2017年9月21日木曜日

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】2(H29/5/27 OA)

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】2(H29/5/27 OA)
今年1月に「それでもこの世は悪くなかった」を出版。
読者層は従来、50代以上の女性が多くて85%程度だったが、今回の本は10代から40代の若い世代の読者層が増えて、40%を占めているそうです。
男性の読者も増えているそうです。

40代の女性
最近キナ臭くなってきたと戦時中の人がいいますが、今をどう思いますか?
確かにキナ臭いですよね。
日本はどうするかと言うだけでなくて、それを考えるために周りの国々とのあり方と関係してくるので、だから難しいですね。
こちらの価値観だけでは動く訳にはいかない状況になっているので、政治がらみについては意見を言えない。
私たちが知っている範囲はもしかしたら端っこの方だけじゃないかと言う気もします。
そういうわけでどうしていいかわからない。

18歳の女性
佐藤さんはどのように老いることへの絶望と、自分の人生を肯定する統合性の対立を乗り越えましたか?
絶望なんて感じたことはないので、乗り越える必要がないです。
私は自然に従うことをモットーにしているので、それが自然ならしょうがないじゃないかと思うので、人間は衰えなければ死ねないんだし、死ねなきゃ地球の上に一杯になっている場所が無くなる訳じゃないですか、そういう子供らしい素朴な考えです。
若い時死ぬことが判らなかった時代には怖かったが、長く生きてくると馴れていくんですよ。
経験するとどうってことないの、自然に馴れていくんですよ。
体の衰えがそれを教えてくれるんです。
若い時に命を失うのは悲惨ですよ、エネルギーがあるから。
歳を取るとエネルギーが段々無くなるので、長生きすると言うことはありがたいことです。
死は怖くなるし、自然に衰えて消滅して行くという。

68歳の女性
92歳の母と同居して面倒を見ています。
しっかり人だったのに、ボーとしている母を見ているとブルーになってしまいます、どうしたらいいでしょう?
どうしたらいいでしょうと言われたって困りますね。
生きとし生けるものは全て滅びると言う、この基本をしっかりと自分の中に根を生やしておけば、容認できるんですよ。
医学の技術が発達しているので、病気や死ぬとかに対して、身近に感じられないんでしょうね。
何とかなると言う思いで。
自然に滅亡していくと言うのは一番有りがたい終わりではないかと思います。

75歳の女性(視覚に障害を持っていて、主人とは死別、子供や兄弟もいない、悪化して行く目の状態が不安)
孤独感があってとても生きているのが辛い、前向きに生きる生き方を教えていただきたい。
それは辛いですね。
日に日に悪化して行く事実と向き合わないといけないと言うのは、本当に強い精神力が要りますから。
簡単に頑張ってくださいと言う言葉しかない訳だけれども、そんなの頑張れないことがわかっているんですよ。
生きている者は必ず死ぬ訳だから自分一人の問題ではないけれど、こういう問題はこの方一人の問題ですから、それを一人で耐えなければいけないと言うのは、本当に同情します。
ごめんなさい、そばにいって手を握ってオーラが少しでも残っているとしたら、それがこの人に伝わるように握っているしかないですね。
励まして慰めて話し相手になってくれる人がいたとしても、それでまぎれる孤独ではないですからね。
言うのは簡単ですけれども・・・。(佐藤さんの目から涙が流れている。)

岩手県の女性
人生山あり谷あり、そんななかでゆるぎない物があるとしたら一言で言ったら何でしょうか?
私は人生を貫いているのは逃げないと言うことです、来たものは受け入れる。
そういう生き方が性分に合ってるそうです。
昭和42年に夫の経営している会社が倒産して(2億円の負債)、倒産した翌日は小学校の同窓会に行くことになっていたが、当然いけなかった。
整体の先生のところにいって診てもらったら、いつもと違うと言われて、事情を話したら、先生がこれから同窓会に行きなさいと言われて、苦しいことが来たときに逃げようとするともっと苦しくなるのでそれを受け止めて戦う、それをした方が楽なんですよと言われて、楽になると言うことが助けになって、治療後にその足で同窓会に行きました。
その後色々ありましたが逃げないで受け止めると言うことをやって来ましたので、生き続けることが出来ました。
このごろ思うには、人間は一人一人身体が違う、性質も違う、身体が作ってきた私の気質から言うと、逃げないで立ち向かったほうがいいという、整体術からの知識だったのではないかと思うんです、だれにでも言うのではなくて、それぞれ人は違うので、相手のかたがどういう性格かと言うことが判った上で返事をしないといけない。
逃げないと言うことは、私の場合、と思っています。

フランスの哲学者アランの言葉。
「なんらかの不安、何らかの情念、何らかの苦しみがなくては幸福と言うものはうまれてこないのだ。」 この言葉にとても感動した。
「幸福論」を自分が苦労を経験した後で読むと実によくわかる。
苦しみがない時に読んでも何の役にもたたないと思う。
色んな苦労があってこそ、幸福と言うものが判る。
「それでもこの世は悪くなかった」の本の中の、列車のなかで女学生がお菓子を食べているシーン、向き合って試験勉強をしている。
彼女にとっては明日の試験は好ましくない、不幸と言ってもいいような出来事だと思うが、だけどもそれは幸福なんだと言うことを、色んな事を経験してきた人間はそれが判る。
「今は辛いと思っているかもしれないけれど、今こそ幸福なのよ。」と心の中で呼びかけました。
これから辛いことが待っている、どんな現実が来るか判らない。
戦争中には幸福ついて考える人なんか一人もいなかったと思います。
幸福について考える人が増えてると言うことは、世の中が安定していると言うことだと思います。
本当のどん底の時には幸福に付いて考えたりしません、現実と戦う事で精一杯ですから、でも後になって過ぎ去って考えてみると、ああしてシャカリキに戦った事も幸福の一つなんだと、なぜなら戦う力があったと、93歳になるとそう思うんです。

佐藤さんにとって書くことは好きだからですか、生きる為ですか?
両方です。
書くことがなかったら生きている意味がないと思います、書かずにはいられないと言うか。
「晩鐘」を書きあげてから、空っぽになって、書くことがなくて何もしないで暮らしていたらうつ病みたいに成ってしまいました。
生活の全てが書くことに向かっていたんですね。




















2017年9月20日水曜日

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】1(H29/5/26 OA)

佐藤愛子(作家)        ・【特集 佐藤愛子に聞く!】1(H29/5/26 OA)
佐藤さんは大正12年生まれ、93歳、昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、お父さんは作家佐藤紅緑さん、お兄さんの詩人のサトウハチローさんら、佐藤家の一家は波乱にとんだ人生を描いた長編小説「血脈」に出ています。
「血脈」は平成12年に菊池寛賞を受賞しています。
佐藤愛子さんが昨年出版したエッセー「九十歳。何がめでたい」は大きな話題となりその歯にきぬ着せぬ物言いと、自分にいいわけしない潔い生き方は幅広い年代から支持されています。
今年の5月の放送では事前にリスナーから佐藤さんへの質問を募集し、その質門にこたえていただきながらお聞きしました。

旭日小綬章を受賞。
90歳を過ぎると色んな事に感動する感受性が鈍感になるのでちょっと途方に暮れて、野蛮人とよく遠藤周作さんから言われ、晴れがましいことは似合わないんで、そういう席に顔出しすることはちょっと忸怩たるものがあり困惑しました。
自分が楽しくて書いてきたんで、書くことは苦しいけど止むにやまれる欲求があって苦しい涙をながしながら書いたというふうなことで、そんな立派な芸術家では有りません。
軍人には金鵄勲章という大変な栄誉だった。
瑞宝章を受章した時には「血脈」に描かれているが、兄が電話を受けてきて大喜びしていました。
彼は不良少年でならした人ですから、大不良少年が勲章を頂く世の中、日本は大丈夫かなと言ったんです。
むっとしたような感じで沈黙していましたが、やっぱり大変な栄誉だったと思います。

質問を募集
279通の便りがあり、①生き方、②死をどう迎えるか、③佐藤愛子さんの作品について、④健康若さの秘訣、⑤そのほか。
年齢18歳から94歳までのお便りでした。
愛知県の山川君子さん 93歳
「血脈」を2回読みました。
90歳以上の方が10人来ました。

私はわがまま自由に生きて来ましたが、私の年代の方は女はかくあるべきという決められた観念に縛られて自分を抑えて辛抱強く生きてきた。
そういう目から見ると異端などうしようもない人間に見えると思いまして、共感を持っていただけないんじゃないかと思います。

三重県北田典子さん
70歳代のころは長生きしたいと思われたか?
70代、80代のころは歳のことを忘れていました。
ここが悪いとかあそこが悪いとか、そういうことを思うことがなくて50代、60代のような元気でいたので長生きするとか、そういうことについて忙しくて考えることがなかったです。
親に感謝するのは健康に産んでくれたと言うことです。
90歳を過ぎたころから、眼は段々見えなくなり、耳が聞こえなくなるし、歯も駄目になってきているがこれは自然であり、あちこち駄目になって死に近づいて行くんだなあと、あるべき道を踏んでいるだけだと思っています。
抵抗してもしょうがない。
健康、若さの秘訣なんてないです。
長生きとかそういうものについて考えたことはないです、健康だったからだと思います。
「それでもこの世は悪くなかった」 表紙に若々しい写真を飾る。

宮城県菅原敦子さんほか
美容健康体力作りに心がけていることは有りますか?
何かを心がけると言うことをしたことのない人間で、その時その時の必要に応じて、例えば写真が若々しく見えても、ヘアメークの人に聞いて下さいとしか言えません。

帯広市山口さん
毎日の生活の中でこれだけは欠かさずやっていますか?
何にもやっていません、何しろ無精者です。
やってはいけないと思っていることは?
栄養剤とか色んな薬はあるが、一切飲まない、健康法は無視する。
わがままに生きていると人間は元気なんでしょう。
好きなものは時に依ります、父はてんぷらは、うなぎは何処のものでないといけないと言うようなものは病人だと言っているのを聞いて育ったので、父の考え方の影響を受けていると思います。
味噌汁は具を入れるな、本来の味噌の味が損なわれると言っていました。
入れるとしたら大根おろしを一つまみ、葱をきざんだものだけで、それ以外の物を入れると叱られました。

今心を寄せている男性はいますか?
いませんね、もう私ぐらいになると男も女もおんなじですよ。
50歳代まででしょうか、寄せると言うより気にいるということだと思います。
寄せるとはほのかな言うに言えない思いがあるが、気にいると言うのははっきりしている。

理想としては大きな人間、小さいことにはあまり気を使わない男性は気にいりますが、今はみんな小さいですね。
昔は男は理性で考えて、女は感情で考えると言うふうに思っていたが、男は女性的に成り、女は男性的になってきて同じ様になってきていると言う感じです。
それがいいとか悪いとかは何とも言いません。
今は男女平等で教育を受けているが、昔は男女別々に教育を受けているので教育の質が違ってくるし、男らしさ、女らしさが有ったが、段々そういうものが無くなってきている。
包容力のある人間の男だったら一番いいと思います。
孫がへなへなを選んできたら、別に文句は言いません。
色んなものにぶつかって、へなへなが直るようなおおきなアクシデントが次々に来ない限りはへなへなのままで終わるかもしれないし、それが生きることだと思います。
人間には無縁の可能性があります。

私は静かさの中に悲しみがあるような気がします。

私は麻雀が趣味で出かけるときに夫との戦いが起こります、自分の趣味と夫の機嫌、どちらを優先したらいいですか?
カラオケに週3回出かけるのが気に入らないのでは?
一人で留守番しているのが厭なのではないか、そこのところをはっきりさせる必要があるかもしれません。
夫婦の間のことなので私に聞かれても判るわけないですよ。
どちらかが最後に諦めるのではないか、それまで待つしかないですね。




































2017年9月19日火曜日

池永康晟(日本画家)       ・新たな美人画をめざして

池永康晟(日本画家)       ・新たな美人画をめざして
1965年大分生まれ51歳、独学で日本画の画法を研究し、独自の画風を確立しました。
画家としてのデビューは遅く本格的な個展は40歳のときだそうです。
インターネットで徐々に評判が広がって2014年に出された第一画集、画集としては異例の1万2000部以上を売り上げてロングセラーを続けています。
日本の近代美人画と言うと上村 松園、鏑木清方が2大巨頭で昭和では伊東 深水を最後に衰退をしてきました。
この途絶えていた美人画というジャンルの復興を目指して描き続けている池永さんです。

モデルの女性は清楚さと妖艶さを持つ複雑な表情で、服装は洋服であったり和服であったりするが、花や植物の柄が多く使われていて装飾性に富んでいる。
顔や肌の色が特徴で背景は褐色。
肌の色を出すのに25歳~35歳まで10年ぐらいかかってしまいました。
その間作品らしいものは描けなかったです。
美人画としては、書かれている女性に見た人が恋が出来るかどうかということが大事だと思います。
モデルが変わっても共通する、好みが半分入っているんだと思います。
僕の理想の造形的な女性もありますが、理想的な顔、振る舞いが私の中に有ります。
観ている人が自分の経験でその絵にかぶせてみることが多いので、内面は見る人の経験なんです。

美人画のジャンルが廃れたのは、美人画を思い浮かべるのは着物を着て、日本髪を結って、うなじを見せながらしどけなくたたずむ女性と言うイメージがあると思うが、戦後はそのような人は居なくなってしまう。
それを描き続けると嘘を描くと言うことになってしまうので、段々描く人が居なくなってしまった。
その後に現代的な女性を描くべきだったんですが、それを続けなかったということです。
グラビア的な役割、写真やグラビア雑誌の発達と同時に写真、グラビアに役割が取って替わってしまって、段々無くなっていったと思います。
今、女性が人物画を描いている人が凄く多くなってきて、男性の作家が少なくなってきた。
昔は写真は男の道具だった。
男性が女性を撮ることが主流だったが、女性の道具になり、女性が自分の暮らしを写真に撮り始めたら男性はなかなかかなわなくなる。
絵画でもそういうことが起こっているのかなあと、今思っています。

私は身の回りの女性を描き始めたが、美人画という意識はなかったです。
絵描きになりたいと強く思った事はなくて、3歳ぐらいの時に自分は絵描きだと思ってしまったんです。
自分の外の世界に気が付くと言うのが自我の目覚めだと思うんですが、その時に自分と言うものがこの世に有るんだなあと思ったときに、自分は絵を描く人なんだなあと思いこんでしまったんです。
3人兄弟の末っ子だったので、放っておかれて、鉛筆と紙だけを渡しておけば静かにしていた子だったようです。
父は絵を描いていて、母親も描いていたみたいです。
親は兄を絵描きにして私を小説家にさせたかったようです。
高校は大分芸術緑丘高校、音楽と美術のクラスだけの芸術の高校です。
日本画をやりたいと思って入ったが、サルバドール・ダリの自伝にはまってしまって、絵描きは普通じゃいけないんだと思ってしまって、絵の具を叩きつけるように人物画を描いていたら、情熱家だねと油絵の先生から言われて油絵を専攻しました。

卒業制作を2人だけ県展に出していいと言われたが、県展には人物画を100号で取り組み、卒業制作の50号には、黄土色、黒、白だけあればどんな絵も描けると言われてやってみようと思って、黄土色のコンクリートの流し台にかぼちゃを置いて蛇口を描いて、卒業制作にしました。
黄土色、黒、白は今思うと、今使っている3色なんです。
今も学校には飾ってあるようです。
美大に行くと言うのは大変だと思って、東京に行きたくて写真専門学校に行きました。
前田信三さんの写真が大好きで写真の勉強をしたいと思いました。
1年通ったが辞めて、国分寺に武蔵野美大があるが、美大にいっていた人たちの高校時代の人達のコミュニティーが出来ていて、そこに転がり込んで点々として油絵を描いていました。
しばらく風景画を描いていました。
岡田 有希子さんのファンだったが、(歌手)自殺して、それがショックで、彼女のために霞草の花束を50号に描こうと思いました。
枝が細く油絵ではどうしてもうまくいかず、友達から日本画で描くものだと言われて、日本画の絵の具をそろえ始めました。
綺麗な女性が好きで岡田さんは理想に近かったですね。
後藤久美子さんが一番の理想で、美意識の原点であり頂点ですね。

絵具の接着のし方から判らなくて、日本画は岩を細かく砕いた絵の具をゼラチンをといで描くが、紙かシルクの上に石をゼラチンで定着させる訳ですが、磨り込むというよりは置くと言う感じで、最初どうしても擦ってしまうんです。
くっつくようになるまで1年ぐらいかかりました。
絵具の分量、ニカワの濃さ、ニカワをとぐ時の温度、絵具を何回擦ったかなど、全部数字でデータを取って、どうしたらくっつくんだろうと言うことばっかりやっていました。
その間アルバイトをしたり、前田信三先生のところで仕事をさせてもらって、そこで構図のきり方の勉強になって、必要なところだけ切り取っても全体が判るんだと言うことが
判るようになり、その後の構図の取り方には随分影響があったと思います。

母の具合が悪くなり故郷に戻り、人物画を描き始め、肌色を探し続けたがどうにもうまくいかなかった。
家の前の蜜柑畑の土をニカワでミキサーにかけてキャンバスに塗り込んだが、失敗したと思ってお湯で洗い流そうと思って、お湯で洗い流した途端にぱっと肌色に発色して吃驚しました。
1年後東京に戻り、再現する事がなかなかうまくいかない。
段々肌色が再現できるようになり、作品を描き始められるようになりました。
キャンバスにまず褐色の土の絵の具を磨り込んで何度か洗って、染まったような形になりその上に肌色の土の絵の具を塗って何度も洗って、地の褐色と上の肌色と糸が織物のような表情が出るんです。
褐色と肌色の織り目があることで、見た人が織り目の表情を拾って、質感に替えてみるんです、それがとっても大事でそれが特徴だと思います。

2003年に青山のカフェで個展を開くが1枚も売れなかった。
人に見てもらえたという満足感はあったが、人物画は売れないんだなと思いました。
2005年 40歳で本格的な個展を開く。(京都のホール)
この時は作品は完売しました。
そのころホームページを始めて、作品を発表できるようになり、人物画を普通に描く人がやっと出てきたねと言う評価でした。
日本国内よりは海外からの作品の画像を使いたいと言う問い合わせが早かったです。

2014年画集「君想ふ百夜の幸福」を出す。
2015年 AKB48の総監督 横山由依さんのファースト写真集が出たが、その中に4枚の絵が入っている。
秋元さんから横山由依さんは京都美人なので日本画の美人画を是非入れたいと言うことで話を頂きました。
安心して絵で生活できるようになったのは、ここ3年ぐらいでしょうか。
貧乏で大変でしたが、自分でやったことなので楽しかったです。
2016年若い女流画家の美人画を集めた画集が出版されたが、この編集にも携わりました。
こんなに人物画を描いていると言うことを世間に見て貰わないといけないので、この本を出すと言うのは、この10年来の目標でした。
嬉しい、満足しています。
若い人は今人物画を描いています、沢山います。
ぼくらが子供のころは、絵画が生活の中に有りました、本の表紙、挿絵、お菓子のパッケージ、ポスターとかに絵画が使われていたので、又そうした時代が来るといいなあ、そうしたいと思っています。



















2017年9月18日月曜日

寺澤康行(日本鳴く虫保存会会長)  ・【にっぽんの音】

寺澤康行(日本鳴く虫保存会会長)  ・【にっぽんの音】
会員150名、今から50年前「カンタン」と言う虫の飼育が難しく誰もできなかったが、小平市の小野さんが子の飼育の成功して、「カンタン」を自分たちで飼育して戻してやろうということで、高度成長期でもあり、虫がいなくなっていて、なんとかしないといけないということとぶつかった訳です。
虫を飼育して還す活動をしています。
鳴く虫のコンクール、今年19回目、鈴虫、松虫、カンタンの三種類です。
虫の習性はそれぞれ違う。
虫の飼育に頑張り鳴く虫の文化をつないでいこうと言う2つが、基本になっている会です。
コンクールには誰でも参加できます。
暗い部屋に持ち込んで有る一定期間(40分間)で審査します。
①声が大きい
②声が長い
③声が綺麗
この三つで採点します。
トップには市長賞として表彰状が与えられます。

審査は6時~6時40分ですが、野生の虫は7時30分から8時頃から鳴くので、その時間に鳴くようにどうしたらいいか、とか環境を考えないといけない。
鳴くことは求愛なので、餌とか、色々な環境をどうしようか考えます。
私が小学4年生の時に担任の先生から、平和が来たら皆が飼うようになるからそれまで飼っておきなさいと、鈴虫を 5匹頂きました。
昭和25年は朝鮮動乱がぼっ発して、立川はジェット機が飛び交っていた時代でした。
そういうのが出発点でした。
風呂桶の古くなったものを貰ってそこで飼って、食料は動物性タンパク質、植物性タンパク質の両方を与えるといいと言われますが、多摩川で魚を釣って干して与えるとかしました。
虫を飼うようになって67,8年になります。
色々な種類の虫を飼いました。

①キリギリスの鳴き声 ②カンタンの鳴き声(一番低い周波数 2500Hz 鈴虫は3500Hz 松虫は4500~5000Hz) 
馬追い虫 1万500~3000Hzで還暦を過ぎるとほとんど聞こえなくなる。
虫は鳴き始めてから死ぬまでの間で周波数が変わって来るので、人間の年齢にすると30歳とか判りますし、収録した温度もだいたい判ります。
23,4度の声は語り掛けるような音に変わります。
鳴き方には3種類有ります。
①縄張り宣言の一人鳴き
②求愛の鳴き
③喧嘩鳴き(オス同士で餌の取り合い)

エンマコウロギ、ツヅレサセコウロギ
ツヅレサ=繕うという意味
晩秋になったら夜なべに今までボロになったところを、「肩させ、裾させ」と言うふうに縫って下さいと教えている言うふうに聞きまして、その虫の事を「つづれさせ」と言ったようです。
*観世流 能の謡「松虫」
クツワムシ キリギリス科 通称「ガチャガチャ」 庭に放っておくと忍者が来たときに鳴きやむと言われていたが、飼育してみると鳴きだしたらなかなか止まらない。
音も虫の声のなかでは最大ですが、性格はおとなしい。
和泉式部 
「わがせこはこまにまかせてきにけりとききにきかするくつわむしかな」
男の人をクツワムシに例えて詠った。

江戸時代 商売になって来る。(虫売り)
当初千葉で捕まえて江戸で売っていたが江戸末期になると、飼育方法を確立して、問屋さんに渡して、売る人間に渡して販売すると言うことが確立する。
最近は虫を飼育する人が少なくなってきた。
幕末に虫屋清次郎さんが「鈴虫のつくりよう」と言う本を出しましたが、20種類ぐらい取り扱っていた。
生活に困った武士なども飼育していたようです。
売る人は派手な格好をして売っていたようです。
虫の音を愛でることは日本独特のものです。
虫の音には癒されます。
紫式部が「鈴虫の巻」を書いたときに、鈴虫をこんな虫だと書いてますが、時代を越えて同じ声を聞いているんだなあと、そういうふうに思います。
























2017年9月16日土曜日

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)   ・いつの時も“すみれの花”咲かせて

竹林ヨシミ(元宝塚歌劇団員)   ・いつの時も“すみれの花”咲かせて
兵庫県宝塚市出身 90歳 1940年に宝塚音楽学校に入学、3年後卒業して初舞台を踏みました。
しかし、翌年、1944年太平洋戦争の激化とともに、宝塚大劇場は閉鎖、海軍に接収されました。
竹林さん達は象徴である緑色の袴を紺色の制服に着替え、移動隊として全国各地の兵舎を慰問して回りました。
戦後、ふたたび宝塚の舞台に立ち、1954年27歳で退団されるまで花組の娘役で副組長をつとめました。
3年前の宝塚歌劇団100周年の記念式典では最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。

学校に行って歌ったり踊ったりすることが楽しみでした。
宝塚歌劇団100周年の記念式典、歴代のトップスターが集まりました。
最高齢の卒業生の一人として式典の開会宣言もしました。
足腰が悪くてもステージに上がると足が自然に前に出ます。
その時だけ身体がしゃんとします。
2年先輩に淡島千景さん、4年後輩に八千草薫さんがいます。
お客さんを喜ばせると言うより、自分が楽しませてもらったと思います。
宝塚は私の心のふるさと、辛い時も楽しい時も母のような気持で宝塚を愛しています。

1927年横浜市生まれ、母を早く亡くして、父の仕事の関係で8歳のときに大阪に引っ越してきて、私たちは西宮市に引っ越してくる。
宝塚歌劇も見たことはありませんでしたが、担任の先生が宝塚ファンだったので、父に頼んだようで言われる通りに行きました。
歌う試験があり、何小節か楽譜を書くが、私は習っていなくて、前の方が歌う通りに歌ったら何とか歌えました。
黒い水着を着せられて、おおきな部屋に一人台の上に乗せられて、段々恥ずかしくなって赤くなって舞い上がってしまいました。
落ちると思っていたが入っていました。
父がよろこんでくれて、何もかもそろえてくれました。
学校に入って見学の時に行って、始めてみて余りの美しさにびっくりしました。
「すみれの花の咲く頃」美しく良い歌だと思います。

1940年の30期生でした。
朝一番電車で学校に行って、6時30分ごろ着いて当時掃除などは生徒はしませんでした。
ピアノが弾けて、バレエしてみたり、子供が遊んでいるのと同じ気持ちでした。
家庭訪問があり、学科は素晴らしいが実技の方がもう一つですと言われますが、私はやったことが無く、他の人たちは習った方が来るので出来るのは当たり前でした。
当時の体罰は当たり前でした、棒持っていて足を叩かれてみみずばれになる人もいましたが、でもやめないんです。
1943年首席で音楽学校を卒業。
櫻野美也子(さくらのみやこ)という名前になる。
戦争中なので派手な名前はつけられなくて、この名前を持っていったらこれにしなさいと言われました。
雪組で初舞台を踏む、「海軍」というステージでした。
アメリカの海軍の制服を着せられて点呼させられ、サーティーワンそれが私の番号で、それが初めてのセリフです。
ラインダンスも有りました。

昭和19年3月に戦況が悪化するなかで、宝塚歌劇大劇場は海軍に接収されて、移動隊として全国各地を慰問して回ることになりました。
日本ものが多かったです、人数は30人ぐらいでした。
早く戦争は終わってほしいと思いました。
鹿児島の知覧に淡島さんらと紺の制服をまとって汽車で行くんですが、満員で押し込まれて行きました。
娘道成寺を公演しますが、じーっと見ていました。(17,8歳の方たちでした)
終わると規則正しく敬礼して、白いマフラーが印象的でした。
結婚してから主人と知覧に旅行したことがありますが、若い元気な顔の写真がずらーっと飾ってあって思わず涙が出てしまいました。
皆、飛行機で自爆していったのかと思うと、言葉にならなかったです。

舞台の無い時は勤労報国隊として、軍服のボタンつけをしたりみんな頑張ってやりました。
B29が連なってきてそれが怖かったです。
足がすくんでしまって動けなかったが、青年が私を引っ張って家の壁にくっついて身を隠すようにしてくれました。
自分の身を守るだけで精一杯で、舞台に上がりたいなんて言うことは思いもしませんでした。
1945年8月15日、とにかく負けてもうれしかったです、電気が点いて明るいし、おびえないで済むし、舞台に出られるし、戦争が無くなったということは嬉しかったです。
学校の帰り、歩いていたら車に乗った米軍の兵隊がいきなり片手で担がれてしまって、製材所に連れて行かれて、食事をしていた人がいたが「助けて」と言っても助けてくれなかった。
私を降ろした瞬間に階段を降りて逃げました。
父からは坊主にしてズボンを履けと言われたが、それはできませんでした。

昭和21年4月22日に宝塚大劇場の公演が再開。
花組は夏の踊りと言う各地の民謡を集めた舞台で再開、阿波踊りをしました。
越路吹雪さんが「筏流し」を歌ったのが素敵でした。
戦争中は出し物が暗いし、観客も暗いが、華やかでみんなの笑顔が違います。
「源氏物語」で八千草さんが小紫、私が清少納言役でしたが、春日野八千代さんのお父さんが来るとの事で緊張してしまって、「姫君」と言わなければいけないところを「ひめみぎ」と言ってしまって、客席もワーッとわいてしまって、なんで笑っているのか判らなかった。
それが大失敗でした。
1954年、昭和29年27歳で結婚して退団しました。
後ろ髪を引かれる思いと、そろそろ身を固めた方がいいのではないかという事で、結果家庭に入ることにしました。
父からは「刺身につまがなかったらおいしくないだろう、つまあっての刺身だから、お前はつまでずーっと行ったらいいんだよ」と言われました。
退団の時は「すみれの花の咲く頃」を一人で歌うことが出来て、「櫻野美也子」と言って下さった方がいて本当にうれしかったです。
「戦争はいや」、その一言です。
「清く正しく美しく」 清く正しくは身にしみついていて、その通りにやってきていると思います。










































2017年9月14日木曜日

田村潤(元ビール会社副社長)   ・100年続く経営を考える

田村潤(元ビール会社副社長)   ・100年続く経営を考える
1950年生まれ67歳、大学卒業後大手ビール会社に入社、45歳で高知支店長として赴任します。
当時会社はライバル会社の革新的な新商品に押され、長年保っていた売り上げ首位の座を奪われるという危機的状況にありました。
そうした中、田村さんは起死回生を狙うためには現場を生かした営業が最も重要と考え、本社の意向とは違った取り組みをつぎつぎと展開しおおきな成果をあげます。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。
去年体験をまとめた著書を出版、サラリーマンを中心に反響を呼んでいる田村さんに伺いました。

現場から会社を変えるということができるということ、今日本の企業はいろんな問題を抱えていて、一生懸命やっても業績が上がらないというのが、大多数です。
現場に本質がある、現場にお客さんとの接点がある、徹底して現場に入ることによって見えないものが見えてきた。
そこで頑張っているうちに業績が上がってきた。
会社の都合ではなくて、御客さんに喜んでもらう、御客さんの視点で全てやっていれば、かならず成果が出てくるということが実績として証明されました。
20年前の経済的な状況が金融政策の失敗だと思っているが、日本の企業が元気が無くなってなんとかしないといけないという時に、企業の統治、ガバナンスの改革があって、短期的な利益の追求、投資効率を上げて行くとか、そういう風潮の中で時間を掛けて御客様との関係を築いていくとか、ブランド力を築いてゆくとか、お客様に喜んでいただく商品を開発してゆくとか、基礎研究を充実してゆくとか、時間がかかるけれど必要な仕事がないがしろにされて、短期の利益さえ上げればいいというそちらの流れが強化されて、会社の企画部門が強化されるとともに、現場が弱くなってきて、何のために働くのかという理念が弱くなってきた。

日本の企業の強みは御客様の為、会社のため、自分のチームのためにという理念と、現場でこつこつと徹底してやると言う、ふたつが日本の企業の強みだったのが、ふたつとも失われてきて、日本の企業の競争力が失われてくる。
人をコストとして考えるようになってきてしまっている。
イノベーションが大事だが、そこが弱くなっている、それによって新しい価値を見出すことが非常に難しくなっていることが問題だと思っています。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。

出身は東京、小学校2年から6年生まで北海道の遠軽町で育って、自然の中で育ってあそこでの生活が今の自分のバックボーンになっていると思います。
支え合うと言う文化があったんです。
自主自立の文化、昔は屯田兵からスタートしたところで自分たちでやるんだという風土がありました。
プールがなくて川のすぐそばで先生と生徒で穴を掘ってプールにしたりして、困ったら自分たちで何とかするんだという自主自立の風土がありました、それが何らかの影響をしていると思います。
当時の地元の人の集まる会(遠軽会)が有り、一流の漫画家、トップモデル、一流企業の役員、オリンピックのメダリストもいます。
豊かな自然の中で遊んでいましたが、みんなで助け合う、いじめなどは無かった。
異質の文化を受け入れる文化がありました。

高校、大学は東京でした。
山に登ったり、本を読んだり、音楽を楽しんだりしました。
当時安い二級酒を飲んだりしていて、金持ちがビールを飲むものだと思っていました。
会社には偶然はいったという感じです。
人事をやっていたので、学生を見る時にはその人間が努力を積み重ねていくことが出来るかどうか、そこに関心が有りました。
人間の能力はそんなに差がないと思っていて、努力を惜しまないで誠実に仕事をやれる、
性格がいい、そういった人間をいかに見極めるかということを重視して面接をしていました。
人柄の良さを何となく感じる、そういうことが一番大きいような感じがします。
最初は岡山県の工場に配属、労務課では現場の方と毎日のようにビールを飲んで、工場はこうあるべきだとか、自分の職場の問題はこういうふうに改善したいとか、色々話し合っていました。
人間の能力は無限にあると思いました、昨日と全然違うということがあります、愚直に
徹底的に努力しているときに、或る時に変わる、見えるようになる。
会社の業績を上げるには、個人の持っている能力を最大限に伸ばす、そうすればすべて上手くゆくということは体感としてわかったいた。
①現場に本質がある、美辞麗句、机上論はだめ。
②人間の能力は無限大にあるからこれを最大限に伸ばしてゆく。
この二つが自分のバックボーンになりました。
大事なのは情報を共有することです。
意見の対立の原因は持ってる情報量の格差に依るものが多い。
役割は違うが、平等なんだということの思想で、自分の考えを率直に述べて、議論して正しい結論を導き出して責任を持っていく、というスタイルが最初に有ってそのスタイルが営業にも活きました。

仕事は上から指示されるのではなく、自分たちで考えて良いビールを作っていこうという、そういうトライアルをした最初の工場でした。
現場の声をとにかく聞く、対等の立場、平等の原則があるので、上から目線、学歴、男女差など一切関係ないという事で、自分の与えられた役割を全うして行く。
岡山工場の文化の中で自分自身も育てられたと思います。
ライバル企業が画期的な新製品を出して段々シェアーが低下て行く。
高知支店に支店長として転勤する。
それ以上シェアーをあげると、独禁法に触れるので、会社の目標が無くなってしまった。
そうすると内向きになる。
役所的な文化が急激に出てきて、企業の体質が弱くなってきて、そんなときに他社の大ヒット商品がありシェアーが下がっていった。
御客さんからうちのビールの時代は終わったと言われてしまい、何をやってもダメだった。

ワーストワンになってしまって、本社の言うことをそのままやってもボロ負けすることはわかっていた。
すべて本社がやっていて、数字が悪いのは本社のせいにしてもしょうがないと思っていたが、何をしたらいいかわからなかった。
飲み屋さんを回り、一月の回るのを200、300と決めて、セールスを自分で決めてやっていこうと決めました。
ところが出ませんでした、そのたびにスイッチしていたら大変なので変えません。
そのうちに辞めてしまって、それはまずいと思って決めた目標はやると、又廻り始めてそっこからうまく行きました。(やっているうちに慣れて、段々面白くなってくる。)
4~5カ月で変わって来ました。
本当のうちの会社の精神、理念はちゃんとあるんだと、それを忘れたからいけないんだと、もう一度作りなおすんだと、その理念に基づいて、おいしいビールを作って御客さんによろこんでもらう、そういうメーカーになるのだと、最後の一人になってもやるんだとそういう覚悟を持てるまで半年毎日考えていました。

世界一おいしいビールを作る、作っても御客さんがおいしいと思ってくれないとだめなので、高知の人のことだけを大切にしようと覚悟を決めました。
高知限定のキャンペーンなどをして行きました。(上司の承認は得ませんでした。)
①「御客さんの為に」と明確にしました。(それまでは本社からの指示をちゃんとやる為)
今日やる仕事の意味を、何のために仕事をやるのかということを一貫させました。(理念、戦略、今日やる仕事)
②現場の基礎体力を付けることも大事です。
③自分たちで正解を見付けてそれをクリアする。
この三つをやりました。

東京営業本部長、副社長になる。
副社長になって3年目で首位奪還を果たしました。
高知でやった事を全国に広めました。
御客様の心理がどう移り変わってゆくのか、ライバルメーカの動きによって市場がどう変わってゆくのか、現場に入って判るようになりました。
ローカルに徹底的に入ることによって、本質が判るのでそれがグローバルの展開が出来る。
いろいろな変化、県民性、特有の文化を全部包含して、適切な手を打っていくことができる人間が世界のどこに行っても通用します。(本質をつかんだ人間)
首位奪還して社員が泣いていました。
仕事を通じて自分の人生が豊になるということを目の当たりにして、仕事とはとてつもなく素晴らしいものだと思いました。
講演では、「自分の足で立ちあがろう」と言っています。(自立性)
会社の使命、果たす役割を考えて行動する勇気を持とうと言っています、そのためには現場が大事です。
会社と言うのは使命があるので、御客さんに支持されてよろこんでもらう、そのためには時間をかけてより必要とされる会社に育てる。
どうしたら最短距離で御客さんに満足していただけるのか、考え続けることが大事です。
そうしてどうしたらいいかクリアになったら、そこまでやり続ける、回答はそれしかないです。
これからは世の中に御恩返しをしたい。
これまでの経験を率直に話をして、アドバイスがあればしていきたいし、良い仕事、誰かの為にやる仕事、多くの御客さんに喜んでもらう、そこに向かって仕事を集中していると、いい遺伝子がどんどん首をもたげてくるという印象がある。
仕事を通じて素晴らしい人になって行く、そういう経験をして貰いたい、それが恩返しだと思っています。