2012年2月19日日曜日

増田明美(スポーツジャーナリスト)     ・山あり谷ありそして見えてきたもの

 増田明美(スポーツジャーナリスト)    山あり谷ありそして見えてきたもの  
現在の本名・木脇明美 (1964年1月1日 - )は、元女子マラソン・陸上競技長距離走選手で、現在はスポーツジャーナリスト・レース解説者・タレント
高校3年生の時に日本記録を次々に塗り替えて 2年後のロサンゼルスオリンピックでまさかの途中棄権 冷たい言葉が浴びせられた
山あり谷あり見えてきたものが有りました
昭和39年生まれ 昔から人と戦うのが好きではなかった 
マラソンは自分との戦い マラソンで良かった

41歳で結婚 結婚後心の状態が安定している 現役を離れて20年になる 
講演会で都はるみの物まねをして受ける
(連絡を受け着物を都はるみさんから貸していただいた 数千万円する衣装)
みかん山で育った 千葉県房総 両親が作った山 ミカンの木を植えた
小学校では遠かった 家から小学校まで2.5kmあった その道を走った 
物忘れが多くて1回で学校に行った試しはなかった
小学校の4年生の時に5年、6年生と一緒に走ったが 長距離は早かった 
マラソンの魅力は風を切っている時 風をまとっていると感じた時は駄目  
中学生になってから駅伝の大会があり 校長先生から朝礼で全校生徒の前で褒めてもらった
臨場感たっぷりに褒めてもらったのが嬉しかった 
苦しくても褒められる嬉しさを思った時を思い出し頑張った
小学校6年生の時から学校の先生になりたいと思った  
壺井栄 の「24の瞳」を読んで先生になろうと思った
中学校3年の時に800mで県体で優勝とか全国大会で4位になって 成田高校の先生から勧誘が有った 2時間余り離れている学校であった(高校は決まっていた)
身長150cmだったが 瀧田詔生さんは「俺と一緒に富士山のてっぺんへ登ろう」と言われて 両親は大反対 だが先生はオーラが有る方で都会からきた印象をうけた
先生の弟さんは俳優の瀧田栄さん いままで会ったことのない素敵な先生だった 
成田高校に行く事にした

先生の家に下宿する事になったが 千葉県大会で800mで2位になった人も隣の部屋に下宿する事になった事を知る(聞かされてなかった 吃驚した)
練習の量の多さ 厳しさは半端でなかった 
1年生 朝練習の前にトンボかけ 靴の掃除 朝練習 30km練習(本練習)新勝寺でお坊さんの御説教を聞く
クラスにはお化粧、おしゃれしたりする人がいたりしたが、そういった方面には興味はなかった 
先生から吉川英二さんの「宮本武蔵」を進められ、夢中になって読んだ 暗記しているほど  
自分の価値観というのが 生きていて楽しい道と苦しい道の選択肢が有った時に 苦しい道を選んだほうが自分自身が高められますよ と一貫して語っている  
苦しいのが大好きで競技している私は何て幸せなんだろうと思ってしまった  
ライバルとの競争は嫌だった (競技、勉強)

高校3年間で 全部日本記録を塗り替えた(トラックでは3000m、5000m、10kmロードでは、20km、ハーフマラソン、フルマラソン)
天才少女と新聞に書かれて踊らされた 
自分で軸がしっかりしていないと駄目 先生も若かったので一緒に乗せられた
1984年 当時20歳 ロス五輪 初めての女子マラソン競技となる 半年前から準備をする 
途中棄権
暑いから熱さ対策をする事になる それが良くなかったと思う  
ニューカレドニア 40km走ったり 沖縄で走っているうちに (瀬古 佐々木ななえ 宗兄弟等) みな 本番前に疲れ切ってしまっていた   
今は発想が逆になった きつい練習は身体の疲労を溜めないように涼しい中でおこないましょうという事になった(ロスオリンピックの経験が生きている)

マラソンて(42.175m)其の時の自分が出てしまう 
 走りたくないなあと自分に負けてしまった(今から思うと)
其の時、ななえさんに抜かれた事が一番ショックだった 未熟さだったと思う
ななえさんに抜かれた時 今の私だったら 抜かれてしまったが私の分まで頑張って走って、私も何とか完走するから と思える
今のアスリートは凄いと思う 自分というのが有ると思う 
指導者の力なのか、自分が持っているものに場数を踏んだのか