2011年7月30日土曜日

有馬敲(詩人、作家79歳)      ・生活語で現実を詩に

有馬敲(詩人、作家79歳) 生活語で現実を詩に  
有馬敲詩集 20巻  スペイン・国際詩人賞 アトランチダ詩人賞受賞
1931年 京都 亀岡生まれ 敗戦 13歳の時 先生の言っていることが逆転した 
世の中が信じられなくなる 書き残しておくべきと判断
思いついたことを紙に書いておくようになった  兄たちの本を読むようになる
同志社大学に入る 詩をつくるようになる 
新制大学の1年の時に文学研究会の発起人になり、立ち上げる 兄の勧めもあり、経済学部に入る 同人雑誌に作品を発表するようになる 就職は京都銀行に行く 銀行員、文学、詩人の葛藤があった 
しかし何か仕事を持ちながら詩を書いてゆくのがいいと思うようになる 結婚し、子供が生まれ、こどもとの会話の中から 童詩が出来てきた→若いフォークグループの人がそれに曲を付けて歌いだした  
ジャック・プレーベル(詩人であり脚本家)に手紙を出した 難解な事を単純化する手法が素晴らしい  
中川五朗高田渡とか詩人たちも「ほんやら洞」に来てくれたりして、接点があって自作詩朗読と言うのが独特にあちらこちらへと行った
「帰ってきた酔っ払い」 北山修 加藤和彦 端田宣彦が突破口を開く 
高石ともやの「受験生ブルース」、岡林信康の「山谷ブルース」 関西は当時活気があった (北山修 『戦争を知らない子供たち』『あの素晴しい愛をもう一度』『風』『花嫁』『白い色は恋人の色』『レッツゴー!サザエさん』などの作詞でも有名)  
(加藤和彦 1990年代からは歌舞伎音楽を手がけ、「歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた」と市川猿之助 (3代目)に言わしめた)
(端田宣彦 フォーク・クルセダーズの一員 、「はしだのりひことシューベルツ」や「はしだのりひことクライマックス」「はしだのりひことエンドレス」のリーダー)
1970代前後 高田渡は東京に住んでいたが途中で京都やって来て、フォークキャンプ 
私の詩に曲を付けてくれた  

子供の為に作った童詩の詩に関西フォークグループの人達が曲を付けるようになった 当時、思想が反権力 物事をパロディックに考える 
一つの権威があるけれどもそれを裏返して考える そういうものがお互いに響き合った オーラル派 関西フォーク、自作詩朗読が東京文化と違う自作詩朗読  
銀行員生活をしながら、土、日、休みをとったりして、キャラバンしたりしていた 
1977年支店長からある菓子会社に転職(取締役)することになる 銀行員としてハードな仕事をやって行っていいのか 考えている中 型破りの専務がいて、ベンチャービジネス、銀行員の発想以外の仕事をしなくてはいけない  
開発業務をしていた当時の上司であった 
日記を付ける  鱗三・・・同志社文学研究会時代に講師として呼んだことがある  
当時文学で身を立てたいがどうしたらよいかと椎名麟三さんに聞いた処 「日記を付けることです」と簡単明瞭に答えが返ってきた  
社会へ出てからずっと日記を付けていた しかし発表する場がなかった  
 
椎名(1931年(昭和6年)に特高に検挙されたが、獄中で読んだニーチェ『この人を見よ』をきっかけに転向し、文学を志す。戦後『深夜の酒宴』(昭和22年))で登場)
このノートは墓場まで持ってゆくしかないかと思っていたが、生き恥をさらす思いで、それを今までだしてきた それが20巻
会社に居る頃 サンフランシスコ、モンゴル等に行き 海外へ目が向けられるようになる 最初 韓国のソウルに 詩人大会があり ゆく  
ロッテルダム国際詩祭はノーベル賞クラスの詩人たちが来る 
そこで直に言葉を交わすことが出来た  
1998年コロンビア 大規模で5000~6000人が野外音楽堂のような処へ詩人たちが集まってくる 単に詩集を読むだけではない ノーテキストでやったりサウンドを聞かせる 日本の詩の集会は発表会 (棒読み、棒立ち) パフォーマンス、演技がない  
 
アラブ バクダット イラク戦争の直前で飛行機がバクダットに飛ばない 
ヨルダンからタクシーで10時間以上かかってたどり着いた
バスラ大学で詩の朗読を行った 「広島の鳩」 
日本から詩人が来たというので偉い歓迎された 詩と国際交流が必要だと思う
生活語詩  普段着で詩をつくる (普段使っている言葉で)  
詩というと高尚ですなあ が一般的だが、敬遠されている
自分の普段使っている言葉で詩を書く つまり言文一致の詩  
生活語を使ってゆく (方言語も生活語の中に包含される)

「蝉」・・・自分、 時間 自由の三文字で作った詩
ジブン ジブン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ジブン
ジカン ジカン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ジカン
ジユウ ジユウ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ジユウ(蝉の鳴き声のように朗読する)

2011年7月29日金曜日

岸谷五朗(俳優)         ・秀吉をどう演じたのか 2

岸谷五朗(俳優)     秀吉をどう演じたのか 2
劇団にいた時に貧乏だったので、まえせつ TV局の仕事 お客さんを入れてTVの収録をする時に、本編を始まる前にお客さんをなごませる事を3人でやったいた  
お客さんの前に立てるし、弁当を貰えるし、お金ももらえる   
3人でなんかやろうと考える(コント番組に出て優勝したら賞金がもらえる) 
コント番組が有ってそこで初代のチャンピオンになっちゃた(10週勝ち抜き)  
そうしたら1時間番組をもらえたりした そこでドラマを作った 
自分たちは俳優の為に稽古をしている 芝居が始まると制作の方はそっちのけになってしまう  
寺脇康文氏との出会いがよかった 彼は一期下 
最後まで稽古場で朝方まで飲んでいた そんな仲だった 馬があった  
地球ユニットを寺脇氏と作る 劇団にしなかった 
地球ゴージャスを作って16年ぐらいになる 劇団で10年劇団の良さを学んだ   
脚本を渡して早くこなしさっと云う間に出来る チームワークがいいから  ・・・実はその脚本を限られたメンバーでしかできない劇団 それが小さい事だと云う風に、見えてきてしまうとその脚本で日本中から集めて出来ないかと言う展開になった  
寺脇氏との2人以外は日本中から合った役者さんに来てもらおうとの立ち上げであった
ユニットは劇団に比べて安定さはない 劇団時代に2日で出来た事が一カ月掛ることもある 
ただ出来ちゃった後の可能性が無限大にある  

劇団だともうひと伸び出来なかったりする 
書く力全く違った生き方をした人を集めてくると整うまでは大変だが、一度整ったらそのあとそれが、化学反応を起こして破裂する可能性が凄くある ・・・いい芝居になってゆく 自分が演出した、たくらんだよりも無限に広がってしまう いい可能性がある  
もう一つの演劇の可能性を見つけたかった 
劇団、全て学んで、自分の中で凄く満足している 
不満で出たのではなく、大満足して劇団を出た
 
寺脇氏とは25年芝居をしている 考え方は合っている
地球ゴージャス 1タイトルで10万人を動員している 演劇を作って出演  
だから演劇=自分でつくるもの 作ることは大変だった
劇団を止めた時は本当にさびしかった (2人 寺脇氏と) 明日生きてゆくことが怖かった  
自分たちが大きくなる為のステップだと考えた(安定性をあえて捨てた)
「月はどっちに出ている」映画 映像には興味がなかった 
オーディションが有ってまあ行ってみようかみたいな感じだった   
主演賞、新人賞等総なめ 演劇でやる芝居が一番難しいと思っていた 
ずうずうしく映画の世界に入っていったのでそれが逆に良かったと思う
 
映画のやることの怖さは無かった 
「8日目の蝉」NHK  寡黙な目が好き(司会者 言) 
以前は黙っているだけで存在感のある役者はいた  
うまい役者程動かない 何もしゃべらないからこそ歩いているその人を見て漁師に見えないといけない(漁師と一緒にいさしてもらい漁をして着物は本物 魚臭い)
映画監督もする 物をつくるのが好き+自己表現  
三国志の一部「赤壁の戦い」を劇団エグザイルの演出をする 
映画「夜明けの街」東野 圭吾氏小説の映画化
中国後漢末期の208年、長江の赤壁において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである  

(『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利だった。疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した」と書かれている)  
地球ゴージャス これまでに11公演  岸谷が全て演出 
ブロードウエーに行き稽古を受け(ジャズダンス、タップダンスとか)その合間にブロードウエーの劇を全部見る
演劇 台詞は言霊となって消えてゆく 
その瞬間瞬間の芝居はもう二度と見れない生の芝居が魅力  演劇は消えてゆく芸術  
消えてゆく芸術にすべてをかけるのは非常に贅沢であると思う  
全く同じことをある東京の美術館の館長がいっていた 
展覧会と言うのは放送や生の舞台と一緒です 
展示されるけれども期間が来たらこの展示は全部無くなる  
だからどれだけ期間中に来てくれるお客さんに一点一点の作品トータルな展覧会を心に刻んでもらえるかが勝負です 同じですね

演劇はどんなに稽古してもお客さんがいらっしゃらなかったら、出来の完成度は60%もない 
お客さんが入って一緒に空気をつくってくれたことで100%、120%になる  
震災 俳優と言うのは本当に無力であると云う事を知らされた 
一枚のがれきを映画が映していた(阪神大震災)あつまって笑顔でその映画を見ていた 
これだなあと思って ほんの少し余裕が出来た時には笑顔を、心の栄養を渡せる職業じゃないかなと思った  
我々は人々の心を豊かにするもの=地球ゴージャス ネーミングする  
フットワーク良く演劇をつくろうと始めた(いつも最終公演だと思ってやっている)
仲間と酒を飲んでいるぐらいしか趣味はない 運動は万能タイプ   
作品作りで信じているのは「飢え」なんです 何に飢えているのか 
飢えている方に行かないと多分駄目 飢えているところに行かないとそれを乗り越えられない 満足してしまったら駄目 ここがうまくいったからもう一回やってみよういうのは駄目 
常に飢えている事が大事

2011年7月28日木曜日

岸谷五朗(俳優)         ・秀吉をどう演じたのか

岸谷五朗(俳優) 秀吉をどう演じたのか  
利休切腹・・・ドラマの中でも大きな山場
「江」のなかで狂気じみた世界に入ってゆく 
鶴松の死を境に,非常に変わっている秀吉像だった (大河ドラマ) 
緒形拳 西田敏行とは意識しなかった 脚本にしっかり従ってゆこうと思った 
寄り添わないとひずみが出来てしまうと思う  
その役と共存しながら一年を共に生活する 
一生懸命役をこなすうちに役がわたしを追い抜いて行ってしまう 
岸谷五朗は許しても秀吉が許さないと云う風な事  

演劇の場合は一日で表現する 連続ドラマの場合は其の人の一生を長い時間をかける
休演日にその時間になるとばーっと汗が出てくる
ワンカットずつ綺麗に撮ろうと云う姿勢  女性が多い 
全ての世界に囲まれている時がある その時男はなにもしゃべれない 割り込めない 
俳優は集中している(東北大震災時に撮影中  続けていた)  
上野樹理 なまなリアクションは出来る人  
クランクアップするとぱっと頭からいなくなる(秀吉像) 
からにして、又新しい登場人物と出会うというのが俳優の仕事

子供の頃はそとで遊びまわっていた 
19歳で劇団に入って 学生の頃から器用貧乏で直ぐ飽きてしまう状況だった  
ある時俺は舞台俳優になるんだったとふと思ってしまった 
子供のころから母が演劇に連れて行ってくれていた  
点が線で結ばった感じであの舞台の感動を人に渡したいと 思った→何の迷いもなくこの道に突き進んだ
劇団に入ったはいいけれど、演劇の勉強をしてなかったので、演技ができないので役に着かない
こんな難しい世界があるんだと思って吃驚した 
出来ないからどんどんのめりこんでいった

20代~30代が最も忙しかった 
朝までアルバイトをして2~3時間仮眠をとったら直ぐ稽古にスタートして、劇団外の稽古(自分で金を払ってジャズダンスとかバレイとか)
劇団に行って芝居の稽古して10時とかに終わってそのあと又アルバイトに行く
(公演本番になるとアルバイトはできない・・・金は無い)
冬 東京では寒くて夜中コインランドリーで隅っこで良く寝ていた 
(暖房器具が全くなく 凍死するかもと思い) 止めようとは一度も思わなかった
20代の経験があったからこそ今の芝居が出来ている  

目指すべき自分の太陽に走っているとき、周りの景色は真っ暗 太陽に近づいて行ったときに、振り向くとその太陽に照らされて色鮮やかに全部見える
こんな色してたんだこの落ち葉はとか、こんなきれいなブランコがあったんだとか、色鮮やかな原色が見える・・・役者としての財産になっているのではと思う
がむしゃらに稽古してきたことが、多分振り返ったら全部僕の力をくれている  
又見えないところを目指して走りだす
ミュージカル、新劇等母が連れて行ってくれた・・・そのことが下地になっている 
それがなかったら今はない
家は貧しかった 母はチケットを買って外で待っていた 
(俳優にさせたいとかは思っていなくって、感動を子供に見せてやりたかった)

2011年7月27日水曜日

石田陽一(酪農家27歳)     ・若い力で“まち”を変えよう 2

石田陽一(酪農家27歳) 若い力で“まち”を変えよう 2  
フォルスタインを多い時は50頭 現在は44頭飼っている
2008年6月から石田牧場で働き始める 
幼稚園からの見学が2~3回/月 ある  290の牧場で実施している(全国)
神奈川県で経営をしており、宅地化が進み経営拡大出来ない 
牧場周辺には人がいるからこそ北海道、海外に負けないと思った 北海道は大規模に酪農は出来るが、北海道は人口密度が少なく、圧倒的に神奈川県の方が人に出会う機会は多い  
牛乳を飲んでもらっているのは人なので生産と消費が分離されている 何リットルでいくらと乳業会社に売っていて、消費者のところまで考えが回らなかった  
ひとりでも多くの人にどのように牛が生き、人が働いているか、牛乳が出来るか知ってもらいたい・・・神奈川県の酪農家の使命だと思っている
子供たちに伝えたいと思った・・・次の世代に伝えて行ってもらえたらと思う  
子供たちと接すると、毎回勉強させられる 

考えてなかった質問を貰う     子供から学ぶことが多い  
仕事に対する意味も違ってきた 
赤ちゃんを育てるために牛乳が出ることを判っていない人もいる  
牛は10歳ぐらい生きれば大往生と言える 
雄牛は2歳になると食卓に、10歳になった牛は食卓へ、或は皮としてランドセルになったりする  
こういったことも幼稚園、小学生に説明している
食に関しても説明 皆が食べているは全て生きていたもの 
皆が生き続けられるためには、食べ物を食べ続けなくてはいけない  
だから食べ物を頂くと云う事は生命を頂くと云う事 「いただきます」と言う言葉はすごく大切な言葉で 牛さんありがとう 豚さんありがとう、と言う意味が込められている 
お母さん、給食のおばさんが丹精込めて作ってくれた食べ物は残さずに食べよう それが牛さんに対するありがとうだよ、ちゃんと説明すると子供は理解してくれる
 
観光牧場にはしたくない 牛の命と向き合っているプロの人達の姿を見せたい  
酪農大学に入学し、北海道にいき、広さ、規模に吃驚した  
卒業後ニュージーランドで(酪農王国)一年間働く 2600頭 700ヘクタール を13人で見ている  
牛舎がない 外で放牧されている
草の生育具合を見ながら、牛を移動させる  日本と180度違う カルチャーショック
日本の酪農の場合 牛の為に 食べ物を用意したり、糞尿処理したりする  
ニュージーランドの場合は装置を維持するために牛を置く感じ  
土地を買って酪農を経営→買った土地よりも高い価格で売却する  
そしてまた牧場を移して行く 
自分の買った土地をどのようにして価値を上げて行くか 
維持更新してゆく為に牛が必要になる 牛が手段  
ニュージーランドの穀物は100%自給 効率的 
 
では神奈川県ではどうだろうと考えたのが、人との交流だと思った  
街の一部として牧場があってくれたらいいと思う  
社会と繋がることが理想  牛のベッドにペーパーシュレッダーを使っている 
従来はおがくず 10万円→0円 コストを抑えることが出来 、資源の再利用に貢献  
牛乳を加工してお客さんに届けたい 
ジェラート 近隣の農産物+牛乳の加工品 ・・・地域に貢献

2011年7月26日火曜日

岡部智彦(地域再生伝道師)    ・若い力で“まち”を変えよう

岡部智彦(地域再生伝道師34歳) 若い力で“まち”を変えよう  
横浜・寿町 空き部屋が目だつ簡易施設をホステルに替え、安い料金で提供している事をパソコン等で発信し、外国人や若い女性が訪れるようになって街の雰囲気が変わった
2004年から寿町に係わり始めて7年になる  どんな地域かと言うのは聞いていた 
建築を大学、大学院でやっていたので緑化のプロジェクトを知る
ある人を介してNPO緑化プロジェクトを知る ちょっとおっかなびっくりと言う感じはあった 株式会社を立ち上げると云う話があった  
当初建築設計事務所をやろうと自分では思っていた
 
簡易宿泊所が沢山ある街 古い建物も沢山ある 
東京の山谷 大阪の釜ヶ崎地区 横浜は寿町 といわれる
(戦後に出来た地域 、日雇労働者の宿泊施設)
2005にスタート 当時から空き部屋が多かった 1500室ぐらい空き部屋があった 
今後もっと空き部屋が増えてくるのではないかと判断
山谷ではワールドカップの時に外国人を受け入れていた、寿町でもこの様にやっていけないかなあと考える

オーナーさんとパ-トナーシップを組む形で横浜ホステルビレッジとしてやり始める
治安さえよければ外国人はあまり気にしない 若い人も寿町に関してあまり知らない 横浜はいろいろなイベントが行われている 
鎌倉、箱根、東京等観光地に対して地の利がいい  日本人の宿泊利用者が6割を占める  
宿代を安く抑えて観光に行ったりが多い 狙いは若者、外国人  
アーティストも関心を持ち始めた 10数名宿泊している
空き部屋にも手を加えインターネットで発信し、宣伝活動 地域にある資源  
200m四方に2000人が住居している →選挙の票田 →政治家との関連・・・選挙のキャンペーン実施(投票案内等)
普通の地域は子供から年寄りまでいる 多様性が必要
  
ホステル→安い宿 リピートしてきてもらう
淡々とやっている中で変わっていく 劇的なものではない そういうものは望まない  
徐々に変わってくればいい
インターネットでプロモーションをやろうとホームページを作る→最初に1~2週間で香港から予約がくる  その後世界70カ国に及ぶ
泊る+仲良くなる (交流したい)ことをアレンジすることに関心がある 
いろんな人と接することが出来る事が一つの資源  
この街は個性があると思う 怖いというのも一つの個性、特徴 下町の人情みもある
ずっと持続させてゆくのが必要 
綺麗になったのが成功したとは言えないのでは
個性が積み重なって新しい何かが生まれるのでは
世界と繋がる一つの街になってくれたらいいなあと思う

2011年7月23日土曜日

浜村淳(タレント76歳)        ・浜村節ができるまで

浜村淳(タレント76歳) 浜村節ができるまで  
昭和49年~続いている 38年目  6回/週
昭和10年生まれ 60日後に父が上海に移転となってしまい父母とは別れて、叔母に育ててもらう 子供のころは ラジオ、映画、芝居、蓄音器が娯楽であり、とにかくラジオの時代だった 8歳のときに戦争が激しくなり、10歳で終戦  
戦後のラジオの思い出となる番組としては、「鐘の鳴る丘」、「君の名は」「武蔵」 徳川夢声の間に取り方が抜群にうまかった    間とは魔である・・・市川猿之助  
同志社大学の放送部にはいる→ジャズ喫茶で司会(アルバイト)→渡辺プロダクションからスカウトされ同社に入る
「ザ・リクエストショー」ほか歌の司会   
歌の前に歌を理解(どのように作られたのかとか、その歌に関するエピッソード等)してもらう事が大事だと判る
歌謡ショーは7-5調がいいかなあと思う
渡辺プロダクションのとなりが東宝演芸場だった 名人会ばっかりあり 
桂文楽古今亭志ん生三遊亭円生柳家小さん師匠等 伝説の名人の舞台を年中見られた
話芸が良かった 勉強になった  
桂文楽はエー、とかアーとか絶対に言わない→師匠に楽屋裏で聞いたことがあるが、その師匠に円馬という人がいる その人から教えてもらう
お前に芸をつけるけれども、真っ赤なおはじきを手に握るよ お前がエー、と言う度に投げつける 一席話終わったら、周りは赤いおはじきで一杯だった
それが段々半分になり、1/4になり、10個になり、最後には無くなった そうして文楽は直した
当時 無声映画の弁士は7-5調でやっていたが、普通のしゃべりでやっていたのは、徳川夢声のみ
あの人は普通にしゃべっており、夢の中にいるよう聞こえ、頼りない、と客が云ったので芸名が 徳川夢声となった
夢声は、映画はきっと近いうちに音が出るようになるので、弁士は職を失う ほかでも使えるように普通のしゃべりで通した(他は7-5調)
これが成功し、ずっと仕事を出来るようになる 
歌謡界の司会者の変遷 代表者 宮尾隆→玉置宏  段々と臭みがなくなってスマートになった
その後曲名しか言わなくなってしまい それでは寂しいと云う事で 総合司会 宮田輝 歌の紹介を私が担当した(大阪のTV局 7-5調でやってほしいとの要望)
いろいろテープ等で歌を聞いて勉強する  
実際7-5調でやって見ると歌手から歌いやすいと好評だった
紹介内容は全部自分で作る  
街角の標語は全部7-5調  歌舞伎の台詞も、俳句、短歌全て7-5調
私の話方は字に書けば標準語、聞いてみると発音は関西弁・・・草分け
ゆっくりしゃべるように心がけている ラジオを一口で言うと説得のメディア  TVは映像のメディア 言葉で説得して、説得して聞く人の目の前に映象が浮かぶように持ってゆく ・・・特徴であり、魅力  
10人聞いたら10人とも少しずつ思い浮かぶ映像が違う・・・これが楽しみだと思う 淀川長治さんのしゃべりは高見の目線に立っていない・・・すばらしい  
話す側としては、如何に判ってもらえるか、自分だけ判って話しているだけでは駄目 
聞いている人 全ての人が判ってもらえるようにしゃべることが大事

2011年7月22日金曜日

鈴木昭一 (クリーニング店)     ・ しみ抜きは究極のクリーニング

鈴木昭一 (クリーニング店)               しみ抜きは究極のクリーニング  
クリーニング店は八王子 全部で150軒
古いしみは作業に時間がかかる  職人の手仕事になってしまう
22歳で戦後直ぐ親の手伝いから始める  
八王子は絹織物の産地  花柳界が繁盛  200人近い芸者が当時いた
芸者が宴にゆき、そこで酒とか醤油でしみを作り、その和服のしみ抜きから始まる
しみ抜きの研究会が出来上がり、全国に行くようになる 
そこで先生は講義のみ、実技は私達だった

恥をかくといけないので、一生懸命どうしたらしみが抜けるのかを勉強した
京都の反物屋から白い布の反物を安く購入し、30cm角に切って、それにいろいろなしみを付け、1カ月ぐらいしてから、そのしみを抜く事を,いろいろやり、それが自信ににった  
今でもその研究会は続けている  
絹糸は1000本ぐらいの細かい糸が5~6本集まって、一本の絹糸になっている
絹織物のしみは細かいところに入り込んでしまう  
ちょっと擦っただけで何本か切れてしまう  
切れたところはちょっと角度を変えると他と微妙に違ってしまう

絹の織物は非常に難しい
汗のしみは乾いてしまうと判りずらい 
3年ぐらいすると黄変してしまい目に見えてしまう(酸化する)
基本的にしみは水性(酒、醤油、ジュース等) と 油性(油が使ってあるもの)の 2種類に大別されるが、最近はいろいろ混ざっているものが多い
しみの種類が増えてきている(食物、および調味料の種類が増える) 
又繊維の種類も増えてきている(ナイロン、レーヨン、ウレタン等)
しみを取る作業としては、まず素材が何で構成されているか、の確認が必要である
(タックに通常記載されているがタックを取ってしまう人がおりその時は困る)
 
ナイロン系統は難しい ある程度熱を加えなとしみは取れない
超音波洗浄は有効に使用している (昔はブラシで軽くこすったり、揉んだりしていた)  
超音波洗浄は生地を傷めないで取る事が出来る
洗剤の調合もしみ抜きの効果を左右する
フランスからしみ抜きの方法を教えてほしいとの話が来た→フランスで日本人が和服を着て日本大使館のパーティーとかに出席して、しみを付けてしまい、フランスでも有名なクリーニング店に持って行ったが、和服を見ただけで難しい事が判り、シミ取りを拒否された事あり 店のアルス・アタリ?さん(女性)が、日本に来て私に技術を教えてほしいと云って来たので、その技術を教えた→フランスにて展開、非常に喜んでいる
 
お客さんに喜んでもらえるのは私らの使命だと思っている
最近、息子に家業は譲ったが、難しいしみが来るとニッコリ笑ってから始めるようになった 
(しみを取る楽しみが自分にある)
絞りの高そうな着物がたんすにしまってあったが、雨にぬれたのかしみがあり25年以上たっているそうで、それが持ち込まれ直せないかも知れないと、ことわったが、着物がだめになってもいいからやってみてほしいと云われ、引き受ける  
絞りが延びてしまうと元も子もないので テストに1カ月掛り、抜くのに2カ月掛ってしみ抜きをする 
新品と同様にすることが出来た お客さんは大変喜ぶ
お客さんの喜ぶ姿を見ると、仕事の生き甲斐を感じる


2011年7月21日木曜日

青山潤(特任准教授)      ・日本のウナギ 世界のウナギ2

青山潤(特任准教授)     ・日本のウナギ 世界のウナギ2
日本のウナギ資源はどうなっているのか ヨーロッパウナギも日本が食べていた
東アジアウナギ資源協議会(日本、韓国、台湾、中国等)を立ち上げ 
ウナギの資源を守ってゆこうと云う活動も立ち上げる
東アジア領域のウナギの資源がどうなっているかを各国が協力して進めようとしている
日本では資源の調査と言う事で相模川を新月ごとにウナギ調査進める 又NPO 
種子島、宮崎、台湾等で同様の調査を始めている

資源を守る為には 川から産卵場へおりてくるうなぎをまずきちんと保護する 
確実な方法であると思う→川の中の環境を守ることに繋がる
まず東アジアのウナギ資源データをしっかりと集める
聖域みたいな川の領域を作ってその中のウナギを絶対に捕らない(産卵場への確保) 
その発展系として東アジアに楽園のような川を作っていけたらいいなあと思う
青年海外協力隊員だった 

南米ボリビアに青年海外協力隊として派遣されていた その時やっていたのは「虹ます」
チチカカ湖 世界で一番標高の高い大きな湖で虹ますを作って、アンデスの山の中に氷河から
流れ落ちた水が溜まったような大きな水溜まり(湖)がある
標高5000m そこには何もいない(プランクトンはいる) チチカカ湖で作ったニジマスの
子供をその湖に放す 育ったニジマスを売って集落の現金収入にしてもらおうと活動した
現場で仕事をしていると、大学で得た知識などまったく通用せず、自分の無力さを痛感
する様な事がたびたびある

帰って来てもっと勉強しようと 東大、大学院に入学をする 塚本先生の海洋研究所に
入る 最初自分がやってきた淡水魚を希望するが、海の領域が専門の所 
当初川と海を回遊するカジカにするが(現場で通じる実力を付けたいと思っていた) 
塚本先生がやっているウナギの海洋調査に参加して面白いと思った 
塚本先生のテーマは 18種類あるウナギはどのようにして進化してきたのかを明らかにする
→ウナギの多くの種類は熱帯に分布しているので一人で行ってもらう様な事になるよと
言われ、そっちだけに惹かれた

外国に行ってそんなことやってとれるのか(当時誰もやっていなかった)
進化を調べるには遺伝子を使って進化の道筋を調べる研究方法が出てきたのでそれ
を使う事にした
解析には生きているものとか、刺身で食べれるような新鮮さが必要→出来るのかな
観光でいいから一度ウナギが捕れるかどうか見てこい→インドネシアに行くことになる 
これが第1回目の調査となる
インドネシアはウナギの種類が一番多く分布している地域である  
現地の漁師の人に協力してもらい一人で行ったが思いのほか捕れてしまった
苦労はいろいろあったが面白いいろいろな出会いがあった 

最初はバリ島でウナギを捕れた 当地でよく捕れる「タウナギ」(ウナギではない)の中に
1匹だけウナギを見つける 何とか持ち帰りたいと塩付けにして持ち帰ってきた
南アフリカを回った時→本にする 18種類目を捕りに行く トイレ、水事情とか環境条件
が過酷 その中で何とかして集めようとする情熱が凄い
フィールドサイエンス(野外研究)をやっている人達は殆ど同等かもっとひどい状況だと思う 
それを普通にやっている
マラウイ湖の漁村に行ったときに日本の女の子が一人で住んでいて話を聞いたら
京都大学の文化人類学の大学院生 マラウイにおける社会構造の研究データ
ヨーロッパで大學の図書館に行くと100年前、200年前の本が普通に手が届くところに
有って読めるが、日本では触っちゃ駄目と言われてしまう

余裕、文化の違いを感じる
成果があがらない時 しんどい 費用は税金から出ているので切り詰めるけど 
無駄飯食っちゃったと云う感じにはなる
いろんな川、雰囲気、水、環境そういったものを知っていると云うのは それに接して
例え成果がなくても自分なりに糧になっていると思う
研究は一生懸命したからいいってものではなく、成果が上がらなくてはいけない 
成果がどうなんだと云う事が大事 自己満足で終わってしまっては駄目
1種類に対して30個は採取が必要(人間でも一人を以てこれが人間ですとは言い難い
 いろいろな人がいる)

18種類のウナギの遺伝子のデータは持っているが、これに合わない子供のウナギが
捕れるのが判ってきた→いろいろ推定するとフィリピンに行っているみたい
親を探しに足掛け3年フィリピンに通う→山の中の川で新種を採取出来た(特殊な狩猟
民族がいるがその方たちが捕っているのが新種らしいとの情報得る→現地の一般のフィリピンの人から殺されるぞと脅されたが村に行く 合計11日ぐらい村で過ごし40匹捕ってもらい持ちかえる 
ルソン島で捕れた)

ウナギの旅 2000km~3000kmの移動する理由は何なのだろう

インドネシアのウナギが一番古い 古いタイプの遺伝子を持っている
ウナギの仲間にうつぼとかあなごとかはもとかいるが彼らに一番近い親戚は外洋に
いるのはのノコバウナギ、シギウナギという深海魚が一番近い仲間である
深海魚がいきなりなんかのきっかけで川に入って来ているというのがウナギの進化の
道筋でどこで別れたのかは、はっきりとは判らない
一番古いインドネシアのウナギはどこに産卵場を持っているのか、どういう旅をしているのか 
情報がないので産卵場を調べに行ったら
河口から80kmの沖合 日本ウナギは3000km、ヨーロッパウナギは6000km 
と言う物凄い長い旅をする

最初の頃のウナギは短い回遊をしていたのではないか これが進化の中で段々
広がって行って今の数千kmのスケールの旅になったと間違いなく判ってきた
しかしその理由が判らない、知りたい 今 私達はインドネシアだけでなくインド洋、南太平洋
、のウナギの産卵場と彼らの回遊の全貌を明らかにしたと思っている
ウナギを例にしていますが、動物の旅の理由を明らかにしたいというのが 究極の目的

2011年7月20日水曜日

青山潤(特任准教授)      ・日本のウナギ 世界のウナギ

青山潤(東京大学大気海洋研究所特任准教授) 日本のウナギ 世界のウナギ
<概要>
日本の海洋生命科学研究者、エッセイスト  東京大学海洋研究所行動生態研究室で、
塚本勝巳教授の下、ウナギの研究に携わる
うなぎの生態 特にどこでうなぎは産卵するのか分らなかったが、長年掛って細かく海洋
を調査するうちに 判明してきた
調査の経緯等を紹介する
ウナギの卵は今まで人類が見たこと無かった 2009年天然で生み出されたウナギの卵
を海で捕る事に成功した
船の上で遺伝子を調べウナギの卵であることを確定する  
今年の初めに英国ネーチャー誌に発表
水産庁と共同研究いろいろなデータを含めようやく受理される
今食べているウナギははぼ100%養殖ウナギ 天然で生まれ川にやってきた子ウナギ
を捕まえて池の中で養殖して大きくしている
この数年激減している  

大西洋にはヨーロッパウナギ これはほぼ絶滅にちかい ワシントン条約の対象種となる
日本のウナギも絶滅が心配で何時なってもおかしくない状況にある
人工的にウナギを作って卵から育てて養殖に回せば自然のものには手を付けない 
日本では1960代ぐらいからずっと続けられてきた
ここ数年水産庁養殖研究所 研究者たちが実験室レベルでは成功している 商業ベース
ではまだ

白鳳丸(学術研究) 海洋丸(水産庁) 4000トン 船長100Mぐらいでウナギ調査 
白鳳丸で卵が捕れた 私は海洋丸に乗っていて見ること出来ず
日本の川に入ってくるのは(シラスウナギと称される成長過程で)約半年 柳の葉っぱの
形状で透明なもの(レプトセファルス)幼生の形で海流に流されながら
グァム島近くの海流に乗って半年ぐらいかけてようやく日本の近くに来てウナギのような姿
に変えてそして川のところに入ってくる
鮭の様には同じ川には戻らない

1900年代初頭にデンマークの海洋学者 ヨハネス・シュミットと言う人が海で捕れた透明な
ペラペラの魚は何なのかという疑問から始まって
ヨーロッパウナギの子供だと明らかにして彼は半生を掛けて大西洋上をくまなく調べて1920年代
にバミューダ海域近くで産卵している事を突きとめる(6000Km)
1960年代から調査進める 日本ではマリアナ海溝当りではとは大凡掴む それが1991年
シラスウナギは冬に捕れるので卵は冬かなと漠然と思っていた (秋に台風で川の流れで
ウナギが下ってゆくのはわかっていたので)
最初沖縄の南当りと判断していた 黒潮に乗ってくるのではないかと考えられるように
なる→たまに捕れても子供のウナギとはいえ大きい(産卵場所ではない)

1970年代調査海域が段々南にずれてゆく→1980年代黒潮の先には北赤道海流があり
、そこまで行って調査する
耳石用解析 魚の内耳にあるこう組織を調べると木の年輪見たいに一日一本ずつ
リングが形成される 冬に捕れるウナギに応用してそれが何時生まれたのか
捕れた日から逆算すると誕生日が判る→誕生は冬ではなく夏だったことが判明した→
調査を夏にシフト

1991年 白鵬丸がくまなく調査したところマリアナの西側で1cmぐらいのウナギの子供が
1000匹捕れた
どうやらこの辺がウナギの産卵場所であろうと初めて判った
プランクトンネットを使って狙い目の場所界隈から生物(プランクトン、小魚等狙いはウナギの
卵)採取する
プランクトンネット:直径が3m、SUSの丸いリング長さが15m 網の目が0.5mm を海中
に降ろして1時間ほど所定の水深で引いて船上に引き上げる
中に小魚、プランクトンとか一杯入っている この中からウナギの卵とかこどもはいないかを
延々と探す

いろんな海の各点でこの作業を続けることにより、どの点で何cmのウナギが何匹、
どの点で何匹とデータが集計され図に表してゆくと全体的な様子が見えてくる
最上流が正に卵が生み出されている場所となる
1993年東大大学院に入学  日本水産学会の歴史の今一番おいしいところをやらせて
もらっている
ウナギの卵の大きさは直径 1.6mm
今回の調査 塚本先生がテーマを掲げている→ウナギが産卵しているシーンを撮影しよう
正確に ウナギが産卵する場所と時間が厳密に判らないと撮影は不可能・・・ウナギの
産卵場所の形成のメカニズムを明らかにしよう・・・テーマ

卵を持った親ウナギは捕れたことはない 産卵後の親ウナギは捕れたことはある
幼生ウナギ→卵 まではようやくたどり着いた
1992年暮 淡青丸に乗り 初めて海洋調査に参加 種子島の近くにゆく シラスウナギ
がどうやって河口にたどり着くのかという調査目的 10日ぐらい
世界に18種類あり 最近われわれが新種を見つけて 19種類ある  
2/3が熱帯域に生息している

日本ウナギは産卵場が判っているが他は殆ど解っていない
インドネシアにはセレベスウナギ、ボルネオウナギがいるがインドネシアと日本が
共同してインドネシアのスライシュ島の北当たりに産卵場があると判定
アナゴも産卵場は全くわかっていない 「ノレソレ」は春捕れるがちょっと前の時期にいくら
プランクトンネットを設置しても全く捕れない
全世界の7割が日本で消費されている(日本はダントツ)

デンマークのヨハネス・シュミット ヨーロッパうなぎの産卵場所をある程度特定した人 
半生をかけて大西洋上を調べ明らかにした
生物学の教科書のコラムに乗ってた→海洋学のロマンと言うか一人の人が一生をかけて
広い海から探し出した
普通ある魚を研究している人はイワシ、サバ、アジ等もやるし、ある領域の魚類に
関する研究する

ウナギを研究する人はウナギだけになりがち、世界的にもそうみたい 
不可思議な魔力みたいなものがあるんじゃないですかね
効率が叫ばれている中でとんでもない時代錯誤が許されている(幸せだなと思う)
ウナギの産卵は新月に行われる 日本から2000km産卵場まで泳いでいく 
(川を出るときには消化管がどんどん退縮してえさを喰わなくなる
肛門も閉塞してしまう)そんな旅での産卵なので多分一回の産卵の後に死んでしま
うのだろうと思っている

ウナギって汚い泥臭い夜行性の魚かなというイメージもあるが真っ青な太平洋のど真ん中 
透明度が何十mもある海で泳いでいると思うと
物凄いギャップを感じる 熱帯域に分布しているウナギがアイスランドとか北極圏にまで
活動している
赤道から北極圏まで 山の川から太平洋の水深何千mと言うところまで 
これが全部ウナギの生活圏だ・・・一体何なんだろうと思う
塚本先生の仮説  ウナギは月のない新月の夜にマリアナの海山で産卵する
  海山:3000m程度の深い海にある山 富士山ぐらいのものまである
(海面から9mぐらいが山頂)

海山 産卵の目印にしているのではないだろうか 深海で産卵していると云う話もあるが
、実はかなり浅くて200m前後ではないかと言われている
 アフリカ大陸の東岸から東太平洋の島々,北は日本までのウナギ属のなかで最大の
分布域を有するのがオオウナギ
 ミトコンドリアDNAの調節領域と,核DNAのAFLP解析により,オオウナギには,5つの
遺伝的に異なる集団があることが明らかになりました

 この5つの集団のなかでは,北太平洋集団が最も古く,ここから他の集団が分化して
きたものと考えられました
 オオウナギは,今,種分化の途中にあるといえます
北太平洋集団 南太平洋東部集団 南太平洋西部集団 インド洋東部集団 
インド洋西部集団

2011年7月19日火曜日

嶋田しづ (画家87歳)       ・漂えど 沈まず 油絵・・・パリ

嶋田しづ (画家87歳)     漂えど 沈まず 油絵・・・パリ  
<概要>
大正12年 樺太 サハリン生まれ  
昭和13年家族全部東京 中野に移る 
1942年女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科西洋画部卒業 
その後絵だけでは満足せず早稲田東洋美術史に入学
1958年渡仏。パリにて個展、グループ展、フランスのサロンに招待出品
(サロン・ド・メ、サロン・ドートンヌ等)。
1971年第3回絵画国際フェスティバル展(カーニュ=シュル=メール美術館)招待出品、民族賞  1978年帰国   パリ時代の経歴等を話す

良き先生に出会う  「常に自分を磨け」 「常に先を向いて仕事をしなくてはいけない」
学徒出陣 ・・・「残った人間が何かを後に伝えなければならない」と言う気持ちが一杯だった
美学をやっても哲学をやっても自分に才能がないことが判り、絵があっていると云う事を確信する→油絵の道へ
1955年二季会展で新人賞 1956年優秀賞 1957年(34歳)二季会最優秀賞 
1958年パリに留学 1~2年で帰るつもりだった
横浜から船で45日 言葉も問題 本格的には勉強してなかった  
誰も知らない中を何とかやってゆく
エッフェル塔の向かいに住む その後20年間日本語を一度も話したことはなかった
「ゴールド・パリ」でその間仕事をしてきた 
パリに来て一番最初に見た絵はルーブルに向かってゆくと「ジュドポーム」という美術館があって
(今は国立写真美術館)アンリ・ルソーの54歳の時の作品「蛇使いの女」それを見た時涙が出て、涙が出て止まらなかった
 
芸術というものは、やっぱりこれほど人に感動を与えるものかと思った
(パリに来てよかったとつくづく思った)
言葉は片言でも絵が良ければ尊敬される 当時日本人女性はいなかった
何じんでもいいから絵で勝負したいと思っていた 1956~1960年代が最高だった  
パリには当時世界の文化人が集まって来ていた
グループ展とか個展とかを開いたりひと旗あげるためにはいろいろサロンに出掛ける  
1971年海外国際フェスティバル展の民族賞受賞
10年ぐらいたつと壁にぶつかる マンネリズムに陥る  
これを破って次の世界に進むのは辛い 皆エポックを切り開いて新しい世界に入ってゆく
一過性のものではなく、自分が続けることによって、切り開いてゆける

それが本当に絵画を通して人々を感動させるものなんじゃないでしょうか
1978年日本に帰ってくる どこにも属さないで描いている
「漂えど 沈まず」・・・パリで見付けた言葉 自分の性格とも一致する 
散々咀嚼しながら一番いい方法で自分の進むべき道を考えながら仕事をするという意味
矢張り人間は作家であっても純粋な気持ちでもって仕事をしなければ、恐ろしい事に必ず作品に出てくる
2~3点見るとその人の体質が見えてくる
絵画もうまいだけじゃ何の足しにもならなくて、人間の心の泉というか それが自然に出てきて知能と技術が非常にナイーブな気持ちが、そこにダブるようにそこに集中されてこそ、人が本当に感激するんだと云う事が私の経験から人の絵を見ると判る

親から頂いたDNAの有り難さもあるし、自分が無理をしない 
食事においても節制して 適当な運動をして 頭を絵だけじゃなくいいと思うものは、絶対に音楽であり、文学であり 演劇であり 映画でも良い しょっちゅういいものを身につける 
自分の好きなことばっかりやってたんじゃいけない  
苦手なものは苦手なように切磋琢磨して自分の中に取入れて 人間が如何に素晴らしく 収容力と言うかそういうものを持つことが、絵画を通しても通じねばならない  
そうじゃないと絵を描いている張り合いなどない  
出来る時に出来るだけの一番いいことをやろうと思っている

2011年7月16日土曜日

佐藤幸男(78歳)        ・チェルノブイリ原発事故

佐藤幸男(78歳)    チェルノブイリ原発事故
元広島大学  原爆放射能医学研究所 所長
広島原爆の事、 チェルノブイリ原発事故とその対応、影響  福島原発事故 等の比較
1986年ウクライナ チェルノブイリで原発事故発生 放射能はウクライナだけでなく北に接する
ベラルーシ共和国等にまで広がる
50~60回放射能医療調査・支援に行っている
昭和8年生まれで12歳までソウルに暮らしていた 終戦後引き揚げてきた 軍国教育を
受けて軍国少年だった

北海道・日高で宮内庁領地内で12~19歳まで畑仕事をしていた  
作物はバレイショ、トウモロコシ、カボチャ、アワ、ヒエ等 この間学校には行けない状態だった
親戚を頼って広島に行く(親戚は医者) 検査助手の仕事をしながら、定時制高校へそして
広島大学へ(一般の人よりも5年遅れ)
学生時代は原爆に関する医学的講義は無かった 広島大学に原爆放射能医学研究所
が終戦15年経ってから出来た
卒業1年前に出来た 卒業後その研究所の血液内科に入る 
昭和40年ごろで 抗がん剤が出始めたころ 白血病(今は80%ぐらい直るようなってきて
いるが)は当時20%そこそこ

妻は被爆者(親戚の医者の紹介により結婚) 1年間血液内科で研究 →遺伝子優生学部門へ
(岡本先生→亡くなった奇形赤ちゃんの解剖)
目的とするところは被爆の影響が次の世代にどのように現れるのかと言う事で被爆されて
婦人から人工妊娠中絶とか自然出産で亡くなった赤ちゃん
を集めて解剖をするという仕事 40年近くやっている 他にマウス奇形の調査
アメリカ ABCC 原爆障害調査委員会 被爆者の後遺症とか調べる機関 
今までない子供の血液異常に気付く・・・白血病が増えている
ABCCは調査をするが治療はしてくれない モルモット扱いされていると苦情が殺到する
本当に被爆していないから、被爆者の気持ちは判らないだろう(妻からも言われた)

チェルノブイリに行った時にドイツのジャーナリズムが貴方はチェルノブイリをオープンラボラトリーとして
開かれて実験室として来たのかとの質問あり
私は広島から来たけれども広島の原爆とチェルノブイリは違う 当然影響も違う 
私は広島から学べないことをこのチェルノブイリから学びたいと答えたら
ようやくそのジャーナリストは納得してくれた
1986年4月26日 25年前 チェルノブイリで原発事故発生
1990年6月に初めてチェルノブイリに行く キリスト教支援団体からの要請が各国に有
チェルノブイリの問題は単にロシアだけの問題ではなく、全世界の問題であると開催者が挨拶
で力説した  広島も同様でありもっともと思った
小児甲状腺がんの多発があった 事故から5~6年後に増えてきた (20例→50→500→
数千人に達する)

広島では小児甲状腺がんは稀である
ベラルーシ国立ミンスク遺伝性疾患研究所のゲナジーラジウク所長と共同論文をだす
「チェルノブイリで原発事故による遺伝影響についての長期的研究」
セシウム137汚染 即刻退避区域の妊婦と幼児の染色体異常頻度が1986~1988年に
著しく増加した  人工的流産胎児と新生児に認められた
発達障害の頻度が著しく増加した 1986年4月26日(事故当日)~30日に最も放射線の
強かった地域にいた母親から生まれた子供に
ダウン症のピークが認められた・・・こういった影響がでた
広島の場合 15年してから研究・調査しているので初期データはほぼ欠落していると
考えてよい 

ゲナジーラジウク所長は事故の10年以上前から研究しており、事故前のデータと事故後の
データが比較できる立場にある
広島では私はチームとして一万例の赤ちゃんの解剖をする 先生の方は被爆で二万例
を越える 染色体の検査をずっと続けている
大人のがんも増えている 放射線をどのくらい浴びたのか 放射線依存性というが
チェルノブイリの場合線量測定が不確かなのでこれは認められないと保障に対して切られ
しまう場合が多い
よって国際的には癌、白血病が増えたと云う報告は無い
福島原発による放射能汚染は今も続いているわけですが、長期的視野に立って、
今行わなくてはいけない事は 
チェルノブイリに比べ規模は小さいと考えている汚染水(10万トン)が地下とか海に広がると
飲み水、野菜、魚等 食物連鎖で口の中に入ってくるので
その事の予防が非常に大事

そのためには線量測定をこまめに測ることと、高濃度汚染地区は食物連鎖の警戒がずっと
続くと思う
それと定期的健康診断を欠かさずに続ける必要がある
事故の現場処理をしている人達 (チェルノブイリの場合周辺国より予備兵として集められ、
その内容、放射線に関する知識も与えられず時間交代で
作業させられ、30名程度亡くなっている それも公的機関の発表)は被爆量が多いので
基本的なところをしっかり守ってゆく必要がある

人類が放射能をどうコントロールしてゆくか
日本の原子力は安全だと云う神話をいつの間にか飲み込んで了解していた
原子力発電に反対することは文明の流れに反対することだ・・・ある首相のTV発言
チェルノブイリ、福島は一つの節目 次の世代に今後如何に安全なエネルギー源を残すかと
言う事は一つの大きな課題で原子力に頼らない 自然に優しい
健康を害さない 生命にも影響を与えない そういう新しいエネルギー源を開発することを
期待したい

2011年7月13日水曜日

大井 玄(医師)        ・看取りの医療 2

大井 玄(医師)
「人が老いると云うのは人はそれぞれに意味の世界を紡いできた 老いは網が破れた
状態である」→脳というものは見るもの、触るもの、聞くもの
から世界を作っているんじゃあなくて、自分の経験、記憶から瞬間瞬間に世界を作り上げ
ている
説明するのに認知症の人が説明しやすい 東京都精神医学研究所の所長だった
石井武先生が面白い報告をしている
86歳の女性 元気がいい時には 非常に頭のいい方で、料亭(芸者置き屋)を経営し
、物凄く財をなされた方 ボケてしまって石井先生の元にこられた
石井先生の事をお客さんと思っている かつて経営していたおかみとして振る舞う
(その病院で) そういう意味の世界に彼女は生きている

認知症の人の作り話には方向性がある 自分の住んでいる意味の世界を壊さないように、
そういう風に作ってゆく
その人の自尊心、自負心 、誇りと言うもんが保たれている限り その人の意味の世界
は壊れない
認知症があろうが無かろうが、我々はそれぞれ意味の世界を作ってそれを壊さないよう
に生きている
デイケアーをしている人(石橋さん)のところに、90歳の認知症の人が来た 
この人は若いころ子供を亡くした 

成人した婿養子を貰ったが、養子夫婦とはうまくいっていない
彼女は自分の名前と亡くした子供の名を混同してしまう事がある  
石橋さんは人形を与えた その人は可愛い可愛いと云って、抱きしめたり背負ったりした
段々落ち着いてきて、周りの人と子育て談義をするようになる 
この女性は尿の失禁があった 家にいる時にはおむつをしている
デイケアに来た時おしめをしないと失禁する その女性はなんていうかと言うと、
その女性は人形を抱いているのですね この子ねえ おしっこ垂れて困るんですよ
この作り話の方向性も判るでしょう 自分の自尊心を守るような方向に作り話をする 
石橋さんは失禁する前に時間を詰めて行って、1時間→30分→20分と  遂におしっこを
されないようにした 

その方の意味の世界を石橋さんはちゃんと察してそれを壊さないように、彼女の自尊心
が壊れないようにする これが認知症の介護の一番大切なこと
我々の脳が自分の経験と信仰含めた記憶に基づいて世界を構築してそういう意味の
世界を作っている限りは、認知症であるが無かろうが
必ず意味の世界に住まざるを得ない
認知症が何故仮想現実症候群だとか、そういうのが判るのかと言うと、現実の環境との
つながりが切れるからなのです
認知症の人は時間、月、日、と場所とその場所で何をやってるのかと言うような認識が
断たれてしまうものだから、ただ単に3分前の事を忘れると云う
のでは無くて、検討意識が切れてしまうから、だから認知症と判る

大原則は認知症の住んでいる意味の世界を壊さないと云う方向に接する
壊さないためには何をしたらいいのかと言うと、決して怒らないと云う事です 
絶対怒っちゃ駄目です
20編も同じことを聞かれたりすると、怒りたくなるが 20編同じ答えをしてあげるか、
度量が必要です  怒らない人には安心している
何故聞くのかと言うと不安だからです  認知症の意味の世界と言うのは壊れやすい 
認知症でない人の意味の世界と違うところ
絶対怒らない 怒った声を発しない このことが大事 認知能力が衰えたとはいえ 
相手が怒っている顔は直ぐ判る

それはなぜかと云うと、我々の脳の中にはミラーニューロン(鏡神経細胞あるいは物まね細胞)
と言うものがあり、怒った顔をしていると、ぱっとそれと同じ
シュミレーションすなわち脳の中に同じ怒った顔を作る 
その時の怒りとか不安とか恐怖とか、それは覚えている
怒った顔をしない 怒った声を出さない せかせない せかせると怒ったような状況になる 
あまり言葉で説明しない 認知症の能力を試してはいけない
これ覚えているでしょうとか そんな事はないでしょうとか 否定することは試すことになる  
はい はいと言っているうちそのうち落ち着いてくる
コミュニケーションと言うのは言葉の内容よりも言葉を出すその音声であるとか にこにこして
いる表情ですね そしてある人と繋がっているんだという手当を
する意味での接触というのはこれら全部をやらないといけない 

それが日常の方々に対するある種の看取りの医療なのです
これからは老いそのものの一般的な話になるが、早く辛い生活から離れたいと云う気持ちと、
まだまだ長く行きたいと云う気持ち両方有るのが老いなのです
耳が聞こえなくなってきて、目も悪くなってきて、糖尿病など患って、周りとの接触も段々
無くなってくる 
死にたい 死にたいと言っていた人がいた(90歳)
3時ぐらいに起きて星影のワルツ等歌っている ご飯がおいしいと云う ご飯がおいしいと
云う事は生きたいという事なんじゃないんですかと言ってあげた
神谷美恵子さん 彼女は精神科医としても詩人としても、作家としても本当に素晴らしい
仕事をされた
 
あの人の日記を読んでみると、自分の衰えが進んで行っていると云う事 に対しての恐怖感がある  
「段々視力が落ち、右半身不随になってゆく事がわかっているけれども、痴呆になりきる
までせめて感謝の歌を絶やさないようでありたい」・・・素晴らしい
「二、三日前から目覚めた時、胃の上の方に麻痺がおこりつつあることが判った 
初めは右側小指のびりびり 胃や手首の痛み 腕の関節の痛み
そして今は腕の腋の下の筋肉の痛み くるべきものがきた 素直に頂こう 約束の原稿を
書く傍ら 左手で書く練習をしたり、そういう風にして受け入れてゆく」
「14回入退院繰り返した私の存在が自他共に不幸であると考えるのも私の小さな脳の
こだわりかも知れない

しかし私がこういう体で生きてゆくのは正直なところ大変難しい 
私がキリスト者にならない理由はイエスが30歳の若さで自ら死に赴いた為だ
30歳と言えば心身共に絶頂期 その時思う理想と65歳にして経験する病と老いに
何年も暮らす事は何という違いであろうか
私はまだしも、ブッダの方に人生の栄華も空しさも経験し、老境にまで至って考えた方に
惹かれる」・・・この日記は一流の文学である
良寛も同様であった 最後の頃になると物忘れはするし、ちびったりするし、いろんな事
で身体が痛くなってくるし、と言う事で辛い
「老いが身の 哀れを誰に語らまし 杖を忘れて 帰る夕暮れ」
老境に行くときに捨てざるを得ないものがいろいろある

何を捨てるか→生きてゆく為に他の人と競争して持っていなければいけないような能力、
記憶力、体力、それがどんどん無くなってゆく
だけどそれを乗り越えると云う事を神谷さんも良寛もやっているわけです
良寛 本当の自己が自然、世界、宇宙の現れであると、そのようにして納得している
自分自身が自然、世界、宇宙のその中の存在であって、そこに入ってゆくんだと云う
感覚がある
歌にしている   
「淡雪の 中に立ちたる みちおうち(大宇宙の事 三千代千世界)
又その中にぞ 淡雪ぞ 降る」

(今 淡雪が降っている その淡雪の中に その大宇宙が入っている その大宇宙の中
に 又淡雪が降っている)
介護の人達へ
自分が全くそれに係わってくたびれてしまう事には避けなければならない
ある程度 距離を置いて いろいろな人達 地域の支援を利用する(ケアマネージャー、
ヘルパー・・・・)
看取りと言うのはマニュアルに書いてあるようなものではなく、自分が体験しないと判らない  
それを次の人に伝えないと伝わってゆかない

看取りの技術が今日本では絶えようとしている (8割がた病院なので判らない)
本当は自宅で死にたい しかしICUみたいな救急治療室みたいなところで亡くなるのは最低
本人にとっても最低だし、看取りのやり方がそこで途絶えてしまう事が大きな問題
自ら病気をし、手術を受けると患者の気持ちが良く分かる 
日本では自宅で死を迎える事は少なくなって来ている  我々が死というものをもっとっも
っと学習しなければいけない

2011年7月12日火曜日

大井 玄(医師)        ・看取りの医療

大井 玄 (医師)    看取りの医療
1935年生まれ 東京大学名誉教授 元国立環境研究所所長
臨床医の立場を維持しながら国際保健、地域医療、終末期医療にかかわってきた
著書は、『終末期医療―自分の死をとりもどすために』『痴呆の哲学―ぼけるのが怖い
人のために』(共に弘文堂)、『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)など多数
週一回 70~90歳の地域高齢者医療(終末期医療)行う→もう一度健康な体へ,について
は役に立たない
永く対応すると、患者との話し合う事が出来、ツーカーの仲になってゆく
80~90歳の独居患者は独立心が強いばかりでなく、生きてゆく生き甲斐を見つけている
俳句を作ったり、和歌を歌ったり、ボランティア、寺に行って掃除をしたりして元気にしている
この高齢者医療はやっていて楽しい 一般的に云って繋がりが持てる
私も高齢者で見取りの医師 一週間に一度の対応だけでは友達感覚みたいなもの薄れ
てしまうので電話をいれて、その間のいろいろな出来事
身体の等を聞く (先生がいつも私の事を気付かってくれているという安心感が大切) 
家族との話し合いもできる・・・状況把握もできる

33年前 東大助教授になった時から高齢者医療に着く
長野、佐久市で寝たきり、ボケの宅診  一番思ったのは何故(寝たきりの人を起き直す
のは不可能 脳梗塞、脳出血の人多かった ボケた人を
頭脳明晰にする事も出来ない)  ショックを受けた  一つは直せない状態に対する事に
恐怖感を持った
ボケた人 女性が多い  バックグラウンド 戦争で夫を亡くしてしまう 子供を女手 一人で
育てる 長男夫婦と孫とで暮らすが そのうち嫁が気付く
難癖を付ける わしの財布を持って行ったろうとか 最初長男は母親を庇うが、
そのうちに嫁に味方するようになる  一人ポツンと座っているようになる
私がかわいそうなので肩を抱いてあげたらボロボロと涙を流した・・・人間関係が独立して
しまった

そういう人達を見ているうちに、急性鬱病になってしまった 孤立した老人を見ていると
酒を飲まざるを得ない・・・辛かった→止めようと思った
一巡するのに 一年以上掛る ある患者から診療のリクエストがあった 
一カ月して大変元気になったので家族も喜んでもう一度来て診てもらいたい
そこで私の医療観が変わった→それまでは医療は直すのが目的であった、健康を取り
戻すと云うのが本来の目的である
ところがそうじゃなくて、医療で最低出来るのは そうやって動けなくて、或はボケて
しまった人の気持ちを良くしてやる事が一番大切なこと
介護者及び本人の気持ちを良くしてあげる・・・安心立命
高齢者は殆どのかたが、自宅で最期を迎えたいと云っているが、病院でなくなる方が
8割 病院の見取りの施設がない
医者の数、看護師の数が他の国々に比べて圧倒的に少ない OCDで1000人当たりの
医師の数が3.1人 日本は2.1人(2/3)

医者はオーバーワーク 病院が治る人に手を掛けて治らない人に手を抜かざるを得ない
ICU治療室で末期がんの奥さんに対して夫が「大丈夫だよ」と言って手を握って話をして
いたら そこの看護師がやって来て
「ここはICUです 他に重病の患者が沢山いるので声を立てるのは止めて下さい 
付添いの方は外へ出て下さい」と言われ 夫は外へ行き居ても立っても居られない
シフトが替わって次の看護師がきて、「もう最後の様ですからどうぞ中で小さな声で
しゃべって下さい」と言われる 明け方亡くなる 夫は怒った
家族とか皆がいるところで死なせてあげたい  穏やかになくなってゆく人はある種の
繋がり感を持っている (子孫、宗教、文化)
アメリカインディアンの人達は死ぬと云う事にあまり拘らない 地獄だとかない
フェルローインディアンの歌
「今日は死ぬのにもってこいの日だ 生きているもの全てが わたしと呼吸を合わせて
いる 全ての声が私の中で合唱している
全ての美が私の目の中で休もうとしている 

あらゆる悪い考えは私から立ち去って行った 今日は死ぬのにもってこいの日だ
私の土地は私の周りを静かに取り巻いている 私の畑はもう耕されることはない 
私の家は笑い声で満ちている 子供たちは私の家に戻ってきた
さあ 今日は死ぬのにもってこいの日だ」・・・この人はもう宇宙、自然に戻っている
胃ろう:主に経口摂取困難な患者に対し、人為的に皮膚と胃に瘻孔作成、チューブ
留置し、水分・栄養を流入させるための処置
看取りの医師として一番気を付けることは「安心立名」  
①安心してもらうためには繋がりを持てるかどうか 繋がりの方向を見てそれを強化するようにする
②痛みをとってあげる ・・・延命をしなくてよい
沖縄は高齢者に対して敬意を表する 大事にする 認知症のひともゆったり生きられる
認知症のひとでもこちら側がにこにこしていると 妄想 幻覚 夜間のせんもう みたいなこと
は起こさない
日本ではとっても介護はいい アメリカは能力主義で自立していなければ生きていても
しょうがない、死んでもしょうがない
日本は医療関係者の犠牲の元に成り立っている 日本は病院で亡くなるのは8割
(とんでもないこと) イギリスは5割

人間の生・老・病・死というプロセスは絶対に変わることはない
良い施設に入れて延命と言うのは正しいとは言えない →「安心立名」が大事
出来る限り苦痛をとってあげる 食べられなくなったら、食べられないままに 
アメリカのホスピス 私は飲まず食わずで死にますというと 半月ぐらいで亡くなる
(八丈島は同様にやっている)
非常に具合の悪い死に方を「0点」 全く文句の無いような大往生を「9点」とする 
私は飲まず食わずの死に方をしますと云った方は中央値8がもっとも多い
結論として何かと言うと飲まず食わずというのは、若い人にとっては怖い状態か
もしれないが、歳とって行って食べる気力もなくもう食べたくないという人達
にとってみては決して苦痛のある死に方ではない 
むしろ眠るがごとき大往生に近い

死ぬと云うこと自体よりもどのように最後まで生きて行って、どのようにして死んでゆくか
と言うその時に 一つは安心感を持つというのは
祖先であるとか、国、世界、宇宙でもいいのですが、そういうところに繋がりを感じるし、
持つことが出来る 昔は日本人はそういう人が多かった
死がかつては身近にあったし、どうやって死んでゆくのかを学習する事が出来た
(べらぼうに大切なこと)
出来る限り孫とか呼び寄せ、看取ってる手伝いをさせる 呼んで笑い声を聞かせる 
それは物凄くきく 
うるさいぐらいの笑いの中で亡くなってゆく事は安心である 
介護者はどんなにいい看取りをしても後悔は残る
介護者に対して良くやってあげたよ、という保証をしてあげる・・・介護者に対する安心感

2011年7月11日月曜日

森村誠一(作家79歳)      ・「“作家”の証明」作家 2

 森村誠一(作家79歳)        「“作家”の証明」作家 2
46年間執筆  合計1億5000万部ぐらい  375冊   
作家は書けなくなったらもう作家とは云えない 
人間の抜け殻 年間長編小説を?冊は出したい  
小説を書かないと置き去りにされた様な気がする   
私にとって小説を書くと云うのは生きていることであり、楽しい、好きですね   
一日の執筆時間は6時間ぐらい、最盛期には12時間ぐらいであった  
規則正しい生活をする 岩盤に突き当たった時はトンネルの反対側から、掘ってゆくようなイメージで対決する  
現在スランぷかもしれないが今までの経験から何とかなる 兎に角書き続ける事  
作家は基本的に人間が好き シャイになり自分の中にとじこもる人もいる 
人間が好き、人生が好きでないと 書いても暗いものになってしまう  
人を上から見ると頭しか見えない 下半身が見えない 弱点と言うものが見えてこない  
   
取材は3つある 
①文献の渉猟 
②直接その人に会ってインタビュー 
③現地の現場検証   
写真俳句  最初は写文俳句と言っていた 
芭蕉が俳聖と言われるようになったのは、奥の細道と言う文章が付いているから  
蕪村は絵を付けた   
芭蕉の文章と蕪村の絵を合体させたら、すごく優れて表現になるんじゃないかと思った   
私は絵が描けないから蕪村の絵の代わりにカメラを持ってきた 
芭蕉は今日の文明の利器を持っていない    
これを使えば芭蕉に対する句はできないが、対応句は出来るのではないかと思った 芭蕉より優れた利器 一つはスピード もう一つは通信機械 つまり高速交通機関とカメラ これを使えば芭蕉が見られなかった景色がみられるのではないか    
芭蕉が取材できなかったものが取材できる 
カメラはテープレコーダーに比べてはるかに情報量が多い
  
写真俳句と小説は全然違う  
小説と言うものはちいさなものを拡大する性質がある 
ほんの小さなラストシーンから膨大なものを書く   
それに対して俳句は膨大なものを凝縮する  
「夏草や つわものどもが 夢のあと」 これを小説にすると1000~2000枚の作品が書ける だから凝縮と拡大の違い 作家はこの凝縮には慣れていない 
作家が凝縮と言うものをものにしたら、強力な武器になるのではないかと思う    
「高原に 夏雲湧くや 遠き過去」 ・・・句が先に出来て写真をあとで撮った 「寒月や 屋台の酒に うつる歌」・・・写真が先    
「満天の 星こうりても 生きており」・・・大震災の時、部屋に本が散乱し、窓からひょっと星が見えた 写真は付いていない 時期ではない  
  
写真俳句は季語に余りこだわらない 写真が季語、季節を語ってくれる    
携帯電話を持っている事は、カメラを持っている→今後写真俳句人口は拡大してゆくと思う 老年になってからの生き方についていろいろ提言する様な本を書いているようになる 人生50時代には人間余生がない 
第1期=仕込み 第2期=社会人現役  最近は第3期=余生 というものがある(約20年) この生き方が大変重要になって来ると思う  2~3年なら余生 
余った時間だが、20年ともなると人生そのもの 実りある人生にしないといけない 今まで 一期、二期の心構えはあるが、第三期の心構えはない    
余生の覚悟 第三期を人生の総決算期として、 最も実りのある時期にする事が出来るか と言う事がテーマとなる
  
最大のポイントは余る生ではなくて 誉れある生 にしたい  
そのためには生産的人生 卵を産めなくなっても卵を産むと云う   
老いと言うものに負けないこと 老いと向かい合ってゆく    
老いは三段階に分かれる 
①60歳代は年少組  
②70歳代は年中組  
③80歳越えると年長組  重要な時期は60代、70代だと思う   
80代になると気力、体力の衰えを認めざるを得なくなる ・・・覚悟が必要である   
平穏無事の時は精神が弛んでいる (自分ではしっかりしているつもりであるが) 覚悟とは 弛んでいる精神を凝縮すること    
凝縮すると放漫であった生き方が、かなり人生の総決算期となると、凝縮してくるから 俳句のように無駄がなくなる   
生き方に無駄がなくなってくる 
 
贅肉をどんどん切り落としてゆく ・・・最も実りある時期になるのではないかという、提言 今後テーマにしてゆきたい問題  目先のテーマに集中していると、先が見えなくなる事が良くある 作家は有り難いことに強制的な定年がない    
常に人生 旅の途上である・・・私の覚悟  
どんなに年をとっても今日が一番若い(未来に照準を合わせた場合には)   
未来に対して今日と言う日が一日目  
青春とは無限の可能性に満ちている事 そういう考え方をすると同じになっちゃう 今日と言う日を一日目にすれば、可能性は無限にある 
無限にある可能性に対する永遠の狩人でありたいというのが、私の心構え 歳を重ねれば重ねるほど、人生欲張りになってゆくんじゃないのかなと思う いつ自分の寿命が尽きるのか判らないけど 青年、壮年時代とは違った一種の予感めいたものがある    
人生を欲張って生きたいと云う 貪欲さが出てくるような気がする 
貪欲でないと作家は維持できないような気がする   
吉川賞をいただいて、食い逃げは出来ない 後50冊書くと公言した  

2011年7月10日日曜日

森村誠一(作家)        ・「“作家”の証明」作家

森村誠一(79歳)   
<概要>
埼玉県熊谷市出身12歳にして、日本で最後(8月15日未明)の熊谷空襲を体験。
のちの「反戦平和」の原体験となる
就職不況時代であったため、本人の希望しない大阪のホテルに就職  ホテルマン時代の、「自分の
個性を徹底的に消す職場環境に耐え切れず 転職
その後 作家の道に 
最近では写真俳句に関心を持ち、旅行時や散歩時もカメラを持ち歩いている
吉川英治文学賞受賞 予期していなかった  「悪道」・・・ 巨大権力に対する反逆
1945年8月14日 空襲に出会う 翌日が終戦 嬉しかった
大震災は平穏無事な状態から一瞬にして地獄の底に落とされた様な状態、 
環境激変
戦争は毎日の出来事なので精神的には慣れていた
生家の近くに越川と言う綺麗な川が流れているが、空襲の翌日避難先から戻ってみると河底が
見えない→死体が累々と重なっていて
その死体は近所の人たちで知っている人ばっかりだった→この状況を見たときに、
この場面をいつかどんな形でかは判らないが
書きたいと云う気持ちを非常に強く思った  活字にして沢山の人に読まれたい・・・野望を持った
・・・後の作品に影響している

旧制中学→商業高校→自動車部品会社の下請けに入る 
部品の配達等の仕事→リヤカーで配達中、坂で大学生たちに助けられ突然大學に行きたくなる
(青春を楽しんでいるような様子を見て)→翌日辞表を提出した
青山学院大学 (青春の花園のような気持ち)→卒業後、大阪のホテルに入社(9年あり)
ホテルでの接客(下から目線)が人間観察の上で非常に勉強になった 
会社方針 自己顕示するなとの考えに窮屈になってゆくが、仕事をしながら
書くようになる   
お客は従業員に対して無防備 威張る →お客文化を吸収できる
梶山敏行がホテルに宿泊→編集者に渡す前に読む→並行するように自分でも書く・・・
勉強になった

サラリーマンのエッセー集のようなものを書く→後に推理小説を書くようになる
3年後角川氏が突然訪ねてくる→作家の証明になるような小説を書いてほしい→
創刊号に間に合わずにいた→
西条やそのある詩を思い出し、親子の情愛をテーマにミステリーを書いてみようとした→
「人間の証明」
現在まで380冊弱になる  本格推理小説はそうそう書けるものではない  
推理小説は論理的に突き詰めてゆく
人間性から落とすやり方で推理小説を書けないか・・・親子の愛憎・・・後味の良いものにしたかった
・・・難しかった
作家として脂ぎっているのは40代後半から50代 歳をとってくると駄目になってゆくので
(中枢神経細胞が減ってゆく)中枢司令部をいつも動かしていないと駄目
私の場合は全ての事が作品に通じてゆく 人を観察する 友人との会話 若者たちの会話
(自分たちには無い言葉を使う 自分の知らない世界が展開)