2012年2月1日水曜日

町田宗鳳(広島大学大学院教授)   ・愚かさの再発見

町田宗鳳(広島大学大学院総合科学研究科教授) ・愚かさの再発見
<概要>
1950年京都市生まれ。幼少のおり,キリスト教会に通う時期もあったが,14歳で出家   
以来20年間,京都の臨済宗大徳寺で修行  
34歳のときに寺を離れ,渡米 ハーバード大学神学部で神学修士号およびペンシルバニア大学
東洋学部で博士号を得る
プリンストン大学助教授、国立シンガポール大学准教授、東京外国語大学教授を経て、
現在は広島大学大学院総合科学研究科教授
著書に『小説・法然の涙』、『愚者の知恵』、『なぜ宗教は平和を妨げるのか』、『法然対明恵』、
『山の霊力』(以上、講談社)、『生きてるだけでいいんだよ』
「ありがとう」の言霊は、宗教や民族の違いを超えて、人間の魂に浸透していきます   
「痴聖人」について語る
「愚者の知恵」
愚かさは近代知の対極にあるもの
十牛の図と言うものがある  中国の唐の時代の水墨画 お坊さんが悟りを開いてゆく過程を
 10に分けて示している
第一図:尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す
第二図:見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する
第三図:見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態
第四図:得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものに
     なっていない姿
第五図:牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す
第六図:騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿
第七図:忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の
     中にあることに気づく
第八図:人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も
     特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく
第九図:返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。
     悟りとはこのような自然の中にあることを表す
第十図:入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿に
     なっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す

キリスト教では道徳的に完璧な人 神にもっとも近い人を祭壇に祭り上げられているが 
東洋では痴聖人として最高位に置いている
知識 情報で近代は発展し 社会が発展してきた あまりの物の大量生産 大量消費が
経済システムが行き過ぎて 地球の環境破壊 貧富の差を生んでしまっている
21世紀は近代文明の曲がり角に来ているのではないかと思っている  
アメリカ型の価値観が人類文明を引っ張ってきたけれどもライフスタイルを変える時期に
来ているのではないかと思う  聖書の中にバベルの塔と言う話があるが 高い塔を作って天国に
行こうとしたが 人間の傲慢な考えに怒って神が塔を壊してしまう
 
人間が愚かな事をしないように民族ごとに異なった言語を与えたという話になっているが 
どうやらここに至って近代文明はバベルの塔のようになってきたのではないか
医療にしろ 宇宙工学にしろ想像もできないような進歩をしてきたが 一方で地球の環境破壊
、極端な貧富の差を生んでしまって 人類のパラダイムシフトを
価値観の変更を 起こす必要があるが 今回のテーマである愚かさ これを再評価してゆく必要がある 
非常に大切な意味があるように思う 
近代知は学校に行って沢山本を読むとか インターネットで調べるとか 或る程度近代知は得る事
が出来るが「痴」の方はなかなか学校に行って本をよんでも手に入るもんではない
本当に長い人生の中でいろいろ体験することによって愚の発見はあると思う
 
単なる合理性を超えた痴であるから 秀才だから 頭の回転が速いから 
記憶力が良いからと言って獲得できるものではない 
十牛の最後に出てくるものだから「痴聖人」は並大抵のものではない
大徳寺に20年修行する 14歳 最も多感な時期に禅寺に飛びこむ 
不合理な世界に20年どっぷり漬かって これは非常に貴重な体験だと思っている
アメリカのハーバード大学 に行き神学を学ぶ 理屈詰め アカデミックな世界 痴の世界から
知の世界(対極の世界) 
例えばノーベル賞を貰った教授に対して理詰めでこちらの心の内の考えを言葉で理解してもらう事
なので大変苦労した

洗濯機が反転する様な感じで自分の中が混乱してしまった 
その中で「痴」とか愚かさに気が付いた
トルストイが晩年つくった非常に判りやすい民話を作っている  
仏教やキリスト教を超えた何か深いものがある そのなかにも愚かさを含んだものがある
「イワンの馬鹿」→イワンには強欲な2人の兄さんがいる お金土地を2人が取ろうと知る 
イワンはいいともと父に言う 損をする日々 けらけら笑って野良仕事をする
或る時に王様の目にとまり王女の婿さんに迎えられる 王様になってしまう 
宮廷で国王の着物を着ていても面白くはないと云う事で脱ぎ捨てて王女と一緒に
ぼろを着て野良仕事をして幸せに過ごす と言う話  下座行 キリストも下座行を評価する
「二老人」 →エルサレムに巡行に行くと云う事になる エリスエ(劣等生) ザックバラン おひとよし  
エヒーム(優等生)人望がある エリエスは喉が渇き水が欲しくなり農家にいく 

その農家は凶作で家族皆が餓死寸前 病気にかかっている 必死になってその家族を助ける
 巡礼に行くための資金をその家族の為に使い果たしてしまい
巡礼にいけなくなってしまう 帰ってしまう 古里に帰ってもお金をなくしてしまったと周辺にいう 
エヒームはそのままエルサレムにゆく
世界中から巡礼者が来ているので教会の中に入れない 後ろの方からようやく見ると協会の
一番前の祭壇の中央で 祭壇に向かってエリエスがお祈りをしている
はげ頭から後光がさしている 3日間行くがエリスエの姿を見かける 入口にまっていてもつかまらない 
ようやくあきらめ古里に帰って来る

古里ではエリスエは蜂蜜をとる作業をしている 祭壇の時と同じように頭に後光をさしていて
 一生懸命労働する姿を見かける 結局賢いエヒーム爺さんではなく 
愚かなエリエス爺さんが巡礼を果たしたと云う話  ロシア正教 トルストイも行きつくところは同じ
本当の人間の知恵は宗教を超えてしまうものだと だから道教「道」 儒教「仁」  仏教「慈悲」  
キリスト教「愛」 それを身に付けた人は同じ世界に居るのではないか
同じ世界と言うのはまさに愚かさの世界「痴聖人」 損得勘定を抜いた世界  
自由に魂をはばたかせている世界
近代文明を築き上げてゆくうえでは、近代知はそれなりに是非とも必要ではあったが 
そろそろ人類もこういう歴史の節目に差し掛かって 近代知の更に向こうに有る 

新しい知恵がどうしてもサバイバルの為に必要な時期に来た それが愚かさであると思う 
愚かさを身につけないと生きてゆく喜び 感謝そういうものが出てこない
全部算盤勘定で 合理性 合理性 と言う事で動いていれば生き甲斐は感じられない 
ああ生きててよかったなあ 生まれてよかったなあと そういう有り難さを
しみじみ味わうには自分の中の愚かさと言うものに気が付いて それを正面から抱きしめるような
生きかた それが必ず必要になって来ると思います 
最後に行き着くところが 「痴聖人」 知識が悪いわけではないが それをかなぐり捨てて  
原点に戻るという生き方 知識は知識で尊いもの 
うんと下に有る「愚かさの知恵」というそれを大切にして生きて行かないと 生きる喜び 
体感出来ないんじゃないかなと思います
 
実際に実践している方  マザーテレサ  あれだけの事をしてインドのヒンズー教徒 イスラム教徒に
対し ただの一人として私達がこれだけの事をしているのだからキリスト教に
改心しなさいと 一切云わない  本当に無心無我 無欲の気持ちで人々を助けた 
その人々と言うのはまさに一人一人にイエス・キリストがあるとそういうお気持ちで
救いの手を差し伸べられた 現代における痴聖人の御一人だと思う  
私もボランティアでインドで死を待つ人々の世話をしたが 死に直面すると云う事は中々日本では
ないのですが、マザーハウスでは日常的に死に向かいあわなければいけない
そういう体験をさせてもらって 凄く大切なことに体験させてもらった 
 鍵山秀三朗 公衆便所のトイレの掃除(50年前から始め全国的な運動になっている)  
路上の掃除 どぶ掃除をしている 愚かでないとできない
  
大学でもトイレ掃除を行っている  町田ゼミ 研究会の発表後はトイレ掃除にしている
素手で一心に同じ動きをくりかえすことによって力を入れなくても汚れを落としてゆく 
その汚れは便器の汚れではなく私の心の汚れです
それが落ちた時の喜び トイレを磨くと云うのもまさに愚かさの行為ですよね 
かしこい人にはできないですよこれは
愚かさの実践が喜びに繋がる 具体的な例ではないでしょうか 
 路上にゴミをポイ捨てする人がいますけれどもそれは自らの徳を損ねると云う事だと思います
日本中全国の人が地に落ちているゴミを拾うとか汚れているトイレを綺麗にするとか 
そういう気持ちになったら この日本と言う国は本当に良い国になると思いますよ

宗教家ではない人で、高い霊性(スピリチュアリティ)をもって生きている人がいる。
そういうひとは、目立とうとしない。成功を求めない
上昇しない。謙虚である。こだわりをすてる。世のため人のために生きる。
愛の生活をしていく。ていねいに生きている  そうしたひとになるしかない
善と悪、光と闇を統一的にダイナミックにとらえるということを実践するのは、具体的には、
ていねいに生きることである
ぞんざいにせっかちに生きていることを見直し、一瞬、一瞬をていねいに生きていくことこそが大事