2018年5月20日日曜日

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む
美味しいモノがあふれている日本の食、そのおいしいものの舞台裏で食を支えている人たちがいます。
フライなどにかける、ウスターソースはイギリスが発祥と言われています。
それが日本に伝わり、独自の製法が生み出されました。
現在大手メーカーの他、全国各地で地ソースを製造している会社が多数あって、それぞれの地域の嗜好に応じて生産されています。
静岡県浜松市のソースメーカーは大正13年の創業で、地元産の野菜や果物を原料に昔ながらの木桶で熟成させるなど丁寧なソース作りを続けています。
3代目社長の鳥居さん、(47歳)は大手商社や世界的な電機メーカで海外を飛び回る仕事をしていましたが、16年前に家業を継ぎました。
外国の人にも日本の出汁文化をアピールできるような和のソース作りに取り組んでいる鳥居さんに伺います。

ウスターソース、中濃ソース、トンカツソースそういったものを作っています。
粘度の差で分けています。
イギリスのウシターが発祥の地と言われています。
イギリスのウシターソースはしょっぱい、酸っぱいというような味でした。
日本に渡って来たのは明治になってからです。(西洋醤油と言われていた)
以前はカレーにかけていた。
コロッケ、メンチカツなどは油であげているので、酸味が入ることで脂っこさをソースが和らげてくれる。
今年で創業94年になります。
地ソース、地域地域でソース屋があります。
全国では100社以上あります。
西日本、関西の方に多くあります。
粉もの、お好み焼き、たこ焼きなどが関西が多いのでその関係で関西の方が多いです。

洋食屋さんが増えてきて祖父が教えてもらいながら作ってきたと言われます。
工場の食堂に卸していました。
最初は野菜を煮込むところから始まります。
玉ねぎ、ニンジン、ニンニク、セロリ、トマトなどを使っています。
生が良いので地元を優先的に使っています。
酵素、タンパク質なので高温では失活してしまうので、なるべくゆっくり低温で煮込んでいくことを心がけています。
コクが出る、甘みが増すことを狙ってゆっくり低い温度から煮込んでいきます。
煮込んだ野菜を石臼の機械に入れて行くと、種や皮も丸ごとすりつぶしてくれる。
石臼だと食感が滑らかな感じになって行く。
パウダーやペーストは簡単に買うことができるが、すでに加熱されていて、煮込むほど風味、香りが飛んで行ってしまう。
加熱する回数は少ない方がいい。

味付けは「さ し す せ そ」の「さ、し、す」 砂糖、塩、酢を入れます。
酢は重要なので自家製です。(30年前から)
自家製の酢はつんとした感じはないです。
香辛料を次に入れていきます。
ティーバックに紅茶を入れたようなふうに、香辛料を入れて出来上がったソースに浸けこんでいきます。
欲しいのは香りだけなのでこのような方法でやります。(味をいれこまない)
こんぶ、鰹節も使っています。
アンチョビはイギリス人にとってのうま味だったが、日本に来てからはアンジョビではなくて昆布、うちではそれに鰹節を加えて出汁を取っています。(和のうま味の基本)
グルタミン酸とイノシン酸を足すとうま味が1+1が3ぐらいになる。
私の代からそのようにしました。
寝かせておくとそれぞれの味がなじんでくるので、木桶熟成をやっています。
木桶は上手に使えば100年以上持つなということが判りました。
木桶はメンテナンスが大変で高価でもあります。
素材を楽しみたいと言うお客様が増えてきているので、調味料が素材を邪魔してはいけないということで、私どもにとっては追い風だと思います。
それが大手メーカーとは違うところです。

学生のころは海外の方に目が向きました。
外交官になるにはと言うことを考えて、外務省でアルバイトをしました。
その後カナダに留学しました。
学生論文で入選して日米学生会議にも出席しました。
大学卒業後、スタンフォード大学の大学院で学び修士課程を修了する。
アジアに特化した政治、経済の国際関係の勉強をさせてもらいました。
大手商社に入社、バブルがはじけた時で審査部で不良債権になるならないのぎりぎりのところの取引先を勉強しました。
大手電機メーカー(GE)に就職。
2004年家業に戻る。
会社を運営スタイルはこうも違うのかと言うことを勉強しました。
私が家に戻って来る直前に父が倒れてしまうと言うことがありました。
2001年から毎年新しいものに挑戦してきました。
すこしずつ素材が改良されている中でソースがどれだけ変わっているのかということに対して、一つのアンチテーゼとして出したかった。
食の世界では直ぐに新しいものには飛び付かない傾向にあり、半歩先をねらってきました。
スパイス感のしない状態に持っていこうと試みました。
香辛料の量を押さえたものを作っていきました。

2012年には半径50km以内の原料で作る、地ソースのベースのような考え方。
東日本大震災を経験して、本当に地元だけで回せるのか、その時にどういう味になるのかということのトライアルでした。
2014年には和食に合うソース、2015年には浜名湖産の牡蠣を使ったオイスターソースには塩麹八丁味噌を使い、2016年には米の甘みを生かしたソースなど和の原料を使う。
ソースが世界の中に受け入れられた時に、原材料だけを見たらすぐにぱくられてしまう。限り無く日本ならではのものを使ったソースだと言うことになると、日本からという起点が出来るので、原材料をより日本ならではのものにしています。
和食に使える芯が無いと、着地点がないのではないかということになってしまって、日本人が普段食べているものによりソースを浸透させたいという狙いはあります。
ウスターソースも進化して、ウスターソースでいいのかなあとの思いもあり、名前も考えないといけないのかも。
















2018年5月18日金曜日

内藤啓子(長女)              ・【わが心の人】阪田寛夫

内藤啓子(長女)              ・【わが心の人】阪田寛夫
詩人、作家 大正14年大阪生まれ、東京大学卒業後、朝日放送に入社、ラジオ番組の制作などに携わりました。
しかし文筆業に専念するために退社し、昭和50年には「土の器」で芥川賞を受けました。
また童謡「サッちゃん」「歌えバンバン」「夕日が背中を押してくる」など作詞者としても知られています。
平成17年阪田寛夫さんは亡くなられました。(79歳)

昨年「枕詞はサッちゃん」を出版。
父は小説とノンフィクションの中間見たいなことをコツコツと丁寧に書いた人でした。
阿川佐和子さんとは幼馴染で中野区の鷺宮の20軒ほどの団地の中で一緒に育ちました。
「強父論」を阿川佐和子さんが父のことを書きました。
「サッちゃん」は佐和子さんがモデルになっていると言われているが。
実はモデルの方に迷惑がかかってはいけないということで父は黙っていたが、大坂の幼稚園の一期上にさち子さんと言う方がいて、名前の響きが好きなのと風のように走る女の子で、初恋だったのかなと思うんですが、阿川さんとの対談でようやく発表しました。
言葉と曲がぴったり合っていて、一字一句変えられないと父は言っていました。
父が亡くなったとに、大阪の幼稚園に歌碑が出来ました。
妹(大浦みずき)と一緒に除幕式に行きました。

阪田一家と吉田一家(母の家)は近くに住んでいました。
共に裕福なクリスチャンの家庭で、南大阪幼稚園を作るにあたっても両家が力を尽くして、「サッちゃん」のモデルは一期生、父は二期生、母は三期生でした。
父は悪ふざけする感じの子だったようです。
母は8人兄弟の末っ子で物おじしないタイプで大柄な人でした。
阪田家の長男のかずお?と吉田家の長女のみえが恋愛結婚して、その二人がめんどうな親戚を増やしたくないということで弟と妹をくっつけちゃえと言うことだったようで、母はみんなが結婚せいと言っていたからしょうがないから結婚したわと言っていました。
父はラジオ番組の制作などに携わりましたが、退社して文筆業に専念するようになりまた。
すでに「サッちゃん」の音楽著作権料が入って来ると言うのも一つの要因だとは思いますが。
両親が毎日大喧嘩していました。
或る時「今日から俺を叔父さんと呼べ」と言い出したんです。
離婚するということになって、言われたその日から「叔父さん」と言い出しました。
でも結局離婚しませんでした。

母も3回危篤になり、父も最後に具合が悪くなり、聴覚は最後まで残るので呼びかけなさいと言われて、「叔父さん」とか言ってしまってはまずいので名前を呼んでお茶を濁しました。
父は外面が良くて、外ではほとんどしゃべらず照れ屋で自意識過剰なタイプでした。
家族でどこかに行くことは皆無でした。
しゃべらず照れ屋の父が詩「猫を飼う規則」を朗読する。
父はメモ魔でなんでも書いて取っておくので、母は燃えるごみにすればすっきりすると言っていました。
一作品に段ボール一箱あり、書き上がっても取っておくわけです。
私に清書の鉢が回ってきました。
昭和40年代前半にドラマを担当していましたが、筆が遅かったです。
出来栄えについては常に聞いてきましたが、その対応が難しかった。
手紙を出した手紙のコピーなども残しておきました。
ユーモアの感覚は詩の方に生かされていると思います。
「おなかのへるうた」 作詞 阪田寛夫 作曲 大中恩
大中恩さんは阪田寛夫のいとこです。

旧制高校は高知で三浦朱門さんとは寮で同室でした。
その後もずーっと交流が続きました。
まど・みちおさんと一緒に詩集を出したりしています。
父はお金には恵まれませんでしたが、まわりの方には恵まれたと思います。















2018年5月17日木曜日

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命
1950年東京足立区生まれ、67歳、高校卒業後、粋でいなせな噺家として知られる五代目春風亭柳朝師匠に弟子入りしました。
一朝さんはその江戸前の芸風を見事に受け継いでいて、 江戸っ子を演じさせたらこれほど似合う噺家は珍しいと言われる程です。
江戸の言葉を正しく話せることから、大河ドラマ龍馬伝などの時代劇で江戸弁の指導などもしています。
笛の奏者としても二つ目時代はプロとして歌舞伎で吹くこともしていました。
今年入門から50年の一朝さんに伺います。

枕でのフレーズの定番「イッチョウ懸命頑張ります」はいつごろ始めたのかは覚えていません。(二つ目のころからか)
今年芸歴50年、でもあっという間ですね。
特にお祝い事はしません。
兄が落語の本を買ってきて面白くて、TVで落語の番組を見てからですかね。(中学2年)
自分で覚えて教室でやっていました。
先代の金馬師匠、圓歌師匠、志ん朝師匠などを覚えています。
TVの素人寄席には高校2年の時に出ました。
予選で100人ぐらいいて駄目だとおもっていたら、本選に出ることになりました。
文楽師匠、ミヤコ蝶々師匠、アダチ 龍光師匠、一龍斎 貞丈師匠など審査員はそうそうたるメンバーでした。
その番組で4回出ました、その番組で真打ちとなりました。
「上手いね噺家になりなさい」、と文楽師匠に言われてその気になりました。

小さい時はこまっちゃくれた子だったようで、いたずらばっかりやっていました。
小学校のころは野球選手に憧れていました。
めんこ、ビー玉、べーごまなどをやっていました。
兄弟は兄がいました。
高校は都立化学工業高等学校に行きました。
落語家になりたかったが、高校にはいかなければ駄目だと親から言われて、「落ち研」があったので選びました。
「落ち研」は2人でした。
年に1~2つ位を本で覚えて文化祭でやったりしていました。
3年なる前に噺家になろうと思って、弟子にいったが、学校に通いながら噺家見習いをしていました。
林家正蔵(彦六)師匠の処にいったが、弟子が一杯いた為惣領弟子の春風亭柳朝師匠の処に行くことになりました。(高校2年)

父は日本刺繍の職人ですが、落語が好きで反対はしませんでしたが、母親が良い顔をしませんでした。
新人でも良い着物を着ていました。
春風亭柳朝師匠は絵に描いた江戸ッ子という感じで言葉に関してうるさかったです。
「がぎぐげご」は特に注意されました。
普段の俺を見ていろというような感じでした。
落語は直ぐに覚える様な感じでこなせました。(よく聞くようにしていました)
稽古は色んなところでやっていました。
1970年4月 前座になる。名は朝太郎。
1973年9月 二つ目昇進し、一朝に改名。
1980年 弟弟子春風亭小朝が一朝よりも先に真打昇進
1982年12月 真打昇進するが、師匠柳朝が脳梗塞に倒れる。
1984年 第4回国立演芸場花形新人大賞受賞。
1986年 文化庁芸術祭優秀賞受賞
1991年2月7日 師匠柳朝死去。(私が41歳の時)

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」などの時代劇で江戸弁の指導することになる。
最初は「半七捕物帳」でした。
「龍馬伝」では勝海舟への指導でした。
物語に関する資料を集めて勉強などしました。
義父の五代目片岡 市蔵さんが綺麗な江戸弁を喋っていましたので、師匠もそうですので両方から影響を受けました。
二つ目の頃歌舞伎で笛を吹いていて、7,8年やりました。
妻とは楽屋で会ったり、浅草の喫茶店で会ったりしているうちに、付き合うようになりました。
高校の時に笛を買って吹き始めて、噺家になってから先生のところに行って学ぶようになりました。
弟子は10人います。
2007年 総領弟子朝之助が6代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進。
2012年 二番弟子一之輔が21人抜きの大抜擢で真打昇進。
なんかきっかけを掴んでうまく作用するとそうなるんですね。
変な方にはいかないように(基本ができていないのに話を今風に壊すとか)だけは、弟子に対して気を配っています。












2018年5月16日水曜日

池内了(名古屋大学名誉教授)        ・科学の光と影

池内了(名古屋大学名誉教授)        ・科学の光と影
73歳、日本の科学の第一線からは引退されているが、様々な分野の科学技術に造詣が深く、日本科学会のご意見番的存在と言われています。
そして私達は発展進化してきた科学技術の成果のうえに生きているが、その科学は善悪両面がある、光と影、裏と表の二面性があると説き続けています。
池内さんは多くの著書を通じて科学の内実を伝え、科学の未来をバラ色に描くのではなく、科学は使い方次第で善から悪に転嫁する事を忘れずに、むしろ科学がもたらす影を常に想像してその弊害を少なくするために、科学とどう付き合うべきかを考え続けて来ました。
現代の科学と社会の関係がいかにあるべきかを考え、著作活動に加えて講演、講座に多忙を極める池内さんに伺います。

小さいころから物を知りたがる、聞きたがる、仕組みを考えたがる理科的な発想を持っていました。
4歳上の兄がいて、何をやっても負ける訳です。
兄を観察して唯一勝てるのが理数系だと思いました。
日本で唯一ノーベル賞を貰った湯川さんに憧れていました。
素粒子物理学をやろうと思って京大に行きました。
全国から優秀な人間が集まって来る訳で、宇宙物理学を選びました。
湯川先生の一番弟子の林先生が助教授にいましたが、素粒子物理学から宇宙物理学に向かったので私も行きました。
40歳過ぎたころから新聞に科学者の観点から世の中の様々な出来事を論評するという記事を書いて来ました。
生物、化学、数学など様々あり、基礎的な部分は押さえておかないといけないと思いました。
子供向けの岩波ジュニア新書を読んで、大まかなことを探ります。
関連文書を数冊読んで、幅をひろげました。(全分野浅いが)
広い観点、違った観点から論ずれば面白いのではないか、という事を取り上げてそれを本にしてまとめてみようと思ってやってきました。

1995年大阪大学で教授をしていましたが、3つの大きなことが起きました。
①1月に阪神淡路大震災が起きて6000人以上の方が亡くなった。
地震は予知できない、明らかなのに今でも予知できるという看板を掲げて科学者がのうのうとやっているのはけしからんと言うことを新聞に書きました。
東日本大震災で予知できないことが認められた。
②3月にオウム真理教事件(サリンをばらまいて死者が出た)が起こりました。
阪大の出身者がオウム真理教のナンバー2にいると、宇宙物理学出身ではないかと、お前の弟子なのかと、もしそうならばお前の教育が悪かったんだという手紙を読者から貰いましたが、弟子ではないと言ったが。
大学で私たちは教えていますが、私は物理学を教えていましたが、大学では知識を教えているだけ、知識が世の中にどのように生きているかについてはなにも教えていない。
世の中に科学と社会との関係に対してなにも教えていないので、大学教育としてはおかしいのではないかと思いました。
倫理的な考え方を身につけるべきだと考えて、科学と社会の側面を意識しました。

③12月には高速増殖炉のもんじゅがナトリウム漏れを起こして、ストップしてずーっと動かないまま去年廃炉になってしまった。
核燃料リサイクルは非常に技術レベルが高くて、もんじゅは原型炉だがもっともっと小さな炉から実験に順次取り組む必要があると、いっぺんに飛びつくのはナンセンスだとこれも書きました。
3つの大事件が起こって、科学と社会に関して研究を進めることが必要だとずーっと考えるようになりました。

科学によって非常に人間生活、社会生活、生産力とが良くなって来る部分が光の部分だとすると、弊害もある訳でそれを影と呼んでいます。
自転車、車、飛行機、人間の足の代わりの能力を拡大するが、車に乗ると歩かなくなり糖尿病にかかりやすくなる。
手計算、漢字も書けなくなる。
エアコンを使うと快適になるが、人間は汗をかかなくなり、急に暑い所に来た時には汗が出せなくなり、熱中症になったりする。
固有の能力を保ちたいのなら、余り科学に頼らない方がいいということです。
科学の民生利用と軍事利用、人を活かすために使えるし殺す為にも使われる、二面的な使われ方。
GPSは軍事的な目的に使われたが(潜水艦の位置、軍隊の位置など)、今はカーナビに使われている。
便利だと言うだけでは、危ないということです。
役に立つ科学と役に立たない科学があるが、役に立つばっかりが強調されて本来の科学
としての哲学的な部分とか、精神的な分野があり、商用主義が広がりすぎていて科学の純粋性が失われている。

人類の未来を考えてみた時に、ホーキングも言っているが「滅びに向かっている」と言っているが、もう少し俯瞰してみて、どういう方向に言ったらいいか考えてみたいという気持ちは強くなりました。
3・11の東日本大震災に対してどのように対応すべきか、を考えた時に僕は逆行していると思っている。
海岸べりの上に埋め立てをして50階とかのマンションを作る訳で、液状化問題、大きな津波が来た時には非常に危ない。
リニア新幹線など、より発展という論理ばかり追及していて、もうそろそろ発展という論理は止めて充実という豊かさを求める時代として次の時代を考えないと行きずまりますと僕は考える訳です。

はたして人間は原子核そのものをコントロールできるのだろうか。
100%安全な技術はあり得ない。
技術とどう付き合うかの問題になって来る。
原発はやめるべきであると考えている。
海底で掘削して資源を取るなどあるが、ほんとうに慎重にやらないと大変な事態を引き起こす可能性がある。
メタンハイドレートなどは下手に空中に散布してしまうと、温暖化バスとしては炭酸ガスの25倍あり、いっぺんに地球温暖化してしまう可能性がある。
寺田寅彦が1935年に亡くなっているが、80年以上前に、「科学によって人間は傲慢になっている、傲慢になってはいけない」と書いています。(地球物理学の科学者)
「天災は忘れたころにやって来る」
「文明が進むにしたがって、人間は次第に自然を征服しようという野心を生じた」

スケールアップ、スピードアップしているが、その結果として事故が起きると凄い悲劇がおこる。
新幹線技術は素晴らしいが、直下型地震があったりすると大丈夫か、よほど慎重に運転しないといけないと思う。
これ以上余り便利さ、効率性は求めなくていいのではないかと思っている。
「必要は発明の母」という言葉があるが、今は「発明は必要の母」となって来ているのではないか。
思いがけない発明が如何にも自分が必要であったかのように誤認する、その結果として発明が刺激を与えてより必要性を高めて行く。(企業戦略)
消費者の欲望を引っ張り出す為に広げて行く。
便利さを追求して行くと人間の固有能力が失われてゆく、人間が退化に向かってゆく。
AIが広がり色んなものに適用されると、余裕の時間が出来るが、教養を高めるための本を読んだり、名曲を聞いたりすればいいが、無駄につかってしまって、より忙しくなる。
AIは人間に危険なものであるとホーキング氏は警告している。
50年ぐらいの間に警告の兆候が出てくるのではないかと思っています。
















2018年5月15日火曜日

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび
福島県生まれ、59歳、実家の農業を継ぐため三重県にある愛農学園農業学校で有機農業を学びました。
卒業後は20年間インドやバングラディッシュで農業の指導に当たり、帰国してからは福島県の飯館村で自然農法による農園作りに取り組んでいました。
村上さんが考える自然農園が実現しつつある矢先に東日本大震災、全てを失ってしまいました。
最終的に母校を避難先にした村上さんは三重県を拠点にして再び自然農園をスタート、持続可能な自然農法を通して新しいコミュニティーを作りたいとお話してくださいました。

福島県では藤の花が咲くと霜が降らなくなり、きゅうり、いんげんとかの苗を畑におろすということをしていました。
こちらに来ても同じです。
花、鳥の声、カッコウが鳴けば苗を植えても大丈夫だと福島では言っていました。
こちらに来て5年目になります。
標高が640mあります。
若干温かいがあまり変わらず、福島でやっていたリズムとほとんど変わらずにやっています。
自然農業は有機農業という一つのカテゴリーの中の一種で、自然のルール、自然が持続可能に何万年も築いたルールに沿った農業と考えています。
自然の森にはさまざまな虫などがいて、あれほど持続可能なものはないです。

持続可能性は3つのものによって作られている。
①植物が育って行く中で、植物、動物、微生物という、植物は太陽によって光合成をして食べ物を作る、それに動物が乗る、そしてどちらも死んでしまえば微生物が分解して戻して来る、循環というものが森林では行われ土が豊かになって行く。
疲弊することがない。
②生命は循環しているが、一つのものに頼らない。
安定するためには多様性が絶対必要で植物、動物、微生物が多様になる。
多様であるがゆえに様々な条件の中で生きていけるものがあり、それが繋がって循環している。
安定性は多様性から来ている。
③多層性、土、森の土は落ち葉により覆われていて、草、小さい木、中間の木、大きい木
という訳で多層に覆われている。
森は動けないので育つためには太陽の光、雨が必要で、この多層性が、太陽であれば強い光は上の方が使ってだんだん弱くなるに従って全部使って、太陽の光を最大限に使うシステムがある。
雨はショックをやわらげて出来た土を流さないように必ず守っている。
水源は森がショックを和らげてゆっくり土のなかに溜めて行くのでそれが水源になる。
太陽と雨を最大限に使うシステムを森が持っている。
最大限に使いなおかつ安定する多様性がもので循環している。
①循環、②多様性、③多層性が持続可能にする一番の基本だと思っています。

農業が1万5000年前に始まった時に先ず森を切る。
多層性が無くなってしまう。
自分の好きなものだけを植えるから多様性が無くなる。
収穫して持って行ってしまうので循環が壊れる。
農業は自然が持っている、循環、多様性、多層性を無意識に壊している。
豊かな土地が砂漠化している。
そこから自然農業は自然が持続可能にしている、それを農業の中に取り戻してゆくというふうに考えています。
飯館村で自然農園を作ってきた。
2002年から2011年まで9年間行ってこちらに移って来ました。
草生栽培、なるべく耕さないということを考えました。
土の上に有機物をおいておくと土がどんどん柔らかくなる。
作物の間には草が生えてくるが、或る程度大きくなると切ってそこのは畑に帰してあげると言うことをやってきました。
妻は結婚する前、自然食レストランをしていました。
2003年に結婚、飯館村で自然農園を基にしたエコビレッジコミュニティーと言っていた活動をしていました。
レストラン、石窯パン工房、農家民宿、海外の有機農業を勉強しに来た人たちにも教えていました。
賛同してくれる人が増えれば、自然に対して負荷のない生き方が出来るだろうと思いました。
2011年にはほぼ思惑通りの環境が出来上がり、2011年4月には一緒にと言うことで1家族が来ることになっていました。
イメージしてコミュニティーが出来ると思っていました。

原発に関しては勉強していました。
自動停止したということでほっとしたが、夕方になった時に非常電源が津波でだめになって外部電源は鉄塔が倒れて駄目で、バッテリーで1時間ということを聞いた時に、最悪は原子炉が飛んでしまうのではないかと焦りましたが、その後インターネットで調べたら冷えてきているような情報がありました
妻が夜中の2時に出先から来て避難しようと言ってきました。
インターネットで調べてみたら原発が冷却できなくなったと言う事だった。
直ぐに出ていこうと言うことで家族5人、研修生一人とで12日の明け方3時に妹の家がある山形県米沢に行きました。
その後妻の実家の浜松に行きました。
その後行き場のない人たちが20人ほどいたので、愛農学園に電話をして一時避難をさせてほしいと頼みました。
16日に他の避難者を含めて愛農学園に行きました。
昔16歳で愛農学園に来ましたが、当時愛農学園は4年制でした。
愛農学園はキリスト教を基本的な考えにして有機農業を教える農林高校でした。

長男なので、父親は卒業後継いでくれると思っていたが、2年間自由な時間を欲しいといったら良いと言ってくれました。
自転車での日本一周をするということで始めた半年後に戻って欲しいと言われて、もどりました。
その間に父親と決裂してしまいました。
世界中のどこに行っても生きていける人間になりたいと思ってインドに行くことを決めました。
それが人生の転機になり、20年間海外で暮らすことになりました。
貧しい人々に対してやっていることに色々考えて、シャプラニール海外協力の先駆けみたいな団体からバングラディッシュに行ってほしいということで行きました。
3年過ごすうちに農民と農業のあり方が非常に大きな問題があり、有機農業自然農業を進める方向に行きたいと思いました。
有機農場を作ったり、それをトレーニングすると言う仕事をしていました。
60,70年代からは種も買ってくる、農薬を使い、化学肥料を使って出来た農産物は安いということになって来ました。
有機農業がそういうことを解決するものだと思いました。

自然を収奪しないやり方。
環境問題、温暖化など様々な問題があるのは、人間が自然との生き方に対して利用はするが、循環の作用の中で生きて行くことを忘れていることが大きな問題になっていると感じてきています。
今は貧富の格差が物凄い。
世界のトップ8人の持っている財産は貧しい人の35億人と同じだというからむちゃくちゃです。
発展途上国など弱い立ち場の人達を搾取するようなことには関わりたくないと、飯館村で始める時のモットーとしました。
学ぶ場にしたいということで研修を一緒にしたいという事に関しては受け入れています。
フランスから一週間ほど研修に来たりもしています。
子供達の料理教室もやっています。
そのほかにも農産加工の物をワークショップでやってみたいと思います。
自分でものを育てて出来たものを調理するとかしたら、もっとそういう場ができると良いということで繋がって行く、そして農に関わって行く場所を作ろうと言うことで始まっています。









2018年5月14日月曜日

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事)   ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀 (1)
今年の全国高校野球は100回を迎えます。
関西大学卒業後、1968年 日本高等学校野球連盟の事務局に入り、事務局長、参事、2010年からは理事として半世紀に渡って高等学校野球を内側から支えてこられました。
1968年は50回大会の年で大阪興國高等学校が優勝、翌年は三沢-松山商業の延長18回決勝再試合があった年です。
大学時代もマネージャーをしてきました。
関西大学は朝日新聞の運動部のお手伝いをしたりスコアブックを付けたりなどしていました。
高野連が人を探していて、どうだと言うことでが話がありました。
野球のことが出来ればと思いました。
戦後高校野球の再開の話があり、GHQが日本の大改革を進めてゆく中で、新聞社が大会を主催すると言うのは適当ではないと言うことだったが、文部省の助言もあり、連盟と言う組織を作って両方でやったらどうかということで、大会を復活するために高野連を作ることになりました。

ルールの整備、大会参加資格など徐々に固めて行きました。
野球統制令を廃止して独立した組織を作らないと学生野球は発展しないと、当時の人が随分苦労したようです。
戦後の1946年 第28回大会、西宮球場で復活、19校(全国でも745校)だった。
50回の時には全国で3900を超える数になる。
2県で1チームでは予選で負けると出られないので、県から出したいと言う思いが強くて、増やしてゆくという事もありました。
宿舎(大部屋)、練習場の確保の問題などがありました。
ビジネスホテルのドアを開けて解放的にするとかアドバイスしたりしていました。
洗濯機の調達とか、宿舎側の協力などがありました。
出場校が49校になり、練習場の確保をなんとか70か所ぐらい行いましたが、結構大変でした。

当時高野連会長は佐伯達夫さん、高校野球は教育、人間形成の場であるということで高校野球を引っ張って行く。
不祥事に対しては厳しかった。
常にかばんの中にはがきが入っていて、筆まめな人でした。
情報を沢山の人から収集するのが得意でした。
佐伯さんは野球はお金がかかるので質素にということをやかましく言っていました。
1973年にハワイのチームがアルミのバットを持って行って使っていいかどうかの話があり、佐伯さんはそれを見て翌年には直ぐに決めました。
最初は周りからの反対意見がありましたが、進めて行きました。
金属バットで一番お世話になったのは芝浦工大の学長をされた大本修先生、金属バットは宇宙開発事業の一つの成果である軽い金属、先生は終生出来るだけ木製に近づけるようにという話はありました。
もう一人お世話になった人として加藤まさお?先生、東京大学校工学部、金属の材料工学 戦前ゼロ戦の制作にもかかわった人。
1990年に亡くなったが弔辞のなかで戦前は戦争にかかわったが晩年は平和の仕事、高校野球の金属バットのお手伝いが出来て本当に良かったという内容を聞いて感動しました。

1995年阪神淡路大震災、牧野会長の安否、甲子園球場はどうなんだろうと思いました。
一段落した後にバイクで出かけましたが、ゆく所の景色では野球はしばらく無理だと思いました。
甲子園はシーンとして大丈夫でした。
高校野球で復興の邪魔になるのではという思いもあり、意見が別れました。
えんどうやすお?さん(朝日新聞運動部長)から、IOC委員長の栗本?さんは生涯で一番つらかったのはモスクワオリンプックに行けないこと選手に伝えたことだったという話をしてくれて、努力しないでやらないと言うことでは駄目だと言うことで、踏ん切りがつきました。
2月15日に知事さんに相談に行きましたが、「被災地にも桜が咲く頃明るい話題がいるでしょう、おやんなさい」と言われました。
電車もなく交通対策が大変でした。
佐伯さんの不祥事に対する厳しさが、交通対策に関する交渉でも信頼してもらい、了解してもらいその時涙が出ました。

その時は高野連は牧野さんでした。
牧野さんは21年間高野連を務めました。
ストライクを先に言うのは日本だけで、牧野さんに言ったら替えたら方がいいんではないかと言われて、東京にいって話を進めようとしたが反対された。
物事が定まるには3つの法則がある、と言われた。
①なんか最初にやろうとすると馬鹿にされる。
②更に進めると猛烈に反対される。
③或る日自明の理と突然認められる。
最初リズムが違うという感覚があったが、今ではそうしないと不自然な感じさえします。