2012年3月20日火曜日

佐藤忠男(映画評論家81歳)       ・私の映画人生

佐藤忠男(映画評論家81歳)    私の映画人生    
日本映画大学学長  60年間 アジアを中心に世界中の映画を発掘、紹介することで映画を通じた
国際交流や映画文化の発展に貢献してきました
一時衰退が心配された日本の映画の人材育成にも尽力して去年新たにスタートした日本映画大学
では学長として忙しい日々を送っています
これまでの映画文化への貢献や著作によって紫綬褒章、文部大臣賞等数々の賞を受賞し、
韓国、フランス、ベトナム等からも文化勲章を受賞しています
100冊以上の映画関係の本を出版している 
  
映画について100冊以上出している映画評論家は世界に居ないでしょうね
本の映画評論に通底しているのは娯楽映画であろうと、、芸術的な映画であろうと 
私達のそれぞれの人生に取って、参考になる見どころと言うのを
私達に示唆してくれている 教えてくれていると そういう風に考えながら読んでたんですけれども 
出版社の方から貴方は何派ですかと問われ、何派なのかと友人のフランス人に聞いてみたところ
ヒューマニズムだと 人間派なんだと自分で気付いた 
人生論的であるし、映画による社会学であると 若い映画評論家は社会学の論文として批評してますね
例えば日本のジャンルの一つに任侠映画がある 日本の社会構造の親分子分的な面 
そう言ったものを抜きにしては任侠映画は成り立たないわけですよ

日本社会における親分子分的なものと言うのはやくざの世界だけではない 
広く悪い意味ではなく 親方 子方的な社会は広く産業社会から農村まである訳ですよ
歴史的な変化まで調べないと単純にやくざ映画だけを論ずると言うわけにはいかなくなる    
だから社会学になってしまう
映画と出合ったのは4歳 アメリカ映画の「キングコング」 が鮮明に覚えている
淀川長治 も小さい頃の映画を鮮明に覚えていると言っている
エノケンのドタバタ喜劇 、愛染かつら、・・・ 当時はあまり映画を見る事が奨励されていなかった
(戦時中)  小学校は戦争の時代

小学校卒業するときに中学に行く時に受験する 
講堂でいきなり校長が出てきて明治天皇の御声を三種朗読して挨拶もせず去って行った14歳で敗戦迎える
面接の時に出るのだろうと一生懸命覚える事にした 
試験はうまく言ったと思ったら試験に落ちていた 来年もう一度受けようと高等小学校にいく
受験担当の先生からあの学校は愛国主義者で試験成績よりも人格を見ると言う 
校長先生が話をするときに頭を下げるがそれをしないものがいるので
それを落第にすると云う  それを聞いて中学に行くのが嫌になってしまった
理由を問われて仕方なく少年兵に行くと言った (兵役に行くと言うと当時の親は逆らえなかった)
戦争に負けてどうしようと思っている時に アメリカの映画を見た 若い女性がニューヨークに行く 
若い男性が振りかえる その目がやけに爽やか、健康的に見えた
これを見て文化的に負けたと思った  (戦争の背後に有る文化の差)
  
我々は世界の事を知らなかった それからアメリカ映画を夢中に見るようになる
自分がどれだけ世界を知らないかを痛切に感じた
「キューリー夫人の映画」  文化の差を痛切に感じる    
それを理解するために一生懸命勉強した  今から考えるとファンと言うより映画の研究者だった
鉄道教習所の生徒だったのでパスを貰える 
土曜夜 夜行で東京に来て古本屋に行って映画の文献をあさり、地方では見れない新劇とか観て
夜行でまた帰って月曜の朝に教習所の学校に出席すると言う事をよくやっていましたね(3年間)
認められるようになったのが20歳を超えてから (17歳くらいから映画雑誌に投書し始めたが)
鶴見俊輔さんが「思想の世界」 投稿を歓迎すると言っていたのでこれに投稿すると 
手紙が来て之ぐらいのものを3つ書けば君はプロとしてやっていけると言われる

これが決定的だった 一般民衆の思想を哲学者が考えたりしている 「任侠について」 
「長谷川信論」 日本にまたたびもののジャンルを創り出した人
「沓掛時次郎」 ウィリアム・S・ハート アメリカの無声映画の1910年代の西部劇の大スター 
影響関係がある 原点がある さらに遡るとヨーロッパの12~13世紀の
騎士道物語が原点であると それがヨーロッパ人にとっての恋愛と言う概念の型がメロドラマに
変質してヨーロッパからアメリカに移民してきたときに
西部小説と言うような形になってそれが基本になって 西部劇が生まれる 
 
一貫して有るものは強き者は貴婦人に真心・正義を捧げる 
貴婦人に認めてもらい為に正義を行う   ここが重要なポイント   
日本の武士道物語と西洋の騎士道物語は似ていると言われるが、決定的に違うのは
騎士道物語には必ず貴婦人崇拝と言うものが付いて回る 恋愛がある   
日本では殿様に忠義を尽くすために女を捨てると言うのが日本の武士道の不動の基本
のパターンであって アッこの時に私は軍国少年を脱却できたと思った  
忠義よりも恋愛が大事と言うのは基本なんですよ  
何故日本には忠義の為におんなを捨てると言う観念があるかと言うと、これは儒教ですよね
 仏教も多少有るでしょうね

女性差別の観念と言うものがある これはアジア、イスラムから儒教文化圏 それから仏教文化圏
を含めて 東西の考え方の違いは恋愛に対する考え方の違い 
が基本でそれから一生懸命一人で考えた そのためには文学書を読んだり 歴史書をよんだり
心理学、社会学を読んだりしてした
そこに気が付いたら色んな事が判る気がしてきた
「任侠について」は自分では幼稚な文章だと思っているが、ただ色んな人が認めて下さったんですが 
(23歳) 国鉄を追い出された
何とか映画の仕事はやりたいとは思っていたが 一流大学の人でないと入れない状況だった  
脚本家の道を目指したが、片手間に書いていたものが認められた

大衆映画論者と言われた 鶴見俊輔さんは映画の評論をして哲学者も評論してくれるようにもなった
鶴見さんは偉い人だなと思った 最初に会った時に鶴見さんは「この人は分析的な文章を書く人
です」とおっしゃってくれた
俺は分析的な文章が書けるんだと思いましたね   
大衆映画と言うものは皆にているように見えるけれども、重要なところが違う 
それを分析するのが
私の仕事だと言う風に自覚しましたね
50年代終わりに評論家の地位を確立した  評論を仕事にする 60年を頂点として観客が半分に減る
駄目だと言われ続けてきたが、何とかやっている

撮影所が映画を作っていたが、スターがいてパターンが決まっていた 
撮影所がつぶれてパターンが成り立たなくなっていった てんでに作る様になる
ファンは自分の好きな映画がどれか判らなくなってしまう  映画は益々衰退した
自分で出資者を探して自分の映画を作る様になる  
一本一本の作品が非常にそれぞれ違う作品ができるようになる そうすると批評家の働き場所となる
一本一本違うと其れをどこまで分析できるかと言う事が重要になってくる
政治の映画ができなかったが出てくるようになって 左翼でもいろいろ有るのでその辺を理解しないと
評論できないような時代になってきた

60年時代にやってきた  ATG   外国映画もアメリカ、フライス、ドイツ映画しかなかったものが、
ポーランド、スエーデン映画とか型にはまらない映画が世界から
表れてくる そうなると批評家の仕事は益々重大に成ってきます 
 批評を書く事に対して力が入ってきましたね
作家の個性が重大になってくる 黒沢明論の単行本を最初に書いた 
溝口健二 小津安二郎 今村昌平 等々
監督に対してそれぞれ8冊ぐらい書いた 型にはまらない映画がどんどん出てくる  
本格的に議論できる時代が来た