2017年5月27日土曜日

山川静夫(エッセイスト)     ・美空ひばり 幻のインタビュー

山川静夫(エッセイスト)・美空ひばり 幻のインタビュー
5月29日は美空ひばりさんの80回目の誕生日、今年は美空ひばりさんの生誕80周年にちなんで、記念のコンサート、CD、DVD等のリリースが行われています。
そんな中貴重な録音が見つかりました。
1988年昭和63年4月12日、NHKの国際放送で南米向けに放送した、「この人に聞く」の録音テープでした。(日本向けには放送されず幻のインタビュー)

病気の後だったので、ガウンみたいなものを着て録音が始まりました。
弟さん二人を亡くしてお母さんを亡くして一人ぼっちの時でしかも一人で静養していた時でした。
寂しさが心をむしばんでいたが歌には情熱を持っていて、1カ月あとに東京ドームのコンサートを控えて居ました。
私の最初のひばりさんへのインタビューは昭和44年8月18日でした。
オーラがすごかった、歌にかける情熱がすごかった。
リハーサルでも決しておろそかにしなかった、「悲しい酒」でリハーサルで全部泣きました。
昭和45年8月24~28日で「ひばりの5日間」という番組があって、うちあげをして飲んだんですがその時に親しくなりました。
ひばりさんは何時も必死でした。

昭和63年4月12日でのインタビュー
今まで命として思って歌ってきた大好きな歌を歌えなくなってしまうのかと思って恐ろしかったです。
何時自分が立ち直れるのかと毎日悩んでいました。
自分の歌でも掛ける気になれなかった。
先生と話すうちに光が見えてきて、今度歌いだすのは何時だろうと考え出すと、自分が大事にしてきたことをこんなにお休みしていることが勿体なくなってきて一日も早く歌いたと思いました。
一番つらかったのは友人が来てくれて会うと、言葉がでなくてベッドの上にいるひばりが見られる自分が情けなくて胸が痛みました。
昭和23年がデビュー、40年たちました。

私の中に青春があったのかなあと考えるときがありますが、私が歌ってきたことが自分の青春だったのかなとこの頃解説できます。
母の力で防波堤に成ってもらったりしてここまで作り上げてもらえたのかなあと思います。
のんびり構えて居てもいいんですが、なにかがひばりを歌わせようとせかすんですね。
歌に対する執念ですかね。
カラオケにも行きますが他人の歌です。
自分の歌を歌うと仕事をしているみたいに成ってしまいます。
酒を飲むのは雰囲気に酔って飲んでいました。(大勢で)
田中角栄さんに歌を披露したことがありますが、批評していただいて、1番は良いが2番は良くない、3番はいいとおっしゃいました。
作詞家は歌は2番がどうしてもおとしてしまう傾向にある。

プロは出だしで失敗しても最後に取り戻そうとしますが素人にはできないと思います。
自分がこういう歌を歌いたいと自分から言ったことはないが、色々持ってこられると厭とはいえない、必ずやってみようと思います。
それが全部私の大好きな演歌にプラスに成って来ます。
古賀先生は私にとっても宝物で「悲しい酒」と言う名曲を残していただいて、いまだに「悲しい酒」を歌っています。
マンネリと思う時もありますが、「悲しき口笛」「りんご追分」などを避けて構成すると却ってファンの方々がさびしがります。
慎重派ではありますが、わがままで完璧主義者で母がいる間は私の代わりに鬼婆となってカバーしてやってくれていました。
自分が敵も作らず良い子になろうと考え出したら、美空ひばりは良い仕事はできないと思います。

美空ひばりの怖さはどういう所にあるんでしょうか?
会うととっても違いますねとおっしゃるんです。
山川:大スターと云うのは必ず何かを持ってるし、大勢の人を魅了する力を持っている、その目に見えない力に圧倒されて、必要以上に書きたてるもしますし、だからかもしれません。
4月11日東京ドームのコンサート 活躍する時期が早すぎると思うが。
親しい人からもテープでやるのと言われたりするが、生で歌っているのにテープと思われるのがかなわないので、命がけでやるのでそういうことをちらっとでも思われては困るので、スタッフに申し入れました。

「私の歩いた道」 美空ひばりの詩
9歳のころから母と二人で芸能界に漕ぎ出した。
その時から私は歌うほかには誰にも心の窓を開かなかった。
好きな歌を歌うことだけが、そんな私の生き甲斐だった。
キューピットではないけれど、みんなに幸せあげたいの。
これがそのころ私が作ったロマンチックなキューピット。
しかし本当に多くの人に幸せを与えることが出来たのかしらと私はいつでも
心の中で思っている。
私の歌をだれよりも理解してくれたのが母だった。
命を掛けて守ってくれたのも母だった。
その母も遠いところへ旅だっていった。
それでも私は歌い続けた。

歌は母が命をかけて残してくれた何物にも代えがたい遺産だから。
こんな私を置き去りにして弟たちも遠いところへ旅立っていった。
それでも歌を歌い続けた。
私っていったいなんだろう。
涙を忘れてしまったのかしら。
暗い部屋に一人ぼっちになってしまった私。
心の窓をちょっぴり開いてそっと外を眺めてみよう。
色んなことも体に感じさせてみたい。
私だって人間だもの、寂しい時だってある、悲しくって大声で叫びたい時もある。
しかし、それは私には許されない。
何故って、私はひばりだから。
いつも私は一人ぼっち。

たとえ自分を傷つけたって、笑顔で元気なひばりでいなくちゃいけない。
そのたびに心の窓を閉めてしまう私。
人は優しく言ってくれる。
ひばりちゃんゆっくり休養してくださいって。
でもこんな温かい言葉にじっとしていられない私が体の中には棲んでいる。
それは私の身体の中で今も生き続けている母。
私の心の中で今も燃えている母の執念。
そして天のどこかで私の人生に悔いのないようにと祈っていてくれる母の声。
母は私と一緒に生き返り、私と一緒に燃えている。
今度こそ心の窓を思いっきり開いてみよう。
そして広い世界を見つめてみよう。
歌の星は何時でもそっとこんな私を守ってくれるでしょう。
命よ、命を有難う、私の歌よ有難う、ファンのみなさん有難う。
(涙ぐんでいました)

録音が昭和63年2月26日 その1年4カ月後には亡くなってしまう。

























2017年5月26日金曜日

髙木聖雨(書家)         ・父に反発、でも同じ道

髙木聖雨(書家)  ・父に反発、でも同じ道
3月に28年度の日本芸術院賞恩賜賞を受賞しました。
父親は岡山県の高木聖鶴さん、かなの書家で平成25年に文化勲章受賞し、日展の顧問でもありました。
今年2月93歳で亡くなりました。
家庭的ではなった父に反発して、書家にだけはならないと心に決めて会社員を目指していました。
しかし大学受験に失敗、ふと書に掛けてみようと言う思いが湧きあがって、書の道にすすむ人が多い大東文化大学に入学、青山 杉雨(あおやま さんう)さんに師事しました。
大学卒業後は、都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授として多くの若者を指導したり、自らの作品作りをしたりしています。

日本芸術院賞恩賜賞を受賞したことは大変な喜びでした。
作品に対してはこれが最後の賞なのでこんな喜びはないです。
67歳ですが、80,90歳になるまで書道の世界のために働きなさいよと言う激励の賞でもあると思います。
父親が芸術院賞を受賞した時には意識がなくて、耳元で受賞してきたことを報告しました。
天井を紙に見立てて意識のないまま手をあげて天井に字を書いて居るしぐさを、亡くなる4、5日前やっていました。
父は会社員だったが20歳のころから書道が好きで、書の道を選んだと聞いています。
本格的に始めたのは40歳の後半で、会社を辞めて書道の道一本に絞ったようです。
書壇で頑張るには2足のわらじは難しいのでけじめをつけたんだと思います。

岡山県 昭和24年生まれ。
一人っ子で、普通の子でした。
父が書道塾を開いていて、近所の子と1~2年やりました。
野球が好きだったので中学の時に野球部に入りましたが、親の介入があり退部届が出て居て、悔しくてより反発する時期でもありました。
父親は会社から帰って、6時ごろから自分の部屋に入って夜中の2時頃まで字を書いていて一切顔を見せなかったので親子の対話は高校時代までなかったです。
10時間ぐらい字を書いていました。
当時は何処へも父親には連れて行ってもらうことはありませんでした。
父親に対しての反発は強かったです。
高校時代はサラリーマンに成りたいと思って勉強したんですが、どこにも入れず浪人しました。
浪人のときはパチンコ、マージャンをやったりしていまして、あるきっかけで書道をやろうと決めて、父親に言ったら拒否されて、「書道でもやろうか」という「でも」が良くないと言われて、本当にやるのなら「でも」を撤回しなさいと言われました。

父から「やるんだったらどうぞ、一切手助けはしない」と言われました。
大東文化大学に入学しました。
書道を徹底的にやろうと決意しました。
全くゼロから始めるので周りの人たちに追いつくのには、千倍も努力しないと追いつけないという気持ちも持ちましたし、書道に関する言葉も判らず初めて父親に聞きました。
大東文化大学の書道部だけで400人ぐらいいました。
仲間がたくさんいると言うことが、頑張れる導引になったと思います。
入ってすぐに青山 杉雨(あおやま さんう)先生に師事しました。
手あかが付いていない状態だったので、先生に言われたことはすぐ実行できる立場にあったので、書道をやっていなくて逆によかったと言うのが実感です。
父の事は先生には黙っていましたが、2年間休まず励んだので父も本気でやりそうだと感じて父が先生にお会いして初めて挨拶しました。

漢字を始めて漢字をマスターした後でかなに転向する人がほとんどで、漢字の書けないかな作家はかな作家ではないと言われている。
父親がかな作家だからいずれ岡山に帰ってかな作家をやるんだろうと先生は思っていたようですが、かな作家をやるつもりはありません、一生先生の元で漢字作家をやりますと言ったときに、先生の眼の色が変わって、本気で鍛えてやろうと思ったんだと思います。
大学4年間で先生に名前を覚えてもらえない人が結構いるほど生徒もたくさんいました。
青山先生の授業は3年にならないと受けられなくて、1週間にひとこま習うだけで、それだけで上手くなるはずはなくて、人の何倍もやらなくてはいけない。
4年生までで100人以上青山先生には弟子がいまして、熱心に指導していただきました。
父はかなの世界、私は漢字の世界に入ってゆくわけですが、「富士山を表から昇っても裏から昇っても頂上では一緒になれるから、お互いが違った道でも頑張ればいいんだ」と父の文章に書いてあって、なるほどなと思い立派な考え方だと思いました。

親子展は35年ぐらい前に岡山でやりましたが、親子という関係は表に出さずにやりました。(1回のみでした)
朝日20人展で20人選んでもらう訳ですが、それが2回目の親子の共演だったかもしれません。(4作品ずつ出展)
相当親に反発して親に迷惑かけたりして、母親をいじめてしまったこともありますが、今はよく頑張ってくれたと母は思ってくれていると思います。
日本芸術院賞恩賜賞を受賞出来たのは両親のお陰だと思います。
都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授となりました。
書道の世界としては順調に来たように思います。

書道人口はかなり減っています。
書というものに対して理解を一般国民に知らしめて居ないと言うことがあると思います。
毛筆を1年生からやらせるようにと言うことが、文科省の方針で許可された様で書道の盛んなところに持っていける一つの要因になると思います。
日本の書道文化をユネスコの世界向け文化財に登録しようと言う運動をやっていて、登録されれば書道に目を向けてくれる人が多くなると言うこともあると思うので僕のライフワークとして一生懸命やらないといけないと思っていますが、非常に将来を心配しています。
90歳の人も頑張ってやっているので、その年代に成るまで自分の技術を高め精神性も高めていい書を書きたいと思っています。
技術は自分で努力しないといけないものなので、相当根性が坐っていないとだめだと思います。
父は書道が大好きだった人なので、尊敬しています。
書道の世界での戦友のような気持が、父が亡くなった時に涙を流させた様に思います。
10時間も書を書いて努力をしていた親の背中を見せてもらって、本当に感謝しないといけないと思っています。










































2017年5月25日木曜日

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは

窪内隆起(司馬遼太郎担当編集者) ・歴史を学ぶ意味とは
今年は大政奉還からちょうど 150年、立役者である坂本龍馬の名が広く知られるようになるきっかけになったのは、1962年に新聞連載が始まった司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」です。
窪内さん84歳は新聞社の後輩として司馬遼太郎と出会い、編集者として 4年1300回をこえる連載を支え、担当を外れた後も司馬遼太郎と交流を続けました。
龍馬の故郷,高知で暮らす窪内さんに今なお読み継がれる作品の執筆の舞台裏や歴史を学ぶ意味について伺いました。

産経新聞の大阪本社、昭和30年入社、社会部に配属、デスクに呼ばれ天王山についての解説を15行で書くようにいわれ、「あのおっさんのところに行って聞いてこい」と言われて、文化部の福田さん(司馬遼太郎)だった。
天王山に関して30分福田さんが話してくれました。
今後歴史的な事にぶつかると、辞書代わりに聞きに行ったらいいなあと思いました。
昭和35年1月21日、NHKのニュースを見ていたら、芥川賞、直木賞のニュースをやっていて直木賞梟の城司馬遼太郎、経歴紹介があり、本名福田定一、産経新聞大阪本社文化部部長と言う紹介があり飛び起きました。
福田さんが小説を書いていることを知りませんでした。
私は2月1日付けで北陸の福井支局に転勤になりました。
知り合いがいっぱいいるから会うように言われて、道元禅師、柴田勝家、お市の方、松平慶永(春嶽)など31人ぐらい名前を挙げて福井は歴史の宝庫だからといわれました。

昭和37年6月から「竜馬がゆく」が始まる。
支社で私だけがはしゃぎまわっていました。
坂本竜馬の知名度は少なかった。
昭和28年の初め頃、支局に新聞の購読の申し込みがどんどんかかってくる。
理由は「竜馬がゆく」が読みたいからということだった。
昭和40年2月1日付けで大阪本社文化部への転勤を命じられた。
社会部から文化部への転勤は後方部隊のような感じを抱いたが、「竜馬がゆく」を担当するように言われて、がっかりしていたのが吹っ飛びました。
一番頭にあったのは長編にしたいとのことで、維新に関することを古書店に頼んだら3000冊だった。
そこで坂本竜馬のことを書こうと思ったとのことだった。
どうして略字なのかを聞いたら、歴史学者、歴史研究者でもない、竜馬の事実とは違う、フィクションでもあるので 僕の竜馬として活躍してもらいたいと思った、ということだった。

ハンガリーのスティーブン・トロク(24歳) 旧ソ連軍がハンガリーに侵入してて アメリカに亡命、そのあと京都に来て勉強して、司馬家にやってきて、僕は将来帰ってハンガリーの大統領に成るんだと喋ったそうです。
キャラクター作りにふっきれないところがあったそうで、トロク君の亡命と、竜馬の脱藩とがだぶってきて、暗い境遇にありながら将来大統領に成るというそのキャラクターを竜馬に植え付けてみたらどうだろうと云うヒントをそこで得たと言うことでした。
人柄などは半分以上はフィクションだと思います。
身分制度が厳しい時代に家老家のおたず様と竜馬が京都の茶屋で逢引をするというようなことは当然フィクションです。
ファクト(事実)とツルー(真実)で行くと、真実は「竜馬がゆく」に関して言えば、薩長同盟、大政奉還、船中八策でいえば、長編では読者がついてきてくれなければ無意味なものに成ってしまうので、読者をひきつけておかないといけない。
そうすると面白おかしく読者が逃げないようにしてフィクションで繋いでゆくしかない。

司馬さんが一番力を入れて書いた部分と云うのは、竜馬に言わせた心情、「こういう青年を神様がこの時代必要だと思って、地上に送り出してきて、いろいろ働かしたんだ」、と言うのはどうだと言っていました。
最終回の一月前ぐらいのことでした。
結末文に関しては訂正がなかった。
相当頭の中で練っていたのではないかと思う。

結末文
天に意志があるとしかこの若者の場合思えない。
天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わった時惜しげもなく天に召し返した。
この夜京の天は雨気が満ち、星がない、しかし時代は旋回している。
若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。

一番大事なのは誤植なしに載せることが大事で、違う漢字一字で意味が逆になるような大失態があるので、校正は20回読めと前任者から言われました。
司馬さんは文章の流れがいいので、見逃す可能性が多分にあるので、注意しないといけない。
私の担当期間中は司馬さんに対しては全くだぶりのミスなどは無かった。
司馬さんは陸軍の戦車隊の少尉で終戦前の3月前、栃木県の佐野に引き揚げてきて、米軍を迎え撃つ訓練をしていた。
軍の参謀が激励に来ていて、「戦車で対応するときに逃げて来る国民と出会ったらどうしますか?」と福田少尉が聞いた。
しばらく考えて参謀が「曳き殺して進め」といった。

こんなくだらない人間の指揮のもとに我々は戦争をしているのかとふっと湧いていた。
これまでの日本にはずっとましな人間がいて日本を作ってきたのではないか、もし戦争が終わってそういうのを書いてみようと思ったと言っていました。
70歳のときに文化勲章を頂き、その記者会見で「私の作品は22歳の自分への手紙です」、と言ったんです。
或る時かつての日本にはもっとましな人間がいて、いままで日本をつくってきたと思った、それが22歳だった。
「竜馬がゆく」から見習ってもらいたいのは、「万事観てみないとわからん」、という精神は全ての事に通じると思う。
殺害しようとして勝海舟との面会で、竜馬は話が終わった後、先生弟子にしてくださいと言っています。
戦後70年で転機を迎えており、竜馬の存在を自分の頭に置き換えて、読者が今後の生き方についていろいろ考える、自分にあてはめながら生き方を学べるのではないかと思う。










































2017年5月24日水曜日

河瀬直美(映画監督)       ・届けたい まっすぐな光を

河瀬直美(映画監督) ・届けたい まっすぐな光を
48歳、1997年に劇場映画デビュー作「萌の朱雀」でカンヌ国際映画祭で新人監督賞を2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞しました。
河瀬さん自身が脚本を手掛けた最新作「光」が現在フランスで開催中の第70回カンヌ国際映画祭の最優秀賞パルム・ドール(Palme d'Or)を競うコンペティション部門にノミネートされ注目を集めて居ます。
今年は「萌の朱雀」から20年の節目の年、映画に掛ける意気込みと故郷奈良に寄せる思いを伺いました。

「光」は徐々に視力がなくなってゆく男性カメラマンと音声ガイドを製作している女性が心を通わせてゆく物語。
字幕などは日本語の意味合いが英語に無かったりして、そんな中言葉の選び方が思い入れのある人たちだなと思って、音声ガイドはどのぐらいの歴史があるのかと思ったら15~20年ぐらいしかなかった。
こんな人たちがいると言うことを知ってもらった方がいいのではないかと思って映画にしたいと思いました。
音声ガイドは映像を言葉で説明してゆく。
セリフは映画の中で言ってるのでいいが、部屋の状況などを説明したりするが、答えのない世界で四苦八苦している。
今回映画を作るにあたって視覚障害の人などに取材を重ねて行くうちに、町で見る接していない時のイメージと実際に接して観ると、前向きで明るくてと言う方が居て違っていて、私たちの方が気付かされることが多かったです。

生れ付きの先天盲と中途失明の方が居て、先天盲の方が私達の中にイメージとしてあって聴覚が発達してゆくとか言われるが、途中まで見えて居た人が見えなくなる人の方が見えて居た時のことに凄く執着があって苦悩されている。
そこから前向きな自分に成るまでには時間がかかる。
苦脳して自分の役割を見出すことができなくて心がすさんできたりする。
主人公雅哉は眼を使った仕事をしている、それを奪われると言うことは自分の人生が終わってしまったかのような思いをする。
雅哉はどのように前を向いて生きて行くのか葛藤がある。
具体的ではない何か「光」があるのではないかと思う、心の奥にある光の世界。

1969年生まれ、48歳になります。
40歳ぐらいから自分の役割を考えるようになり、次の世代に繋いでいかなければいけないものがあるのではないかと思うようになりました。
子供は今年中学生に成りました。
私は空想癖の或る子供でした。
両親と一緒に暮らしていたことがなくて、父親を知らずに育って、母方の遠い親戚の老夫婦のところに養女として育てられました。
自分を見るもう一つの目を小さいころから持っていたのではないかと思います。
近所に同世代の子がいなくて、一人ぼっちになってしまうので、一人で遊んだらいいと養父(おじいちゃん)から言われました。
養父は自然の中で育った人でそれに影響されて、自然、季節を感じるような日常を過ごしていました。
養父は県庁に勤めて居て、とにかく規則正しい生活をしていました。

自分にとって映画、TVは遠い世界の話でした。
高校卒業するときに、このままいい大学、いいところに就職をしてゆくことが楽しいかなと思ったらあまり楽しくなさそうだなと思って、もっと決められていないけれど楽しい世界があるのではないかと思って、自分で自分でしか作れないものを作って生きていけたらいいなあと、いずれ死んでしまう時にそれが後悔しない生き方なのではないかと考えました。
たまたま映像、映画、その時間を切り取りたいと思いました。
入った学校が映画が盛んでした。
映像の持つ力は今ではない時間を今に持ってこれると言うのは、初めて学校で8mmフィルムを撮影し、現像から上がってきた映像を見たときに物凄く驚きました、タイムマシンを手に入れたように思いました。

両親と暮らしていなかった事に対して、養父母と楽しく暮らしていたので寂しいとは思わなかった。
そのあと映画を撮り始めて、寂しくはなかったが父とは逢いたいと思っていたので、逢いたいと言う気持ちを友達など近い人たちに伝えたが伝わらなかった。
映画にしたら物凄く共感してくれて私を見る目が変わり、友達と深い話をするようになった。
これから先に出会う人とはもっと深い関係をつなげていける可能性があるわけで、過去の寂しさよりも未来の喜びの方に目を向けた方がいいじゃないですか。
この映画を撮るにあたって悲しみを見つめようとしたのではなくて、そこから先を見つけたかったからそれに眼を向けたんです。
時間って、わたしたちの中にある様でないのではないか、過去は記憶の中にあり、時間は時計が生み出しているが、実際それってあるのかなあと思います。
生も死も越えた輝きがあるのではないのかと思います。
命、魂とかは人間が言語化できたり、認識して記憶できたりするから一番すぐれた生き物のように思われるが大きな木、大地、空、星等もそういうものを持っているかもしれない。
わたしたちが計り知れないものがあるなあと思います。

なんで奈良に生まれ落ちたのかなあと思いますが、1000年の歴史の息吹が自分の中に入り込んで、そういうスケール感のある考え方に成っているような気がします。
1000年前の人が万葉集で好きな人を思ってこの川のことなどを詠んだんだと思うと、スーっと1000年の時が繋がるんです。
私の撮った映画もそうなんじゃないかと思います。
2007年の「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞し、2010年が平城遷都1300年記念、それから7年たっているが、地元の社長さんたちが協力してくれて映画祭をやろうと言うことに成って1回目終わったらほとんど辞めてしまって、やることが大変で、(カンヌでも同じで、)2回目でもやろうとして同世代の人たちがやって、海外のゲストが話題にしてくれました。
日本人のおもてなし、アテンド力は心があるんです、これが評判になって3回目になり、4回目をどうしようと言うことに成って大きくしようと言うこともあったが、そのままの規模でやることになりました。
奈良市が助成金のカットをしてしまって、開催まで半年の時で、規模の縮小なども考えたが時間がなかった、そのニュースが流れた時にこれまで以上の協賛が集まりました。

奈良では新しいことをするのなら奈良をでて行った方がいいといわれるが、ここには歴史と文化があり万葉集に歌われている川や山があり、これはにわかにお金で買おうと思っても買えないもので、これを今の時代のニーズに合うように継承していって宝物に変えて行くことはできるのではないかと思っている。
奈良では自分が出来る役割をやっていこうと思っています。
私にしか作れないものを作っている、それがユニークと言うか、とことん人と人とのつながりを描くとか、家族のありようを描いたりとか、目に見えないもの、そういったつながりを具体的なストーリーを通して描くことに共感していただくことが多い。
誰しもお母さんから生まれ、家族があり、離れてしまったり不幸な関係に成ってしまうかもしれないが、元をただすと決して一人ではなく、必ず誰かとコネクトしている、根源的な事を描いている事だと思います。
映画は表現なので誰かが評価するので、審査員のまなざしとどれだけ共有できるかということなので運とか縁とかそういうものが物凄く影響するのですが、「光」は私は世界一の映画だと自分では思っています。




















































2017年5月22日月曜日

中村仁樹(尺八演奏家)      ・【にっぽんの音】

中村仁樹(尺八演奏家) ・【にっぽんの音】 

中村:34歳に成ります。
能楽師狂言方 大藏基誠:尺八界のプリンスといわれていますね、私は25歳のころは狂言界プリンスと言われていましたが、最近は呼ばれなくなりました。
吹いている姿吹き方がきれいだなと言われますね。
中村:日本舞踊は習ったこともあり、お茶も小さい頃やっていて物の扱い方の基本みたいな事は勉強しました。
尺八は道具と云うよりも楽器と言いますが、竹と言ったりもします。
尺八は乾燥しすぎると割れてしまうし、湿気を含み過ぎても普通の場所に行っても湿度の差でわれてしまうので一定にしておきたい。
海外にいっても息を吹き込んでからしまったりして大事に扱えば割れることはそうないです。
日本の音と言うと響き豊かなさわり(障り)の音ですね。
*(尺八で表現 いろんな音が立ちあがって行く)

大藏:祖父が言っていたが「あってあわすの間」狂言もお囃子に合わせて謡いをうたうときがあるが、若干ずらした方が面白いという美学があります。
中村:日本音楽の場合はそれぞれの楽器が個性的なので、それぞれソロで聞かすために発達したものでもあるので、西洋の楽器よりも主張の強い音だと思います。
尺八の一番の魅力は日本独自の風の音を表現できるところ、それがわびさびを生む。
*(尺八で表現)
こういったものを曲に盛り込んでゆく。
尺八の穴は全部で5つあります。(民謡の音階)
これは小さい穴が2つたされていてドレミファが出せます。

プラスチック、竹の材質の差 音の硬さ、抜け、響き方が違います。
プラスチックは1万円、実際にある素晴らしい楽器を型取りして作ったものなので音もいい音が鳴ります。
楽器もあらゆるメーカーの楽器も試して、そのなかにプラスチックもあったと言うことです。
尺八は40本ぐらいありますが、実際に使うのは15本で全部竹でできています。
柔らかい材質は柔らかい音が出て、硬いものは硬い音が出ます。
長さが長くなると低い音が出ます。
近くで聞くとあまり違わないが、コンサートホールなどで遠くで聞くと音が違います。
*「祈り」を演奏。
この曲は兄の結婚式のお祝いのために作った曲です。
頭の中をまっさらにして、兄を思う、故郷を思うと言うような形でピュアな気持ちを持って作ります。(作るモードにしておく)
作ったのは100曲ぐらいになります。

作曲できると言うのは一つの強みだと思っています。
機材を自分にあったものを集めたりしています。(マイクとか)
小学校3年生の時に父親が尺八を吹いていて、その時に初めて接しました。
17歳のころまでに、クラシックピアノなどをやったり、エレキギターをやったりあらゆる音楽を聞いてきていたが、日本のものは無かった。
高校のころ父の尺八で吹き始めて、お琴もやっていていました。
3年生の時に東京芸大に行こうと決めました。
大学では師匠と1対1でお稽古を週1~2回やって、音楽や普通の国語英語などの勉強をしていました。
尺八で有名な曲「鹿の遠音」が一番有名です。
尺八は1500年前ぐらいに伝わったと言われていて、「越天楽」とかの宮中の楽部の楽器の一つとして吹かれていて、そのあとで雅楽の楽器ではなくなって、また中国からお経の称名にふしをなぞるために再輸入されてきて、700年ごろと言われて居る。
普化宗(虚無僧)が吹いていた。
禅の修行の一環として尺八を吹いていたといわれる。
法具として使われていた。

*「鹿の遠音」 (本来20分以上かかる。)
秋深い山奥で鹿と鹿同士が呼び合う様子を描いた曲。
江戸時代中期の頃の作品で口伝だったが明治期に普化宗が廃宗になったので残そうと言うことになり譜面に書き残しました。
いろんなところで僕の曲が僕の演奏で、流れるようになってくれればいいなあと思います。








































2017年5月20日土曜日

祖田修(京都大学名誉教授)     ・野生動物による被害と向き合う

祖田修(京都大学名誉教授)   ・野生動物による被害と向き合う
77歳、京都大学で農学を教え福井県立学長を最後に退職、京都府の南山城に古民家を見つけ、週末に通って農業を始めました。
7年前70歳の時でした。
研究者として各地の農村を調査し、鳥、獣などによる被害を目の当たりにした祖田さんが今自ら鳥獣害に悩まされています。
野生動物による被害の実態と日本の農業が直面する問題について伺いました。

この家は新聞広告に紹介されていて、ピッと来てここを選びました。
土地の広さはテニスコート3面分ぐらいあります。
4家族14人分の野菜を自給できないかと思って、作っています。
長持ちするものを基本に20数種類作っています。
農家に生まれて2町歩を超える農地があったので、農作業は経験をしています。
農業をやるようになって或る日、鹿が出てきて色んなものを食い散らしていて、畑がずたずたになっていました。
おもに猪と鹿が出てきます。
鹿は柔らかい部分が好きで一口ずつ食べるので野菜が全滅してしまいます。
村の対策としては山側に防止柵をしてあったが、道路側から入ったり、そちら側も柵を講じて居たが、柵を越えたりしてもしています。
池に鯉を飼ったりしていますが、鷺がきて、上手い対策が出来ずに鷺に負けました。
茶畑があるが鹿、猪は興味がないので動物の被害にはなっていません。

農林経済学のなかの農学原論(農学の哲学)地域経済論をやっていました。
国内だけでなくアメリカ、オーストラリア、アフリカなどにも行って農業を調べました。
農業改良普及員の方が自ら中山間地の農業の在り方を見えるようにしたいと稲作、栗園、シイタケ、林業、牛の飼育などを始めたが、1960年代の末ごろから熊、猿、猪が出ると言うことで経営が崩壊に近い状態に成り、鉄砲を撃ったりしていた。
補殺に対して最初に補助金を出したところですが、全国的に鳥獣害が問題になって来ました。
北海道は鹿の対策をしていて、或るところでは400kmの柵をめぐらして、人間が檻の中で暮らすと言うことでここまで事態が深刻だとは思わなかった。
岐阜県の和良町では「いのしか無えん策」(猪、鹿、猿)として、街作りを始めて特産物をうみだしたりしています。
針金のメッシュ、電気を流したり、ひらひらするものを付けたり、いろいろ工夫をしています。(鹿、猿、猪などを一気に追い出したと言う実績がある)

三重県の或る地域の場合、村全体で団結して猿を見ると追い返して、それを徹底的に繰り返して、領土意識をしみこませて来ないようにした。
香川県讃岐市、徳島県神山町などでは山と田畑の間に干渉帯を設けて木を切って空間を作ってそこに牛、羊、山羊、犬などを放して防止するなど全国それぞれの地域の考え方で対策しているが、全国では被害は200億円に達している。
被害のために意欲を無くして農業をやめてしまうと言うことがありこれも問題になっています。
昔は動物は山奥に、人間は里山を含む農業空間にお互いに棲み分けをしていたのではないか、そして頭数も少なかったのではないか。
最近は山を利用しなくなったために住みかを広げて、家の近くまで来るようになって、そこにはおいしいものが山ほどあり一遍この味をしめてしまうと、鳥獣害があっという間に広がっていったと思います。

神戸市では猪に襲われ怪我をする。(人身被害)
六甲山系があり、また瀬戸内国立公園では鳥獣保護区に成っており、動物を撃ってはいけない。
神戸市は条例を作って、被害を最小限にするために、犬にほえないように指導するとか、ゴミ置き場は網をかぶせるとか、餌を与えないとか、被害を最小限にするための条例にしました。
捕獲も対象に入って年間700~800頭と言うことで大変な数に成ります。
全国での推計値 日本鹿=約300万頭 猪=約100万頭 
生態系が崩れる可能性、人身被害、農作物被害があるので、現在の猪、鹿については半数に持っていこうと考え方が変わってきた。(農水省、環境省)
捕獲の鹿、猪の肉、皮などを利用できないかという事で、地域振興を含め色々考えられている。

新しい動物観、自然観が必要なのではないか。
食べるということは人間が持っている宿命の様なもので、畏敬、祈り、感謝これらのものがなえ混ざった「いただきます」「ごちそうさま」という気持ちが必要なのではないか。
これが原点となった新たな動物観が形成されてゆくことを望んでいます。
消費者の方には食料の安全、保障、農業の人為的でないどうしようもない農業の条件を考えていただいて、50%とか守るべき農業の下限というものがあるのではないかと考えて居て国民の理解がもっと広がってほしいと思います。
人間と動物を含む地球温暖化の問題とか、人間と自然と言うことについて私たちは考えて行くべきだと思っています。
動物と人間の適切な折り合いを見つけ出すということが必要だと思います。