2011年10月31日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(細川護煕)

天野祐吉             隠居大学(細川護煕もりひろ)  
細川 護熙1938年〈昭和13年〉1月14日 - )は、日本の政治家、陶芸家。
公益財団法人永青文庫理事長、東北芸術工科大学学園長(初代京都造形芸術大学学園長(初代)。参議院議員(3期)、熊本県知事(第45・46代)、日本新党代表(初代)、衆議院議員(2期)、内閣総理大臣(第79代)  
関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国大名・細川幽斎の子孫
細川家の18代目 幽斎は塚原卜伝に師事  源氏物語の研究、茶道(孫 山済) 48歳で隠居
60歳で政治から退く 晴耕雨読 陶器の道に進む 書、絵の方にも精通する
知事を止めてたら行政改革審議会に呼ばれて纏め役をしてほしいと当時の日経連の会長をしていた鈴木永二さんから依頼され日曜祭日も無く1年間かけて纏める
(日経連の会長時代に鈴木永二は理想のリーダーとして、今村均大将の名前を挙げている)
行政改革の基本的なもののペーパーを提出した 政府はまったく無視だった これだけみんな汗をかいてやっているのにどう言う事だと言うんで
一人で日本新党を旗揚げしてしまった  野田さんも一緒に加わった 
男性も文化的なものに関心を持ってもらいたい(女性は結構いろいろと文化的行事に行っている)
江戸時代の職人は3時には仕事を止めて将棋とか金の掛らないものをやっていた(杉浦日向子)ちょっとした事で焼きものをやっていると、横に広がってきた 釜傷 ひび割れが出来る 修正するのに漆を使用する 漆が油絵のチューブと同じようなものに入っている   
漆を使ってキャンバスに描いてみたら面白いと思い、描いてみたら良かったのでそれから油絵の世界に入った 
書は焼き物をすると箱書きをしなくてはいけない それで改めて書の勉強を始めた 
茶杓も漆を使うので自然に入って行った
嬰がい性がないとだめ うまく書こう、巧く作ろうという考えがあっては駄目 
感性を磨くには自然に親しむ事が必要 木に登り、月を眺める 
朝日、夕日を見る 虫、鳥等に親しむ、観察する

2011年10月25日火曜日

白取春彦(作家)         ・「ニーチェと聖書に学ぶ”現代人の生き方”」

白取春彦 (作家)「ニーチェと聖書に学ぶ”現代人の生き方”」
1954年、青森市生まれ。獨協大学外国語学部ドイツ語学科卒業後、ベルリン自由大学に留学。
帰国後は文筆業に従事
今何故哲学とせよなのか 「超訳 ニーチェの言葉」 ベストセラーに    
後づけですがやはり若い人が人生の言葉を欲しがっていたんでしょう
哲学は考え続ける事 テーマは何でもいい   言葉の意味とは普通は辞書に書いてあるだろう 
あるいは自分たちの云った意味だろう
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが考えたのは言葉の意味と云うのは話した瞬間のその時の状況に
よって意味が決定される
 我々が「意味」という語をもちいる(全てではないにしろ)殆どの場合では
 次のような定義が可能である。
 すなわち、語の意味とは言語におけるその使用のことである。
例えば旦那さんが帰ってきて「おい あれ」と云ったとする   
その状況でお風呂なのか、ご飯なのか それを決定すると言う事ですね

人間は意外と言葉の意味と云っているけれども実際には意味と云うのはなくて状況が意味を決定
するのではないかと云っている そういう事を考えるのが哲学です
自分達の損得に関する事、利害に関係ない事はつまらない事 は間違っているもっと素朴な疑問
でも良いからおしゃべりをしないといけない 
小学校から大学で学ぶ学問のすべては元々は古代ギリシャから始まりましたからね 
つまり考える事がスタートラインです それが哲学
その先枝葉に分かれて行ったのが政治であり経済等である  
現実に即した各論が我々身の回りに有るもの 政治、経済ですね 
ニーチェは他の哲学者とは全く違う文章を書く  形容、と比喩が全く違う   
普通の哲学者は比喩を用いない  形容詞もあまり使わない

もっと数学的な論理的な論述を使うが、この人の場合、意外と情緒的で比喩を使って詩に近い
ような言葉を時々書くんですよ それが面白いのでそれを中心に選んだ
一種の美が有る ニーチェは大学で教えていた後35,6歳で本を書いている  
大学を離れてから自分の体験、自分の生活に根差した哲学をやっている
大学は給料をもらい安穏と暮らしをして抽象的哲学しかやらない 
 ニーチェは生活に根差した哲学を書き始めた 人間関係に苦しみ、病気に苦しみ 繊細な人だから
感覚が我々に近いんだと思います  
自分は大したことはない人間だと思ってはいけないよ  
自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうからだと
まだなにもしていない自分を尊敬するんだと言わば励ましですね  
我々、生きている中で自信を喪失してしまう場面が多い
 
そんなときにこういう言葉はほっとしたり
勇気付けてくれる 特に若い人に取ってみてはそうだと思う   
自分を尊敬するためにはまっすぐに生きてこなければ自分は尊敬出来ない
ニーチェ自身に言っている言葉かもしれない 
一日の終わりに反省しない(疲れきっている時に鬱への落とし穴でしかない 
さっさと休めなくてはいけない)
15歳の時にニーチェを知る ニーチェの詩集を買ったのが初めて 何が何だか判らなかった 
親の言う事に反感を持っていた 理由を教えないので 
本に聞くしかなかった 7年間外国に行く(ドイツ ベルリン) 仏典を多く読む 環境が良かった
ニーチェは1844年生まれ おとなしくて物静かでこえも低くて感性が豊かで 音楽に通じていてピアノ
がうまくて しかしどっか奇妙なぎらぎらした目を持っている人 
物事の積み重ねでしか学問を評価しないのが当時の教授(今でもそうだが)
 
ニーチェはいかさまのようにしか見られなかった  ニーチェみたいに新しい発想はいやなんです
散々けち付けられた事もあって35歳ぐらいの時に大学を辞めた  
病気もあって辞めざるを得なかった  胡散臭い人物と思われていた
100年前の人の言葉であるが現代人の心に響くのはなにか→古典は全てそうだと思う 
「脱皮しない蛇は死ぬ」 脱皮できない人間は死ぬ 
新陳代謝の事なんですけれども、いろんな意味が重なって考え方を常に新しくしないと通用しない
と言う事 
或は生きかたをしょっちゅう変えていかないと生き延びられない   
これは非常に比喩的な象徴的且堅実的なサジェスチョンだと思う
ころころ人の顔色を窺って変わると言う意味でななくて、自分を越えてゆくと言う事ですね 
 自分の中から自分を越えてゆくことが出来なければまずいと言っているわけです
「誰かを喜ばせることは自分でも喜びを一杯にする 

どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることが出来ると私達の両手も心も喜びで一杯になる」 
人を喜ばせると心も喜びで一杯になると言うのでしたら判りますが 私達の両手も心も喜びで一杯
になる 「この両手も心も喜びで一杯になる」というのは赤ちゃんの感覚なんです
それをスッと素直に書いているので面白いのでこれを選んだ  
ある意味大人なんだけれども素直な心を持っている
「聖書の言葉」を出版 聖書らしくない言葉を選んだ あえて選んだ
 聖書は宗教っぽくないんだよと言いたかった  先入観を飛ばしたかった
聖書と云うのは元々はユダヤ人が何をやって来たかという歴史書です 
特に旧約聖書 あからさまに書いてある 良いことばっかり書いてない人間の悪い事が90%書いある
それを我々は、ユダヤ人が読むと言う事は結局そこから学ぶことがあると言う事です

 みんな金で失敗した、女で失敗した、自分の欲望で失敗したその他延々と書いてある
サムエル記 ユダヤの初代の王から3代目の王まで サウルダビデについて書いた歴史書なんです
けれどもそれがめちゃくちゃ面白い
スペクタクル、ダイナミックな物語です  知的な素晴らしい青年の王が誕生し、そのうち不倫をして、
戦争をして、部下たちを裏切って またそのダビデの息子達が父親に
反乱をおこして、全部死んでしまうと言う 
人間の馬鹿馬鹿しさというか欲望をいじって書いています
神が呼びかけてもそれに答えない人間達の末路を書いている 
彼らは神の言葉を自分の良いように解釈して結構自分の欲望のままに従って破滅してしまうんです
聖書があったから今の文明があるんだと思います 
つまり今のドラマにしろ映画にしろ演劇にしろ音楽にしろ、全部聖書が主題曲にインスパイス?
されている
「エデンの東」もアダムとイブの話ですよ 
今のハリウッド映画もほとんどが聖書のユダヤ教の思想を語ってます 
それは聖書を読んで初めて判ります

西洋のいろんな芸術とか文化を理解するにはやっぱり聖書をろ過装置で通って見るのと抜きにして
みるとでは全然受け止め方が違うと言う事ですかね
特に古典の文学は例外はないですね ですから私は哲学もそうだと思っています 
日本の哲学者は聖書を読まないで哲学をやっている人が多いんです
聖書があって現代の考古学が成立するんです どこを発掘する 
推測するのは聖書から推測しる 聖書と云うのは昔の文献なわけです
全部は事実ではないのだろうけれども、なんかの事実がもとに有るのだから例えばここを掘って
みようとか聖書を見れば判るわけですよ
「ノアの箱舟」あれはみんな物語だと思っていますけど あれを真面目に考えているわけです 
今の段階の考古学ではトルコに有るアララト山と云うところそこらしいと考えている
そこに行けば木片の一片ぐらいはあるのではと真面目に考えている 
聖書は読むのではなく眺める(いつもそばに置いておく)

2011年10月24日月曜日

黒河内 康(元タンザニア大使)     ・第二の故郷・アフリカへの熱い思い

黒河内 康(元タンザニア大使)   第二の故郷・アフリカへの熱い思い
アフリカ開発国際会議がスタートした時には準備段階から力を尽くされました 
退官後もNGOのアフリカ協会や会員、顧問に就任して日本とアフリカの親善を図るため
助言や提言を行ってきました
今年のノーベル平和賞にアフリカ・リベリア 2人の女性と中近東 1人 リベリアでは エレン・サーリーフ大統領(72)と平和活動家のリーマ・ボウイーさん 
アフリカ開発会議の準備委員会が東京で有って 国際機関、主要援助協力国の代表 アフリカの有力な人々が集まってもらって委員会を開催しました
私は委員長を担当 其の時にエレン・サーリーフさんも来ていた 理論構成力がある人だと思った

ケニア人のワンガリ・マータイさんが2004年にアフリカ人女性で初めてノーベル平和賞を受賞 
マータイさんは9月25日に71歳で亡くなる
植樹活動など環境活動に尽力 「もったいない」(日本語)を世界に広めた人 行動力抜群の人
現在は会議への参加、翻訳等をしている(もう高齢になってきているので)  
次の世代への引き継ぎを進める
アフリカは日本の約80倍ある ビクトリア湖 6.8万平方km 北海道の0.9倍 キリマンジェロの山 5895m 人口が多く言葉が多い 約2000以上あると言われる    全世界の30%に相当する    
外務省入省 ケニアに昭和46年(1971年)に行く 在ケニア日本国大使館  
1960年代 アフリカで独立が相次いで進む   

日本に戻りアフリカ課長就任 (サハラ以南) 北は中近東になってしまう  3年と長くいる 
得られたもの→イメージとしては貧困、飢餓、紛争、病気、 とネガティブな要素に皆さん考えるが現地の人と接点を持つといろいろなことが見えてくる
国際協力事業団が派遣している青年海外協力隊員がいる 
この人たちがいろんな現場で働いて時々首都のナイロビ来て話し合いをする→目が開けてくる
怖い時間と怖い場所には行かないようにする 相手のやる事を先読みしていれば大丈夫  
青年協力隊で参加した人が最近 大使になった 
富永さんという人が途上国の技術指導ということで水泳指導 としてモロッコに行っていた

仕事に真面目さと 効率性が着目され外務省に入る事になる 
9月1日にコンゴ民主共和国特命全権大使に就任 そういう時代にようやくなったかと思った
以前もっと日本の閣僚がアフリカに行って欲しいと言っていた 
木村敏郎先生が外務大臣をやっていたとき5カ国を回った これが初めてだった
タンザニア、ナイジェリアに大使として行く 最後はスイス大使として退官する 
主脳部との付き合い、民間 現地の人達との接点が必要 アフリカの人は芸術感が有る 
音楽、器楽 がある テンポの早い音楽 紙に絵を書く 木彫 

文化交流はこっちから持ってゆくだけでなくて向こうのものを貰う 多目的に動き回る
アフリカ開発国際会議 1993年が第一回目 ナイジェリアの大使をして帰ってきていたところに素案を揉んでいて着々と進めていた
誰かシャッポになる人を探していて 一旦は拒否したが担当することになる 
1970年代は景気も悪くなり独立国になったところも経済がひっ迫してくる 
80年代はさらに悪化 国内的には独裁に基ずく不満が出てくる
汚職がだんだんはびこってくる 人権の抑圧が出てくる 食糧生産はうまく行かない 
自給自足のレベルからどんどん悪くなる 農政が失敗する

日本が決然と立って 他人事のように失われた10年というのではなくやって行こうと 
(北欧の国々はずっと援助をしていた) 準備会議を始めた
やってよかった 2008年に第4回 2013年に第5回を開催予定 
小切手外交みたいに考える人がいた それでは結局駄目になる 自助努力でしっかりやってゆく オーナーシップ パートナーシップ(理解し指示してゆきたい)のコンビネーションで
やってゆきましょうと言うことです 
中国のアフリカ進出が目立っている 報道では中国とアフリカと云うような関係でみているようだが 日本の場合は日本とアフリカではなく 日本とその他先進国とアフリカで話し合いをして大きな枠組を作っていく 
そしてイニシアティブはアフリカに有り こちらは逃げるわけではないがまず第一発目を向こうから言って貰いこちら側が二発して 3,4,5,6と行ったり来たりして良い物を作る
 
中国の場合は どうも自分で作ってこれはこうだと、ぱっとやってしまう  タンザニアとザンビアの間に鉄道を作った 其の時も大勢の労働者を中国から連れてきて仕事をさせて作った 
全部自分でやるのではなく半年余分に掛っても現地の人が一生懸命やって出来上がったら「ああ俺たちが作ったよ」というプライドを持てるように  
やって行かないといけないんで「中国さんそれでいいのかなあ」と思うわけです
今後のアフリカへの期待→そうだ早く俺たちがやらなければいけないんだと言うような意識で勉強する人 若い人たちを捕まえて別に日本の友達にならなくてもいいから
日本はこういう事をやってくれているなあというのを見て育って行ってほしいなあと思う 

アフリカに「松下村塾」をつくるのは不可能なのでアフリカにも多少のお金のある人は学校を
作って現地の子供たちを教えて というような人達もいるわけです 
教育は本当に大切なのだが 日本のNGO の人達 100ぐらいのNGOがアフリカに行ってやっているわけですね   
教育だとか衛生、それに関連したこと こういった人たちが仕事とお金が沢山出て来る様にもっと日本全体がお手伝いしていかなければいけないと思う

2011年10月23日日曜日

登丸求己(元玉川大学教授)     ・国際協力40年再び現場へ



登丸求己(とまるもとみ)(元玉川大学教授)   国際協力40年再び現場へ
大学を定年退職 学生に教えたかった事は三つ  
①今国際社会で何が起こっているのかを的確につかめるようになる 
②日本や日本人を客観的に見れる
③今日本は小子高齢化が進み外国人の労働者が必要になりその様な社会になった時に多文化    共生の社会をやっていけるのか、或はそうならなくてもいいのか

反応は国際社会の事に興味を持てるようになった 新聞やTVのニュースを見るようになった 
レポートの課題が出た時にお父さんと国際時事問題を語り合うようになった   
学生には2種類有って国際派は積極的に物事を吸収しようと思っていて目つきが違う 
問題は国内安定派は国際的な問題に対しては消極的 海外に興味はない
年ごとに変わってきて10年前は海外志向が強かった 
7から8割だったが 今は6割が国内安定派を占めるようになってきてしまった
自分が知らない事に対する恐怖がそうさせているのか 10年前の学生の本質と 現在の学生の本質がちがう事が原因なのでは→社会が変わった

大学4年の時に一人でインドに行った 所属は農学部だった 
人口爆発、食糧不足 がはやりのテーマだった
1978年にインドに行く そういうテーマだったらインドだろうと決めた 
1年間バイトをして貨物船に乗ってインドに行く
インドで貧困をまざまざと見せつけられた とにかく人が多い 子供の物乞いが来る 
これはなにかがおかしい どうしたらいいのか判らず 凄くもどかしくて無力で情けなかった自分を良く思いだす
インドでの衝撃から  →貧困をなくすための開発援助への道に行こうと思った 
英語を学ぶ、専門知識が必要  
大学に3年残りそれからアメリカの大学院に行って開発経済学を学ぶ 
英語もマスターする 国連に応募するが経験が足りないので断られる
ODAのプロジェクト 管理等やらしてもらえる  筆記試験はない どんな事をやってきたかで審査 ターザン映画 森林を守る ターザンはアフリカの開発援助のシンボルだと説得する 
私はそのようにやりたいと説明し 採用される   
イエメン 南北イエメンに分かれていた頃 イエメン事務所企画官 貧困撲滅の開発機関 
その国の担当とともに決めてゆく

計画することが好きでこの国をこうすればこうなるだろうと言う事が凄く大好き 
ソマリア、タジキスタン(1999年に行く 前年に国連監視団の日本人政務官が銃撃を受けて殺された)紛争地で初めてゆく 
1991年にソ連が崩壊すると同時に独立しなくてはいけなくなる 
翌年内戦が始まり10年間紛争となる 国連が途中から停戦監視にはいって、その時に筑波大学で助教授していた秋野豊さんが政務官で行っていた  
その人の監視活動中に4人の国連スタッフの人が銃撃に会った 
秋野さんの遺志をついでタジキスタンを民主国家にしようと意気込みが有った
 
国連監視団の民政官という立場で行く事になる 
反政府運動をしている人達の除隊促進(武器を放棄して民間人に戻る)するプロジェクト 
仕事を作ることによってお金が入るので戦闘員である必要がない 
いろいろな仕事を計画する (武装解除の手段となる)  お金は国連が払う
JAKA 5年後に又行く 2001年には紛争国では無くなる 
タジキスタンの事を知っている住んだ事のあるのは私しかいなかった

今度は私の専門分野である開発支援をすることになる 
共産主義国家であったので中央計画経済政策で全部政府が生産物等の計画をする
それが無くなって仕舞ったのでタジキスタンは10年間紛争していたので、市場経済への移転が他のソ連崩壊時の国家より10年遅れてしまっていた
私に与えられた仕事はタジキスタンを市場経済国家への移行をすることでした 
共産圏は統制経済→ 自由市場経済 誰が何をやってもいい

何を作ってもいい、何をいくらで売ってもいい 統制経済であったのが突然何をやってもいいと言われても戸惑ってしまう 
政府がどういう体制にして民間の経済を誘導すればいいのかというシステムを作るためにいろんな事をやりました・・・国作りですね
大統領府で働いていた 大統領の経済補佐官(有力な人で閣僚も動かすことが出来る)と組んで進める 研修は高級公務員(大臣、局長)対象に行う
政府といっても我々が考えている政府と共産圏であった人たちの考えている政府は違う 
概念の違い マネージメントといっても内容が違う

言葉を物凄く注意しながら使っていかないと折角日本から専門家を呼んで研修しても成果が上がらないと言うのでその辺は悩みました
経済関連庁省に対する調査をする どういう問題を担当してどういう風に動かして 旧体制の時にはどういう制度でいろんな命令や行動が行われてて新しい制度になる障害は何なのか 
調査する 最後にレポートの報告会をするが だれにするかと云うと全閣僚です   
1年間なので絵を書いてここはこうしましょう ここはこうしましょうと いうのが精一杯 まだまだやる事が沢山有った

民間人もタジキスタンに入ってきている 日本企業の人は一人もいない 
当時21人の日本人がいた 10人は大使館の人 11人は民間の日本人 
御夫婦 シルバーボランティアで来られた田畑さん(当時63歳) 給料は20ドル 外国語大学で日本語を教える  
赤尾さん 保健婦 殆ど木の生えていないようなタジキスタンとアフガニスタン国境の山の近辺で活動 素晴らしい女性だと思います 年配の人が活躍している
私達の時代は海外志向が強かったと思う 若い人はいないわけではない
飛び込む人はいるが 傾向としては内向きになっている

10年間 学生に教えていたが20歳前後の人に教えるのはすごいエネルギーが必要 
はまってはいたが10年間とってもいい仕事だと思っていた
いつも新しいエネルギーを入れていないと良い講義、指導が出来ない 
一方国際協力の現場と云うものは私がずっと育ってきたグラウンドですから
自分の能力を最も効率的に活かせる分野なんだなと思って現場に戻りたいと思いました
特に私の専門分野は自慢話ではないですけれども、貧困を撲滅する為の開発、紛争地における平和構築という両方の経験をした専門家はそんなにいません
だから私のこの経験と云うのはまだまだ求められているし、使えると思っています
つい最近南スーダンが独立しましたよね 
国際社会からの支援が緊急に必要とされているところです  
生活も大変だし、ものもないし、環境としては大変かも知れません
矢張り開発援助、平和構築という点から私は求められれば行きます

2011年10月22日土曜日

中越武義(元梼原町長)      ・自然エネルギーの街 ゆすはら

中越武義(元梼原町長、高知健康省エネ住宅推進協議会会長)   自然エネルギーの街 ゆすはら 梼原(ゆすはら)町  
春から夏は炭を焼く ミツマタの生産をしていたんでミツマタをしっかり作って出す作業をしていた ミツマタのかわはぎもしていた
背中に背負って2km道の無い処を降した 
ランプ生活から昭和33年電気が通り電気がついたときはいまでも忘れない ラジオを聞きながら生活するということで電気の有り難さをつくづく感じた  
1962年 昭和37年 高校を卒業して町役場に就職する 
おい税金泥棒と言われたが地域の皆さんと一緒の視点で仕事をしていきたいと言う思いでした 現場に出ると言う事は皆さんとの対話もできるし いろいろな悩みとか考えを話す事も出来る 
現場に勝る教師はいないのではないかと思った  
それぞれの家庭に入れる道を開設しなくてはいけないと言う思いがあったが、実現することは財源的にも難しいのですこしでも開設するように努力した
標高200から1455mの標高差がある 
非常に急峻な地形の中でそれぞれの川の周囲に人家が点在している 
工事費がかかる 今年8月現在3850人 世帯数は1791世帯

1997年 54歳の時に町長に就任 
1999年平成11年11月11日11時11分に風力発電を開始する 2基設置 
光熱費が多い 光熱費を何とか賄いたい
「風早」調査 したが1年間で1/3も風が吹かない  
年平均7.2mの風が吹くところあり ここに設置することにした  高知県愛媛県の境界地
風況がどうか 設置をするための仮設道路があるかないかという事 送電線がうまく接続できるかどうか この3点が問題となる→満たすことが出来た
4億4000万円 経済産業省の補助金が2億2000万円 半分を町予算が必要 
税収は3億 600kw 2基 1200kw
全量四国電力に買って貰う 環境基金として積み立て 
→森の保護(91%が森林 71%が人工林 森の手入れが必要)、太陽光発電の基金  山の持っている多元的な機能を有効に使う 水源肝要 保水力を高める 水も育む  
2000年に森林作り基本条例を制定する 

森の多面的な機能を生かす基本的な条項を定めそれに基づいて更にしっかりと計画を立てて山の管理が出来れば、それに対して助成が出来ると言う項目を作って、その項目を生かして皆さん方に10万円の交付をするとした→山の機能を高める  
雇用の拡大にも繋がる 良い方向に回っている 
間伐材を使ってバイオマスの発電にも使っている  ペレットにすることによって発電用にする
火力発電 福島原子力発電の問題から注目され始める  
小水力発電もおこなう  地熱発電100mを27本ボーリング 集めた熱をヒートポンプで温めてそれを蒸気化をして、冷暖房と温水プールの燃料としてそれを使っている  
ゆすはら町で使用する電力の内どの程度が自然エネルギーで賄っているのか→28.5%  
早い機会の100%の自給率にしたい  

公募をかけて町内の皆さん方から15名が答えてくれ全ての方々に町の構想を定める委員に委嘱をして 町の大きな柱 環境 健康 教育 の計画を立てていただいた
計画を確実なものにするためにフランス、オ-ストリア、スイスの取り組みを見ていただいてその取り組みを基本構想の実現に向けて参加してもらった
予防医療を重視している 自分たちの健康は自分たちで守る 
推進委員の人達が軸となり拡げる
保険と医療と福祉は地域を守るためにはセットでないといけない 
5人の先生が掛り付け医者として負っていただいて何かあった時に相談してもらう
合計7人の先生がいる  僻地の割には医療が充実している
地域に有る木材等を生かして夏は涼しく 冬は暖かい 
風通しのよい住宅の建設を目指している (省エネ住宅)
設計者、大工等も地域の人達で賄う  
地域の雇用 経済の循環→しっかりとした生活が出来る様な住宅で全国のモデルにしたい 自然の環境とともに生きれるような方向性を出すことが将来に繋がる

2011年10月21日金曜日

王敏(ワン・ミン、教授)      ・日本へ宮澤賢治が架けた橋 2

王敏(ワン・ミン法政大学国際日本学研究所教授)日本へ宮澤賢治が架けた橋
1982年に日本への最初の留学  四川外国語大学大学院の先生をしていて、それを一時中断して日本へ
当時の中国では外国への留学はしていなかった 
試しに日本語が出来る若い先生から日本への留学を1名だけ行ってみる企画がありそれに選ばれ
た(第一号)
全て私にとって体験した事のない環境と生活状態でした  
特に私が一番戸惑ったのは家電製品使った事がありません 
見たことがない私が突然ドライヤー、電気釜
ストーブ、炬燵、洗濯機、全部電気を使うことになった まったく覚えられない 混乱してしまった

留学先が宮城教育大学 教師になりたかった事、東北の風土を体験したい事、宮澤賢治が
東北出身、魯迅がかつて仙台で勉強したので中国人にとって親しみやすい街
大学には1年3ケ月いた 貪欲な勉強と調査に明け暮れた 
私の知らない世界、触れた事のない知識の宝庫 大学の図書館 大学 日本の大地であった  
全て新鮮ですので過ごした毎日全部が勉強のいい機会、そして出合ったすべての日本人は私の
教員だと言うような感じでした
その風土を見ないとただただ読んで時間を過ごしてしまうよりも、自分の足を使って、頭を使って
行動してその行動の中で得られた見聞と本から読んだ知識を混合させて考えたいと思いました
この方法は宮澤賢治に教わった方法でもあります
 
宮澤賢治は学校の教員をしながら羅須地人協会(農民の学校)を作った
この様な宮澤賢治のあり方が私の小さい時から勉強した陽明学 王陽明の行動と知識体験と
一体して実践という形で体現すべきというようなあり方と
非常に共通点がありますので私もただただ文献を読んで文献から得られた知識を纏めると言う
よりも全ての事を現場で検証したくなるわけですね
幸い宮澤賢治もその様なやり方を通して作品を書かれたと言う事が有って、それが後々になって
私の博士号論文「宮澤賢治と西遊記」という繋がりを検証する方法にも
繋がって行ったわけです  宮澤賢治の作品の世界に現れる西遊記の影響と云ったものを
テーマにされて論文を書かれた
私の博士論文はお茶の水女子大学から博士号を授与された
 
テーマは宮澤賢治と中国というテーマですけれどもそのなかでも特に宮澤賢治と西遊記 それから
中国古典の中の人物と唐詩選
との係わりでその影響を受けたとはいえ、そのままの受け止め方ではなくて宮澤賢治がそれを
本当に咀嚼して自分のものにしたと言うような
受け止め方として自分の作品とその人生の中に反映させました  
しかしそれはただただ作品の検証を通して、だけではなくて実際に宮澤賢治が関係しているあるいは
それを反映できる現場へ私は全部調査しに行ってそれを検証してきて参りました 
宮澤賢治が書いている農民芸術概論等の中に 生産の現場である農業の現場として
そこから自分たちの芸術文化も立ち上げて行くんだと言う事を宣言のように書いてある部分が
あるがそういう部分についての共感というのもあったんでしょうか→
ありますね つまり知識そのものと実践の現場と一体となった時にその知識が生のものではなくて
熟したもの あるいはその熟したものから花を咲かせて 
あるいは実となると言う 持続発展の可能性になるわけですね
 
ですから宮澤賢治の方法論には私が沢山のものを勉強して影響を受けて 現在の日本と中国の
文化比較、しかも現在を切り口にしてその比較をする学問の道へ行けるようになった訳です
  一つは宮澤研究があってもう一つは日中文化比較があるが賢治研究がヒントになってきた
むしろ宮澤賢治に導かれましてこの研究の道に自然に通う事になった訳です 
宮澤賢治を通して西遊記の中の表現あるいはその中の精神が宮澤賢治という
日本人の描写或はその混合的な創作によって新たな形になったわけですね 
そうすると宮澤賢治の作品の中に反映された西遊記の中のものがすでに西遊記の
元の作品に有ったものではなくなったわけです 
つまり外国人同士で生まれた子供がどっちでもなくなってしまったわけです 
そのハーフ的なものを宮澤賢治の作品から沢山私は見付けました
そのハーフの父親は誰か母親は誰か判った事から見るとこの父親、母親は実は似ているようですが
似ていない処が沢山あることが判った

新しい文化が生まれてきた 宮澤賢治の作品がむしろ文化的、芸術的 発明の産物だと言う
ような言い方で  別の角度から見ると非常に面白くなってくる
その事を通して私が祖国の文化を再認識することになりました 
中国の古典のなかにあるもの一人の外国人によって外国文化の混合によってこんなにハーフとして
再生出来たと言う事は以前は考えていなかった 
宮澤賢治を通して新たなモデルというかそういったものが見えてきた 
文化比較という道に自然と入るようになった 
私は大変参考になったのでこれを体系化して理論化してそれを比較を通して判るように示して
置けば宮澤賢治の世界
或はその世界に見え隠れしているもっともっと広い可能性 もし整理出来れば私個人としての
大きな収穫となりますし、両国の人々に御参考になれば一層の喜びとなります

「鏡の国としての日本 互いの参照枠となる日中関係」(最新の刊行の本) 相互の文化を
それぞれがどのように影響しあって、それを知る事によってそれぞれの国を
絶対としてみるのではなく相対化することが出来る 
これも宮澤賢治の方法に見る結果なんです
 宮澤賢治は「どんぐりと山猫」という作品の中でどんぐりの背比べという場面
があるが、皆自分が一番だと思うから宮澤賢治が相対的に見て判断するわけです 
その見方が私にとって大きな方法論になったわけです

宮澤賢治が短い人生ですけれども「雨にも負けず」のように働いてきたのは自分自身の成長と
自己完成 自己改革常に新しい知識を新しい血液、空気のように
吸収して毎日自分を新たにすると言う事が目標の一つだと思います 
これは古来 日本人も中国人も実践してきた学ぶと言う事の目標だと思います
学ぶと言う事は自分自身の成長と認識の更新と進化と繋がらないとその勉強という事は結局
それは飾り物になる
この事を宮澤賢治を通して私が再確認できたわけです 
古来日中両国の人々達が学ぶこと或は行動をすることに対して大体大きな目標を持っていて、
それを目指してやってきた
何か理想、大きな目標 と一直線に結び付くような事を目指してきた訳ですから 
それを私の場合は生まれた時代 大学に入った時代、特殊な背景があったから
日中の相互理解 そして日中友好の善隣友好の懸け橋というような使命感があったから私に
とって大きな目標になった

日本で使われている漢字であり、或は孔子の論語の世界であり、、日本に対して日本人の
精神形成の中に大きな影響を及ぼしているのは当たり前の事ですが
元を正すと中国と云うのは一杯ありますよね 
逆に今日本が中国に対してもいろいろ影響を及ぼしている部分 お互いの文化の影響のしあいと
言うのが有る様に思うのですが →
中国の文化を古代自発的に取り入れてそれを生かして日本自身の発展と成長を可能にしたわけです 
ただただ学ぶじゃなくて
ただただ真似るじゃなくて、社会の持続発展を可能にしたわけです 
中国から取り入れたもの日本の風土にマッチさせる様な形で取り込んできた
文化の吸収と輸入、輸出と云ったものがそれを積極的に選ぶ側にとってそれがまず有用だという
判断が有ったと思います

それをいかに自国の発展を可能にする媒介として方法論として活かしたと言うプロセスをしてきた
と思います
日本にとって中国の古代の文化の中の有効と思われる部分を良く活かしました 
日本の古代社会の発展を促進することに成功したと言えると思います
16世紀になりますと西洋と出会って、西洋に学ぶことになったわけです 
それも当時古代の中国に学ぶことと同じような発想と判断に基づくものだと思います
和魂漢才というものが和魂洋才というものに変わって行った 
日本の心を以て中国から学ぶ 明治になって西洋から取りこうもうとしてきた
それが出来たのも前の経験があったからだと言う事 前の経験があった事が宮澤賢治の時代に
なると宮澤賢治がそれを作品に反映させたわけです
そして実際の宮澤賢治の活動の中にも反映させました
 
宮澤賢治が生きた時代は西洋からも学ぶ時代でしたから 宮澤賢治がの作品は二つの部分に
分かれています
一つは中国から学んだものの伝承といったものでもう一つは西洋から学んだものの合成と 
この二つが見事に宮澤賢治に合体させていったわけです
宮澤賢治を通して学んだことの一つには日本という社会、日本文化の発展のプロセスを宮澤賢治
と云う人間を通して、作品を通して両方を見る事を可能にした
現代文明の利点とその副作用とつまりプラスとマイナスとその両面を宮澤賢治が非常に見極めて
いるわけです
注文の多い料理店の中で反映されているのはイギリス紳士のような2人の都会人が山に入って
山猫に食べられそうになったというような風刺的作品になります

代々伝わってきた自然に対する人間の敬意と云ったものが薄れてしまって段々人間と自然の関係
が所謂西洋の物質中心或は実利中心の風土によって変化させてゆく危ない状況を訴えたわけですね
そのために宮澤賢治の作品が今現在読んでも深い意味を読み取ることが出来るし、正に先進国になった
国々にとって振り返って自己認識を再度確認する作品になると思います
後進国或は新興国に取って一生懸命当時の日本の高度経済成長期のように一生懸命豊かに
なりたいと言うこの気持ちに対して冷静に自己認識する作品でもあると思います
その様な時期を経て日本は今のような不景気になってしまうわけです 
むしろこの不景気は良かったかも知れません
これは自己認識の機会であってそれから元々本来人間と自然 人間と人間との有るべき関係でも
あると言う事です

中国でも凄く経済的に繁栄して発展をし続けていますよね
 一方で弊害を指摘する部分もありますが 中国の人に取っても宮澤賢治が訴えている世界と云うのは
有効だと思いますか→ そうだと思います ここ数年中国国内で宮澤賢治の翻訳が数種類出てきました  
大学で宮澤賢治を卒論を書く学生も増えてきました
甲南大学で宮澤賢治の論文を指導する先生と学生と話してきました 
この高度経済成長期の日本と共通しているところ ある経済発展を目指している現在の中国にとって
近代文明の副作用による後遺症 やがて発生してしまうかも判らないというメッセージがとても
参考になると思います
この世界で中国以外に漢字を使う国は日本しか有りません 
実際に学校教育の中で教養体験の中で漢文を扱い、漢字を使用する国は日本だけですから 
どの国よりも日本人の持っている漢文、漢字の素養が高いと言えると思います 
日本人と中国人が持っている教養ベースが一番近いという事も言えると思います

中国と日本の教科書を調べてみたが両国の教科書の中で特に古典の部分で共通する教材の処
が非常に多いですね
中国と日本の少なくとも高校までの子供たちの持っている常用漢字の数と漢文の素養と非常に
近い とすれば人間の持っている知識構築のベースは共通している
処が多いと言う事なんですね だとすれば本来非常に交流しやすい 
共通の話題も多いはずですね 2000年来やってきた事なので非常に貴重なものだと思います 

この貴重な絆を大事にして、さらにこの共通している部分をもっと強固にしてゆくと両国の政治と
経済だけでなく文化、教育 教養、生活 人と人 の繋がりの各分野に
おいても共に出来ることが増えてそして新たな創造も可能になると言う事なんですね
こんな恵まれた条件と環境はどの国も持っていないと思います 
戦後日本の教育もそうですし、全て西洋の価値基準を最高の価値に置いてきています
これは日本の発展にとって必要なことであって、その必要性は今もあるともいます
 しかしこの様に深い広い基盤があるのにこの有利な部分を矢張り大切にして
もう一度ここに力を払うと言う事が必要じゃないかと思います

2011年10月20日木曜日

王敏(ワン・ミン、教授)      ・日本へ宮澤賢治が架けた橋

  1. 王敏(ワン・ミン法政大学国際日本学研究所教授) 日本へ宮澤賢治が架けた橋
中国で優秀翻訳賞、山崎賞、岩手日報文学賞、賢治賞 文化庁長官賞(平成21年)
日本留学から30年 忙しい 睡眠時間も4時間から5時間  夜中の12時過ぎに眠る 
1978年 中国の大学院で宮澤賢治 日中文化比較の研究をする
「雨にも負けず」が被災者の励ましになったとの報道があったが   
宮澤賢治が生きた時代に同じ地域で多くの自然災害に見舞われていた事実がある 
それを背負った現地の人達にとって体験した原風景が多分「雨にも負けず」を
生み出した原風景になると思います  東日本大震災によって原風景が呼び戻ってきた
原風景の元に生み出した人間の共鳴共感も 多分今も昔の人達と通い合うようになったところも
あると思います

ですから本能的に「雨にも負けず」という詩を読むことになったのではないでしょうか
自分自身が自然の中の小さな一人にすぎないという認識のもとに生きるんだと言うその励ましと
言いましょうか そういったところを感じ取ることが出来る
雄大な自然に向かう時は自然もいきものであれば人間も生き物であり どちらも尊い生命を持つと
言う感覚から見るとすれば
人間の生命観、人生観 あるいは魂と言ったものが自然以上のもの自然より高い価値があると
言う考え方が多分消えてしまうと思う
そこにいる人間がむしろ小さく感じてしまう 
その人間の力で自然を徹底的に変えてゆくことはできない 

宮澤賢治の時代の自然が災害の多い時代だったとしましても人間が近代化という武器を手にして
その同じ大地に高いビルディングを建てて科学技術を使って
沢山の工場を建てて如何にも豊かそうな生活をしてるんですが しかしどう見てもあくまでも本来の
自然の身体に飾り物を付けてしまったような感じですよね
今回の東日本大震災もそのようなものであって自然は何も変わっていません 
元のままですよ それを人間が替えようと思っていたのですが、それが飾り物に 
ならないと言う事が改めて認識させてくれますよね 
人間の考え方も基に戻って本来自然の母体にいる本来の人間の発想と生き方とあり方に戻ってしまう
それしかないですね それが多分宮澤賢治の時代がもっとわれわれ現代人より理解していたはず
ですし もっともっと自然系の人間と自然系の自然と付き合う事が出来たか
と思います 

にも拘らず宮賢治がその当時に矢張り飾り物を付けたりした所謂文明的な行為に批判的な態度
を持っていたわけですから、本来の自然と人間の関係
ままを確認しながら人間のあるべき姿をずっと追求してきたのが宮澤賢治でした
自然との共生を語った宮澤賢治の考え方と言うのは今回の災害を経験することによって改めて
一人一人が認識すると言う事になった  確認出来た
文化大革命の末期に高校生だった 中学校以上の生徒は田舎で働く事になる 
人間としての鍛えられる手段として中国政府の指示によってそのようなプロセスを体験した 
田舎へ行かされて働かされた 3年間 農家で穴を掘り、種をまいて収穫して食べた 
小屋を建てることから始める 井戸も掘る 
電気もないので勉強はできなかった 風景の美しい農村だった 
別の幸福感がある事を知ることが出来た
宮澤賢治が実践した仕事と言いますかそういった部分にも繋がってくる喜びを獲得なさったような
気がしますね

何故私が宮澤賢治に共鳴共感を持ったかその原点の一つは山の奥で3年間過ごした経験が
あったからだと思います
どのように受け止めるかだと思う 学ぶという姿勢が大切ですから 
学ぶ対象と言うのは必ずしもテキスト、文献、立派な教育機関から得るものだけではないと思う
どんなに貧しい貧困な地域でもどんなに教育を受けた事がない字も読めない人であってもその人の持っている純粋で透明な本能的な心と言ったものから学ぶ事がある
学ぶ姿勢を持つものならばどこにいても学ぶことはできると思う 
私は田舎で沢山学ぶ事が出来ました
工農兵大学という制度があって大変な人数からはいれた 
3万人の応募者の中からわずか16人入学という超難関を突破した

教育者になりたかった 日本語を目指した(文系は2人 後は理科系) 日中国交正常化 
通訳をする人が欠けていた時代 
日中国交正常化以降の交流をしていくうえで政府もそのような人を養成しようとしていた
当時はまだ外国の小説などを読めるような状況ではなくかなり制限されていた 
重慶の大学院に通う事になる そこで日本政府から派遣された第一期生 石川一成先生に出会う 
神奈川県教育派遣センターから派遣された
当時国語、日本文学を担当した その時教材がありません パソコンとか一切ない 
ガリ版でペーパーに印刷して手作りの教材でした
その中に宮澤賢治がありました それが宮澤賢治との初めての出会いでした
 
 「雨も負けず」は感動的でした  大きなエネルギーを感じた
若い人にとって日本、中国、韓国  3国の若い人あるいは小、中,高 あるいは大学生の理想に
ついて時々調査されているが そのデータによりますと
中国と韓国の子供たちの理想となるのは偉大な人が多い(科学者とか 政治家とか 医者とか) 
日本人はパン屋さんをやりたいとか運転手さんをやりたいとか
ごくごく普通の平凡な職業を理想としているわけですね 
理想に関して両国の子供にとって選択の価値基準の違いがあると思います
「雨にも負けず」に謳われている理想象とその理想像の価値基準とするものが実に平凡な普通の
苦しみをしている人々たちでした

従来の価値基準と理想像に問いかけたくなるきっかけになった 
当時に驚いたのは宮澤賢治が誰かに教わってあるいは日本と言う社会の中でそれが一つの決まった
価値基準として植えつけたものではなく宮澤賢治が自分で自分の日常生活の中から感じて、
体験して自ら本心から自発的に求めたい人間像だったという事に感動しました
「雨にも負けず」に描かれた人間像 理想像 は孔子荘子にも描かれていた処がある 「論語」
日本の文化的な価値基準はベースの中に果たして孔子も孟子も中国古典の素養がどのくらい
あったかどうかそれを確認したくなった
かなり重なっている部分ですし、 宮澤賢治の中に言わば中国の文化古典が及ぼしているかも
しれない影響そういったものも確認したくなった
それが確認できたならば日本も中国も同じ漢字文化圏の隣同志として共通の古典的あるいは
教養のベースをある程度共に持ってきたという事になりますね
宮澤賢治は求道者と言うような言い方をされますよね

そういったところにも惹かれたのでしょうか→求道者の生き方は中国の古典の中にも、インドの
仏教の中にも共に讃えられてきた人間像、理想像ですので当然宮澤賢治のあると言う事に関しては
日本と中国とインドとあるいは東アジア的価値基準が一つになった あるいは
重なった あるいは友好的、混合的になった処があると言う処への発見に対してそれも驚きました  是非日本へ行ってみたいと思った
1981年卒業して母校で一旦は教員になった  
外国留学が自由な時代ではなかったので非常に嬉しかった
宮澤賢治の作品を切り口にして日本の文化風土の深層にあるいは表層にあるいは日本人が
持っている教養体系の中にどのくらい中国の融合があったり
あるいは日本文化の独自の処といったもの どういったところにあるのか 
宮澤賢治の様な日中混合的な要素を持っておられる人間を生み出す要素と言ったものとかですね
それを通して日本の社会を認識し日本人の持つ内面特に教養体系の処とは何かを認識しもし
それが中国的教養とかつて混合した部分があるとすればどの所が
日中友好の為にこれは本能的自然なベースだと思う  
そのところを開拓してあるいは再認識してゆくと日中両国は不戦の道へ平和の持続発展を願う事
が願うだけではなくて実現可能だと思っています  
  

2011年10月19日水曜日

津村節子(作家)         ・夫とともに作家人生2

津村節子(作家)   夫とともに作家人生
明治29年から昭和8年から、100年もたっていないのに大きな地震津波が来る
26360人の人が亡くなっているのがかつてあった 吉村が40年まえに書いた 『三陸大津波』
田野畑村(鉄道を乗り継いで3日掛りだった)へ行った リアス式海岸絶景 津浪には困る   
よく津波の話を番屋で吉村は聞く  旅館は高台に有り高さ50mまで水が来たと言う事だった 
津波に興味を持つ  
村長、宿のおかみにも津波の話を聞いて物凄さを知る 調べ始めて随分と三陸海岸を歩く 
割合しばしば津波が来ている実体を知る
それなのに又街ができちゃうんだよなあという 自然災害は必ず来る  
防ぎようがない と云っていた 

自分で書きながら物凄い堤防が出来ている「たろう」なんかは海の景色が見えないようなところも
あるし、全然対策を取っていない所もある
避難路も用意してある所もあるし、避難路を用意していないところもある 
吉村としては津浪は必ず来ると言っていた
一生懸命 津浪に関して調べて 津浪とはどんなものかを知ってもらいたいと吉村は思った
目に見えるように 津波の状況を書いている 迫力がある
「海水が徐々に引き始めそれにつれて沿岸の川の水は激流のように飛沫をあげて走り、 
海に吸われていた 海水の引く速度は急速に増し湾内の岩や石が
生き物のように海水とともに沖に向かって転がり始めた 
岩が「ぎや」とすさまじい音響を立てて移動してゆく 
たちまち湾内の海底は干潟のように広々と露出した

沖合に海水と岩の群れを押し上げた海面は不気味に盛り上がった 
そして壮大な水の壁となると初めはゆっくりとやがて速度を増して海岸へ突進し始めた
壁は海岸に近ずくに連れてせりあがり一斉に砕けた
 家々には地震で起きた人々の手でともされた灯りが点々と連なっている
屹立した津波が諮意の水煙でかすませながら村落の上に落下したちまちにして火はたえた」
吉村は見たわけではなく聞いただけ 情景の描写 資料はあるが記録を見るよりも迫力がある  
40年前に書いている どういう方たちがどう読んでいたのか
吉村が生きていれば三陸海岸をつぶさに歩いて克明に災害の様子を調べた通りに書いて
こういう作品を書いた事で警告を発したと思う
こういう風に津波は来るんだと 予告はこういう風に有って 水はこういう風に引いて 
波はこんな風に高くなって それはどんなふうに押し寄せて来るか
を克明に描いて これだけの被害があったと 何人亡くなったとか 何軒家が流出したとか 
今度こそ皆に読んでほしいと吉村は思ったに違いない

作家としての吉村の出来ることは 広範囲な所を救う資力は無いが作家として出来ることは
そういう事だったんじゃないですかね
阿川佐和子が対談で作家同士でジェラシーはありませんかと尋ねた事がある 
吉村はないですと言う 4回も芥川賞の候補になったが女房が先にとって
もう離婚するだろうと言ったけど僕はしめたと思ったもんね と言っている 
何でまたと聞くと これで勤めから解放されると言う 女房によかってねって
僕は1年間ひもになるからな て言って小説に専任したのと言っている 
まったくの本心ではないと私は思っている 矢張り自分は4回落こっている
周りで見る目がその当時の日本の社会というのは男性が優位の時代でしたから私が先に取った
と言うのがまずいことになったなあと 吉村が先に取ってくれれば
おめでとう おめでとうで私も凄い嬉しかったと思うがそれが逆になってしまった事で私も肩身の
狭い思いをしていた 吉村はここでひもになると阿川さんに言ってるが
芥川賞を貰うと注文が一杯来まして 本も売れるし、吉村が勤めていて生活を支えていた 

全然書く暇がなかった おまけに兄の会社で専務取締役をやっていた
割合重要な仕事をしていたのでとても時間的な余裕はなかった 
寝言で経営不振がどうのこうのと言う 
これでは小説が書けなくなるので仕事を止めてほしいと要望した
務めていても書けないわけではないと言う 1年間休暇をやると言われる 
期限付きで死に物狂いで小説を書く
集中する時間がないと書けない 夜型です 明け方まで書くとかあった 
小説を書くには気力だけでは駄目 体力がないと
30年間健康ヨガをやっている 呼吸法、とあらゆる筋肉を動かす (逆立ちをしたりひねったり) 
毛細血管まで新鮮な血液が行きわたる考えでやっている
私が白髪が1本もないのはヨガのせいだと思う 
足がはやいのも病気しないのもヨガのせいだと思う

週一回 午前中に教室に通っている 好き嫌いはない 体重は45kg だが吉村が亡くなった時は
5kg以上減ってしまった 回復はしてきている
吉村は戦史小説は生きている人が居なくなってしまって取材が出来なくなり歴史小説を書くようになる
 歴史はドラマでありそこにフィクションは要らない
荒唐無稽な小説は時代小説 一般的には実在の人物を元にフィクションを入れるが吉村のは
事実のみ
桜田門外の変の時に雪が何時止んだかを商人の記載したものを探して事実確認をするほどである
私の場合は物語を書きたい 少女時代の自分を例えば戊辰戦争の時の少女に置き換えて歴史の
事実は其のままに書く
吉村が遺言みたいに長崎で上野彦馬という写真家が居る 
長崎は海外の文化が唯一入ってくる場所 写真技術も長崎に入ってきた
ニコライ皇太子の写真を撮っている 私に書かせようと思っていた 
戦時中のこと物資がなく (幕末に近いようなやり方で写真を私はやっていた)
彦馬の資料は全部そろっている 長崎には吉村は107回行っている
 50回は一緒について行っている 
書くかどうかは現時点では判らない

2011年10月18日火曜日

津村節子(作家)         ・夫とともに作家人生

津村節子(作家)   夫とともに作家人生
<概要>
福井県出身。少女時代は都内に在住していたが、戦時中は埼玉県入間郡入間川町(現:狭山市
)に疎開、学習院女子短期大学文学科卒業 
1953年、学習院で文芸部の仲間だった吉村昭と結婚 1965年「玩具」で第53回芥川賞受賞
2011年『文學界』5月号に、夫吉村昭(2006年夏没)最期の日々を、克明に描いた私小説『紅梅』
(同年7月に文藝春秋で刊行)を発表
夫 吉村昭が癌に侵され その経過を今回話す(「紅梅」に発表)  又40年前に吉村が『星への旅』
で東北の津波の悲惨さを克明に記した事についても
想いを話す  夫婦で作家をしていることでの思い、周りの人達の考え 夫の作品について 
自分の作品について
吉村昭は戦艦武蔵を初め数多くの歴史小説を執筆してきたが、5年前癌の為に亡くなる 
吉村さんの奥さんは5年前亡くなるまでを描いた小説「紅梅」を発表しました 
遺言に亡くなってから私の事は3年間は書かないようにと有った
亡くなった直後の事を3冊書いている 
発病から亡くなるまでを書いてないと編集者から詰め寄られる 締め切りまで指定されてしまった
(2012年3月)
電話等が掛って来て書かねばいけないような状況になってしまった
200枚にも及ぶものを書かねばならず 3ブロックに分けて書く事にする 
①舌癌の話 ②すい臓癌が発見される(PETにて) ③すい臓癌の手術から亡くなるまで
吉村一族はみんな癌で亡くなっている 3番目の兄が胃癌、弟が肺癌、父が脳腫瘍 
母が子宮癌で亡くなっている

気にかけていて毎年誕生日前後に徹底的な検診を受けていた 普通舌癌の検査はしない 
舌が痛いと言うので内科の先生に診てもらったらこれは口内炎ですよと言われる
薬を服用いていたが一向に良くならない 
夫が医学書で調べたらこれは舌癌の疑いがあると言いだして病院に行って組織を取ってもらって
調べてもらった処舌癌だった
舌癌の手術を事細かに説明される 俺の年でそんな手術は出来ないと言いだし別の病院に診察
してもらった処、放射線科での治療をすれば直りますと言われる
そちらを選択した 入院した部屋は一番奥の奥の部屋で衝立までは看護師、見舞客は入っても
いいとのことであった
行って衝立越しに見たら向こうむきになっており手を後ろに振っている 
こんなところに来るんじゃない早く帰れ帰れとの指示だった
針が入っておりマウスピースをしていて喋れない 何日間かそこに居て帰れるからと一旦退院した
 癌はかなり小さくなったが取りきれなかった

取りきれていないからそれは簡単な手術で済むので手術で取ってしまいましょうと言われる 
PET検査機で検査して膵臓(内視鏡 レントゲンでも判らない)に癌があることが判った 
錐体部が光っておりここだけを取れば大丈夫と言われ手術をすることになる 
結局手術をしてすい臓を見せてくれる 癌が全体に広がっていた(全摘をした)
妻の目と作家の目で夫を見つめていたようだ 全部メモを取っていた  
手術の様子、薬の事、副作用等々 後で書こうとは思っていなかった(普通の奥さんよりは観察
していたと思う) 
すい臓の手術をしてから退院した後 血糖値を毎日測って(空腹の時に測定) 
インシュリンを注射した (4時間ごと) 遠方には行けない 
井の頭公園への散歩、デパート等に行く
同じ家に居てそれまでは一緒にいることはなかった(取材、講演等)  
4か月間密度の濃い時間を過ごす事が出来た もうこれで直ったと思った
急に具合が悪くなり、主治医ではない診察の日に病院に行った 即入院になってしまった
 仲のいい友人が本を出版して受賞してその受賞のお祝いの日だった

病院に送ってその足でお祝いの席に行く予定であったが入院の手続き等で行けなくなり、
断りの電話を入れた(病状は友人には連絡していなかったので苦労する)
息子と娘に対しても話をするなと言っていた しかし説得して話す事になった 
それ以上広げるなと云う
残ったたった1人の兄に対しても身体の事は話すなとくぎを刺された
(兄からは後で何で話してくれなかったのかと言われる)
夫は19歳のときに肋膜をやっていて(微熱が出て学校を休む)
21歳の時に結核になって 喀血する 肋骨を5本切除する胸郭整形手術をする 
其の時に長い間家で寝ていた  見舞いの人が来ると疲れる 
元気そうに見せるようになっちゃうそうです ・・・若い時の原体験があったために周りに言わない
ようにしたのでは?
自らカテーテルを引き抜いたようですがこれについてはどうですか→その事についてはあまり話したく
ない 日記の第1ページにこれが最後の日記になると書いてある
ですから自分で死が近づいてくるのが判っていたようだ 

幕末の蘭学者 食を断って、薬を断って(佐藤大膳と言う人) 自分で死を迎えた
感銘を受けたようで自分もそんな死に方をしたいと日記に書いてある 
エッセーにも書いてある 自分は医者ではないので何時亡くなるか判らない
自分の死は自分で見極めて自分の死にたいような形でと思っていたのではないでしょうか 
亡くなる直前の描写の中で 背中をさすっていると身体を半回転させたと 最後の文で 
自分を拒否したんだと津村さんは書かれているが
判りません 吉村(夫)が病気を隠したと言う事がとても辛い思いをしたというのは
病気を公にしていれば断る話はいくらでもあった
 私も仕事が断れずに一緒に付き添ってやる事が出来ずに悔いが残る 
ものを書く女房は最低だと思った

病気になる一年前から決まってたグラフ雑誌の連載があった 
それは病気になるなんて夢にも思わなかった事 休めない 文学賞の選考委員長として仕事もある
私は女房としての役目をはたしていなかったという悔いがずっとまだいまだにある
「紅梅」を発表して 、寂聴さんから良く書いた偉いと即電話がかかってきた 
これは吉村さんが貴方に書かしたのよねと言ってくれた
「紅梅」の位置付けは→集大成だと思っている 気力も体力の使い果たした もう書く気力がない

2011年10月17日月曜日

若林克彦(ハードロック会社社長)   ・街の発明王高度技術に挑戦

 若林克彦(78歳ハードロック会社社長)    街の発明王高度技術に挑戦  
これまでに100件を超える発明をした 東大阪のエジソンとも言われている 
50年前に開発された絶対緩まないネジがヒット商品となる
現在建設中のスカイツリーに取り入れられる等、高度な建設が要求される現場に使われている 
「アイディアは人を幸せにする」をモットーに先頭に立って商品開発を進めている
鉄道は振動がきついので緩まないネジを使ってもらっている 
16両編成で100万km走るとオーバーホールを行うがその際にボルト、ナットは自社のに交換してもらえる
16両編成で2万個のボルト、ナットを交換する 
1個でも不良があると駄目 37年やって来て一件もクレームはない

心構えを朝晩言う   イギリス、台湾、ドイツの新幹線にも使われている 
10年ほど前にイギリスで レールのポイントがあるがそこでナットが緩んで脱線転覆して 、大きな事故を起こしている 
5年前からハードロックの代理店が宣伝していたが使ってくれず、点検で増締めで対応していたが、事故を起こしてしまった  
呼び出しがあってポイントを変えるので使用するようになる 
ポーランドでもイギリスが使っているにのであればうちの国も使おうと動いている

長野に第二次世界大戦のときに疎開する お婆さんが種まきを苦労している姿を見て何とかならないものかと径が30cm、巾が5cmのブリキのドラムを作って穴をあけ、種をドラムの中に入れて転がせば種がでてくるようなものを作った 
人が喜んで使っている姿を見て子供心に嬉しいと感じた(10歳)  
かまどで火をおこすのに竹の筒で吹いて苦労していたのを見て、送風機、使ってブリキで作ってやったところこれもうまく行き喜んでもらえた
「発明はだれにでもできる」と言う本を読んで巨万の富を築くという夢を見る

卵焼き専用フライパンを作ってスーパーの出入り口で実演をする 
1か所で1000個売れる 200円/個の利益を得る これを資金にハードロックの製作、販売に向かう 年数は掛る 途中でやめたら駄目    
昭和36年 大阪に国際見本市があって 私は設計だったので設計資料を求めて見本市に行ったときによその緩み止めナットを貰った
家に帰ってパンフレットを見ながら考えたら、もっと簡単にできるなと直感した 
考え始めて1時間ぐらいで纏まり、試作してみるとOKだった

特許出願して1年ぐらいしてものを出して反応を確かめたかった どこへ売ったらいいか考えあぐねる パンフレットを作って問屋に持ってゆく
問屋の人はこんなものは使えるかと突き返される 
JISの規格品にこんなものを付け加えたら違法行為だと言われる  
2軒、3軒回っても同じ状況
問屋は駄目だと判断し、実際に使っているところをターゲットに絞る 
コンベアー ネジがゆるむのでここに売り込む その場に品物を置いてくる 
使ってみたら良かったと言われる 

緩んだら閉めろが定説になっている 納得してものを見てはいけない 欠点はなにか 
板ばねを追加して緩み対策をする 鳥居のくさびを見てヒントになった 
作業性を向上させるために又1年間掛る 
基本理念 
①心豊かな創造性を磨き無から有を見出し進展させる  
②アイディアの開発を通じ人と企業と産業社会の発展に貢献する
③この社会はわが社の為の道場であり、見るもの、触るもの全て我が師である  
 毎朝唱和している
完成度を見る 60%~80%→付加価値を付ける
心状態と形 バランスなんですよ 形ばっかり優先してゆく 
心状態がしっかりしてものができてくるのは安定している(不況とかに対し)

2011年10月16日日曜日

高橋誠之助 (元執事)         ・松下幸之助夫妻の執事として

 高橋誠之助 (元執事)       松下幸之助夫妻の執事として
20年以上に渡って松下幸之助の執事として仕えてきた 
間口の広い仕事の交通整理する 松下の組織全部を知っていなければならない 電話連絡
1963年に入社 第一志望 松下幸之助は憧れの人だった 販売の第一線で活躍した 
白物家電は昭和38年ごろには陰りが出てきた
営業強化を松下氏は指示、大卒の社員を全国の営業所に配置せよ 
私は広島営業所に配属になった 
人事部長に連れられて、松下幸之助に初めて会う事が出来た 
仕事が忙しく家の事が思うように家長として出来ないので君にやってもらいたいと言われる これだけ

昭和14年に邸宅を建てていた 一室に執事室を設けてそこに住むようになる 
勤務時間は朝8時~午後6時まで が基本
家にいるときは一般の家庭人だった 
冗談をいうし、世間話をするし 普通の感覚で接してもらえた
見送りお出迎えは厳格だった 奥さんが先頭に立って従業員一同が見送る 
奥さんといる時間が松下幸之助より多かった  奥さんは和服着用していた
 
肝っ玉母さんのような人だった 性格は明るい(花に例えたらひまわり) 
幸之助はどちらかというと内向的 奥さんはあらゆるところから情報を集めてきてよく知っていた 新聞を7紙読んで整理しており、何時何日こんなことがあったようだと言うとすぐ出せるようにしていた   
むめのさんは明治29年生まれ (御主人が明治27年生まれ) 淡路島の出身 19歳の時に大阪に花嫁修行の為にくる 
お見合いは介添え人が顔を合わせてお互いは判るが、当人たちは顔はお互い判らない状況  借家住まいで結婚は借金で賄う
夫人に言わせれば縁談の内の一番条件の悪い人を選びましたと断言している 
なんでかというと 私は家とか財産とか身よりとかに頼って生きて行こうとは思わない
自分の力で生活を切り開いてゆく、自分の力で人生を立てて行きたい 
自分の才覚でいろいろ工夫して家庭を切り盛って行くと いう信念を持っていた

この結婚に対しては父親は反対したようだ 突然会社を辞める事になるが夫人が促したようだ
1899年頃、幸之助の父が米相場で失敗し破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し下駄屋を始めた  
しかし父には商才もなく店を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される
幸之助は16歳で大阪電燈(現:関西電力)に入社し、7年間勤務 当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する
 
ソケットの提案を上司にしたら、ぼろくそに反対され、図面も放り投げられた 頭に来て即辞めた  独立した
(おしるこが好きでお汁粉屋でもやろうかとも考えたがソケットをやることになる) 
ソケットの工事をしやすいように工夫した いざ自分で作ろうとしたが材料とかその中身が判らない 作っているところの廃材を貰ってきたり、作り方を友人から教えてもらったりした
一応ものが出来たが流通がなく扱ってもらえない 
原価計算もしていない 助けてくれた友人に給料も払えない 手元の資金がわずかしかなかった 
夫人の弟、井植歳男(後の三洋電気社長)と夫婦3人で何とか会社をつないでいる  
川北電気会社から部品を作ってほしいとの要望がある 
扇風機のライバンというスイッチの部分に絶縁体があるが、従来は瀬戸物で割れてしまう 
割れないライバンを作りたいという要望があった
ようやく本格的な注文を受けて町工場が動き出した これが神風となった 
その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る
4畳半と2畳を改造して作った作業場  資金繰りは嫁入り道具、着物、指輪等を質屋に持ってゆき資金源にした

私は質屋通いはしました だけど生活を支えるため 食べ物、着るものの為に質屋には行っていません 
仕事の為に必要な資金の為に質屋に行きましたとは常に言っていた
あらゆることに自分が助成した 
人が足りなくなり募集するがなかなか人が来ない 来てもすぐやめて仕舞う   
従業員に対して来た時には出迎えてよう来てくれたと言い、帰る時は御苦労さま また明日も来てほしいと声をかけた
この精神がその後の松下の従業員に対する姿勢となって現れる  「企業は人なり」

最初は4~5名の住み込み(現在で云う社員寮)の衣食住の面倒を見る(夫人) 
GHQが財閥解体対象として考えたがそれを阻止しようと嘆願したのが労働組合だった 
本社を大阪の門真に移転する頃から今まで、夫人は副社長、経理部長、人事部長もろもろの役職を全部やっていたような状況だったが、それなりの人が育ったので 第一線を退いて側面から主人の会社をバックアップしようという新たな立場になってゆく  
掛け替えのないパートナーだとおもっていたと思う 
創立50周年の時幹部だけでも7000人が集まった 
その時に幸之助が挨拶した後に私だけでなく家内も参加させてもらった

今日までいろいろ尽くしてくれたので感謝の気持ちを表したいので「長い間ありがとう」と夫人に対して頭を下げた 万雷の拍手
重役の夫人に対して言動に注意するように指示していた  (後年) 
1989年(平成元年)97歳で幸之助は亡くなる 夫人は平成5年に亡くなる 京帷子
「失敗したところで止めてしまうから失敗になる 成功するところまでやれば成功する」・・・2人の人生そのもの
「道は無限にある」  一般的にはA,B,C 三案ぐらいを考えるが幸之助は5案場合によっては代案は10案ぐらい考えよと言う  

2011年10月15日土曜日

門田奈津代           ・南の島の子育て日記

門田奈津代              南の島の子育て日記                 
「キエ」という植物 長細い葉っぱ 2m以上になる とげがあるがそれを取り除く 
いろいろな工程を経てござを編む為の材料になる(2カ月掛る)
ござにはいろいろ種類があって 私があんでいるのは畳一畳弱 模様ござ 
赤ちゃんが生まれた時に親戚の女性が編んでプレゼントする
ツバルは昔から家は砂利敷きでその上にココナッツで編んだござを敷いてその上にこのパンダナスで編んだござを敷いてそこにみんながくつろぐ
日本で云う畳がツバルではござがそれに相当します 
ござにいろいろバージョンがあって日常敷きのござ、新婚用の大きなベットござ 赤ちゃん用とか 全部日常に使う

ココナッツで出来た草スカート 以前はすっぽんぽんの上に着用していてが現在はTシャツとか短パンが外国からはいって来てしまったので祭りのときのみ着る
週に一回ぐらいはなんだかんだ口実を付けて祭りをする(600人程度の島)  
(小さな祭りから大きな祭りまで)
門田さんが南の島に関心を持つようになったいきさつは→子供の頃から都会育ちだった 
自然とは無縁 10代の頃から土いじりが好きだった  
27歳のときに海外に出掛ける 
タイのピーピー島に行ってみたら、人が凄い吃驚するほど優しい 
ちょっと聞いただけであれも食べるかこれも食べるかと御馳走してくれたりとか
日本では体験したことのない、見知らぬ人に対する優しさに吃驚してしまって タイ、フィリピン行ってみてやはり同じで人の優しさに触れるのにはまってしまった

特に島に行き、小旅行を重ねるに従って、より田舎にいくようになる 田舎に行くほど楽しい ソロモン諸島に行って感動して、子供が生まれてサモアに行って感動して、更に国自体が田舎は無いか探してツバルというち小さな国を見つけて行った  
ホームステイ先に行きみんなが抱っこしてくれる アー楽になったと思った 
いろいろ世話を焼いてくれる  日本ではありえない 
廻りの一歳程度の女性は同じように小さい赤ん坊の世話を自分だけでやるのではなく、周りの人達がやってくれる  衝撃、感動

首都に出るとみんな忙しくて日本寄りになってきている 
ツバルには6カ月過ごすことが出来て、ホームステイの方々と家族になってしまって、今度何時帰って来るのと涙ながらに言われ愛着が湧いて仕舞って次は又ツバルという事になる
自分の子供と他人の子供の堺目が曖昧 同じ扱い 通算3年以上になる 
水浴びは朝と夕方とでやる 服も段々ごっちゃになり共通の服になってしまう
夢奈(娘)もいろんな事が染みついている
6時起床 箒掃き 男が魚を取ってくると 刺身とココナッツを食べる 
屋根材作り 昼ご飯はブレッドフルーツとかココナッツとかぷらか芋を栽培しているので取って来て
焼いたり蒸したりして食べる
  
魚が取れない時は森に蟹をとりに行く 
食糧採取 ござを作る 屋根作り 等の仕事をする  
輸入食が入って来て朝はビスケットとかどんどん変わってきているところ  
食べものは豊か ブレッドフルーツが木から沢山取れる  
種類はすくないが、自然に包まれて暮らせる  
家に行くと枕を投げられて「寝なよ」と言われて寝てしまうような習慣がある  
常に廻りの面倒を見ながら仕事をする 
常に朝から晩まで周りを気にしながら生きている(家の前を通る人、子供、家の人等)

船が来たら見知らぬ人が来るわけだが、皆気にする 
ご飯食べたのとかご飯食べてゆきなさいよとか 知っている人も知らない人も船で来た人たちの世話をする
仕事をしながら、よそ見をしながら仕事する 
見えているところ間の人達とは気にして お腹すいていないか どこに行くのか 大丈夫かな 気にしあって聞き合って 、常に凄く密に言葉を交わし合っている 
相手が助けを欲しそうだと仕事を止めて手伝いに行く  
仕事が個人個人で決まっているのではなくて、全体 島全体なんでめぐりめぐっている  
仕事も子育てもみんなでやる感じ 楽なんです 
人と人との堺目を私自身が取りはらおうとしたら、日本でもこれだけ取り払えるじゃないかというような事が沢山出てきましたね


2011年10月11日火曜日

根来 真(脳神経外科医)       ・世界で通用する医療を目指した私の人生

根来 真   世界で通用する医療を目指した私の人生
藤田保健衛生大学 / 医学部 / 客員教授 脳神経外科 多い時1000例(500~600例)の手術が
年間ある  患者は数万人と言われる
血管内治療 血管の中を通って治療する 脳腫瘍は対象にならない 脳の血管の病気 
くも膜下出血の動脈瘤とかは治療の対象になる
人間の腿の血管の太いところを通してその中をある程度の太さの管を持って行って脳の血管に
持って行く
脳には細い血管にマイクロカテーテルという細い管を入れてその血管の病気のところに到達させて治療
する(太い管の中に細い管を通す 2重になる)
ある程度修行を積まないと出来ない

防衛機構があり血小板などが反応して襲ってくるので 時間と防衛機構を弱める薬を使いながら
治療する  カテーテルを排除しようとする(防衛機構)
レントゲン(最近は進歩してナビのような地図が出来てそれを頼りながら行う)を使いながら
モニタリングしながらカテーテルを持ってゆく 
脳の血管をあらかじめ記憶させておいてその中を辿りながら持ってゆく 
当初 1960年代アメリカでこの治療のきっかけみたいなのがあった 
みんなやったがうまく行かずこれは駄目だとなった
1974年にアメリカの有名な雑誌にソ連の脳神経外科の先生 セレビレンコ氏が血管の中にいれた風船
で血管のなかの治療が出来ると発表した 世界中が吃驚
開頭術が一般的だった

卒業当時が大学紛争時代 新設の科だったのと、父親が外科だった 
名古屋大学を卒業してアメリカに渡り留学する(360円時代で 日本人に対するわだかまりもあった) 
ハーバート大学の病院  患者さんとの会話が大変 東洋の医者が居なかったのでこの事も大変だった
フランスの血管内治療をやっている先生が講演にきて脳の血管に太ももから入れられると言う事を発表する
血管内治療の対象は全身 血管に関係した治療  入院期間が短い 社会復帰が非常に早い
 大きな傷も付かなくて済む→時代の要請にかなっている
心臓の弁を血管内治療でおこなえる 
アメリカから国際学会に参加してほしいとの要望があり参加する 
1982年1月 40名位が集まり皆で発表して意見交換する 
当時やっていた先生が全部参加していて凄い会だった(プログラムは手書きであり、山荘での会合
であり心配したが)

一番凄かったのは議論を止めない、制限時間がない 
ある問題で議論し始めると徹底的にみんなが納得しないと止めない
予定されたプログラムはまったく意味がない 白熱した 
血管内治療研究会を発足させる 1982年12月に開催 50名程度と考えていたら120名集まる 
非常に熱心に行われた
今は会員数2600人になる スタート時は教科書がなく(ロシア語で書かれてある書物を参考に) 
そこから始める 
血管拡張術(ロシアの先生)  頭の血管を開くのは彼が初めて 
ドラッグラグとかデバイスラグとか治療機材が何年後とかでしか入らない 
外国で非常に治療効果があがっている治療器具とかが5,6年経たないと入ってこない
日本は最先端とはいえなくなってしまった 

薬害の問題とか医療事故があって慎重になっているから  慎重になり過ぎているのが現状 
治療器具の開発は高額なため日本国内では開発しにくい状況
人工血管 作成→ 疑似操作 治療のまねた格好で若い人の習熟の為  
日本発の機器が出来るようにしたい 利益を考えるとなかなかうまくいかない 
パテントの問題もある
予防→血管に絞ると 血管内皮が非常に大事でそこを健康に保つためにはある程度の負荷を
かけてあげないといけない
血液の流れをある程度早くする(どんな場所も) 週 2回、3回と20分~30分 運動をするとか 
健康に保つことが大事  
心臓に負荷をかけると脳の血管にも負荷をかけることになる
日本はロボット技術が発達しているので応用出来ないか、いろいろなところで始まっている
小さなカプセルが血管内を通っていろんな箇所を治療することが出来るようになるかもしれない
故障した場合にどうやって回収するか 慎重にやらないといけない

2011年10月10日月曜日

米長 邦雄(68歳)         ・人生勝負の勘どころ2

米長 邦雄(68歳) 人生勝負の勘どころ
日本将棋連盟会長 1100勝 史上4人目
コンピューターとの勝負 毎年5月に世界選手権がありそこで優勝したチームとプロ棋士が戦う  
第1回目は渡辺彰 プロが勝つ 第2回目は清水市代女流NO1 負ける
1/14にコンピューターと戦う 今度は私がやる 70歳を目前にして挑戦したい
(予想ではコンピューターが勝つとの予想 対戦し実際に100何手かで負けてしまう)
カスパロフ チェスの有名人 チェスではコンピューターに負ける
1秒で400万手を読む 一回でも不利になると負けてしまう 兎に角有利に事を運ぶ必要がある 
コンピューターの代わりに指し手が居るがその人がどのような人かによって100%能力を発揮できるか
70%ぐらいなのかが決まる

相手の緊張度合とかどの程度本気になって指そうとしているか、変な動作をされるか(気が散る)
でこちらの能力発揮の状態が変わってくる
将棋盤の前に誰が座っているか という事は3割くらい勝敗の行方を左右させる 
目の前に座っている人が物凄く一生懸命考えていてなおかつ姿が見えない
気にならないがいいんですけれども 
ゆとりが素晴らしいものだった 教育によい 教え方が難しい 教えないと言う事が正解だった 
生きる力を育むこと 学力とは違う  (一週間で2時間有る)
大震災が来たときにどう生き延びることができるか 
生きる力を育むと言う事は洞察力と全く同じ事 一番いい授業は将棋であるがそうもいかない 
将棋の次に良いのが座禅 
座禅を組むと良いが教育にプラスなのかマイナスなのか無駄なのかという事なんですね 
今の教育は座禅は無駄という事になっている 何もしないから
座禅というものは自分自身いろんな事を考える 

迷いだとか悩みだとかどんどん捨て去って自分自身が考える事も捨て去って自分自身を捨て
去ったのが悟りなんですね
座禅は悟ると言う事 自分自身が無い 無我の境地 俗人は自分があって我欲があって 
金が欲しいあれが欲しい、名誉が欲しい等となる 
何も無くなったらどうなるかというとそれが禅の修行の究極なんです 
学校の勉強から見ると全部捨てちゃったと言う事は馬鹿なの、無学なのという事になる
試験等0点 そこに禅とか心の修養とか生きる力というものと、勉強 学問というものとの違いを
はっきりとしっかりと判らせてやってそのうえでゆとりというものを入れたんだと
実はこれは心の時代なんだとこうすればよかった 
ラジオ深夜便をそのまま持ってたら良かったんですね 

これを聞く事が授業だと言う事が一番良かったんでしょうね
今は少しでも知識があれば学力が上という事ですよね そうではない 
問題は知識をひきだす知恵なんです 知恵を身につけるのが実はゆとりだった
知識を身につける勉強、学問とそれをひきだす知恵を育むのがゆとりだったんですね 
私は少数意見になってしまって残念ながら負けたと言う事になってしまった
国際学力テストで日本は下がっているが決して知識は下がっていない、知恵を使うと言う応用問題
が落ちた
日本の子供たちが一番落ちたのは何かというと知恵を使うと言う事 教育でない場で育むべき
なのかもしれないが それが一番大事なことだと思いますね
デジタルは間違っていると思う アナログの尊さを知ると言う事が大事  
ラジオ深夜便が好きで この人の声の出し方 、しゃべり方でこの人好きだなあとか
この人の云っている事は本物だなあとか 綺麗事を云っているのでこれは偽物だなあ 
とか人それぞれいろんなものを感じると思う

どう感じるかというのがアナログの世界 デジタルは綺麗なものだけが出る そうではない 
そこに問題がある
ものを知る時にインターネットで検索するが 昔は辞書を引く (今は死語になってしまった) 
検索とは違う 知る為の無駄な作業がある しかし無駄がこの世の中で非常に重要
無駄を排したものが何かというと自然の時間を人間が 無駄を廃して人間の時間に合わせてしまっている 
温暖化とかいろんな問題が有りますでしょう
春になると桜が咲く 自然のサイクルがあるがそのサイクルと人間の生活がマッチしなくなってしまった 
(枯れ葉はごみ)まどろっこしいと燃やしちゃえと言う事になってしまった 
地球の温暖化だとかいろいろ言われているが 自然のサイクルを人間が人間の時間に替えてしまった 
無駄だ、まどろっこしいと それでいろいろな問題が起こっている

デジタルは人工知能 アナログというのが人間の心 人間の作った脳みそか人間が持っている心か
 今こそ心を大事にしなければいけない 
今年はいろんな事が起きた 人間の心がデジタル化され、ちょっと行き過ぎじゃないかと云う天の声
じゃないかと思う
北原白秋の詩  「かごろばに 沈みて匂う夏霞 若かる我は 見つつ観ざりき」 
白秋は晩年失明する 
古里に帰ってきて 失明する前の年に詠んだ詩
視力が衰えてきたのでおぼろげに見えてきたのであろう  
「かごろば」とは夏に黒っぽく見える葉っぱが覆っている山 
「若かる我は」 子供の頃の自分(白秋) 子供のころに如何してこの様な美しさを判らなかったんだろう 
「見つつ観ざりき」 「見つつ」目で見ていて 「観ざりき」心で観ていなかった
 「見つつ観ざりき」→この詩の一番の現代社会に問いかけた詩だと思う
美しさを 見つつ(子供の頃は見る事が当たり前だった ただ見るだけ 感じていなかった) 
 観ざりき(心から観察  感謝の気持ちで観る) 
ものを見るときに デジタルという生地を活用してみるのかアナログで見るのかという事に
決定的な人間形成に違いがあるのだろうと思っている  知識と知恵の違い

一番求められているのは心のあり方だと思う 鉛筆とかペンを持って字を書く  
今は字を書くんではなくて打つ、クリックする  
矢張り 字を書く 辞書を引く これが大事な作業だと思うんですね
白秋は歌人であり 一字一句 万感の思いで語っている
70歳過ぎたらどう生きるか 私自身過去を振り返らない事にしている 
馬鹿な手を打ってしまった→形勢が悪くなる(順調にきたのが躓いてしまった) ここでどうするか 
人生順調に行った エリートコースを歩んでいる 変なことで躓いちゃった 駄目になっちゃった 
ここでどうするか ここが大きな問題なんですよ
将棋の場合 勝った後どうするか、負けた後どうするか がある 有利な時どうするか 
不利な時どうするか がある

形勢が有利な時→平凡  当たり前  自分が悪い事さえしなければ必ず勝つ 
優勢が拡大していって勝利に繋がる 決めるべき決めないとまずい(勝負処がある)
 安全策は良いが消極策は駄目  安全と消極は混同しやすい あれが気になる 
これが気になる こうされたらどうしよう 気になって来ると大体迷いが有って躓きの元
英断とか決断がどこかである・・・ 優勢な時
不利な時→将棋の場合 相手が間違えないと勝てない 間違えさせる手が一番 辛抱する 
時が来るのを待っている  優勢な状態から不利になるときどうするか
一番大事なことは過去を振り返らない (ああやっておけばよかったのにな) 
将棋が終わってからやればいい (対局中は生きているから 生きている間は反省しない)
生きている間は前を見る ああいった事だけはやっちゃあいけないと言う事は心得ておく 
今ある局面で何が最善かという事を探して前に進む事が大事なこと
後悔ばかりするのは益にならず まったく益にならない 

ただ反省すると云う事は賢い事なので
 反省する 勉強する 振り返るという事はあっても
結論が出た時にはすぐに前を向くと云う事が大事なことですね 
いっつまでも引きずっている人がいる 過去を振り返ってくよくよするのは良くない→
大体負けになる  今ある事を肯定して前に生きると云う事が大事ですね
負けた時→負けが続いた時 負けたのが何か 二つ ①弱い  ②スランプ  
どうなのかを見定める  
原因が有るが→それ原因の為だから弱い→技術の勉強をする 
スランプ→強くなることはない 自分の実力が発揮できないから負ける 

精神的なものだけ ・・・将棋の事を考えるのがタブー(好きなことをやって将棋から離れる)
まったくの気分転換をする 将棋から兎に角離れる 
そうするとまったく違う自分があって、普通の自分にもどっているので、将棋をやればスランプは
切り抜けられる 
本業でしくじった人はどうしたらいいかというと 人知れず遊びに行くと云う事ですね  
30~40歳代が強く 今は弱くなっているがもう一度強くなりたいと思っている
(コンピュータとの対局を控えている)
弱くなったのが元に戻れるのか それに挑戦しようと思っている その様な夢を持っている
「生涯青春」「若さと笑い」 (兎に角前だけ見る) 

2011年10月9日日曜日

米長 邦雄(将棋棋士)       ・人生勝負の勘どころ

米長 邦雄(将棋棋士68歳) 人生勝負の勘どころ
日本将棋連盟会長 人生に余生はない  60歳までは修行期間それを離れてからが本業離れて
から 人生の勝負である それが幸せかどうかが決まると思っている
タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持
70歳からがどうだったかが問題  将棋の実力 40歳までは強くなる(ピーク) 50歳になると昔の方
が手が良く読めたなあと思う
60歳になると「あかん」 確かに40歳代の方がつよかったなあと明らかに判る 
問題は将棋から離れた人生をどうするかという事
大山康晴坂田三吉 は60歳代でも強かった  

昭和10年に7番勝った方が名人にしようと制度が変わった 第1期が木村義雄という名人
坂田三吉だけは参加していなかった ファンからの要望もあり坂田三吉(66歳9カ月)が名人戦に
挑戦することになる  
名人戦への挑戦権は8~10名でリーグ戦を行う 坂田三吉は2年間指した 
最初の年が2勝6敗 翌年5勝2敗 二期目のリーグ戦が終わった時の年齢が69歳9カ月
ほぼ70歳でトプクラスに居た 大山康晴 60歳目前までタイトルを持っていた 
米長と対戦してタイトルを失ってしまう 70歳でトップ5に居たが癌で亡くなってしまう
来年 コンピューターと対戦することになる

現在 前立腺がんになっている  PSA値が4.0が上限 4.0の数値を突破した 
癌の疑いがあると言われ細胞を採取して検査したところ4/12か所が癌だった
患者が治療方法を決める 5通りある ①手術して全部取ってしまう ②放射線を当てる 
③ホルモン治療 ④放置(75歳以上は放置の方がいいと一般的に言われている)
私は放射線治療をすることにした 再発の可能性もある 全て責任は自分にある 
治療開始 ある時8.8になった(これも定めだと思う) 2.2にもなる 現在薬を飲む 
大事なことは決断 結果については全て自分の責任 将棋の素晴らしいところは洞察力 
これが一番いい手だと見抜く力 

何故そういう考えに基づくかという大局観が大事 後は迷わない 最後の決断は「感」です 
決断できない人が居るが決断できない人は過去を振り返る
過去と喧嘩しても何にもならない 未来が問題 
自分はこうすることが一番いいだろうと思ったらもう迷わないと言う事です 
何で癌になちゃったんだろう こんなことを考えてもしょうがない 
どうしたらいいんだろうとは考える 自分はこうすることが一番いいだろうと思ったら
その様にして後は迷わないと云う事です  
洞察力、決断、これが非常に大事なこと NHK杯30秒で1手 3時間かけて1手を指すような対局もある 
1局の対戦は平均130手ぐらい お互い65手ぐらい指す

65手のうち63手ぐらいは同じ(30秒限定と違う場合と) 2手ぐらいは違うがこれが大変 
もう少し時間があればこんなことはしなかったのに、という事がある
これはプロにとって大事なことであり、致命的な手になってしまう事もある 
時間があると迷ってしまう場合も又有る。
将棋はインドが発祥の地 インドに原形が有った 世界に広がって40種類ぐらいある 
一番人口のおおいのが中国の将棋 次に多いのがチェス 3番目が日本の将棋
盤上の戦争 死者が出ると外に出されてしまうが 日本の将棋だけ死人が出ない 
相手の取った駒を捕虜として使う 捕虜を使う時相手の肩書でつかう
王が真ん中にいて金、銀、桂馬、香車とあるがこれは仏舎利の配置と同じなんですね  
それらは宝物なんです 宝石をいかに活用するか

中国の将棋とチェスは似ている タイの将棋が日本の将棋に似ているのでタイの将棋を日本が
改良したのではないかと思う
馬は世界共通で端から2番目に置いてある 馬は独特な動き方をする 
ぴょんと跳ねる チェスの場合はナイトという、馬に人間が乗っていて槍を持っている(本当は馬)
日本の場合も馬なのだが「圭」をつけた 桂(かつら) 
日本に伝わったのは仏教伝来と同時期であろうと言われている
お釈迦様と日本の神々とどっちがえらいのだろうかと考えたがどちらも偉いのだろうと言う事に
なったのでは  どちらも素晴らしい おそらくこういう国も珍しいのでは
敵も味方もなくて 死者を一人もださないという事はその辺りから来ているのではないかと思う  
共存していて排他的ではない

東京都の教育委員を担当している
将棋は教育上いいものであると思っている 学校教育の中に将棋をとりいれる事はいいことだと
考えている
将棋が強くなることと勉強が出来るようになる事はまったく違うこと
強くなる方法には2通りある ハイキングに行くにはどれがいいかという勉強方法とエベレストに登る
にはどうしたらいいかという勉強方法 という2通りある
学校だとだれでも同じところに登れるようにする 
将棋の場合どこまで強くなりたいかによって勉強方法が全く違う
今の学校の教育はみんなこのくらいの山を登れるようになろうと言う教育ですね 
こういう方法だとタイトルを取ることはできない
 
目からはいるもの、耳からはいるものは2番目、3番目の事 教科書があり、先生が教えてくれるもの 
目からはいり、耳から入りと全て二の次三の次
一番大事なことが何かと言ったら 今ある将棋の局面をじっと見て何が一番いい手って何だろう 
どれが最善の手なんだろうかと答えを自分の頭で考えた時間がどのくらいあるか
という事  時間の長さがプロの実力を決める 私はそれを5000時間ぐらいだろうと思っている 
一日に将棋に費やす時間が3時間とすると 約1年で1000時間  5年間
最初は先生の云う事を聞いた方が伸びる がそのうち自分で考えていた人の方が全然違ってくる 
温室で肥料を与えられてぬくぬくと育つのと路地もので勝手に生きろと野菜のようなもので先生
の云う事を聞いていた方が早く伸びる その方がよさそうに見える
会社で採用試験を受けても素直でいいなそっちを採用しよう となる 
そこまでは ところが25歳 30歳になったらどうなるか
 
路地ものの方がおいしそうなもの見つけたな
という事になる 実が全然違っちゃうことになる 
脳みそに汗をかかせる時間がどのくらいあるか それには
一つの局面を見てその局面を脳みその中に入れて目を閉じて耳を塞いで雑音を全部入れない
でじっと考える 
その総合計ですね 学校はそういう事を教えられない
世の中に役立つ、人に抜きんでた人材を育てるにはそれが必要だと感じる 
昔の人はそうだったんだろうと思う 子供のころにどんな勉強していたか
江戸、明治時代 読み書き算盤だったと思う 読み書きは論語、漢詩、古文 意味が判らないが
毎日毎日読む  そういう風な勉強をしていると人間も大きくなる
昔の人の方が洞察力だとか決断力だとか 人間的な大きさだとかに はるかに叶っていた
勉強方法だと思う

私は中学1年から家弟子だった 師匠は上から30番目ぐらいだった 
ある時に教えてもらう事に お断りしますと言ってしまった(天才だと思っていた) なんでか
私は日本一を目指すんです 先生の癖が付いてしまう 師匠どまりになってしまう 
昭和31年の話 ゲンコツがきてその後師匠が「そう言われればそうだな」といった
(もし私が弟子にそう言われれば破門にしたかもしれない)師匠は尊敬していたけれども人間臭い
処が有った
児童の保護者が「私は学校の先生を尊敬しております 信頼しています 
「学校にお任せします」こう言えば学校の先生は、全部元気になって教育が全て良くなる

保護者の姿勢が教師を苦しめ教育を駄目にした それだけがマイナス マイナスが全てなんです 
もしも学校で何かが起きたら、それは保護者の躾だとか教育だとかあるいは本人が悪いのであって
学校には責任はないんだと言う事をみんなが思えば教育は良くなる
残念だがそれがうまくいかない それが学校の実情です 学校教育につきましては 
保護者の姿勢と教え方が問題が有るんだろうなと思いますね
画一的に教育するのが問題 地域、地域(サラリーマン、山の中、農業、漁業等)の生活に合った
教育は違うと思う
小学校の時までは農村に居て私は伸び伸びとそだったと思う 
長兄はリタイアして将棋を教えている 一緒に兄弟で将棋を始めると弟の方が強くなる