2011年12月6日火曜日

戸田郁子(作家)       ・日・中・韓文化の懸け橋として

戸田郁子(作家 出版社経営)           日・中・韓文化の懸け橋として  
戸田さんは日・中・韓を行き来するうちにこの3つの国が色濃く関係する旧満州の朝鮮族自治州の歴史を研究することを、ライフワークにして現在も調査、、研究している
普段は韓国のソウルに住んでいる 
ハルピンに住んだのは1989年だった 
その時に中国の残留孤児とか残留婦人 日本人の方に有って話、 朝鮮族の人達と話す
日本と深い係わりがある、満州という時代はまだ終わっていないんだと気が付いた
昔を引きずりながら生きていらっしゃる朝鮮族の方たちのお話を拾い集めて本にしたものです 

 「中国朝鮮族を生きる旧満州の記億」
最初中国の歴史に興味を持っていた 
学生時代に韓国に研修に行くと言う話があって 韓国の大学生の家に泊まったりしながら、韓国のあちこちを見ると言う事が出来ると言うので それまで韓国のことを考えたことはなかったのですが 中国のとなりの国だから面白いかも知れないと軽い気持ちで1979年に旅行に行った 軍事独裁政権の時代で おっかな吃驚で出掛けたが、私が知らないことだらけで凄いカルチャーショックを受けた  それが留学のきっかけになった  
学生から日帝時代をどう思うかとの問が有った 
日本帝国時代 この言葉さえ理解出来なかった 

キム・ソンウン先生(詩人 朝鮮詩集を日本でも出版))の話を聞く機会があって どの国の人もその国の歴史を背負って生きてゆくものだと言う話を聞き 私の胸に突き刺さって 私は日本人として生まれたんだけれども、日本人の重みっていったいなんだろうと 歴史の重みとは何なんだろうかと 歴史が好きだと言いながら、何故私は其の事を知らないで過ごしてきたんだろうかと、恥ずかしさ それから知りたいと言う気持ち それが募って留学に飛びついたわけです  
日帝時代とは1910年の韓国併合から1945年の降伏まで 支配していた36年間を指す 
歴史と云うと遠い昔の事を憧れのようにしか観てなかったので、近い歴史と云っても明治維新ぐらいまでしか 興味はなかった
 
韓国の若者と日本の若者ではまったく歴史認識が違う 
韓国では歴史教科書とは別に近現代史がある 別に時間を設けて習っている
「普段着のソウル案内」 日本ではあまり紹介されていない時代であり 自分の身の回りの事を書いて日本の友人たちに送っていた  それを纏めたもの
1988年にソウルオリンピックが開催される (ノ・テウ政権下)  民主化宣言を行った
 街の中にまでデモ行進が行われた デモを認めた
通訳だとかいろいろ仕事が入って来るようになった (オリンピック特需) 
オリンピックが終わると潮をひくように仕事は一つも無くなってしまった 
ふと自分がどうしようかと考えた時に韓国から離れてみたいと思うようになった
ふっと私は中国に行きたかったんだと 急に思いだして 中国に留学しようと思い立つ 

1989年に語学留学をした
綺麗な中国語を習うのであればハルピンがいいと言われ、そこに行くべきだと思った 
韓国で「満州における抗日独立運動」という授業を取っていた
その中でハルピンはとっても重要な位置を占める場所 アン・ジュングン(安 重根) という朝鮮の人が伊藤博文を殺した場所、 ハルピン駅に到着した時にハルピン駅のホームで伊藤博文を射殺した、韓国人にとってみては聖地のような場所  そこの大学に語学留学した  
実は1989年というと天安門事件が起こった年です  
3月に行くが5月には学生たちのデモが行われ始めた 
街がざわざわしてきて 6月の頃には大学が閉鎖されてしまった

6月に天安門事件が起こっている  
3か月もたたないうちに学校が閉鎖されてしまったが 帰りたくなかった 
韓国語が出来るので朝鮮族を訪ねてみようと思った
吉林省に有る処に行く 朝鮮半島から中国に渡って行った人達がそこに沢山住んでいた 
朝鮮族自治州にエンペン大学というのがあり 朝鮮族にとっても民族大学でもあるわけです  
パク・チャンク先生が対応してくれた 朝鮮族の歴史の大家 であった
間島でおこなわれた歴史を学んでみたいと言う ことで歴史学部を訪ねてパク・チャンク先生が毎日午前中 個人教授をして下さった

どうやって朝鮮から中国に渡って来てどうやって定着したのか この地域でどんな抗日運動が行われたのか をずっと話をしてくれた 
衝撃的だったのは韓国で私は満州の歴史を勉強したつもりなのですが、実際に旧満州の地域でそこの話を聞いてみると また違う歴史があるんですね
日本でも韓国でもない習っていない歴史がここ(間島)に有るんだと 一体どういう事なんだろうと衝撃的でした
歴史とは非常に不公平なものだ 歴史は政治である 
歴史というものはその国のイデオロギーからぬけでることは非常に難しい
 
歴史家としての使命は其の政治に引っ張られずにその真実を見つめてゆく 
真実をどれだけ真実に近く発表出来るか というのが歴史家の使命である、と先生は話された 実際中国では本当に歴史は政治である 
どのイデオロギーに付くかによっても命すら奪われた時代があった  
満州の時代が終わっても文化大革命がありましたから 民族主義というのが否定されて沢山の方が亡くなってもいる そういう事も私達は知らずに過ごしている
本の帯「私達は繋がっている 時が流れても消せないもの 違う空の下でも導いてくれるものがある」 
旧満州という場所と時代ですよね そこでは日本、朝鮮、中国と重なり合っていた 
その当時は五族協和と言って いろんな民族が一つであると言う事で 、日本側から言った事ではあるが 皆が仲よくしているのが満州であり 理想の国であると言うような宣伝をされていた  
五族協和 王道楽土」 スローガンで満州へ満州へと軍人も行った  
ハルピンにある外国人の養老院に行ったんですが、そこに残留婦人の中に日本人のお婆さん達が何人かいまして、アメリカ人のかたもいますし ロシア人も、朝鮮人もいる
満州の地に残されて身内が亡くなってしまったお年寄りの人達が、其のハルピンに有る外国人養老院でみんなが暮らしているんですが、先ず日本人の人達の話を聞きにいって、朝鮮人の人とも話をしました  
養老院の院長の先生から実は昼間はいいんです 
夜になって誰もいなくなると日本人のお婆さんと朝鮮人のお婆さんが、髪の毛を引っ張りあい 蹴り合い 大喧嘩をするんです 
毎晩のようにと云う話を聞いて本当に胸を衝かれる思いでした
 
如何してなんだろうと  もしかしたら 王道楽土 五族協和といわれた満州はそんな国だったのかも知れない 
そしてその国で生きていた日本人、朝鮮人の人達が、今もその歴史を引きずりながら、自分の命が亡くなる時までずっとずっとそのいさかいを引きずりながらこの養老院で暮らしているんだろうかと、思った時になにかもう歴史を知らない私が一体なにが言えるだろう という気持ちになったんですね  
其の時から私は満州の歴史を知りたい 一体どんなことがあったんだろうか知りたい と思っていろんなひとから話を聞き始めました

私が養老院を訪ねて話をきいたのが1989年ですから (近々の話)  考えさせられた 
私は韓国に20年、中国に8年住みました  
各々の国の文化、生活を自分の身を持って知っているということで 韓国で住みながら出版社を立ち上げて、図書出版「土香(トヒャン)」  中々言葉が通じても相いれない人っていますよね 
処が本当に一言話しただけでも気持ちが寄り添える人は必ずどこの国にもいる   
不思議なことにその様な人達からは何か土の香りがすると連れ合いと話をしていてじゃあ 土の香りと書いてトヒャンと云う名前にしようと決めた
立ち上げて4年目 多文化 多言語のような本をいろいろ出版したい