出しましょうと言って、運営費は30万円ずつ払ってくれる所を200軒集めたらどうかと言ったら反対も無く、上手く動いて行きました。
本を外でも中でも読めるようにしようと考えました。
上手くいかないことも一杯起こりますが、あきらめずにやってきています。
自分の出来る範囲の事をそれぞれがやればこの国は良くなりますよ。
日本は自然と共に生きていたからいいと言うならば、もっと自然を大切にしたほうがいいのではないかと思います。
下町で育って文化的なものがない、大学にも行けず専門学校にも行けず、そういった中で生きてきたので、壁があってもよじ登る、そうすると全国の人から、大阪の人から嫌われる、でも又壁をよじ登ってきたという人生だからいいんじゃないですか。
だれでも自分の職業を一生懸命やっていたら、楽しい人生を送れますよというものでないといけない、今はそういうふうになっていないでしょう。
生きている限り自分の出来ることをやる。
1000円募金で30万坪を森にしましょうということで、何回講演会をしたかわかりませんが、7億5000万円位集まり、1本100円~300円の苗を植えて10年たって森になっています。(海の森)
なんでも地道に時間を掛けてやっていれば出来るという見本ですね。
一流大学を出た人は失敗を恐れます、私は開き直り、覚悟だけはあります。





2018年4月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】川端康成

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】川端康成
「言葉が痛切な実感となるのは痛切な体験の中でだ。」 (「虹いくたび」 川端康成)
日本人で初めてノーベル文学賞を受賞、今年2018年は川端康成の受賞50周年に当たります。
命日が4月16日、昭和47年に72歳で亡くなっている。
川端康成は生まれたのは明治32年6月14日、ヘミングウェイ、アル・カポネ、田河水泡、が同じ年生まれ。
ガブリエル・ガルシア=マルケスが褒めていた「眠れる美女」を読んで見たら、吃驚するほど凄くて、それから大ファンになりました。

カフカの名言集、「一番上手く出来るのは倒れたままでいることです。」
私自身が難病でベットで倒れたままでしかできないでいる時に、読んでみると実に痛切な言葉です。
(頭木氏は20歳の時に難病潰瘍性大腸炎を発症、13年間に渡る療養生活を送りました。
その経験から悩み苦しんだ時期に心に浸みいった言葉を絶望名言として、番組、書籍で紹介しています。)
先に色んな言葉に触れていることは大事です。
何にも解決する訳ではないが、心の持ちようとしては有るか、無いか大きく違うと思う。
いつか痛切な体験をした時に思いだして、こういうことを言った人がいたなあと思えば、それは随分違うのではないかと思います。

「忘れるに任せると言うことが、結局最も美しく思い出すということなんだな。」
(川端康成の小説「散りぬるを」からの言葉)
「16歳の日記」は川端康成が実際に16歳の時に病気で寝たきりのお爺さんを介護していた時の日記で、この時にお爺さんと二人暮らしだったが、このおじいさんが最後の肉親だった。
両親は川端康成が3歳になるまでにどちらも亡くなっている。
おばあさんも7歳の時に亡くなって、4つ上の姉も10歳の時に亡くなっている。
若いうちから随分身内の死を経験している。
「16歳の日記」はたまたま10年後に見つかり、発表される。
これを読んで川端康成は「この祖父の姿は私の記憶の中の祖父の姿より醜かった。
私の記憶は10年間、祖父の姿を清らかに洗い続けていたのだった。」
と言っている。
お爺さんは目が見えなかった。

大事な想い出なのに当事者の二人が全然違って覚えているということが結構あります。
大抵は自分の都合がいいように変えてることが多くて、変えられてしまった方は腹が立つわけです。
でも本当は悪い方に思いこんでしまってる場合もあるし、いずれにしても記憶は不確かなものです。
記憶は自分にとって大事なところが印象に残って、大事なことだから自分なりに変更する。
非常にオリジナリティー溢れる面白いものになる。
人間は過去の積み重ねで出来ているわけで、その過去の記憶がある程度自分が作り替えているとしたら、自分自身ももしかすると自分の一つの創作物かもしれない。
明るい気分の時は記憶の明るい引き出しを引き出しやすくて、暗い気分の時は記憶の暗い引き出しを引き出しやすい、というふうになりやすい。

「なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでも懐かしいのね。 忘れないのね。」(「雪国」の中の一節  芸者駒子が語った言葉)
NHKの「友達」山田太一脚本の中の言葉
「キャバレーなどバーなど色んなところで働いてきたけれど、性の有ったお客さんで最後まで行かなかった人が一番なのよ。  いいもんなのよ。
行くとこまで行っちゃえばそれだけのことだけど、両方でなんだか辛抱しちゃったお客さんっていまだにね、いい思い出。
人間の付き合いの中でも相当上等な付き合いじゃないかと思ってるの。」
川端康成に似ている言葉だと思う。
好きだけど言わない、そこにはそれなりの味があると思う。
人生のほとんど本当は辛抱したり、やらなかったり、言わなかったりすることが大半で生きているんじゃないかと思う。
じーっと我慢し続けて押さえてきた結果、身に付くものも有りますし。

宮城道雄作曲の中の「春の海」 琴 宮城道雄 ヴァイオリン ルネ・シュメ 
川端康成が感動したと言われる曲
宮城道雄は7歳の時に失明。話を聞いて感情がわかるという耳の敏感な人。
川端康成は目の作家と言われる。
観察力があり、目で見たものを書くと言うのが非常に特徴的。

「何の秘密もない親友なんていうのは病的な空想で、秘密が無いのは天国か地獄かの話で、人間の世界のことじゃないよ。
何も秘密の無い所に友情は成り立たないよ。 友情ばかりではなく、あらゆる人間感情は成り立たないね。」 (1954年発表 「湖」の一節)
秘密が無い方がいいということに一方あるが、親しい関係だからこそ秘密が多くなるということもある。
親友の相手がどういう行動をするかは判っていても、親友の内面の気持ちはほとんど判らない、胸の内まではつかみ切れていない。
人間というものは意外で、思いがけない面白さでもある。

「いかに現世を厭離するとも自殺は悟りの姿ではない。
いかに徳行をしても自殺者は大聖の域に遠い。」  (随筆「末期の眼」より)
川端康成は自殺している。
「僕は生きている方に味方するね。 きっと人生だって生きている方に味方する」と言っておいて自殺してしまった。
何故自殺したのか本当の胸の内は判らない。
自分でも思いがけないことをしてしまう、そういう自分というものはあるんじゃないでしょうか。
してしまうかもしれないという、おびえを持っている方が却って、しなくても済む面があるかもしれない。

「晴々と眼をあげて、明るい山々を眺めた。 まぶたの裏がかすかに痛んだ。
二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂欝に耐えきれないで伊豆の旅に出てきているのだった。
だから世間世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、いいようなくありがたいのだった。」 (「伊豆の踊子」からの一節)
下田に着くような帰り道に踊り子たちがいい学生さんだと会話をしているが、それを聞いている自分が思っているということを書いている。
川端康成が自分が孤児だった為に人の顔色ばかり見てたのでは無いだろうか、というような思いを書いている。
子供って、自分だけでは生きられない弱い存在として世の中にいる時に、心細さみたいな、人目を気にしてしまう、よるべなさは幼児体験としてあるのではないでしょうか。
孤児の場合はそれが倍増する訳です。
私が個人的に川端康成に感じる魅力は一貫性の無さです。
自殺は駄目と言いながら自殺してしまう一貫性の無さ。
余り一貫性を重要視しない揺れ動いている、それの方が自然なことかもしれない。
川端康成は自分自身を自分自身にもよく判らないものとして見ているところがあり、そこがとっても魅力的です。
川端康成はゆらゆらしているものとして人間を捕えていたのではないか。













2018年4月22日日曜日

早川文代(食品研究部門 上級研究員)   ・【“美味しい”仕事人】味覚の日本語

早川文代(農研機構食品研究部門 上級研究員)・【“美味しい”仕事人】味覚の日本語
おいしい食べ物が溢れている日本の食、食べ物のおいしさを構成する要素のうち、味や香りがありますが、加えて食感が重要視されるようになってきています。
食感を測る方法の一つに人の感覚を使って、食べ物の品質を評価する方法があります。
この時にサクサク、モチモチなど食感を表す言葉が重要になります。
茨城県つくば市にある農研機構食品研究部門、上級研究員の早川さんは食品や農産物の食感についての用語体系を纏めています。
或る食べもののおいしさを評価する際の言葉を探る事によって、食品のおいしさを高める為の研究に取り組んでいます。
味覚の日本語について伺います。

私は食品の分析や評価が専門です。
分析も色々ありますが、私は実際に人が食べたり、匂いをかいだりする、官能評価が専門です。
味、香り、食感などは機械で測りきれないので、実際に人が食べたり飲んだりして人が評価する必要があります。
製品開発をする時に人で評価するので、より信頼性の高い方法として導入していただいたり、農家の生産者さんからの問い合わせでよりおいしい野菜や果物の評価の方法として導入していただいたりしています。
糖度の場合は、実際に食べた時はそれに併せて酸味、香り、硬さなどでも甘さの印象は変わります。
人が食べた甘さの評価は必要だと思います。
ある一定の感度をもった方を募集して、評価してもらっています。

予め項目を選んでおいて、評価員さんたちにサクサク感などを合わせておいてその後に評価します。
触感の語彙も確認しています。
「食品農産物のテクスチャー用語体系」味覚を言葉に置き換えたもの、予め整理しておかないと言葉を選ぶのが大変で、食感表現をリストアップして整理したものです。
広い意味でのおいしさに関して言えば、味、香り、食感はどれも大事なものだと思います。
食感は言葉がたくさんあるので、分析には使いにくいという背景があったので整理しておく必要がありました。
リストアップしたのが445有ります。
それぞれの言葉がどんな食べ物によく使われるかというデータも併せて調べています。
445を物理的な要素で分けています。
グループ名を付けています。(かみごたえなど)

べたべた、べとべと、ぺとぺと、ぺたぺたなどもちょっとニュアンスが違うと思います。
べたべた=ジャム、蜂蜜、べとべと=チョコレートなど溶けてくっつく感じ、ぺとぺと=くっつく感じが軽い。
まとわりつく=納豆、水飴、オクラなどがあります。
からみつく、くっつく、にちゃにちゃ、ぬちゃぬちゃ・・・・。
一つのグループのなかでも沢山あります。
アンケート、文献、辞書類などで調べてリストアップしてきました。

一般的には食べ物の状態をお互い伝えあう為の語彙の資料にはなっていると思います。
こういう食感が好きなのかと言葉にして貰った方がより判りやすいです。
日本語独特の特徴であったり、日本人特有のセンス、好み、価値観みたいなものが当然浮かび上がってきます。
外国でも同様な食感の表現を整理することをやっていますが、日本語は言葉の数が多いです。
英語では100位、フランス語だと235、日本語では445です。
粘り、ぬめりだとかは外国語では日本語ほど細かい表現はないと思います。
日本人は粘り気のあるものが好きだと思います。
音を擬音化して、言葉にして表現することは日本語では多いと思います。(さくさく、とろとろ、どろどろ・・・・)
とろとろというといいイメージを与えると思いますが、どろどろはイメージが落ちる感じがします。

昭和のなかばごろにも触感の研究はやっていましたが、その時には、ぷるぷると言う言葉はあげられていませんでした。
その後からよく使われるようになったと思います。
1980年代、ゼリーにする(ゲル化剤の研究)研究が進んで、色んな食感のゼリーが作られました。
それで表現も増えて行きました。
ぷるぷる、ぷりぴり、ぷるんぷるん、・・・・。
新しい言葉も増えて来ましたが、消えて行く言葉もあります。
しゅわしゅわも以前は使われていなかった。(炭酸飲料)
すかすかと言う言葉、すいか、大根、きゅうりなど以前は生産、保存技術が劣っていたが、最近はそういったものが出回らなくなって、言葉として使われなくなってきている。
あまり食べられなくなって行くものの表現は、出番が無くなって行くことはあると思います。

ずーっと引き継がれてゆく言葉もあります、さくさくは1000年以上使われています。
かりかりもそうだと思います。(果物の硬いものに昔はつかわれていた)
みずいずしい、ふっくら、ほかほかと言う言葉は好きです。
みずみずしいと水っぽいは全然違います。
ほかほかはあったかい感じがして、柔らかくて、出来たて、でんぷん系の食品に使われます。(炊き立てのご飯、蒸したての饅頭、・・・)
言葉にすることで愛着がわいたり、記憶に残ったりすることはあると思います。
食べることは身近な幸せなので、幸せな記憶だと思います。











2018年4月21日土曜日

勝部麗子(福祉推進室長)        ・声なきSOSを見つけ出す

勝部麗子(大阪府豊中市社会福祉協議会福祉推進室長) ・声なきSOSを見つけ出す
豊中市は人口40万人、千里ニュータウンなど集合住宅が増え都市化と高齢化の中で浮かび上がってきたのが、孤独死、ゴミ屋敷、引きこもり、ホームレスなど役所の担当窓口がない狭間の問題でした。
一方住民と行政を繋ぐために、全国の行政区ごとに組織されている社会福祉協議会も制度の狭間の問題については動くことができませんでした。
こうした問題にも取り組めるコミュニティーソーシャルワーカー(CSW)と云う新しい専門職の配置を大阪市に提案、2004年全国で初めて大阪府内の自治体ごとにCSWが配置されました。
勝部さんの取り組みは豊中方式といわれて、全国から注目され,NHKでドラマになり、「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられました。

社会福祉協議会は地域福祉を推進するということが目的ですが、住民のボランティア活動であったり地域活動を推進しながら行政と住民の間に入ってなかなか救えないような人を発見して、社会の中で居場所を作れたりとか、生活が再建できるようにお手伝いして行く仕事です。
本当に困っている人は相談に行くことすら思いつかないとか、休まなくてはいけないので日当が貰えないから時間が取れないとか、本当に困っている人は実際なかなか来られない。
豊中市は交通の便が良くて、ベットタウンとして成り立っています。
千里ニュータウンは大阪万博の時に出来たニュータウンです。
人口は40万人で年間で2万人が入れ変わっていて流動しています。
集合住宅が全体の66%、人口密度は高いです。
阪神淡路大震災後に地域の中でのつながりを意識しています。
仮設住宅には高齢者、障害者、子供を育てている人たちが優先的に入れたが、孤立死が起きた。
全国から集まってきた街で、繋げても繋げてもバラバラになってしまう。
震災からの23年間は孤独死や、地域の繋がりを作ると言うことを何度も繰り返しやってきました。

震災後、見守り活動を住民の方と一緒にやったんですが、いろんな心配な方が出てきました。
最初、一人暮らしの方、老老介護、認認介護(認知症の人が認知症の人を介護)、そういった方を見守りますが、その時、ゴミ屋敷の問題が出てきて行政に相談すると、相談窓口がない、管轄に無い話は行政が受け止めてくれないので、制度の狭間があって、解決者がいないと自分でやらなければいけなくて、そのうちに見て見ぬふりをするようになって、丸ごと受け止める部門が無い限り住民力は上がらないのではないかと大阪市に提案して、大阪府全体の制度になって、平成16年から豊中市でも受け止めますと言うCSWがおかれるようになり、わたしも第一期生になり、現在も活動をしています。
ばらばらになっているのをもう一回繋げ直して行く専門職の配置がある事が街作りに大事
なんだということを提案したのが、その当時の状況でした。
コミュニティーソーシャルワーカー(CSW)は制度の狭間の問題を引き受けることで、解決策は無いが、住民の人と一緒に解決したり、制度がなければ新たに制度を作って対応しています。
10年間で40を越えるプロジェクトを立ち上げて、SOSメールで徘徊者を街ぐるみで探したり、ゴミ屋敷の問題などを皆でルール化をして解決してゆくという事をやってきました。

解決する仕組みまで作れるようになったので、10年前では救えなかったような人達も救えるようになっています。
40万人の人口に対して18人のCSWしかいません。
各小学校ごとに100~200人のボランティアの方が見守り活動をしています。
見守りローラー作戦、近所との付き合いが無い所などに訪問して気になる人を発見してもらう、住民活動をしています。
「8050問題」、80歳に50歳代の無職の息子さん娘さんが同居していて、近隣から孤立していて、80歳代の年金で子供を食べさせている状況の家が孤立していますが、自身で相談に来ることはないので地域の方が声を掛けて、訪問させていただいていることもあります。
80歳代の父親が息子の家庭内暴力の事で電話がありました。
母親は寝たきりで、息子が引きこもっていました。
父親は自分の育て方も悪いと思っていたようです。
注意しようと息子に言葉を掛けた瞬間に家の中で暴れ出すので、ずーっと暮らしているうちに5年、10年、30年が経ち「8050問題」になってしまったということでした。

福祉の相談は待っているだけではだめだと思いました。
100軒行くと5軒は何かあります。
お金がなくてライフラインが止まっているということもありました。
通帳にはお金はあるがおろし方が判らないということでした。(認知症の始まり)
引きこもっている若者の本人の心を引き出してゆく、本人が出来ることから応援する、などやっています。
漫画を描くことが得意な引きこもりの子に、CSWの取り組みを漫画にしているのでそれを依頼して、その後一般漫画書籍として出版するようになりました。
NHKのドラマの「サイレント・プア」もこの本がきっかけになったわけです。
2014年 「プロフェショナル 仕事の流儀」でも 「地域のきずなで無縁を包むコミュニティーソーシャルワーカー(CSW) 勝部麗子」として取り上げられる。
ゴミ屋敷の問題、文句を言う側と捉えられるとなかなか会ってもらえないので、その人の困っていることから応援を地道に続けて行くことで、段々心を開いていってくれる。
心配していることをメッセージとして届てゆく。

ゴミが出せないことで困っている、と云うことがある。(体の問題その他)
本人の困り感に寄りそうと言うことが大事だと思います。
問題を理解しないと周りとの関係が悪化して孤立して行くが、周りも理解するようになると悪かった関係も戻って来る。
「プロフェショナル 仕事の流儀」にでた彼女は昨年なくなったが近所の人が地域葬を行いました。
いつ自分が社会に中から落ちこぼれるか判らないと思った時に、そういう人達を排除しないということを作って行くことによって、結果的に自分も助けられてゆく、そういったことを改めて思いました。
ある先輩が「知ることによって易しさって生まれるよ」と言ったんです。
なんで手伝う必要があるかが判ると、主体的に支えられる。
ボランティアの人が問題を発見して、発見と解決は両輪で、両輪がしっかりしているのが
豊中市の大事なところだと思います。
ゴミ屋敷、400軒以上のゴミ屋敷を解決してきています。

元々教員志望で、教育実習に行った時に子供がスタートラインに立てない子が一杯いることを目の当たりにしました、忘れ物をしてくる子(ゴミ屋敷かも)、遅刻してくる子(シングルマザーの子かも)を福祉の面から支えるべきだと思いました。
労働福祉センターでアルバイトをして、日雇労働者の暮らしを目の当たりにしました。
社会福祉協議会を知って魅力を感じて、この仕事に入りました。
ボランティアの人を探し、繋いでいくうちに現在では8000人のボランティアになりました。
最初の頃千里ニュータウンでエレベーターが無くて寝たきりの主人が病院に行けないとの電話がありました。
若いボランティアを頼んで対処したが、次の機会に上手くマッチングしない時もある。
階段昇降車を助成金等で購入することができた。
仕組みを作って行くと助ける人がたくさん増えて行くことを知りました。
介護者の会を作りました。
80人参加したいと言うことで、会場を用意しましたが、蓋を開けてみると13人しか来てくれませんでした。
次に8人までに減ってしまいました。
或る人がやっと友達、仲間が出来てトンネルの向こうに光が見えたのに閉じるんですか、と言われて、その後80人が入会しました。(参加したくても行けなかったと云うこともある)

引きこもりについては、家族会をおこなって、外に出られるプチバイトを考えて、いくばくかのお金を貰えるようになって段々と自立して行くことが判ったので、就労体験、一般就労ということで支援をしています。
引きこもりだった人が今は支え側に変わってきています。
電球交換(高齢者にできない)、草むしり、ゴミ出しなど。
支えられる側が支え手に代わって来ています。
全ての人が居場所と役割を持つことがとっても大事です。
日本の男性が世界で一番孤独だという数字が出ているそうですが、定年をきっかけに孤立して行く。
役割を担ってもらう事で元気になって、70人の男性が地域で野菜を作って喜ばれています。
大事なことは一人も取りこぼさないということです。
そのためには住民と、専門職が繋がって支えていくという重要さを思います。
排除されていた人が同じ様な課題を持っていた人だったということを理解して貰う、排除の無い社会をどう作って行くか、これからもっと大事になって行くことだと思います。














2018年4月20日金曜日

ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山

ジュディ・オング(歌手・女優)         ・【わが心の人】ペギー葉山
ペギー葉山さん、昭和8年東京生まれ、青山学院女子高等部在学中から進駐軍のキャンプで歌い始め昭和27年「ドミノ」でレコードデビュー、昭和34年には「南国土佐を後にして」で大ヒット、歌謡界での人気を不動のものにしました。
又ミュージカルや司会などでも活躍し、更に「ドレミの歌」を自ら訳して歌い広く紹介しています。
2007年からは女性で初めての日本歌手協会の会長も努めました。
昨年4月12日亡くなられました。83歳でした。

元気な姿を見てから台湾に行ったんですが、悲しい知らせでした。
オシドリ夫婦と言われた夫の根上淳さんが2005年に亡くなられました。
ご夫婦は子役としてのジュディー・オングを見ていて下さった。
私はその後17歳になった時に歌手としてレコードを初めて出しました。
父が仕事で台湾からGHQの仕事できて、ラジオ局のチーフを勤めました。
小さい時は寝る時にジャズを選択していたので聞きながら寝ました。
ペギーさんの声にはあこがれました。
TV番組でペギーさんとはNHKの「ザッツミュージック」と云う番組で長い時間ご一緒しました。
その時になんと素敵な方だと思いました。
その時に歌の事、声の出し方など細やかにアドバイスして貰いました。
ペギーさんがルイ・アームストロングに会いに行った時に、赤い振袖を着て行って、黒のドレスの上にそれを肩からパーっと長く付けて凄くかっこ良かったです。
舞台に立った時に後光が射すように姿勢がぴしっとしていました。
言葉も綺麗であこがれの女性です。

ペギーさんに大切にしていただいたということを感じたのは、お葬式の時に一度も会ったことの無い御子息が走って来て、「僕はジュディーさんに会いたかった、いつも話にでていたから」と言われて泣いてしまいました。
根上淳さんは先生のような存在で歴史を面白おかしく、話してくれました。
私は台湾から2歳の時に日本に来ました。
劇団に入って子役としてTV、映画などに出ました。
1961年に日米合作映画『大津波』で映画デビューしました。
のちNHKのテレビドラマ『明日の家族』を2年位続きました。
ペギーさんは細やかで人を大切にして、品も良くて教わることは多かったです。
「出番の前は早く袖にいなさい」ということはよく言われました。
気合いを入れて舞台に立つ直前の姿までが大切である、という事をよく言われました。
常に上を目指していて、「努力をしないと後ろに下がってしまうので、努力をして初めて維持する」、とおしゃっていました。

ペギーさんは新しいことにも貪欲でした。
ドレミの歌も、ニューヨークに行ってブロードウェーで見て大感動して帰って来て、日本の子供たちに是非歌ってほしいという思いからホテルで書いたと言っていました。
ミュージカル、舞台、お芝居、なんでも自分の世界にしてしまうような方でした。
ペギーさんの「ケセラセラ」が好きで、今回シンガポールのレコーディングで「ケセラセラ」を入れました。
一つ一つ曲への思い出を書いたんですが、それにはペギーさんの事を書きました。
「魅せられて」 扇が広がるようなドレス、私自身でデザインしました。
エーゲ海を映したかったが、映像が間に合わなくて、後ろからライトを当てたらいいんじゃないかということで、結構いいじゃないかということで定番になってしまいました。
紅白でもっと大きいドレスにしようと言うことで、手に持って広げて「おーっ」と皆が言って好評でした。
それから大きな衣装が登場するようになりました。
自分の洋服はほとんど自分でデザインしています。(今はチームがしっかりしていますので、スクリーニングに行きます。)
ステージでの衣装は全く自分の手書きのデザインです。
余り横とか後ろは気を使わない事があると思いますが、ペギーさんの後姿の綺麗な事、いつも思っていました。

私は3月21日に「微笑をありがとう」というCDを出しました。
微笑むと言うことは愛に充ち溢れているから微笑む、幸せな気分になる。
版画家としてもやっていて、8月に版画展を名古屋で行います。(版画とスケッチ)
5月に介助犬フェスタがあり3000頭位来て、Tシャツを売って介助犬のサポートにしましょうということで、絵を描いて多くの方に介助犬の事を知っていただきたいと思います。
人生今日が一番若い日、だからこの一瞬一瞬を大事に楽しくということがあります。
絵を描いている時は身体の中が気がバーっと回ってじっとして坐っているという感じではないです、頭がぐるぐる回っています。
台湾は生みの親で日本は育ての親です、どちらも大切です。
生涯現役、身体の細胞を活性化させながら生涯現役を生きたいなあと思います。