2017年3月26日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)       ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)   ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
チャイコフスキーの遺伝子、2017年バージョン。
今年のウイーンフィルのニューイヤーイヤーコンサートを指揮したグスターボ・ドゥダメル。(36歳 ウイーフィルとは10年の付き合い)
*白鳥の湖のワルツ ワルツも素晴らしいが彩りを添える木管楽器の煌めきが素晴らしい。  指揮グスターボ・ドゥダメル。 ウイーフィル管弦楽団。

1972年モスクワ生まれ、ウラディーミル・ユロフスキ(45歳)
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めている。
今年来日予定。
*チャイコフシキー交響曲第5番 第三楽章。 指揮ウラディーミル・ユロフスキ
 ロンドンフィルハーモニー管弦楽団。

ラフマニノフ
学生のころからチャイコフスキーが大好きだった。
チャイコフスキーが亡くなった時には、ピアノ三重奏曲をチャイコフスキーにささげて居る。
ヴォカリーズ
 歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
 ラフマニノフ編曲 指揮 ヴァシリー・ペトレンコ ロイヤル・リヴァプール・フィル
ハーモニー管弦楽団。

ヨーロッパのジャズ界にもチャイコフスキーのメロディーが影響。
ジャンゴ・ラインハルト ステファン・グラッペの1949年の録音
*チャイコフスキー作曲 ラインハルト編曲 悲愴
いだかれたいテンポ

タンゴ風のチャイコフスキーの音楽。
ペーター・キーゼヴェッター ドイツの作曲家 1945年生まれ。
*タンゴ・パセティック  キーゼヴェッター作曲 ヴァイオリン(ギドン・クレーメル) ピアノ(マルタ・アルゲリッチ) チャロ(ミッシャ・マイスキー) 演奏










2017年3月25日土曜日

清水国明(タレント)        ・めざそう、多毛作人生

清水国明(タレント)    ・めざそう、多毛作人生
1950年福井県大野市(旧和泉村)に生まれる。
1973年伝説のフォークデュオを「あのねのね」で芸能界デビューします。
2004年自然ぐらしを実践する山梨県富士河口湖町で、NPO法人河口湖自然学校を設立。2013年には山口県周防大島近傍の無人島を購入、そのほか阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本などの被災地に積極的にかかわっています。
現在はTV、ラジオでも司会やコメンテータ、ー雑誌への執筆など幅広く活躍しています。
そんな清水さんが今年1月福井県若狭町の文化と福祉の複合施設パレア若狭で講演されました。

「あのねのね」のグループをやっていました。
「赤とんぼの唄」などを歌っていましたが、終わってTVの仕事などをやるようになりました。
福井県大野市(旧和泉村)に生まれ、谷あいの村でした。
たった一回の人生だから、いくつも楽しみたいと私は思っています。
憧れはエネルギーとなって人間の成長にふさわしいと言われています。
今は何にも揃っているので、憧れる必要がない、これが欲しいと云うのも憧れだといえばそうであって、それに進んでゆく、そういく考え方もあります。
京都の方の大学に行って、いい仲間(笑福亭鶴瓶、原田伸郎ら)と出会って、京都で8年間過ごしました。
旅館でアルバイトをしていて、あるとき、ビアガーデンで歌を歌う話があり30分で2000円貰えると云って(本当は3000円貰えるが)二人には1000円渡して、私は2000円もらったというようなことをしていたりしました。(冗談半分に)

そのうちTVにださせてもらってあっという間に人気者になって、あっという間に落ちてしまいました。
東京に移動して、ローンを組んで家を建てて生活していました。
今は山梨県川口湖に引っ越して、自然の中での遊び方を熟知していたので、自然を楽しむ学校「森と湖の楽園」を始めて今日に至りました。
いろんなところに行っていろんな人との出会いがあり、いろんな仕事も変わって行って、沢山の人生が出来たなあと思っています。
瀬戸内海の無人島に行って、愛媛県と山口県の県境のところ、みんなで購入して、自給自足で稲を作ったり、海水から塩をつくったり、自主自立の生活を始めて居ます。
無人島で不便さをあえて楽しんでもらって、日ごろの便利さに感謝出来ると云うものです。
ありが島(ありがとう)という島を作りました。
そこでキャンプすると、何にもないんで早く帰りたいと思う。
家に帰ってくると、電気が点く、電気がつくんだと云うことになる。(当たり前のことに感動)
実はありがたい生活をさせて貰っているんだなあと気付いて感謝して生活をするように
成ります。
当たり前と云う事が実は有り難いものである。
「婚活」の島を今年は作ろうと思っていて、おめで島(おめでとう)と云う名前にしようと思っています。

オートバイの競争の世界にも入って、14箇所骨折をしました。
レースで人と競うのが好きなのかも知れません。
全国規模の魚の釣りのトーナメントにも参加して、場を変える、世界を変えることで一匹の魚に震えるような喜びを感じる事が出来るんだなあとも思いました。
いまは自然界で自然をベースにした事をやっています。
ビジネス界は苦手です。
お金に対して手紙を書いて私のところに来て下さいということで新聞にも載ったりしたが、大分来るようになりましたが、じっとしてくれません。
自然の中で鍛え直すという、企業研修をやっています。
3本マッチを渡して火をおこすことをやってもらうが、今の若い人は火をおこせない。
企業研修にはそこそこハマりました。

一番良いのは好きな事をやっていてそのことで皆さんに感謝されて、皆さんからお金を頂ける、そういう暮らしをしているのが一番だと思います。
二番目は好きな事をしているが貧乏、三番目にはいやな事をやらされながら金持ちになる、四番目は嫌な事をやらされながら貧乏、これが一番多いと思う。
最後は一番目を目指して頑張ろうと思っています。
世の中は発展しているが、人間力と云うか、生命力はどんどん落ちていっているような気がします。
自分で修理する時代ではなくなってきてしまっている。
自分持っている色んな事を伝承する役割があるのではないかと思います。

お金持ちの別荘地でお金を守りに入った人は意外といらいらしたりしてクレームがいろいろ来ていると、ある管理人から聞きましたが、子供たちに竹細工、英語などを教えて居るおじいさんおばあさんがいるがその人たちからはクレームがないそうです。
渡そうと思った人と守ろうと思った人の違いではないか。
何人もの人との出会いをしたいと思っている。
清水クーコと結婚したが、離別してその後再婚して3人女の子が生まれました。
これからは自然にと思ったが、家族は一緒には来ないと云うことで、離婚と云うことになり、河口湖に行ったら3回目の結婚をして男の子が生まれました。
子供は9歳になりました。
楽ではない事だが楽しいことはしてきたと思います。
楽な事がいいと錯覚してしまうと、楽な方に流れてしまう。
楽の究極は寝たきり状態だが、感動の為にはあえてわざわざ寒いところ、不便な所に行って一日一日をベストで生きていきたいと思う、そうすると何処で死んでもOKです。
一番いい死に方は100%で生きてきて寿命が来たらパクンと死ぬ、だらだらと死なないそれを直角死と云います。





































2017年3月24日金曜日

頭木弘樹(文学紹介者)       ・絶望名言 フランツ・カフカ

頭木弘樹(文学紹介者)       ・絶望名言 フランツ・カフカ
「僕は人生に必要な能力を何一つ備えて居らす、ただ人間的な弱みしかもっていない。
無能、あらゆる点でしかも完璧に。」
作家フランツ・カフカの言葉
病気、事故、災害、あるいは失恋、挫折、孤独、人生受け入れがたい現実に直面した時に
人は絶望します。

頭木さんは難病を発症し、13年間療養生活を送りました。
その経験から救いとなった言葉を「絶望名言」と名付けて、名言集を出版しました。
素晴らしい言葉は眩しすぎることもある。
失恋した時には失恋ソングの方がぴったりする。
辛い時には、絶望的な言葉の方が心にしみて救いになる時があるのではないかと思い、そういう言葉を絶望名言と云っています。

20歳のときに突然難病になり、医師から進学、就職も出来ず親に面倒見てもらうしかないといわれました。
完璧に無能な状態になってしまいました。
その時に読んだフランツ・カフカの言葉が凄く感動しました。
プラハの生まれで、「変身」が出版されたのが1915年、ちょうど100年前ぐらい。
今読んでも衝撃を与える、と云うのが凄い。
突然虫に変身してしまう、と云うもの。

「生きることは絶えずわき道にそれて行く事だ。
本当は何処へ向かうはずだったのか振り返って見る事さえ許されない。」
カフカの創作ノートに断片的に残っている。(37歳の頃のもの 40歳で亡くなる)
作家になりたかったが、サラリーマンだった。
3回婚約して3回婚約解消の頃のもの。

私(頭木)は本来生きるはずだった自分の人生の道からそれてしまってわき道を走るようになってしまった。
潰瘍性大腸炎でした。
人によって症状の幅があり、私の場合は重い方でした。
それまではほとんど病気をしたことがありませんでした。
カフカの言葉に出会って、わき道にそれるのが人生をいうことで救いになりました。

さだまさしさんの「第三病棟」
なんで自分だけが苦しむのか、夜中に眠れないでいると、子供の泣き声が聞こえてきて、平等でないことに悲しみ怒りを覚えて、平等だと思ってること自体が間違いで、人間それぞれ違っていて、元々平等ではない、違って当たり前だと、反省して「第三病棟」を聞くとその時のことを思い出します。
1970年代の後半の曲

レールから外れた途端はまだレールの続きを見て居る。

「僕には誰もいません。ここには誰もいないのです、不安のほかには。
不安と僕は互いにしがみついて、夜通し転げまわっているのです。」
恋人へのカフカの手紙の中の言葉。
手紙も作品と云ってもいいぐらいのもの。
絶望した人が一番よく言葉にするのは、自分のほかは誰にもわからないと云うことだと思います。
同病あい憐れむと云うが、同じ病気でも症状、状況などが違うので共感しない。
災害にあっても状況がそれぞれ違っていて、同じように気持ちは一つにはなれない。
孤独が漏れなく付いてくる、それがすごくつらい。
絶望している人への接し方は難しい。
なかなか立ち直れない人に対しては、悲しい展開がある。
最初は励ましていた人がだんだんイライラしてきて、責め始めたりして、最後は見捨てるような展開に陥りやすい。

長い目で見てあげて立ちあがりをあせらない、当人も周りも。
深く沈んだらゆっくり上がる必要がある。
せかさずときどき連絡をとって、立ち直れそうになったらいつでも力を貸すようにそばにいてあげるのが一番いいと思います。
あわてず、あせらず、あきらめず。
焦るとさらに落ち込んでしまったりする。

医学の進歩のおかげで13年目で手術をして、外を出歩ける様にも成り普通に近い生活が送れるようになりました。
絶望名言を読むことで救いになりました。
カフカ、ドストエフスキーとか。

「将来に向かって歩くことは僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできる事は倒れたままでいることです。
将来に向かって歩く事は僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできる事は倒れたままでいることです。」
婚約者へのカフカの手紙。
カフカはこの頃不幸な出来事などなかった。
私自身倒れたままだったので共感しました。
日常生活自体が倒れるものである。

経験を踏まえてさらに成長される方もいますが、必ずしもそうはいかない。
得るものも大きいが、失うものも大きい、苦労は成長させるものもあるが人を駄目にしたり歪んでしまったりもする。
倒れたままで生きていく、半分倒れたままで生きていくこともありだと思います。
カフカは平穏な人生を送っていて、はた目からみれば、サラリーマンとして順調に出世して、恋人もいたし友達もいたが、日記などを見てみると、大変な絶望なわけです。
普通の人であっても倒れる人は倒れる、敏感な人は倒れてしまう。
絶望した時にカフカの言葉は、なにかあった人ではないからこそカフカの言葉は誰にでも共感できる。

































2017年3月23日木曜日

林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家)  ・人形に込める古都の美

林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家) ・人形に込める古都の美
林さんが作る桐塑人形は芯となる木彫り人形に桐のおがくずと糊を練った桐塑と云うものを肉付けして作るもので、華麗でふくよかな柔らかな表情を見せて居ます。
林さんは江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子、子供のころから古典文学、狂言、文楽、能、歌舞伎など様々物を見て、幅広く伝統芸能に興味を持ってきました。
京都の高校を卒業後、京人形師、十三世面庄・岡本庄三に人形の製作方法を、能面師の北沢如意にも学びました。
昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞、そして平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定されました。

基本的には仕事は起きてから始めて、寝るまでやっています。
やりだしたら何時間でも出来ます、飽きません。
壊してもう一度納得するところから又始めたりして、時間はいくらあっても足りません。
平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定され、それから14年になります。
若い時の方が対応できるけれども、老い期には老い期の花の美しさがある。
何時も最高のコンディションで歳を重ねることはできないけれども、若いころに見えない事があると信じて日々過ごしています。

桐塑人形
粘土状の物を木にあらかた彫ったものにつけていって形を整える。
桐の木のおがくずを精製して糊で練って、それをモデリングしてゆく。
基本的にはつけるが、つけたものを削る方がシャープな力が出てきます。
江戸時代から続いている処方。
そこに紙を張ったり、布を張ったりしますが、その間に胡粉(ごふん)(蛤の殻、牡蠣の殻などを精製したもの)を塗る作業があります。
にかわをといで合わす。
人形一体作るのには3カ月はかかります。
何を作るかが大変で、2年、3年、10年もかかる時があります。
能の老女が月の光のなかで佇んでいる物を作りたいと思ったのが、40年前で作り上げたのは3、4年前です。
頭の中で浮遊していて段々形になり、自分に近づいたときに作品の基にする、そういうイメージです。

デッサンはしない、頭の中で立体的に動きます。
次にどう進むかは作品が言ってくれます。
原形ができる頃に次に行っていいよと云ってくれます。
時間がないから次に行こうとこっちが思って進めると、必ず後で失敗します。
美しい形はお能、能の構えの形が基本になってます。
10代の終わりごろから能楽堂で一日中スケッチしていました。
立ち姿で一番美しいのは、静止して形のなかで僅かな所作で深い意味が出ると云う能の動きにあこがれていたので、段々そういう方向に偏っていったのではないかと思います。

稲荷大社の奉納で中学生の頃初めて能を見て、不思議なおもしろいものだと思い虜になりました。
観世流の凄い役者さんだった。
日本舞踊、歌舞伎もそうですが、美しい形で決まる時は演じている人間は無理な姿勢になっていて、でも美しい形を出す。
それを形にしたいと思いました。
構えて強い形で見えない月の光とか、花が散っているとか、雪が積もっているとか、そういうことを、見えない世界を抽象的な形で作り上げられたらいいなと思っていたことは確かです。

江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子でした。
御所と京都府庁との間に家などがあり、戦争の時に国の命令で、取り壊して強制疎開となり、蔵があろうが何処かへ行ってくださいということで商売が続けられなくなりました。
料理、部屋、床の間などの季節感を表すが、人形も季節感を表わす、そういった環境の中にいました。
季節感の変化が子供心に面白かった。
本は当時高価なものだったが、蔵の中の古い本などを一杯読んでいました。
その本の中の物を頭に描いたりしていました。
京都の町中なので、ごっちゃな歴史の中で暮らしていました。
最初は市村羽左衛門_(15代目)、2月堂で見ました。
その時の精一杯の美しさの世界を見ることが出来て、そして私の場合は年中お祭りでした。
高校で能楽部を作ろうと云うことになり、ハマりました。

高校卒業後、就職をしないでいまして、母方が京都で友禅の家だったので手伝ってほしいと云う事で、(挿し友禅)そこで仕事をするようになりました。
自分でイメージして色を塗る作業をしていましたが、後から考えると結果的にいい仕事をしていたと思いました。
仕事をしていて楽しかったです、文様、色、着物に対する知識が蓄えられました。
頭の中にある形を家に帰って夜中に人形を作っていました。
着物のブームが下火になってきて、人形の方に吸い込まれるような感じで、自然の流れで人形製作のほうに入って行きました。
能面を描くことが好きで描いていましたが、北沢如意先生が教えてくれるところがあるので行かないかと人形の同門の人から言われて、行ったらのめり込んでいきました。

能面師になったらとも言われた。
さまざまな演技に耐えられる顔、それが物凄く勉強になりました。
いろいろやって回り道をしているような感じだったが、一つの道に行く事の一つ一つだったと思う。
必要なもの全部がコツコツ頭の中に積み立てていったような気がします。
昭和39年代11回日本伝統工芸展に初出品、初入選だった。
改めて出品しだして、3回目に昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞。
平成14年、66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定。
認めていただいたことが嬉しかった。
京友禅の森口華弘先生が、「あんたなあ指定をうけたということは喜ぶ事と違う、あんたの持っている考えて居ることを次の時代へつなぎなさい、それは本当に難しい大変な事を預けられのだし、嬉しいとか有り難いとかいうてる場合ではない」といわれました。
すべてが今よりも、もっともっといいものであってほしいし、もっともっと形ではなく精神的に高いもの、写実ではなくて抽象的なもので何かが正確に相手に伝わるものがいいと思います。




























2017年3月22日水曜日

徳永 進(野の花診療所医師)     ・柔らかに死を見つめる

徳永 進(野の花診療所医師)・柔らかに死を見つめる
*NHKの平成29年度予算と事業計画についての放送のため、中途からの放送となる。(話の流れが判らず、まとめがいまいちか)
人間の命は根本的に光を求めるし、最終的には地に落つ、と云う事の両方持っているのが種だなあと、そうやって廻っているうちに、一つの花をつけて新しい種になって、そんなものかも知れないなあと。
ホスピスケアになると亡くなることを、受け入れることを、大事に云うみたいですが、生きたいと云われたときに光りの方に自分が向かって生きた、それがすごくいいんですよ。

家族は患者さんの死が近づいてきたときに、お父ちゃんだとすると、「お父ちゃん死んだらいけん」と、死を受容しないように思えるが人間の声として新鮮であれもいいんです。
自分では動かせない節理の前に、人間である私たちが口にする言葉は自由なんです。
その言葉さえ私たちは受容しなさいとか共感しなさいとか云い過ぎて、真実性を描いた、現実を見据えなかったと云うか、型を持って来たと云う気がします。
もっと言葉を自由に、相反する言葉を死を前にして出せるのではないかと云う気がします。

不思議な生命力が隠されていて、どんなに老衰したおばあちゃんでも、点滴量が少なくなるので、その日が近いといっても意外と少ない量で生命が続く場合があるとか逆とか、いろいろあるので、判らないと云うのがあります。
死と云うのが何時かと云うのが多くの家族から言われるが、結論はそればっかりは判らない。
判らないと云う言葉は意外と大事です。
判らないから最後まで点滴注射するか、酸素マスクして会話できなくするか、判らないけど会話するか、その辺の見極めが大事だと思いますが。
死は来たなと云う感じはします。
若い人で46歳、腹水がたまったりして末期を迎えて、その人の場合は飲むのも食べるのも禁止になっていますが、のどをこっくんとするのはおいしいんですね。
今まで飲んでいた好きなジュースだとかを飲まれていたが、鼻から管を入れて胃へ入れてそれを出す、1日に1500cc出るんですが、それがお腹から出ると楽になって又お茶とかコーヒーが飲める様になります。
苦痛みたいですが、コックンと飲めるとうれしいと云って、それをやっていた人で、味噌汁を飲みたいと云って、味噌汁を作って、うまい味噌汁で彼も汁を飲んで、うれしい光景です。

なんかしたいと云う事の殆どはありふれた日常の一こまで、死をテーマにしていない時は
おいしいとかうれしいとか云っているんですが、そんなに大事には思わなかったが、ああ云う事が宝になって光るんですね。
どうせ死ぬんだったら味噌汁一口飲みたいと、死と対等の価値になるんですね。
足を拭いて欲しい、背中も拭いて欲しいとかもそうですが、死と対等の価値を持つんですね。

病院にいるとスタッフはパターンが病院パターンになって味噌汁を飲むとか、仕事をしていた店に戻るとか、息子に今後の人生にアドバイスするとかと云うチャンスを失いやすくて、治療を優先して死をなるべく長く伸ばそうとして、無残な形になることがあるかもしれないが、本人が選べば意外と自由な形は取りうる。
前は余りにもそれが無くて家族を放り出してマッサージして、呼ばれて入ったら亡くなっていてお別れですと云われて、そういうのが多すぎてそれを止めようと云って、ホスピスなどを作ったわけです。
いろんなものが整い過ぎた社会は、良くなった部分があるが、それが過ぎるといろんなものを失います。
ある程度整わないことが面白くて、これからの社会は整わない物をちょっと求めてと云うか、それをどうやって取り戻してゆくかですね。

確立化する傾向にある社会のなかで、死はまだバラエティーに富んでいる。
急死、救急車で運ばれて治療を受けて回復するとか、老いて老いてようやく死が来たり、死のバラエティーが今もあって確立化がしにくい。
がんの末期のホスピスケアで、確立化されているかと云うと一人一人異なっていて、一つの網に死を閉じ込める事は出来ない。
思い通りに行かないものが一人一人の中にあり、身体の事情、心の事情、経済の事情、今までの人生の形だったりいろんな要素があり同じものがない。
出来事がいろいろ起きて出来事をおたがいに工夫する、工夫すると云うことが大事です、
決めつけない。

死を迎えるにはどれでもいいが、最後に生命体が終わるが、俺はいやだと避け切った人はいなくて、死ぬことを受け入れて行く。
そしてみごとに死を遂げる。
無抵抗と云うか、身をなにかに任せた姿、無抵抗の姿を誰もが持っていて、凄いなあと思います。
死には啓意を持っています。
どの死がいいと云うことはないです。
色んな事を後悔するが、言葉を掛ける、返ってきた言葉も嬉しいし、背中をさすってあげたことなど、そういうことは心に残ります。
自分の心が不安や悔いの中にあるのか、心の和解と云うか、ほんわかとしたものが残るのか殺伐としたものが残るのか、出来たら死を前にしたときにほんわかとしたものを思いたい。

皮膚が触れ合うことがあった、それも一つの和解にも成りうる。
言葉を交わしあえたことも嬉しい。
94歳のおばあさん、息子を呼んでほしいと云う事で、息子さんに遺言の話をしたんですかと云ったら、「死ぬ前にお前と握手したかった」と云ったそうです。
わだかまりはもちやすいが解けて行くのは、言葉か、肌の触れ合いなどなんかがあった方がいい。
そこでつながるものがあったらいいなと思います。
命が素晴らしいのは死があるからで、死がない命は気持ちが悪い、命が命である唯一の根拠は死があると云うことです。
死は宝物で生きて居ることを照らし返してくれているのは死で、死をさげすんだり、嫌ったりするものではない。

そばにいて欲しいと云う気持ちはあるので、時間を割いてあげることは良いと思います。
近づきすぎると迷惑だなあと察知したら、ちょっと距離を置くと云うことも大事です。
遠くで思うことも大事だし、口に物を運んだり排泄の世話も大事ですが、誰にでもして欲しいと云う事でもないので、考えてどこまで人に近づくかは考えないといけないと思う。
専門職の人に任せることが多くなったので、自分たちの出来ることをしてあげると味わい深いものがあるので、接触すると云う事は嬉しい。
命はどこかに生きて行くのではないか、根拠のない当てずっぽうの云い方だが、野のスミレ、雲、星、魚などなんかで生きて行くんじゃないと否定できないことなので、共に又あると思えた時はほっとします。

父が亡くなる前にこう言ったんです、「今日は死なんけど誰ぞそばにいてくれ」と云って、翌日の夜に亡くなって、大学の先生で豪放に生きた父でしたが、「そば」と云う言葉がキーワードだったんですね。
言葉が支えになっているが確かかもしれませんね。

























2017年3月21日火曜日

中谷加代子(高専生殺害事件被害者遺族)・“責める”ではなく“寄りそう”

中谷加代子(山口女子高専生殺害事件被害者遺族)・“責める”ではなく“寄りそう”
2006年山口県高等専門学校で当時20歳の女子学生が同級生の男子学生に殺害される事件が起きました。
事件後男子学生は自殺、10日後に遺体で発見されました。
中谷さんは事件の犠牲となった女子学生 あゆみさんの母親です。
5年前に仕事を辞め被害者の声を直接届けることで、犯罪を犯した人々の心を変えたいと云う思いで刑務所や少年院などの矯正施設に出向き、受刑者たちに事件を伝える活動を続けて居ます。

12回 130人の受刑者一人ひとりと向き合って、話をしています。
どんな怖い人なのかと怖いイメージで伺って行ったが、ほんとうに町中でも出会えるような普通の方でした。
罪をつぐなうためにいる訳ですが、罪を償うことと、幸せを感じて生きると云う事が同じ方向にあると思っているのか、あるいは反対の方向にあると思っているのかと云う事を最初に質問します。
最初私自身真反対だと思っていましたが、今は反対ではない同じ方向だと思っています。
2006年、当時20歳の娘のあゆみが学校で殺害される事件が起きました。
あゆみは生きていたら30歳になるんです。
ウエディングドレスを作りたいなあと云うのが私の夢でした。
そのあとの私の人生は抜け殻のような、生きる気力がなくなってしまいました。

それまでの生き方を変えないと生きていけないと云う、そういう事件経験だったと思います。
あゆみは家族思いで友だちも一杯いて、家に行ったり来たりしていました。
2006年8月下旬、朝いつもと同じようにあゆみを駅まで送って行きました。
夫とは同じ職場で、夕方自分の席に帰ってきたら夫からのメモがあり、あゆみが学校で倒れたから迎えに行って来ると云う内容でした。
夫に電話したら様子がまだ判らないとのことでした。
なかなか電話が通じなくて、何回目かに電話が通じたときには夫は何もいいませんでした。
問い詰めたらやっとあゆみが死んだんだと云う事でした。
あゆみの友だちから電話がかかってきて、TVを点けたら速報が出て居て、「中谷あゆみさん死亡」と云う文字が見えて、間違いだと思いました。

あゆみのはずは絶対ないとそれを早く確認したいと思いました。
最初ビニール袋に入っていて、白い布を刑事さんが取ったが、その瞬間まで絶対に違いと思ったが、あゆみがそこに眠っていて、顔の色が少し紫色で眠っていて、起こそうと思って一生懸命声を掛けたが、何べん呼んでもあゆみは目を覚まさなくて、ただただほっぺたを触って起こそうと思ったが起きなくて、自分が死んだ方がどれだけ楽だったのかと思いました。
誰が犯人かはわからないが男の子だと云われたが、クラスメートだったが、彼も犯罪に巻き込まれたのではないかと最初思ったんですが、警察からそれは違うといわれました。
強姦致死、自分の欲望のままに殺害したことについてはどう受けとめたのか?
私はなにも見て居ないし彼とも会ったことがないので何にも判りません。
会って聞いてみたいと思います。
憎しみの感情はありました、絶対許さないと。

10日後、自殺で発見され連絡を貰ってから彼から何にも聞けないと云う事が判って、ほんとうに力が抜けました。
ほんとうのことを教えてほしかった、生きて償って欲しいと思いました、それがあゆみへの唯一の供養になると思っていましたが、その願いもかなわなくなりました。
彼は謝罪、反省、責任をとることから逃げたんだと思います。
なんで、なんでと云う事からずーっと10年以上今も停まっているんです。
どうしたらこの事件が起きないですんだんだろうかと、考えるようになりました。
加害者の彼が自殺してしまってこの世の中にいなくなったことが一つあるかもしれないが、あゆみだったらどうするかとそれを考えたのが大きいですかね。
あゆみだったら憎しみ続けないだろうと、あゆみと相談しながら長い時間をかけてそうなったんだろうと思います。

たくさんの方、友達、先生、私の同僚、近所の方、ほかの事件の被害者の方、知らない方から励ましの言葉、電話、手紙をいただいて、思って下さる気持が凄く伝わってきてそのお蔭で話ができる状態になれる迄になったのかなと思います。
1年半後に加害者の両親が謝罪に家に来ました。
あゆみのお参りに来たいと家に来ましたが、ひときわ小さく見えました。
かわいそうと云うか、情けない形に見えました。
加害者の両親も家族も被害者かもしれないとその時思いました。
加害者側が孤立してしまったら、それは悲しいと云うか、そこで又ふつふつと憎しみが募って行くようなことにも成りかねない。
地元の市役所を早期退職、役に立つことがあればやってみようかなあと云うような気持でした。

仕事を辞めると言ったときに、誰かに体験を聞いていく中で伝えることが仕事の中にあるかと主人とも話したが、お前の話を誰が聞くのかと言われたが、刑務所の受刑者に話を聞いてもらう事があるかもしれないとぼんやり思いました。
加害者の彼がもっと自分の人生の事、廻りの人のことを真剣に大切に思っていてくれたら事件は起こらなかったんだろうと思います。
加害者が変わってくれればと言う思いで、受刑者に働き掛けることがあるのかもしれないなと思いました。
再犯率、受刑者の50%の再犯率があり、そこで犯罪が繰り返される。
再犯を少なくしたい、悲しい思いをする人たちを少なくしたいと思って、そこに糸口があるような気がしたんです。
刑務所のプログラムで犯罪被害者の視点を取り入れた教育と云う事で、更生プログラムがあり、その一コマに私が行かせてもらう事になりました。

最初から泣いて待っている方もいまして、全然想像できませんでした。
自分は生きる権利がないんではないのかと云う思いを持っていました。
真剣に考えている人たちが前にいて驚きました。
90分の前半で自分のところに起きた事件の話をして、10人ぐらいの人と一人づつやり取りしました。
受刑者のなかには、青い空を見ても青いと思って見てはいけないと思っていましたと言われた方がいました。
自分が幸せを感じても幸せに感じてはいけない、幸せに蓋をしている。
押し殺して下を向いて生きている、その人からはそう感じました。
そうしているとつぶれてしまうか、爆発してしまうのではないかと思いました。
葛藤の中で自己否定を続けないでほしい、喜びは認めてあげて欲しいと思いました。
幸せを感じる人生、犯してしまった罪を、経験を無駄にしない人生を歩んでほしいと思いました。

自分が幸せを感じて主体的な人生を歩んで、初めて被害者の事も考えてもらえるのではないかと、罪を償う事と幸せを感じる事は同じ方向にあると私は思っています。
自分の幸せを棚にあげておいて人の幸せだけを願うなんて、そんなに天使ではないです。
人間って、自分がある程度衣食住足りてようやく周りが見えて来るのではないかと思う。
加害者と受刑者とをみて、生きることを真剣に考えてほいしいと思ったのは重なる部分があると思います。
今まで幸せを感じてはいけないと思った受刑者が、前向いて生きていいんだと云うことに気づいて貰えたんじゃないかとそういう瞬間があります。
そうすると私の方がエネルギーを貰う様な、行かせてもらってよかったと思う瞬間があります。
加害者の彼がもし生きていたら事件に向き合って欲しいと思いますし、そのあとは自分の人生を主体的に生きて欲しいと思います。

生きることに前向きに生きて欲しい、生きて幸せを感じて最後まできっちり生きて欲しいと思います。
被害者からみると加害者が幸せを感じると云う事は、理不尽だと思いますが、本当の償いを求めるのであれば加害者が幸せを感じて主体的に生きて、初めてそういう人生の中でこそ本物の謝罪、反省に至れるのではないかと思います。
幸せと償いは同じ方向ではないですかねと、その被害者の人にも申し訳ないけど言いたいです。
被害者から加害者に声を届ける形が有効なんだと理解してもらって、活動が広がって行って、加害者との対話が成立して再犯が減ってゆく、悲しむ人が減るという形になればいいなと思います。




































































2017年3月20日月曜日

河合雪之丞(俳優)         ・新しい名前で舞台に臨む

河合雪之丞(俳優)  ・新しい名前で舞台に臨む
1970年東京生まれ、1988年に国立劇場歌舞伎俳優研修を終了後、3代目市川猿之助さん(現在の市川猿翁さん)に入門し、2代目市川春猿を襲名します。
スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の弟橘媛などの人気女形として活躍しました。
ところが今年一月歌舞伎の世界を離れ劇団新派に入団し、河合雪之丞と改名しました。
新たな出発をした河合雪之丞さんに伺いました。

市川春猿を30年やってきたので、名前を呼ばれてもぱっと振り向けない様な感じです。
雪之丞と云う名前は、師匠の市川猿翁が市川團子から猿之助になる前に名乗ろうとしていた名前でした。
師匠からこの名前をあげますと、師匠から言われて頂きました。
河合武雄さんがいましたが、その方の名字を頂戴しました。
「華岡青洲の妻」の妻「加恵」の役を受ける。
大変でしたがやり甲斐のある役でした。
紀州弁で大変でした。(現代の和歌山弁とはまた違う昔の言葉で大変でした)
20代なかばから50代まで演じなくてはいけなくて、表現するのに苦労しました。
新しい麻酔薬を研究した華岡青洲の麻酔のために目が見えなくなってしまうと云う役。
目が見えない中の生活感みたいなものも出さなければいけないので難しい。

喜多村緑郎さん、大先輩の女優水谷八重子さん波乃久里子さんが居てくれていろいろ教えてもらったので心強かったです。
新派に移籍していただく時も八重子さんも久里子さんにも、ほんとうに心から迎えていただきましてありがたかったです。
2月が一転して喜劇「江戸みやげ狐狸狐狸話」を行います。
加恵」役とはまったく違った役をやらせていただいて、笑っていただける芝居も大好きです。

3歳のころかTVの舞台中継があると、その前に座って動かない子だったらしいです。
何か琴線に触れる何かがあったのではないかと思います。
歌舞伎に興味を持って5歳のときに初めて、歌舞伎座に連れて行ってもらいました。
小学校のころに親戚のかたが踊りのお師匠をやっていたので踊りもちょっと習いました。
理数系は苦手でした。
師匠の三代目猿之助の芝居が好きで見て居たのですが、見るよりもやる側になりたいと思ったのが中学2年の時でした。
中学卒業後、国立劇場の歌舞伎俳優の9期生の募集時期だったので受けようと思ったが、
親から反対されて、高校に行く事にして都立高校に受かったが1カ月で退学して研修養成所を受けて、2年間研修をしました。
日本舞踊も2流派、鳴り物、お琴、立ち回りの稽古、お茶、お化粧の授業、体操、発音発生の授業もあり、豊富な授業内容でした。
10人で受けて居ました。

三代目市川猿之助のところに入りたいと思っていたので、入門しました。
名前は「春猿」でいいねと言われて、それを受けました。
師匠は言葉少ない方で、日常会話はほとんどしませんでした。
見て覚えろと云う事と、愛情のある方で人間的にも大きな方でした。
師匠は古典歌舞伎とスーパー歌舞伎は両輪のように歌舞伎を支えていくんだよとおっしゃっていました。
軽井沢に師匠の別荘があり、100畳の稽古場があり、そこで1カ月間合宿をします。
一緒に寝泊まりして、一門は家族的な感じでした。
背も小さかったし細かったので女形が向いていると廻りからも言われたし、女形を選ぶ事になりました。
故人のリサイタルに「明治一代女」をやったのをきっかけに、やりませんかと言われて新派の作品をやらせていただき、何年か新派もやらせていただき、徐々に新派の魅力を掘り下げたいと思っていました。

二足のわらじをはくのも難しいので決断をして移籍する事に決めました。
師匠に言いに行ったらあんた合っているよと言われました。
「雪之丞」と言う名前をあげるからと云って背中を押してもらいました。
女優さんと一緒に女形をやる事は違和感はないです。
歌舞伎の女形と新派の女形は演ずる事では変わらないと思います。
お客様の目線に立って、芝居を作って演じて行くことは大事な事だと思っていてこれからどんどんやっていかなければいけないと思います。
八重子さんとの男役もやりましたので、立ち役をやる機会もあると思います。
「黒蜥蜴」を6月にやる予定になっています。(江戸川乱歩先生の代表作)
脚本を新しく書き下ろします。
ビジュアル的にもお客さんがあっと驚くものに仕上がる気がしていて、試行錯誤していろいろ考えています。