2011年12月31日土曜日

青田昌秋(流氷科学センター所長73歳) ・海は母 流氷は友

青田昌秋(北海道立オホーツク流氷科学センター所長73歳)    海は母 流氷は友
地球環境を知る上でも重要になってきている 40年以上を流氷を見つめてきた
流氷は現在サハリンにいる 1月下旬に青い海がしけたようになって 水平線上に真っ白い筋が
見える それが流氷到来です
「友有 北方より来る また楽しからずや」  流氷の筋が帯になり段々広がって 遂に岸まで
及んで それまで青い海が全部真っ白い雪原になってしまう
流氷とは→大気をぐるぐる回して 気候を穏やかにして地球のエアコンであり 海水をぐるぐる回し
て地球を穏やかにしている海のベルトコンベアー この大きな空気の塊を地球規模で回す 
海の水を地球規模で回すことによって地球全体を穏やかな多くの生き物が住める星にしている 
エアコンとは→北極、南極では空気が冷えてきます 

なぜならば 流氷が太陽の光を殆ど反射してしまって冷たい空気を作り上げる 
冷たい空気は重い 地球にへばりつきながら赤道に向かう そこで熱帯の暑さを和らげてくれる 
熱帯の温かい空気は軽くなって高くまで行って 成層圏まで
行って 冷やされて南と北に別れて今度は沈み込む 
今度は冷たい空気が両極を穏やかにしてくれる 
海水に関しても同じ 南極周辺から沈んだ重い冷たい水は 何千年もかけて赤道まで上がって来る 
冷たい水を創り出しているのが流氷です
長崎県生まれ 昭和18年5歳の時に諫早市に疎開する 
20年に国民学校に入学 8/9 蝉のガンガン鳴く熱い日 閃光を感じる  それが原爆だった

防空豪に隠れる キノコ雲をはっきり覚えている 母は兄と祖母を探して数日は帰ってこなかった 
兄と祖母は帰らぬ人になった
ぼんやりした不条理 不満 無常感が 有ったようだ 高校時代に肺結核を患う 
原爆に類する様なものが俺にも来たなと思った
北海道大学を希望 北海道の秋の風景の写真のある雑誌の表紙をみて行きたくなった 
北海道は死に行くようなものだと云われる
反対する人が多く母が色んな人に相談するが勧める人が有り 結局行く事になる
昭和33年 進学 寮ではラジオを置かず議論をする場所でありとの考えがあり 多くの人と議論を
重ねる 友人たちが一杯出来る

物を作る方には興味がなく 非建設的な方に流れて行った  地球物理学を専攻する 
海のテーマ をやりたい 京都に行ってとりあえず食う為に高校の先生をやると云った
親友が 海をやりたいのなら すぐそばの低温科学研究所がある 
雪の研究で有名 田畑先生を訪ねてみろと云われる
田畑忠司先生は所長 他の人と話をしたらしく (明日は京都に行く日程になっており切符も用意して
有った) 再度話をしたときに 「青田君人生は賭けだよ」と言われる
結局 京都行きは中止して切符は払いもどしになり 送別会をやって貰っていたが再会の宴を催した
低温科学研究所での仕事は→戦争末期ごろから流氷は軍事研究としても必要だった 
流氷が来ると潜水艦が来れない 軍艦が来れない 

いつ頃流氷がくるか どのように来るか どこまで氷がはるか を研究をしていた 
 戦争が終わると 流氷が漁船に対して妨害になった 遭難の元にもなった
流氷研究の為には現場に施設をつくらなくてはならない という事になり レーダーの設置案が出てくる  
世界ではこの様な例がない(3か所設置)
昭和44年に流氷レーダー網が完成する それまでは目視観察だった 
曇った日、雨の日、夜は見えない 昼夜に関係なく調査が可能となった
流氷の複雑な動きが判るようになった オホーツク海は流氷の南限  流氷による遭難は無くなった
流氷はいつごろ現れるのか どういう力で押し寄せるのか 
どの程度の構造物をつくれば壊れないか ・・・災害科学だった
海底油田の開発が必要になり 流氷研究が役に立つようになる

昭和50年ごろ 国立局地研究所と一緒になって氷の下の生物の研究をするようになる 
流氷が植物プランクトンを育てるのに非常に良い役割をしていることが判って来た 
繁殖しやすい状況を作っている 
栄養分が川から流れて海に来る 底に溜まって来る 流氷が来ると冷たい水を吐きだす
 (濃い塩水) 沈んでゆく 入れ替わりに 栄養を沢山含んだ水が浮いてくる
対流が起こる  流氷にへばりつく 流氷が植物プランクトンが住みやすい状態を作ってやっている 
光が当たりやすくなる
植物プランクトンを食べる動物プランクトン 動物プランクトンを食べる小さな魚 その上に大きな回遊
がいる 鮭 鱒 鯨 大きなピラミッドが出来る

食物連鎖の一番底辺を支えているのが植物プランクトンです 
今までは漁業者は流氷は船が出られない、網は破かれる 等々問題視されていたが
最近は流氷が来なくなるようであれば魚が来なくなってしまうのではと 、漁業者が考えるようになってきた
30数年流氷のデーターを取って来て それを整理してみて 又沿岸部の測候所の気温のデーターを
照らし合わせると気温はどんどん上がっている 
流氷勢力棚が段々下がって来たことが浮かび上がってきた 
レーダー観測が災害科学よりの環境科学に私は目的をシフトしてきた
網走気象台は明治25年から目視の観測を行っていた 
同様な形にデータを整理してみたらもっと長い歴史がみられるのではないかと思った
克明なデータが網走気象台には有った 宝物に出会ったように感じた

120年分のデータが揃った  大きな流れを見てみると明らかな気温上昇 流氷勢力の減少が
浮かび上がってきました 
この100年で平均気温が1℃上昇 流氷勢力が半分近くに落ちてきている
オホーツク海の流氷はかろうじて氷っている 青い海が冬になると白くなる 
春になると青に戻ると云う非常に極端に色で表現してくれる
地球の微妙な温度センサーである 地球の体温計ですね 
オホーツク海を謙虚に観ていると矢張り気温は上昇している 
あっちの研究者 こっちの研究者が違った方法で地球の気温を研究しているが
結局総合すると矢張り地球は温暖化している 今地球は異常な方向に向かっている 
どうしますかと言われた時に  少なくとも 今 物 物 物 と物を追求してきた  
産業革命以降 必死になって物を作って 大きな貢献をしてきた

しかしそれには限界があるんじゃないかと かつて植民地時代のように新しい島を見つけて富を
取る時代ではないと 地球は籠の中の小さな星であると
判ったと 空気はよそから貰えない 海水もよそから貰えない 
そういう星に住んでいるんだと それがこの300年の間に大変な量を生産してきた
物が物を売る時代だったと そこで起こっている現象が皆さんがおっしゃっている地球温暖化 
と私は信じている
もう物、物、物の人間の欲望の世界をこれ以上に進めると云うよりは 間違えてもいいから進め
ない方向にパイを置きたい
地球温暖化、流氷の減少は人類に対する自然からの警告だと思います

流氷の魅力→スケールの大きさ 広大な変化 今まで荒れ狂った青い海が静かになって動から静の
世界に入る 氷が張ると静寂の世界になる
紋別を中心に子供たちに自然の大切さを伝える活動に力を入れている 
小学生、中学生、高校生のグループを 連れて冬に海岸で流氷を見ながら
環境の変化について話をしたり、夏から秋にかけては地元の川を遡上する鮭を見ながら 
海と川 山と森と自然の繋がりについて話したりしている

2011年12月27日火曜日

松野みえこ(プロジェクト代表主婦)    ・インターネットの絆で被災地に船を

松野みえこ(41歳 牡鹿の海を未来へプロジェクト代表主婦)    インターネットの絆で被災地に船を 
東日本大震災で牡鹿の鮎川浜の漁師が船を失い 9/中旬 一隻の漁船がボランティアの人達による襷リレーで送り届けられました  
船を失って途方に暮れている漁師に替わって船を下さいとツイッターを通して全国に呼び掛けたのが東京、練馬区に住む松野さんでした
松野さんの郷里はこの鮎川浜です
昔は捕鯨が盛んで今の10倍の人口だった わかめ、銀鮭の養殖をやるようになる 
今は800名程度 (震災前)

地震当日は子供の卒業の別れ会の最中だった 
すぐ家に帰り 忙しく TVで津波の映像を見たのは夜主人が帰って来てからだった
鳥肌が立って動けなかった (母が2度死んだ気持ち) なにも無くなった 
知っている人皆死んじゃったのかなと思って どうやったら連絡が取れるのだろうかと思った  電話は連絡が出来ない TVでツイッターの事を知る 携帯でアクセスする( 鮎川)  
行きたい気持ちはやまやまだったが 長女が脳性まひ(13歳)長男が自閉症(10歳)  
末っ子(2歳) 家から出られない状況だった 
ここで出来る事であれば夫も協力すると云われ 膝を抱えているのであれば物資を抱えた方がいいと云われる 
先ず古里の状況を知りたかったのでツイッターで書き込みをして3日目ぐらいから情報が入るようになった 先ず叔母との連絡が取れる

なにが無いかが判って来た 物資の呼びかけが始まる 
食べ物 水 情報を流す すごく早く反応が有る 一番短いのは30秒
ツイッターでプロフィールが判るので確認をして個人情報は流さないようにした 
全て間に入って私はやった 
最初の1週間はあまり眠ってはいなかった様に思う 
昼間は子供の面倒をしなくてはいけなかったので お互いの信頼関係が出来てくる 
直接被災者と直接接触してくれるようになり 物資を直に送ってくれたりしてくれた
最初は水と介護用ウエットタオル ドライシャンプーその後お米を何百kgと送ってくれたり 焚きだしに行ってくれたり 衣類関係は一杯届いているのが判った
今なにが足りないか 母の知り合い(母は小学6年の時に亡くなる)が聞きまわって情報を集めた
毎日 送られてきた品物の確認と(中古品もあるので使えるかどうか) 
分類をしてダンボールに詰めて送る作業をした
情報をやり取りするなかで昔からの知り合いのごとくお互いが親密に成って行ったが、実際に会う場面になった時は「はじめまして」の挨拶から始まり,不思議な気がした  
私が小さい頃からお世話になっていた人が唯一コンビニエンスストアーを経営していて(半島で) 電話で話す機会が有った時に 「みえこちゃんね 私達はインターネットとかで,出来ないので代わりに伝えてほしいと 支援して下さる方 牡鹿に足を運んでボランティアをして下さった方に 牡鹿の人達を幸せにしてくれてありがとう   
「牡鹿の人達に温かい幸せをくれてありがとうと 伝えてね」 って云われた 
 
本当に涙が出るくらい 幸せっていう処まで 現地の人は全然行ってないんだけれども
思ってもらう気持ちが嬉しいから幸せなんだと云ってくれた,おばちゃんの言葉が凄く重くて 逆にあーやってて良かったなあと思いました  
壊滅としか言いようがない 最初の警報で避難した人は少なかったようだ
漁師をしている幼馴染 (安部利治) 最初死んだなと思ったが、避難所にいた 
家を流され、船も5隻流されてしまって 明るい人だったが 笑わなくなちゃったんだよね
と云われた 
それが胸に刺されて 震災から1カ月以上たってから連絡が有った 
なにが無い? 何にもないよ なにがあったらいい? 船が有ったらいいな
じゃあ頑張るよと言って電話を切る 
よくも無責任に今となっては思うが  ツイッターで書き込む「 5~13トンの船を下さい お金もなにも有りません 幼馴染を助けたい」

沢山の情報を得た 
北海道の船を運ぶ計画になったが運ぶのに無理が有り(金銭的に)断念 
小田原の船宿さんからOKとの返事を貰いましたとの連絡有
13トン つい先日まで現役で動いていたので問題ない 
メンテナンスも海航してくれるところも見つけました とトントン拍子に話が進んだ
奥田さん(船を紹介してくれた人)とも面識は一切なかった 
船を運ぶのに3泊4日であったが 部品の交換、震災の時に出たガレキが海に漂流していて思うように,航海出来ず 大変苦労しながら進む 無事に9/11に到着する  
中古船でも1千万円すると思う  
 
4か月毎日ツイッターで交信していた 昔ながら友のような感じに成って行った
船は「優斗丸」と命名 安部さんの子供の名前  その妹 もなちゃんも 震災前に骨肉腫に掛って片足を切断する (震災の3か月ぐらい前)    
大震災の時は奥さんともなちゃんは仙台の病院に入院していたので助かった 
バリアフリーの家を建てたが全て津波に流されてしまった
新しい人との繋がりが出来たので僕は(安部さん)は笑えるようになったんだよね と云っていた 有りがたくて 有り難くて 何トンワカメをとったら恩返し出来るんだろうかと最近冗談が言えるようになってきた  
ライフジャケットも3倍も4倍も集まって浜の人にも配布した

今回の船に係わって来たツイッターでの人は1000人越したのではないか
私と安部はしりあいだけれども それ以外の人達は震災が無ければまるっきり違う世界にいた人達で 私は東京で過ごしてきたので隣が引っ越したことも知らないようなことも有りますし、一つ一つの思いが一つになった時って 日本ってまだ捨てたものじゃないなって 人ってどこまで優しくなれるんだろう 有り難かった  
インターネット 掲示板の書き込みというのは 怖さも知っている 
有りもしないことで人が死ぬぐらいの中傷、誹謗することも出来るし 使い方ですけれども 
人を救う温かい手にもなる  
インターネットが無ければ被災地はどのように成っていたのか  
うしなったものは大きいけれども まさに震災が気付かせてくれた 
人の温かさ 繋がりの大事さ 再確認させてもらいました 
これで終わりではなくて始まりに繋げて行かないといけないなあと思います

2011年12月24日土曜日

谷口浩美(元マラソンランナー51歳)   ・転んでも踏まれても立ち上がれ

谷口浩美(元マラソンランナー51歳)                 転んでも踏まれても立ち上がれ  
1992年8月9日 「こけちゃいました」・・・スペイン バルセロナで開催されたオリンピック (20年前)での出来事 (転んでしまった)
2012年 ロンドンオリンピック    オリンピックハプニングショーでそのたびにマラソンで走っていて転んでしまった場面を放映される
東日本大震災で 南三陸町に行ったがTVで見るのと実際の景色は全然違う 
大きな事であれすぐに忘れてしまう(ノートに1ページごとに1歳、2歳・・・現在の自分の歳 まで書いてその年にどのような事が有ったか書いてみる 
そうすると意外と覚えていない 重大な事が有っても)

1976年から小林高校に行く 全国高校駅伝 1年から3年まで走る
1年で3区を走る 人の多さと自分自身が判らない 
谷口の為に負けたと皆の前で先生から云われた
(その場に母もいて泣いていたのを記憶している)
自分の失敗を覚えておかないと成功はない 2年、3年は優勝した 
3年の時に先生からキャプテンをやるように云われたが出来ませんと云う
先生は「役が人を育てるから」と言われる  
何で連覇を導いたかというと NHKの宮崎放送が小林高校の取材に来た
 
その映像の中に その合宿の時に先生の奥さんが朝食を作っている時に 奥さんがキャベツを切っていたと思うが 無言で切りながら涙していた
それを我々選手が見ていて よし 今度の優勝は奥さんの為に頑張ろう と思った
(ここで初めて人の為に頑張ろうと云う事がどういう事なのか 私自身学びました)
自分の為に頑張ることは大事なんですけれども 自分のこと以上にこの人に掛けて頑張ろうと気持ちを作ると云う事はもっと難しいけれども 出来ることかなあと思いました 
もしNHKの取材と放送が無かったら駄目だったかも知れない 
皆が一つになると云う事はやっぱり不足分を感じないと成果は無いと思います
 
本当はオリンピックには行きたいとは思っていなかった 
将来成りたかったのは小林高校の監督だった 
高校で日誌を書くようになる(先生に提出するための日誌)
その後は自分の為に書くようになった 
日体大に行く 小林高校の監督になるために 箱根駅伝 で1年の時は走れなかった 
2,3,4年は走れた
区間賞を取って4年の時は総合優勝した 
1年のときは先輩の使い走りで生活に慣れなかった
 
大学では自分で考えて自立する という事を学ぶ  
教員採用試験を受けるが通らなかった 旭化成に運よく 
入れてもらった(教員になる為の足掛りとして2年間で)
1983年に教員採用試験に行ったが矢張り落ちてしまった 
別府大分マラソンにでて初優勝した 
昭和59年に其の実績を持って試験を受けるが落ちる
(ロサンゼルスオリンピックの年) 教員には成れない事を自覚する  
福岡国際マラソンで2時間10分1秒で2番になる 
そこからオリンピックという目標のスタートになった

自分を律する自立が必要 ・・・マラソンをしたから自立がスタートしたのかも知れない 
練習しないと駄目 マラソンでは事前準備が如何に大事かが判る 
アトランタオリンピックは主将を務める
ソウルオリンピックにはいけなかった 陸上を止めようかと思った 
選考会は私にとって7回目のマラソンだった  準備はパーフェクトに出来た 
福岡で泊っていたら外は雨でした 時折雹がまじって降っている
体脂肪は3%しかなかった 雨が身体にかかっただけで筋肉が収縮してしまって駄目だった
寒さに負けてしまって6番  東京マラソンでも大失敗をする 
其の内容を放映される それを見ていた 
映像から写しだされる悔しい顔の映像は宗兄弟の顔だった 
 
これを見てこれから旭化成の後を引っ張ってゆくのは自分しかないなとこの兄弟をどうやって 笑わせてあげようかな(結果を出して)と自分の中に芽生えた  
小林高校の時代にこの人の為に頑張ろうと思った経験があるから そのような思いに至ったのかなと、もし見なかったらここにはいない 
自分一人で頑張ると云う事の中に人の為に頑張ると云うのは ここにいらっしゃる皆さんも経験が有る方もいらっしゃるかと思いますが、何かの為に頑張る 
誰かの為に頑張るというのは 自分では計り知れない力を持っています 
皆さんがそれぞれ持っています  
でもそのタイミングが合うか合わないかというのは差が有ると思います  
やり続けてゆくしか結果は出てこない
 
自分が窮地に陥っている時には周りが言葉で助けてくれたり物心的なもので助けてくれたりしますけれども いつまでも待ってたら全然解決しないと云う事です
自分が動いて初めて 動いてもできないと云う事に気付いて それから動くと云う事が出来はじめて 初めて自分の足で自分の言葉で動きだした時が、初めて自分というのが見えてくるかなあそれは凄くソウルオリンピックに行けなくてよかったなあと思います  
だからその後は世界選手権とかバロセロナ   
(バルセロナの3か月前に疲労骨折を起こしていて1カ月半ぐらい入院していた  
隠してくれた人が沢山いた 世間の漏れていたらバルセロナのスタートには着けなかった) 

バルセロナであそこで転んで そこで止めようと云う気持ちはまったく無かった 
転んで飛んでるときに自分の靴がどこに有るかというのは走りながら解っていた
私は良き時代に生まれたなと思います 
昔の生活様式を少しでも真似すると云う事は身体にいいと思う
(例えばトイレはもう駄目だが和式は足を鍛える)
出来れば1年、1年のなにをやったかな 遊び感覚でいいのですけれど そうすることによって じゃあ あれをやってないからあれをクリアしてみよう
というような新しい目標 課題が見えてくるんじゃないかなと思います

2011年12月22日木曜日

小松正之(大学教授)       ・鯨と共生する日本人と文化

小松正之(政策研究大学院大学教授)    鯨と共生する日本人と文化
鯨 商業捕鯨の一時停止(モラトリアム) 1982年に採択 1987年に日本では実施
捕鯨 江戸時代からある  
1947年からマッカーサーが食糧不足の解消の為に南氷洋に出ていいですよという事で出た
国際捕鯨委員会が漁獲の枠組みを定めてなかった  
1万6000頭(白長洲鯨換算) と決めてはあるが 早い者勝ちなので乱獲になってしまっていた
新しい資源管理方式を導入して行くんですが、それもあまり効果がなかった

 ミンク鯨を含め資源管理方式が決まるが其の時には環境保護のうねりが
強くて科学は脇に置いておかれて捕鯨は止めなさいと いう動きがあって日本は細々と調査捕鯨を
やって科学的に情報収集をやっている
捕鯨としての副産物は頭数はそんなに多くない 昭和30年代40年代の鯨を沢山食べた時代の人
は少なくなって若い人は鯨も他の肉も全然変わらない
値段が高いし、馴染みも無いので少しずつ鯨の消費は減退してゆき 忘れされつつあるのが
現状じゃないでしょうか
モラトリアムは本当は一時的な停止であって 科学的な根拠があれば 1990年までには見直して商業
捕鯨をする事が決まっていた

実際はミンク鯨は76万頭位いっぱいいる 多数決を取ると鯨が可愛いとかなにが起こるか判らないと 
捕鯨を再開しても乱獲になるかもしれないとかで
ズルズル延びて1990年から21年になる     商業捕鯨はまったく見通しが立っていない
調査捕鯨 年齢構成を調べてみればどの程度とっていいかが判る 
商業捕鯨につなげるようにとやった 1995年に見直した
日本の調査は欠陥だらけだと欧米から指摘された 0~4歳までの子供がどこにいるか判らない 
捕捉出来ていない 年齢別の全体像が曖昧との指摘
人の批判は宝の山だと思い 調査領域をもっと広げようと300頭を400頭に広げ調査海域を増やした
太平洋の系統は一つの系統 日本海は別系統であることが判る 
 
本会議に行くと科学での判定ではなく政治の世界になってしまう
縄文時代の前期に捕鯨をやっていた 三内丸山遺跡とか房総の稲原遺跡 横浜の称名寺遺跡
から鯨の骨、イルカの骨が見つかっている
能登半島に「まわき」からイルカ骨が285体発見されている 
座礁したあるいは浅瀬に見えた鯨、イルカを捕獲していたようだが 「まわき」だけは積極的に捕獲
していた様だ
後期になると大きな鯨の脊椎骨が福岡から有明海沿岸部 70数個見つかっている 
受身の鯨捕りではなく船で行ってとっていたのではないかと推測される
弥生時代 壱岐に古墳があり 船に人が乗って銛で鯨を取る絵がある  
平安、室町時代は朝廷に献上した記録がある 

捕鯨は戦国時代 武士の鍛錬になされた様だ もやい組漁業者の連帯みたいなものが出来て
協定を結んだり 三重県熊辺りでは知多半島辺り捕鯨の発祥地であるといわれている
突きとり式で射止める 有る程度グループを組んでやったのではないか  
突き取り式だと死んでしまった鯨が浮く鯨と沈んでしまう鯨があり 浮く鯨はセミクジラと
マッコウクジラ いつまでもこの鯨だけを取っている訳にもいかないので
長洲鯨 ミンク鯨 イワシ鯨 ニタリ鯨 は沈んでしまうので沈まないように支える必要がある 
行く手をさえぎるために網を使う事を発明する  網とり式になる(元禄終頃)
捕獲する対象の鯨が増える 
鯨組→ 刃刺しの集団 と網を巻く集団 鯨を船に上げて曳航する集団 で構成されている 
分業化されている  命懸けで有った
お互いに協力し合い 助け合って 取れた鯨を分け合っていたものと思われる  
利益を共有する

文化・文政時代に庶民に鯨の肉が行きわたる様になる  鯨の部位を60数か所 の記述があり 
食べ方が記載されている
鯨汁 皮を入れ込んで食べる 一頭丸ごと食べてしまうのは日本のみ ドイツ、フランス等は
ソーセージにする
後半の3年は(14年間) 科学等の 筋論では相手は納得しないので食文化の違いを含め説得
するようになって ニュージーランド等が納得してくれる
あらゆる人との話し合い 自分が何か仕事をする際に知識としてどれだけのものを包含して
なくちゃならないのか 一つのものを進めるのに如何に大局的な
知識と経験 能力が必要なのか という事を教えてもらった貴重な対象だったと思う
一つの側面だけでは解らない 技術 話力 英語力 交渉力必要  
自分がどういう風に生きるかという事が結果的に考えさせる 
いまだに考えさせるきっかけになった

鯨をめぐる交渉→今の状況を見てると心配 短期的な対応 中、長期的な視点 長い座標軸で
見ると 天然 有限資源 は自然のサイクルの中で完結しているので
地球の恵みの中で我々に与えられているものがあるので そのサイクルの中で利用してゆくという
ことが非常に大事になって来るんじゃないかと思う
農産物の場合は水をやって地下水(非持続的な) 肥料も石油から作ったりしている 
土地も土壌劣化(アメリカ)を起こしたり もしかすると工業的な農業が
後100年持たないかも知れない 全て鉱物資源から含めて今日、明日の経済を考えるとどうしても
そっちの方に目が向いてしまいがちですけれども
どっかできちっとした本当に人間の人間も生態系の一部ですから持続性の中でそれと調和が
取れた形で利用してゆくものの必要性というのはますます
理解が寄せられるだろうと思いますし 重要性が認識されると思う  

だから石油から着る物を作るのではなくて 持続的に回転する様な着る物も出来るだろうし
食べ物も 今云った様なものですね プランクトンから魚が食べて排出物も水を通して回転すると 
それを又餌としてプランクトンが食べてまた回転すると云う事ですね
環境団体の方は今 鯨をころすことの方が環境破壊だと云っていますが 冷静に科学的に常識的
に割り切れば 時代が変わってくれば情報が蓄積していったわけですから
20年間前に私がしゃべった事はあんまり理解はされなかったと思うんですが 今だと随分多くの
方が私の云った事が理解いただけるのではないかと思うんですが
こういう付き合いを人間が魚だとか他の野生動植物を通して大事にしていかないといけないと
云う時がもう本当は来ているのだけれど さらに来るでしょう
であるとすれば そのラインで物事を云ってゆく という事だと思うんです

2011年12月21日水曜日

清家ゆうほ(昭和の記憶理事長)    ・高齢者の記憶を後世に

 清家ゆうほ(社団法人昭和の記憶理事長)              高齢者の記憶を後世に  
関東大震災 戦争の体験 を祖母は体験している 祖母の家に行くと癒される 
祖父 との結婚は規定事項だあった (30歳にて亡くなる)  歯科医で激務で脳溢血  
逞しく庶民が生きて行く姿を感じる
受験、競争社会での癒されるのが祖母からの話等であった  メモを取っていた
鉄道マニアであり旅に良くでていた ボックス席での会話もメモするようになる 
担ぎ屋のお婆さんに出会う 平成になっても地方ではまだいた
担ぎ屋さんの話を聞いたが 方言の為にまったく通じなかった 
レコーダーを持って旅するようになった

方言の面白さを活字にしたらいいのではないかと思った(写真の紹介もする)
15年前から活字にするようになる(写真もデジカメが広がり写真も残したいとおもうようになる) 戦争の話はどう受け止めてよいか判らないところがある 
戦争の悲惨さ 前提にあっても 憲兵に隠れながらダンスをしたとか、の話を聞くと逞しく生きていたことが浮かぶ   
庶民のどんな状況に置かれ様が生きてゆく為の喜びを見出そうとする 
智慧と勇気というか そういったものを見聞きすると 私はほっとする
男性よりも女性の方が逞しかったように感じる 
男性の戦争体験等聞くと教科書で語られているのがすべてではないなあと思うようになった 
人間の営みとして戦争を見た時に歴史で語られた戦争とはまた違う絵が見えてきたように感じる 私の中では戦争とは何かという言に関してはまだ解らない
いまから5年ほど前になるのですが、北方領土とは一体何なのかという事が気になって 北方領土の元島民の人達の平均年齢は70歳代の後半になる
根室市でインタビューをした 大変衝撃的な話を聞いた 
戦争の時に処刑が決まって(捕虜になってシベリアに抑留されて洗濯物をいてつく川で洗っていた 怠けていると云う事で処刑台に立たされる) カウントダウンをされていって 遺言があるかないかと云われ無いと云う事で あるが 最終的には九死に一生を得るが銃殺されるため銃を向けられた状態で目隠しされる 

ロシア語で1,2,3・・・と数えたんでしょうね あるところで気を失って 気付いたら病院らしき一室に寝かせられていたと 足はざっくり切られていて 大変な傷 どうやら銃殺刑は寸前で変更になり 銃剣での刺殺に変更になったらしい  
処が執行する兵士が躓いて転んだらしい それで足をざっくりやられる 
一回でやらなければならないというルールがあるらしく とどめは刺されずに済む
その方はその後各収容所を転々とする  
最後は殆ど瀕死になった人 死んでしまった人を含めて たらい船のような船にごろごろ転がされて海に流された 
たまたま佐世保の米軍の沿岸警備艇が発見して その船には3人しか生きてなかった  
救われて九死に一生を得た
 
そういう話を聞くとこれは私が残さないといけないなあと活字にして広く配布したりした
実はその中でも活字にしていないのがあるんです 
ここでもお話しできないんですけれども そういうようなものもあるんです
かなりの悲惨さですね それは私の心にしまいながら 身近な人に口頭だけで語れるような世界でとどめなければならないなと 捉えているのですが、初めて話したと云う事ではあるのですが、矢張り語っておきたいと云う気持ちは有ったようです  
ただ戦争の話というとデリケートな世界でありますので、聞く側も語る側もいくらか遠慮してしまうものがあろうかと思う  踏み込みにくいところはある
 
自分体験というものを残しておきたい という気持ちは間違いなく持っていると私は確信しているからそのあたりはストレートにお聞かせ願いたいと云ってお願いする
お年寄りは皆さん自分の話なんかするもんじゃないという慎み深いところはおありなんですが一歩踏みこんで見ると云う処をお勧めしたと思う
お話になる方も語ってもいいんだ お年寄りの語りが自分にとって癒しでありあすへの活力を産み そして自分の気持ちを楽にする という効果のある言葉で、あるんだという 処を認識して頂いて御自身の長い人生を語る一歩にしていただきたいなと思う  
日常の暮らしの体験等もいいのではないかと思う 
 
例えば 90歳のお婆さん 昔は着物だった いわゆるパンツは履かなかった パンツが世の中に普及した頃、パンツを履く練習をしたよとか 白木屋の火事の時に皆さんパンツを履いてなかったので 逃げ遅れたとかありましたよね(防災の一環となった)   
自分と同じ若い時代が有った との理解があるだけでも参考になる
時代は変わるが少女(少年)時代の心のあり様とかはいつもあまり変わらない
孫の世代は祖父母の話を聞くだけで人生の栄養分にどれだけなるのか判らない と思う
世代間の違いでの話が気軽に出るようにするには、さりげない場が必要 写真(アルバム等)を用意すると話の小道具として有効

激動の時代に一つの人生というのを送ってゆくと云う人達の知恵というか しぶとさとか 人間関係 家族の関係の結び方とか そういったものが本当に、学びに充ちていると思う 
昭和という時代の歴史的なアプローチをすると云うのではなくて 昭和という時代に生きた人間という或は人生というものに光を当てることによって 複雑な時代というものを 解りやすく捉える事が出来るんじゃないかと思う  
戦前戦後はラジオの世代  その後TVが出てきた 
今の時代の子供たちは携帯、パソコン、・・・  世代間の差は凄いと思うのですが→TV先を競って買った 皆集まって来た 
新しい文明の機器に触れることは いつの時代も同じ  
そこで受けた感動、衝撃 心が受けた衝撃は変わらないと思う
 
快い衝撃は結婚 顔を見ないで結婚したとか 愉快なこと ・・・肩の力を抜いてくれる
今までの50年~60年はばらばらの時代であったように思うがこれからはもう元にもどってゆくというか 絆を確認しあい 取り戻してゆく時代に入ってゆくと思う
そのうえで聞き取り、聞き書き という活動というものが 一つのきっかけを作るのではないかと思ってます

2011年12月20日火曜日

野口富士子(野口雨情の孫)      ・童謡シャボン玉に込められた心 2

野口富士子(野口雨情の孫68歳)           童謡シャボン玉に込められた心  
野口雨情生家の復興へ 
1階は津波の為に破壊される 土台がやられて そこからの復興になる  
童謡は心の底にしみ込んでいる 
野口富士子は生涯教育にセンター長をしている 童心を伝えたい  
雨情は幼児教育(童心教育)に熱心だった
バブル時代は雨情の歌は受けが悪かった
 
童謡を作る時に 小林一茶の生き方 良寛 が大好きでそこから学んだ
良寛の話 たけのこ が生えていた 
縁側をはいでやり 天井に竹が届くと天井を空けてやった(雨情が好きな話)→子供の教育は伸びる方に伸ばしてやる事が大事
大人が幹をまっすぐ伸ばしてやる 
枝葉はちょっとおかしなことは大人が、学校の先生が切り取ってゆくのが大事なんじゃないか
赤子は大人の如し 赤子というのは赤ん坊の意味ではなく 本当に心の純真な持ち主 の意味また大人と行ったのは単に大人の意味ではなく、人々の手本となる尊い心を、我々は持つしかない (雨情の言)  
人と人とを世代を超えてつなげてゆくことがセンターとしての役目かなと思っている
歌は 歌うと泣く 歌の力はすごいなあと思う 言霊 
雨情の歌は優しい言葉でしかし深い意味を、悲しみ 喜び 哀愁 人生の根っこにあるものをえぐったようなのが多い 

雨情に詩の紹介  丁爺(使用人)
「俺は少年の頃 こく村のひさしに上がって 雀の巣を壊したのを覚えている 
巣を壊された親雀は 日がくれてしまっても ひさしの上に停まっていたことも覚えている
俺は田を売ってしまった     同じ年に俺が売ってしまった 
こく村の後には 青いヨモギが生えている 俺は庭に出て見るたびに、熱い涙が胸に込み上げてきた
俺は門の屋根の赤金を剥がして売ろうと考えた 
俺は靴を履いて 古金屋のある町の方に出掛けて行った  途中で丁爺にあった
俺は仕方なくて 赤金の話をした 
おめい様の親御に恩を返せないから せめておめい様の御家でも繁盛させたいと 鎮守様にもお願をたてているでがす
丁爺は悲しい顔をして 俺の顔を見ていた    俺も本当に悲しくなった 
俺は古金屋へ行かずに帰って来た     俺は庭木を売ろうと思って 植木屋を呼んできた
丁爺がきた 丁爺の目には一杯涙が浮かんでいた 
俺はたまらなくなって家の中に駆けこんで一人で泣いた 西風が峰の上を毎日吹いた
丁爺は俺の家の庭に来て いつも悲しい顔をして 立って眺めていた 
俺は丁爺に古くから 俺の家に有った 紫檀の蓋の湯のみをやった
おめえ様のかたみでねえかな 丁爺も俺も一緒に泣いた 
百姓が嬉しそうに馬をひいて歩いている 俺に楽しみの無い 収穫の秋がとうとう来た
俺はまだ薄暗いうちに ずっくとカバンを抱えて汽車に乗った 
腰のかがんだてい爺は改札口に伸びあがり伸びあがり おめえ様御無事で暮らして下せえ   といって 泣いていた」・・・雨情の古里に対する思い
 
私は生涯学習を通して色んな人につないでいきたいなあと思います 
私達は優しさを持って生きなければいけない 
祈りを持って生きなければいけない 
感謝を持って生きなければいけない 
自分一人だけで生きているんではない
私達は生かされているんだよ 人類はおごり高ぶってはいけない  
自然に対して敬虔にならなければならない
雨情は童謡を通して教えている 

2011年12月19日月曜日

野口富士子(野口雨情の孫)      ・童謡シャボン玉に込められた心

野口富士子(野口雨情の孫)                        童謡シャボン玉に込められた心  
1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、日本の詩人、童謡・民謡作詞家 茨城県多賀郡磯原町
野口雨情の長女 みどりご がお七夜にして亡くなる       2番がこの気持ちを表している  
「シャボン玉とんだ 屋根までとんだ 屋根まで飛んで 壊れて消えた  シャボン玉 消えた   飛ばずに消えた  生まれてすぐに 壊れて消えた
風風吹くな シャボン玉とばそう」

はかなさ、絶望  希望   二面性を持っている  
東日本大震災で生家(明治元年)が津波により1Fが壊される  FMで津波が来る事を知る  雨情の資料を何とか残そうと思って動いた
高台に4分で逃げた 私の代でおしまいだなと思った 
東京専門学校(早稲田大学の前身) に行き 坪内逍遥から影響を受ける
22歳の時に北海道 樺太に旅をする 詩人になるために記者になり 小樽日報の時に石川啄木と出合う 

北原白秋 西条八十 野口雨情 童謡界の三大詩人   
歌謡曲 民謡 童謡 校歌 幅広く作る
一番大切なのは感謝の気持ち 月が好きだった 「雨降りお月さん」  「青い目の人形」
「赤い靴」(君ちゃんが母親と北海道へいったが過酷で、宣教師に1人君ちゃんは連れられて行った しかし君ちゃんは横浜に行き 孤児院で亡くなった)  「七つの子」  
中山晋平 が作曲 「船頭小歌」 全国に広がる  「俺は河原の枯れすすき・・・」

2011年12月18日日曜日

中島幸一(歯科医師)       ・ラオスで教え、教えられた歯医者さん

 中島幸一(歯科医師)               ラオスで教え、教えられた歯医者さん  
宮田さんという方が国際歯科医学教育支援機構を立ち上げる  
ラオスに行く人がいないので 助けてくれないかと ちょうどフィリピンに行っている時にそいう話が有った  
フィリピンではゲリラが出始め人質に取るような事が起こって来てストップが掛りフィリピンからラオスに移った  
10数年になる  ラオスは凄く人が優しいのと 穏やかというか 心が疲れない 
ニューヨークタイムスが世界で一番行ってみたい国はとの問いにラオスが一番
ヨーロッパの人が多い 国民性として控えめ アピールする方ではない 
老後はラオスに住みたいと思っている
口は生きる原点 現地の歯医者さんに教える 
健康増進の為 熱心で輝いた目で聞いてくれる

路地栽培で有機栽培 なので野菜が堅い 良く噛まないと駄目 
ある程度現場で働いて疑問が出てきてそれに対して検討、話し合いをする 
治療して 歯が噛めますね はい さよなら がラオスにおける従来の歯医者の対応だが そうではなく噛めるようになってどのように健康になったかをチェックし、出来ればデータで知らせる 
唾液を検査すれば 若がえり というか 老化が停滞する 
俗にいえば錆び付いてしまうのを防ぐ  
野菜が新鮮でしっかり噛む 30秒以上噛むと脳にもいい刺激がある 
自律神経にいい刺激があることが大体つかめてきた 

日本では平均7回噛むのが平均的多い(小学校~大学) ラオスの場合は噛む回数が多い 
米も焚くが堅い もち米を良く食べる 種類もタイよりも多い
ラオスは海の無い国 インドネシア半島の真ん中  北は中国 東はベトナム 西がタイ 北西がミャンマー 南がカンボジア  国境がメコン川  
新井さん「ラオスの豊かさと貧しさ」出版 4年間農業指導に行かれた方  
一緒にきのこ たけのこ を取りに行った 
われわれならば明日の分まで取ってとか、近所の分までとか思うが、ラオスでは今日の家族の分だけしか取らない 
明日は明日取ればいいと 乱獲はしない
 
蛋白源は不足しているので身長は小さい 最近10年で輸入等有 ちょっと変わってきた
子供たちは噛む力が弱って来た 
これからは地域のコミュニケーションセンターを拠点に一般大衆の知識の向上、健康増進情報センターを作り掛っている 
来年からモデル候補を作る  日本のボランティアが沢山小学校を寄付している  
私の知っている友人なんかは21校寄付している   
一人1年間で1万円で学校にいける 学校にいけない子が沢山いる 30%程度  
歯医者だけを相手にしていただけでは 生活が判らないので 一般の人との接触をして現地でやれる事をお手伝いする

虫歯もあるがお金がないので一般的に治療できない  
堅いものが食べられなくなるので 長い時間の間には身体は小さいし抵抗力が無くなる傾向がある
田舎の生活レベルは昭和23年前後の時代と同じ 電気が来ていない地域が30% 水道も来ていない  雨水をためて沸騰させて飲む
何とかしてあげたいと思う  
歯磨きの仕方を教えればそこそこ出来るが食べ方とか食べる物の方が影響力は大きいと思っている
甘いものが少なく野菜が新鮮 果物が多いので 比較的虫歯には成りにくい
医学部の教授と歯学部の教授と栄養学の教授をやって来た 雑学が集大成でやってきている 
生きることの原点は口から始まって それの影響力は入り口から出口まで考えると 当然うんこの話も出てくる 有名な先生が沢山いるので共同研究をやって、情報交換しているので栄養力があることが判って来る    
歯を大事にすることによって健康寿命が延びて非常に健康なライフスタイルを過ごせる 訳ですね おっぱいの吸う力の測定から始まって 母乳と人口ミルクとの違い 排気ガス 水の問題 空気の問題  食べ物 生活必需品ですよね カテゴリーに入っている
 
地元の水の浄化活動等行った事もある
私の父は目の見えない人だったのでいろいろ知恵を授けられた 
抗生物質が2通りしか行き渡っていない時期に 教授が抗生物質というのはある菌とかあるものが出した物質が菌を殺すのが抗生物質と云うんだと云った 
じゃあどんなふうにして菌を殺すんですかと聞いた
(日本刀で斜めにバッサリやるのか突き刺すのか)  
教授が腕を組んで答えられない それは解っておらん お前がやれと言われ 関心があったので 目に見えるものにしてやればいいと考えた

恩師のお陰で素晴らしい指導をしていただき 電子顕微鏡を使って抗生物質が菌を殺す方法を研究し、突き止めた
去年ラオスの名誉領事に就任 ラオスのPR知ってほしいと云われる ラオスと仲良くしたい 
一般大衆の健康増進 ひいては成人病の予防につながればいいと思っている 

2011年12月17日土曜日

島 剛(漁業水産業)      ・裸一貫漁民は語る

島 強(漁業水産業)                           裸一貫漁民は語る  
東日本大震災でと大津波 原発事故は全てを奪い去った 
ただ家族が無事であったことは おおきな救いでした
相馬双葉漁港うけど支所漁業者原子力災害復興対策協議会 会長を務めている
仕事である海と仕事と生活の場である陸も原発事故によって強烈に汚染されてしまった中での一人の漁民としての思いを聞きました

中学校を出て16歳の時に船に乗った(戦争に行き身体を壊して10歳の時に父親が亡くなった) 見て覚えろと叱られながら覚えた
20歳の時に乙種2級機関士の試験を受ける 
20歳で一等機関士の試験を受けて合格する
蟹の調査船の機関長として働く 函館支社  カムチャッカ ベーリング海峡まで行った 
3月下旬から10月まで働く  3年
サケマス漁船の機関長をする サンマ船 
自分で何かやりたい、というおもいが出て来る 
昭和48年に(32歳)海宝丸を作る 6.9トン 刺し網漁だと7tonまで

平成3年海宝水産立ち上げる 
海宝丸は 長男が担当 次男がすし屋 仲介業もやっていた  
自分の夢が報われるのだと思っていた
一瞬にしてなにもなくなってしまった  
原発事故さえなければ復興していたと思う
警戒区域なので(6km) なにも出来ない  
海宝丸は陸にあがっており重要な部分は無傷なのだが警戒区域内なので手がつけられない
3/11の時は魚が一杯取れたので総動員で加工作業をしていたが地震の後に大津波が来ると云うラジオ情報があったので パート人を帰して、防災無線が離れろ離れろと言うので車で家族を帰して 私は船が心配で港に行く 
港は水が引いて底が見えていた       船を沖に移動はできないと判断  
津波の第一波が見えてあわて逃げる    沖の方が靄が見えた 
10mある橋の上で見ていた(この高さまでは来ないと思っていた)
松林をなぎ倒してくる津波を見てこれはただ事ではないと思ってまっすぐ西に向かって走った 
信号機の処に車が一杯いてこれが全部流された

西に向かう道は車がなく100kmのスピードで逃げた それで助かった 
家族は町にいたが避難場所に逃げた 
遅くなった人は車が渋滞していて逃げ遅れてしまった   組合員が28名亡くなる 
周りの人達も多く亡くなった 機械類も多くなくなり 残った機械も入れないので修理もできない 家もなんにもなくなってしまった  墓石も一切なくなってしまった 
チリ津浪の時も堤防で見ていた程度で大きな津波はくるとは思わなかった  
原発が危ないとの情報が入り 相馬地区に親戚がありそちらに避難するがそこも危ないとの事で福島に親戚がありそちらに避難      1カ月避難

世話になっていられないので いわきに移動する      長男は飯坂温泉に避難
原発事故はおぼれている人の足をひっぱるようなもの 
放射性物質を海に流されてた情報があり→もう海は最低でも1年、2年は駄目だと思った
船は止めたくないなあと云うのは本音 いつになったら見通しがつくのか判らない状態
いつ 海が取れるような状態になるのか 家にいつ帰れるのか 一番は放射能の問題 
(子供の問題) 浪江町にはもう帰れないと思っている
漁師仲間の最後の奉公と思っている 
役員とは月に3回程度は集まって話し合っている  150名 一番多い時 集まった

いつになったら海に出られるのか・・・皆が思っているがそれが判らない 
歯がゆさがある どうしてそれまで過ごしたらいいのか見当がつかない
ボーとして過ごしてきたような気もする こればっかりはどう仕様も無い  
あまりにも代償がおおきい
国と東京電力に対してトンネルのなかの一点のひかりでもいいから見せてほしい 
被災者が納得できる実態を伴った展望を示すことを求めている

2011年12月16日金曜日

多屋淑子(日本女子大学教授)    ・ 宇宙船船内服の技術を福祉に活かす

多屋淑子(日本女子大学教授)        宇宙船船内服の技術を福祉に活かす    
土井さん(宇宙飛行士)が着たいろいろの服が並んでいる  
生活工学博士→人間の生活を良くするために必要な事をどう解決し得るかと、その成果を如何に物つくりに活かしてゆくかという学問    
具体的には高齢者の夜トイレに行くと云う行動があるかもしれない 
その時に健康維持管理の為に暖房便座の研究をしたこともある  
暖房便座の温度管理、省電力 1/10にする    
重傷心身障害者の方々の着る物に使ってゆこうとしている 
寝たきりは衣服に不都合があると どうしても生活の質を低下させる
 
着る衣服は重要だと考えている 衣服の快適性  着ごこちの良さ ということから生活を支援する という事をお手伝いさせてもらっている  
宇宙船内で着る服に着目した   
有る時に人から宇宙に関心が有ませんかとの電話が何回か有った 
私の研究に興味を持った方だった  
大学に来てくれて 研究を紹介しながら その方は宇宙の生活という事が頭に有ったので 普通の生活に考えてみたらどうかと云われる  
重傷心身障害者 と宇宙での生活はともに極限状態という共通項目がある 
(風呂はないし着替えは無し 厳しい環境)

宇宙飛行士の生活環境はあまり研究されてなかった 
宇宙の生活支援研究を提案した 宇宙飛行士とともに研究した  
宇宙航空研究開発機構 を中心にして企業 研究者 大学の先生 が寄り集まって研究した 
宇宙暮らしのユニットのリーダーを務める(宇宙の生活支援)  
日本の繊維のきめ細やかさ 開発力は日本は優れている  
繊維を製造する技術も高度で難しい事は日本が中心的な処は握っている  
風合い 手触り 微妙なところなんですが 色使い 日本人特有のものがあるとおもう  
無縫製ニット がかなり日本が世界に誇れる技術だとおもう  
日本の繊維技術を総合して作りたいと思った
 
8つ 半袖のシャツ 長袖のシャツ 運動服 半ズボン 長ズボン 下着 靴下 女性飛行士の為のカーディガン を作った  
宇宙で着るものは綿100% 安全性の問題かと思う 
火災に有った時の皮膚のやけどを考えると綿が採用されたのだとおもう  
綿を中心にポリエステルを考えた     土井さんは非常に快適であったと云われた  
生活を楽しむことが出来たとも言われた(生活を彩る)  
毎日2時間30分運動する 運動服の特徴 姿勢に対応したカッティング 重力がないと云う環境では座ったりした場合猫背になる (地上と姿勢が違う)
 
背中のカッティング カーブ その辺にも工夫をする  
運動すると非常に汗をかくので如何に汗を外に逃がすか 工夫する  
汗を如何に吸い取り 如何に乾かすか  
素材 網目 等にも工夫をする    触った感触は綿 少しポリエステルを入れた 
乾かすだけを見ると綿は良くない   速乾性を高めるためにポリエステルを入れた  
洗濯は出来ないので 繰り返し着る  汗はにおうので消臭 抗菌 作用のある運動服とした
下着 銀をところどころに入れている    抗菌作用 消臭作用 機能が優れている  
カーディガン 機能と美が必要  山崎さんが行ったときに使用   
東日本大震災の被災地にも送った 下着を送らせてもらった
 
本当に少量だったのでどの程度に役だったのか判らなかったが  
福祉の方に活かそうと研究している 
重度の心身傷害者の為に応用したいと思った  
障害者の学会で衣服を提案した (ファッションショー) 衣服の機能等説明   
無縫製技術 縫製縫い代が痛い    床ずれの元になることもありうる   
ポリエステル製ズボン 消臭 抗菌 安心する(臭いが発生しない)  
消費者の要望が需要を決める  
和歌山県 山林業 試着をしてもらっている(熱いところでの作業服)  
宇宙タオル 軽い 消臭 

2011年12月14日水曜日

ドナルド・キーン(日本文学研究者)    ・日本と出会った私 2


ドナルド・キーン(日本文学研究者)  日本と出会った私
三島由紀夫とは親しくなった 三島氏とはウマが合う 几帳面なタイプ 三島作品「宴のあと」 
「サド侯爵夫人」 「近代能楽集」等を翻訳している
三島氏はある意味西洋的な文章を書いている  決して訳しやすいものではなかった 
複雑な文章で美しかった
太宰治「斜陽」「人間失格」 訳す 太宰治の文章は一番訳しやすかった  
一回しか会っていないけれども永井荷風先生は印象がある  
「隅田川」極めて美しい文章だとおもいました  荷風はフランス文学とふかい関係が有った

谷崎潤一郎は序文を書いてくれた 谷崎の家に人から頼まれて原稿を持って行ったことがあり 
自分の文学を非常に自由に話してくれた
「細雪」 こういう事は本当に有りましたか と問うた時に 大抵の作家はフィクションだとか作り話
だと 谷崎先生はその通りですという 大家だと思った
私には親切ではあったが、谷崎先生はあまり男にはあまり興味がなかったという印象がある  
谷崎先生の周りにはいつも女性がいた

島中さんは社長として現代の事に興味がありました 永井さんは未来の事に興味がありました
中央公論にたびたび書くようになった 日本語で書いたが時には不自然な表現をしたと云われた
 が島中さんはそのまんまの方がいいと云ってくれた(面白いと)
「碧い目の太郎冠者」 日本語で書いた作品に谷崎さんが序文を書いてくれた
 書いてくれた事に対し信じられない
日本文学の紹介 日本文学を世界に認めさせた 日本文学を英語に訳す場合 
いろいろご苦労があるとおもいますがどんな事がありますか→
初めは外国で日本についての知識は殆どゼロだった 
着物がある とは解っていたが 足袋とかぞうりとか 食べ物でも 刺身とかなんでもない事を説明するか
それともそのままにしておくか 注を付けるか 表面的にあまりだいじではないものも 問題があった
日本語と同じような英語を表現出来ないことが不満だった 
日本についての知識がずいぶん増えたし 味噌とか説明する必要がまったく無くなった
当時は外国人で日本を訪ねる人は少なかったが今は大勢になっている 
日本の色んなものを火鉢を説明しなくてもいい そういう事もある

翻訳として一番力を入れたのは近松門左衛門 近松は非常に訳しやすいものと
(曽根崎心中とか世話物) 訳しにくいものがありました 
国が違う風俗文化は違うが 例えば有る男が二人の女性を愛してると云うのはどこの国でもある
こと 世話物の翻訳は良くやりました
近松は魅力的 今でもそうです  
芭蕉の俳句は 難しい 読めば読むほど広がる 奥の細道を旅行する 
当時の道路は舗装されていなかった 物凄く埃が立って呼吸ができないぐらいだった
松島は芭蕉と同じ思いだった 10年前に行ったら幻滅した 町は以前とまったく違った
音の世界が芭蕉の句に有る  「い」、「お」の音等

評伝  足利義政 明治天皇 渡辺崋山 ・・・この人たちを取り上げた理由→「日本文学の歴史」
完成した時点でしばらく文学の世界から離れたいという気持ちが有った
「日本文学の歴史を書くのに25年間掛りました 阿部公房から明治天皇の評伝を書くのは止めた
方がいいと云われる 右翼から狙われるとか云われた
明治天皇は興味があり1年間は掛るとおもっていたら7年間掛ってしまった 
明治天皇を書くのはある意味難しかった 日記、手紙はない 有るのは歌だけ
非常な関心は変化の時代であった 明治維新もそうだった  
渡辺崋山は初めての自分の芸術を外国のものを利用してそれ以前の肖像画とは違うものが生まれた
それだけで満足せず如何して西洋人はその様に書くかと 西洋の文化を調べた
 幕末の蘭学者で画家でもあり田原藩現在の愛知県の余り大きくない藩の家老に近い役だった
キーンさんの書いている渡辺崋山は画家におもむきを置いて書いている

オランダから入って来た銅版画を見て写実というか絵のリアリティーを
感じたとおもうが 佐藤一斎の肖像画を書く それまでの日本の肖像画にないもの リアリティーがある 
新しい日本が生まれる個性がある時代 明治維新の前  
ではあるが何か大きな変化がある予感を感じさせる 
足利義政の場合は 足利義政と会ったらそれほど面白くない人物だとおもうが しかし彼が行った
変化は日本文化を完全に変えたです
日本の伝統文化は  東山文化です 銀閣寺に入ると吃驚します 
それは珍しいからではなく東京の料亭の部屋と変わらない
床の間があって 生け花があって 畳一杯の部屋で 全部あの時代の物  平安朝の文化は残っていない
東山文化のパトロン的存在 満足するまで色んな仕事をさせた 職人たちを大事にした  
庭が非常に好きだった 狩野派が有名になったのはあの頃
3人の人物の共通のところは変化の時代だった
 
現在正岡子規の評伝 を連載をされているが 評伝というよりは学術論文のような気がしますが→
正岡子規は大変難しい事をやりました
彼は俳句と短歌を作った人です もし正岡子規がいなかったとすれば 俳句や短歌を日本人は
作らなかったとおもいます
正岡子規は野球が好きだった  ベースボールを日本語で野球としたのは正岡子規だった
これから書くときに興味ある人物は→平賀源内 あらゆることをやっていた人 芸術家として陶器
文学者として立派な歌舞伎もある
小説家でもあり 発明家でもある 今までの人が書かなかったことを書きたいとおもう 問題は時間です
最近 忙しい 本を読む時間もない いま89歳ですから どのくらい時間が残っているか知りません

日本の大学で国文学を勉強する人が少なくなっていると聞いているがどう思われるか→
本当に残念です 自国の文学を読まないのは残念だとおもう
日本文学はすばらしい作品がありますが  それを読むのは入学試験の為だけです 
最近聞いた話では日本文学だけでなく外国文学もあまり読まれてないわびしい気持ちがします
大学4年間だけおそらく生涯其の時だけそういうものを読む事が出来ると思う
 一旦社会に出るとそういう時間は無い
4年間をフルに使わなければならない 私は惜しいとおもいます 
コロンビア大学で今年まで教えていた 現在は古典文学よりも近代現代文学に人気があるが 
両極を原文で読むことにしている

去年は11人でした 近松 芭蕉 は面白いと云われる
日本国籍取得の理由、心境は→初めて考えたのは今年の一月でした  
東京の病院に入院していました 考える時間がありこれからの時間をどこで過ごすか
どういう風にするかと思って それは難しくなかった 矢張り日本です 
私の生涯は日本と密接な関係が続いている 友人も日本人の方がはるかに多い 
日本の文化は生涯の私の仕事です 日本 日本人に対してどうやって感謝を示すことが
出来るかと思って 日本の国籍を取る
日本人とのつながりは非常に大切で国籍が違う場合は何かの壁が残っていると感じましたから 
その壁を壊して日本人になりたいと思った

2011年12月13日火曜日

ドナルド・キーン(日本文学研究者)    ・日本と出会った私


ドナルド・キーン(日本文学研究者)   日本と出会った私 
25年の歳月をかけてに日本文学の歴史を全18巻を完成させる 
古典文学から現代文学までの作品まで幅広く翻訳 日本文学を世界に紹介してきた
2008年には世界で初めて外国人として文化勲章を受章 
古川庭園が住まいの目の前に有る 「戦場のエロイカシンフォニー」 キーン氏の戦争体験を語る 
エロイカシンフォニー 英雄(ベートーベン)
捕虜にいろいろ質問するうちに私的な事で話をしてそちらには興味を抱いた 
 音楽の話でエロイカシンフォニーがいいと捕虜の人が言う
捕虜とキーンさんとは親しい関係になった (敵だと言う気持ちは全然なかった)
11か月で日本の読み書きが出来るようになった 草書もこなせるようになる 
日本人の日記を読む 軍の為とかは書いてない 自分のこととか家族の事が書いてあった

日記を遺族にかえそうと思ったが軍部に没収されてしまった
日記に深い関心が有った 日本人の心情が書かれてあった
南洋の島の戦場に日本人が行きアメリカ軍の攻撃で敗れ食べ物、飲み物に四苦八苦するに至り
、日本を出発する前とでは日記の内容ががらりと変わる
これからどうなるかという不安が有 兵隊であることを忘れさせて単なる人間でした
日本の軍人が残した日記や手紙を通して初めてキーンさんは日本人の一般の人の気持ちをそこから
読み取る事が出来た 
私は日本語学校に入学する前に一人だけ日本人を良く知っていました 
コロンビア大学の角田柳作先生 大変尊敬していました

当時は日本の歴史は偏った教育だった  今は違うが  
ニューヨークで源氏物語を購入 1940年 生涯で一番暗い年だった  
ドイツ軍が突然 デンマーク、ノルウェー ベルギー オランダ、フランスを占領して 英国の空爆が始まる
次はアメリカだろうと思った 目的なしに本屋に入った 
源氏物語がそこに有ったが、その本があることを理解していなかった 
(安くてページ数が多かった)
新聞では毎日暗いニュースが報道されていた その本には違う世界が描かれていた
 夢中になって読むようになった
 
其の時から日本という国 日本語が知りたくなった 日本に対する大きな契機になった
角田先生は明治時代の方でした 東京専門学校卒業(早稲田大学の前身)坪内逍遥の講義を
聞いていた 日本文学ほぼ読む 漢文 漢詩もこなす 
アメリカに渡り日本文学を教えた 1941年の秋に角田先生の授業を受ける 
学生は私一人だけだった 私は殆ど日本の事を知らない
私だけに講義をするのは勿体ないと思ったが 一人でも十分だと言ってくれた 
数週間私一人だったが2人の日系人が入って来た
3人の為に徹底的に準備して授業に入る時に既に黒板に読めないような漢文が書いてある
戦争のときは4年間海軍に行っていた 戦後コロンビア大学に帰って来た 46年1月には再入学  
日本思想史だけでなく日本文学も教えてくれた
一番関心が有ったのは日本文学でした 
戦争で4年間勉強ができなかったのでその分知識欲は旺盛でした 

一番忘れがたいのは元禄時代の文学でした 井原西鶴は全部読みました (原文で) 
奥の細道 近松  極めて楽しかった
イギリスに行きケンブリッジ大学で日本語を教えた 終戦直後に日本に10日間行った 
占領時代が終わってからフォード財団から奨学金を貰って日本にいけるようになりました 1953年
京都大学の大学院に入学することになる  人は親切だった 
下宿は 古い民家  飛騨高山から移設した建物 永井道雄(アメリカ帰りの人) 
京都大学の助教授が同宿 すぐに友人となる

永井は後に学者として文部大臣になる(三木内閣)
終生の友人となる 非常に影響を受けた 古典文学をやる 
生きている現代の日本をもっと知るべきだと永井さんから言われる
京都という町は非常に好き 本が安かった 文楽 等 芝居を見た 下駄をはいて歩いた
永井さんから中央公論社の社長嶋中 鵬二さんを紹介され 島中さんから色んな作家、文学者と
知り合いになる 
木下順二さんを紹介される 「夕鶴」が当時有名だった

2011年12月10日土曜日

松田陽子(シンガーソングライター)  ・歌える幸せ噛みしめて

松田陽子(シンガーソングライター専業主婦)    歌える幸せ噛みしめて
31歳のときに子宮頸癌が見つかり子宮全摘出手術を行う 手術は成功したものの 
待っていたのは再発の恐怖 離婚 鬱病でした
しかし或ることをきっかけに人生が大きく開けた ライブコンサートは今では熱烈なファンで一杯
 ステージから命の大切さと生きる喜びを伝えています
今はUNHCR国連難民高等弁務官事務所の公式支援窓口である国連UNHCR協会の
協力委員としてボランティア団体セーフの代表として難民の支援や
地震の被災者の支援 児童虐待の防止 癌検診の啓発等に取り組んでいる

小さい頃叔母が歌手で前座で幼稚園、小学校の低学年の時に歌わせて貰ってました(アメリカで)
歌手になりたかった たまたま大学卒業前にスカウトしてもらった 
また歌の道に入るようになった
27歳で結婚 娘が1歳半ごろに子宮頸癌になった 
手術しないと生命が危ないと言われる 動揺した 子宮全摘手術成功した  
心がどんどん悪い方に蝕まれ 一番理解してもらいたい夫に解ってもらえず 
2週間に1回の精密検査で眠れなくなって 食べれ無くなって 
また再発したらどうしようと鬱病になってしまった 
 
癌の手術が終わったら皆 良かったね 終わったね 云われたが 
癌患者からしてみるとこれからが
戦いなんですね スタート  お祝いしようよと言われてもお祝いする気になれない 
どんどん気持ちがふさぎ込んでくるような状況なので そこを理解してもらえなかった
喧嘩を何度もする 私も悪かった 私がこれだけしんどいのに解ってくれない 
私は 私は・・・って 主人は 俺だって頑張っている 俺だって毎日働いて
やれることはやっていると ・・・  お互いの自己主張で ぶつかり合ってしまって 
どんどん気持ちがすれ違って離れて行った
手術までは幸せな家庭だった 
癌になったのがきっかけで大きく歯車が狂って行ったなと感じています

DVの家庭環境に育ったので絶対に娘は幸せな温かい家庭環境で育てたいと思い可愛がった
手術の後は鬱病になってしまって その後離婚してしまった  
専業主婦だったので収入も無く どんどん悪い方に考えてしまって 精神安定剤 
睡眠薬を飲まないと
生活できない状態になってしまった 
そうなるとあんなに愛おしくて抱きしめていた娘  
自分が生きるか死ぬかのぎりぎりの処に追い込まれて自分の事で精一杯
なので些細なことで娘にワーッと大きな声をあげたり、手を挙げてしまったりという事がありました 
頑張ろう 頑張ろうとおもうんだが寝たきりになってしまった 
離婚と同時に 生きなければと言う思いがパーンと壊れてしまった

生きる気力が無くなってしまって 気付けば本当に寝たきりになってしまった 
ご飯の味覚が無くなって砂の味 日常生活が困難になって トイレに行くのも這ってゆく
ただの鬱病だけだったらよかったんですが パニック症とか対人恐怖症で過呼吸になって電車に
乗れなくて吊革にぶら下がっている手からばーっと汗がでて
どんどん息をすっているばっかりになちゃって倒れそうになる  
おにぎり一個買いに行くのも本当に大変で「癌で離婚して・・・等」勝手に妄想して人の目も観れず
帽子を深々とかぶってさーっとおにぎり買ってさーっと家に帰って また倒れて6時間ぐらいずっと
電球を見ていて過ごした時期も有った

娘を母に預けて、一人で東京に行って仕事を見つけて(仕事が歌と司会と通訳だった) 
娘を呼ぼうと思った 私の中でこんなに娘が支えになってたんだと言う事が本当に離れて解った 
娘と離れた途端にバーンと寝た切りになって娘がいるから生きなきゃと言う糸が切れて大変でした
ずっと一人でいたが3歳からの幼馴染の親友がバスの乗って8時間かけて大阪から来てくれた 
話をしなくも合っているだけで気持ちが和んだ 
陽子ちゃんはこんなところで寝たきりでいる人ではない 
這いあがって夢をかなえて 自分の人生だけじゃなく
誰かの為に前向きで明るくパワフルで世界中回っていたそんな陽子ちゃんに戻るはずだから
凄い希望のある言葉を云ってくれた

変わるきっかけは→難民を支援する映画 「すべては愛の為に」 
それを見た時が本当に衝撃的でぱっと目が覚めた
一人の裕福な女性が世界平和のために人道支援の為に難民の為にどんどん自分の生き方が
変わってゆく  UNHCRのいろいろ活動とともに いろんな現状を見せてくれる映画
赤ちゃんが生まれてお母さんのお乳も出なくて水一滴も飲めずに結局母親の腕の中で死んでゆく 
あー私は蛇口ひねって水が飲めて温かい布団で寝れて 外あるいても地雷が埋まってなくて
何にもないと思っていたが全て有るんじゃない 
自分の現状を全てマイナスで悲観的で私だけが苦しいと思っていたのが違うと思った

世界には私よりももっともっと大変な思いをしている人が一杯いるのに私は本当に自分の事しか
考えていなかったなと思った
学生時代に30カ国に旅行に行ったことが有って その一つにスりランカがある 
その時の事を思いだした
子供がお金くれお金くれと云っていて 良く見ると手がない 足がないんです  
スリランカはずっと内戦が続いていて政治が動かず結局お金がなくて
普通の五体満足の子供がお金ちょうだいと言っても観光客はお金をくれないので五体満足の
赤ちゃんの手を切って 足を切って 並べるんですよと
私は目の前で観た それで世界の平和の為に生きようと思った 

大學卒業したらその仕事に携わろうと思った時が凄いあった 
そのことを思いだし きっかけになって どうやって生きるかは自分次第だなって 娘とともにもう
一回這いあがってみようと 思いました
私は自分の夢をかなえるために 、自分の人生をいきる為に生れてきたかもしれないけれども 
それだけの為に生きているんじゃぁないと若いころに誓った
それがずーっと出来ずに今に至ってるなって
それでUNHCR協会に電話して たまたま語学が手伝うことができたので翻訳のボランティアをさせて
もらって このままやっていたら世界の難民の事を
知らせられないなと思い 私の近くの人にも知って貰いたいし、チャリティーライブを先ずやりました

まだ無名の歌手なので 大変だった 後ろのバンドメンバーよりもお客さんのほうが少なかったり 
どこ見て歌ったらいいんだろうと そんな状況から始めた
私のライブに来てくださいと言った時には自信が無かったのに 歌とともに難民の映像なども
見せて皆さんとともに世界平和 難民の事を考えるイベントだから
是非きて下さい と色んな層の人々に声をかけて 皆に助けてもらいました  
国連難民高等弁務官事務所  国連UNHCR協会が日本の窓口になって企業、個人 色んな方の
のご支援を頂き ジュネーブの方に送ってゆく
協力委員は日本でも20名前後ぐらい  UNHCRの方で松田洋子が歌っている難民の為の曲が
とってもいいと言うから国連大学のレセプションとか
外務省とかで歌ってもらったり司会してもらおうと言う事で色いろ引っ張って貰った 

それがきっかけで国連UNHCR協会の協力委員という凄い肩書を頂きました
「いのち」 曲 聞いてくれれば命の大事さを歌っている 
本を出版「生きてるだけで価値がある」 印税全額を東日本大震災の遺児に使わせていただくのと
国連UNHCR協会に全額を寄付させて貰ってます 
東日本大震災が起きて国連UNHCR協会への寄付金は減るだろうと思っていたが 
今年が最高額だった 
なぜかと言うと私達が本当に大変な思いをして 初めて世界の難民の熱い夏寒い冬 食べ物もない 
本当に身近に感じたんでしょうね 日本人の方が
日本だけではなく世界の難民の人達も我が子と同じように苦しんでいるんだ 
そこで皆さんがぱっと注目して頂いて今までの最高金額が募金として集まったんですね

大阪の130席のライブ 満席 お客様が老若男女 幅広い 日頃うったえている事が年とか性別
に関係なくキャッチしてくれているんじゃないのかな と思ってる
幼年期のDV 子宮頸癌(癌患者) 鬱病 シングルマザー 自分が経験させてもらったこと 
沢山の方が悩み苦しんでいると思う で私ももがき苦しみながら
泣きながら皆さんに助けてもらって 生きているんですが ひとりで孤独に寝たきりになった時に
私はこのまま自分の命が亡くなってしまうんじゃないかと思っていた
でも ボランティアをすることで沢山の方がたに係わっていただいて 自分のこの今ある命は自分だけ
のものではないなって それを語らしてもらう事で
皆さんが 「あーっ 勇気貰ってありがとう 私も松田陽子みたいに幸せになる」 
云ってもらう事で それが私自身がパワーを貰ってますね

鬱病は再発した 鬱病は本当に苦しい 生き地獄ですね でも乗り越えた 考え方を変えた 
 眠れなくなったりだとかいろいろな症状が出てくる
それを悪いことというのを止めた これは命の癖なんです 
人間て色んな癖があるんじゃないですか これは私の癖で悪い事じゃないと 
私はこういう命の癖を持っているお陰で沢山の方の苦しみが判るんですよ 
結局人は喉元過ぎればであって 今健康でそこそこ食えているんで
それは過去の話なんで解りませんて 云っちゃたら心がプツンてその苦しんでいる方々と途絶えて
しまうんです 
今私は薬を飲んでなくて健康ですが やっぱり癖というものがワーッと出てきたりするんです 
でもそれは よし 又新しい曲が出来るぞと この悲しみ、苦しみを
曲にするぞと 言葉でセミナーで語るぞと 同じように苦しんでいる人達と有った時にほんものの
涙を流し 苦しいけど前向いて生きて行こうと言えるって
だから私は宝物とおもっている 

苦しみの前と後ではどっちが多く作曲出来たか?→私は癌の手術あとからバーっと曲が聞こえて
くるようになったんですよ
それまでは作詩はしたことがあるが作曲は無い  
手術の時に命があるのは半々と言われて助かったらこの命は自分だけのため 
家族だけの為に生きるのは
止めますから お願いしますから 誰かの為に 何かの為に 私がやりたかった世界平和の為に
やりますから命を延ばしてくださいと言ったんですよ
曲が聞こえてきた 全然当時その意味が解らなかった そのうち意味が見えてきた 
 
癌の手術をしたのがどん底だと思っていたのが全然どん底じゃなくて 
鬱病になって シングルマザーになって 無職になって ぽろぽろ涙を流しながら私はもう死んだ方が
いいなって 本当のどん底があって そこから
これは歌えってことか 私は仕事はないし、歌しかなかった 
そこから私は自分の人生が少しずつ動いて行ったような気がします
オプション命 追加の命 あの時に終わっていてもおかしくなかったので 私が自分自身で勝ち
取ったというよりも 与えてもらった命で 誰かの為に 何かの為に使う命とおもっている 
人はそれぞれ色んな苦しみや悩みが人生有るじゃないですか 

宿命もきっといろんなものがある だけどそれを乗り越えて その宿命を使命に替えて
自分の悩み苦しみがぱっと人の為にそれを語る事によって一気に使命になるんですよ  
だから私は「子宮頸癌の検診に行ってね 私みたいに子宮のない身体にならないでね」
 「命を失わないでね」 「シングルマザーだって暗くないよ」
「貧乏じゃないよ 明るいよ家は って」  シングルマザーになったお陰で沢山の人に助けてもらって
 鬱病になったお陰で 本当に心の生き地獄を経験させてもらった
お陰で沢山の方に泣きながら手を繋いであーっ人の温もりって こんなに温かいんだなって思わしてもらって 
語る事で勇気を与えさせてもらう 
本当に人生って自分が思った通りにぴっかぴかの人生を生きれるんだなと 
宿命を使命に替えてゆくんだなと本当に思っている
難民支援だけではない 東日本大震災 児童養護施設の子供たち 色んなボランティアを含めて
沢山の方々に係わり合わせてもらって ボランティアをしているというよりも
沢山の友達の輪を拡げて お互いパワーを交換してゆきたいと思ってます 

2011年12月9日金曜日

多湖 輝(心理学者85歳)     ・気持ちが決める私の楽老人生2

多湖 輝(たご あきら 心理学者85歳)   気持ちが決める私の楽老人生
日本で感じる定年 昔は暗い感じで捉えられていた 最近は違う  
70,80歳はまだまだと思う人が多くいるようになった
ただ楽しんで生きるだけではいけないのではないだろうか 
カルホルニア大学バークレー に1年勉強に行く ヒッピー 自由を求めて立ちあがった人 
西部から広がり東部へと広がる  
社会的な色んな現象に関心があるので さっそくヒッピーになりますと云って ヒッピーの集団の中に
入る (体観するため)

ヒッピーとはどうしてこんなに明るいのか 自分には社会的地位がある 名誉がある 
いろんな立場とか 窮屈なしきたりとか 伝統とかに縛られて それが解放されない 
から自分はなんか異和感を感じつつ 羨ましいなと思ったり そういう気持ちなんだなと思っていた 
その人(友人)がヒッピーの思想、服装等を日本に紹介
日本でも髭をはやし デニムの穴のあいたズボンをはき ヒッピーが増えて行った  
自分自身もやっぱり いろんな肩書きだとか しきたりだとか 体裁だとか そういう事にいかに
縛られていたか それが無くなった時にどんなに自由か 
それで「頭の体操」で兎に角 枠を突き破る いろんな伝統的なものを突き破る 
そういう事が大切なんじゃないのかなあと盛んに書いていた

大学を止めてみた時に 初めてそうか 自由に枠を外してものを考えると言う事はこういう事なんだ
と愕然とした
いままでそんなことを良く言って来たもんだと そういう思いがした 
 国立大学の教授は国家公務員 いろんな縛りがある 
自由に考えることが今更ながら判った なんでも自由に行くと怪しげになってしまう 
自由とそれを取り締まる規律 そういう社会の規制みたいなものと
それからそれをつきやぶろうとする若い人たちのエネルギー  そういうものの絶えずぶつかり合い
が古今東西ずっと有ったんですよ 
格差が有ればそれをぶち破る それが人類の一つの進歩とか発展とかに繋がってきたのかも知れない
年寄りには凄い楽しみもありますよ 今までは年寄りというのは何となくのけものにされたり 
ちょっと時代が違うよと押しのけられたり と有るけれど
今こそ我々がものを云わなければならないし 大事な役目を負いながら しかしそれを選ぶか
選ばないかは自分の自由でもあるわけです

実際には老いは体力が衰え、気力が衰えてくる それをいかにしてあるレベルでずっと保ち続けるか 
それは絶えず考えている
やっぱり人間とは最後までしがらみがあるし 人との付き合いもしなければいけない 
今の時代のようにどんどん世界中が変わってゆく
その変化に如何に対応するのか  パソコンから携帯まで機能向上 世界の情報を手に
入れることができる 
パソコンを操作してみたらこれは人間の大変質が起きると思った その通りだった 人間が変わる 
中近東、アフリカ北部で色んな運動がおこりましたね
あれは実は世界中で起こっているわけでアメリカのウオール街をはじめとして世界中 日本でもこれ
が大きなうねりとなって来るかもしれない

理由はいろいろありますが ネットで呼び掛けるとワーッと集まって来るという 
そういう構造が今成り立ち始めている
私なんか若者と戦いながら お前たちとんでもない方向に行っちゃうぞと もうちょっとちゃんとした
道を歩んでいかないと ある種の時代でそれが動いてゆく
その流れに対して ある時は傍観している 流れの向こうに行きたいが水かさが増して流れが速く
なり今は向こうに行く時ではないな とか それでも強引に
特別の乗り物を作ってだーっと流れていってみるか 全体の流れを変えるなんて非常に難しい 
でもそれを少しでもやっていかなければいけないんじゃないのか
例えば日本語が乱れに乱れてどうにもしょうがないと私は思うんですよ 

こんな言葉でいいのかという嘆きはあるんだけれどもいくら訴えてみたって
駄目なのかなと思う 国語審議会の先生も時代が変われば言葉も変わってもしょうがないと
おっしゃる人もいる でもがっくりくる
我々は古い時代から見てきて日本人が持っている素晴らしい力とか能力始め先祖代々から
伝わってきたDNAみたいなものを持っているはずですが
処が今や伝統も煩わしいし いろんな事が煩わしい事ばっかり  
少しでも動く処があれば ある種の自分自身でのやったことが認められて少し世の中が
動きだして 楽しんでやってますよ 10年ぐらい前に「心の東京革命」 
それも革命的にやるんだと みんなで挨拶ができるように学校に呼び掛けたり 
挨拶ソング(私が作った) を作って 幼稚園、小学校で結構歌われている 

 挨拶は魔法の力・・・・・
ヨーロッパに初めて行った時にニッコリと挨拶を交わすのには吃驚した 
挨拶をしてコミュニケーションのきっかけを作ってゆく 
これを私は今 日本中に運動を進めている
これからのエネルギー問題 食糧問題 水問題 こういったものが深刻な問題になって来る  
これが戦争の種にならないようにする為には我々はもう
相当必死で色んな情報を提供したり 技術を提供したり そういう事が必要になってくる 
皆さんと力を合わせながらあっちこっちでイベントをやったり
色んな事やってはいる 
年を取るほど大事なことはなんですか?→本当の事を言うと年を取ったら「教養と教育」?が一番
大事だとおもっている

そういうと皆さんは勉強しなければいけないとおもわれるか知れないが そうじゃない 
今日 用があるか 今日行くところがあるか ・・・「今日 用と今日 行く」
家の中にじっと閉じこもっているのではなく 興味のあることに対して出てゆく 
人に云われて頼まれて用があるから行く それが与えられる人になることが
一番老後を充実させる事だと思います  
私なんかもそういう事を仰せつかってそれに係わって来ることによって元気でいられるわけですね
日々問題が起こっている  「用を作ることはできるんでしょうか。」→いろんな人の人生を直接肌で
触れてみて そしてその中で自分という者を見つめたり
それから日本の道を考えたりしている 世界の人類の平和を目指しながら その中で特に日本が
アジアの中で果たせるべき役割は沢山あると思うので
そういうのをどう訴えて行ったらいいか我々には手立てがないんだけれど こうやっておしゃべり
させていただく事によって 感じていただければ嬉しいですね

人生の分岐点 で右、左 二者択一では駄目 100, 200の代替案を挙げてみてやっぱりこのA案
がいいんだなと自分の生きる道を選んでゆくと言う
これも一つの楽しみ 運命と考えたらそれっきり 多少自分の努力とか 自分の友人の助けに
よって 色んな事に支えられながら 自身が最高の道を選んでゆく  
其の道を選ぶのは自分自身に責任がある 
「好奇心」 が大事  好奇心が時代の流れを見る事が出来る 
身近なところに将来を占う目みたいなものがある
分析する力と何故そうだったのか 其の原因を探求する力 ・・・全部好奇心ですよ 
今 グローバリズム 世界を見ていないと自分の立ち位置 これからの将来を進むべき道を見つける
事が出来ない だから忙しい これが「楽老」 あちこち興味深々
今 一刻を惜しんで色んな情報を収集したり 考えたりやっていますね
 
それが楽しみであり、生き甲斐であり そう思ってやっています しんどいとかは感じない
分析する力 何故そうだったのか 其の原因を探求する力 ・・・全部好奇心ですよ 
好奇心に満ち満ちていると 日本の大きな流れに対しても意見を言えるし 
そういう事が私の生活の実態ですね
色んな方の顔の中にはおのずからその方の生きてきた人生というのが出てくるでしょうし  
自分の守備範囲でやっていこうかと思っている

いいかげんさが直観力を生む→なんかぱっと観た時にこれは あれだなと位置付けをする 
他の人よりは得意かもしれない
年を重ねてきた事によって積み重なってきた自分の経験とか体験とかそういうのを通じて 
絶えずそれを考え続けてきた 
「人生 還暦からが本番だ」 →還暦に始まり 60歳が、リセットボタンを押し 
新人生のスタートライン ・・・ 
ブータンの国王 素晴らしい その様な人の側に立って世の役に立ちたい

2011年12月8日木曜日

多湖 輝(心理学者85歳)     ・気持ちが決める私の楽老人生

多湖 輝(たご あきら 心理学者85歳)  気持ちが決める私の楽老人生
<概要>
東京未来大学名誉学長。千葉大学名誉教授。多湖輝研究所所長  
クイズ本「頭の体操」シリーズはベストセラー
「楽老の進め」 公職は75歳で終わりになる 講演会の時はあまり用意せず 相手の顔色を
観ながら話の内容を調整する(易しく 或は難しく 話の方向等)
寄席で話し方を学ぶ 裏技がある 
前の方が一般的に席が空いている はい 皆さん 恐れ入ります 荷物を持ってそのまんま
立っていただけませんか そうすると全員立った
そのまんま前の方にどうぞお詰めください と言ったら 全員が抵抗もなく空いている席に移ってきた 
これは凄いやり方だなあと どうしてこうなったかは心理学に関係してくる
  
1926年生まれ(大正15年)(昭和元年は数日しかない) 大正天皇が亡くなったのは12月25日なので
大正デモクラシーの良い時代に少年時代を過ごした
20歳の時に徴兵検査 乙種合格 理系は兵隊に行かなくてもいいという制度ができて兵役は免れた
スマトラ島で生まれた 2歳の時に帰って来た 当時オランダ領だった 
子守唄を歌ってくれたばあやさんがいた その歌を不思議なことに今でも歌える
耳にこびりついていたので 幼児教育というのは凄い威力があるんじゃないかと考えています

 「三つ子の魂百まで」
後になってソニーの創業者井深大(まさる)さん等と幼児開発協会(財団法人)を作り 0歳児からの
教育が如何に人生にとって大きな意味を持っているのか
そういうような運動をするようになってきた  受容(リセプター) 受けるほうの感覚器官 
とかいろんな能力は子供は非常に発達している
段々進んできて生れてからでは遅すぎる という事になった 胎教ですかといったら そうだよ  
お腹の中の赤ちゃんに名前を付ける お産のやり方
つまずいたりしたときに ごめんごめん 怖かった? もう大丈夫よ というそういう気持ちで 
赤ちゃんを産んだお母さんは絶対うまく子育てする

ピアノを弾く方でそのピアノを弾く時にはいはいして子供が脇に来ていた 
そのお子さんがやがて演奏家になったり 私の祖父が私を抱いて必ずお経をあげるんですね
それが日課だった ある種の刷りこみみたいなものですかね  
それが仏教に対する本当に根幹というか根っこにそういうものがありまして 神社仏閣に行くと
必ずお参りをするというような 自然にそうなるんですね 17年前に得度した(お坊さんの資格を取った) 
いろんな宗教がありますけれども 日本の仏教というものは なんでも抱え込めるそういう広さを
持っているから 世界にもしも平和な日が来るとしたら
これは矢張り仏教的な思想、哲学 そういうものじゃないかなということで 少し 少年時代から 
倉田百三さんの「出家とその弟子」から始まって
いろんな本を読んでいましたし 0歳児からお経を聞いていたし そういう事から私にそんな気持ち
が育って行ったのかなあとそんなことを考えまして
ますます私は幼児教育というもの本当に大事にしなければいけないと思うようになった

還暦の時に「60歳からの生き方」という書物として出したんですけれども 大雑把に言いますと 
還暦 リセットボタンを押して新人生をスタートする そういう時なんだと 
古稀 古来稀なりとはもう昔の話で 70歳は昔は稀であったとおもわれるが 今はいにしえは稀で
も何でもない 喜寿(77歳) ダブルラッキーセブンと思って
通り越せばいい  傘寿(80歳) 私は傘など要らんよ 陽のあたる道を歩けばいいんだ 
と云っている  半寿(81歳) ようやく半分まで来たか と捉え
米寿(88歳) 米も食べたいけど御馳走ももっとどんどん食べて大いに結構だと そういう風に
受け取れば 米寿でもまだまだ先があるさと考えられるだろう

卒寿(90歳) 人生に卒業なんて有るものかとこういう風に そこを通り越す  白寿(99歳) 
少し白髪が増えたかなと云う人もいるし 一本もないかも知れないが
笑い飛ばして生きればいいんじゃないかと 百(もも)寿(100歳) 茶(さ)寿(108歳) 煩悩の数 
原子の数 四苦八苦 (36+72=108 駄洒落だが)
昔寿(120歳) 天寿 天国からお迎えが来たらそろそろ旅立つことにしようと 
そういう気楽な気分であの世にいけるんじゃないかなと 私など人生半ば
40歳のときに 1日1万歩 歩くと健康になる  歩くのを測れる道具を作ろうとするがなかなか難しい 
運動と言うものは計画的にやらないと駄目 財団法人 つくろうと そして一体自分は何歩、
歩いているのだろう それを測れる道具があって初めて運動は成立する

専門の先生(東工大教授)の処に行ったら 研究の合間 合間でやってるので出来ない  
有る会社の社長にこの話を持ってゆく(3週間待ってくれとの事) 
3週間で作って来た(懐中時計式) 話を聞いているうちにこれはアメリカに有ると思ってアメリカに
飛んだ それを買ってきてばらして自分の処で作った
それを健康法として新聞のコラムに書いたら爆発的な人気で ちっぽけな町工場だった会社が
大きなビルを建てちゃった 凄い勢いになった
其の時に皆から疑われた 歩け歩けと盛んに云っているけど 君の生活を見ていると車に乗って
歩いてないんじゃないかと まさにその通りでして
忙しくて歩いている時間が無かった  其の時に歩けと言ったけど歩くとは云ってなかったと 
誤魔化す 財団の人達は私より年上だけど矍鑠(かくしゃく)としている
最近はゴルフをやっている エージシュートを達成した
 
宣言すると言う事はいい事 言ってしまうと周りからの目が有るので一生懸命努力する
戦争を挟んでの人生 ながかった 私の仲間がどんどん亡くなって行った 
終戦の年の3/10未明 下町がやられた 
父親が14日に亡くなり 木場もやられて お棺がない 押入れの戸板を外してつくる 
焼き場に入ったら驚いた 遺体をトラックに満載 どんどん降ろしていた
きまりが悪く早く焼いてもらうようにしてもらった
兄が軍人で昭和天皇を守る部隊で割腹すると思い 8/13に話して生きようという 
(軍刀を磨いでいた) 

兄を呼びだして 兎に角死ぬな 生きて日本の将来を作っていかなくてはいけない 
それだけを言い残して新潟(実家)に行きお寺に行って座禅を組んだりしながら 
考えたり結構な時間を過ごした  友人がわざわざ迎えに来てくれて お前どうすんだ 
学校は普通通りやってるぞと 兎に角帰ってこいと 何の悟りも開かずに
自宅に舞い戻った 理系の仕事をしなくてもいいので何か無いかと思い 
たまたま拾った命だからなんか楽で自分らしく適当に生きられるようなそういう道は
ないものかと考えて それで文学部に行こうかと 哲学科 心理学 に入って 講義を聞いたときに
やっぱり失敗したなと思った頭が理系の頭になっている
哲学は論理の展開が証明無しに膨らんでゆくと言うそれが聞いててちょっと違うのではないかと
思いだして たまたま掲示板に心理学の実験を受ける人は教室に来いと
文学部で実験をやっている教科があるんだと 心理学の道に進むことになる

ねずみを使った動物実験だったので 矢張り違うのではないかと 人間は泣いたり、喜んだり、
悲しんだり そういう生きた心理学 それが人間の心理なのではないかと
私はフロイトとかそっちの方に傾いていたものだから そいうもので卒業論文に書くのは反対である
と先輩諸氏から云われる
論文変更する→要求水準をどの辺に置くかによって同じ結果が出てもそれの評価の仕方がまるで
変わって来る(よしとするか不満とするか) ・・・というテーマに変更した

2011年12月6日火曜日

戸田郁子(作家)       ・日・中・韓文化の懸け橋として

戸田郁子(作家 出版社経営)           日・中・韓文化の懸け橋として  
戸田さんは日・中・韓を行き来するうちにこの3つの国が色濃く関係する旧満州の朝鮮族自治州の歴史を研究することを、ライフワークにして現在も調査、、研究している
普段は韓国のソウルに住んでいる 
ハルピンに住んだのは1989年だった 
その時に中国の残留孤児とか残留婦人 日本人の方に有って話、 朝鮮族の人達と話す
日本と深い係わりがある、満州という時代はまだ終わっていないんだと気が付いた
昔を引きずりながら生きていらっしゃる朝鮮族の方たちのお話を拾い集めて本にしたものです 

 「中国朝鮮族を生きる旧満州の記億」
最初中国の歴史に興味を持っていた 
学生時代に韓国に研修に行くと言う話があって 韓国の大学生の家に泊まったりしながら、韓国のあちこちを見ると言う事が出来ると言うので それまで韓国のことを考えたことはなかったのですが 中国のとなりの国だから面白いかも知れないと軽い気持ちで1979年に旅行に行った 軍事独裁政権の時代で おっかな吃驚で出掛けたが、私が知らないことだらけで凄いカルチャーショックを受けた  それが留学のきっかけになった  
学生から日帝時代をどう思うかとの問が有った 
日本帝国時代 この言葉さえ理解出来なかった 

キム・ソンウン先生(詩人 朝鮮詩集を日本でも出版))の話を聞く機会があって どの国の人もその国の歴史を背負って生きてゆくものだと言う話を聞き 私の胸に突き刺さって 私は日本人として生まれたんだけれども、日本人の重みっていったいなんだろうと 歴史の重みとは何なんだろうかと 歴史が好きだと言いながら、何故私は其の事を知らないで過ごしてきたんだろうかと、恥ずかしさ それから知りたいと言う気持ち それが募って留学に飛びついたわけです  
日帝時代とは1910年の韓国併合から1945年の降伏まで 支配していた36年間を指す 
歴史と云うと遠い昔の事を憧れのようにしか観てなかったので、近い歴史と云っても明治維新ぐらいまでしか 興味はなかった
 
韓国の若者と日本の若者ではまったく歴史認識が違う 
韓国では歴史教科書とは別に近現代史がある 別に時間を設けて習っている
「普段着のソウル案内」 日本ではあまり紹介されていない時代であり 自分の身の回りの事を書いて日本の友人たちに送っていた  それを纏めたもの
1988年にソウルオリンピックが開催される (ノ・テウ政権下)  民主化宣言を行った
 街の中にまでデモ行進が行われた デモを認めた
通訳だとかいろいろ仕事が入って来るようになった (オリンピック特需) 
オリンピックが終わると潮をひくように仕事は一つも無くなってしまった 
ふと自分がどうしようかと考えた時に韓国から離れてみたいと思うようになった
ふっと私は中国に行きたかったんだと 急に思いだして 中国に留学しようと思い立つ 

1989年に語学留学をした
綺麗な中国語を習うのであればハルピンがいいと言われ、そこに行くべきだと思った 
韓国で「満州における抗日独立運動」という授業を取っていた
その中でハルピンはとっても重要な位置を占める場所 アン・ジュングン(安 重根) という朝鮮の人が伊藤博文を殺した場所、 ハルピン駅に到着した時にハルピン駅のホームで伊藤博文を射殺した、韓国人にとってみては聖地のような場所  そこの大学に語学留学した  
実は1989年というと天安門事件が起こった年です  
3月に行くが5月には学生たちのデモが行われ始めた 
街がざわざわしてきて 6月の頃には大学が閉鎖されてしまった

6月に天安門事件が起こっている  
3か月もたたないうちに学校が閉鎖されてしまったが 帰りたくなかった 
韓国語が出来るので朝鮮族を訪ねてみようと思った
吉林省に有る処に行く 朝鮮半島から中国に渡って行った人達がそこに沢山住んでいた 
朝鮮族自治州にエンペン大学というのがあり 朝鮮族にとっても民族大学でもあるわけです  
パク・チャンク先生が対応してくれた 朝鮮族の歴史の大家 であった
間島でおこなわれた歴史を学んでみたいと言う ことで歴史学部を訪ねてパク・チャンク先生が毎日午前中 個人教授をして下さった

どうやって朝鮮から中国に渡って来てどうやって定着したのか この地域でどんな抗日運動が行われたのか をずっと話をしてくれた 
衝撃的だったのは韓国で私は満州の歴史を勉強したつもりなのですが、実際に旧満州の地域でそこの話を聞いてみると また違う歴史があるんですね
日本でも韓国でもない習っていない歴史がここ(間島)に有るんだと 一体どういう事なんだろうと衝撃的でした
歴史とは非常に不公平なものだ 歴史は政治である 
歴史というものはその国のイデオロギーからぬけでることは非常に難しい
 
歴史家としての使命は其の政治に引っ張られずにその真実を見つめてゆく 
真実をどれだけ真実に近く発表出来るか というのが歴史家の使命である、と先生は話された 実際中国では本当に歴史は政治である 
どのイデオロギーに付くかによっても命すら奪われた時代があった  
満州の時代が終わっても文化大革命がありましたから 民族主義というのが否定されて沢山の方が亡くなってもいる そういう事も私達は知らずに過ごしている
本の帯「私達は繋がっている 時が流れても消せないもの 違う空の下でも導いてくれるものがある」 
旧満州という場所と時代ですよね そこでは日本、朝鮮、中国と重なり合っていた 
その当時は五族協和と言って いろんな民族が一つであると言う事で 、日本側から言った事ではあるが 皆が仲よくしているのが満州であり 理想の国であると言うような宣伝をされていた  
五族協和 王道楽土」 スローガンで満州へ満州へと軍人も行った  
ハルピンにある外国人の養老院に行ったんですが、そこに残留婦人の中に日本人のお婆さん達が何人かいまして、アメリカ人のかたもいますし ロシア人も、朝鮮人もいる
満州の地に残されて身内が亡くなってしまったお年寄りの人達が、其のハルピンに有る外国人養老院でみんなが暮らしているんですが、先ず日本人の人達の話を聞きにいって、朝鮮人の人とも話をしました  
養老院の院長の先生から実は昼間はいいんです 
夜になって誰もいなくなると日本人のお婆さんと朝鮮人のお婆さんが、髪の毛を引っ張りあい 蹴り合い 大喧嘩をするんです 
毎晩のようにと云う話を聞いて本当に胸を衝かれる思いでした
 
如何してなんだろうと  もしかしたら 王道楽土 五族協和といわれた満州はそんな国だったのかも知れない 
そしてその国で生きていた日本人、朝鮮人の人達が、今もその歴史を引きずりながら、自分の命が亡くなる時までずっとずっとそのいさかいを引きずりながらこの養老院で暮らしているんだろうかと、思った時になにかもう歴史を知らない私が一体なにが言えるだろう という気持ちになったんですね  
其の時から私は満州の歴史を知りたい 一体どんなことがあったんだろうか知りたい と思っていろんなひとから話を聞き始めました

私が養老院を訪ねて話をきいたのが1989年ですから (近々の話)  考えさせられた 
私は韓国に20年、中国に8年住みました  
各々の国の文化、生活を自分の身を持って知っているということで 韓国で住みながら出版社を立ち上げて、図書出版「土香(トヒャン)」  中々言葉が通じても相いれない人っていますよね 
処が本当に一言話しただけでも気持ちが寄り添える人は必ずどこの国にもいる   
不思議なことにその様な人達からは何か土の香りがすると連れ合いと話をしていてじゃあ 土の香りと書いてトヒャンと云う名前にしようと決めた
立ち上げて4年目 多文化 多言語のような本をいろいろ出版したい 

2011年12月5日月曜日

本木雅弘(俳優)        ・私の目指す俳優人生 2

本木雅弘(俳優)                                私の目指す俳優人生 2  
「ファンシーダンス」は元々はやっていた漫画が原作 修行僧の話 
まったく違う道を歩むが いろいろ問題を起こしつつ 最終的には一人の僧として何かを感じて行きつつあるというような話  
これが後々「シャル ウィ ダンス」で世界的に有名になられた 周防正行さんとの出会い  
周防正行さんは冷静な人 小津安二郎さんが好きな監督さん 冷静さ貪欲さがある 
「しこふんじゃった」で日本主演男優賞を貰う   史上最年少の受賞であった  
撮り終ってから 監督に取りなおしたいところがどこかありますかと、聞いたら 「全部」 と云われた
20代前半で自分探しが始まった(いろいろ映画の役・演技を体験して) 
まっしぐらと言うような感じだった
不満足主義の自分としては又このままでいいのだろうかという想いが頭をもたげて来た  
私生活の中でも結婚を足かせにしたらどうなのかなあと思った
役者の仕事は案外孤独というか 地道というか 厄介なんです 
役が入り込んだりしていると うっすらどこかで考えている 
自分の中に割り切れない2人が存在している様な自分があるので プライベートな事で自分を切り替えて家族と接すると言う事がうまくできない感じが当初有った

結婚した当事は 最初苦しいながらも 一つ新しい刺激が有って きつかったかもしれないけど 彼女の方も一緒だったかもしれない 
子供が出来て親になって大河ドラマ 徳川慶喜役を演じることになる 
一年に全て一気に重なった 週5日はNHKでの仕事の日々だった
長く続いた徳川の時代を看取る役をしなければいけないわけで 投げ出して逃げ出したという風に言われたり つまらぬ戦争をやって人の命が落とされるよりも、ひきょうと云われても そこでくらました方が 結局は無血開城に繋がるという見方があったりするので、非常に 良く言えばミステリアスな役で 初めてで大変でしたけど 非常に面白い やりがいのある役でしたね  
慶喜で長い台詞を経験した 

5~6ページに及ぶものがあり 書いて書いてビジュアル的に覚えた 
殿様の役なので一段高い処からしゃべるので毎日舞台に出ている様な感じだった   
逆にそれで鍛えられていったのかなあと云う気がします  
どんな役をするんでも3か月4か月経っても そもそもこの役は向いていないんじゃないかと気持ちが腐って来る (本心では)
大河ドラマでは最初、客が批判もするんだけど 時間とともに客が役者の味方になるからと云われて それで凄くなんか楽になった 処がある
段々行くところ行くところで声をかけていだけるようになって なるほどお客様が味方してくれると言うのはこういう事なんだなあと思うようになった

慶喜の1年間はそれが財産になって4~5年は続けられたと思います 
強気な瞬間が有ったような気がする  
「ほどほどに希望して人生を楽しく諦めてゆく」   
自分はいつも何故 内心自滅しているのかというと、出来もしない高い理想持っていて勝手にしがみつこうとしている   目的が高すぎる 
元々設定が間違っていると別の自分が言っている  
分をわきまえていない部分がある  現状はいつも駄目もとで始まっている  
本当にいろんな意味でコンプレックスの塊ですし 不器用だとおもう 

20代にインド旅行をした (貧乏旅行) その前に欧米に旅行して 何か自分に活かしきれてないような歯がゆさがあって何となくアジアに気が向いた
藤原新也 写真詩集 「人間は犬に食われる程自由だ」物凄い言葉が添えられていて インドはどういう世界なんだ その町の臭いを知ってしまったら、どういう風に人間は変わってしまうんだろうと思いインドに行ってしまった  
インドは本当に混沌としていて各地 各人で捉え方が全然違う 
路上生活をしている子供たちを見たりして 自分の価値観をいちいち確認されてったんですよ 遺体が焼かれている (公衆の面前で) 出くわす  
それまで、物凄いある不安とスリルを抱えていた自分が その時いなかった
 
人が薪の上に置かれて焼かれてゆく姿を見て その周りを親族、友人が和やかに語り合っていて キャンプファイヤーの周りを走っている様な子供たちがいて、その背景には大きな川が流れていて空があって 自然とある意味安らぐと言うか心地よいというのか 云ってみれば生と死が同居する初めて見た風景ですよね  
日本と違って隠されてない そのことに安心した自分が凄く新鮮だった 
その思いを東京に持ちかえったが この都市生活の中では活かしようがないなと思った
青木新門 富山の元詩人 「納棺夫日記」に出会い  こんな仕事があると知った 生と死の間に立って 橋渡しをするそんな仕事が有ったんだと知った
映画にしてみないかと云われる 

そんな暗い話は駄目でしょうと言われ そんな日々が10数年有った 
心引かれた世界ではあったが映画にするのは現実的ではないと、映画化の話も紆余曲折があって 最終的には「おくりびと」という風に結実した  
社会が変わって 受け入れられる 求められる時代に変わっていた  
ある運命の機が熟した そういう自分以外の流れが大きく働いたと思います 
有るお婆さんの遺体を拭く事を実際に経験させてもらった 
いろいろの死の場面にも立ち合わせてもらったりした
(演技をするにはどうしても経験しておかねばならない)

寄り添うというポジションのとり方  グッと入りこみ過ぎたり、引き過ぎたり じゃなく 寄り添うと言う距離感 有る趣 力というか 迷惑をかけないぎりぎり近い距離
引き過ぎると何も見えなくなっちゃうし 突っ込み過ぎると 相手を傷つけるかも知れない 
「みぞれ」(雨と雪が混ざっている) 生死が一緒になっている日本的なもの
俳優論でいえば 「心からはいるのか 器からはいるのか」  
私は器(形)から入る 
たたずまい どういう雰囲気を醸し出したいか そういうイメージが大事
最後に精神としてスパイスを掛けるみたいな事ですね  そういうような構築の仕方 
訓練しないと駄目かな、苦しみながら、傷つきながらやっている 

人間は誰もがどんな状況、どんな環境、どんな立場であっても人間そのものがその人のどうしようのなさを持っている(きききりん)
割り入れない、如何ともしがたい何かというものを抱えている 
性質(たち)として という基本が先ずそこに有って それをきちんと踏まえているか、、踏まえていないか、表に出た時に 人移り その人の姿というものは他人からはとてもよく見えてしまう  どんなに綺麗な事を言っててもその裏には毒があるとか、そういうものだからという事で自分をさらさなければ  自分をプロテクトすると言う事ではなく ある意味、正直でなければいけないと同時に 正直すぎると馬鹿を見ると 程よくおもっていて 「面白がれるか」どうか(きききりんさんが言う言葉)
  
そういう自分がどう仕様もなさを抱えていると云う事を踏まえたうえで 発言ができるかどうか 苦しくて いろいろ難問を解いて答えを出すんじゃなくて ある意味半分 開き直りもありながら その状況を はい左様でございます 私はこんなに駄目な処もありますと踏まえたうえで だからこそいまこんな恥をかいているのです 
ここで勉強させてください あー成程 そういうこともあるんですか 面白いですね  
と云う風に言えれば勝ちだと云うような そういう風に「面白がれるか」 という事ですね   
腑に落ちる感じですね 
子を育てれば自分も育つ それは子供でなくてもいい 動物であっても部下であってもいい 
つまり人を育てる 何かを育てると云う事は非常に難しい ことだから、育てると云う事は自分が育つこと と云われているので刷りこまれている  
今でも不満足主義  本当に私は不器用  
最近怖いとうのは年下も増えてくるし どうしますか?と問われたり     
役に同化してシンプルにしたいと思う