2011年6月28日火曜日

村上和雄(筑波大学名誉教授)    ・遺伝子の謎に挑んで

村上和雄             遺伝子の謎に挑んで
<概要>
筑波大学名誉教授  遺伝子研究を始めて50年以上  DNAの働きが判っているのは2~3% 
残りの98%程度は働きが判っていない
遺伝子はONとOFFを繰り返しているが、そのON、OFFに関係しているのではないかと考えている
いい環境とかポジティブな考えがONにする  
ONにすることにより素晴らしい可能性の花が開くかも知れない  
ネガティブなストレスは癌や病気のもとにもなる
笑いはいいストレス 健康によい   
心の持ち方によって遺伝子がON,OFFにすることが出来るようになるのではないか

1953年遺伝子の本体が判る DNA→その後ものすごい発展を遂げる  
一人の遺伝子暗号を解明するのに1000億円をかけた
10年後には10万円で解明出来るだろうと云われている(加速度的に進歩している)
一人一人の遺伝子を解明できるようになると、病院ではオーダーメイドの医療法(一人一人の)が出来るようになる可能性あり、レニンという酵素を研究していたが、限界に達する→遺伝子工学という学問を開始 人のホルモン、タンパク質を大腸菌で作れるということで30年近く前の酵素の研究から遺伝子の研究にシフトする

(*レニン:アンジオテンシノーゲンのペプチド結合を分解してアンジオテンシンIを合成するタンパク質分解酵素の一種)

この酵素は間接的に血圧を調節する。またレニン酵素タンパク質の遺伝子の活性が強いと
高血圧になりやすくなる
高血圧の遺伝子の解明で大きな業績を上げることが出来た
遺伝子は親から受け継ぐ  遺伝子はダイナミックに働く事が最近解ってきた  
遺伝子はONとOFFを繰り返している
DNAの働きが判っているのはせいぜい2から3% あとの98%程度はどんな働きをしているのか
さっぱり分からない(ONとOFFに関係しているのではないかと考える)

良い遺伝子を起こして、悪い遺伝子を眠らしてしまえば、いろいろな効果が考えられる
石川遼の父親と対談したが、石川家にはすぐれたスポーツをする人はいないという  
誰でも素晴らしい可能性を秘めている 環境が非常に大事である
石川遼は環境がそうさせた可能性が十分考えられる  
人間はオオカミに育てられるとオオカミ少年、少女になる  遺伝子は変わってはいない
環境が人間の能力とか才能とか、性格にいかに大きな影響を及ぼすか頷る
今 豊臣秀吉のクローンを作っても 絶対太閤秀吉には成れない 顔はその様になるが環境によって作用される

運動はいいというのは解っている 何十万年も人間は動いてきたが、最近は動かない  
認知症の人も動いた方がいい
動かすと筋肉が付く→筋肉に蛋白質が付く   
どんなタンパク質を作れというのは遺伝子に書いてある
運動によって遺伝子がスイッチONになる  
32億文字の遺伝子を人間は細胞に持っている 
1ページ 1000文字の 1000ページの本を3200冊相当が一つの細胞の核に中にそれが含まれている 
人間の細胞は60兆個といわれる  
成人一人1kg当たり 1兆個といわれる(数えたことはない)
60兆×32億文字が人間の体の中にある  皆自分の花を咲かせる可能性がある  
私達は皆、人と比較する
38億年の遺伝子を連綿と受け継いで人間は今まで生きてきた  生きていることがありがたい  
私達は生きていることが当たり前と思っている
どれだけの奇跡かというと ジャンボ宝くじ1億円を 100万回当るような確率
大震災は国難に当たるけれど、私達はこれを大きな学びの場にしないと亡くなった人に対して申し訳がないと思っている
これは天からのメッセージであり人間は傲慢になっている (何でも科学が出来ると云うような) 
自然をわかっていない 謙虚に生きる必要がある
日本人全体に対するメッセージのような気がする  有りがたい 感謝の気持ち 
運動とか食べ物で遺伝子がONになるとおもわれる 環境の中に心がある 
心の持ち方によって遺伝子がON,OFFにすることが出来るようになるのではないか
笑うと癌が治る 遺伝子のON、OFFもかえられるんじゃないかと思った
 
仕事も好きな仕事をやるとあまり疲れない 嫌な仕事をやれば直ぐ疲れる 
環境という中に心がある  
心はどこにあるのか
2つに分けた  陽気な心(楽しい、嬉しい、感動する、喜ぶ 深い祈り、ポジティブな心)はポジティブな遺伝子のスイッチをONにする
ネガティブ(不安、恐怖、いらいら) ポジティブなストレス、ネガティブなストレスがある  
今はストレスの時代である
多くの病気はストレスが原因になっている  
癌、高血圧、糖尿病、 特に精神的な病気はストレス (うつ病しかり)実験でも証明されている

ネズミを虐めると胃潰瘍になる ネズミを虐めるのは優しいが喜ばすのは難しい 
ネガティブなストレスは血糖値が上がる
ポジティブなストレス→笑いで血糖値を下げることが出来る  笑い療法が出来る可能性はある
どの遺伝子が笑いでON という事が判り始めた  
笑いと遺伝子で博士号をとった人が日本で世界で初めて楽しい心が遺伝子をスイッチONにする一つの証拠ではないかと思う

天才的音楽家、画家等の回りが決してそのような人がいない  
環境、本人の努力というものが非常に大きい
イチローは大リーグという環境に行ったことにより、大リーグの記録を塗り替える事が出来た
(日本にいれば日本のイチローで終わった)
(世界のひのき舞台 メジャーに行ったという事が遺伝子のスイッチをONにした)
アメリカは科学技術に関しては超一流(ノーベル賞受賞300人) 立派な人に会うと刺激を受ける
私の研究のきっかけを作ってくれた人はノーベル賞を貰ったスタンリー・コーエンという人 
この人との出会いがきっかけとなっている
出合わなければ、高血圧の研究はなかったと思う

他の例  利根川進氏 免疫をやれというサジェション有  免疫の常識をひっくり返すよな事をしたその教授のもとには5名のノーベル賞を貰った人達がいる
石川遼、野村監督(上手に人を育てている) サジェッションが有効に作用  先生、親は子供に遺伝子のスイッチをONにするようにする必要がある
良いことはほめる 自信を持たす こういう分野がこれからは面白い 
親が才能を見出してやる・・・教育(夢と志)
日本をどうしたいか 夢、志が最近の若者にはない 
明治維新は20代の人が日本を変えようとした

大震災は国難であるが、ここで日本人がどういう生き方をすれば人間は幸せになれるか
 どんな国にするのか 考え直すチャンスに出来れば国難は生きる
不自由で嘆いているだけでは多くの犠牲者に対して申し訳ない 
21世紀は日本の世紀がやってくる・・・ダライラマとの会見で彼がいう
日本は壊滅的な敗戦から見事に立ち直った  そして科学技術も身に付けた  
仏教、神道がある 自然を敬い神仏を尊ぶ、共生してゆくものがある
「いただきます」・・・動植物の生命をいただくということ
太陽がないと動植物は生きられない 
水、空気、地球 こういうものが生き物を育ててその生命に対して「いただきます」

「お陰様」「もったいない」も英語に訳せない
物を作るのにおおくの人、時間、エネルギーを使うのでそれに対する感謝があるのだと思う
もったいない事をすると天罰が当たる  天は日本の独特な考え方 人間を超える大きなもの 
自然を敬うような自然の中に神様を感じるような伝統を持ちながら科学技術が発達し経済発展は 日本しかないと彼は云っている
目先の事、物質的なこと、経済とか、に趣を置いてきた  
そういうことだけではないという事を今回の大震災で教えてもらった
生きていることはどれぐらいありがたいことか 日本が出番が世界に来るためのチャンスにしないと申し訳ないと思いました

2000年ぐらい考えてきた言葉というのは文化である、考え方を表している  
日本は世界から尊敬される国になる
世界から日本は注目され、見直されているということは国難がポジティブな面を持ってる
大震災に会うような こういう局面にならないとなかなか自覚できない 
21世紀の最大の問題(解決する為に)は環境問題である
解決するためには、遺伝子の暗号は全生物共有  カビ、鳥、植物・・・全部同じ因子暗号を使っている 
そして繋がっている 生物は全部繋がっている
全部繋がっているということを考えないと環境問題は解決しない  地球は人間様だけではない 
今、地球に優しいというが、それは傲慢である
地球生命体が優しいのである  
人間のわがままを今まで許してくれたが、そろそろ限界にきている
それが環境問題、温暖化です  学問を、何十年と地震学をやってきたが判らない 
それを判ると思ってきた 
生命科学も50年間やってきた  
しかし生き物というのは如何に凄いかということ生命については殆ど解らない
今の科学が駄目なのではなく 生きていることが細胞一個が如何に凄いか 
まして60兆の細胞が助け合いながら生きているというのはただ事ではない

「偉大なる何もの」Some thing great それが神仏かもしれないし 大自然かもしれない 
科学的にはsome thingでなにも解らない
偉大な存在がないと生き物が偶然出鱈目に生まれてくるわけがない
生命の親みたいなものが、存在する、働きがあると思っている  
それを人類は神仏という事で日本人はお天道様ということでずっと考えてきた
それを最近忘れかけている  
科学を50年間やって来て、遺伝子にとりついて暗号解読をやってきたが、人間、生きていることの素晴らしさ有り難さ、を少し知ってもらおうと思って、  本を書いたり、講演をしている

2011年6月25日土曜日

畑裕子(作家)          ・激動の時代をしたたかに生きた女たち

畑裕子(作家)     激動の時代をしたたかに生きた女たち  
茶々 鶴丸を出産 3歳で病死する  二年後秀頼を出産 自分の母乳で育てる
浅井長政21回忌の時に菩提寺 養源院を建立する(秀吉に懇願)
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の供養のために秀吉に願って成伯法印(長政の従弟で比叡山の僧)を開山として創建
元和7年(1621年)、徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興
秀吉が無くなった後、家康から難儀なことを再三しかけられるが、秀頼を助ける
初  しっかりした女性だった
関ヶ原の戦いで京極高次は 西軍 大津城に籠城する 
慶長14年高次がなくなり、初は出家して浄高院初と名乗る
豊臣と徳川の関係が険悪になると、淀殿が心配になり、大阪城にたびたび出かけるようになる
大阪冬の陣の時にも城内におり、和議の使者となる
佐治 一成は、戦国時代の武将。佐治信方の嫡男。母は織田信長の妹・犬。
織田信秀の外孫で、信長の甥
不利な和議を飲まざるを得なかった
翌年3月 豊臣が京都を放火するという噂が流れ家康に噂について否定するために奔走する
家康が初を呼び出し、二条城にて会見 最後通牒ともいわれる書状を渡される
大阪城に書状を持って帰ると、秀頼から激怒される 戦の事は女に指図されるものではない 
めげずに淀殿を補助
大阪城が落城する直前まで淀殿の元に一緒にいる  淀殿を解きふくす事が出来ず大阪城脱出
その後江戸、京極屋敷に住むようになる 秀忠に和睦する
亡くなる一カ月前に遺言書をしたため、 浅井喜八郎(関ヶ原、大阪の陣で豊臣方に味方)藩主京極忠高に知行を与えてやってほしい 500石を与え、京極家家臣とする
 最初の結婚は佐治一成、直ぐ離婚 

2011年6月24日金曜日

南野忠晴(高校家庭科教員)     ・生活の感性を磨く 2

南野忠晴(高校家庭科教員)   生活の感性を磨く 2
家庭科を通じて考えてほしい事は、自分はどう生きてゆくか、自分はこの世の中でどのように生活してゆくのか、を自覚的に生きてゆく姿勢を身につけてほしい
家族、人間関係に多く興味をひかれる  
家庭というものを、もう一度広く見つめ直した方がいいのではないかと思う
瞬間的に見ると、父、母、子供であるが 長い目で見ると入れ替わってゆくもの、変化のあるものである
うまくいかない時もあり、その時次に一歩どのように踏み出すのか、前を見ながらポジティブに考えてゆく 

柔軟な姿勢を持っていれば、頭の切り替えが出来る、発想を変えられる  
いろんな選択肢があるという事を知っているという事が大事  
生徒たちにいろんな意見を出させて、話し合いをさせるのが主眼になっている →纏めない
結婚相手に対して求める条件 生徒は100ドルとして性格の良い人にいくら 収入の多い人にいくら と 入れさせて結果を発表する
いろいろな条件が存在することを知ってもらう  
生徒は劣等感の塊みたいなところがあって、駄目なところに目が行って仕舞う
自分というものがしっかりしていれば、劣等感を気にせず自分なりの生き方をして、その方がいいのではないか  

中、高年代の男性は 男子厨房に入らず 家庭の事にあまり口出ししないという様な時代背景の中で生きてきた
定年を迎えて、家のことについてうまくいかないとか、辛い思いをしているとかの話を結構聞く 初心者と思い、温かい目で夫を見守ってほしい  
夫もめげないで頑張ってほしい
 
税理士の妻が病気になって、家事、洗濯をやるようになって、大変さが判った、と同時に天気の事を考える自分に気付く(洗濯びよりか)
妻のパンツの畳み方を妻の思っているように畳めない 
やってもらっていることに対して、素直に「ありがとう」で良いだろう  
無理矢理やらせようとすることで、いろいろ軋轢が起こる
人間関係の結び方、あまり一体感を求め過ぎてはいけない  
相手を尊重すればDVはあり得ない

授業は一回完結型で進めてきた 
一回一回の授業のなかで、「私の考え」を書きなさいと書かせてきたが、時間が経過するなかで段々と、物事を深く考えるようになった生徒が多くみられるようになった  ペットは家族か 今年の生徒は全員がそうであると答えた  
受験に欠かせない科目 主要な数科とほかでは 受験に直結しないものは時間が減らされる方向にある
家庭科は増やしてほしい 特に3年生  
3年生は今後が見えてくる年齢 労働の事、結婚のこと、家の事、等々

2011年6月23日木曜日

南野忠晴(高校家庭科教員)     ・生活の感性を磨く

南野忠晴(高校家庭科教員) 生活の感性を磨く  
大阪府立高校初めての家庭科男性教師
「正しいパンツの畳み方」出版
家庭科は女子の必修科目 (中、高)  男子は体操、工作等
20年前から男女必修となる ・・・家庭科の教員になる
3年生の女子が、1年生が男女一緒になって調理実習をやっているのを見て言った、
「いいなあ この子たちは男女が一緒になって調理をするのが、当たり前だと思って、これから大人になって行くけれども、私の同世代は料理は女がするものだと思って、そのまま社会に出てゆくから 自分が結婚する相手は、自分に家事を押しつけそうだけど、この子たちは、一緒にやって行けそうでいいなあ」  
 
今の中年世代は役割分担がはっきりしていて 家事は女性がやるものだと思っている
教師になって最初13年間英語を教えていた 
その中で6年後に家庭科の通信教育を受けるようになり、興味を持つようになった 英語より家庭科の方が、生徒と接している中で、大事なのではないかと、漠然と思うようになった 
人間って知識が入ると伝えたくなる 
英語の時間に雑談でしゃべっていた事柄を、家庭科として教えたら、1時間教えられると思ったら、これもいいかなと思うようになる  
英語と比べ生徒たちとの距離が圧倒的に近い 悩みも救いやすい  
家庭科を教え始めて17年になる 
家庭、食物、被服、住居、保育、家庭経済、・・・・分野が幅広い  総合生活学
高校生・・・大人扱い、子供扱い 両面ある
自分で食べる弁当、自分で作る・・・自立を獲得する為の期間が青年期

2011年6月22日水曜日

中野しずよ(ワーカーズわくわく理事長) ・地域の絆をつなぎ直す

中野しずよ(ワーカーズわくわく理事長63歳) 地域の絆をつなぎ直す  生きているだけでも見ず知らずの方から恩を受けている  
当事者に恩を返す必要がない場合、その方に恩を返すのではなく、社会に恩を送ってゆく事で、送られて恩が又社会の中で恩の輪が出来てゆく「恩送り」
見えない人とでも絆がつながってゆく
恩を返したいと思ったのは子供を育てようとしたときに 実家に頼れない事があり、近所の人に良くして頂いた
黙っておむつをほしてくれたり、いろいろ面倒を見てくれた・・・生協の家庭班の人達 人助けで社会貢献したいなと思い始めた 
生協を辞めてグループを立ち上げた
 
高齢化社会がやってくるのではないかということで学んでおきたいと 生涯教育学級 このテーマで参加する
3年間学習 一人ではできない事も仲間が出来ると 仲間と一緒ならいろいろなことが出来るという可能性に気付かされた
一人はみんなの為に、皆は一人の為に、この気持ちで繋がってゆくと 身近な事の解決に自分一人ではどうにもならなくても、皆がいると相談したり 智慧を出し合ったり 助け合ったりすることで 乗り越えていくことが出来るなあと生きてゆく見通しがついたなと思ったのが、この生涯教育でした
 
グループわくわく  元気がわく 勇気がわく 友情がわく ほほえみがわく アイディアがわく・・・楽しさのプラス スパイラル
ワーカーズらくらく→有償でやってゆくことに決める 厳しい指摘があったが進めてゆく
必要なサービスは必要なだけ出して それに対価が発生する 
対価は誰がどう負担するかは 社会的議論が必要かもしれないが、労働力に対しての対価は必要なのは当たり前  
福祉はスキルが高ければ良いというのではなく マインドが必要 敬愛の気持ち 
コミュニケーションが発生 自分の存在価値が発生 自分が生きる勇気発生  生きる力を引き出し、支え続ける ここが支援の側のミッションだと思う  
ワーカーズ らくらくを立ち上げてから20年になる
 
気を付ける事 当事者の気持ちを尊重すること 押し付けない 
やってあげるという言葉も心も慎んで (心にあると態度に出てしまう 上から目線) 7人でスタート 現在81人 組織運営は難しい  
情報の共有が必要 ミーティング
  
小沢理論
①その人の苦しみを知る(苦しみ:希望と現実とのギャップ)  
②その人の支えを知る(この方は何によって支えられているのか 人間関係、時間、自己選択))
③その支えあいを知ることによって どういう私達であったらその人の支えをもっと強くする事が できるか  
④この私達が結構疲弊する 全力で 亡くなろうとしてる人を支えようとする時って 相当エネルギーを消耗する・・・この私達のささえは何か
  (仲間だったり、家族だったり、良い景色だったり)
グループディスカッション を通じて人を支え続けるエネルギーを築いてゆく 
ホームヘルプ→デーサービス→ケアマネージャー→泊りが出来る家
若い人が興味を持ってきている ・・・自分の幸せ 立つ位置を探している 
思い通り生きていない人一杯いる  
見ようと思うと見えちゃう →その時に知らないふりをするのか、共に生きようとするのか そこで次の動きが変わってくる  
有り難いことに共に生きているという実感がある 知らず知らず絆が生まれていた

2011年6月20日月曜日

秋枝簫子(しょうこ91歳)     ・女性の潜在能力を生かせ

秋枝簫子(しょうこ91歳) 女性の潜在能力を生かせ
<概要>
1920年生まれ 女性史が専門  平成9年男女共同参画社会作り内閣官房長賞受賞
女性史を学ぶことによって女性の啓蒙、地位向上等に尽力する
戦前・・・昔の女性の方が一生懸命生きてきた 社会的活動は難しかった 一日働きずめ
戦後・・・両分極化している(一生懸命やる人はやっているが楽をして生きている人もいる)
家事から解放されている 楽指向が増えている
戦争で都市という都市は全て焼け野原となっていた 終戦になってほっとした
父は新聞記者だったので戦争関係の情報は知っていた 秋に疎開先での米の刈り入れも手伝う 
 昭和20年11月に大學が再開する

東北帝大 2次募集の時だけ旧制高校以外でも可とする 女子が大学に入ることに対して一流新聞
は好意的であったが、
文部省事務次官をはじめ 、対応は厳しかった  鳩山春子 (女子独立学校を建てた人)は大賛成だった
東京女子大を卒業後東北帝大に進む
家では戦前でも 父は女も平等に育ててくれた (男女の差が厳しい時代) 一歩外へ出れば差別
だらけであった
女性は能力があっても全部無能力者の枠に入れられていた
不当だと思っていたので、将来女性解放とか、女性の位置を高める仕事をしていった
そのためには 先進国の女性についての勉強をし、それからそういった運動をしようと思った

東京女子大の英文科に入る 外国に行く為に英語をものにしようと思った
外国に行ける時代ではなかったので、東京女子大の講師から東北帝大は女子を受け入れるので
そこに行きなさいと言われ受ける
西洋史にはいる  先進国の女性史やりたいといったら 教授からそんなものを勉強する人はいない
勝手にやりたまえといわれる
仕方がないので図書館に行ったら女性史に関する本は一冊もなかった
何のためにこの大学に入ったのか判らなくなる 随分と悩んだ  大學というところは自分で開拓して
勉強するところだと気付いた
東京女子大のルートを使って手紙を出して外国の資料を送って貰う
アメリカ文化センターが出来て(東京日比谷公園)図書部があり いろいろ本が来ていた 
女性史、女性教育史等の本が一杯あった

卒論を書く時には東京に移って日参して調べた  
全部手書きでやらなくては行けなった
女性教育に関する本が一杯あった  
卒論は「アメリカ女子教育の成立の社会的基盤について」
明治2年の時 アメリカ・ボストン大学は大学院まで女性が行けるように開放されてた
進んではいたがアメリカでも18世紀~19世紀は男女の差別はあった
戦後10年ごろは女子学生は社会に還元するんだという意欲は十分にあった  
100%就職し、70%は教員になった
段々時が経つと 段々と職種が増えてきたが、楽して専業主婦の道を歩みたいと考える人が
多くなる
今、両極分化している お稽古ごとは本を読める様であればあとでも出来る  
今 独学出来ないことを学んでおきなさい(母の言)

そういう意味ではとっても両親に感謝している 
人類の半分は女性 日本は半分の男性の能力しか還元されてない 
女性の能力は全然使われてない
 これはもったい
女性の能力をいい意味で社会還元する   
男性を教育するときはその男性一人の能力を開発する
女性を教育したらその家族全部を教育する事になる
(特に子供に対して影響大)  ある意味で男性以上に重要だともいえる
戦後日本は女性に対する教育が普及してきたのに、なぜ日本では高等教育を受けた女性は
家の中に入ってしまっていて、社会に還元しないのだろう
(国際学会で外国の人たちが可成りそういう)  
それは日本の家庭の主人が外へ出したがらない
(ある日本人代表の答え)

男性も啓蒙しないと駄目
家庭のレベルは夫と妻のうち低い方で定まると言える
子供と話す時には子供のレベルまで下げないと対話は成り立たない 
夫と妻と対話をするには低い方に会わせないと対話は成り立たない
その話を聞いた男性が驚いて今度は父親学級で話して下さいという
戦時中の日本人の平均寿命 男性は23.4歳 女性は37歳 吃驚した 
外地で死んだ人300万人 内地では60~70万人  もったいないことをしている
戦争体験を風化させない 絶望の中の餓死者が7割

前身は老人問題研究会・・・メンバーは医者が多い 新しい医療 がん治療 認知症の話だったが
女性が段々入会するようになった
男性は忙しく結局解散する→もったいないので新たに学びを楽しむ会が発足  
月/1回 (夜) 50~60歳
福岡女子大教授 30年勤務 
GHQが戦後5大改革を掲げる その一つが婦人参政権を入れる  
その前終戦10日後市川房枝さん、赤松末子さんらが戦後対策婦人委員会を立ち上げる
GHQ、政府に提案している  戦後男性は虚脱状態で元気がなかった 
女性はいろいろな面で元気だった

選挙権行使は1946年4月  昭和25から新生大学  男女共学 
女性学という学問はなかった  
アメリカで1970年代から出てくる(黒人だけでなく女性も差別される)
ハーバード大学に一年間学ぶ 交換教授の様な待遇で学ぶ  
研究費は何に使ってもいい(ベビーシッターもOK)

1975年 国際婦人年 各国が実現に向けて努力する約束をする→最初署名をするなと政府の指示
、その後OKとなる
生まれたら父親の籍に入れることの問題・・・法務省 家庭科の問題・・・文部省  
差別賃金等の問題・・・労働省 3省が反対だった
法務省が最初に変更 次に労働省  文部省が最後まで抵抗した
(家庭は最後まで女性が守ってほしい 思惑)
婦人問題懇話会を福岡に設立 教育と女性の社会参加部門の部会長をする
はじめは課長級が対応 憮然とした態度→1年後顔色が変わって男女のなれ?をしなくては駄目と
考え変わる

森有礼(ありのり)-フォレスマンの比較研究・・・卒論
マサチューセッツ工科大学の初代教育長
 (弁護士だった 貧しい人に対して味方するような人 州議会の議員になる) 
米国、女子師範学校を作る(19世紀中ごろ) 女工・・・教育のある人の方が能率高い事が実証される
・・・女子教育の重要性を説く
奴隷解放運動に参加 オベリン大學設立 初代大學の学長として招かれるがその時の条件→
①寮生に男女平等に門戸を開く 
②人種差別しない
③教師陣に女性教師を入れる

森有礼は幕末青年期に 海軍の技術を学ばせる為に、イギリスに密かに薩摩藩から行った人  
むこうに行ったら教養の高い女性を知る
藩から学資が届かなくなり、米、宣教師から米国への渡航を望まれ米国にいき、働きながら勉強する
やはり教養の高い女性を知る(大學を知る)
黒田清隆 北海道開拓長官が来たときに女性の教育の必要性を説く→最初の官立女学校を作った
明治5年 学制が出る 教育の根本は女子教育にあり 母親を教育することはその子供たち全部を
教育することになる
明治18年 内閣制度が出来 伊藤博文に乞われて初代文部大臣になる 
女子教育の重要性をいつも説いて回る 
女性は日本の文明を推し進める重要な役割を持っている  等々絶えず言っていた
フォレスマンは亡くなったが、奥さんがインテリで奥さんと親しくしていた 
森有礼の英語の論文がありフォレスマンの事が書いてあり、アメリカで最も優れて教育者であり、
最も優れた賢人だと言って最高級の賛辞で紹介している
出版祝いと生前葬を行う(84歳の時)  どんなんに良い法律が出来ても権利があっても 
その上に眠りこけていたら何にもならない(市川房枝談)
時間短縮 ワークシェアリング 男性の家事分担・・・今後必要であろう

2011年6月19日日曜日

福島立實(山岳ガイド)       ・我が学び舎は乗鞍岳


福島立實        我が学び舎は乗鞍岳
6月は登山シーズン 2700m 畳平まで車で行ける
ペンション経営、北アルプス山岳ガイド、全日本スキー連盟公認指導員 自然公園指導員 
釣り協会その他
父は福島達吉 15年以上前に亡くなる(94歳) 私は13番目の末っ子
父と山歩きを一杯やった 父親のやっていることは全てやっている 
父親の影響が大きかった 全て自然が先生みたいなものだった

何をやっても面白い 興味を持つとどんどん面白くなる 
地形、地質、によって好んで育つ場所があって取れるもの全部場所をおぼえていった
一時、都会に就職するが、父に呼ばれ、山に戻る  
きこりになりたかった→山では超エリート(高収入、技術等) 
木の倒し方が難しい 
枝がどのように挙動するか、状況により枝で怪我したり、亡くなったりする場合がある
木を倒す時には何回も何回も周りの状況を確認する

お客と話をするのが楽しみだった→ペンション経営へ  類は友を呼ぶ  
いわな釣りはお客の分だけ釣る
山菜も標高によって味が違う 1500mが限界 その場所での山菜が一番美味い 
寒さに耐える為にでんぷん質を貯める
耐えるってことが美味さに繋がる マツタケもとれる 
ツガタケという(乗鞍のマツタケ) 幻のマツタケといわれる
味が違う→味が高尚  山菜は雪が解けると必ず出るが、キノコは難しい  出ない年もある
気温と雨と風 適度な数値になることが必要である  
見つけ方難しい→葉が落ちて一枚だけ微妙に違うのがある(自然ではない違い) 
そこにマツタケがある (マツタケが葉を動かす) 長年見ていないと判らない
ある案内をした時 ガスって何も見えない こっちの方に行けば大丈夫という自信があった 
目印はない どういう歩き方をすれば大丈夫か
自分の体の力を抜いて歩けば最大傾斜線になる 逆らってしまうとどこかに行ってしまう 
目標(トイレの場所)は逆らってはいけない場所にあった

ガイドはどんなことがあっても生還しなくてはいけない 
自分の過失でお客さんをなくしてしまった場合、これはガイドとは云えない
意外と登山する人で出来ないのが火を焚くという事 (火は命)
今までの遭難でも火がたけなかった為に亡くなったということが、結構あった
火を焚けば、暖をとれる 火さえ焚けば煙が出るから発見してそこに食糧も落とせるし、電話がなければ携帯電話も落とせるし、全てが出来る
冬の生の小枝は燃える 夏は燃えない(水分を吸っているので) 枯れている木は力がない
生の木の方が火力はある
こちらでは「山で火がたけないようであれば婿に行けない」ということわざがある

火を焚くコツ→木の種類を見る(桐、柳、ななかまど等は燃えない) 
燃える木を探す いっぺんにパッっと燃えるような燃やし方をしない
本当にマッチ一本から少しずつ少しずつ燃やすようなやり方をしないと駄目
最近特に温暖化が目につくようになった
蛇→最近は絶対この場所ではいないと思っていた所に蛇を見かけるようになった
土の温度が上昇している(蛇は変温動物)  動物たちが山の上の方に来るようになった
山に熊が食べる餌がなくなった 熊、たぬき等ずっと人間の営みのなかで生きてきた 
人間の営みが変わってしまった

木を切らなくなった 実のなるものは全て花が咲く 森林化すると、鬱蒼としてきて、光が入らず花が咲かなくなる 下草が育たない
熊はうど等を好んで食べる よぶすま草、えぞ山あかり・・・ むだなものは食べない 
蟻も好きだが蟻もいなくなる
日を当てないと花を咲かせられない(実がならない)→木を間引く必要がある  
手を掛けなくてはいけない
彼らの住みやすい環境を作ってやる必要がある

2011年6月18日土曜日

永留久恵(90歳)        ・アジアの中の対馬

永留久恵(90歳)
対馬国史全3巻を出版  古代から現在までの対馬史
対馬には上県(あがた 北)と下県(南)がある 
魏志倭人伝に対馬は森林多く 良田なく 海のものをくらって自活し 船に乗って南北にシテキする 
シテキとは商売すること
中国の後漢の頃 鏡が出てくる
14歳で師範学校にゆき 後に先生になる(それしか道はなかった) 学費の高い学校にはゆけない
 兄にお世話になった

20歳 1941年 佐世保海兵団の一員になる 最初戦艦「霧島」次に航空母艦「飛龍」→
ミッドウエー開戦にゆく 飛龍はなくなったが助かって帰ることが出来た
その時艦長が生存者を集め、訓示をする  総員の退艦を命ずる 
僕らに生きる誇りを持たしてくれた
艦長は船と運命を共にした 
お前たちはもう一度国の為に働け 責任は俺一人で取る  今でもそれを誇りにして生きている  
艦長から生命を授かったようなもの
戦後は対馬でずっと先生をすると同時に 歴史研究を続けている 
 
1921年 東西考古学会というのがあった 
対馬は軍の要塞のため、考古学の調査が出来なかった 
その先生たちが戦後対馬研究の為に島に来る その対応をしていて興味を持つように 
アジアからみたつしまというものを書きたいし、対馬から見た中国朝鮮との関係を書きたいので本を
作った 日本自費出版大賞になった
漢式土器 が僕の古里から出てくる 銅剣や銅鉾等も出ている  
弥生前期によく漢式土器が出てくる対馬から出土したものと全く同じものがピョンヤンの博物館にある
楽浪郡済州島に4回、5回と行っている

縄文前期のころはみんな対馬を通ってゆく 九州 松浦にゆく 
縄文後期になると、宗方へのルートもできる このルートがだんだん強くなる 
種子島の赤米は背が高い・・・東南アジア系  対馬の赤米は朝鮮系 
文化人類学の先生たちは北を回ったのではなく、江南から直接渡ったんじゃないかというのが多い 
日本列島に稲がどこから来たのか
正確には判らないが、古代の遺跡が物語るもの
中世になると朝鮮系の仏像が対馬に沢山ある  
室町時代は国境が有ってないようなもの、自由な交易ができた
朝鮮は青銅器文化が盛んなところ 高麗王朝が滅んで、朝鮮王朝が出来た時 廃仏毀釈をする  
朝鮮は儒教文化であるので手や足のとれた仏像が沢山出てくる

仲よくしなければ良い商売はできない 
隣国と仲良くするという事がいかに大事かということを日本史は教えた
徳川時代の260年は日本は全く戦争をしていない 
朝とは通信使を使わしてなかよくした
徳川時代が終わり、通信使がなくなると日本に征韓論がでてくる
その後日本は一杯戦争をやる様になる  
隣国を大事にするということは国防上大事な事
雨森芳州1668年生まれ 1755年亡くなる かれは子供の時から京都で育っている 
父母や兄弟たちの墓も京都にある 

雨森芳州は元禄の初めごろ対馬に来る 幕府の儒官になりたかったらしい 叶わなかった 
朝鮮方 外交交渉は対馬藩が行う
外交 雨森は通訳も兼ねる  誠信の交わり
豊臣秀吉の時代は朝鮮出兵がある 対馬の部隊が一番先頭
(相手の事を一番知っているのが一番先頭)
宗 義智(そう よしとし) 対馬領主宗氏の20代当主。対馬府中藩の初代藩主
義智は5,000人の軍勢を率いて天正20年(1592年)4月12日に対馬北端の大浦を出港し釜山に上る
中世 朝鮮半島南に多くの倭人が居留していた 朝鮮国はこうきょうわと称していた
それは海賊です 朝鮮王朝 初代王朝 李せいけいが海賊というけれど 彼らは貿易商人である
国が乱れて貿易が出来ないから海賊にならざるを得なかった 
土地を提供するから住んでもいいよ
 と飼いならす

向うに住んだ人を「こうきょうわ」という  両方に住まいを持っている(行ったり来たりの生活)  
対馬、松浦、壱岐等
朝鮮の役にたった人は官職になった人もいる
明治以降 下関から釜山に直接行くようになって 対馬にはよらず取り残された
今後は 国際観光地として観光産業を開くしかないのではないか 済州島も同じ 
済州島は見事にそれをやる
済州島:韓国の最南端(高知県や福岡県と同緯度)に位置する島
アジアを旅行して記憶に一番のこるのはシルクロードである  半農半牧である 
対馬は半農半漁なので何か通じるものがある
最近中国は都市化が進んでいるが 田舎の方が中国らしい  
物事を頼んでも良くやってくれる

2011年6月15日水曜日

千賀原公彦(NPO法人Dコレクティブ) ・被災地ボランティアの司令塔として

千賀原公彦(NPO法人Dコレクティブ) 被災地ボランティアの司令塔として  
山形県と「山形県災害支援ネットワーク運営連絡会  3/11より以前からお互いに情報交換
工場のヘドロの除去依頼
床下のヘドロは臭い 虫、カビ等 これからの季節 気を付けないといけない 宮城県塩釜市 被害甚大 被害状況のチェック 人手が不足  
4つぐらいのNPOと協力し合いながら5~6名でやっている  
被害の状況がどうなのか 写真や動画に収めたり話を聞いて約1週間掛って行う
支援活動の把握  死体がごろごろ転がっており人々がとぼとぼと歩いており 自分はいったいここで何が出来るのだろうと想像がつかない状態
一時間ぐらい涙が止まらなかった記憶がある
今は情報収集から第二ステップに入っている

秋田が岩手を 山形が宮城を、新潟が福島を支援する役割り分担が決まっている
外部支援が(関東、関西)引き揚げた後 如何するか 
今まで漠然と行政がやるものと思っていたが 矢張り 行政も被害者になってしまうので 行政、民間、NPO、社会福祉協議会等といろいろな連携対応があって復興支援に当たっているというのを見て 仕組み作りをする団体が必要であろうと、2003年に資格をとって細々と活動を始める  
同じ震災でも対処の方法が違う

そこに住んでいる人達や、被害の状況、住民の人達がどんな思いかをちゃんと向き合って あの時のあの方法が合うかな とかさりげなく支援してゆくことが、10年ぐらいで見えてきた  
今回 応援要請があれば動けない  複数県にまたがって被災するというのは想定外
この三カ月を経過して 今までの災害であれば三カ月で復旧期を終え これから復興計画にはいる段階なのだが、そこまでまだまだいっていない
外部支援がまだ行っていない場所がある
漁業、港をどうするか、畑をどうするか 支援、商店街 コミュニティービジネス等 再生にボランティアが関わっていかないと 今回の東北の復興は、成り立ってゆかないのでは 
(本来ボランティアは営利に係わるところには入ってゆかない)  
息の長い支援になりそう
 
一店でも二店でも店が出来るように支援が大事(地元のベースとなる)
「ありがとう」と言わせ続けないような対応が必要と思う
毎日いろいろな人が来て声を掛けてくれるのだが、責任者はいったい誰なのかと云われた・・・配慮が必要
ボランティア→作業するのが目的になってしまい 住民と一緒になって住民の思いを考えながら作業して 自立につながる手伝いをするというのが本来の目的
ガソリンがないことにより 物資が届かないという 新たな隙間も見えてきた  
社会構造を見直して ゆく機会になるのでは
頼りになるのはラジオ 一番早く教えてくれた 避難所もラジオ
被災地に寄り添うことが必要 孤独死等 永い対応が必要  
災害支援のキーワードは継続
社会のシステムのなかで途切れさせないような仕組みが大事

2011年6月14日火曜日

坂本眞人(南町商店街青年部)   ・復興は青空市とコロッケから

 坂本眞人(南町商店街青年部) 復興は青空市とコロッケから 小野寺和雄  
南町商店街は9割が倒壊した  翌日歩く道がなくがれきを登って動いた 
200m 四方に130店舗在り飲み屋が多い 1~2軒しか残らない 家の中はがれきだらけで自分で出した  
青年会でチームを組み順番にかたずけた(20名程度)  
まだ信号がつかない状況  気仙沼市役所が情報源になっていた  
何一つ情報がはいってこなかった
避難所をむらさい神社に設ける  (年/一回 9月にかぼちゃ祭りを神社でやっていた) 

各自治会長が避難所に避難
食べ物、毛布等 集める 10日間は支援物資途等 全然来なかった  
青年会みんなで役割分担して水、食糧、ガソリン等を集めた 自家発電 ガソリンが7日目に入り、電気が点灯した   
青空市場を開催→下着販売(みんなで話し)、コロッケ(北海道の冷凍コロッケを一関まで送ってもらい)、靴、弁当、キムチ等々  
月曜~金曜 10時~2時まで営業した
何かやらねば駄目と青年会が立ちあがる
ライフラインがまだ、電気、水が来れば住みたいという人いる  
木造建築は全て破壊された

仮設店舗はできないか、中小建設会社に相談 土地を確保してもらえればOKとの返事  
土地を確保、し整地中
二階建て、四棟を計画 南町商店街の核としたい  
ボランティアに助けてもらって励みになった
子供たちは父母が頑張っているので対応してくれている 今一番必要なもの・・・時間がほしい  
一日を長くして一日でも早く仮設店舗を立ち上げたい

2011年6月13日月曜日

畠山重篤 (NPO法人代表)    ・森は海の恋人


畠山重篤 (NPO法人代表)   森は海の恋人
 NPO法人「森は海の恋人」の代表
1989年に牡蠣の森を慕う会を結成 →漁民による植林活動を続けてきた→3/11大震災で牡蠣の養殖施設などを失う
父の代からカキ養殖を始める 三代目の息子たちが後を継いでいる 私も50年やっている
牡蠣も種が必要 カキは真夏に産卵する→3週間プランクトン生活をする(ものにくっ付く性質がある)→ホタテの貝殻に穴をあけて70枚(一連)海にぶら下げる
そこに牡蠣の赤ちゃんがくっ付く(そのままだと脱落したりする)→万石浦(干潟)の干満潮にさらす→しっかりとホタテの殻にくっ付く(水からあげて、2週間ぐらいの輸送に耐えられる)→柔らかくなった縄の間に殻を挟み込む→それをいかだに下げておけばプランクトンを食べて成長する  
早ければ翌正月から春には売り物になる(昔) いまは1年から2年必要 

カキ養殖 広島は大田川という広い川がある 宮城県は北上川が注いでいる 
川と海の混じっている領域をきっすい域と言うが、きっすい域でないとカキ養殖はできない  
養分は段々川の上流から来ることが判ってきた ・・・それは森は海の恋人ではないかと判った  
平成元年から気仙沼湾の養殖している漁民が中心となって落葉広葉樹(ブナ、ナラとか)の植林を展開する→森を作る運動を展開
毎年葉っぱが落ちる→腐葉土が出来る・・・森でも一杯生き物がいる森は良い森→海にとってもいい森、杉とかひのきの手の入らない山は暗い 
生き物がいない・・・悪い森→海にとっても良くない
 
一番いいのは東京湾と鹿児島湾を比べればいい(ほぼ同等面積) 
東京湾には16本の川(武蔵野の雑木林)が流れ込む (2年で真水になるぐらいの量)
 →鹿児島湾より30倍の魚介類が取れている(本来なら汚い海)

鹿児島湾は大きな川がない(火山の爆発で出来た湾 綺麗な海)
3月11日 地震発生 この4~5年地震が多い 
7年前 三陸はるか沖地震の時の方が揺れは大きかった
大津波警報が発令→チリ地震津波を想定で対応(去年も大津波警報出たが大したことなかった)→潮がひく(直感 異様な感じ)
25mの高台自分の家から見る→第一波 静かに海面が盛り上がる 
動いてくる 5~6m →第二波 10m以上 あらゆるものが第二波でやられる
放心状態 引き波 早い 時速40km? チリ地震の比ではない さらに裏山に逃げる 
93歳の母親を亡くす 家は助かるが生産設備等全て失う

大きな家の屋根がどんどん流れてゆく 
三男が湾の外へ船を脱出させようとしたが、出遅れてしまった 灯台がしたに見えた 
島の近くに流されてきた浮輪を体に付け何とか泳ぎついた
この津波はでか過ぎた 弥生時代 貞観時代 今回 1000年に一度の大地震・大津波
復興への気持ち    日本は地震と津波は免れない  
船もない、全国から支援があって、大阪から船をトラックに乗せて2艘もってきてくれた
(環境調査をしていた方)

その人が海底調査をしてくれる→海底は思ったより被害は少なそう
岩場には海藻が在り アワビ、ウニがいる、プランクトン( 牡蠣に必要なキートセロス)がびっしりといる 酸素量も問題なし・・・海は壊れてなかった
ガレキ、木等を除けばいかだを浮かべる条件は揃う  牡蠣の種も残っていた
30人で杉の木を山から切って降ろす(いかだ用木材)一気に出来ないが一歩一歩進めてゆく
大分県から竹を一万本寄附してくれる(いかだ用) 
アンケートをとってみると、最初は戻りたくない→小高い丘に家を建てうみの見えるところに住みたい・・・海の恵みを受けている
小舟を浮かべて魚を採ったりアワビを採ったりする生活をしたい  
だれも海を怨んではいない
植樹祭→こういう時こそやらなければならない(6/5実施)
海は塩分だけではプランクトンは育たない 森の養分 鉄分が特に大事  
川と森は健全・・・もっと良くしてゆく 

十何万世帯の家を建てなければならない→木が必要→杉、ひのきが山ほどある →手を入れる絶好のチャンス→森に手を入れる→家を建てる→    森が明るくなる→光合成が活発になる→Co2を吸収→川が良くなる→結果として海が良くなる事に繋がる  
この仕組みをどう作るか今動いている   
この循環がうまくいけば十分再生はきく
震災での家を建てる木材を国産材の地元の木をどうやって使うか、ここがキーワードの様な気がする雇用も生まれる、経済も回るんじゃないかと思う

2011年6月12日日曜日

菅波 茂(64歳)        ・救える命があればどこへでも

菅波 茂 救える命があればどこへでも
<概要>
1946年生まれ 岡山大學医学部 
広島県深安郡神辺町(現・福山市)出身の医学博士、医師、福祉事業家。国際医療ボランティア
AMDA創設者、理事長。医療法人アスカ会・創設者、元理事長
特定非営利活動法人アムダ(AMDA、Association of Medical Doctors of Asia )は、1984年に設立
し岡山県岡山市北区伊福町に本部を置くNGO・国際医療ボランティア組織
アジア、アフリカ、中南米において戦争・自然災害・貧困等により社会的・経済的に恵まれず、
社会から取り残されている人々への医療救援
と、生活状態改善のための支援を実施している    国際医療ボランティアAMDA創設者、理事長
タイ、ネパール、インド等に医学調査隊派遣
27年前にアムダ設立 世界30カ国と連携し、活動している・・・岡山県に本部く
インド、ブッタガヤと言うお釈迦様が悟りを開いたところで大震災の情報を得て、翌12日には医師2名
ナース1名が緊急に入る 述べ150名が派遣されている
本当の情報は被災地に入らないと、本当になにが必要なのか判らない
津波に対する医療は地震とは大変違う 津波で建物ごとやられる  地震はスポット、津波は面でやられる 
被災者は絶望の淵にある 見放されていないんだと思ってもらえるような支援が必要・・・
より早く現場に入る なにをしたらよいか
40年前 岡山大學医学部 タイ、ミャンマー 医学医療チーム出す 寄生虫調査が最初 海外に出て行って
やろう

NGO 非政府組織 国連に対して提案権を持つ 国連が資格を出す 
①国連の会議に参加出来る
②専門的な分野からコメントが出せる
③政策提言が出来る(2006年医療団体として国連に政策提言が出来るようになる)
避難所で医療活動 現地開業医のサポート  
今回 ガソリンがない為にたくさん団体が入れない 被災者も外へ動けない
被災地の事は被災地の人に聞け(見捨ててない 私達はあなたたちが必要なのです・・・という
メーッセージが必要)
奨学金制度 アダム国際奨学金 次の世代の高校生に希望を持ってもらう 医療従事者になって
もらいたい

今回の大災害の海外の注目点  
①原発被害は日本全体を覆っていたのではないのか
②何故避難所で暴動が起こらないのか・・・海外の人達に町内会の組織 を見てもらいたかった  
人柄で選ばれた人達が運営
   日本の被災者同士が協力している姿が日本人に対する尊敬の念を抱た
  無償のボランティアが支える
阪神大震災の時 フランス医療団が来て吃驚した →フランスでは被災者の登録をして被災者の一人
当たりの居住面積とか飲み水とかが 
 判るのに日本では登録もしないに秩序立って物事が進む ・・・町内会の働き ・・・外国にはこの様
な機能はない・・・説明しても判らない
究極の困難になった時にこのことが実力として出てくる
高校二年の時に 遠浅の海で顔半分うずめて死んでいる写真を見て、何故同じ年ごろの人が遠い国
で、こんな死に方をしているのか
ということが、非常に印象に残ったし、その後の私の活動に対して、非常に影響を及ぼた
日本は世界で孤立してはいけない 
 
宗教、文化、民族ちがっても尊敬と信頼との人間関係が 
物事の考え方が違う人とどうやったらうまく
やってゆけるかできたらやってゆける
それには困難を共にするしかない 困難を解決するなかで、自分の中にない物が相手に発見出来た
ら、尊敬と言う念になる
どんなに困難がきびしくても相手が決して逃げないことが判れば信頼の念が起きる
尊敬と信頼と言う新しい人間関係が出来た時に、はじめて双方のバックグラウンド、宗教、文化等の
違いを克服することが出来る
アジアは多様性に富んでいる
ハイチで米軍が首都の空港を閉鎖した どうやって援助チームが入るか 市民に武器を配っていた 
刑務所も壊されて、1000人の囚人が武器を持って散った
武器回収の為 ブラジル陸軍を主体とした国連ハイチ安定化ミッションを設ける
治安が悪い中 アムダが活動できるか懸念された アムダ・カナダ支部から現地の人を紹介してくれる→
ドミニカから入る

カナダ、コロンビア、ボリビア、ペルー、インド、ネパール、日本の7カ国35名の医療チームを編成 
普通2週間が2か月にわたる
薬が不足し、本来薬があれば切断しなくてもいい足を多く切断せざるを得ない状況となる(4000名)
足の切断の対応 国連が復興支援8項目の一つ 義足のプログラム チームを作りする
市民参加型人道支援外交作る
外交となにか・・・日本が太平洋戦争の時に世界から孤立した →政府だけでやる外交には限界が
あるんじゃないか
もっと市民レベルで尊敬と信頼という絆を世界に作るべきではないか 国政レベルでは断交している
国同士がある 
(ミャンマーは日本人が大好きだが、国政としては交流していない →市民レベルの環境で助け合う、
市民同士でお互い尊敬と信頼を持つ)

困った時はお互い様・・・相互援助をすることによってお互い尊敬と信頼により日本も孤立しないで
済むんじゃないか→市民参加型支援活動
中国四川省の大地震の時 医療チームの支援要請在り→条件として中国語が話せる 中国の医師免許
を持っている人 外科医を送ってくれ
3条件に答えられる日本医療チームはない→台湾と日本アムダは連携してアムダの名のもとに40名の
医療チームを送ることが出来た
台湾は中国とは国交ないので、国としては支援できないが、アムダの名のもとに支援が可能となった
インドネシアでも地震があり、後でのスピーチで日本も阪神大震災の時のように困る時がありますから、
その時にはあなたがたが助けに来てくださいと云う
県知事がスピーチ→いろいろな国から助けてもらったが、自分たちが困った時には助けて下さいと言った
のは貴方がたが初めてだとの事
私はアムダが大好きだ →援助を受ける側にもプライドがある
プライドとは何か→自分も人に役立ちたい、自分も社会に必要とされたい

平和への強い思い
平和とは何か→戦争がないから平和じゃなくて、もっと積極的な意味を持っているだろう
家族の今日の生活と、家族の明日への希望が実現できる状況が平和なんだ
家族の今日の生活→食べれて健康であること   家族の明日への希望が実現できる状況子供に教育を与えること  
これらが阻害される時が問題 ①戦争(紛争)  ②災害  ③貧困
こういうものが解決されたときに、人間の本質的な条件が実現される→それが平和
アムダは平和を阻害する 紛争(戦争)、災害、貧困に対してプログラムを作り、行っている
普通の状況の時には皆さん拒否する 世界の8割は血縁共同体である 日本は血縁共同体ではない
日本は特殊な国と思わないといけない
人間、人と付き合う時に一番怖いことは、裏切られるということ   
この人は裏切らないだろうという尺度をみんな求めたい
その時に血がつながっているということが、一番尺度として大切なんだというのが世界で8割 
これを血でつながっている血縁共同体という

血縁共同体の内部ではおたがいに助け合いをする→違った共同体との助け合いがない
唯一この共同体が外部に対して門戸を開く時がある→それは血のつながりよりもむしろ自分たちの
存在自体が存亡の危機に瀕した時は其の扉は開く
それが戦争の時、とか大災害の時である その時外部を入れる  困った時が真の友という状況に
なる そこにアムダ多国籍師団が入ってくる
向こうが受け入れてくれる  よその団体が一緒に行きましょうと誘うと一緒に行動する 
まさかの時が真の友でアムダが入る 
アムダは本当に困っている時来てくれたから 真の友と思ってくれる そのアムダが違ったところで、
困っている人々がいるから一緒に行きませんか
と誘うと、援助をうけた側にもプライドがある →自分たちも役に立ちたい気持ちを持っている  
そうすると参加してくる
それがアムダ多国籍支援参加国が増えてきた一番の理由

アジア医療支援が世界に広がってきた
「信頼とは何か」→一言で言えば電話一本で動いてくれるということ
アムダは信頼に基づいた多国籍医療チームだという事がいえる
運営資金は・・・災害支援は募金で行う 
①税金を使うという手もあるが税金を使うという事は決定が遅れてくる
②困った時に来てくれるかどうかという問題・・・行ったり行かなかったりするのが一番問題  
 必ず行くという時税金は使いにくい
 (税金の場合 どの規模だったら行くとか どの規模だったら行かないとか と言う様な問題
 が必ず出てくる)
募金額が少なければ、少ないなりの体制を作ればよい(足りなければ自腹を切ればよい)  
絶対に行くという姿勢を崩してはいけない
死んだ人をどうするかと言う問題がある →NGOは関与しない 宗教の問題があるから対象にしない→
国際社会は宗教なしには語れない
死者に対して合同慰霊をする事でこちらを信頼する →血縁共同体では死者をどう敬意を表するかが
一番大切 

アムダは多国籍だから死なれた方に必ず敬意を払う慰霊を行う→これによってもっと私達を信じくれる
そのひとつのシンボルとしてインドのブッタガヤにアムダピ-スクリニックを作り、そこで死なれた方々の名簿を作って
置いたり、毎年定期的に慰霊を行っている
これのヒントは沖縄の平和の森に沖縄戦で亡くなった方、日本兵だけでなく、アメリカ兵、巻き込まれた
沖縄の人々、全ての死者に対して
「貴方がたの事は忘れませんよ」と死者に対する敬意をお墓でやっている・・・世界で一つしかない
世界に誇るべき国際社会に宗教無しでは語れないという証拠に 先進的なすぐれた平和の森だと思う→
これと同じ事を私達もやらしてもらった

2011年6月11日土曜日

高石友也(69歳) フォクシンガー    ・自分探しのフォーク人生

高石友也(69歳) フォクシンガー  
<概要>
ちいさいころの母からの虐待に対してずーっと内に秘めていたが最近になってこの事を告白すること
によって 心の重みが溶けた
大学時代にフォークソングの先駆けとなり 「受験生ブルース」が大ヒット  アメリカにも一時行って 
ここでの学んだ事がその後の人生に大きく影響する
妻を大腸癌で失う まだキズは癒えない  西国33所観音霊場巡りを行い歌を作って奉納する
イベントをする 
北海道 雨竜町 小さい頃母親から虐待されていた(話して心がすっきりした) 私の母は親から
勧められた結婚(嫌な結婚)だったと母親から言われる
お前は憎らしい 、お前は嫌いだ 無理やり合わしてきた 母親を好きになれない  
近所におばあさんがいてくれたので愚れなかたのかも(心の受け皿)
虐待は何十年も引きずった・・・フォークソングが必要だった
卒業する前に関西にゆく ギターでフォークソングを英語を日本語にして歌う・・・この歌が受ける   
関西フォーク始まる
ビクターには演歌で入った・・・森進一と同期  フォークと言うジャンルはなかった

大学紛争・・・学生たちの大学にしたい  心の改革が60年代にあった 60年の時に大学一年だった
鶴見俊輔 (ベ平連 哲学者 同志社大学の教授) 「 高石君ギター 一本でずっと続けなさい 
それがフォークソングだよ 他の音楽はパーフェクトを求めるけど
ギター一本だったら人間的でいいんだよ 何とか近づこうと信頼関係が出来るから   
不完全で良いんだよ」
歌詞も言いたいことを言う
69年 受験生ブルース 会社は大きくなるが関係なかった  みんなニューミュージックに代わってゆく
米国に半年近く行く  30~40代の若い教授が集まって話す 日本車を持っている 大型の車の時代
は終わるよ ジョギングも教わる 
サーフィンのように走ってごらん→太陽と波と遊ぶだけだよ お話しながらゆっくりやりませんか
(日本では勝つ走りしか知らなかった)
音楽も同じ・・・大好きなお客さんとのんびり一緒に楽しくやってゆけばいいんだよ→生き方が変わった
(顔まで変わったんじゃないか)

福井県の田舎に引っ越す ナタショー村 自分探しの歌(朝から晩まで 歌い 音楽を聞き)
京都で野外コンサート・・・永六輔と出会い やろう ゲスト 渥美清、倍賞千恵子、黒柳徹子、・・・
よいよいやまコンサート 二人称  一般に音楽は三人称 知り合いのコンサート 
(やり取りがある 不特定多数ではない) 最後の小屋だねとの言あり
30回で最後 永六輔の具合がいまいちになる (本締めはない)・・・今年で最後のよいよいやま
コンサートが行われた(あとでNHK TVでも紹介された)
走って西国33所観音霊場巡り
歌を奉納する

一番寺(青岸渡寺:天台宗寺院 西国三十三所 第一番寺)
「遠い南の海の果て 観音浄土を目指して 老いた僧侶が舟を出す 補陀落(ふだらく)目指し 死出の旅
 僕らは今 旅に出る 真っ白な服に着替えて
熊野は黄泉の出入り口 儂(わし)は生まれ変わる 山青く海青く 心清く 一番札所見上げれば 那智の滝 
手を合わす青岸渡寺
神の住む社があり 仏の住む寺がある いのち信じて歩きだせ 巡礼ここに始まる 山青く 海青く 
心清く 一番札所 見上げれば那智の滝
手を合わす青岸渡寺
壺坂寺
信じ合うお里沢市千日詣り 眼を閉じて 心の眼を開く 壺坂詣り 生きてゆける あなたとわたし 
仲良く 仲良く 生きてゆけるあなたとわたし
仲良く 仲良く 幸せ願う小巻を炊けば おのが罪 目を閉じて 手をかざす 壺坂の秋 
生きていけるあなたとわたし  仲良く 仲良く 生きていけるあなたとわたし  仲良く 仲良く

長谷寺
訪ねよう 五月の初瀬山(はつせやま) 花の寺 訪ねよう 山深く 咲き誇る白牡丹 登りゆく この階段を 
一歩ずつ一歩ずつ 生きることは訪ねること
長谷寺の観音様   登りゆく登廊(とうろう)階段 一歩ずつ一歩ずつ 生きることは祈ること  
長谷寺の観音様 
生きるとは訪ねること  長谷寺の観音様

妻が大腸がんであることを宣告される(半年と宣告される 四年半に延びてくれる) 
亡くなった日の翌日 東日本大震災となる  人は誰も人生に躓いて・・・ 歌うと泣いてくる
怨みつらみを言い合えるのが本来の家族 本来の友達   遠慮しすぎて突然キレてしまう人間関係
の時に言えてしまうと心が休まる
東日本頑張ろう・・・被害を受けてない人の言葉  被害を受けた人達はこれからどうするのだろうか
(私は一緒に泣く事をしただけなのだが)