2011年12月27日火曜日

松野みえこ(プロジェクト代表主婦)    ・インターネットの絆で被災地に船を

松野みえこ(41歳 牡鹿の海を未来へプロジェクト代表主婦)    インターネットの絆で被災地に船を 
東日本大震災で牡鹿の鮎川浜の漁師が船を失い 9/中旬 一隻の漁船がボランティアの人達による襷リレーで送り届けられました  
船を失って途方に暮れている漁師に替わって船を下さいとツイッターを通して全国に呼び掛けたのが東京、練馬区に住む松野さんでした
松野さんの郷里はこの鮎川浜です
昔は捕鯨が盛んで今の10倍の人口だった わかめ、銀鮭の養殖をやるようになる 
今は800名程度 (震災前)

地震当日は子供の卒業の別れ会の最中だった 
すぐ家に帰り 忙しく TVで津波の映像を見たのは夜主人が帰って来てからだった
鳥肌が立って動けなかった (母が2度死んだ気持ち) なにも無くなった 
知っている人皆死んじゃったのかなと思って どうやったら連絡が取れるのだろうかと思った  電話は連絡が出来ない TVでツイッターの事を知る 携帯でアクセスする( 鮎川)  
行きたい気持ちはやまやまだったが 長女が脳性まひ(13歳)長男が自閉症(10歳)  
末っ子(2歳) 家から出られない状況だった 
ここで出来る事であれば夫も協力すると云われ 膝を抱えているのであれば物資を抱えた方がいいと云われる 
先ず古里の状況を知りたかったのでツイッターで書き込みをして3日目ぐらいから情報が入るようになった 先ず叔母との連絡が取れる

なにが無いかが判って来た 物資の呼びかけが始まる 
食べ物 水 情報を流す すごく早く反応が有る 一番短いのは30秒
ツイッターでプロフィールが判るので確認をして個人情報は流さないようにした 
全て間に入って私はやった 
最初の1週間はあまり眠ってはいなかった様に思う 
昼間は子供の面倒をしなくてはいけなかったので お互いの信頼関係が出来てくる 
直接被災者と直接接触してくれるようになり 物資を直に送ってくれたりしてくれた
最初は水と介護用ウエットタオル ドライシャンプーその後お米を何百kgと送ってくれたり 焚きだしに行ってくれたり 衣類関係は一杯届いているのが判った
今なにが足りないか 母の知り合い(母は小学6年の時に亡くなる)が聞きまわって情報を集めた
毎日 送られてきた品物の確認と(中古品もあるので使えるかどうか) 
分類をしてダンボールに詰めて送る作業をした
情報をやり取りするなかで昔からの知り合いのごとくお互いが親密に成って行ったが、実際に会う場面になった時は「はじめまして」の挨拶から始まり,不思議な気がした  
私が小さい頃からお世話になっていた人が唯一コンビニエンスストアーを経営していて(半島で) 電話で話す機会が有った時に 「みえこちゃんね 私達はインターネットとかで,出来ないので代わりに伝えてほしいと 支援して下さる方 牡鹿に足を運んでボランティアをして下さった方に 牡鹿の人達を幸せにしてくれてありがとう   
「牡鹿の人達に温かい幸せをくれてありがとうと 伝えてね」 って云われた 
 
本当に涙が出るくらい 幸せっていう処まで 現地の人は全然行ってないんだけれども
思ってもらう気持ちが嬉しいから幸せなんだと云ってくれた,おばちゃんの言葉が凄く重くて 逆にあーやってて良かったなあと思いました  
壊滅としか言いようがない 最初の警報で避難した人は少なかったようだ
漁師をしている幼馴染 (安部利治) 最初死んだなと思ったが、避難所にいた 
家を流され、船も5隻流されてしまって 明るい人だったが 笑わなくなちゃったんだよね
と云われた 
それが胸に刺されて 震災から1カ月以上たってから連絡が有った 
なにが無い? 何にもないよ なにがあったらいい? 船が有ったらいいな
じゃあ頑張るよと言って電話を切る 
よくも無責任に今となっては思うが  ツイッターで書き込む「 5~13トンの船を下さい お金もなにも有りません 幼馴染を助けたい」

沢山の情報を得た 
北海道の船を運ぶ計画になったが運ぶのに無理が有り(金銭的に)断念 
小田原の船宿さんからOKとの返事を貰いましたとの連絡有
13トン つい先日まで現役で動いていたので問題ない 
メンテナンスも海航してくれるところも見つけました とトントン拍子に話が進んだ
奥田さん(船を紹介してくれた人)とも面識は一切なかった 
船を運ぶのに3泊4日であったが 部品の交換、震災の時に出たガレキが海に漂流していて思うように,航海出来ず 大変苦労しながら進む 無事に9/11に到着する  
中古船でも1千万円すると思う  
 
4か月毎日ツイッターで交信していた 昔ながら友のような感じに成って行った
船は「優斗丸」と命名 安部さんの子供の名前  その妹 もなちゃんも 震災前に骨肉腫に掛って片足を切断する (震災の3か月ぐらい前)    
大震災の時は奥さんともなちゃんは仙台の病院に入院していたので助かった 
バリアフリーの家を建てたが全て津波に流されてしまった
新しい人との繋がりが出来たので僕は(安部さん)は笑えるようになったんだよね と云っていた 有りがたくて 有り難くて 何トンワカメをとったら恩返し出来るんだろうかと最近冗談が言えるようになってきた  
ライフジャケットも3倍も4倍も集まって浜の人にも配布した

今回の船に係わって来たツイッターでの人は1000人越したのではないか
私と安部はしりあいだけれども それ以外の人達は震災が無ければまるっきり違う世界にいた人達で 私は東京で過ごしてきたので隣が引っ越したことも知らないようなことも有りますし、一つ一つの思いが一つになった時って 日本ってまだ捨てたものじゃないなって 人ってどこまで優しくなれるんだろう 有り難かった  
インターネット 掲示板の書き込みというのは 怖さも知っている 
有りもしないことで人が死ぬぐらいの中傷、誹謗することも出来るし 使い方ですけれども 
人を救う温かい手にもなる  
インターネットが無ければ被災地はどのように成っていたのか  
うしなったものは大きいけれども まさに震災が気付かせてくれた 
人の温かさ 繋がりの大事さ 再確認させてもらいました 
これで終わりではなくて始まりに繋げて行かないといけないなあと思います