2024年3月19日火曜日

秋田道夫(プロダクトデザイナー)     ・機嫌のデザイン

 秋田道夫(プロダクトデザイナー)     ・機嫌のデザイン

秋田さんは1953年生まれ(70歳)。 現役のプロダクトデザイナーです。 大手メーカーで製品デザインを担当したのち、フリーランスに転身、代表作にLED式薄型信号機、六本木ヒルズや虎ノ門ヒルズのセキュリティーゲート、交通系ICカードのチャージ機などがあります。 2020年には現在世界一受賞が難しいと言われる国際的なGerman Design AwardのGold(最優秀賞)を獲得するなど、受賞多数。  最近はSNSでの情報発信や本の出版など活躍の場を広げています。 

この土鍋は陶器でもなく磁器でもない、その間ぐらいの材質で薄くて6mmで出来ています。 直径24cmぐらい、蓋のついた鍋です。 取っ手がなくて、鍋の一部を内部に弧を描く様に持つところが2か所ついている。 いかに使う人がスムースに浸かるかと言う事を考えています。 通系ICカードのチャージ機も斜めになっています。 平らだと上に何か乗せて忘れたりするので、上には乗せられないように斜めにしました。  アイディアは自分の失敗体験から来ます。 観察はデザインに勝ると言っています。 使い勝手のいいものが自分の仕事だとすると、よく観察されたものを作るものが使い勝手がいい。 

中学生の時にバインダーを買って、駄目になってしまってこういう方法にすればいいのではないかと思って、絵を描いて送ったんです。 それが工業デザイナーのスタートかなと思います。 色々なものを知るという好奇心がないと衰退してゆく。 何故機嫌が悪いのかという事も面白かったりして、それを解決すれが多くの人が機嫌が良くなるのではないかと思っています。 「機嫌のデザイン」、曇りの日が一番おおくて、晴れたり雨になったりして、感情が上がったり下がったりするよりも、曇りでいいと思うなら機嫌がいい、と言っています。 期待をし過ぎるなとも言っています。 

客観性があってそれが今でも続いていますね。  47,8歳のころには自分で売り込みに行った時代もありました。  具体的な仕事もなくて実力の発揮のしようがなくて、そこで思ったのが、月になぞらえて、月は球体で同じ面を見せていて陽も当たらない。 信号機、セキュリティーゲートもあまり気にはしない。 それとは逆に土鍋などは注目を浴びる。 一番注目を浴びたのは一本用ワインセラーです。 月の裏側の仕事も大事だと思って、信号機などもやっています。 両方やってみようと言うつもりでやっています。

使っている人が「これっていいだろう。」と言うようなものを作りたい。 言い過ぎない、言い足りないぐらいがちょうどいい。 「それ風」と「それ」とは違うと思う。 「匙を投げない」、細かいところに機微がある。 機微を感じるというのがこれからのデザインなのかなあと言う気がします。  ATMも会社によって手順が違ったりする。 手順、所作も大切なデザインだと思います。 一つの手順を減らすだけで、利用者が1000万人だったら1000万手順が減らせるわけです。  力の原動力は好奇心、観られてる意識です。 
























2024年3月17日日曜日

黒川勇人(缶詰博士)           ・〔美味しい仕事人〕 缶詰に魅せられて

 黒川勇人(缶詰博士)           ・〔美味しい仕事人〕 缶詰に魅せられて

黒川さんはこれまで世界53か国、数万個の缶詰を食べて来た缶詰通です。 世界の缶詰にはそれぞれの国の食文化が現れていて、実に多様です。日本の缶詰もグルメ志向にこたえる品そろえが増えてきていて、日常の食卓だけでなくアウトドア―の場面で人気を呼んでいる様です。 一方非常食の役割を持つ缶詰です。 防災食の観点から缶詰をさらにおいしく活用する考え方や方法についても黒川さんにお話を伺いました。

ブログで缶詰のことを発信してもう20年ぐらいになります。 海外に赴任した友だちに送ってもらったりとか、旅行に行ってその国の缶詰を送ってもらったりとか、それらを足すと今までに53か国の缶詰を食べていたことになります。 約2万缶になります。 ポルトガルでぜひ買って来てほしいのは干しだらのパテの缶詰です。 干したたらを一度塩抜きしながら水に浸して戻して、柔らかくなったらオリーブオイルとかニンニクを混ぜるパテがありますが、ポルトガルに行くとこれがちゃんと缶詰になっているんです。 とてもおいしいです。 首都のリスボンに行くと缶詰をメインにおつまみとして出す缶詰バーが沢山有ります。 缶詰が主役のレストランもあります。 世界で唯一と言う缶詰専門料理レストランには世界中から旅行客が来ます。 缶詰協会がありその直営店では20社ぐらいのメーカーで300種類ぐらいの缶詰が並んでいて、それを買いに行く観光客もいっぱいいます。 日本でも真似してほしいと思っています。 

フランスは缶詰のもとになった食べ物は瓶詰ですが、瓶詰を発明したのがフランスです。(1804年)  ナポレオンがいろんな国と戦争をしていて、兵隊の食料として便利なものはないかと国民にアイディアを出してもらった。 保存食の研究をしていた方が、煮沸消毒した瓶の中に熱々の料理を詰めて、それを鍋に入れて加熱した後でコルクで蓋をして密封したんです。 何故か半年、1年経っても腐らない、という事に気付いて、政府にお見せしたところそれが採用されました。 瓶詰が出来た最初でした。  6年後にその技術がイギリスに渡って、ブリキで缶を作ったんです。 缶詰が誕生したのはイギリスと言うことになります。(1810年)   フランスには鯖缶があって、ソースに漬けてあり、ソースが非常に凝っていて、蜂蜜味のカレーソース味とか、バジル風味のホワイトソース味とかいろいろあります。 

イギリスではベークドビーンズというのがあり、甘めのケチャップに浸った柔らかい豆料理なんです。 焼き豆と言うより煮豆です。 朝、食パンをカリカリに焼いて、バターをたっぷり塗ってその上にベークドビーンズをかけて、ナイフとフォークで食べるらしいです。 ぼーっとした味ですが、365日欠かさず食べる人が居るそうです。 ほうれん草の缶詰は味付けされていなくて、くたくたになっています。 くたくたになっているほうれん草をミキサーで粉々に砕いて、カレーで味付けをするために使うものだとわかりました。

アメリカで一番衝撃を受けたのは、スパゲッティーの缶詰です。 茹でたスパゲッティーが味付けされた状態で入っています。 おおきめの缶に入っています。 麺は伸びちゃっていて、ふにゃふにゃになっています。 旨いとは思わないが売れています。  コンビーフが誕生したのはシカゴです。 

日本ではツナ缶が売り上げのトップになっています。 モルディブ共和国ではマグロとカツオが良く獲れます。 1980年代水産加工ができる工場を建てて、日本のメーカーが支援して、缶詰を売れば外貨が稼げるという事でツナの缶詰をヨーロッパに売りました。   2011年の東日本大震災の時に、モルディブの政府が恩返しをしようという事で、8万6000缶日本の被災地に送ると発表して、一般市民もツナ缶を持ち寄ったそうです。 合計で60万缶被災地に送られたというエピソードがあります。 被災地では缶切りが無いだろうという事で、缶切りがなくても大丈夫なように缶を開け直して、熱湯消毒をして、作り直した缶を送ったそうです。 感謝の気持ちを伝えたいと思って2013年にモルディブに行きました。

最初缶詰を認識したのは4歳の時でした。  父親のキャンプに同行して翌朝、鍋に缶詰を入れて温めていました。 缶詰とは知らなっかった。 ごもくご飯の缶詰で感動しました。以後缶詰に興味を持ち始めました。 2000年ごろに仕事がうまくいかない時期があり、鯖缶での節約生活をしました。(数年) 自分で缶詰が好きなことに気付きました。   缶詰を真剣に見なおそうと思いました。 2004年に缶詰のブログをだしました。   研究しているうちに缶詰が仕事になってしまいました。   

アヒージョの缶詰、アヒージョはスペインの料理で、ニンニクを利かせたオリーブオイルでぐつぐつと肉とか魚を煮た料理です。 キャンプなどで鉄なべに中身を入れて一緒に野菜などを煮込むと美味しいです。 脂が残るが具の旨味が溶け出ているので、パンに脂を吸わせて食べます。 

缶詰は非常食に向いていると思います。 東日本大震災の時に、宮城県の沿岸の缶詰工場はストックしてあった缶詰がヘドロまみれになりました。 石巻では丸2日ぐらい食べるものがなくて、缶詰工場の人たちがヘドロまみれの缶詰を取り出して、缶詰でしのいだという事でした。 防災食審査委員を務めて5回目になります。 防災安全協会が年に一度あり、僕は缶詰を審査しています。 毎年新しい商品が出てきています。 非常食も普段食べているものに近いものへと変わってきていて、ローリングストックが推奨されてきています。  或る時にまとめ買いをしておいて、普段使って、減った分を購入する。 ご飯、パンの缶詰もあります。 肉、魚のほかに煮物などの副菜があります。 食後のデザート、スイーツ缶があり,美味しいです。 (精神的ショックを受けているときには甘いものが大事です。)
















 













2024年3月16日土曜日

藤本秀弘(次の世代に引き継ぐ会」理事)  ・「生物多様性の森」のまもりびと

 藤本秀弘(「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」理事) ・「生物多様性の森」のまもりびと

昭和18年滋賀県多賀町生まれ、81歳。 長浜市西浅井町山門の森とのかかわりが始まったのは今から37年前でした。 当時は高校の理科教師でしたが、専門は地質学、生き物は専門外どころかむしろ嫌いな方だったそうです。 そんな藤本さんがどのようにしてこの森の保全に関わるよになり、現在も理事を務める団体、「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」を設立し、今に至っているのか、そして森の将来についてどんなことを考えているのか伺いました。

当初数年続けばいいという考えはありました。 植物関係の研究会に入っていて、こちらは地質学なのでどこか総合的な研究が出来る場所がないかと探しました。 琵琶湖の西側の今津と言うところの近くにフィールドがあると言ったら、別の人が山門を紹介しました。 その場所を選定しました。 1987年3月21日に最初行きました。 その後10人ぐらいで月に一回5年に渡って活動しました。 「奥びわ湖・山門水源の森」は広さ63ヘクタールぐらい(甲子園球場が16個入る。)、そこに3つの湿原がある。 森や水源が生物多様性を持っている。 滋賀県の一番北で、少し行くと敦賀湾が見えるんです。 冬場は豪雪地帯です。 前には琵琶湖があるので夏場は逆の風が入っています。 面白い植物があります。 ブナとアカガシがちょうど境目になっている。 豪雪地帯のユキツバキと平地のヤブツバキがあります。 その雑種が出来てユキバタツバキと言います。 

森全体は薪炭木(炭焼き用の木)です。 平安時代の後期にはすでに炭焼きをやっていたという記録があります。 900年にもなり、20年に一回切ってゆくとなるとかなりの回数になります。 人の手が関わり合って今日まで来ています。 琵琶湖周辺には湿地が多数あったが、高度経済成長の中、湿地がつぶされて山門湿原が最後に残っている湿原となります。 湿原そのものが酸性なので、栄養がないところに生える植物が結構多く観られます。 絶滅滅危惧種などもあります。 日本にはトンボは約200種いると言われていますが、そのうちの100種類ぐらいは滋賀県にはいます。 そのうちの半分はこの狭い湿原にいます。 ミツガシワと言う植物が可成り広いの面積を占めています。 元北大の湊?先生の本の中にミツガシワがあり、それは生きている化石だという文章を覚えていました。 それが一つのきっかけになったかもしれません。 白い星のような花びらがあり、そこに繊細な毛が生えています。

一時期そこに開発の手が加わろうとしました。 1960年代ゴルフ場ブームがあり、ゴルフ場に植える芝を湿原で栽培しようという話が持ち上がり、一部工事をはじめました。  保安林でもあったのでその事業は中断しました。 その後ゴルフ場として開発しようという事が表面化しました。(1990年 新聞報道で知る。) 重要性を県、地域に説明ししました。 アマチュアのメンバーだったので行政への圧力はなかった。 1992年に調査した報告書を作って、一旦終わりという事にしました。  自然の貴重性とかなんか惹かれるものがありました。 バブル経済の崩壊と言うことでゴルフ場開発もとん挫しました。 

1996年に滋賀県が買収をして県有地化されました。 しかし盗掘などに困っていました。 専従の件の職員を置いて欲しいという要望を出しましたが、人件費の問題もありかなえられませんでした。 我々の方で保全に関われるようなグループを作ることになりました。 それが「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」になって行きました(2001年)

最初はコース管理と湿原に入って来る土砂の管理で精一杯でした。 1960年代に一部芝の育成用に開発した部分がありましたが、すでに40年近く経っていました。 もともとは湿原だったが、樹林に変っていました。  湿原に戻そうと、県と相談して、最初は狭い範囲で取り組みました。 10m×10mの樹木を取って3年経過を見ました。 湿原の植物、トンボなども戻ってきました。 その後全面積に対して進めて行きました。 2007年から復元作業に入りました。 終了したのは2010年でした。 呼び掛けて手伝ってもらって574名最大でかかっています。 作業した日は152日になります。 切り倒した木は人手で湿原の外に運び出しました。  湿原を維持するためには人手を加えて行かないと維持できない。  

1990年代ミツガシワが結構ありましたが、2000年代に入って鹿の食害が進みだして、2010年には全く咲かない状態になってしまいました。 2011年から防獣ネットを張って、再生を試みました。 8,9頭ネットにひっかかりましたが、ネットを破って中に入って食べるという事もあり、毎日見回りをしました。 数年やっていて、現在は中に入って食べられるという事はありません。 ほぼ従来と同程度までは再生してきました。 冬場は2m近く雪が降るのでネットを外す作業があり取り付けの作業もあります。 山頂にある笹も鹿に食べられてしまって、その対策でネットを同様に張って、笹も回復しています。

生物多様性の保全は難しいです。 昔は保全と言う意識はなかった。 人と自然との営みの中で多様性が維持されてきている。 人が引きあげてしまうと保全しようとすれば、当然なにがしかのテコ入れをしないと実現しない。 2050年にどういう森であって欲しいか、という議論をやっています。 引き継げる森にしたいと思っています。 若い人たちに入って議論してほしいと思っています。 会員は130名程度で推移しています。








2024年3月15日金曜日

2024年3月14日木曜日

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ 

原岡見伍さんは1951年兵庫県西宮市の生まれ。  NHKのアナウンサだった父親の転勤で過ごした大阪で、1957年から60年までの3年半NHK大阪放送児童劇団に所属し、テレビやラジオの子役として活躍しました。 その後東京の高校、大学時代は野球に熱中し、大学卒後は就職した証券会社や民放テレビ局などでも演劇とは無縁の生活をしました。 2002年から2011年チーズ輸入自社加工メーカーの常務や子会社の社長を務めましたが、東日本大震災により全事業を手放し退任、破産に追い込まれました。 体調を崩し、長期療養を1年半が終了した時点で、俳優の仕事が心から好きだったと改めて判り、芸能会社のオーディションを受けて合格、養成学校で学びました。 2015年4月から子役時代より半世紀余りの空白を経て、後年俳優の道を歩んでいます。

今年公開される映画に端役で出ているのと、ユーチューブに一本出ています。 NHKBSに初めて出させていただきました。 「プラトニック」と言う題名のフレンチレストランのマネージャーとして出ました。 「チコちゃんに叱られる」にも出ました。 昨年健康サプリのCMにも出ました。 

父が原岡一郎で元NHKのアナウンサーでした。 1934年に入局しました。 父が大阪に転勤になった時にNHK大阪放送児童劇団に入りました。 1957年に子役デビューしました。 「子犬と線路と少年」の主役の少年として出ました。 「赤いほっぺのほっぺちゃん」というラジオ番組にも出ました。  稽古でリアルさを習ったりしました。 父が広島に転勤になり3年半ぐらいで辞めることになりました。 広島では放送劇団はなかったので何もしませんでした。  その後東京に来て少年野球チームに入りました。 都立戸山高校、一橋大学に行きました。   高校ではピッチャーを主にやりましたが、上級生と意見が合わず2年で辞めてしまいました。 大学でも野球部に入りました。  東都大学の3部でしたが、レベルは高かったです。  3年生でレギュラーになりました。 

高校2年の時に哲学、思想に興味がでてきました。 大学ではフランス語が第二外交語で、シャンソンが好きになり、演歌とは違った乾いた悲しさがあると感じました。 大学卒業後は野村証券に入りました。 11年務めてその後フジテレビでも12年務めました。   その後ソニーのコンピューターエンターテイメント、そのほかの関連会社に行きました。  父が病に倒れてしゃべれなくなってしまって、父の世界を継ごうかなと言うような思いが出てきて、新聞にフジテレビの採用の広告が出ていました。  それを見て行ったら受かってしまいました。 

ソニーミュージックとコンピューターエンターテイメントのトップを兼ねていた人から声がかかって移ることにしました。  その方が辞める時には私も辞めるというような契約でしたが、思ったより早く辞められて、私も独立してプロデューサーの会社を立ち上げました。イタリアの食品関係の会社から役員としてフルタイムで来てほしいという事で、会社をたたんで行きました。 順調に行っていましたが、2011年の東日本大震災で原料を保管してもらっている倉庫が全部だめになってしまいました。  資金繰りと工場再開に向けて半年間奔走していましたが、或る時にドクターストップがかかってしまいました。 1年半療養をして、その時に全部を捨てました。 辞めて2か月後に会社を倒産という事になりました。 

体調も良くなって、今後どうするか考えた時に、演劇とか思想とか表現の方の世界が好きなんだろうと改めて思いました。(62歳)  役者がやれるかなあと思いました。 今入っている所属事務所のPRがガラ系で見かけました。 縁だろうと思って申し込んで、授業料を払って2年間研修をしました。 2015年にプロダクションとしての契約をして、芸名も「原岡見伍」にしました。  最初はエキストラから始まりました。 かつてやっていた仕事が役でもいろいろ生きています。 73歳になりましたが、自分では年を取ったとは思わないんです。 50代中、後半ぐらいからの役を含めてやれたらいいなあと思いますし、夢ですが端役でもいいからカンヌのレッドカーペットに行きたいです。 昔のフランス人の恋人に見て欲しいと思います。  シャンソンでも何かできたらいいなあと思います。

人生49:51で51を選ぶときには、以前は僕は大変そうな方を選んできましたが、大変でも苦労しても大丈夫なほど好きなもののほうを選んでいった方がいいと思っています。 そうするともっと努力も出来るし、我慢、耐えることも出来るだろうと思います。











2024年3月13日水曜日

坪川拓史(映画監督 俳優)        ・室蘭から世界へ

坪川拓史(映画監督 俳優)        ・室蘭から世界へ 

坪川さんは1972年北海道長万部町出身、高校卒業後上京して1991年に劇団オンシアター自由劇場に研究生として入団、同時期に独自で映画製作も始めます。 1996年故郷長万部町にあった映画館の解体をきっかけにして、初長編映画作品美式天然」の製作を開始して10年がかりで完成させ、「第23回トリノ国際映画祭 (グランプリ)、(最優秀観客賞)」を受賞しました。 その後2007年にアリア」、2013年にハーメルン」、20221年にモルエラニの霧の中」を公開し、ほぼすべての監督作で脚本、編集、音楽の作曲とピアノ演奏を担当、2011年に故郷室蘭市に戻って室蘭市から映画製作を続けています。 自主映画のために上映する映画館の交渉まで全て自ら行っているという事です。 来月は短編映画2作品と長編映画4作品の全作品が東京と京都で公開されるという事です。

美式天然」は2005年に製作して19年目にしてようやく公開されることになりました。高木均さんが完成の前に2004年に亡くなられて、追悼試写会流行っていましたが。   イタリアのトリノ国際映画祭でグランプリと最優秀観客賞を頂きました。                 2作目がアリア」で完成が2007年でしたが、17年目でちゃんとした劇場公開となりました。 試写会とかもあんまりやっていないです。 脚本もいつも自分で書くので、この人にやって欲しいと書いてしまって、俳優さんに貴方を想定して書きましたという事で、交渉して9割7分ぐらいの確率になっています。 キャスティングもロケ場所も全部自分でやっています。3作目がハーメルン」、最近の作はモルエラニの霧の中」です。 2020年に完成しましたが、コロナで延期になって2021年に岩波ホールで公開されました。

子供のころは映画館のない街でした。 函館、室蘭が近い都会で、18歳までに見た映画は3本だけでした。 「キタキツネ物語」「南極物語」「ネバ―エンディング・ストーリー」だけでした。東京に行った途端に一杯観ました。 小学校5年生の時に男子を集めて、お話を書いて、演出みたいなことをして、美術、衣装を作って発表したりしました。

東京に来て専門学校に入って寮生活を始めました。 同宿の人が朝までゲームをやっていたりして僕が飛び出しました。(2か月で中退)  大田区洗足池公園でホームレス生活を送る。 11月ごろに親にもばれたりして正式に退学届を出しに行ったら、芝居のタダ券を上げると言われて、行ってみたのがオンシアター自由劇場」の「ティンゲルタンゲル」の芝居でした。 これをやりたいと思ってしまいました。 基礎も何にもないので、2年ぐらい悶々としました。 20歳の時に入団のオーディションがあり、受けに行きました。 そうそうたるメンバーの方たちが怖そうな顔をしていましたが、小日向文世が中央にいてニコニコしていました。 小日向さんに何か楽器は出来るのか聞かれて、とっさにアコーディオンが出来ますと嘘をついてしまいました。 合格しまして慌ててアコーディオンを買いに行きました。 今はアコーディオンが食い扶持になっています。 

近所に映画学校があり、「映画に出てくれませんか。」と言われて、出ることになりました。(8mmフィルムで撮影する学校)  製作中にいろいろ注文を付けていたら、「だったらお前が撮れよ。」と言われて、撮ることになりました。 そう言った彼とはカメラマンとして長い付き合いをしています。  20代は俳優としても10作品ぐらいは出させてもらいました。 30歳過ぎてからは映画を撮るだけになってしまいました。  撮っていると出たくなり、出ていると撮りたくなります。 本当は絵本作家になりたかったが、絵が下手だったので駄目でした。 

本が出来上がった時には頭に浮かんでいてロケ場所などは決まってしまっています。 ハーメルン」は福島県の会津の昭和村がロケ現場でした。 2009年から始めていたので、東日本大震災は2011年で丁度真ん中でした。 廃校に関する検索をして気にいったものを壁に貼って書いたんですが、いざその廃校を60か所捜してもなくて、2009年の1月に知り合いが似た廃校があるという事で、理想通りではなかったらハーメルン」を撮るのは辞めようと思って行ったら、まさしくそれでした。 

モルエラニの霧の中」では香川京子さんに出ていただいたことが信じられませんでした。 撮影開始が2015年でしたので、当時香川さんは80歳を過ぎていました。 小松政夫さんも出演しましたが、亡くなったのが2020年の12月でした。 小松さんには5作品出てもらっています。  最初に小松さんは舞台があるので出られないという事でしたが、僕が「何年でも待ちます。」と言ったら真剣な顔になって「出る。」と言ってもらえました。美式天然」は撮影で8年かかりました。 以後作品に出ていただきました。

吉田日出子さんからは大きな影響を受けました。  美式天然」では吉田日出子さんの撮影だけで5年ぐらいかかっています。 名女優です。 山田吾一さんは父親の先輩で美式天然」に是非出てもらいたくて、お会いした時には送った本には赤線が一杯入っていてよれよれになっていました。 大杉漣さんが皆さんに行ってくださった言葉が有って、「映画と言うのはみんなで同じ船に乗って旅をするのと一緒です。 モルエラニの霧の中」も途中いろんなことがあるかもしれないが、いつかきっと 素敵な港に着くと思うので、その乗組員の一員いなれて嬉しいです。」と言ってくださいました。 

こういう絵が欲しいと思ったら待っちゃう。「美式天然」に満開の一本桜のシーンがありますが、ちゃんと咲くのに3年待ちました。 CGは使ったことがないです。 資金がない分を時間を贅沢に使っています。 大丈夫と言っていたらいつかは大丈夫になると信じてやっています。  モルエラニの霧の中」の続編を撮りたいと思っています。