2012年3月31日土曜日

君原健二(元マラソンランナー)       ・スポーツ名場面の裏側で

君原健二(元マラソンランナー70歳)           スポーツ名場面の裏側で  
高校時代 無名選手で八幡製鉄に入社して、マラソンランナーとして成長して、東京オリンピック(23歳)、メキシコ、ミュンヘンと3回のオリンピックに出場
メキシコ大会では銀メダルを獲得しました。  
首も傾けて苦しそうに走る姿がトレードマークに成りました。 
引退するまでの35回のレースでは全て完走。
うち12回も優勝しました。  日本男子黄金期のマラソンランナーでした
32歳で現役を引退 今でもフルマラソンを走っている。 
合わせて引退後60回になる。  3時間53分台で完走する。
円谷幸吉寺沢徹と共に 東京オリンピックに参加 円谷は3分自己ベストを更新して 銅メダルを獲得、私は3分ベスト記録よりも遅かった、 8位

引退後もフルマラソンを走っています、昨年12月に宮崎で青島太平洋マラソンを走りました。
引退後25回走ったことになります。
東京オリンピック。
円谷さんは自己記録を2分破って銅メダルを獲得しました。
私の場合は自己記録に比べると3分30秒及ばず、8位に終わりました。
円谷 トラック内で追い抜かれてしまった。(国民の面前で追い抜かれてしまった) 
そのことがメキシコに向けて練習を開始することになる。 
私は8位だったのでプレッシャーを感じることなく、1年間はほとんど練習しなかった
円谷は結婚したいという女性がいたが、体育学校の校長先生が横から反対の言葉を言った為に上官に逆らえずに、破談になる
私は1年後に結婚することになった。  
私と円谷さんには大きな別れ目が有ったような感じがします
ボストンマラソンに結婚後1カ月後に参加して優勝することができた。 
競技を止めてしまおうかとも思っていたが、コーチからいまからできる時にやっておかないといけないとコーチから引き下がることなく繰り返し繰り返し言われた。 
 
燃えるような熱い情熱の説得が続きまして、説得に遂に従わざるを得なくなって競技者生活に戻って行った
(退部届けまで出してあった)  
1968年1月 円谷選手は27歳の若さで遺書を残して、衝撃的な死を遂げる
東京オリンピックの4年後メキシコ大会で私は銀メダルを獲得することになる。 
宇佐美、佐々木の3人が代表に選ばれた。 
佐々木選手は当時世界最高記録を出しており、宇佐美選手も国内優勝しており、私は3人の中では3番目の実力であった
責任感の余りない位置にいたのでプレシャーを余り感じることなく大会に臨めたのが良かったような感じがする。

昭和43年10月20日 メキシコマラソンが開始される。(30℃近い炎天下)   
40kmでライアンが3位 君原4位 マモ・ウォルデ(エチオピア)がゴールに到達してから2分後に君原がゲートに姿を現すライアンがその後 100m後にいた。 
普段後ろを見ないのだが後ろを振り向いたら、迫っているのに気が付いて無我夢中で走りぬいた
私は円谷さんの力のおかげだと思えてなりません。
表彰台に立った時、どのような仕草をしていいのか判りませんでした。
食事の摂り方が悪かったのか、緊張感か判りませんが、ゴールまで10kmで腹痛を起こしてしまいました。
トイレに行った方がいいか我慢した方がいいのか計算をしながら走った覚えがあります。
外国記者団から2位になった時何を考えたかという質問に、「日本にはマラソンの立派な伝統があります、その伝統を守れたと思います。」、と言った覚えがあります。 
その4年後、昭和47年ミュンヘンオリンピック 5位君原 12位宇佐美 という結果になった。  
ゲリラ事件があり、中止になるかと思ったが、1日遅らせて続行することになりました。
10km走った時点で調子がおかしくなってもうだめと思っていたが、長い経験から気持は駄目だと思っても身体が走れと言っているようで頑張った。

昭和16年生まれ 終戦の時が4歳。   運動も勉強も劣等生だった。 
恥ずかしいと思っていたが、少しでも恥をすくなくしたいと言う思いがあった
陸上は中学2年生で始めるが、とっても自分を主張することのできない気の弱い人間でした
駅伝クラブに入るように言われて、それに対して厭だと断る勇気が無かった。 
勇気が無かったので駅伝クラブに入ることになる。
高校時代、3年生になって初めてインターハイに出場することができました。    
1500mに出場して予選落ちだった、でも参加できたことに対して満足していた。 
円谷さんも5000mに出場していて矢張り予選落ちだった。(後で知ったこと)
八幡製鉄に入り高橋コーチと出会うことになります。
5年間でオリンピックに出られるような位置にまで成長する。
   
高橋コーチはスパルタ式指導者でした。  
私は欲張りなのでもう練習は終りだと言っても続けて練習したり、コースでも出来るだけ長い方を走った。
練習スケジュールを終えても、もっと走ればもっと強くなれるという信念のもとに更に走る続けると云うことが出来るようになりました。 
1日 平均20kmは走っていた。(仕事をした後なので) 
当時としては長く走っていた方である と思います。
北九州市は400mトラックがあったり、変化に富んだコースもあり練習環境に恵まれていた。  
東京オリンピックの頃 高橋コーチは私に期待を寄せて高橋コーチとは対立するようになった。 
目標のポジションの差があった。(私はとてもコーチの目標には出来ないと思っていた)
精神的な弱さが有ったのかもしれない。
ボストンマラソンでは優勝。
30km位からじわじわ追い上がげて来る。
私は平均した走り方が合理的な走り方だと思っている。   
当時5kmごとに時間を示してくれていたので、時間確認をすればいいと思っていた。 
エネルギーを効率的にするために、時計も持たない、眼鏡、靴下も履かないようにした

21歳からマラソンを始める。 旭国際マラソン(昭和37年)2時間18分01秒。
当時2時間18分52秒が日本最高記録だった。
東京オリンピックに参加するという僅かな可能性を見出して目標を持つことが出来ました。
10年半、35回、全て完走、 優勝は12回、2位が8回、3位が5回。   
途中でやめたいとは思った時もあるが、止めると恥だと思いもあり走り続けた
私は多くの人に支えられて競技者生活を過ごすことが出来たと思っています。
マラソンを通して教える基本
①目標を持つことが大事。  
②努力は必ず報われるもの。 
③何十回何百回と努力を続けることで積み重なってゆき成果がはっきり見えてくる。
ボストンマラソンの優勝者は50年後(75歳)に招待されるという事があり、それが4年後に迫っている。 
ただ招待されるのではなく一緒に走って完走したいと言うのが目標 です。
実現の為に毎年2回はフルマラソンに参加している。  
今2~3日に一回、10km前後走っていまして、昨年の延べ距離は2200~2300km走っている。
中学から走って、55年後に16万km走った計算になります、地球4周走った計算になる
人間の一歩は小さな力ですが、それを積み重ねる事によって本当に大きなものに仕上げる事になると感じています。
*ボストンマラソンは2016年4月に行われ、見事完走を果たして、地元のファンから大喝さいを受けたそうです。