2011年4月18日月曜日

小坂文乃(研究センター顧問 )  ・革命をプロデユースした日本人

小坂文乃 
梅屋庄吉:1868年長崎県生まれ
辛亥革命から100年  上海万博で「孫文と梅谷庄吉展」を実施し20541人の入場者在り
民国革命のなかで辛亥革命は第一革命とされ、袁世凱に鎮圧された
古代より続いて来た君主政治を終わらせ、アジアでも初の共和制国家を樹立し、現在の台湾に繋
がる政治潮流を造出した歴史的な革命である
狭義では、1911年10月10日夜に発生した武昌起義から、1912年2月12日の宣統帝(溥儀)の退位
までの期間を指す
1911年10月10日 中国武昌から革命の火の手が上がる
民主革命で清朝打倒 中華民国が誕生 
2008年胡欽濤国家主席が来日 梅谷庄吉の歴史資料を見ることになり 小坂綾乃が研究したもの
を見ることになり 本に仕上げる
「革命をプロデユースした日本人 評伝 梅谷庄吉」 本出版
一切口外しては成らず・・・との遺言があり 歴史の表舞台になる事はなかった・・・日中関係の悪化
により家族、関係者への類が及ぶことへの配慮から)
梅屋庄吉は1868年長崎の貿易商の子として生まれる 長崎は国際感覚の下地がある
14歳で中国を見てみたいと上海に渡る  (江戸に行くには水杯で、上海に行くには下駄ばきで・・
・と言われたように上海は近かった)
中国で写真ビジネスを始める 香港で大繁盛する    1895年 孫文29歳  梅谷27歳のときに
出会う
上野彦馬:長崎で写真を初めに始めた写真家 )
ジェームス・カントリーが孫文と梅谷をひき合わせる ジェームス・カントリーは英国の医学者 孫文の先生

東洋の平和の構築の為には日中が仲よくする、しっかりした国をつくる ・・・孫文と梅谷が多いに
共感する)
「孫文は兵を、梅谷は財を持って援助する」
映画事業に取り組んで白瀬中尉の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得
た多額の資金を革命に投じている
革命に参画した人達の生活支援までもする、現在の貨幣価値にすると約1兆円ともいわれる
頭山満犬養毅山田純三郎宮崎滔天らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与
している)
孫文と宋慶齢との披露宴を主宰  1914年からは父親が支援していた孫文の英文秘書を務めていた
宋慶齢との結婚には父親を始めみんなが反対→宋慶齢を上海に離すが結局 梅谷、奥さんが仲介
して梅谷宅で結婚
(宋慶齢:中華人民共和国副主席を務め、死の直前に「中華人民共和国名誉主席」の称号を授け
られた)


(姉の宋靄齢、妹で蒋介石夫人の宋美齢と共に総称される「宋氏(家)三姉妹」の一人)
袁世凱 独裁者 駄目→第二革命を起こすが失敗に終わる→日本に亡命(梅谷が匿い、面倒を見る
 10年近く日本に滞在))
「富貴財心」 人の価値は持ち物、財産で決まるわけではない 魂で決まるもの・・・梅谷の座右の銘
どういう日中関係を築きたいか・・・お互いに良い関係を築いていければいいと思う
歴史のなかに助け合ったんだということを知ってもらいたい
(1913年2月中国史上初めての国会選挙が実施 中国国民党が第一党 宋教仁を総理大臣
3月20日、宋教仁が上海で暗殺された)
(この暗殺の背景には袁世凱の指示があったことから7月には孫文により第二次革命が計画 鎮圧されている)

(袁世凱は自ら皇帝を自称しようとしたが間もなく病死)
(孫文は広州で護法政府を組織し(第三次革命)、中国の政治情勢は分断と動乱の時代に突入)
孫文の死後、4つの銅像を広州、黄甫、南京、マカオに建立した。(銅像の費用に充てる金がなく 
娘の結婚費用に蓄えていたものをあてがう)
銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている
日中関係の悪化の際に、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘近くの三門駅にて
急死した
2011/3月 孫文と梅谷展・・・中国で開催 (孫文の生まれ故郷) 
2011/8月 孫文と梅谷展・・・日本で開催 (国立博物館) 
2011/10月 孫文と梅谷展・・・日本で開催 (長崎歴史博物館)