2012年4月14日土曜日

辰野勇(冒険家64歳)       ・山が教えてくれた生きる力

 辰野勇(冒険家64歳)       山が教えてくれた生きる力  
22年大阪生まれ 21歳の時にスイスの名峯 アイガー北壁を日本で2番目 当時最年少で登頂成功しました
続けてマッターホルン北壁も登頂  カヤックでコロラド川グランドキャニオンを日本人で初め走破する 
28歳の時に自分達が欲しかった道具を作ろうと創業した
アウトドアメーカー モンベルは日本だけでなく世界トップクライマーにも愛用される企業に成長しました
17年前阪神淡路大震災の時にはアウトドア義援隊を組織して支援物資等全国から集めて被災地に届けました
東日本大震災の時には今までの経験やネットワークを生かして多くのボランティアの人達と連携して全国から届いた支援物資を小さな避難所までその時々のニーズに合わして配り続けました     
ロックガーデン 懐かしい (高校時代利用した岩場)  小学校の頃は身体が弱かった 
金剛山に雪中登山に小学校高学年に行く行事が有ったが身体が弱気
ドクターストップがかかってしまった  中学になると金剛山に登る様になった  
大阪府では一番高い山 1125m  高校1年生の時の国語の教科書にアイガー北壁
に登頂する場面が書かれておりそれに憧れた  (「白い雲」)  
皆が登ろうとして登れかった山に登ったのが凄い あわや遭難と言う場面がある
この本一冊に出会って人生を決めた 家に帰って貯金箱をつくった 旅行費用を貯めようと  山の道具の専門店もやろうと、一人でロープを使って落ちても大丈夫なようにいろいろ考えた 
高校時代は一人で山登りをした 同級生に同様に山が好きな人がいてどこでも一緒に登れた 
 
アイガー登りたいのだけれどどうだと打ち明ける 彼は吃驚したがそのきになって準備をし始めた 1969年6月にソビエトの貨客船に乗ってナホトカに行ってシベリア鉄道でスイスまで行った 
下から見ると短く見える   
前の晩はあまり眠れなかった 
岩に手を触れた瞬間に 無になってひたすらに足場を探して一歩一歩登ってゆくしかない
自分の手足が届く世界が自分の世界  その単なる連続だけ   雪崩にあう  
中谷がちょうど雪崩が多く発生するところに居る時に発生した 
頭を手を隠せという 15m離れたところに居る  2人を繋いでいるロープに石が当たり 5mmぐらいしか残らないで切れる寸前だった

何とか助かった 頂上に立ったら(帰りには暖かいところでおいしいものでも食べて帰ろうと言い合っていたが) 雲海のかなたにマッターホルンが見えて「次はあれやな」と マッタホルンの北壁も登って帰ってきた  登った途端に今までの事は消去 後ろを振り返らない  
冒険を実行する原動力は好奇心 決断力  雨が降れば天気が悪くなる 危険だ 登るのか引き返すのか 瞬時に判断しなければならない
失敗という概念は無い  不都合と考える 成就しないと言う事を失敗と考えないで不都合と考えれば そこを介してどうしたらそこにアプローチ出来るかどうかという事を考え続け行動し続けることができる  例えば岸壁に咲いたユリの花 それを欲しいと思った時に 足が先ず一本前に出ている     歩きながら考えている  

どうやったらあの花が手に入るのかなあと 思考の深い人はちょっと待てよあそこには川があるし 橋も無いし、渡れたとしても 岸壁があるし やめておこうと止める
私は川を渡るために丸太を探したり、無かったら下流に向かって歩いてゆき、浅瀬を見つけて、浅瀬に行って川を渡る 
向かっている方向は違うかも知れないが、花を欲しいと言う意志の方向は変わってはいない 
人が建物の中に居て囲われた生活空間がそこには暗然と快適さがある 
外に出てくればぽかぽか温かいし風が吹けば寒いし なにも無い状況に放り出されたときに 求められるのは知恵と勇気と優しさ  気使う心 人間一人では生きてはいけないので 何か手を携え会うとか あるべき姿が共有されて来る
 
阪神淡路大震災   当時建物はことごとく壊れていた 
知り合いが沢山住んでいたので4輪駆動の車に水と食べ物を出来るだけ積んで現地に行った 亡くなられた友人のお母さんをトラックに乗せて遺体の安置場に行ったが一杯で4から5か所探してが無くてようやく探した そこは遺体にかける毛布も無く、寝袋を利用すればいいのかなと思って会社に電話したら2000個の寝袋があると言う事で2000個を確保した  
生きている人が瓦礫を集めて暖を取っている姿を見て、ご遺体には申し訳ないが生きている人達に寝袋は利用してもらおうと思った      テント500張りも提供する  
数が足りない 一社だけの力ではどうしようもないと思い 義援隊として 声を掛けて 人、物 、金についての援助要請 200社に送った
 
5分後には返事が来るところもあり 鳥肌が立つ思いがあった 
普段はライバルの会社が支援に対応してくれて非常に感激した
係わってくれた人達の思い アウトドアの人達は何かしなくてはいけないと言う気持ちがあったと思う
これほど大きな災害があることは経験したことが無い  義務ではないかと思った
東日本大震災   当日TVで見てこれは大変だと思った 
経験があったので今回も何とか手伝いができないかと考えた
仙台に3店舗在って仙台港の店は津波にあって3km走ったとのことで 従業員は助かった
店はまったく使えない状態 もう一軒は建物は使える状況でそこを拠点にしようとした
とりあえず現地に行けば何が必要か見えてくる  テントが必要かとか食糧が必要かとか 現地に入ったらそういうレベルの話ではない
 
規模が全然違う  アウトドア義援隊は衣食住を自分達で全て賄える 
ボランティアで援助に行く人はそれが自身で出来る事が最低条件だと思う
ボランティアに行く人が宿泊はどうすればいいのかとか食事はどうすればいいかとか 周りに助けてもらいようでは論外 次元が低く過ぎる
パーフォマンス、売名行為だとかいう人がいるが そうじゃなくてまず困っている人が居たら飛び出してゆく  それぞれができる事をやってゆけばいい
今回は規模が大きすぎるので一社二社ではどう仕様も無い 
まだまだこれから 我々がやったのはほんのわずかなことなので もう一回振りだしからやってゆく これからが大変
復興住宅を建てる計画をしている 家の規模は小さいが 福島から疎開させたい子供達 母子家庭を優先して入って貰う
いずれ自然学校を建てたい アウトドアを通じて危機管理、リスクマネージメントとか有事の際に生きる力を持て得る様な事を子供達に教育したい