2011年12月3日土曜日

島田誠 (画廊士)      ・文化はライフライン

 島田誠 (画廊士 神戸文化支援基金理事長)              文化はライフライン  
文化の役割でどんな東北支援ができるかと云う事をミーティングを本部の関係者達と行って4/17の夜行バスで大阪から仙台入りをした 
プランを持って東北の文化的なキーマンの皆さんとお話ししたのが最初です。 
3日間 つぶさに見ておおきな衝撃を受けた 
 「アーツエイド東北」と云う組織を仙台で立ち上げた 
阪神大震災からすでに16年経過していて 兵庫県が災害対策全書
(あらゆる災害におけるマニュアル 膨大な原稿を集めて本を出す ) 
その中に私が震災復興における芸術文化の役割を書いた

処方箋を持って伝えに行った(東北) 割とすんなりいけるかも知れないと受け入れられた
6月に発足 震災直後は食べるもの、住むところ等直近の問題があるが 長いスパンの中で心の復興というもの 未来に向かって希望を持つためには、芸術文化の力、 音楽、美術、詩、演劇、映像で有ったり 皆さん方の心の復興に欠かせないツールであるという思いが有って 地域によって異なるだろうから、東北の人に外から応援する 
押しかけ型ではなくてニーズにこたえてゆくような支援を届けますと言うような形です  
神戸文化支援財団を立ち上げていたので チャリティーでの支援金を東北の人に贈った 
8月中旬 チャリティー美術展を行う  200点余りを売却

アートエイド神戸」 設立 震災後一カ月で立ち上げた 
混乱状態では立ち上げが難しいので市民が結集 
文化的な復興には基金が必要なので 美術展をやって資金を作り立ち上げの為には人材ネットワーク等を利用して始めて行った
壁画キャンペーン 始める  被災したアーティストたちへの支援をする →先ずアーティスト達に立ちあがってもらう
震災詩集 そこから歌 劇  そこから生まれた物を紹介した 
どこで又震災があるか判らないので、アートの力を全国の皆さんに知ってほしい 
アートに係わる人達の同じ思いと云うものがどこに行ってもある と云う事 災害時のアートの役割というそれに対する取り組み 精神というものが、東北の皆さん方に伝わったからこういう流れが生まれたのかなあと思ってます
 
「アートエイド神戸」の核になったのは亀井純子基金 彼女が40歳で亡くなる 
ご主人が1000万円私に託された
亀井順子基金を恒久的なものにしたいと言う思いがあり 1992年から   20万円 5件 を18年間続けてきた(市民の皆さんからの支援があり基金は全額残る)
それがベースになって発展的にするために神戸文化支援基金という財団法人を立ち上げ 今年公益財団法人としての認可を受けて大きく発展をした
西川千鶴子さんという人(私の知人)が遺言で更に1000万円頂く事になり 公益財団法人としては3500万円を持っている

年間100万円支援を300万円支援になった  100万円は東北支援に向ける 
亀井順子さんは若い芸術家と交流が有って皆さんが何かしたいと言う時に資金的にお金がないと言う事を目撃してきて 生きていた時も身銭を切って支援して来た 
亡くなる時に支援に使おうと夫婦で話をしていたとおもう  
順子の思いを後に残したとご主人が動いたとおもいます   
島田さんのお母さんは18歳のころ昭和の初期に 秋田県のおぼない村に農村セツルメント活動に参加されたそうですが?

私の母は羽仁 もと子さんの自由学園という処で学んで その頃東北で大飢饉が起きて その時羽仁さんの呼びかけに応じて おぼないにボランティアで入った
セツルメントに住みこんで2~3年支援活動をしたと 後で聞いた  
それから母は結婚して神戸に来て自由学園の流れを汲む幼児生活団という児童教育をずっと 長い間ボランティアとして続けていた 
今考えてみると私も同じことをしてるのかなあと思いますけど  
農村セツルメント活動は→洋裁で服を作ってあげるとか 子供たちをお預かりして面倒をみるとか そういう事で有ったとおもう

1978年に 海文堂 本屋だけでは食っていけるのかなあとの想いがあり本屋の一角にギャラリーを開設 2000年までやってきた 
2000年に「ギャラリー島田」を開設する 33年間
「5人の作家」 出合った作家の生きざまを纏める
松村 光秀さん(74歳): 人物画 圧倒された 在日である(家庭も不和であった) 
絵は殆ど 父親や母親との対立であるとか 母親の想いとか 在日としての、辛さ、苦しみを含めて それが濃厚に表れた作家ですね 
41歳のときに火事に有って奥さんと子供さんを亡くされた 

家庭がめちゃめちゃであっただけに、結婚して子供にも恵まれ 言わば幸せの絶頂だった 
これからという時に家が火事に有って奥さんと4人子供さんのうち3人を亡くされた  
それまで書かれた絵も全て焼けてしまった 
そこからすぐ立ち上がってそれを客観的 直視しながら自分の世界というものを作り上げてきた精神力、男一人で残った娘さんを育て上げながら  松村さんにとって娘さんは神様だと その娘がいなかったら自殺をしていただろうと言っていました この本にも書いてある  
素晴らしい仕事をずっと続けられていますね

山内雅夫さん(76歳) 抽象画  白い絵の具で塗り固めてゆく 法隆寺のすぐ横にアトリエが有った 法隆寺の白壁のごとくこつこつと作り上げてゆく作家で滅多に発表しない 
精神世界をずっと付きつめながら、それを自分の作品として表現すると言う、とんでもない厳しい生き方をされる作家さんで長い付き合いに なりますけど 展覧会として手掛けたのは5回だけですけれども 仁川学院というカトリックの学校の巨大なモニュメントを任されて作ったんですけれども、名誉有る指名を断ってしまうという(一旦はお断りします) 
兎に角自己に厳しい だけど私は惚れこんだ素晴らしい仕事を成し遂げた芸術の主のような方ですね  
山内先生は「きわめつくされた努力」を自らに課し実践されている 
その努力は厚い岩盤を穿つ一徹さに通じその一徹さは古今東西の思想・哲学・宗教によって 鍛えあげられた鋼のように鋭利で、人を寄せ付けない  
私は山内雅夫こそ世間と隔絶されて深山幽谷に隠遁する真の巨匠の名に価する現代最後の作家だと信じている

武内 ヒロクニさん(74歳) :鹿児島県 徳之島の生まれ 中学校から神戸に来られて色鉛筆を使って(元々油絵の時代はあるが) 私と出合ってからは色鉛筆の作家としてユニークな素晴らしい仕事をされてて、私とは肌合いが違う 
ロックとかジャズがすき(私はクラッシック) 会話はしばしばかみ合わないが 彼しかできない世界 色鉛筆で都市曼荼羅というんですかカラフルでユニークなロックでしか解釈できないような絵でもある     鳴り響いてるような絵なんですけれども  
かれの捩じれに捩じれた性格が生み出した「都市曼荼羅としての鉛筆画」の美しさ、彼の生きてきた軌跡、オリジナルな美に溢れている。
記号化されたモザイクの隅々まで彼の生きてきた時代、空気、埃、淀み、流された血、精液などが塗り込まれている
 
それが時間の経過のなかで相対化され浄化され、記憶の断片として提示されている
生き方がユニークで4度結婚されて、それぞれの美しい女性に支えながら自分のやりたい事を貫き通すという 幸せ食堂という新聞刷子を150回もカラーで担当したり、シャイで真面目なところもあるが一種 昔の無頼の雰囲気を残した人ですね 
非常に土俗的な 徳之島の妖精の落としだねみたいな 天衣無縫なアーティストですね
 
高野卯港さん(59歳で亡くなっている 3年前)  血液の癌で亡くなってしまった 哀愁を帯びた大正ロマンを思わせるような 廓の男女だとか 色彩の使い方が上手で 夕焼けの風景とか 太陽に染め上げられてゆく空 ピンクであったり、ブルーであったり 情を漂わせている作家  
志半ばで逝ってしまった 
作品は多く残されているので今後紹介してゆきたい 
重なり合って迫って来る抒情というか哀愁というかそういったものが美しいと感じさせる力を持っている (色のハーモニー) 独特の世界です  
画題、画風、風体、生活、言動すべてにおいて卯港氏ならではとしか言いようのない独特のものを持ってっていることは確かである。それだけで才能と言って良い

石井一雄さん(68歳) 1992年にであう  まったく無名でいきなり電話が掛って来て作品をみたのが始まり 女性の顔・・・女神たち
みんな等しく自分たちの心の底には非常に純粋なもの を持っててそれを 例えば母に対する愛であったり、恋人に対する愛であったり 兄弟、友人に対する愛、それぞれ純粋なものを呼び起こす力というものを石井さんの絵が持っている 

身近においても飽きることなく訴えかけてくるものがある  
それが後藤正治さん(ノンフィクション作家)の『奇蹟の画家』講談社に書かれている多くの人達が大事にし、死ぬ間際にも病室に架けるとか ドラマが起きるわけですけれども 
それは純なものを呼び起こすと言う事だと思うんですね 
だから今の時代に日常的に失われかかっているものを思い起こさせる力があるんだとおもいますね
追い込まれて仕方なくやっているんではなく 石井さんが日常的に非常にシンプルに選び取った日常というものが他の人にとって凄い新鮮でショックを受ける
美術ファンとは違う人達にも感銘を与える力を持っているというところが石井さん人気の独特なものがある 

島田さんは47歳のときに大病をなさって大手術を受けられて おととしには奥さんを亡くされた そういったものを踏まえたうえで画廊師としての生きる喜びとは?
絵と係わるようになって一番思うのはゴッホの言葉ですね 「僕は僕の絵に対して命をかけ 僕の理性はそのためになかば壊れてしまった
それもまた良い しかしそれは君は僕が知る限り そこいらの画商ではない 君は現実に人間に対する愛を持って行動し 方針を決めうると僕は思うが 
しかし 君はどうしようと言うのか」

自分が思う事、好きなこと、自分がこうしたい事 という事を細々でもずーっと続けさせていただいていると言う事は本当にありがたい事ですし それが多くの人達に支えられてると言う事ですし そういった支えは当然又社会に還してゆく そういう形で支えが循環してゆく 
その中の一つのポイントに自分がいるポジションを得ていられると言う事は、本当にありがたいことだとおもう 
それは母であったり妻であったり ここに出てくる作家さんも私が支えているようで支えられていると言う

コツコツと積み上げてゆく事の大切さを実感しながらやってます
ゴッホが「しかし 君はどうしようと言うのか」と問いかけたのは弟の画商「テオ」に対して テオも新しい美術の支援者だったんですね 
でも余りに時代が早くて支援しきれないままゴッホが亡くなって半年してからテオも亡くなってしまった 
絶えず時代というものは、一歩一歩どう支えてゆくかというのは、非常に難しい事なんですけれども、ピンセントの問いかけについてはいつも受け止めながら
大きな宿題を抱えているという気がします