2011年10月8日土曜日

北村武資(織物師、人間国宝)    ・織りの美を目指す


北村武資(織物師、人間国宝76歳)  織りの美を目指す
父は昭和17年に亡くなる  表具師だった 祖父が昭和18年、兄が昭和19年に亡くなる  
母子家庭になってしまう
1935年京都に生れ  昭和26年に中学校を卒業 西陣の旗屋さんで習い工として働き始める
技術を身につければ生活の基盤になる 一生懸命仕事をしていれば必ず誰かがみている
30代40代の人を見ていてこの仕事をずっとやっていていいのだろうかと思うようになる 
少しでも自分の生活を改善しなければいけないし、より多くの収入を得ることでもある
もっと質の高い仕事をする 地理、歴史は好きだった どこどこでどんな催しがあるか、
染色関係とかの 視野を広めて行った

1959年大阪髙島屋で開催された初代龍村氏の展覧会に出会う 
紫綬褒章記念展 大阪まで見に行く 圧倒された すぐにそこで働きたいと即決した
あくる日から仕事をやりに行くが半月ぐらいはぶらぶらしているだけだった 
旗を組み立てる仕事を依頼される
ある旗屋さんが歌舞伎の公演の為に如何しても間に合わせなければならない衣装があり、
私の方に来られてやってみようと云う事になる  10日間の日程しかない
何とか間に合わせることが出来、旗屋さんが喜んだが、その衣装は伝統的な装束の問屋さん
注文していてそこが凄く喜んでもらえた
これからも是非織ってもらいたいので、龍村さんの処を止めてこちらに来てほしいと言われる
 独立したい夢もあってその魅力にひかれ話をひきうける

親鸞聖人の705年大御忌の為の袈裟とか衣を作る仕事だった 
自立へのスタートだった ふるいものの伝統的なデザインとか技術とか自分で習得する事が出来た
織物に対するある意味での自信が身に着いた 
織物の種類もいろいろあって、昔のままの通りを忠実に写すことに価値があるものと、現代の要求にどういう風に対応してゆくか、新しいものを生み出してゆく係わり方と二通りある  
試し織りを沢山していた 
森口華弘さんが主催していた西陣織りの研究会の人に試し織りを見せたら来てみないかと誘われる

友禅の作家の研究会 その場の雰囲気が違っていた 試作品を送る事になり東京に送る
(帯の織物) 日本染色展(昭和40年)だった  初出品初受賞となる
「菱重ね一松文様帯」が受賞作品 日本工芸会会長賞 29歳  
「帯漣」という作品を1968年 日本伝統工芸展に出品 NHK会長賞受賞
30代の後半に「羅」との大きな出合いがあった 中国の調査の馬王堆1号前漢墓から発掘された 
最初写真で見る 
飛鳥時代 一見したところ蝉の羽根のような織物 昔盛んに織られていたが現代では織れない
佐々木新三郎先生が研究していた
織り方がある事は知っていたが、やってみようと云う強い思いが湧いてきた 
創作活動の行き詰まりを乗り越えられるのではないかと、それに集中してそれに賭けて行った
半年そこそこで織ることが出来た 織物に対して理論的に研究してきた訳ではない 
常に織物に対して織ると云う現場でずっと仕事をしてきた人間ですから
「羅」というものがどういう構造でどういう手立てをすれば織れるかという事についてある程度
予測はついた それに基づいて旗の準備をして半年掛りで思い通り出来た

伝統工芸展に出品した 誰かが求めて私の手元に戻ってこなかった 
 高名な彫刻家が(既に故人)が今回の展示会に出品して30数年ぶりに出会えた
「菱重ね一松文様帯」特徴は本来織物は横糸と縦糸が直角に織りこまれているのが一般的な
のだが、この織物は縦糸に対して横糸が波型に織りこまれている
装束や法衣の仕事をしていたが、その中に水衣、とか波衣という織物があり、能装束の一種類 
縦糸に対して横糸が波を打っている
何と面白い織りものだなあと思った 
波衣と云う織物は簡単な平織りで織ったものを横糸だけを後で加工して波型にする 
ある約束型に沿って織ることによって、織りながら横糸が波打つように そういう織物を作りたいと
ずっと考えていた その発想の元にできたのがこの織物

「帯漣」 この作品にも縦糸に対して横糸が波打っているように見えると思うが、
「菱重ね一松文様帯」を基本としているが、この構造を斜めに、あやめに崩していった
崩しながらセンターに対して左右対称なデザインになっている 
波打っているこの波の状況を少しずつ右から左にあるいは、左から右へという風にずらしながら
構成していった
谷間の部分に糸の重なりがあるが、そういう部分とかあるいは全然糸の表情がない処とか 
組織のメリハリというか重なってる部分とかがそういう変化を付けている
織りの質感を表現しているわけです 濃淡で菱型が組み合わさったような構造になっている 

「織帯 羅」 1973年の作品 羅を復元 レースのような織物と言われているだけに 縦糸がクロス
すると云うか、もじれて、もじれ目の祖密によって菱形の模様が織りなされている
馬王堆の発掘の羅を見てから意外と短期間に織りあげる事が出来て、自分としても意外な感じがしたけれども、こうして久しぶりに見るとまあ良くぞこんだけ正確に折れているなあと
自分でも吃驚している  色は渋い赤 植物染
「碧地塔門羅布地」 青い色をしている 羅というものの特徴 織りそのものの表情というのか 
織物というのは地色があって、生地があって、それにいろんな模様が表現されている
のが一般的なものですが、この作品羅は地模様 一色で織り方で模様が出てくる 

その模様の要素が75度か80度の斜めの角度のその角度が模様の主体なんです 
それを崩してゆくというんでしょうかねえ 方眼紙状態を詰めたり飛ばしたりしながら、
こういう模様を作り上げるわけです
それでいて且、一つの模様の単位は連続してゆくわけです
連続していった時の織物の効果、デザイン効果を意図しながら方眼紙状に一つの単位模様を
作り上げる
復元した「羅」から私の新たな「羅」の世界の展開ですね  
自分で染めたが色の見極め 染料はいくつかあるので調合しながら自分の好みの色に持ってゆくが質感と色がうまく調和した  

「羅」と「経錦」で人間国宝 人間無形重要文化財 
「織校紋金地縦錦布地」 これは別名法隆寺錦と言われる 
奈良の法隆寺に伝来している四角い模様
の中に丸の模様があって、織校錦と言われているものがある
典型的な復元の仕事です 織り方、材質とかを学びとってそれから自分の新しい作品として色や
模様を展開してゆく これは其の一つ
「縦錦布地青華」2009年作品 真っ青 これは化学染料でないと出来ない 
古典的な縦錦という技法を使いながら表現は現代の色というもの
一つの単位は風車のような模様 羽根の部分が一つ一つ全部違う 

しかも光の当たり具合によって一つ一つに縦の線があったり、横の線があったりする
これこそ縦錦でないと表現できない質感というかテクニックですね 
花の芯の部分がピンク色になっている これは補色の原理(ピンクは使っていないがピンクに
見える)
計算外の起こった 縦糸の数は8000本 このぐらいの密度がないとこの様な模様が浮いてこない
横糸は影抜きと主抜きと言って2種類の横糸を通す
縦糸に色があって その色を表に出したり、裏に沈めたりと言う風にしながら8000本の縦糸を
操作して 表が白なら裏は紺色になっている 
そういう風に紋織の一つのテクニック
横幅は72cm 長さは5mぐらい 

展覧会 130点展示してある その全部が一つ一つ織りあげたもの 
作家として取り組んでも40年になるが 織物の道に入って60年 
よくもまあこんな仕事をしてきたなあと思う
織物の仕事は根気と集中力 好きで織りものに入ったわけではないが、今もそんなに楽しんで
仕事をしてきたという気持ちはないが、でも織物と戦ってきたという感じはある
自分自身と織物が一体の様な感じ 私の場合は本当に地道な日常の仕事の中で手近な目標を
見つけて一つ一つクリアしてきて越えられたら又次の目標を手近な処で見つけて
そしてコツコツとやってきたというそんな感じですかね 
基本は技術というよりも現場だと思う 
常に現場からの発想でいろんなことを考えて織物に取り込んできました
年をとって来て、手が荒れてきて細い絹糸相手で手に沿わなくなってきているし、目も衰えてきて
いるのでちょっとは仕事の内容が変わってゆくんじゃないのかなあ