2017年11月18日土曜日

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー
國森さんは人が亡くなる最後の瞬間まで、家族や親しい人達が見守り看病する看取りの様子をカメラに納め、写真の絵本として出版してきました。
これまでに取材した看取りの現場は国内の100以上に昇ります。
國森さんが看取りを取材するようになったのは、海外で多くの人の命が無残に奪われる冷たい死を目の当たりにしたからです。
近しい人々に看取られる温かい死を集めた写真絵本に國森さんはどんな思いを託したのでしょうか。

きっかけは戦争取材がきっかけでした。
冷たい死を戦争や紛争地で知って、自分はそんな冷たい死は無くしたいと思いました。
これからは天寿全うできる温かい死を知って伝えて共有して行けたらなあと思いました。
2000年に地元の新聞社記者になり、2003年にイラク戦争を取材、新聞社を辞めてフリーランスになる。
子供のころからいい加減な性格でしたが、戦争だけはやってはいけないと思ってきました。
イラク戦争で、必ず子供たちが巻き添えになってっ殺されてしまう、そんな人災を抑制するためには現場での報道が不可欠だと思って、新聞社を辞めてフリーランスになりました。
10年で15カ国近くを取材。
イラク、ソマリア、スーダン等の紛争地、ケニア、ウガンダ、カンボジア等のスラム街、孤児の村とか、生活困窮地を回っていました。
特に子供たちが亡くなって行く姿に衝撃受けました。(銃撃、爆撃、病院が破壊され治療が受けられずに亡くなって行く人たち、子供達)
イラクでは車に仕掛けられた爆弾があって、最初は小さな爆発音が鳴って小さな子の鳴き声が聞こえて、皆が助けようと思って車に駆け寄ると、大きい爆発がドーンとして、何人も亡くなり、女の子もいて亡くなってしまった。
写真を撮るかどうか躊躇しているときに、お前がシャッターを押さなくて誰がこれを伝えてくれるのか、写真を撮って世界中の人に伝えてこの戦争を止めてほしいと言われました。
その言葉がなかったら写真は取れてなかったと思うし、報道して世界に伝えることが出来なかったと思う。
その言葉は自分の胸に深く突き刺さっています。

展示会をしたときに、かわいそうだけどどこか遠くで起きた出来事であって、自分とはかかわりがないとか、命がけであなたがいっても日本の社会が変わるとは思えないとか、行くのは自己責任で国や世間に迷惑をかけるなよ、と言う様な事を言われることもありました。
共感してくれる人もいれば距離作って避けて行く人もいました。
身近な人の命を大事に思うことが出来て、それが出来て初めて遠い立場の人の命も思いやることが初めてできるようになるのではないかと考えるようになりました。
温かい死、悲しくも幸せな死を先ず自分が知って、取材したいと思うようになりました。
新聞記事で温かい死を書いてある記事があり、島根県の病院の無い小さな島に看取りの家がある、そこには幸せな死を寄り添って手伝っているヘルパーさんの話が載っていたので、取材に行きました。
2008年から取材を開始しました、生まれ育ってきたお爺さんさんお婆さんがいて、年老いたらそのまま島の中で亡くなって行くのが自然の流れだったが、最近最後は病院でと言うようなことになるが、死ぬ時だけ島を去らねばならないのが辛いと泣いている人たちがいて、何とかしたいと思ったヘルパーさんがその島で最後までいられるように看取りの家を建てたと言うことです。

今年『いのちつぐ「みとりびと」』と言うタイトルの写真絵本12巻を完成させ出版。
看取られてゆく本人、見送って行く家族、医者等の想い、あとがきには自分の思いなどを含めてつづらさせてもらいました。
2008年から本格的に看取りの取材を始めました。
写真と簡単な説明。
100以上の看取りを取材、れんちゃん(当時小学校5年生の女の子)と一緒に暮らしていたひいお婆さん、たけこさんの事は話は第1巻にあり心に深く残っています。
れんちゃんが大きくなってゆくに従っておばあちゃんは足腰が弱くなり、認知症が重くなり、連ちゃんの名前も忘れて行く。
おばあちゃんが亡くなって冷たくなってゆく身体を一杯触って「大事にしてくれてありがとう」と言って手をしっかり握って、おばあちゃんの土色の手とれんちゃんの血が通っているピンク色の手を見て命のバトンが手渡されていると感じました。

三重県との県境にちかい山奥の君ヶ畑という集落、なみおばあちゃんは認知症も深まっているが、長年一人暮らしをしておる。
生まれ育ちも、結婚、育児、家事、旦那さんの介護、看取った人生、なみおばあちゃんの所には息子さん娘さんがいて、或る時急に息子さんが立ちあがっていった時には息が止まっていてたが、娘さんの呼びかけにもう一度息をし始め、手を握って「もういいよ」(もうゆっくり眠っていいよ)という娘さんの言葉に安心するかのように、おばあちゃんは完全に息を引きとりました。
おばあちゃんの顔を見ると目から涙がこぼれていましたが、それを見て「これでよかったんやね、ばあちゃん」と娘さんはぼろぼろ涙を流していました、涙の中にもほほえみのようなものが伺えました。
亡くなっていっても心の中に生き続ける、悲しみの中にも或る安心感が生まれて行くように感じました。

最初は看取り、死の現場は、悲壮感の漂う苦しい悲しい辛い現場と身構えていたが実際にその場にいると、エネルギーを感じてしまいます。
冷たいだけの死とは違って、温かさと希望も感じる様なものがありました。
内側にたまっているエネルギーを見て行く必要があるのではないかと段々思うようになりました。
私たちは生まれてくるから死ぬ、それを肌で知ってほしいと思っていました。
『いのちつぐ「みとりびと」』の絵本を学校とか、自治体などにも取り上げられたりしていて、両親お爺さんお婆さんと一緒に読んでほしいと思っています。
死、生、命のバトンというものを五感で感じてほしいと思いました。
小さいころから知ってほしいと思ったので写真絵本にしました。
生老老病死は避けては通れないし、逃げてはいけない、逃げられない。
生きていくうえで死を意識して、家族も、自分もいつかそういう日が来る、だからこそ今日と言う日をどうやってい生きるのかを強く考えなければいけないと思っています。

自宅で最期を迎える人は1割しかいない。
れんちゃんが住んでいる滋賀県東近江、永源寺地域では自宅で亡くなる方が5割前後です。
都市部では人のつながりが希薄、高齢者人口が増えて行くが、どのように温かい看取りを実現させているのか、取材しないといけないと思って共暮らしに注目しました。
ガン、認知症が深まったりして、身寄りが亡くなったり、家族では介護出来亡くなった人たちが一つ屋根の下で最後まで暮らすホームホスピス(「ゆずりは」)が小平市に有って、2014年春から通わせてもらいました。
最初はぎくしゃくしていたそうですが、一緒に暮らすうちに、同時代を生き抜いてきた苦労を分かち合って、身体、心の苦痛を分けあっていたわるようになります。
皆で看取る温かい旅立ちがあります。
地域によって事情は違うとは思うが、地域地域の人のつながりを築いていけば、その中で温かく満たされてゆく、そういった営みが出来ると思うようになりました。

豊かな看取りが出来る社会とは、大前提は戦争があってはならないし遠ざけなければいけない、社会的弱者に優しい社会が大事だと思います。
命のバトンリレー、あなたが生まれてくるのには両親、祖父母・・・、100万人存在する。
自分の命は何百万人の命もかかわっていることを意識することがないと、他の人、遠い国の人のことを思いやれないのではないか。
戦争、貧困に関心を持ってもらうことが必要だと考えています。
写真を撮る人、映っている人の共同作業で、それを観る人、それぞれどう共鳴するかは千差万別で、自分の人生経験と照らし合わせながら一枚の看取りの写真を観ると言うことで、看取りの写真は自分ごととして、心を膨らませていって捉えていって欲しい。
戦争で亡くなって行く子供たちの事を思い浮かべながら日本のお爺さんお婆さんにカメラを向けて来ました、世界中の子どもたちがお爺さんお婆さんの様に、命を全うして命のバトンを繋いでいけるような世の中になればいいなあと思って撮っています。










2017年11月16日木曜日

飯島春光(篠ノ井西中学校 社会科教諭)  ・教室に残る満蒙開拓の“現在”

飯島春光(長野市立篠ノ井西中学校 社会科教諭)・教室に残る満蒙開拓の“現在”
飯島さん64歳、1930年代から終戦までの間におよそ27万人の日本人が国の政策満蒙開拓のために旧満州、中国東北部へ渡りました。
終戦直後の混乱の中8万人もの命が失われ、家族と離れ離れになった多くの子供たちが中国に取り残されました。
開拓団に全国で最も多い3万3000人を送り出した長野県には、戦後70年以上たった今も中国から帰って来る人がいます。
長野県でそうした中国帰国者の孫、曾孫を教えてきた飯島さんは家族の歴史をしっかり学び堂々と生きていって欲しいという思いを胸に日々教壇に立っています。

中国帰国者の方々が大勢住む団地があり曾孫、10数人が通学しています。
私が勤務した2000年以来、10数年変化なく毎年のように、多くは黒竜江省からの転入生がいます。
旧満州では、遼寧省、吉林省、黒竜江省が有ります。
今でも中国から長野県に帰ってきています。
県の数字では300人近い中国帰国者がいて、2世、3世までで4000人弱です。
今現場の学校に来ている人たちは4世で、赤ん坊の5世を含めると少なくとも1万人いるのではないかと思います。
彼らは日本で生まれて、普通に日本語を話せますが、家に帰ると日本語の不自由な親、祖父母と一緒に暮らしています。
おばあさんが病気のため通訳のために休んだと言うようなこともあります。
言葉の問題、文化、経済が日本とは違うので、さまざまな困難をしいている側面があります。
彼らは日本語は話せないが日本人です。

今から17年前、初めて中国から帰国した子供たちに接して、言葉が判らなくて、クラスメートから聞くに堪えないようなことを言われていたことが多かった。
中には殴り合いのケンカになることもありました。
中国では日本人と言われ、日本に帰ってきたら中国人と言われて、一体自分はどこの国の人間なんだと、振り絞るような叫びで訴えた子供もいました。
中国から帰って来た人々に対して受け入れずに、差別する心があったと思います。
心細い思いでいる転校生にたいして、冷たい態度を取っていた。
転校生が中国から来た子たちと言うことです。
歴史への無知があったと思います。
彼らがどういう空気を吸って、どういうところで生きて来たんだろうと、それを知らないと授業にならないと思って、2002年に中国黒竜江省に行ってきました。
いろいろ交流してきました。
写真を見せて話をしていたら、彼らとの距離がぐっと縮まったと思いました。
社会科新聞に自分の祖父母の事を書いてもらいました。

或る14歳の女性は混乱の中はぐれて、4人の女性たちと逃げたが村人たちに囲まれて、手に鎌などをもった人たちがやってしまえと言って取り囲んだが、村の老人が説得して4人を助け、その後3人は中国人の嫁に貰われていった。
彼女は14歳なので、おじいさんと共に過ごして、結局15歳でその家の嫁さんになりました。
翌年子供が生まれてその子が3歳になった時に、日本のお母さんと連絡が取れて、帰って来いと言われるが、置いて帰る訳にはいかず、11人の子供を産んで現地で生きてきたと言う方です。
或る人は推定2歳で衰弱しきっているところを中国人夫婦に育てられて、小学校高学年で違う村の子と一緒に学ぶようになり、子供達から中国人の生活が苦しいのはお前の親のせいだと言われたそうで、養父母の事を思ってじっと耐えていたそうです。
中国の学校の先生はこの子のせいではないと守ってくれたそうです。
又収容所に入って兄、弟1人が死んでしまって母と弟と3人になってしまって、がりがりにやせ細ってしまって死を待つばかりだった、当時15歳でここで死ぬと言ったが、中国人が入って来て助けるので家に来なさいと何度も言われて中国の家に行き、段々体が回復してゆき、翌年昭和21年に母と弟は日本に帰ることになり、その方に3カ月経ったら迎えに来るから残りなさいと言われた。
助けてくれた御礼としてお嫁になりなさいと言うことだったようで、中国でずーっと生きて来たと言う人もいました。

中国から帰った生徒たちは、彼ら自身も祖父母が中国で助けられたことはわかっていても、詳しい状況はよくわかっていないので、極限状態の中どのように失われたのか、助けられたのか、それが自分にどのように繋がっているのか、歴史をきちんと知ってほしいと思いました。
彼らは必ずルーツと直面する訳ですが、祖父母への感謝を胸に収めながら堂々と生きていってほしい。
自分の一族の歴史を知ってお互いを尊重し合える大人になってほしいと思います。
本格的に或る方の事を授業で扱ったのはその方の孫がいるクラスだった。
おじいさんは開拓団でソ連が攻めてくるなかで集団自決をすることになり、当時14歳だった彼は俺は生きて帰りたいと言うことで、回りは理解して日本に帰れたらこういった状況を説明して欲しいと言うことで、周りの人はお金も差し出してくれました。
そのことを授業で話しました。(涙ながら話始める)
クラス全員が泣きました。
「先生あれはいい授業でしたね」と言ってくれました。
他のクラスでも誤解偏見がとれて差別が無くなっていきました。
ある女性の生徒が塾で隣の学校の生徒と話をしたときに、そんなのテストにでないよと言ったそうで、彼女はテストにいい点を取るために授業をやっているのではなく、人間として絶対に忘れてはいけない事柄、知識を詰め込むことに意識を集中する事だと云っています、でも点数とは何かと云うことです。
生身の歴史を大事にしていきたいと思っています。
時節を通して学び考える、そこから得て生きる力となるものが本当の学力だと思っています。

私の村から、(東索林)埴科郷(はにしなごう)、という「大地の子」のモデルになった開拓団に6家族が行っている。
我が家の近くにも合計すると60戸程の中で15人の方が旧満州で亡くなっています。
教科書に載っている満蒙開拓は知っていたが、身近にいる人たちがそういった事実が有ったことは全く知りませんでした。
親も語りませんでした。(親から子へ歴史が語り継がれてこなかった)
学校の授業でも具体的な事例は扱ってもらえなかった。
17年前赴任した時に中国から沢山子供たちが来て、これはしっかり勉強しないといけないと思いました。
事故で5年間休むことになり、職場復帰して3年たって篠ノ井西中学校に赴任しました。
母親も脳梗塞でそちらにも行かなくてはいけなくて、遅れを取り戻すことが精一杯で詳しい歴史を教えることが出来なかった。
教師としての悔しさを強く感じていました。

彼ら自身がどういう歴史を負っているのか、周りの子にも教えてあげないとだめだと思いました。
満蒙開拓の詳しい歴史を教師も知らなかった。
自分のルーツを知らない、ルーツを語るすべがない、自分はこういうわけでここにいるんだと言うことが皆に言えない、そういった子どもたちにその子のよって立つ歴史をきちんと教えることが一番大事だと思いました。
中国人に命を助けられた事をさらさらといえばいいと言っています、そして堂々と生きなさいと言っています。
今年度末に退職することが決まっています。
6月に例年行われる学習の一環として、「自分が当時の子供なら君は満州にいくであろうか」と言うテーマの授業をしているが、今までは私一人でやって来ましたが、7クラスそれぞれ担任の先生が授業しました。

長野県の平和教育は満蒙開拓の問題を抜きに語れないと思っています。
長野県の全ての市町村から開拓団ということで満州に渡っていった。
現在でいう中学2年生全てに教師が満蒙開拓青少年義勇軍への志願を呼び掛けていったという歴史がある訳です。
これからも学習への協力はしたいと思っています。
満蒙開拓の学習をするということは戦争の時代の学習をするということで、戦争の様々な側面にも目が行きます。
沖縄戦、特攻隊、原爆、長野空襲、松代大本営、アウシュビッツ、インパール作戦など多岐にわたって調べました。
人を愛する人間として、どう生きることが本当に人間らしい生き方なのかと言うことを、自分の頭で考えて行動できる人になってほしいと思って授業をしています。
開拓団の入った土地の多くは中国人が耕していた土地で、自分たちの土地を奪った侵略者だと言うことで、それにたいする反感が襲撃の背景にあったと思います。

一方、命を助けられた人もいて、国と国の関係ではなく人と人の関係の中で一人の人間としてお互いを大切にしながら生きていきたいと思います。
満蒙開拓の授業の発展として、自分の家でも家族の戦争体験を聞こうね、と呼びかけています。
事実を自分の目でしっかり見つめて学んでほしい、自分の頭で考えて行動できる大人になってほしいと思います。
どういう未来を作っていったらいいのか、そういうことを考えられる子供に成っていってほしいと思います。








2017年11月15日水曜日

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を
1948年昭和23年栃木県生まれ、1974年東京教育大学大学院芸術科を卒業、28歳のときに都立高校の美術の教師となり31年間現場で教えました。
2007年定年の1年前に退職し、ある程度自分の人生を生きたら、どこかアジアの国の子供たちの支援をしようと言う以前から抱いていた思いを実行することにしました。
笠原さんが美術スクールを建てる国探しをする中で、選んだのがカンボジアでした。
カンボジアは1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に、社会制度が徹底的に破壊され、その後学校教育は復活したものの教育できる人材が育っていない状態でした。
笠原さんはさまざまな困難に直面しながらも、2008年12月、アンコールワットのある町、シェムリアップに小さな美術スクールを立ち上げました。
現在350人が学んでいます。
美術スクールの開校10周年を記念して、10月中旬の1週間東京銀座の画廊で絵画展が開かれました。
絵画展のために6人のカンボジアの青年画家をつれて一時帰国した笠原さんに伺いました。

絵画展は大変多くの日本人の方が来て盛況でした。
約200点持ってきました、年齢は4歳から30歳までです。
カンボジアに2007年に来ましたが、活動を始めてから日本の人に見せたらどうかと言う話がありギャラリーの方が無料で貸してくれて、絵を売りまして彼らの生活に活かせるようにと思って作品展をしています。
6人の方には絵の具工場で絵具の作られ方とか、版画の勉強などもして貰っています。
彼らは飛行機、電車に乗るのも初めてです。

7歳で母を亡くして、7歳で人の人生に終わりがあることを感じました。
小学校4年生の時に、桜の写生会で桜の老木が根を張って根から若葉を出して花が咲いて、生きているんだなと実感して、絵を描くのは面白いと思って絵が好きになりました。
終わりのある人生をどう生きたら自分が納得できるかと考えて、美術を選びました。
人生の最後はちょっと人の役に立つことをしようと漠然と考えました。
ゴーギャンのタイトルについても考えさせられました。
「我々は何処から来たか、我々は何であるか、我々は何処へ行くのか」
大学院卒業後、フリーの画家として作品を描いていましたが、その後28歳で教師になり都立高校4校経験して、都立新宿高校では11年間勤めました。
赴任した時には3人の女性教師しかいませんでした。(女性の生徒は1/3でした)
新入生にたいする案内書、ゲーテの「生き生きと生きよ」新入生にたいする新宿高校の伝統から考えられた贈る言葉だと思います。
31年間教えて定年1年前に退職しました。
段々教師も締め付けられるようになって来て、追い詰められたような感じがして、資金も出来てきたのでカンボジアで自分の新しい生き方を試してみようと思いました。

ネパールを対象にしようと思ったが駄目で、インドはきついと思って、カンボジアの方と東京で知りあって、その方のいった、「ポルポト政権時代は何処からも何の助けもなく真っ黒な時代」と答えてそれが印象的でした。
2003年に初めてカンボジアに行きました。
2005年に土地を買って、2007年に学校建設を始めて2008年に開校しました。
電気、水道、ガスもない、すごく驚きました。
1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に社会制度が徹底的に破壊されました。
子供達は10年前はゴミ拾いをしていましたが、今は減ってきています。
貧富の差が激しい感じはします。
社会保障制度が全くないので、家族がお互いの収入を持ちあって何とか食べていく状況に有ります。

20年間貯金をして退職金を投入して、自己資金で学校を建てて、完全無料の学校を目指して始めました。
土地の登記台帳がちゃんとしていない、購入した土地の道に関する政府案との対立で訴えられて5カ月工事が中断しました。
住民案を拡張するということで調整が付きました。
カンボジアでは外国人は土地を買えないので、名前を借りますが、このままだと危ないので名義変更した方がいいと言われて、お願いしたがなかなかOKして貰えず大変でした。
悪いことをしに来たのではないのに、どうしてこういう目に会うのか、考えさせられた時がありました。
色々なことが同時進行して、解決する見通しが立たなくて、髪の毛が抜けて禿になり、胃を痛めて体力を落としてデング熱にもなり、初めてカンボジアで入院しました。

最初は1人男の子から始めました。
日本語学校だと思ったらしい。
兄さん、友達が来て、絵の学校だと言うことで絵を描きだしてそれがスタートでした。
最初何を描いていいかわからない、経験がない、絵を見たことがない子がほとんどです。
或る学校に教えに行ったときに、90人いるうち絵の具をもった子は2人で、親の出稼ぎ先のタイで絵の具を使ったと言うことだった。
生徒は一時期は400人を越えましたが、今は350人位です。
日本語の教室も行っています、貧しくて月謝(10ドル)を払えないので学ぶ事もできない。
このスクールでは完全無料でやっています。
2013年までは私の完全な個人資金でやって来たのですが、子供たちの作品を見てくれた方々、大学の後輩が活動支援システムを作ってくれて、会員制サポートクラブを作ってくれてすこし資金援助をして下さってもらっています。
ある企業の方がインターネットのウエブサイトに資金援助のサイトを作って下さって、送ってくださっています。(100%だった個人運営資金が43%になりました。)

画材は日本から1トンの画材を送ってそれを使っていましたが、カンボジアでも外国産ですが買えるようになって、購入しています。
子供たちの作品展を日本でやった時に、日本の絵の具メーカーの社長さんが見て素晴らしいと言って下さって、絵の具を寄付してくださっています。
展示販売活動、坂田優子さん(小さな美術スクール・アートコーディネーターとして制作、広報等を担当。) 事業組織にした方がいいと言うことで販売活動しています。
大きくなった子供達が出張授業にいってやっています。
日本にいた時は豊かさに疑問をもたなかったが、色んなものがたりていない国での生活でありながらも、人間としての一番基本の大事なものを忘れないでいると思っています。
子供達は家の手伝いをしないと成り立たない。
喜捨精神、年老いた老人、地雷で手を無くした人たちが物乞いするが、カンボジア人が喜捨していますね。
自分も困っているが貧しい人が貧しい人を支えていると言う感じはします。
子供たちの目の輝きには感動します。(内面からの力)
後継者、展覧会に来た人たちの何人かは継いでくれると思っています。
こういった形になってきたのも、通訳の青年チウ ヒーア(2006年度日本語スピーチコンテスト優勝。現在、小さな美術スクール通訳及び日本語教師の傍ら美術制作にも励んでいる。)がずーっとやってくれたおかげ、坂田優子さん、多くの方の善意で色々なことが出来るようになってきました。







2017年11月14日火曜日

森裕美子(理科ハウス館長)           ・子どもたちに科学の夢を

森裕美子(理科ハウス館長)       ・子どもたちに科学の夢を
神戸大学を卒業して中学校の数学の先生をしていましたが、結婚を機に退職して東京に移り住みました。
戦前の高名な物理学者、石原 純博士を祖父に持つ森さんは,祖父の著作「子供の実験室」を読んで感銘しました。
森さんは子供達に遊びを通して科学の面白さを知ってもらおうと、シャボン玉やあぶり出し等の作り方、その遊び方を書いたミニコミ誌を作り近所に配りました。
このミニコミ誌は評判になってインターネットに掲載され世界にまで広がりました。
この体験から森さんは子供たちの身近にある科学館をコンセプトに、平成20年自宅近くに建坪30坪の2階建ての科学館を作りました。
館内には子供だけでなく、大人でも楽しめる企画が所狭しと展示されています。
これまでの入場者数はおよそ3万人、3年前にはノーベル賞を受賞された小柴 昌俊さんの科学教育賞も受賞されました。

「蟻地獄釣り」がある、棒に糸を付けたものを蟻地獄に垂らす。
蛇の卵が置いてある、鶏の卵の半分よりちょっと大きめ。
さまざまなものが展示されている。
40~50位展示されていますが、全部見るには一日では足りないと思います。
本は2000冊以上あると思います。(それ以外に貸出がある。)
生物、物理、化学、地学、数学など色んな分野があるので自分の好みに合わせて楽しむように作ってあります。
2階への手すりにDNAが展示されている。
屋上は天体観測が出来るようになっている、年に1~2回望遠鏡を取り出して皆さんと一緒に星を眺めています。
トイレのなかも展示に使っています。

20年以上前に子供と一緒に科学遊びを楽しんでいました。
子供たちが大きくなってしまって、近所のお子さんに科学遊びを紹介しているうちに、こういう場所があったらと思って作りました。
「なるほどの森」平成6年発行の第二号。
自分の体験談を友達に配ったりしていましたが理科の先生の目にとまり、広がっていって、やめられなくなりました。
シャボン玉遊び、インターネットにホームページを知り合いが立ち上げてくれて、全国誰もが読めるようになりました。
英語になったり、フランス語にもなりました。
兄がアメリカにいたので訳してくれました。
あまりお金がかからなくて科学実験が出来ると言うものを、海外の学校で紹介した大学の先生がいて、もっと紹介したいと言うことで「なるほどの森」が英語になっていればいいねと言うことになり、兄がやってくれました。


祖父が書いた「子供の実験室」という本があり実験を取り混ぜながら子供達が実験してゆく様子、どうしてそうなるかと言うのを物語で書いていて、それを読んで余りに面白かったので是非子供達にも読ませたいと思いました。
自分なりの科学遊びを紹介する方法としてミニコミ誌を書こうと思いました。
「子供の実験室」は昭和3年発行のものでした。
祖父はスキャンダルの物理学者として有名になった一面もありますが、石原 純像は本当とは違っていると言う思いがあり、正しい石原 純像を伝えたいと思いまして、ちゃんとした資料を公開して石原 純像を伝えていこうとの思いもありました。
祖父は理論物理学者で、アインシュタイン博士が日本に来たときに通訳などもしました。
私は大阪で4年数学の教師をしていて結婚後東京に来ました。

「なるほどの森」が知られるようになりました。
出版社の方も興味をもつようになり、教科書にも載りました。
国の全国にある科学館を結んでいくような事業にも参加するようになりました。
地域科学館連携支援事業、学校とのつながりを持つようにということで、文部科学省が支援する為の助成金を出すので、その事業の選考委員に成るようにとの声がかかりました。(6人のうちの1人)
6年間やっているうちに、何に困っているかを見てきて、自分だったらどういった科学館をやりたいとの思いがつもっていって、身近な科学館にしようと思い到りました。
展示してあるものの意味が判らないものがあり、これを解消したいと思って、そばに聞ける人がいればいいと思いました。
この二つを解消するためには、小さければ出来るのではないかと思いました。
この科学館では二人で説明などをしています。

サイエンスカフェ、実験ショー等もやっています。
世界中を回っている写真家に月について講演をして貰ったりもしています。
色々講演をして貰っています。
サイエンスカフェでは来館者の人たちが聞きたい事に合せて、講演依頼しています。
実験ショーでは実験の前に結果を予想してもらって楽しめるようにしています。
入館料は大人100円、子供は無料です、ショップで色々な物を売って、オリジナルTシャツをインターネットで販売しています。
その収益で運営にも使っていますが、まだ足りない状況です。
義父が残してくれたものがあり、それを使わしてもらっています。
森一郎 「試験に出る英単語」を出版していました。(元日比谷高校の英語の教師)
ロングセラーでこの印税を運営費に当てています。
21世紀の子供たちに、自分が出来ることをやっていけたらいいなあと思います。
3年前にはノーベル賞を受賞された小柴 昌俊さんの科学教育賞も受賞しました。
子供たちの主体的な学びが出来ていると言うことで、優秀賞を頂きました。
子供たちが展示などに関わっていることが評価されたと思います。
















2017年11月13日月曜日

前原正浩(国際卓球連盟副会長)       ・なぜ日本卓球は強くなったのか

前原正浩(国際卓球連盟副会長)    ・なぜ日本卓球は強くなったのか

リオデジャネイロオリンピックでは男子シングルスで、水谷隼選手が日本人で初めて個人種目のメダル、銅メダルを手にしたのを始め併せて3つのメダルを獲得、今年の世界選手権でも10代の選手を含む日本選手の活躍が目立っています。
何故日本の卓球が強くなってきたのか、国際卓球連盟副会長に伺いました。

小学生選手から良い教育、技術をしてゆくことが非常に大事だと思って2002年からそのようなことを始めたのが良かったのではないかと思います。
私は大学は明治大学で卓球を続けて、社会人では協和発酵でプレイをして、現役を退いてからは日本の代表監督、育成の立場に変わって行って、現在は日本卓球協会の副会長、国際卓球連盟副会長をしています。
現役時代は昭和56年に全日本選手権でシングルスとダブルスのチャンピオンになっています。
卓球は小学校4年の終わりごろから始めました。
1950~60年代は日本の卓球が強かった時代です。
本当に卓球をやりたいと思ったのは、小学校6年生の時にTVで全日本卓球選手権の決勝戦をやっていて、木村興治さん、長谷川 信彦さんの両者が卓球台を隔てて、二人が丁寧なお辞儀をしていて、こういうところで自分も全日本卓球選手権が出来る様な選手になりたいと思ったのがきっかけでした。

28歳のときに全日本卓球選手権のチャンピオンになりましたが、早い方では無かったです。
1981年の9月に国際大会があり、荻村さんが来られて、ミーティングがありました。
前原君は今回が最後のチャンスだと思ってくれと言われて、自分のプレイスタイルを変えないといけないと思って、両面にラバーを貼って、片面は回転のかかる、裏は回転のかからない同色のラバーを使って(当時は色の指定は無かった)、変化させる手法を使って全日本選手権で勝つことが出来ました。
1977年が初の世界選手権の出場で、1985年の時はプレイイングコーチでした。
その帰りの飛行機で荻村さんが、前原、監督をやらないかと言われました。
帰国後、人事部長、卓球部長と相談して最終決断して、監督をひきうけることにしました。
1988年ソウルオリンピックから卓球がオリンピックになって行くところだが、かつての栄光から離されて苦しい時期であった。
1981年に卓球が正式オリンピックになることが決定されたが、スウェーデン、ポーランド、フランス、ドイツ、ベルギーといった国々が、強くなっていった。

当時は都道府県の理事長さんにお願いして予算が無いので施設料、宿泊代を持っていただくような交渉をしながら合宿をやっていただけるところを探してやるような実情でした。
当時の日本のプレイスタイルはフットワークが良くて、サーブレシーブもよくチャンスボールを叩くような感じでした。
中国はライジングボールを叩く、ヨーロッパはフォアーハンド、バックハンドもおなじような威力を出すようなプレイスタイルだった。
バックハンドを狙われてお手上げな状況になると言うのが日本の負けパターンだった。
日本に対する戦術が決まっていた。
2000年に15年ぶりに男子団体で銅メダルを取ることが出来たが、2001年に世界選手権があったが13位と言う成績だった。
小学生が卓球をやり始めて或る程度の選手に対して、世界で戦えるようなプレイスタイルを植え付けていかないと、世界で渡り合えるようなプレイスタイルにはならないと思いました。

発育発達に合わせたトレーニング、メンタルな面、何を食べれば身体の成長、スタミナの維持にいいかとか、栄養の勉強もしないといけないと思いました。
2001年の10月からホープスナショナルチーム(小学生)を創設しました。
小学生の全国大会でベスト16と将来性のある子を含めて20名の選手と指導者とで合宿を計画してやり始めたのが2002年2月からでした。
①世界基準のプレイスタイルを教える。
②発育発達に合せたトレーニング方法。
③メンタル
④栄養
この4本柱でスタートしました。
水谷選手もここに入っています。
石川選手、丹羽選手、松平選手,吉村選手などが小学生のころから合宿に参加しました。
中学、高校の指導者の方々も熱心にやってくれた結果、今があると思います。
指導者のスキルも上がったと思います。

小学生に対しての指導には特に抵抗などは無かったです。(映像等で説明したりした)
今でも映像を使って国際大会の傾向などの伝達講習会を続けています。
当時は映像を作る事自体も大変でした、当時撮ったものが家には今もビデオが800本有ります。
1980年代はVHS時代で、デッキ、カメラ、海外に変圧器も持っていかなければいけなかった。
映像での解説、教育はスポーツ界でも最初の方だったと思います。
2008年にナショナルトレーニングセンターが出来、365日に近い使用率でやっていました。
1976年にヨーロッパに行ったときに、ナショナルトレーニングセンターが有りました。
JOCにはナショナルコーチアカデミー事業、キャリアアカデミー事業、エリートアカデミー事業の3事業がある。
エリートアカデミー事業は卓球とレスリングがスタートした。
スタッフと試行錯誤しながら改善を重ねて成果が出てきたと思います。

卓球だけではないと言うことを知ってもらうために、漢字、算数も入れてもらってプログラムを組みました。
心の大切さもメンタルの先生からもレクチャーして貰ったりしました。

トラブルに対して(ミスジャッジ等)、選手、コーチなどの心も動揺するので、その時にどういう言葉掛けをするか、どうコーチは動くかと言うことが大事で、もたもたしていると平常心ではなくなり、プレイに集中できなかったりするので、そういったこともビデオに撮っておいて、選手、指導者に対して伝達ミーティングの場で今でも活用しています。
(リスクマネージメント)
教材を見付けるのも指導者の役割だと思っています。
「何もしなければ何も生まれない」(新しいものは決して何も生まれない)
卓球協会への登録は28年度は33万3567人、14年前は25万8000人、7万5000人がこの間に増えている。
リオで男女がメダルを取り、特に個人戦では初めてメダルを取ってくれた表彰の時に、ギフトプレゼンターに選ばれて、その時は感無量でした。
6月の世界選手権大会では頑張ってメダルを取ってくれて、うれしい気持ちになりました。
卓球の場合は更なる国際競争力の向上、卓球ファンの拡大、卓球に携わる方々の健康と安心した人生の環境を作らないといけないと思います。
世界の事を考えると、平和な社会、平和な交流を続けていく役割としてスポーツがあるべきだと感じています。










































 

2017年11月11日土曜日

白阪琢磨(国立病院機構大阪医療センター) ・エイズ治療最前線の30年

白阪琢磨(国立病院機構大阪医療センター) ・エイズ治療最前線の30年
  (HIV/AIDS先端医療開発センター長)
12月1日はWHO世界保健機関が定めた世界エイズデイ、この日を挟んだ11月28日から12月5日はエイズ予防週間です。
厚生労働省のエイズ動向委員会の報告に寄りますと、わが国のエイズ患者は1980年代統計を取り始めてから増え始めていて、2016年には437人が新たにエイズ患者と報告され、感染経路の87%は性的接触でした。
エイズ治療の最前線に立ち続けてきた国立病院機構大阪医療センターのHIV/AIDS先端医療開発センター長白阪さん(61歳)を訪ねてエイズはどのように発症するのか、感染を防ぐにはどうすればよいのか、日本でのエイズ医療の歴史をたどりながら伺いました。

エイズはかつては死の病と言われた、感染すると10年ぐらいでエイズになって1年ぐらいで亡くなっていたが、1996年ぐらいに新しい治療法が出来て、死ぬことも無くなり、早くから薬を飲めばエイズになることは無くなった。
慢性疾患と同じ病気になりました。
薬をやめてしまうと又ウイルスが増えていってやがてエイズになる可能性が高くなる。
1996年ごろはアメリカ全土でかなりの患者さんがいて、多くがゲイの方だった。
ロビー活動から大統領に声が届いて、クリントン大統領がエイズ対策を国のトップの一つに挙げられ、薬を作ることに力を入れて、薬を飲む時間を分刻みで決めたり、色々な条件で沢山投与された。
仕事を辞めて薬を飲むことに専念した人もいた。
薬の開発が進んで行って今では1日一回一錠でいいです。(一つ飲めば3種類が飲める)
注射薬も開発されて、月に一回で良いと言うようになってきています。

副作用も当初は吐き気、下痢、頭が痛い等有ったが、最近ではほとんどなくなりました。
HIVのウイルスは変異しやすい、自分が増えるときに姿を変えると言う特徴があるので、増えなければ姿を変えようがないので、薬を飲めば増えない。
HIVが私達の身体に入ってきたときに、自分の持っている酵素、タンパク質の中に逆転写酵素、インテグラーゼ酵素、プロテアーゼ酵素、が無いと増えない。
今使われている薬は今3つの酵素をそれぞれ抑える薬なので、これを飲んでいるればウイルスは増えようがないんでおとなしくしている。
年間200~300万円の薬剤費ですが、健康保険が使えます。
この疾患に対しては身体障害手帳の対象疾患になっているので、月1万~2万円で済む事もあります。
HIVとエイズは混同して理解している人が多いと思いますが、エイズは病気の名前、原因を調べるとウイルスだった、そのウイルスの名前がHIV。
HIVに感染すると、CD4陽性細胞という免疫細胞に感染して、段々数がゆっくり減っていって、あるラインより下ると免疫が弱くなって、身体に住んでいる色々な菌が暴れ出して、エイズの様な肺炎だとか、そういう症状が出る。
下がって行く期間が10年ぐらい掛かる、感染してエイズになるのが10年ほどと言うことになる。

4~7割の人がインフルエンザのような症状、高い熱、体がしんどいとか、病院に行くと急性のウイルスの感染症と言うような検査結果が出るぐらいで多くの人は治ってしまう。
10年ぐらいは症状の無い時期が続きます。
半数は肺炎と言うことだが、良く調べるとエイズですとか、疲れると口に水虫のように出たり、もっと奥の食道に広がるとか、ひどい下痢が続くとかになる、これがエイズと言う症状です。
免疫を下げないと言うことが大事で、薬を飲んでいただければ免疫は下がらない。
HIVは男性であれば精液と血液、女性であれば膣分泌液と血液、お母さんの場合は母乳、ここにしかいない。
涙、汗には居ない。
感染経路は性行為、輸血(日本ではまず無い)、医療事故などもありうる。
母乳での感染は非常に少ないと言われているが、うつらないと言うことはない。
感染の確率が非常に高い性行為が肛門を用いる性行為で、次が男女間の膣を用いた性行為
、女性が陽性の場合は男性よりもうつりにくい。
コンドームを使うことが一番防ぐ手立てです。

1981年世界で初めての症例が報告される。(アメリカ)
日本でエイズが注目されたのは1980年代の後半です。
原因が判らなかったが、研究して1983年に患者のリンパ節からウイルスが取れて、現在はエイズの原因のHIVであることがわかっています。
日本でもエイズの第1号が報告されて、国内の問題として認識された。
有る地域での女性がエイズであるとわかった時には全国の男性が保健所に殺到したと言うエイズパニックが起きた。
そのころは新聞、TV、週刊誌に出ていたが、終わって薬害が出てきてセンセーショナルに報道されたが、終わりが来たときに、忘れてしまうと言うことになったが、データを見るとHIVウイルスに感染する人は減ってはいないというデータがある。
一番多いのが東京で毎年100人前後、次が大阪、愛知県、最近は福岡県が急増している。

医者になって留学する機会があったが、専門は呼吸器だったが、呼吸器かエイズにいくかだったが、うちの大学の先生がエイズで世界で最初の薬を開発された満田先生だった。
そんな関係で1989年にエイズの方に行きました。
高濃度のHIVウイルスの操作をしました。
3か月に一度血液検査をして感染していないことを確かめました。
アメリカではエイズの研究をしていると尊敬されましたが、日本ではそんなことは辞めとけと言うように言われました。
5年半アメリカで過ごして、1994年の暮れに日本に戻って来ました。
薬の進歩で生き残れるかどうかの境目でした。
薬害エイズの患者は薬として取り込んでいったが、そこで感染してやり場のない思いがあり、免疫が弱い状態は変わらす、失明したり、食べれなかったり、食べても吐いてしまったりしていて、熱が出て、意識が無くなってくる、そんな中で死を迎えたりしている。
1996年に原告と国、製薬会社が和解する。

1997年国立大阪病院に移って来ました。
当時は新しい治療が出たばっかりで、不安も強くて、5年、10年で亡くなってしまうのではないかと思っていました。
こんなにエイズが増えるとは思わなかった。
病院の治療の累積は3000人を超えています。
治療行為に関する事、人間関係の悩みなどがあります。
結婚して男性が感染しているときには、精液を取って来てウイルスを洗ってしまうことが出来ます。
体外受精して子宮に戻すことで妊娠する方法があるが、大変なのと保健が効かないので高額です。
1994年ぐらいから母子感染のないお子さんを得ることが出来ます。

梅毒は日本には無くなったと思われますが、最近は若い女性に急増しています。
梅毒をもった状況が増えると言うことはHIV感染がしやすくなる。
中学校などで話をすることがあるが、性感染症が広がっている事を知らない人が多い。
中高年の男性も要注意、HIV感染者は30歳代が多い、潜伏期間の関係もあるが、エイズ患者は40歳前後が多い。
中高年では、潜伏期が長いためいきなりエイズと言う事が多い。(夫婦とも感染)
海外でのHIV患者と触れる、セックス等古い話。
日常での生活ではうつらない。(プール等々)
今HIVでは死にません、慢性疾患、副作用も少ない。
検査キットは妊娠反応を見るようなもの、血液を落とすと血液がしみて上がっていって、なにも映っていなければ感染していない。(15分位で結果が出る)
当初はこんなにつらい疾患を見ることはしんどいと思いましたが、最近では薬を飲めば何とかなると言うような状況になりました。
2016年エイズ患者の年間発生数、東京都97人、大阪48人、福岡46人、愛知32人、神奈川26人だが人口比で見ると、福岡県、佐賀県、東京都、高知県と順になる。
「HIV、検査、相談」、で検索すると検査の場所などが判る。