2017年4月26日水曜日

ペギー葉山(歌手)         ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)

ペギー葉山(歌手)   ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)
ペギー葉山さんはラジオ深夜便では夜明けのメロディーや想い出の岬など深夜便の歌でもおなじみの方でした。
ペギー葉山さんは東京四谷の出身、高校在学中から米軍キャンプで歌い始め、1952年レコードデビュー、「南国土佐を後にして」、「学生時代」、「ドレミの歌」、「ラ・ノビア」など沢山のヒット曲をおもちです。
生涯に録音した曲は2000曲以上、平成16年には旭日小綬章を受章されました。
平成19年から3年間、日本歌手協会会長を務めました。
歌手生活65年を目前にしたペギー葉山さんに伺いました。

高校2年からウイークエンドなどに米軍キャンプにいって歌っていました。
当時ラジオが唯一の娯楽でした。
異国の兵隊がもっと歌ってくれと言ってくれるのが、ものすごくうれしかったです。
クラシックの勉強をしていましたが、ジャズのうたいてに憧れて、音源が欲しくて、デパートでヒットしている曲を売っている場所があり、そこから手に入れて勉強しました。
ペギーは米国の人から英語の名前を付けてもらうことになり、その人から「ペギー」と云う名前を付けてもらって、「葉山」(天皇陛下の御用邸もあるのでいいイメージと言うこともあり)も付け加えて「ペギー葉山」になりました。
「南国土佐を後にして」 昭和33年に歌う。(デビューは昭和27年)
ジャズを歌っていたが、本場のジャズを勉強したいと思って昭和30年にアメリカに行きました。
渡辺弘さんが本場の物を聞いてみて来なさいと言われて行きました。
一人で行きましたが、アメリカは興奮のしっぱなしでした。

ニューヨーク、ハリウッドに行ってスターに逢うことになりました。
ラスベガスでは憧れの歌手が歌っていて聞かせてもらって、知り合いになったラスベガスの大きなとばく場の社長から無料で見たいものを全部見せてあげると言ってくれました。
歌とおしゃべりと踊りとその空間のタイミングの良さにびっくりしました。
日本に帰ってきて日劇で帰朝第1回のショーをやって、ミュージカルをやろうと思って、記者会見したらミュージカルって何と言われました。
NHKの高知放送が開局でそちらの方に行ってしまいました。
ディレクターからとにかく歌ってほしいと頼まれて、「南国土佐を後にして」を歌うことになりました。
鈴木美恵子さん(民謡の歌手)が何かのSP盤の裏に歌っていたのをディレクターが見つけて、高知放送局の開局に歌ってほしいと言われました。

「南国土佐を後にして」を聴衆の前で歌い始めたら、客席が静かになり、やっぱり歌うのではなかったと思っていたら、その後全員が手拍子で一緒に歌ってくれました。
何時も歌う時の拍手とは全然違っていて、立ちすくんでしまいました。
知事さんが飛んできていい歌を歌ってくれたと言ってくれました。
1回だけ歌ってもう歌わないと思っていたが、トルコから帰って来てから、何時レコーディングをするのかと言われて、レコーディングをしました。
これで卒業だと思ったら、歌がトップになり、歌うはめになり約束が違うと思っていたら、小林旭さんの「南国土佐を後にして」という映画もあり、映画出演にもなってしまいました。
ジャズもやっていましたが、「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと言われました。
「学生時代」平岡精二作詞・作曲)もヒットする。
最初大学時代と言う名称だったが、「学生時代」にしてほしいと私が言って、最終的に「学生時代」になりました。

2度目のアメリカ訪問の時に「ドレミ」の歌と出会うが、その前に「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと2世、3世の方から要望があって歌って、その後ニューヨークに行ったらサウンドオブミュージックに出会いまいた。
これだと思ったのが「ドレミ」の歌でした。
LPレコードを買って持ち帰りました。
「ドレミ」の歌を聞いた晩に日本語にしようと思って、ファがなかなか思い浮かばなくて、ファはファイトと言う言葉を思い浮かんで「ファイト」になりました。
「ラ・ノビア」ブラジルの曲で原曲はポルトガル語で、イタリア語で「ラ・ノビア」。
ポルトガル語で勉強して覚えましたが、タイトルだけ「ラ・ノビア」となりました。
若い人に、歌にはジャンルがないので、歌謡曲を歌っていても英語の歌だったらこういう歌も歌ったらと勧めることがあります。

65年はあっという間でした。
胸に穴があいてしまって、病気をしたこともありました。
療養している最中にケネディー大統領の暗殺事件もありました。
「芽生えてそして」と言う歌を歌って倒れて、菅原洋一さんがそのあと歌ってくれてよかったと思います。
根上淳さんが見舞いに来てくれて、結婚することになりました。
彼が倒れた時はショックでした、経験した人でないと判らないと思います。
1998年に根上が糖尿病合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
施設に行って歌うことがあるが、みんな歌う時は目が輝いていて一緒に歌ってくれます。
みんな自分が育った環境の中に聞いた歌があります。
軍歌、母が歌ってくれた子守唄などみんな心に在ります。
限りなく新しい歌を覚えて歌っていきたいと思っています。
フランス語、ドイツ語を勉強して、ちょっとでも歌ってみたい。
























































2017年4月25日火曜日

荻原浩(作家)           ・五度目の正直 直木賞

荻原浩(作家)        ・五度目の正直 直木賞
60歳、「海の見える理髪店」で去年直木賞を受賞しました。
2006年に「あの日にドライブ」で直木賞候補に挙がり、その後 「4度目の氷河期」、「愛しの座敷わらし」、「砂の王国」と 4度の候補になり 5度目で受賞しました。
荻原さんは大学卒業後、二つの広告製作会社を経てフリーのコピーライターになり、40歳の時初めて書いた小説「オロロ畑でつかまえて」で小説すばる新人賞を受賞し、作家デビューしました。
ユーモア小説、サラリーマン小説、ミステリー小説と幅広い分野の小説を書く作家として多くのファンがいます。

2016年の115回目の直木賞での受賞となる。
候補は或る日突然連絡があり、待っていて過去4回は残念でしたと言われて、3回目ぐらいから疎ましくなり、マイナスの事しか考えられなかった。
「海の見える理髪店」は6編の短編になっている。
だいぶ前から長編を書いて次に向かうサイクルでやっていて、さぼり過ぎかなと思っています。
ときどき短編を書きます。
その時書いている長編とは傾向の違う短編を書きます。
一つ書き終えると違うことをやりたいと思ってしまう。
あなたはこういう路線ねと言われたときに、いやそうではないかもしれないと思ってしまい、違ったものを書いてしまう。
器用貧乏かもしれません。

どの小
説もお勧めです、小説家にとって自分の本は子どもみたいなもので、同じように時間をかけて書いたものなので優劣はつけられない。
小説家としてデビューして今年で20年になります。
2作目は「おろろ畑でつかまえて」(ユーモア小説)の続編で、どこかで違うものをしてみたいと思いました。
方向転換できたと思ったのが5作目で「噂」(ミステリー)というものです。

埼玉県さいたま市(旧大宮市)出身、1956年(昭和31年)生まれ。
3人兄弟のまん中です。
漫画が好きでノートに書いて友達に見せたりしていました。
昨年ある特集で漫画をやりますと言って書きまして、世の中に出したのは二つ目です。
読書は普通だったと思います。
中学生ごろからミステリー(アガサクリスティー)、シャーロックホームズシリーズ(コナンドイル)、SFなどを読んでいました。
一番読んだのは大学生になった頃です。(成城大学)
ポスターなどを書くサークルだと思って広告サークルに入って、文章を褒められて文章を書く仕事に行ってしまったと言う感じです。
41歳から小説家になりましたが、原稿料を聞いて安いのにびっくりしました。
広告時代と2ケタ違いました。

35歳で広告会社を辞めてフリーになりました。
組織に向いてない人間と言うわけではなくて、組織に向いてない人間になろうと思ってたからだと思います。(組織の下にいたくなかった)
フリーになるためにまず2番目の会社に転職しました。(居心地は良かった)
フリーとなって短い手間でたくさんもらえたので、フリーの生活を謳歌して居ました。
しかし何年もやっていると不安になる。
フリーのコピーライターは年齢だけで古いと思われたりして、自分でやらずにスタッフを抱えてやる様に周りもやっていて、自分ではそうではなく何か違ったものをやってみようと思うようにりました。(39歳)
1997年「オロロ畑でつかまえて」で第10回小説すばる新人賞を受賞しました。(41歳)
出版社のあちこちからうちの社でもと言うような話ありましたが、本はそう売れるものでもないので、食べてはいけないと思ってとりあえずコピーライターでお金を稼いで、使う時間は小説の方にほとんどつぎ込む様な生活をしていました。

妻が最初の会社のデザイナーだったので、一緒に行動してくれるような人だったので、割と反対されずに済みました。
「明日の記憶」若年性アルツハイマーをテーマにしたもの。
記憶ってなんだろうと思い始めて、いろいろ調べたり、取材したりして書きました。
私の場合は取材しすぎてしまってもダメで、感情移入してしまうことがあるので、冷静にならないといけないと思っています。
言葉は正解というものがないので何年やってもこれでいいのかと、毎回思いながらやっています。
校正の度にここはと言うものが何時も出てくる。
言葉はちょっと前後を変えるだけとか助詞を変えるだけで違ってくるので、選択肢がいろいろあって、言葉の表現に関しては頑張って行かないといけないと思っている。
文章だけは自分の思う思考の組み合わせ、思考の流れのものを作りたいと思っています。
村上春樹さんは好きです。
文章力に関して、あの人の書くものを見ると、こんなことをこんなふうにするのかと、内容的にはどうかと思うものもあるが、技術的には凄いものがあります。


















































2017年4月23日日曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・太宰治【絶望名言】

頭木弘樹(文学紹介者) ・太宰治【絶望名言】
「ダメな男と言うものは幸福を受け取るに当たってさえ、へたくそを極めるものである。
弱虫は幸福をさえ恐れるものです。
綿でけがをするんです。
幸福に傷つけられることもあるんです。」  (太宰治

20歳の時、難病潰瘍性大腸炎を患い13年間に及ぶ療養生活を送りました。(頭木)
悩み苦しんだ時期に救いとなった言葉を絶望名言として紹介しています。
「人間失格」
太宰治は38歳で亡くなっているが、松本清張さんと同じ歳。
太宰治を嫌いな人で代表的なものは三島由紀夫。
太宰の持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦、器械体操、規則的な生活で直されるはずだと言っている。
太宰は三島より16歳年上だが、三島は「太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言っている。
それに答えて太宰は「そんな事言ったってこうしてきてるから好きなんだ」と言っている。

「生きて居ること、生きて居ること、あーっそれは何というやり切れない、息も絶え絶えの大事業であろうか。
僕は僕と言う草はこの世の空気と陽の中に生きにくいんです。
生きて行くのにどこか一つ欠けて居るんです。
足りないんです。
今まで生きてきたのもこれでも精一杯だったのです。
人間は何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも耐えて素知らぬふりをして生きて居るのではないのか。」(「斜陽」、「火の鳥」の中の一節)
辛いと言ってくれることは救われる。

太宰を嫌いな人はナルシスト、甘ったれだとか、駄目な自分に酔っているとか、そんなふうな言い方をして貶す。
普通は自分を隠すが、そういう部分はあると思う。
大人になるとあからさまに描かれることに耐えられなくなってくる、隠すべきものをそんな見せつけないでほしい、と三島も言っている。
私自身、若いころ太宰を読んで、そのうち太宰なんかと思い読まなくなって、又今では読むようになってきている。
太宰に戻ったのは、病気をしたことが大きかった、改めて又魅かれるようになった。
辛い環境の中で過ごしていかなければいけないと言うことの中から、太宰に救いを見出すと言うことはありました。
自分に問題があるのではないか、廻りの環境に問題があるのではないかと思った時に読むと、救われると言う気になります。
病気になっている自分を写真とかに残したくはなくて、当時の期間の写真は一切ありません。

「私は人に接するときでも心がどんなにつらくても、身体がどんなに苦しくても、ほとんど必死で楽しい雰囲気を作ることに努力する。
そして客と別れた後、私は疲労によろめき、お金のこと、道徳の事、自殺の事を考える。」
自殺、死にたい、という表現は作品の各所に出てくる。
現実に人と会う時には楽しくしていて、書く時には赤裸々に書いていて、その差も面白いです。
明るくしていれば周りも楽なので判らない。
人間は一筋縄ではいかない、二重三重に判らない外から見るだけでは判らない。

「男のくせに泣いてくれた」曲 
一緒に泣いてくれる、太宰的な感じがする。

「命運がふっと胸に浮かんでも、トカトントン。 
火事場に駆け付けようとしてトカトントン。 
お酒を飲んでも少し飲んでみようと思ってトカトントン。
自殺を考えトカトントン。」
トカトントン、に意味はない。
トカトントンと云う音が聞こえてきてむなしくなる、やる気がうせる。
「いま僕がしようと思っていることを少し後には、僕はもうしようとは思わなくなっている。」 (カフカ
人間って、人生に大きなものを求めているがなかなかそういい事はない。
小さな事の積み重ねで、そう思うとついむなしくなってしまう事があると思う。
人間どこかでなにか大きなことを待ち続けて居る気持が、人生のどこかにあるのではないか。
病気が治るとなんでもどんなこともできるように思うが、手術をして治ると思っていたようなことはできなくて、その時の悲しさはありました。(13年間闘病生活)

「私は自分に零落を感じ敗者を意識するとき、必ずヴェルレーヌの泣きべその顔を思いだし、救われるのが常である。
生きてこうと思うのである。
あの人の弱さが却って私に生きて行こうと言う希望を与える。
気弱い内性の究極からでなければ、真に崇厳な功名は発し得ないと私は頑固に信じて居る。(「服装について」 エッセーの中の一節)
絶望の言葉が却って生きていこうと言う気を起させる。
共感する、共感を読者に呼び起こして、共感できると少し救われる。
太宰と落語に共通性を感じる。
太宰はあんまり本を所蔵していなかったが、三遊亭圓朝の全集を持っていた。

太宰は本当に弱い人だと思います。
心が弱いからこそ、そこから光が発する、と言うこと。
弱いからこそいろいろな事に気付く。
本当に弱いからこそ、他の人に気付かないことに気付ける。
「もっとも深い地獄にあるものたちほど、純粋に歌えるものはありません。
僕たちが天使の歌だと思っているのは、実は彼らの歌なんです。」(カフカ)
深い地獄にある者ほどうまく純粋に歌うことが出来る。
弱いからこそ、そういういろんなことに気付いてうまく歌うことが出来る、作品を書くことができると言っている。



























































平松政次(元プロ野球投手)     ・カミソリシュートで打倒巨人

平松政次(元プロ野球投手)・カミソリシュートで打倒巨人
岡山県出身69歳、岡山東商業高校時代選抜で優勝し、社会人の日本石油では都市対抗で優勝しました。
ドラフトで2度にわたってあこがれの巨人から上位指名の約束を受けたものの実際には指名されず、2位指名された大洋に都市対抗で優勝した直後に入団し、打倒巨人を目指すようになります。
以来大洋一筋18年間、独特のシュートボールを武器に数々のタイトルを獲得し、200勝投手にもなりました。
現在もプロ野球評論家として活躍する平松さんに伺います。

今年、星野仙一さん、伊東勤さん、平松さんが選ばれました。(野球殿堂入り)
現実になり感動しました。
最多勝2回、最優秀防御率1回、ベストナイン2回、沢村賞1回、オールスター出場8回、201勝を挙げる。
甲子園で優勝、都市対抗でも優勝し、プロ野球でも活躍したので総合的に評価されたのだと思っています。
星野さんは監督としても活躍したのでもっと早く殿堂入りしてもよかったのではないかと思います。
岡山東商業高校では先輩の秋山さんに次いでの殿堂入りとなりました。

当時長島茂雄さんの大ファンでした。
長島さんは昭和33年に巨人に入団したので小学校5年だったと思います。
日本石油で優勝して、昭和42年8月に入団して、8月16日広島戦で第一戦、9月6日対巨人戦に初先発して、長島さんと対決する。
ネクストバッターサークルの長島さんを見て居ると地に足がつかないような状態でした。
私がマウンドに立って、サード長島さん、ファースト王さんという自分の思いとは全く違った状態の勝負となりました。
ドラフトで入れなかった悔しさと、巨人戦に勝たないと全国区になれないと言うこと、長島さんにあのピッチャーは凄かったなあと思われたいと、そういう思いがありました。
1年目は3勝、2年目は5勝でした。
社会人では直球を三振するがプロではものの見事にホームランするわけで、プロの凄さを感じました。

2年目の春先、カーブを長島さんに大ホームランを打たれる。
それがよかったように思う。
ファンのような気持で投げて居たと思って、そこから切り変わりました。
3年目、3試合連続の完封勝ち、4年目(昭和45年 23歳) 初完封、次に堀内投手との投手戦 同点で9回に満塁策を川上監督が取る。
堀内投手の代わりに国松選手を代打で送って来るが、ピンチを脱する。
練習だけしか投げたことにないスライダーを投げて、キャッチャーフライに仕留めた。
延長戦を制して2試合連続の完封となった。
オールスター戦で優秀投手賞を貰う。
巨人戦3試合連続の完封、32イニングス連続無失点の記録を作る。
杉下選手の35イニングスの記録があるが、記録は破れそうだと思っていた。
長島選手を迎えて、キャッチャーがスーと中腰になったので、なんだろうと思いながらスナップスローを頭の上に投げた(絶対打たれない様なボール)を大根切りの様にホームランを打たれてしまって、記録は達成できなかった。(まともには勝負したかったが)

その年 25勝19敗、防御率1.95(生涯最高記録) 最多賞、沢村賞、ベストナイン賞
翌年 17勝で 2年連続最多賞、 この年の巨人戦は4勝2敗 4勝全て完投勝ち。
「巨人キラー」と言われるようになる。
都市対抗の時代、或る人がシュートを教えてくれて、しかし都市対抗時代はシュートを投げた事は無かった。
プロに入って二年間は余り勝てずにいて、近藤さんからヘボピッチャーと言うようなことを言われて、めらめらと来て、シュートを思い出して投げたらそれがすごくて物凄く曲がった。
なんでこんなボールを今まで投げないんだと言われた。
それから2ケタ勝利へと向かって行った。
体も鍛えられて、ストレートも良くなった。

200勝記念パーティーで長島さんが平松のシュートボールは打てない、短く持ちたいが、巨人軍の 4番打者が短くは持てないと挨拶しました。
長島さんの攻略法として打つ瞬間に短くスーッと持つようにした様だった。
巨人の牧野さんの指示はシュートは打つなと言うことだったが、真っ直ぐに見えてしまってついシュートを打ってしまう。(シュートとストレートの見分けがつきにくい投法)
私はストレートが90%で、ストレートで三振を取るようにしていました。
毎日がストレートの練習をしていました。
時代は違いますが、チェンジアップを覚えたらもう少し勝てたかなあと思います。
ピッチャーでホームランは25本で歴代4位になっています。
与えた18年間のデッドボールは120個でいまだにセリーグ記録になっているが、王さん、長島さんには当てては居ない、日本球界の宝なので怪我をさせたくないと言う思いはありました。
金田さんの左腕に当てて凄く怒られました、左腕は宝ですからね。

そのうち肩を痛めましたが、今の様に中5日、6日おいて試合に出てていたら、肩をいためることはなかったかも知れませんが、記憶の中にとどめてもらったことは幸せだったと思い悔いはありません。
子供のころからの夢を持って、ずーっと目標を持ってやってこられたことは、人間としては大事だと思います。
若い人は夢を持って突き進んでゆくことが大事で、壁に突き当たっても壁を突き破って行ってほしいと思います。































2017年4月22日土曜日

西岡良夫(ウ―タン・森と生活を考える会代表)・熱帯林の再生を願って

西岡良夫(ウ―タン・森と生活を考える会代表)・熱帯林の再生を願って
65歳、東南アジアのボルネオ島の熱帯林を守ろうとNGO非政府組織、「ウータン・森と生活を考える会」を昭和63年に結成し、代表を務めて居ます。
ボルネオ島では大量に伐採された木材が日本などの先進国に輸出され、熱帯林の減少が続いて問題となっていましたが、近年油ヤシのプランテーション、大規模農園の開発が進み新たな問題となっています。
西岡さんは何度もボルネオ島に渡って現地のNGOと連携し、熱帯林を守る活動を続けて居ます。
熱帯林で何が起きて居るのか、私たちの暮らしとどうかかわっているのか、伺いました。

65歳で退職し現在無職です。
休耕田を利用して「虹の畑片野」という名前でやろうとしています。
ウータンと言うのは森と言う意味です。
「ウ―タン・森と生活を考える会」
1987年にマレーシアのサラワク州と言うところで森林伐採が大変な事になっていると言うことで日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、それから始まったわけです。
事務局のメンバーが20名、当時公務員、教師のメンバーが多かったが、今は退職された方が多く無職が多いです。
小さい頃、母親の家が高島の浜にあり、海水浴が出来た綺麗なところでしたが、コンビナートを増設と言うことで海辺がいっぺんに変わってしまいました。
父親に誘われて山に虫取りなどもしていました。
高校時代になって環境がずいぶん変わってきました。

ボルネオ島の大半は森林におおわれて居て町だけが開けて居て、1965年以降に独立して、日本企業が入って森林破壊が進んできた。
日本でも熱帯林の保全をしてほしいと訴えに来まして、募金活動をしましたが、集まったお金を持って帰らなくて途中で姿を消してしまった。
現地のNGOの組織と組織としてやっていかないといけないと言うことになり、「ウ―タン・森と生活を考える会」を立ち上げました。
マレーシアのサラワク州では原生林が85%ぐらいがすでに伐採権が与えられていることが分かってきた。
欧米のNGOとも交流をもつようになり、ドイツの代表が日本に来て、一緒になって熱帯材の使用削減をしようと言うことになりました。
1990年から企業、自治体に対して2~3回で使い捨てになっているベニアの合板を長く使ってもらったり、使用量を少なくしてもらうとか、いろいろ話し合いを持ちかけに行きました。

建築方式も見直してほしいと言うようなことも申し入れをしました。
現地の森林の調査も行いました。
最初大阪府が対象でしたが、1995年ぐらいには関西レベルの取り組みとなり、全国でも300ぐらいの自治体が熱帯材の使用削減に取り組みをしていただきました。
環境省が環境基本計画を策定しようと言うことになり、熱帯材の保全、熱帯材の使用料を減らすことを提言しました。
違法な伐採が世界各地で行われていることが判ってきて、1998年G8サミットの時にG8のなかで検討してほしいとブレア首相にグリーンピースが申し入れをして、検討してほしいと言うことになりました。
ボルネオ、アマゾンでも違法な伐採がされていた。
1992年違法な形でシンガポール経由で日本に輸入されていたことが分かった。
違法伐採、運ばれ方など、現場への調査などを行いました。

2007年私はマレーシアで単独で調査をしていました。
EIA、テラパックの団体がホテルにいたが、悪徳警官が来て2人留置されてしまい、カメラ、お金など取りあげられたりしていました。
私もカメラをとられたが、急遽別のカメラを出して難を逃れた。
2003年からラミン(ゴニスチラ(ジンチョウゲ)科 Gonystylus 属の広葉樹。散孔材)を使わないキャンペーンを行い、モップの柄の部分を使わない運動を展開しました。
半年で50社、1年目に100社、3年後に200社と言う目標を立てたら、或るデパートが調査をしてくれました。
目標より早く進み、2007年では500社が辞めていただくことになりました。
最終的に日本では750社が辞めていただき世界では2000社以上が取り組み、2010年以降違法ラミンの取引は世界で出来なくなりました。

森林伐採をした後に油ヤシを作っていて、紙パルプの為の植林もしていました。
パームオイルはマーガリン、ファーストフード、洗剤、工業用燃料などに使われています。
植物油と書いてるのは油ヤシが大半です。
日本では昔は米油、ゴマ油、菜種油があったが、パームオイル、油ヤシは安価です。
油ヤシに転換していくと言う形があり、拡大して行った。
泥炭湿地だったところが、乾燥して行き、泥炭湿地を保全しようと言う取り組みを進めて居る。
雨が降らない時があり、火災が発生している、2015年インドネシアは世界3番目の二酸化炭素排出量になっている。
或る国立公園の1/4が燃えてしまいました。
再植林を展開しています。
5日間のツアーを組んで植林したりボルネオの人たちとの交流なども行っています。
オラウータンが棲む森が無くなってきて、油ヤシばかりになり、火災が起きてきてインドネシア政府も対応しているが、われわれ自身も生活の見直しをやっていかなければならないと思う。
持続可能な社会を作っていこうと米国でも取り組んでいます。
違法伐採を無くして森林再生をして持続可能な開発を目指していきたいと思います。
皆さんの生活も振り返って見直して頂けませんでしょうか。









































2017年4月21日金曜日

かこ さとし(絵本作家)      ・“生きる力”は子どもたちから(2)

かこ さとし(絵本作家)  ・“生きる力”は子どもたちから(2)
1959年絵本作家としてデビュー。「だむのおじさんたち」
子供たちと毎週日曜日に一緒に遊ぶために、せめてもと思いお話とか、紙芝居などを土曜日に書いていた。
それを見た人が出版社にアルバイトで勤めていたが、出版社に話して、出版社に呼ばれることになりました。
編集長さんにお会いしたら、大きなテーマを考えてほしいと言われました。
感動して、今の時代にふさわしいものと言うことで、復興期だったので造船の事、機械工業とか、化学工業とかがあったが、夕方になると電気量が少なく停電になる。
発電をテーマにしたらいいと思って、編集長さんから電気のことで行きましょうということになりました。
構想を練って、ダムを作ってめでたしめでたしでは面白くないので、山の中で工事に携わる人、廻りの自然などを含めた詩情があふれるような物を作ろうと思いました。
発電と動植物の関係をうまくマッチさせたいと思いました。

童話作家の川崎 大治さんというかたから、日本児童文学会で話題になっているとお話がありました。(30歳ちょっとの頃)
会社の仕事は重要だと思っていたので、会社の仕事を80%ぐらいにして20%を絵本にというような気持は品格に関わりあさましいと思って、仕事を120%やって開き直れるような気持で、土曜の夜は徹夜もして絵本仕事をして、日曜日は子供会をやる、それをやっていました。
それが皮切りになって他の社から注文がありました。
どんなことを書けばいいのか教えてもらったりして、絵本のイロハから教えてもらったりしました。

1974年「美しい絵」出版
前年に会社を辞める。
それまで出版社から言われるままテーマに従って考えて出していました。
一人前の会社員としてやると言う主義があって、休みにゴルフを誘われると一緒に行ってそのしわ寄せが夜の時間帯に来て時間の調整が難しくなり、又管理職にもなってきて研究の仕事から遠のいてきて仕事の面白味も薄れて、絵本の仕事に力を入れようかなあと思った。
収入が減ってしまうが、妻がキャラメル売りの仕事をするとか、子供も大きくなってきたので、家族の支援もあり退職願を出してフリーになることにしました。
新聞で田中首相がモナリザの絵をルーブルから日本に持ち込むと言う話があり、子供向けの絵の本を出したいと各社回ったが、断られてしまいました。
或る一社だけが承諾してくれましたが、最後になってピカソのゲルニカという絵がまとめになるが、ピカソが亡くなって家族が係争中で裁判が決着するまで国外で掲載ことはならんとうことになりました。

子供の教育のために掲載を是非お願いしたいと、許可を願いにフランスまで行こうと決心したら、出版者に電報が入って許可を貰うことができた。
私自身の思っていることを何とか伝わるように、それが子供たちに心に響いてくれればいいと、そういうことで絵を見てほしいと思って、描いた人の心がそこに表れて居るか込められていることが問題なんだと、その思いを紙芝居なんかを描いていたので一冊のものにしました。
若い時に芥川龍之介に熱中して、天才でも歩きながら考えていたと言うことで凡人はしょっちゅう考えてもいいが堂々巡りで、気が付いたときにメモするようにしているが、いいと思っても後で見ると大したことないことが多い。
しかし、これが種本みたいで、段々練って行って文に仕立てて行く。
これがないと全然進んでいかない。
お蔵になっているものが多くて、生きたのは1/100ぐらいです。

子供さんから手紙、感想などをいただくのが宝で50数年間取ってあるが、返事は直ぐ出すようにしていて、続きを描いてほしいと言う要望があり30年過ぎに書き始めて40年後に出版することができました。(「どろぼうがっこう 」続編)
良くないからやめななさいと言ってやめるよりも、自分でやめるようにすることが子供の成長だと思います。
普通の子供はプチ悪の面とプチ良いの面があって葛藤しながら自分で磨いてゆく、磨いてゆくことがいいところなんです。
好きなものを選んで、読書の大事さを知ってもらえれば一番いい。
自然界からいろんなものを教わったような気がする。
家の中で本だけで過ごすよりも、本も読むけれども外で遊ぶようにしてもらった方がいいのではないか。
本を読む間接経験よりも直接経験の積み重ねがとても役に立つ。

子供は読んだもの、経験したものなどで琴線に触れるものがあったならばそれを追求してて行動として表す、行動に出ると言うことが素晴らしいこと。
子供の理解出来る文章、絵、図なりで、理解出来ると言うところに入れてあげるとOKです。
20年間、役に立つと見越して書かないといけない。
せっかく生まれてきたので何かお返ししていかなければ申し訳ない、それだけです。
生き甲斐を20年間失っていたのを、後の70年間を楽しく、色んなことを教えてもらって、
こんなことをやってきたということを残していきたい。
テロだとか、内戦だとか、人と人の争いがあり非生産的な状態が途切れない、人間の社会として克服出来るようにしてほしい、しなければいけない。
ノートに書き記したものを1つでも2つでも、元気なうちに皆さんにお渡しできればと思っている。








































2017年4月20日木曜日

かこ さとし(絵本作家)      ・“生きる力”は子どもたちから(1)

かこ さとし(絵本作家)・“生きる力”は子どもたちから(1)
今年91歳、今でも続々と新作絵本を生み出している現役絵本作家です。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」などの人気シリーズから、歯や骨など人の身体、宇宙や気象現象、動植物について専門的に描いた科学絵本まで今までに生み出した絵本は600冊を超えます。
福井県越前市で生まれたかこさんは敗戦を迎えた時は19歳でした。
多くの友人たちを戦争で亡くし自分は死にはぐれたと感じて生きる道を失ったと言います。
そんなかこさんの生きがいになったのはセツルメント活動で出会った子供たちの存在でした。
東京大学工学部を卒業して化学メーカーの研究者として勤めていたかこさんが、どうして絵本作家になったのか伺いました。

4つ身体に故障があり 腰、首が痛いし、他に薬で何とかしていますが、眼も片目が悪く30年前から緑内障になってます。
長生きしたのは胃腸が丈夫で、兄弟は病弱で先に亡くなりました。
夜は片目だとだめなので日没とともに仕事は無理で、仕事は午前中に出来るだけしています。(若い頃の1/3ぐらいになってしまいました)
10時ごろには寝て、夜明けをまって仕事をやっています。
子供さんにいつの間にか興味を持って、子供さんの事を知りたかったが、工学部だったので児童心理とかを全然知らなかったので、本を読んだがさっぱり身に付かなかった。
子供さんをじかに観察して体得するしかないと思って、機会が出来ないかなと思ったが、会社員を務める中で、社会の裏表を知ったし、業務を通じて貢献、お返しするなかでもっと、直接的な事をしたいと思って、セツルメントを戦後大学生が復活させて、偶然に子供会を手伝ってほしいと言うことで行きました。

川崎に行って、会社勤めとセツルメントを2つやっていて、偶然に女子学生が手伝いに来ていたが、その後その女子学生がアルバイトで出版社にいき私の事を吹聴して、出版社のほうから絵本を書かないかと言うことになりました。
「からすのパンやさん」や「だるまちゃんとてんぐちゃん」はたくさんの方が読んでくださって、3代にわたって読んでくれたと言う話もあります。
子供さんにも共感できるものがないと、あとからずーっと続いていかない。
こちら自身が子供と同じような心にはなれないけれども、人間としての考えを自分が持っていると言うこと、自分をさらけ出す覚悟の様にして書いて、最低は10数回は書きなおします。
絵の方は時間はないが、5~6回は書きなおします。

「矢村のヤ助」 1955年頃子供会で話したらこどもたちの反応が凄かった。
当時木下順二さんの「夕鶴」が評判で、学生時代演劇をやっていましたが、木下順二さんの所に押し掛けたりして、尊敬している作家です。
「夕鶴」の内容に腑に落ちないところもあって、鶴は高貴の鳥であってヤマドリの方がずっといいと思ってヤマドリの話を基にして、ヤ助の物語を書きましたが、好評でした。
「矢村のヤ助」の概要
ヤ助と歳をとったお母さんが居て、ある冬の日に罠にかかったヤマドリを助ける。
或る日アカネと言う旅の娘が道に迷ってヤ助の家に来る。
冬を一緒に過ごし、結婚をしてお母さんと3人で一緒に暮らしているが、村を恐ろしい鬼が襲って、米10表、あわ10表、女房を添えて持って来いと言うことになる。
鬼をやっつけるには強い弓を使って一本を注ぐ、矢羽は13フシのヤマドリの尾羽でなくてはいけないとアカネが提案する。
アカネはヤマドリであることを白状する。
ヤ助は勇敢に鬼に立ち向かって鬼をやっつけるが、アカネはヤマドリに戻ってしまって、一緒に暮らすことはできなくなってしまう。

これは2014年米寿の記念として全国の公共図書館に寄贈している。
子供さんは共感すると大事に抱いて寝床まで持って行ってくれるので、全国の図書館に贈りました。
戦争中、戦後、反省としてあるので、自分自身を省みると恥ずかしいので自分自身が出来ること、やれなかったことを、どう反省するんだと言うことを出発点にさせてもらって、頼りになるのは子供さん達だけだと、子供さんたちの未来のために自分の様に後悔をしないように、自分で考える、自分で世の中を判断できる賢さを身につけてほしいと、それをお手伝いできないかと、思ったわけです。
20歳までは後悔、失敗の人生だった。
自分でも考えたはずだが、軍人だったらただで学べてこんないいことはないと思った、飛行少年だったので、近視が進み航空の道には進めなかった。
考えが浅かったわけです、判断が誤りだった。

優秀な友人たちが軍部の学校に入って特攻でみんな死んでしまって、私などは死にはぐれです。
戦争の問題を解決できる方法はないものかと、子供さんたちに明らかな方法で示したいが、いまだに勉強が足りずに、戦争を防ぐ、戦争をしないための具体策が自分でも探しあぐねてるところです。
戦争の悲惨さはよく書かれるが、悲惨を生むための、産んでしまった自分の責任に対して十分でない様に思って、それが残念です。
経済の問題をどう考えるか、どう処理するかの大問題があり、新しい考えの学者さんがいるが、自分では残念ながら実現できていないと言うこともあり非常に残念です。
3歳になると個性が出てきて、自分の好きなことは自分の発案でやって、厭な事は黙って、理屈は大人に向かって言わない。
生きる目標を失っていたが、子供と接して喪失感が無くなってきて子供には全部教わりました。
素晴らしい判断力、感性でした。
今までの教育学の理想児、児童学の本とは違う。
近所の子供さん達を集めて教わった方が早い。