2012年5月31日木曜日

濃野平(日本人闘牛士)        ・インタビュースペシャル(唯一の日本人闘牛士)


濃野平(43歳) 2012/4/23に放送(インタビュースペシャル)

 1997年  28歳の時に何の当てもないまま闘牛士になりたいとスペインに渡り 15年数々の苦難を乗り越えて活動を続け 現在闘牛士の最高峰のマタドールテドロスを目指しています  
この3月にはこれまでの挑戦の日々を過ごしてきたことを 「情熱の階段」自伝として本に纏め発表しました  
「ノビジェロ・コン・ピカドール(満3歳牛の仕留め士)」に、'09年に昇格している

闘牛やる上での身長、等特に問題には成らない 闘牛士のランクは3ランクある 
満4歳の牛を相手にするマタドールデトロス  満3歳の牛を相手にするノビジェロコンピカドール
満2歳の牛を相手にするノビジェロシンピカドール があり順次下のランクから進まなくてはいけない
牛が闘牛場に放されると 主役の闘牛士がカポテと言われるピンク色の大きな布(マント)を持ちまして 元気いっぱいの牛をあしらって牛の特徴を掴む  
次にピカドール (Picador) (馬に乗って槍を持った人)が牛を槍で突いてダメージを与える   
バンデリジェーロが一対の銛を持って牛の背中を突きます

主役の闘牛士が表れて 赤い布(モレタ)と剣を持って牛と対峙する 
闘牛士は出来るだけ自分の近くを通らせて 最後に真実の瞬間という仕留めをもって完結する 一回の闘牛興行では6頭の牛が出てきて3人の闘牛士がそれぞれ2頭ずつ順々に相手をする  1頭当り20分~25分で終わる  2時間~2時間30分かかる  
動くものに攻撃するのが牛の習性 其れを利用している  
おもに3月から10月一杯にかけて行われる   
固定式闘牛場は500 移動式はそれこそ無数にある
2万人入れるような闘牛場から田舎の小さな500人ぐらいしか入れないような闘牛場まである
スペインにおける闘牛とかは  スポーツではない  伝統芸能 特殊な芸能の位置付け  
新聞では文化欄(スポーツ欄ではない)に紹介される
闘牛士にアジア系の人はいない  女性は中々難しい
10代の後半 クラッシクバレーに興味はあって練習に夢中になった時期があったが怪我をして其れを機に止めた  
ある日TVで目にした闘牛の場面を見て    衝撃を受けて 是非やってみたいと思った   闘牛士の場合は美の追求の為に自らの身体を危険にさらさなければならないという唯一の者だと思う  
そういうものにも強く惹かれました   長続きできない自分に自信の無い人間だった 
そんな自分が嫌だった 先ず日本には無いものだし、スペイン語は出来ないし お金も無かったので そんな状態で挑戦してもみても恥を書いて帰ってくるだけじゃないかと悩んでいた
 
やりたい事 チャレンジすることも無く 諦めてしまうと今後の人生 やりたい事をやらずに 終わってしまう人間のママで生きて行くのかなあと思った
失敗してもかまわない どんなに無様な結果になっても構わないから挑戦してみたいと思った スペインに行ったのが28歳だった  
知り合いも居ないし スペイン語もできないまま殆どゼロの状態から渡った  
冬はオフシーズンなので殆ど行われていなかった   
ウエルバで初めて闘牛場を見ることができた  その後闘牛学校に通う事になる
型の練習 2人で牛役と闘牛士役で練習をする  
闘牛用の牛は其れなりの牛が使用される(遺伝子に組み込まれている)

出来るだけ自分の近くを通過させる事が大事   
牛と人の戦いの様に言われるが闘牛士が如何に旨く戦えたのかを競うようなものです
自分自身の戦いと言っていいかも知れない、成功するまではきつく扱われる  
外国人でお金も無く、つても無い言葉も出来ない 
普通のスペイン人以上に難しい面がある  
いろいろな人との係わりが持てたために助けてもらった   
最初は労働許可証を取ることが必要だった  
下宿先の主人の助けによって何とか取ることができた
デビュー戦 1999年10月   実戦練習を3日前にやったが其の時に壁に激突してしまい怪我をしてしまった  何としてもデビューしたかった
痛み止めをしてもらい雨の為最悪のコンディションだったが本当に私の気持ちがお客さんに判って貰い結果として成功できたと思った

その後3年間は闘牛士として活動できなかった 
観客席を満員にできる様なスター闘牛士でないと声が掛らないので 自分でお金を払って出場機会を払わなければならない  そういう事を全然わかっていなかった 
農場でアルバイトをしながらチャンスを待っていた  
先の見えない日々が続いた  感動をもう一度味わいたいと思っていて3年間過ごした
一かばちかスター闘牛士が出ている闘牛場に観客席から闘牛の道具を持って乱入しました  今では1年に一回程度ですかね 売名行為として勝手に出てしまう

(2002年、34歳の時に 大物闘牛士が出場するラ・メルセ闘牛場の100周年記念大会の試合で実行する)
幸い旨くいって メディアにも取り上げられて 外国人がそこまでして闘牛士になりたいのかと 応援してあげようじゃないかという機運が広がった
本格的な試合が徐徐に出来るようになった  現在年に1試合できるかどうか  
(150人~200人が中ランクにおり) 資金不足であると厳しい
日本人で最高位ランクに行った人はいない  手助けしてくれた人々に対しても報いたい 
報えるような自分に成りたい
スペイン人の3/4は闘牛に関心はない
 しかし闘牛は70%の人が無くなっては欲しくないと思ってもいる

一般的には小さい頃から練習をして16歳で下のランクでデビューして20歳で中ランク 
最高ランクに挑戦というのが一般的な経過、現在43歳 成功した人でも40歳ごろには引退する 70歳過ぎても現役でやっている人もいる 
50歳でも多少いるので気持ちが続く限り闘牛場に立つ事ができるのではないかと思っている わたしも闘牛界では若くはないのですが何とか最高ランクの闘牛士になりたいと思っている  
何とか壁を乗り越えてきたので闘牛以外の事に関しても 前向きに積極的にやってみるという 駄目でもいいから挑戦してみる   そういう姿勢が身に付いたと思う  
自分の可能性を決めるのは他人ではなく自分なんですよね 自分が決めること  
諦めない限り夢、目標に到達できると思っている

2012年5月30日水曜日

出口寛泰(音楽プロヂューサー)    ・CDカンタータ 故郷石巻を義援金に

 出口寛泰(音楽プロヂューサー32歳)    CDカンタータ 故郷石巻を義援金に  
1979年の生れ 三重県桑名市に在住
少年時代から音楽のファンで自主製作レーベルを持って活動しています 
出口さんはおよそ40年前に石巻市で初演した 石島恒夫作詩  小杉太一郎作曲の
「カンタータ 大いなる故郷石巻」という作品を CD化して復刻して その売り上げ益を義援金として被災地(石巻)に寄付する活動をしています
どうしてそういう事になったのかをお聞きしました

「カンタータ 大いなる故郷石巻」 伊藤京子(ソプラノ) 友竹正則(バリトン) 山内 明(朗読) 指揮 小林研一郎  合唱団(400名)の幾人かは津波で亡くなっています  
義援金を渡す (2回目になる)   
曲は1973年  石巻市制が開始されてその40周年記念の為の歌  東京交響楽団
1楽章 「ひだかみ」 郷土の素晴らしさを表している(北上川) 
2楽章「たたらび」(足踏み式ふいご) 280年前 石巻にいせん場(大規模なお金をつくる処)
に職人が働いていた
  
労働条件の改善を求めた労働運動をするが島流しになってしまう
3楽章「ゆうと 支倉常長 180名を従えてスペインを経由してローマに向かう  
8年余り旅をして帰ってくると鎖国になってしまっている  
常長の心情を歌っている
4楽章「祝祭」 石巻の発展と市民の幸せを祝って 古里をたたえる歌
小杉太一郎  映画音楽をおもに作曲  伊福部 昭=小杉太一郎の先生でゴジラの音楽を作曲した人  私はファンになる 手紙を書いてお会いして貰った
弟子にも手紙を出した  池野成先生にも手紙を出した  
池野先生が小杉太一郎さんとは友人だった 
 
小杉太一郎さんの連絡先が判らなかったが
池野先生の葬儀の時に小杉太一郎さんの息子さんが来ていて連絡ルートが判った  
小杉太一郎さんに手紙を書いた 
便せんにして17枚になってしまった
小杉太一郎さんは300本以上の映画音楽の曲を書いている    
石ノ森章太郎のサイボーグ映画の音楽も手掛ける
オーケストラ レコードをCD化して販売して義援金にしようかとの案もあったが マスター音源が無かった

レコードの製作会社にも問い合わせたが無かった  
小杉太一郎さんの倉庫を探していたら「アルバム」というダンボールが有って開けて見たら
サブマスターテープが出てきた 
これを使えばCD化出来ると判った  
出演者に権利使用料を払って行うことはできないので無償でお願いした
東京交響楽団 クリアー  伊藤京子さんもOK  
小林研一郎さんもOK 全ての人達が協力してくれることになる 
友竹正則さんは亡くなられていたが協力を得られた
CD製作後の反響に驚いている  石巻の繋がりの強さを感じた   
来年80周年記念  増版したい 
精神の栄養  文化 芸術が栄養になるのではないかと思っている  
震災後の被災者の栄養補給になるのではないかと思う  

2012年5月29日火曜日

上田美佐子(芸術監督)      ・下町の実験劇場に挑んで20年

上田美佐子(芸術監督)     下町の実験劇場に挑んで20年  
1992年両国にシアターΧ(かい)ができて20年になります  
300人の座席数 商業主義とは一線を画して自主企画と若いアーチストの発表の場所として独自の路線を歩んできました  
この劇場の芸術監督を務める上田さんは新聞記者や雑誌の編集者を経験した後演劇の世界に入り、ヨーロッパの前衛演劇を積極的に紹介するなど様々な実験的な試みに取り組んでいます   今年演目の中で 宮澤賢治、オペラ ドンジョバンニ イスラエルの新曲披露コンサートとかいろいろなものをやっている  
サーカス 映像 ドラマ ダンス 舞踏 コーラス 様々なパフォマンスをやっている  
現代演劇と考えてやっている    オペラ魔笛等もやっている 
 
モーツアルトが晩年に民衆がすぐそばで聞いていたという状況 両国のなかでも最大の歌舞伎が100人ぐらいだったんですね   
小さい女の子が人間の声ってこんなに良い声なのと言ってくれているので 人間の肉声を聞かせる重要性を気がついた
1992年に出来た  バブルの時代 東の方にもちゃんとした劇場を作ろうと思った  
両国の駅から3分 シアターΧ(かい ギリシャ語  人が混じあう)
満州で育つ 一人っ子だったので一人でいろいろ考えることが多かった  
キューリー夫人のファミリーが子供達を集めて化学の話 文学、演劇 美術の話とかを一流の人が子供に判る様に話していたと言うのに感動した
 
ジャンルとしては美術が一番好き  
判らないことに悩んだりする文科系にも惹かれて行った  
新劇はあまり好きではなかった
舞台芸術学院に行った  高校生の頃に行かされた(通常は大学生とか専門)    
新聞記者、雑誌編集者になる   社会部、医学系の内容の取材もやる
演劇へのきっかけ は雑誌記者をやっている時に 坂東玉三郎 ゆーみん 等と接する様になった  
1986年新聞に ヨーロッパの知識人が語る というシリーズが有って ポーランドの映画監督のアンジェイ・ワイダが言っていた 
 記事の中では人々の本当の気持ちが判らない 
このごろは映画をつくる意欲が無いという内容だった  
でもなんか夢がおありでしょう と言ったら  突如日本の歌舞伎の坂東玉三郎にドストエフスキーの「白痴」をやらしてみたいと言った  吃驚した
玉三郎にこの内容を伝えた  演出家として有名だった  
坂東玉三郎はやってみたいと言ってくれた  
手紙を出したが返信が無くて直にポーランドに行った

ワルシャワに着いたらクラコフで仕事をしていると言うので ホテルで会見することになる    
両者ともにやる気になっているので直に両者が会って話をすることが良いと思って、話し合いの場をつくった(両者ともに時間が取ることが難しくて1年半後にようやく実現する)  
3年掛けてようやく上演に漕ぎ着けることができた    
ノルウエーのナショナルシアター(国立劇場)の人達からもやりたいと言ってきた   
日生劇場のこけら落としの時に来てくれた人々だった
ギャラはいらないと言ってくれてフルメンバーで出て来てくれた
つかこうへいが 熱海殺人事件(昼間はあたらしいもの3種類) 8か月やった   
6月はメインテーマは 宮澤賢治を取り上げてやる(20周年記念として)   
8月は芥川龍之介(地元出身) の作品 「地獄遍」をやろうとした  


新作オペラとしてお客さんと言うものは見せる人なしには演劇は成り立たないので見守りにきてくださいと 共感する或は反発すると云う 
そういう活きた交流が舞台芸術の本当のものですから  新作オペラの地獄遍を演ずるものも 観客も一緒に作り上げてゆくと言うような感覚なんですかね そうなるといい  
舞台芸術から得たもの  
生の人間の創造の現場に立ち会えてその中で人間と言うものはどういうものか 或はその人間がどう変化してゆくことができるのか、というようなものを つぶさに見れたことで 演劇も一つのエンタテーメントだからといいますけど、結果 其れが楽しい思いをしてくれた人がいてくれたことも良いのですが、今までにないものをいかにして獲得していくかと言う事を、小説家が新しいく苦悩して新しい小説を書くのと結局同じみたいなものを劇場の場合は一人ではなく、皆の創造で可なり葛藤しながらやってゆくという、結果を見せるところでなくプロセスが大変な場所なんだなと言う事を学んだので、劇場にくる方たちも、自分のヒントにしてゆく
  
自分の生きかたの一つの参考にしたり 見た時は判らなくても何か自分の心の中で考え反芻する  
生きている実感を味わえる処としてやってゆきたい

2012年5月28日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(小田島雄志)

天野祐吉     隠居大学(小田島雄志、英文学者)  
(1930年(昭和5年)12月18日 - )は、日本の英文学者、演劇評論家。満州生れ   
現在、東京大学名誉教授、東京芸術劇場館長
シェークスピア 全戯曲を翻訳 1980年芸術選奨文部大臣賞を受賞  1995年紫綬褒賞  
2002年文化功労賞受賞
月に30本以上 芝居を見ていた 現在でも25本ぐらいみている   
シェークスピアは37本を書いている   全部訳した
ハムレット ノーカットで4時間ぐらい上演する  全部訳したのは以前は坪内逍遥
日本語に強くないと訳すことはできない
  
[to be not  to  be that is question] 「生か死かそれが疑問だ」(福田恆存訳)  
「このままでいいのか いけないのか それが問題だ」(小田島訳)   
「あります 有りません あれはなんですか」(最初の訳)
「やったろか あかんか ほなどないしょ」(大阪弁訳)     
「ひよるか ひよらぬか おらしらねえ」(つかこうへい訳)
(世にある 世に有らぬ 其れが疑問じゃ」(坪内逍遥訳)   中野好夫
「to be」辛いけど今の状態をずっと我慢するか (存在ではなく状態だと思う)  
「not  to  be」我慢せずに変えるべきか 

シェークスピア 駄洒落が多い 1作品 平均72 駄洒落  
恋の骨折り損 が一番多い 230幾つか   言葉遊びが多く有る
酒友(さけのとも)   洒友(しゃれのとも)
草野大悟  飲んでいる時にはしを落としてしまった時  ママはしくれと言ったら はしくれとは偉そうにと大悟は言う  大悟 お前も役者のはしくれだろう
頭を抱えて笑いだした 喧嘩に成らず   
駄洒落の一言でその場の空気が一変する
道化  偉い人達の愚かしさの写し鏡  
道化役者をインテリが演じるようになり、イギリス的なユーモアの原形みたいなものがある  
高級、素晴らしい

新劇  心の中にこういう思いがあるからこういう行動に出る  
これで説明ができると言うのが新劇です
人間とは割り切れるものではない 新劇ではなく 現代劇にする  
判んないところは判らないまま 人間とは判らないもんだとシェークスピアは書いている  
昔の新劇は一つ一つの台詞を解釈する 心理学的に解釈する   
この台詞はこう思ってて こういう気持ちが働いていてるから その思いを台詞の一つ一つに 込めなきゃやないけないんだと そうすると確かに皆、人間のいう言葉は心理的に意味がある 新劇役者はそれが判らないと芝居ができない  
そんなところから新劇から現代劇への一つの大きな演劇的な手法の転換でもある

2012年5月26日土曜日

姜尚中(東京大学大学院教授)  ・母なるものを語ろう

姜尚中(カン・サンジュン)(東京大学大学院教授) 母なるものを語ろう
昭和25年 熊本県で生まれる  韓国への旅をきっかけに永野 鉄男から名前を変えて姜尚中と
名乗り在日二世として 向き合っています 
母をモデルにした自伝的小説「母おもに」を発表して大きな話題となりました  
おふくろ の袋は子袋(子宮) あと10年もするとお袋と言う言葉は死語になってしまうのでは 
おもに=母(韓国語)
韓国でも母親の小説がベストセラーになっている
母親の事を熊本弁にて小説を書いた   自分の60年近い人生を過ごしてきたが、
日本は新たな時代に変わりつつあるのではではないかと思うようになった
これからはそれなりに皆が気付いてみるとそこそこの物を皆が持っている 
しかし考えてみると何かを失ってしまったのではないかと思う

3/11の大震災は大変な光景だった  還暦を迎えて一回り或る時代が終わったんじゃないかと 明日は今日より良いと思って暮らしていた様に思う  明日を信じられた  
一番失ったものは母なるものではないかと思う
母と言う自伝的な小説を書いた 母を称賛するために書いたものではない  
失われたもの 忘れ去って行くもの を書いた
母の生れは 「ちんかい」という場所 日本海海戦の激戦地  有明海が似ている
自分の母親の事を一番よく知っているようで判らない  
自分の生れる以前の母親の事を知らない  
本当に親の実は感じていたこと、一番言いたかった

奥の奥にあるものを結構子供達は知らなくってそして親を無くすと言う事が多いんじゃないかと思います
私も時間が経つごとに熊本の歴史、有明海に面した母親と一緒に過ごした時代を書きとめようと思った
私を育ててきた時代はもう完全にコンクリートの下にうずもれてしまっている  
其れは寂しいのではないかと思って多少は虚構もあるが小説にした
我々は年を取ってくると自分は生きてきたという事 人間の印みたいなものを誰かが覚えておいてほしいと そう思うから多分子供を産むのかも知れません

何故我々は子供を欲しがるのか 其れは本能的な事もあるかもしれませんが やっぱり自分の
生きたあかしを次の世代に残したいと言うこれはやっぱり人間が持っている限りない情愛みたいなものが次の世代に受け継がれてゆく 、こういう中であの時代の事を忘れないように記憶にとどめておこうと書いたわけです
最後に自分は何を書きたかったのだろう  そこで母親の二つの事を思い出した  
そろばんで「ご破算に願いましては」と言う事
母親は文字の読み書きができなかったので 手紙のやり取りができなかった  
65歳ぐらいになって自分の名前を書けるようになった
算盤の球をもう一回ゼロに戻す   父親はすい臓がんを患い亡くなった  

父親がよく言っていたのは 「自分は裸一貫で来たので裸一貫で戻る」と言う事
其れはご破算にするという事  自分の人生はこれでご破算にすると言う事  
人間と言う者は何か自分で持ち物を持って或る程度豊かになるとどうしても
ご破算にできない  私もそうです  職を失うとしたら 自分が持っている財産や 社会的な地位人々の評判 家族誰かを失うとすると非常に恐れます  不安に成ります 
今の日本の社会に住んでいて政治経済社会で何とはなしに不満がたまっている 
明日の未来が見えてこない  閉そく感がある

政治はどうしたんだ なかなか景気は良くならない 年金はどうなるんだろうか 
税金はどうなるんだろうか 自分の将来はどうなるんだろうか
子供達はどうしたらいいんだろうか そういうことを常々考えています  
私が生まれた昭和25年ごろは多くの人は何も持っていなかった  
なにも持っていなかったからこそおたがいが貧しいけれども何とか頑張ろうと
今は昭和25年ごろではない  確かに  沢山持っている人もいる 
そうでない人もいる社会は辛いと思う  豊かな人がたくさんいるようだとくじけてしまう
自分自身が卑屈に成ってしまう くじけてしまう  
その裏返しとして或る種の反感 憎しみすら持つかもしれない  
皆が貧しいならば人はそんなに苦労しない

かつて私達の父親母親の時代は皆が貧しかったものですからお隣さんと何とか物を分かち合い
ながら生きていた時代がありました  
今はそうではない そういう時代の中で或る程度物を持っていて、ご破算にすることはできない
母親が良くご破算、ご破算と言ったのはいつ自分達がどうなるかもわからないということだったと思います  
明日はどうなるか判らない そういう風にして生きてきた
明日どうなるか判らない その時は持ちモノを全部棄てる  
そして自分の身一つ生きていれば 母親のもう一つの言葉「何とかなるばい」と言う言葉
「ご破算」と言う言葉と「何とかなるばい」という二つの言葉 はこれを良く耳にしていた  
今思うと「あっ」と思う事がある

福島に入って驚愕したのは ここにおられる皆さんと同じように家庭を持って新築でローンで家を
建てて、子供も居て、新しい商売もしようとして これからと言う時に一挙に全部持って行かれた
被災地に行って写真が散らばっている 出産 幼稚園  小学校入学式 卒業式 旅行 結婚式こういう者がいたるところにばらばらに存在している
同じようにそんなに高望みしないけれど生活してきていた 
これらがすべて一気にご破算になったのは余りにも凄い虚脱感喪失感父親と母親は常にそういう時代だった
商売をしようとしても中小の金融公庫からお金を借りられなかった  
言葉も判らない 国籍もあったから自分で書類を書けない

父親は少しは読めたのでなんとか免許証を取った 
彼らの処世訓 人生を生き抜く力は「ご破算に願いましては」と言う事と「何とかなるばい」という二つの言葉   私はこれは非常に大きな意味がある
この60年で日本が無くしたことはそこなんじゃないかと思います   東大生は優秀です 
試験には慣れている マニュアル化されたものにはコツを覚えている
試験と言うものには回答がある  回答があるからこそ試験問題    
回答の無い時代を今生きている

中々回答がみつからない  何故景気が悪くなるのか 何故地震が来るのか 
何故津波が起きたのか 
何故この様に放射能がばら撒かれるような状況になったのか
我々はマニュアルでは生きられない時代を生きている 非常事態 何が起きるか判らない  
其の時にマニュアル頼りで生きていた人間はとっさに臨機応変
如何したらいいかと言う事が出てこないのではないかと思う  
何かアクシデントがあった時にはその次には何があるかどうなるかわからない  
そのことが今回の津波で明らかに成りました 

 欧州でも金融危機が起こればリーマンショックが起これば安穏としては居られない
こういうようなアクシデントがいつ何時起こるか判らない 
其れを我々はしっかりと受け入れて行かなくはいけない 
そういう時代に我々は生きてゆかなくてはいけない
方丈記  「行く川の流れは絶えずして・・・」  最近良く読まれている  
10年先20年先は安泰とは言えない時代になってきている  
両親の時は頼れるものがなかなか無い   年金も貰えない時代  
自分で自分の事を考えなければならない 時代はそちらの方に向かっている 
 
自分の身は自分で守らなければいけないから友人を大切にする  
弱い存在  だからこそ他人から助けてもらわなくてはいけないし、他人を助けなくてはいけない苦しい時代だけどし方ない 其れを受け入れてゆくと言う事
これは韓国で如何して母親の事でベストセラーなったのか 日本でも私の本が売れました  
或る時代 マニュアルが無い そして私達の背負っているものを、何時亡くなるかもしれない 
それでも人は生きて行かなくてはいけない  
生きて行くと言うようなことが我々の世代に胸打つことが有ったんじゃないかなと
私自身は勝手に考えているんですね 
 
次の世代は お袋の時代と言うのは歴史の中で書物として知る機会 ニュースとして知る機会は
あるかもしれない
しかし生きた歴史としては知る機会が無かったのではないか  
この中で私は母なるものと言うとすぐに思いつくのは古里です
矢張り金峰山が有って立田山が有って有明海がある   
これが私の古里原風景である 矢張り私に取って父親母親の国は生みの親だとするならば
日本は育ての親です   
生みの親と育ての親から本当にお世話になった   
古里熊本は父と母は「こんなによかとこなか」と口癖に 何時も何時も言っていた
父親が亡くなる時にお墓をどこに作るか考えたが立田山の麓に作る  
永野と言う名前で墓に刻んだ 日本の地でお世話になり日本の地に戻る 裏側に韓国の名記載 
何故考えたか 五木寛之さんが昔 新聞に「落地生根 落葉帰根」と書いた 
地に落ちて葉となる  根に戻って行くと言うのが人間の生涯だと
例え自分が生れ育った処ではなくともそこで自分の一生が終えるのであればそこが古里だと  
そういう意味なんだと思いますね
3/11の大震災 そういうことが起きた時に振りかえって見て私達は「ご破算にして」もう一回 
生れ変わろうとする気持ちになれるのか なれないのか
これが問われている様な気がします   昭和20年8月15日 日本の国は廃墟のなかで生まれ
変わろうと あの夏の中で苦しい悲しい 屈辱的だ 
しかし何とかもう一度立ち上がろうと日本は奇跡的な復興を成し遂げた 
 
世界がうらやむほどの社会になりました 今回3/11の出来事が起きました
くるしかった日本の復興を知っている人達が今はいなくなりつつあります 
過去の時代になりつつあります
しかしもう一度私達は生まれ変わろうと出来るかどうか  私も余り自信がありません 
自信が無いけれどそうしなければいけないと思います
私は夏目漱石は大好きです  夏目漱石はウイリアム・ジェームスの影響を受けました  
彼の本にこう書かれていた

「世の中には一度生れと二度生れの人がいる」  
一度生れの人は生れてから死ぬまで幸せな人 
しかし世の中にはいわく言い難い苦しみ悲しみ 不幸や病気、様々な苦難があって 生まれ変わりたい人がいる  これを彼は2度生れの人と言っている   
漱石は2度生れの人になろうとしたと思います
彼は大変な潰瘍で死の間際に有りました 
バケツ一杯の血を吐き出して 生死の間をさまよいました  
2度葬式を挙げたような そういう事をどっかで書いています
いろんな事件があったにしても世界がうらやむほどに日本の社会は良かったと思います  
治安もいい自然も優れている 経済もまあまあいい

皆がそんなに経済的に違いが無く豊かに或る程度は生活できる  
そういう社会は世界を見渡してもそうざらにあるものではありません
今回3/11が有って ただ単に大きな大事件が起きたと言うだけではなくて 今後いつ何時大きな
自然災害が起きるかもしれない
ひとはかならずしも幸福であるから人が成熟していくかと言うとそうではないと思います  
いわく言い難い障害や 苦悩やいろいろなことに出合う事を通じて人はやっぱりものを考えます ものを考えることによって深まってゆきます  

そして自分がどうしたらいいかと言う事を考えてゆかざるを得ない
其れはマニュアルでは考えられない ハウツー的な幸福論では考えられない  
自分で考えて行かなければならない  
「ご破算に願いまして」や「何とかなるばい」というのは父親たちの生きてゆく為の処世訓
だったのではないだろうか
私達の時代はこれで生まれ変わり 3/11以前に戻れないかもしれない  
我々はこれからも生きて行かなければならない
次の世代に日本の美しい風土、自然 伝統を伝えていかなければならない 
生れ変わるつもりでもう一回昭和20年と同じつもりで新しい時代を築いていってほしい
我々は生まれ変わろう 生れ変わりたい 生れ変わらなければならない

2012年5月25日金曜日

吉田菊次郎(洋菓子店社長67歳) ・スイーツで被災地に笑顔を

 吉田菊次郎(洋菓子店社長67歳)      スイーツで被災地に笑顔を  
明治大学卒業後フランス、スイスでお菓子作りを学びました   
その間第一回菓子世界大会銅賞はじめ数々の国際賞を受賞する
銀座に店「ブールミッシュ」(本店銀座)を開業 新しいお菓子を考案したり お菓子に関する研究を纏めたりしています
東日本大震災の時に自ら出掛ける 
東北にも百貨店に何軒か出店している    3/20に出掛ける   
一番最初は水、食べ物が必要 飲料水メーカーとの付き合いもあり電話をして対応を行った
自らも食糧類の(50万食のレトルト食品  菓子の調達102万個)を援助した  
宮城の女川第2小学校を最初出掛ける 
廻りは何もない状態で息をのみました
2500人ぐらいいた 一列に並んで食べ物を貰う為に整然と並んでいた

我々で出来る事をするしかないので 出来ることを進めた  
会津避難所 お菓子を届けると「お菓子だって」と喜んでもらえた
(多少食糧が廻って安らぎの気持ち)
宮城・給食配給センターにも送って広く分配して貰った  
東北の名産を使って 新しいお菓子をかんがえる
名産品 おいしいものがある 酪農でも素晴らしいものがある  
創造力、と想像力でのせめぎ合いで新しいものができる
霜降りとクルミとの融合 のみ込む瞬間に料理に変わってしまって駄目だった 
(お菓子ではない) これをキャラメルで包んだら素晴らしい出来栄えになった
お菓子とは普段お菓子には成れない素材を使ってお菓子にする  
わかめに挑戦した 生臭さが出てしまう
 
砂糖シロップで焚いて生臭さを抜いてから,味噌で以ってほんのちょっと味付けをしたら素晴らしいお菓子が出来上がった    
仙台のおふ にお酒とシロップを入れて調整して菓子をつくったが 絶品だった  
福島では白桃  衣を掛けて天ぷらにしてみた 果汁を封じ込めた 
基は自由なので我々の感性を使って作り上げた  
「東北応援菓」を本に纏めて出した
仙台おふ  仙台味噌等を使って 宮城県の高校生にチャレンジしてもらった 
作り上げた物を食べて「ワーっ」嬉しいとはつらつとした眼をしていて我々は救いになった
被災された方はこれからが本当の勝負だと思っている
地産地消  お菓子と言うものを通して年齢だとかを越えて新しい交流ができたと言う事 
いまでも忘れない言葉がある たまんないよ 
 
今葬式に行ってきたが 綱もだと言って一遍は逃げたが 何を思ったか取って返した 
そして津浪にのまれてしまった
その遺体のポケットには沢山の乾電池が入っていた  
ある瞬間には人間何をかんがえて行動するのか判らない
(乾電池によってラジオ、懐中電灯等に,使おうかとおもったのか? 戻らなかったら命はたすかったと思われるが)  
日本のお菓子業界もフランス、ドイツ等と並んできた  
日本の食材を使って色んなお菓子をつくれるのではないかと思っている 
海の食材も自由に使っていいのではないか    
ツバキ油は食材油脂  
サラダ油の代わりに使ってみたが大丈夫であった(価格は現状問題だが)

2012年5月24日木曜日

星野桂三(画商)         ・忘れられた画家を発掘して40年

星野桂三(画商)  忘れられた画家を発掘して40年
世間で主流として活躍してきた作家ではなくおもに明治・大正時代に活動しながらも 豊かな才能を
発揮しながらも日が当らず美術史の中では埋もれてしまった
物故作家です  近年注目されてる秦テルヲ甲斐庄 楠音等自由で先進的な画風に
早くから注目して作品を収集し、展覧会を開いて再評価のきっかけを
作りました 星野さんは今 京都画廊連合会のまとめ役であり 又各種の美術館の作品購入の
評価委員を務めています
遍コツ 変わっていると言われる  自分では変わっているとは思わない
画廊で「掛け替えの無い日本風景 」を開催した  3/11の大震災 原発事故があって 
自分で出来ることは何かと考えた
150点強 通り一遍の風景画ではない 風景と言っても絵描きという厳しい目が自分なりの解釈で
描いた風景なり その当時の我々には見られない物
そういう風景と言うものがる訳です 其れをそろえて見れば 震災の方々に取ってみても 
そういうものを目に触れることによって癒されるのかなあと思ったのが 
「掛け替えの無い日本風景 」の取っ掛かりですよ

其れを一つずつやっているとこちらでは判らなかった事が見えてくるわけですよ
画商のきっかけは?→学生時代は英語に興味があって アルバイトで通訳を兼ねて美術品を
扱うセールスをお手伝いした 1ドル360円の時代
いろんな人が来る 日本の文化に触れたいと言う要望があった 最初絵なんて興味が無かった
商売をして それで相手から「サンキュー ベリーマッチ」と言われる 
商売をして相手から感謝されるという事に喜びを感じてズルズルベッタリに仕事をすることになる
卒業後2年は画廊に勤める その後自分でやろうと決める 
1960年代後半 うるさい作家たちと直に触れることになる
最初はちょっとしたパンフレット等を作って 美術の通信販売をしようと思った  
有り金はたいてアメリカに飛んだ  何にもならなかった

スウェーデンの方から展覧会をしないかと声が掛る 12人の作家をこちらで選んで1年近くスウェーデン 
ノールウエーを巡回展示販売を木版画は数点売れた程度だった
自己満足のみの展覧会だった  
物故作家中心に転換した理由は?→にっちもさっちもいかなくなって生活費を稼ぐために 
地方を廻って掘り出し物を探すことを始めたが門前払いだった
ある日骨董屋を見に行った ひょっと見たら古い油絵を見付ける  田村というサインが有るが 
判らず 安い為に購入する
いなかの雪景色の絵 何となく良い絵だなと思った その作品を調べることになる 
半年かけて田村宗立と言う人らしいと判る(京都の古い人)
人物を調べ始めると 或る人から本を提供されて其れを読むと面白い 
100数十年前の京都の洋画の草創期の話がどんとでてくる 著者が黒田重太郎
いまから思うと非常に難しい高度なものなんですよ  

ここに出ている人を全部集めてやろうと思った
自分でも判らないと売ることもできないので1から始めようと思った 明治時代 
古本屋を廻って資料を探しまわった 作品、名前を叩き込んだ    楽々とは出合い無い  
有名なものは買えないと諦めるが 買える範囲でも良いものがある
偽物本物の保証は何もない 自分の目でしか見れない 
他の人と同じものをやってては食べられない  ぼちぼちなってきた
埋もれた画家の発掘  直に知っている人が訳のわからない絵でも教えてもらったりした  
(美術史の視点を変える様な事になる)

明治の終わり大正までの作品 知っている人が少なくなった 
日本画家と洋画との障壁は余りなかった(黒猫会とか仮面会とかの運動をやっていた) 
その人達に 日本画家は土田麦僊(ばくせん) 小野竹喬 洋画家は黒田 重太郎 新井謹也 
田中善之助  津田青楓 梅原龍三郎 等がいる
秦テルヲと言う人がいる  自分独自に活動する  
この人の事が気になって調べるがなかなかわからない 或る人が絵を購入してみてほしいとの要望があり 
其れを見てみると秦テルヲの自画像だった   名作だと思った  忘れられている作家だった   
秦テルヲの作品が何十枚も平積みにしてある
全部ほしいと交渉する 70万円だった 資金を融通して購入する(なぜか減っていたが)  仏画
放蕩無頼の絵描きだと言われていたが そうではなかった  一匹オオカミで通っていたが 
血の通っている絵描きだなあと思った

秦テルヲの展覧会をする様になる 甲斐庄 楠音  日本画 扱う画商は当時いなかった 
美術なんか個性が無いと駄目 日本画でも同じ   個性的な絵描きは個性的な絵を描く
黒田重太郎 さっぱり忘れられている  黒田重太郎の凄いところは彼はヨーロッパに行って 
帰ってきてバタ臭い絵を書いていない 洋館を書いていない
日本の風景 身の回りの物を書いている 自分に接する人を大切にしてその中で自分なりの絵を 
日本的な日本の自然風土に根指した油絵を作って行こうとした 
だから普通の人から見たら普通の風景 静物であり裸婦であるわけです   
私はこれは凄いものであるという事をつい最近に判った
世の中に知られていない作家はゴロゴロと有ると思う  
誰かが世に送り出すと言う努力をして送り出さなければいけない

思わぬ出会いがある 不思議な吃驚するような出来事がある 
運命のなせる技かなとか、神様の手がこういうところに働いているのかなと思うんですよ
秦テルヲの展覧会をやって 或る老人が来て あんたになあ絵を3点分けるよ と言われる  
秦テルヲの名作 「眠れる子」 急遽展覧会に展示する
展覧会をすると言う時に出てくる (ほかにも或る)
日本の京都の女流  草分けの人 松村綾子 昭和の初めに活躍した人  
子供ができるが戦後はその子を育てるために引っ込むが その子が亡くなってしまう
最後には銀閣寺の近くのアパートで暮らしていた  

冬にカーペット代わりに新聞紙を敷きつめていたがコンロから火が移り火事で亡くなってしまう
松村綾子の作品を探した  二科展に出した作品等がぐるぐる巻きになって立てかけてある
天に昇天する鯉のぼりの鯉 を書いているキャンバスに向かって書いている女の画家が描いてある  
女は松村綾子の自画像であろうと 鯉に乗っているのは  
自分の子供であろうと思った  その絵が朝日に照らされてぴかっと光った 
これは展覧会をしなければいけないと思って展覧会を開いた
作品は大事にしなければいけないと思う   金さえあれば買えると言うようにはいかない  
お客さんを選ぶのかと言われるが大事にしたい人に売りたい

数千点はある  作家を振りかえるのに1点2点では判らない 作品に聴かなければ判らない  
眼を付けた人には100件を目標にしている
集めた物の内に売れるのは少ない 残ったものが本当に残りかすなのかどうか は別な話 
残りかすだとは思っていないので 勉強はするつもり
絵と言うものに携わってみえてきたものとは? →世の中変なことばっかりでおかしい
(政治、経済 その他) 変わっていないのは美術のみ
華やかなものの影に隠れた美しいものは絶対に有ると思うので我々はそれを一つずつ
探して歩かなくてはいけないなと思っている

2012年5月23日水曜日

堀切実(早稲田大学名誉教授78歳) ・芭蕉と歩いた人生


堀切実(早稲田大学名誉教授78歳)      芭蕉と歩いた人生
卒業後17年間教員生活をして、松尾芭蕉の研究に本格的に取り組み出したのは30歳を過ぎてからでした
「表現としての俳諧」、「奥の細道時空間」の夢 等多くの研究著書を発表してきました  奥の細道をはじめ芭蕉が旅した日本各地を訪ねてきました
芭蕉が日本文化に与えた影響 芭蕉への想いを伺いました
 
芭蕉が奥の細道に旅立ったのは元禄2年3月27日 (今の暦では5月16日)  
すさのお神社の句碑がある 出立の時に詠んだ句「行く春や とよなきうおの 眼は涙」
生と死の狭間について考える→  3月11日の東京大空襲の時に防空壕に居たが みんなお寺の方向に逃げて行ったので私もそちらに行こうとしたら、偶然に出くわしたおばさんさんに止められ何故か火の有る方に行った  
お寺の方に逃げて行った人達はその後の情報では皆焼け出されて亡くなったそうです
 
非合理の美学 偶然と必然 とかを良く読む   
芭蕉に興味を抱くようになったのは?→高校生の時に読む  大学は国文科を選ぶ  
志賀直哉について興味を持った 「城崎にて」
30歳を過ぎてから芭蕉について 平成元年 奥の細道300周年記念のイベントで講演することになり 出掛けて行ったことが本格的な出会いとなった
この時に何度も読み直すことになり、この作品はどうも奥の細道というものの本当の意味 文学としてどう評価すべきなのか  
そういうことが考えて来なかったのではないか  と言う風な疑問を持ちようになりました

奥の細道は何故日本の古典文学と言えるのか 其れを自分なりに考えることになりました  
それから論文を書いたり 芭蕉の足跡を訪ねることになったわけです
隠遁生活  全く世間を離れるタイプ(空也) と 隠遁はするけれども隠遁に徹しないで歌を詠んだりするタイプ(西行) これは俗世間とは離れないで生活する
芭蕉も俗世間の人と交わりながら生活する(日本橋 隅田川の近くに)
37歳の冬に突然日本橋から深川に移る  
原因は定かではないが 無常の想いがあったのでは  風雅の世界に徹しようとしたのでは
自分は半分坊さん 半分は俗人だと 言っている  
西行は月こそ友達だと言っているが芭蕉も月にこだわった
芭蕉に取って旅とは?→毎日毎日が旅の連続である  奥の細道の冒頭の句「日々 旅にして 旅を住みかとす」 これが理想だと言っている
旅そのものが自分の住まいである と言っている  永遠の旅人   (通常は旅は日常からの脱出)
人類は定住生活に入っても旅に憧れを持っていたと思われる  
芭蕉も漂泊する人(後者の人) ひたすら漂泊する人 漂泊遍歴民 日常の文化から離れてひたすら自然に親しむ (種田山頭火もその一人)
諸国を遍歴しながら遊びながら旅を楽しむ人達  遍歴遊侠民 人間の生活、文化に触れながら 各地の人と交流しながら旅をする人達
芭蕉は47歳の時に出発する
   
「波の音 絶えずして 古里遠し」 種田山頭火の句   「旅の価値はその不安にある」(カミュー) (旅は精神的な試練の場である)
「万物はくまなく宇宙を駆け巡って旅をする」(アンゼルセン 漂泊の人)
昭和13年に37年ぶりに種田が生れ故郷に帰った時に蛍が飛んでいて其の時に読んだ句  「生れた家は跡かたも無い ほたる」
芭蕉の弟子 各務 支考 (かがみしこう) 一派(美濃派)が全国に広がる  
昭和40年ごろまで続く
芭蕉の弟子 広瀬惟然(ひろせいぜん)  漂泊の人    蕪村も漂泊の人
 
20年以上前 色の浜へ行った 西行法師が読んだ土地 (敦賀)  芭蕉が立ちよったとこと 
敦賀湾を眺めていたら松島の 小島は月を待つ島  みちのくの霊場  小島へ渡る渡月橋を今回の大津波で破壊されてしまった  
奥の細道の世界には自然の変化 人間の変化についての芭蕉が実感したものがいくつも折りこまれている
「タコつぼや はかなき夢を 夏の月」  晩年 瀬戸内の明石に行った時の句  
海面では夏の月が青白い光を投げかけていて 海の中ではタコがタコつぼの中で、つり上げられる運命も知らないで 短い夜に、はかない夢をむさぼっている という句  

源氏 義経  平家の敦盛 の戦い 一の谷に近いところ  
このはかなき夢と言うのは これらの武将たちのはかない夢 歴史的な感慨が込められているようにも思える  
無情な想いとたこというユーモラスのものが、対称されている訳です   
この句のテーマは実を言うと 「夏草や つわものどもの 夢のあと」(平泉での句) 
と同じなんです

2012年5月22日火曜日

高井治(ミュージカル俳優)        ・私を変えたオペラ座の怪人

 高井治(ミュージカル俳優)         私を変えたオペラ座の怪人  
(1962年1月17日 - )は、日本の舞台俳優である。静岡県出身。劇団四季所属
1986年ロンドンで初演 世界7カ国1億人以上の人々を魅了してきました  
日本では劇団四季が1988年に初演 汐止め劇場では25年目の公演が続いています   
オペラ座の地下に住む音楽の天才 怪人と歌姫をめぐる愛と憎しみの物語  
このミュージカルで怪人を2001年から1900回以上演じているのが高井さん
高井さんは今年50歳 東京芸術大学 大学院を終了後 大学の講師を務め37歳の時にオーディションを受けてミュージカル俳優になったと言う異色の経歴を持ちます
 『オペラ座の怪人』タイトルロールのファントム役では、ハイバリトンの美声と哀愁を漂わせる演技により、高い人気を得ている

実質的には2週続けて休みなし  ロンドンで初演 日本では24周年 高井さんは13年目の公演から出ている  1900回は越えた(2000回は世界で6人目になる)
作品の演じる側としての魅力は?→総合芸術として 見るもの、聞くものを圧倒する舞台の構成、美術、音楽が素晴らしい様式美とお芝居の感動がミックスして完成度の高い作品であるということが成功の一つの鍵だと思いますが、音楽は好きだった 
歌は旨くなかった  高校は音楽系の学校に進みたかった 
先生から歌をやりなさいと 歌の道に進むことになる  
芸大では声楽を選択 挫折するまで続け様と思った  
在学中からステージを踏んでこれでやって行きたいなと思った
世界に太刀打ちできるようなオペラ歌手になれるとかは思わなかった
舞台で主役にならないと成功したとは思わなかった   
37歳の時にオーディションを受ける

生活を安定しようとすると講師の担当時間が増える方向に行ってしまう 
 劇団四季の場合は1年中やっているので安定した生活ができるのではないかと思った
クラッシックの歌が歌える役があるのではないかと思った  
未知の世界だったので不安の方が多かった
最初、キャッツに出なさいと言われた 踊らなくてはいけないので大変だった 
体力的にもきつい
翌年いきなり主役デビュー バリトンとしては凄く高い領域まで出す   
失敗した事は良く覚えている
声がかすれることはあるがその様な事にかまっていられない状況 役でいることがお客さんに感動を与え得ると思う
ミュージカルとオペラの違いは いくらマイクを使っていても支えの無い声はその様に聞こえてしまうので或る程度しっかり歌って喋らないと通らない
役に成りきる 挫折を味わっている人生には共感する  
台詞、動き 舞台を演じること 1000回以上やっていて自然に出来るようになる

最初の頃は作り込まなければいけないという気持ちが強かったが、段々と自分に無理の無い 逆らわないと言うか、嘘をつかないと言うか、自然体でやる様にしている 
あまり考えない方がいいような気がする 
その時の心境で出たものをやればいいと思っている  
自分のコンディションをよくわかることが大事  調子が悪い時に無理をしても駄目なので
若い人は空回りしてしまう事がある(自分自身の事から)  
教育文化奨励賞を地元浜松市から受賞する  
何回やってきても絶対同じ事はできない  
旨く行ったからと言っても翌日も旨く出来るとは限らない
成功したいならば後には引けないと絶対に後戻りはできないという覚悟が無いと成功できない
自分に役割を与えられているので役目を勤めて行きたいと思っている
その日その日を楽しんで味わって そういうのが人生が深まってゆくことに繋がるんじゃないかと思います
やり続けると言う事がミュージカルの使命ですので 息が付けない
この役を続けていきたい 
一回でも多く良い演技をしたい この役にこだわらず新しい役が来たら挑戦していきたい 
お客さんの前で良い声を披露してゆきたい
苦手なことを克服してゆくと言う事はやりがいがある  
得意な物をやるのはそれで満足して終わりでしょうから  
満足する事が無いので、季節も変わってゆくので自分も変わり続けてゆきたい

2012年5月21日月曜日

秋山豊寛(ジャーナリスト)       ・いま学生たちに伝えたいこと 2

秋山豊寛(ジャーナリスト69歳)       いま学生たちに伝えたいこと 2  
宇宙から帰ってきて、肩書だけ管理職の地位に付く  会社も扱いに困っていたと思われる  
会社も余裕の有る時代だったので、金の使い放題のような番組の企画を考えて、天国の様な時代だった  
その後バブル崩壊で国際ニュースセンター長という純然たる管理職になった  
予算、前年度比 なんだとか 上の方針を考えながら仕事をするのが気に入らなくて、会社を辞めることになる
フリーでやっていくのも難しいと理解していたので、食べて、寝て を考えると たべることに関して雑に扱っていたのではないかと考えた

百姓になってみようかと思った  自然との接点もある  
じっくり世界を見ようかと思った  53歳で辞める  
地域のある程度偉い人がいないと 土地を購入するのも難しいと思い 福島県の星野村の村長さんに相談したら、候補地がいくつかあって 売る方も行政の方から話があったと言う事で周辺に言い訳が立つ  1町歩 山が5反 手に入れる  
きのこ(シイタケ栽培) 5000円/kg 原木しいたけで2500円/kg を目標にやってみる事にする 自給的な生活を目指す     
田んぼにしても減反政策ですすきがはびこっている状態で軌道にのったのが5年ぐらいかかった  
毎年いろんなことをやって(雑草を取るのには鯉を入れてみたり、いろいろな工夫を試みた)楽しんだ
一番の節目は米を 種まきして 葉っぱが6~7枚の頃手植えをして 秋には収穫を出来て、俺はこの大地で生きることの本当の基礎を得られた
16年間農業をする  
3/11に大震災があり 翌日の原発事故が起きて 原発事故の取材はしてあったので 基礎的な情報は持っていた
空中からセシウムが検出したとの情報で吃驚 炉心がおかしくなる以外あり得ない  
32kmの位置なので危ないと思ったので逃げなければいけないと思った
郡山に行こうと思ったが、もう一杯だった  磐梯熱海に逃げ込んで5日いた 
そこでも電話等で情報を集める  又移動する事を考えて群馬県藤岡市に移動する
(有機農業の知り合いの紹介)
  
道路では福島からの移動が沢山いた   
移動後 ボーっとしていた(情報を得ながら)  
被爆の状況が心配でロシアのモスクワで10日掛って検査してもらった 
被爆はしていたがただちに健康に影響する程度ではないことが判った
群馬ではきのこ栽培は駄目だろうと思った  
初期投資が掛るし 何をやろうか考えた  
筍をやろうかと思って 竹林を整備すれば何とか出来るだろうと考えた
本当に旨いものを作ろうと考えたら京都だと思った 
  
京都の大学の理事長から話があり 教授に成らないかと言われる
人間と言うのは一生どっかでより豊かに成りたい 物の部分だけでけでなくて考え方も豊かに成りたい、広げたい いままでやったことが無いので年を取ってからやってみたいと言う 生涯教育の分野がある   
将来の国のかたちのモデルとしては一人一人が豊かに成ってゆく    
豊かに成ってゆくと言うのは物を持っていることの競争ではなくて 競争しないと言う事の豊かさだと思うんですよ
とても育ちの良い 恵まれた方たちだと思う(学校での学生の感じ)
身体を動かすことによる情報がいろいろ入ってくる  (眼、耳がメインかもしれないが)
農業体験を経験して貰う  30人限定でやっているが 結構人気がる 
学生たちに伝えたいこと?→日本の自然の素晴らしさ を味あうところから 日本人の感性が再生産されるだろうと思っています

2012年5月20日日曜日

秋山豊寛(ジャーナリスト)        ・いま学生たちに伝えたいこと

秋山豊寛(ジャーナリスト69歳)        いま学生たちに伝えたいこと  
日本人で初めて宇宙飛行をした人  
1942年(昭和17年)6月22日 - )は、日本のジャーナリスト、ソビエト連邦第3級宇宙飛行士、元TBS社員
1966年にTBSに入社 1990年 ソ連 ソユーズに搭乗 宇宙飛行に成功 
1995年TBS退社 福島県にて有機農業を始める
去年3/11の大震災の後 群馬県に移り住んで その後京都に移動して2011/11月に京都造形藝術大学の教授になる
ジャーナリストとして辿ってきた道と宇宙飛行に至るまでを聞きました

最初の仕事はラジオの番組を担当 しっかり聞いてくれる人がいるのでラジオは好き
1967年からイギリスのBBCへ出向  
1967~1971年まで担当 ベトナム反戦 フランスの学生運動が激しかった時期  
文化大革命 日本では全共闘の時代にリアルタイムで経験することができた事は自分にとって凄く勉強になってよかった  
外信部記者 として配属される   
1975年にベトナム戦争の最終期をきちっと見られたので良かった  
ロッキード事件にも外信部としてからんだ
TVの製作の経験も積む  
報道特集担当 自分の好きなテーマを追いかけられるのが面白かった
   
戦後処理の問題 台湾兵の保障の問題 アジアの戦後処理の問題を一つ一つ掘り下げる  
自分では手ごたえがある仕事をしたなと思った(今思えば浅い感じするが)
1980年代はバブルの時代 自分で放送衛星を持とうかと言うような構想が出てきた
TBSが係わるの放送衛星を打ち上げるようならば 社員を宇宙飛行士として送り出そうじゃないかと言うような構想が持ち上がった
当時ワシントン支局長だったので一枚かんで選考の時には名前を入れといてくれよといって進めていたが主担当が亡くなって仕舞い雲散霧消していた  
ロシアの方で宇宙に記者を送ろうとは何となく雰囲気として有った 
 
1985年ゴルバチョフが登場以降 アメリカに対して事実上降参した 
アメリカとしては日本が末期のソビエトに対して経済支援をすることに反対しないと言う姿勢を持っていた
その様なことを嗅ぎつけたものですから ソビエトとアウンの呼吸でいくつかの放送局に打診すると言う事を掴んだ
モスクワに居る社員がさっそくコンタクトを取って 旨く軌道に乗って 行こうじゃないかと言う事になる
直接のきっかけは バイコヌール宇宙基地をTBSの報道特集の記者が取材に行った 
其の時にマクラーノフさんという当時の宇宙担当大臣が視察に来ていた

パーティーでどうだと言う話が出る (1989年の事)   
社内でもクリアされて 若い入社2~3年を対象に募集していたがそんな若いものを対象にするのはおかしいとなり、公明正大にやれとの事になり500人ぐらいが応募する  
以前に病気をしたかどうか等で書類選考で100人対象に21人に絞られ7人に最終的に絞られる  
其の時に落とされた 理由は胃に潰瘍の跡があるとの事 (46歳)  
胃に潰瘍が有るのは男の勲章だと言った
他の人もいろいろ問題があり駄目に成った  
敗者復活になってロシア側に米原万里さんが通訳をやっていて 落ちた人達の書類をロシアの人達が見て選考団長のボロンコフさんに対して米原さんが私の事を 本当に食えない男だと ひねくれていて、嫌みは言うし 、それはまるでロシア人みたいだと言って、其れは面白いと最終選考に入れてくれた     
3週間ロシアで缶詰め状態となり若い連中は環境変化に弱いらしく風邪をひいたり、又やけにはしゃいだりしていた
 
(心理的な面も観察していた模様)  勝手に落馬して 私が残ってしまった   
1989年~1990年にかけて訓練を受ける
訓練所はモスクワから40km 最初はロシア語ばっかり習う 
3か月ロシア語ばっかり その後宇宙理論等  体操もシステマチックに行う
1990年12月2日搭乗 3人1チーム 誰か一人風邪になったりするとバックアップチームが担当することになる    ようやくいけると思った
巨大事故は人為的な問題が多い  システムへの信頼感はあった   
数千トンが上がってゆくので最初はゆっくり、1段ロケット切り離し 2段ロケットの切り離し段階で3Gが掛る   地上に戻る方が負荷が掛る
8分50秒で地上200kmまで行ってしまう 
    
無重力状態に対して ジュースを飲んで身体をひねったら胃が押されてジュースが口から飛び出してしまった
其れは胃液との混合物であり、嘔吐したものと同じ 心理的にも苦しんだ(72時間かかる)
蛙が無重力でどのような挙動をするかなどのリポートする   
睡眠実験とか(医学的な実験)  一番素晴らしいと思ったのは地球を見て本当に綺麗だった 肉眼で見ることの違い  濃い大気 10kmぐらい 
地球はこんな薄い物に守られているのだなと思った  これは命なんだと  
地上に降り立って 新鮮な空気を吸って 命の香りがする空気に感動した   

2012年5月19日土曜日

小川さやか(准教授)       ・タンザニアの路上の逞しき商人たち

 小川さやか(立命館大学大学院准教授34歳) タンザニアの路上の逞しき商人たち  
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科アフリカ地域研究専攻
国立民族学博物館の助教  タンザニアでフィールドワークの路上の商人マチンガという人達を調査しました
その際 自分も中に入って合わせて2年半にわたって路上の商売を体験 その仕組みや人間関係を文化人類学的に調査して研究書に纏め
平成23年度のサントリー学芸賞を受賞しました  
路上の商売の面白さにひかれ17人の商人を動かす仲卸人にまでなったという小川さんは
逞しい路上商人に何を見たのか? お聞きしました

先生の個性にひかれてこの学問を選んだ
後に、同じ時代に生きているこの世界にあって、全く違う文化を持っているところがあると言う事、そこに行って彼らと同じ生活をしながら、、内側から新しい生活世界を理解したいと強く思うようになって、選びました
今までに調査したところ タンザニア、ケニア、ウガンダ 南スーダン エチオピア等  に行きました
マチンガ(行進する男) 路上で商売する人   
タンザニアを選んだのは、現地の国に調査許可証をとってからでないと調査できないので タンザニアは調査許可証が取りやすかったのが理由です
タンザニアはアフリカ東部の赤道よりちょっと下に有る いろいろな国と国境を持つ 国境沿いに大きな町がある 行き来が盛ん ダルエサラームはアラブ人がタンザニアに入植したときに発展した都市で
首都をドドナに決めても、首都が発展してこなかった
 
ドドナが内陸にある首都 日本で放送される野生の報告のほとんどはタンザニアで撮影されることが多いのではないかと思う
ウゴロンゴ国立公園、エレンゲキ国立公園、キリマンジェロ山もある 
都市部ではビルもたち並んでいて、大都市ができている
独立以降、社会主義体制を敷いたんですが、1980年代初頭には崩壊して
1980年代半ば 経済自由化され、資本主義体制になっています
世界最貧国リストの下から数えて、早い方の国  
ビクトリア湖の近くムワンザ市で調査 人口は60万人ぐらい、暑いところ 35℃~40℃近くになる
 
アフリカ諸都市は物凄く都市化が進展している
農業が不振で15歳ぐらいになると都市に集まり職を探す  40歳以下が9割を占める
30歳未満が7割弱を占める 若者の街  
インフォーマルセクター(路上で商売 したりする人達) 都市経済の主役 半分を占める    
フォーマルな人達 公務員、サラリーマンは タンザニアでは2割しかいない  
マチンガ 市内の狭いエリアだけで6000人いると言われて どう調査していいか判らず 調査したい旨を言いふらしていた
バス停でバスの呼び込みのお兄さんたちにナンパされるが、そこでマチンガを調査したいと言ったらその人達を呼んできて その中のロバート君(その後親友になり 調査助手になる)が、そんなのやればわかるよと言って50枚ぐらいの古着をはいっと言って渡された  いきなり行商に連れ出された  

段々商売が面白くなって抜け出せなくなった 
言語は行く前はスワヒリ語の教科書で文法だけは勉強していたが、最初は単語を並べるぐらいしかできなかったが、路上で段々覚えて行った 
私は俗語の喋り方になっている 、今風です
タンザニア人は身長は175cmぐらいで手足が長い 
日本人は手足が短いので日本の古着は合わない 
古着はオランダ、アメリカ、カナダからも入ってきている
値段 中国製の新品と古着は同じ値段 
中国製は品質が良くない(縫い雑で、2回くらい洗うと色が落ちてしまう) 古着の方がむしろ良い  
ヨーロッパはリサイクル業者 チャリティー団体に寄付していて 原価はただ 
リサイクルセンターに集まり 古着の種類によって分類される
ブラウスならブラウスに選別されて45kg塊に纏められて梱包されて輸出される    
タンザニアは農業国 綿を使って繊維産業にしたいが古着が多く流通しているために 繊維産業が育たない
 
政府は古着に対する規制をかける様にしている  
善意等で最初は古着が集められてスタートするが、途中で商売に変わってゆく不思議な世界ではある
古着を全部止めてしまうと規制して仕舞うと 貧しい人達が困ってしまう  
農村部は安い衣類を買ってくれることができる (農作業用とか)
屋根のない道路上に品物を並べて、電化製品もある 中国製アイロン 1000円以下
小川さんが並べているのはジーンズを並べて売っている
街中では1着ずつ交渉するが、農村部では叩き売りをする
   
若い女性が一人でゆくのは危険ではないか?→基本的には一見怖そうなお兄ちゃんですが、仲良くなってしまうと、現地に入りこんでしまうと危険は余り無かった 
彼らはボスから買っているんですが、仲卸人がいて 古着の塊45kgに200枚~500枚入っているがそれを輸入しているのがインド系 パキスタン系の商人たち そこからアフリカ系のお金を持っている商人たちがその塊を買う   
其れを開いて路上商人たちに数十枚ずつ売る  掛け売りが成り立っている 
(農村から来た人たちはお金が無いので例えば1000円の衣類を渡し1200円で売って
1000円は元売りに渡して自分は200円の儲けにする) 
  
返せない場合には仕入れ代金を踏み倒して、逃げてしまう事があるが 農村に帰っても仕事が無い為にまた戻ってきて ボスにいろいろ事情を説明して取り入って和解をする 
なんで仲卸人達は素性のわからない人たちに、駆け売りしているのだと言う事が興味深くてはまってしまった  
初めは行商人をしていたが、自分も棚卸人になる  逃げるのも駆け引きの一環なんだと解った
ボスの商売も、仲卸人の商売も、路上商人の商売も基本的には同じシステムですが、彼らは同じ値段で同じものを平等に販売しない
ボスから1枚1000円だよと言って、買った服があるとすると
マチンガにもいろいろな人がいて可なりお金に困っている人には1000円の品物を例えば500円で売ってあげて、余裕の有りそうな人に対しては2000円で売る 
 代金の返済はそれぞれが合計すると平均的な利益として受け取れる 帳尻はあう

 旅行者には吹っかけて売る   
小売り商(マチンガ)が逃げてしまうのもボスの才覚のポイントであり 困っているマチンガを逃げないで済むように安く売ってあげたり、売れなかった場合は ぼろ儲けしている様な仲間から安い品物を高値で売って売れなかった人を助ける様な事をしている  
マチンガとお客さんとの交渉は?→困った合戦(お互いの生活の困った様子を話して売る方は高く、買う方は安く購入するように掛け合う)する   お互いが納得した値段が決まる
リジキ(その日を生きるために必要なもの、食いぶち と言うような意味)
物の値段は交渉の過程でこの人は、どれくらい必要性があるかと 判断しながら決まるんだと言う事をいう  私の必要性とお客さんの必要性と、天秤にかけて丁度いい価格が値段なんです

奨学金がふんだんにある社会ではないので、いくら自分が努力しても、お金と言う物理的な限界で、そこから先に進めない人たちが沢山いる
タンザニアは生活保障とか生活保護とかは無いし、税が福祉に還元されていることは無い
税金代わりにお金持ちの人からもらって、生活保護代わりに、貧しい人に買えるお金で売って、帳尻があっているんだからいいんじゃないかというような、感覚がどこかにあると思う
彼らもそれなりに誇りを持ってやっている 
それをウジャンジャエコノミーと私は言っている  ウジャンジャ(狡猾さ ずる賢さ)   
彼らは、モラルを持っていて貧しい人達を助けねばならないとは思っていなくて、皆が必死に知恵を働かして生きている  
 
自分の窮状を訴えて、訴えられた方が 嘘っぽいけどまあいいやと言う風に成り立っている  
誰も助けた、助けられた と言う感覚は無いのだけれども 物がちゃんと人のところに廻って行って 助けられたほうも又助けられた負い目も感じず、自分の才覚で生きているんだと思って廻っている
ウジャンジャとは何だろうと考えたが普段自分たちでやっていることだと思う  
社会の潤滑油だと思う  
どうやって機転を利かすか と言う時にルールにがんじがらめになってしまっていると動きずらいが、隙間だらけであると柔軟さを持って行動できる いきずまっているときにもウジャンジャを使えば機知を働かせれば、やっていけるんじゃないかと言う事につながっている    
其れが面白いと思った  
何もかも無碍に駄目とか、いいとかをはっきり決めないで、その時々で柔軟さを持って交渉したり、気転を利かせたりしながら、物やサービスが回る様な商成果を作っているのが面白いと思った
日本ではルールが細かく張り巡らされている様に思う 張り巡らされているからこそウジャンジャが発揮できなくなってきているように思う
ウジャンジャの知恵をもう一度見直したらいいのではないかと思う 

強く思うのは、ルール、制度 社会や経済を動かしているのは一人一人の人間力だと思うんですね知識が沢山あるだけと言うのではなくて 共感力とか、自分を信じられるかとか
機転を利かせられるかとか、ずる賢さとか、旨く人に騙されてあげられるかとか、融通がきくのは いつも騙されないようにと身構えていると駄目で、時には人に旨く騙されてやるかと、ポイントでは騙されてやるものかと 思わないくらいにならないと駄目で 状況にも応じて自分では出来ないかもしれないけど、自分自身にも騙されて思い切ってやってみるとかですね
こまごまとした日常的なルール、制度は、もうちょっと緩やかに考えてもいいと思います
国境を超える商売を観察している(東アフリカの諸国間の越境交易)  
しなやかな柔らかい感じで行くと上手くいくように思う

2012年5月18日金曜日

井上肇(ボラティア山形代表理事)  ・新しい時代の災害ボランティア

 井上肇(ボラティア山形代表理事)   新しい時代の災害ボランティア  
井上さんは高齢者福祉の「ゆいの木」の専務理事    
原発事故で避難してきた福島県の人を世話すると言う初めての経験をしました  
阪神淡路大震災の時に災害ボランティアを立ち上げた  
米沢市には現在避難している方が4000名近くいます  
山形県全体では14000人ぐらいいます 状況が変わってきてその方たちは週末避難だったり(金,土、日)
ご家族の方が旦那さんが福島に居て子供さんとお母さんがこちらに避難していると言うよな家族ばらばらな避難が昨年夏より多くなってきています

米沢と福島 郡山 近い 福島第一原発とは90km 奥羽山脈があってそれが放射能をシャットアウトする役割をしているようです
いろんな問題がある 福島ではもう地元に帰ってきなさいと言うようなキャンペーンもしているし避難者も少なくなっているかもしれない
取り壊す予定だった団地 市内の空き家だったアパート等に入っている方々が多いですね
3/11に大変な震災があった時に新幹線に居ました 
米沢市の近くの駅に止まった 緊急地震速報があり 大きな横揺れの地震が発生した

状況がつかめ切れなかった  タクシーに乗り夜8時 携帯が鳴る 阪神大震災の時に知り合ったボランティア団体の人から電話があった
米沢市役所では其の時には福島の人達が避難してくるとは思わなかった  
最初体育館を避難所にした ボランティアメンバーで運営する事になる
役所ではマニュアルがあるのではないかなと思った 
兵庫のNGO メンバーからいろいろ指示を仰いで貰った 
自治会でボランティアに参加出来る人がいるかどうかを募集してこれがボランティア活動の母体となった

最初は10数人だった  90数人登録はいたが 2年間で延べ200人ぐらいになった
新潟の中越地震の時にも現地のボランティア団体と一緒に活動もした  
阪神大震災でノウハウを取得できた  
正式な避難所は物資が直ぐに届くが自宅での避難 小さな避難所は物資が届かない
米沢での受け入れ  毛布の敷き方 毛布だけでは寒くて駄目なので段ボールを下に敷いてから毛布を敷くような指示も神戸のボランティアの人から指示された
ご飯がおにぎりとかで限られている 豊富な食料が提供出来るように対応できた
或る時には登録者の人の方が避難者よりも多くなってしまった時も有った  
とにかく来てくださいと言って対応して貰った
傾聴してあげることの重要さを体験することができた 
普通に手助けしてやればやるほど垣根が取り払われ話をするようになってくる

毛布は直ぐに現地に持って行ってしまったので 無くなってしまって居て アフリカに毛布をおくるボランティア活動をしている人を知っていたのでその人と連絡を取り合い 米沢の受け入れの為の毛布の調達を進めることができた  
今回の場合はピーク時は60名の人がボランティアに参加 その人達の食事を用意するのに主婦の人達が一品料理を用意してくれたりした(ボランティアのボランティア)
だれでも参加できる仕組みをつくっていった  
行政、企業、ボランティア団体が協力して行えた
市長 避難者に声を掛けていた  グループホーム「ゆいの木」 おむすび作り 

一番旨く行ったことは?→ 優しい気持ちで避難者を迎えてくれた事   
行政の人達は良くやってくれたと思います
知事からの提案書がきてその対応について連絡をしたらすぐに動いてくれた  
給湯器の取り付け費用が無い事に対して知事に提言その対応を直ぐに動いてくれた

2012年5月16日水曜日

大田昌秀(元県知事87歳)     ・本土復帰40年 明日の沖縄を信じて 2

大田昌秀(元県知事87歳) 本土復帰40年 明日の沖縄を信じて 
「基地を無くして平和な島へ」というテーマでお話願います。 
大田総合平和研究所は 「復帰40周年目に問いなおす」という写真展を開催している。   
膨大な数1788点、スペースが足りず全部展示できない。
若い人達に沖縄がたどった歴史の跡をきちっと振り返って理解してほしいと言う気持ちがあって 
県の資料館(沖縄戦の写真展示有り)ひめゆり会館
(女子学徒の写真展示あり)があるが、私の処ではホロコーストの写真、広島原爆の写真も展示している。  
学ぶには那覇から遠くて、交通が不便で修学旅行の生徒はバスで行くので観覧が可能だが、
地元の生徒は交通不便なのでなかなかいかない。

沖縄戦が理解できないのではと何とか実態を知ってもらたいと思って常設している。 
ここならば那覇に有り交通が便利です。
軍事基地も農村の土地を強制的に取り上げて、巨大な重機で作り上げ唖然とする。 
普天間基地の有った所は集落で其れがつぶされて、沖縄では戦後16くらいの民間人の収容所を作って 
生き延びた民間人は全部その収容所に隔離されていて、収容所同士の交流もできなかった。
一年後に解放されたが、自分の家に帰ってきたら、集落そのものが軍事基地に変わってしまった。
近くにテント小屋に住むようになり そのうちトタン屋根の家になり、コンクリートの家へと変わっていった。
米軍の方はそこに住宅をつくったのがいけないのだと言うが、米軍の言う事とはまったく違う。   
やむなく基地の近くにつくらざるを得なかったというのが実情です。
クリアゾーンと言って、滑走路の真向かいには建物を建ててはいけないようにアメリカではなっているが 
学校などができていて非常に危険です。 

アメリカの環境法令に違反する様なことが沖縄ではまかり通っている状態なんですね。
2004年に国際大学にヘリコプターが墜落すると言う事件も起き、復帰した後も5000件以上の事件
、事故が起こっており 墜落事故も15件ぐらい発生している。
50名近くのアメリカ兵が犠牲になっている。  
ラムズフェルド国防長官が来日して普天間基地を視察した時に、こんな危険なところに飛行場があるのは
いけないから2~3年以内に移動するようにとの報道があった。  
辺野古の海はジュゴンが生息している。  
辺野古の海の写真が展示されている。
住民にとって大事な生活の場所です。
日米安保条約は日本の国益にかなうというが、沖縄だけおっかぶされる。  
自分たちはいっさい引き受けようとしないと云うことで、怒りが広がっている。
過去の歴史を振り返ってみると、沖縄の人達はアメリカや日本本土の人達と同じ人間でありながら
人間的な扱いをされてこなかった。

日本本土が大の虫だとすると、沖縄は小の虫の位置付けで  
大の虫の為に小の虫が犠牲になってもやむを得ないと言う発想が貫いている。
沖縄が物扱いされる、手段としておおきな物の目的をするための達成手段として使われてきた。 
沖縄問題は根が深くて本土の人達には中々理解してもらえない。  
そこが問題解決を難しくしているところですね。
沖縄県は日本国土の0.6%、そこに米軍基地の75%が有る。  
沖縄の空の40%米軍の管理下に置かれている、沖縄の水域 29か所ほとんどが 
米軍の管理下に置かれている。 
沖縄は沖縄のものなのに、土地も、空も、海も 自由に使う事ができない。  
軍事的植民地だと認識を持っているわけです。

復帰の時も日本本土は独立して、沖縄は切り離されて軍事基地にされてしまうという、
そういうことがしばしば起こっていて、第二、第三の琉球処分と云う言い方をするわけです。
琉球処分(明治12年)と云うことについて沖縄の歴史を書いた ジョージ・カー と云う人がいるが、
日本本土の廃藩置県と沖縄の廃藩置県は根本的に違うと 
日本本土の廃藩置県は同一民族、同一文化、同一言語を踏まえて近代的な国民、国家をつくるんだと
言う事で廃藩置県を行ったと、
沖縄の場合は沖縄の民族を同一民族として迎えるのではなくて、日本本土を守るための南の門
として沖縄を位置付けて 軍事的な目的から沖縄に軍隊を常駐せしめる土地が欲しかった。
沖縄の人間ではなく土地が欲しかったと言っている。
それが今日の依然として植民地的な状態が続いている、基本的な要因になっていると思いますね。
(明治時代からの構造的差別)
722人の国会議員のうち 沖縄からは8人しかいない。  
沖縄問題を本土議員は声を大にしていっても、中々取り上げてくれない。
多数決原理からいつも沖縄はいつまでも差別される構造になってしまっている。

土地問題で沖縄では8割がた農業、農家にとって土地は生きて行く一番大切なものです。 
其れが軍事基地にされているために、ボリビア等に500世帯単位で移住させられてしまっている。
私が土地の代理署名を拒否した時に、衆議院では駐留軍特別措置法、日本本土では1960年以来
全く機能しなった法律を衆議院で9割が賛成、参議院で8割が賛成して悪い方向に変えてしまった。

知事の権限を取り上げ、総理大臣がその権限を実施で来る法律に変えてしまった。
総理大臣がサインすれば地主が反対しようが沖縄の住民の土地を
強制的に取り上げて米軍に提供するようになっている。  
辺野古の問題も水面の埋め立ても知事の権限であるが、これを又以前のように知事の権限を
取り上げて法律を変えて強行するような事があるのではないかと多くの人達が懸念している。
もしそのようなことが起こってしまうとすると、日米安保条約が根底から崩れる様な事に
なるかもしれないし、絶対に強行すべきではないと思う。 

沖縄基地に対する沖縄住民の考え方は、一番基本的には沖縄戦の体験が土地問題と緊密に絡んでいる
重要なことであるにも関わらず、政府首脳は沖縄戦のこの事に対して知識が無い。  
それでは基地問題に関すること、感情に理解ができないとつくづく感じた。
普天間移設問題で重要なことは、1953年~58年にかけて沖縄の島ぐるみの土地闘争と言って 
農民の土地を強制的に取り上げて基地にすることに対して
住民が反発して沖縄の歴史にかつてない大衆闘争が行われた。  
そういうのをアメリカはよく知っているものですから、日本に復帰して日本国憲法が適用されると
益々沖縄住民の権利意識が強くなってきて、基地の運用が困難になると懸念した。  
1966年ごろから、嘉手納以南の人口の多いところの重要な基地の運営が困難になると
感じて、1960年代の初めごろに、嘉手納基地界隈の基地を纏めて移すような計画を作っていた。
その辺の問題を理解しないで、あたかも移設問題が昨日、今日起きたかのように誤解されていて 
私達はそれをアメリカが解禁になった文書を集めてきてはっきり判ったわけですよね。 

それだけに移設は容認できないと言う事になった訳です。
知事時代に国際経政都市構想を発表、日本本土だけに捉われるのではなく、東南アジアと
緊密にして経済的に補ってゆこうとした。
アメリカにフェテダルエクスプレスという航空ウインが有って、沖縄に支店を出してほしいと要望したり 
香港に行って、世界中の修理工場があり、沖縄の若者を訓練してほしいと言って訓練して貰ったり
シリコンバレーに行って沖縄の若者にIT関係の訓練をしてほしいと言って訓練して貰ったりした。
福建省政府にお願いして土地を出してもらい沖縄がお金を出して、福建ー沖縄友好会館という
ビルを建てて、沖縄の企業が何時でもでて行けるようにした。
その一階では沖縄物産の売り込みをしている。   
香港、シンガポールの様に関税を無くすか、安くして欲しいと政府に要望したが日本では
一国二制度はできないと断られてしまった。
 
梶山官房長官は一国二制度 良いじゃないか、やろうよと言われた。  
喜んだんですが亡くなられて今日に至っている。
一般的に沖縄基地があるために沖縄経済が破綻しないと言われているが、実際はそうではなくて 
返還された基地を実際に調査(メリット、デメリット)したことがある。
基地が返されて民間が使うようになると、雇用は10倍確保できる。 
所得は固定資産税などは100倍になる可能性がある。
基地が返された方がはるかに有利となる、その点が誤解されている。
国際都市を形成する上で語学が重要で、県では英語、中国語、韓国語、スペイン語での同時通訳
を育てようとしていたら、当時の橋本首相が其れに
タイ語とフランス語を国費でもって付けくわえてくれて、6カ国語を育てることになった。  
現在では国際都市構想も弱まってきてしまって懸念している。

平和研究所の最大な目的、沖縄がアジアの要の位置を占めている。  
軍事的な要ではなくアジアに平和を作って、できれば社会に平和をもたらす人間としての
努力をしたいと言う事でやっていて、その意味からすると沖縄の良い、素晴らしい立地条件を
軍事的な目的の為に使わせるのではなくて、アジアの平和を作り上げるその要にしたい。
出来れば平和大学をつくって若い人達に平和の尊さ、大事さを知って貰おうという事でやっていて 
最近驚いたのはドイツ、イタリア、アメリカ 、イギリス 、ニュージーランドとか外国の若い人達が
沖縄に非常に関心を持っていて、博士論文に沖縄を取り上げているのが非常に多い。
論文が500冊取り揃えてある、レベルが高いのにも驚いている。

やり残した仕事の一つに首里城の地下壕、地下30m~35mのところに千数百mに渡って
地下壕が掘ってある。 
日本軍の沖縄総司令部が有った所で普段は1500人、多い時には3000人の将兵が入っていた。 
米軍を入れないということで、壕の入口を破壊してしまっている。  
2000万円を使って、掘り起こして整備して、沖縄を理解してもらうための一つとして 
教育の場所にしようと思っていた。(時間切れで出来なかった。)
やり残した仕事なので生きている間になんとか達成したいと思っている。

若者に引き継ぎたい事。
沖縄の戦前戦後の違いは大学ができたことだと思います、これは有り難いこと。 
学ぶことの喜びを知ってほしい。  
戦場で自分の無知を知らされて、学ぶことができた事は非常に良かった。
とりわけ海外で学ぶことができた事は良かったと思っている。
これだけ沖縄に基地があると当たり前とみなしてしまうのが恐ろしい。 
これは人間が人為的につくった物なので、基地はしょせん人殺しと結び付くものですから
そういうのを無くして、祖先が残してくれた大切な土地を人間の幸せに結びつく生産の場にして欲しい。
返還されたフィリピンのシュービック トクラーク基地に行って副大統領に会って話したところ 
経済的には苦しいが主権国家としての誇りを取り戻したと言われた。
その言葉に凄く感動した。  
返還されたところに200台の中古ミシンを設置して、若い女性が高級紳士服を作っていた。
それこそが沖縄の将来の生き方だと痛切に感じた。  
軍事基地ではなくて人間の幸せのための生産の場にしたいと言う事を痛切に感じました。



2012年5月15日火曜日

大田昌秀(元県知事87歳)     ・本土復帰40年 明日の沖縄を信じて

大田昌秀(元県知事87歳) 本土復帰40年 明日の沖縄を信じて 
1972年 5/15 沖縄復帰 40年になる  大田さんは久米島出身 
昭和20年3月から始まった沖縄戦では鉄血勤皇隊に遍入されて過酷な戦争体験を経験。
戦後はアメリカに留学 琉球大学の教授を歴任した後、県知事を2期務められました  
その後参議院議員を務め 現在は自ら開いた大田平和総合研究所で
沖縄問題や国際平和問題を幅広く研究されています   
「生涯を沖縄問題に賭けて」 というテーマで1回目をお話願います
やぎ料理が好きです。 山羊の皮がおいしい、昔から精気を養うと言われていた。 
(最近はヤギを食べると血圧が高くなると言われる)
平和行政の3本柱  
1.平和記念資料館が小さくて不便なところに有り 移動して内容を拡充しようということ  
2.沖縄戦で犠牲になったすべての土地の名前を刻む石をつくる
3.国際平和研究所を作りたい、東南アジアのかなめの位置に有るので軍事基地ではなくて
 国際平和を発信する平和研究所を作りたい
3番目は時間切れで出来なかったので、県庁を去って2日後に個人で大田総合平和研究所を設立した 
ゆくゆくは国際平和研究所に衣替えしたいと思った。

ノルウェーに世界的に有名な平和学者のヨハン・ガルトゥングがいて、この方を沖縄にお招きしてお話を
伺ったことがある。
私達の平和に関する考え方を改めさせるような、学問的な成果を上げた方で、どうして若い頃に
国際平和研究所を作られたのかと聞いたら、
ナチに突然父が連れ去られて、其の時に父がこんな世の中で無いような世の中を作って欲しいと
言われて立ち上げたんだとおっしゃいました。
其れを聞いて感動した。単に戦争が無い事を平和と言うんじゃなくて、他の人間に対する差別とか
賃金格差の問題、男女差別とか、そう言ったものを構造的差別と呼んで、
その構造的差別をなくすことが積極的な平和だとおっしゃっている。

そういう問題に対応しようと平和研究所を立ち上げた。   その活動の一環として20年アメリカに
通って、沖縄戦の写真、フィルム、沖縄占領の資料を集めてきた。
フィルムは重要で、1フィート運動を起こして県民の浄財を頼ってフィルムを買い取る運動を行っている 
現在も続いている。
常設展示室を設けて沖縄の人達に見てもらったり、観光客に見てもらったりしている。
3Fに30~50名入れる部屋を作って平和大学を設けたいと思っている。
19歳のときに鉄血勤皇隊に入れられた。  
22名の隊員からなる部署で大本営からニュースを受け取った。
情報を各地の部隊への情報伝達を行った。

大本営の情報に誇張とか事実に反している事があり、特に沖縄戦に関しては大本営が発表する
勝った、勝ったと言う事と一歩も出られないという現実
との違いがあり、そのうち私達が嘘を言っていると言う事になってしまって 
非常に厳しい状況に置かれてしまった。
私が戦場から出てきたのが10月23日ですが、将校がもう戦争は負けて降伏したからでてくるようにと 
住民を救いだす役割の人がいた。 
我々はそれを信用しなくて、天皇の終戦の詔書のコピーを持ってきて、それを読んでやっと出る決心をして
捕虜になった。 
情報と見た現実と余りにも考えていた戦争と違っていて、この戦争とはいったい何なのだろうと 
絶えず想い詰めて行った。 

例えほんのわずかな食糧、飲み水を自分のものにする為に敗残兵同士がいとも簡単にお互いに
手榴弾で殺し合うのを毎日のように見ていた訳ですね。
人間が飢餓に陥ったらどうという事をするかと言う事を目の当たりに見せつけられた。  
そう言ったことを見ているうちに、日本の軍隊とは一体どんなものだろうかと
同時に、一番ショックを受けたのは幼い子供達、お年寄りが壕を掘って身を隠しているのを 
兵隊がそこに入りこんで来て追い出して、みすみす砲弾の餌食にするのを殆ど毎日見ていたんですね。
何故こういう結果になったのかと、戦争についてアジアの解放、神聖なる戦争だと学校では
教え込まれていた。
そのまま信じていた、軍国主義を叩き込まれた、如何に間違っていたかを思い知らされた。 
民間人を守るために戦争が有ったと思っていた。

そうじゃなくて民間人を犠牲にして兵隊が生き残ろうとする。 
其れを見た時に一体この戦争とは何かを考えて、なぜ沖縄がこういう状態に置かれるのか
一体沖縄とは何だろうかと、日本のなかで沖縄とは一体何だろうかと考えざるを得なかった。   
其れが沖縄研究の一つになった。
本格的に眼を開かれたのはアメリカに行ってからですね。  
英語との出合い→アメリカ兵がテントで行動している時に、敗残兵が手榴弾を投げるとアメリカ兵は逃げてゆくが、
食糧は敗残兵が持って行ってしまう。 
残ったのは雑誌だとか新聞が有るのみであった。
同行していた東京の大学生の白石さんそれをスラスラ読んでいるのに吃驚した。  
白石さんは中身について話してくれた。
日本はポツダム宣言を受諾したとの事、自分が英語を読めない無知さにショックを受け、
白石さんが英語を勉強したいのなら東京に出てきたらと言われる。

その一言がきっかけとなり東京の大学の英語学科に入学して英語を体得してアメリカにも
行けるようになった。 
英語を学んだことが私の人生を変えた。
1972年 琉球大学に勤めていた。  
絶対教師にはならないと思っていたが、(戦争での経験から教師とは怖いものだと思っていた
)米軍政府の文教部長から留学費用は我々が出したのだから、我々が就職口は決めると言われ、
琉球大学の学長の特別秘書を任されて琉球大学の案内所等を作っていたら、
、そのうち講師をやってほしいと言われ、やっているうちにいつの間にか教授職になってしまった。
アメリカに行って本当の民主主義を知った。 
沖縄は植民地的な状況だと知る様になる。  
これを変えるのにはアメリカで得た知識を具体的に実施するしかないと思うようになる。
琉球大学では沖縄研究、及び沖縄タイムスが批判の解説をしていたので英字新聞を3年ほど発行した。 
アメリカの人間も違う情報を得られて喜んでくれた。
アメリカの軍人も民間人も沖縄の実情を知ることができた。(貴重な英文記録になった)  
喜ばれる一方で反発、批判も有った。
USIS 校正係を募集したが批判的なことを書くと、その校正係が文章をくしゃくしゃにしてしまうと
言うようなこともあったが、当然その人は首にした。

知事を2期務める。 知事になる気持ちは全くなくて、直ぐに断ったが4年経って又来た。  
有る人(社会党委員長)が朝日新聞等に投稿して沖縄はこうあるべきだとか
こうなってほしいと書いてあるが、その様に思うのなら自分の発言に対して自分が責任を
持ってやるのが仕事じゃないかといって この一言に参ってしまって
自分の言論に責任を持てと言われて、自分の言ったことは自らやるしかないと、受け入れて知事になった。
一番感じたのは軍事的植民地と言う位置付けが明確に成ってきたので、植民地から離脱するためには 
基地を撤去することが一番重大な仕事だと見ていた。 
1995年の9月に少女暴行事件が起こった。  
その前にアメリカ国防次官補をしていたジョセフ・ナイさんが東アジア戦略報告を発表しまして
今後30年~50年に10万人を常駐せしめると言ったので、こうなると沖縄は基地が恒久化してしまうと思った。
其の時から絶対の沖縄に基地を作らせないという決意を固めた訳なんですね。
翌年 基地返還アクションプログラムを作って2001年までに返しやすい10の基地を返してほしい、
2010年までに14の基地を返してほしいと、2015年までには
嘉手納飛行場をはじめ17の基地を全部を返してほしいと、そうすると基地の無い平和な沖縄が
取り戻せると、アメリカ、日本の政策にしてほしいとお願いした。

1996年に橋本総理クリントン大統領との首脳会談があるということで、橋本総理が最優先で
返してほしいのはどこかと問い合わせがあり、私は普天間ですと申し上げたわけです。
普天間の周辺は16の学校があるだけでなく市役所、病院があるので、2001年までに10の施設、
普天間を返還すると喜んだ。  
後から11の施設のうち7つは県内に移設すると言う事が出てきた。  
施設は老朽化してきており、移設するとコンクリートで作るので恒久化する恐れがあり
到底移設は容認できないと言った。  
グアムに立ち寄ることがありアンダーセンと言う航空基地がありB52の基地だったが
本国に移転してしまっておりがら空きだった。 
普天間の13倍の大きさで、又アファラ湾に海軍基地があるが閉鎖されて、経済的に苦しいから
沖縄の海兵隊を引きうけたいと言ってくれた。 

あるアメリカの国会議員と一緒に沖縄も視察を行い、帰った後に最初3500人を引き受けましょうと
言ってきてくれた。
非常に喜んだ と言うのは普天間は2000人ぐらいしかいなかった。    
その人(ロバート・アンダーウッドさん)にちょっかいを出す人がいたみたいで数字を出すのは
止めたいとの話があった。 
2006年になると日米再編に関する行程表が出されて8000人の海兵隊と
9000人の家族をグアムに移すと言う事を決定した。 
決定の条件として普天間飛行場の基地を辺野古に作ることが必要だと言われる。  
辺野古には設置できませんと3つの事を言った。

1.地域住民が戦争中に食べ物が無くて餓死寸前になっていた時に辺野古の海から魚を取って、
 やっと命を繋いだ 。 その後 大浦湾から魚を取ってお金に変えて子供を学校に行かせて、
 生活してゆく源になっていた。   生活の源になっている処です。
2.3年間かけて沖縄の環境調査した。  開発を認める所、一部開発を認めるところ  
  現状を保存して手を加えてはいけないところ、に全沖縄を区分けした。
 大浦湾、辺野古は開発をしてはいけない場所に第一位にランクされている。 
3.経済問題  沖縄は基地が無いと経済破綻すると本土の国会議員が言っているが、事実に反している。   
 1960年、基地から入るのは県民の総取得の52~53%だった。
 当時基地で働いていた人は52000人~55000人いた。  
 復帰の1972年時点では20000人に減る。 
 総所得の15%に落ちちゃった。  
 現在は基地から入る所得は総所得の4.6%~5.4%
 基地に勤務する従業員は9000人そこそこ、何で賄っているかと言うと観光産業です。

大浦湾等はエコツーリズムのメッカになっている。    
90歳になるお爺さんお婆さんが辺野古で、10年間も反対して座ったりしている。
沖縄は平和に対する想いが如何に強いかと言う事を学ばされました。   
平和に関する新聞の切り抜きをしているが膨大になっており、内容も積極的で
平和を沖縄から創り出してゆこうと行動の意識が感得出来る。  
沖縄では15世紀~16世紀 尚 真王 武器の携帯を禁止した。 
1609年に薩摩が琉球を侵略した時に、琉球の住民が反乱を起こすとまずいということで、
武器の携帯を禁止した。
ほぼ500年沖縄は武器が無い時代を過ごした。 
素手で身を守るということで沖縄から空手が発達した地といわれる。
沖縄の平和録を学問的に取り組んでいる処です。

2012年5月14日月曜日

斉藤稔(ヨットマン・冒険家78歳)  ・単独航海に生涯をかけて


斉藤稔(ヨットマン・冒険家78歳)  単独航海に生涯をかけて
去年の9月ヨットによる単独世界一周を世界最高齢の77歳で達成して植村直己賞を受賞しました
この航海は困難な西回りで3年の歳月を必要としました  
50歳で仕事を辞めて、ヨットレースに専念するようになった斉藤さんはこれまで8回の単独世界一周に    成功しています    
この中には港に一回も寄港しない、無寄港単独世界一周も含まれています  

少年の様なつぶらな瞳を持っていますが→ 夢を持って夢に邁進している人の目は鋭いし、綺麗だと思います
今はヨットの修理をやらなくてはいけない  
2004年に廻った時のヨットがあり、この修理もパーフェクトに終わっていない
酒呑童子3世の修理(最後の行ったヨットの名称) 1986年に初めて自分のヨットを持った 
(酒呑童子1世)  酒呑童子2世は良い船で早くて、持っていたい 
いま横浜に置いてある   最近のヨットはコンポジットと言いまして、カーボン、ケブラー、マイラー、スペクトンを張り合わせてあるんです

本当はカーボンで出たんですけれども、カーボンだけだと波に叩かれると亀裂が生じてしまう  軽くて強い
39歳で本格的に取り組む  1967年のときに いつ どこでもいい どのコースを通ってもいいが 単独で世界一周したものにはゴ-ルデングラブ賞をやりますと、イギリスが企画した   
ロビン・ノックス・ジョンストン卿が315日掛って記録を作って世界一になった  
50万ポンドの賞金もでた その後危険だと言う事で止めてしまった  
その後もう一度復活させたのが1982年 イギリスのBOCがスポンサーになり同時スタートで3か所の寄港が認められ、スタート地点に戻ることが前提に成った

その後4年ごとにおこなわれた その後4つ止まれるようになり、現在は7つ止まれるようになった危険軽減のため、単独無寄港レースは1992年が第一回目で上記レースの間に矢張り4年に一回開催される  
私はストップする方に3回参加して三回完走している   
これまで8回の単独世界一周に成功 この中には港に一回も寄港しない、無寄港単独世界一周も含む 
無寄港はレースではなくて堀江さんの15日後に出航して抜いた  233日掛る
レースで船がボロボロに成って帰ってくる 
その姿を初めて見た時にはとてもできないと思っていた(プロ中のプロが行うレース)
1月~3月がケープホーンを回れる時期 この時期が比較的海が大人しいがそれでも非常に厳しい 
去年世界最高齢で単独世界一周を実現した  
西回りで一周した人は当時世界に5人ぐらいいた 
通常は東まわり 西回りは海流、風に対して逆に向かって船を操縦しなくてはいけない  
私の予定では10カ月有れば帰って来られると予想していたが、(2008年10月時点  2009年10月には横浜開港150周年に間に合わせる)
まさかあんなに掛るとは思わなかった 
第一は資金不足で希望したヨットがなかなか手に入らなかった  
酒呑童子2世では流氷にぶつかって壊れてしまって無理

横浜→真っ直ぐ南に降りてゆく→オーストラリアの南端のタスマニアを西に廻る→どんどん西に進む→ホーン岬を廻る(難所中の難所本来なら3月中旬に廻る予定
2週間遅れて4/6に廻った  大潮になる 低気圧 天候が荒れる 
 ホーン岬は36時間掛り一睡もせずに眠らずに航海する   
波は15m以上 波高は白く崩れる    風は風速30m~35m   
廻り終ってから漂流する様な状態で船を止める(ブレーキを掛けた状態)  
流氷がぶつかる音がしたが、2時間眠った
 
ロープが流されてしまって、引き上げたが青いロープが1本引き揚げられなかった   
スクリューと舵に絡まっていたようだ(真っ暗で判らない中) 
エンジンを掛けたが プツンと止まってしまう  ようやくロープがからんでいるらしいことが判る  連絡してロープを切って貰おうとしたが 漁船が来て曳航されて、船を差し押さえられてしまう  10カ月とどめられる   
記録を達成するためには曳航した時点まで戻れと言われる 
もう一度ホーン岬を回る事になる)→マジェラン海峡を廻る→北上→バルデビア(サンチャゴの南  
そこでチリの大地震に会う  船の修理をする  右腕を大けがする 
治療に2か月)→赤道通過、北上→舵のオイルポンプがおかしいのでガラパゴスまで戻って直す 部品待ち→去年の9月に横浜に戻ることができる  3年掛る
 
途中であきらめない 事をなしかけて途中で諦めるのは大いなる罪だと思っている  
これが私の信念    身体は余り強くはなかった 
1988年の時のレースで心臓発作を起こしてオーストラリアのダーウィンの病院に担ぎ込まれてしまう(8/31)  その後 世界一周レースに出ないかと誘われて、新艇をつくることになる 酒天童子2世  財産を全部つぎ込む  
のめり込んでしまうのは自由であること  前に向かって進む事  
何回も世界一周をして記録をつくった事   命懸けでやる 達成した時の想いは何とも言えない     
北海が残っている  温暖化で閉ざされていた北極海にルートが出来た  
今まで3人ほど挑戦しているが、皆失敗している
行きたいコースとしては シアトル、バンクーバ→アラスカ→ベーリング海峡→グリーンランド→ドーバー海峡→イギリス を廻ってみたい
資金を作り 挑戦したい   出来れば82歳から85歳で成し遂げたい  

2012年5月13日日曜日

梅田純一(陶芸家)        ・旅は学び舎 人生は不思議な出会い


梅田純一(陶芸家)       旅は学び舎  人生は不思議な出会い
1950年 駒込に生れる 22歳のときに自分を強くしたいと全国徒歩の旅に出掛ける  
野宿など体験 出会いが縁で 徳島県海陽町(旧宍喰町)船津杭瀬に住み19年 
試行錯誤を体験して独学で陶芸の道を歩みました  
多くの人との出会いに支えられて、自分があると言います
ドナルド・キーンさんとの不思議な出会いと交流も梅田さんの創作活動の刺激となっています

「こぼれ梅」 作品集を出版した  梅は小さい頃に大きくなってゆく実にするために小さな実は落ちて行き大きくなる実を助ける 其れがこぼれ梅 
18歳で父親(54歳)を亡くす 其の時に目が覚めた 
陶芸の道に進むために京都に行く(修学旅行で行った経験から京都を選んだ)
家族の理解は有った  身よりも知り合いも無い中を京都に行った 駅で寝て仕事らしきものはないかと歩いて 最初は京都新聞の配達をした
絵つけをもして2年間過ごす   出会いの運のいい人だと自分自身思っている  
食えない作家を応援してくれた
人を愛することによって自分をもっと強くしたいと思った
  
1日300円と決めて1年間歩いて旅をした  
「線と線を結ぶような旅じゃなくて、点と点をつなげていって線にする、そんな旅がしたかった」  権威的な組織の中ではなく物つくりをしたいと思っている
クリエーティブな作品を作るなら生き方に於いても独自の生き方をしたいと思った
星野宏之(旅で出会った人で話の中で住む家を紹介すると約束してくれた人)  
徳島県の廃校になった建屋を見付けてくれて住むところを紹介してくれた
ドナルド・キーンさんとの出会い 個展に出品した時に作品を買ってくれた(20数年前)  
ドナルド・キーン文庫を作って今でも本を送ってくれている

昔土佐藩の若者23人が明治維新に向けて改革をしたいと嘆願するが、追手がかけられる 、同藩の人間と争いたくないので、山を越えて 生き死にを決めた
どの道を取るか かんの浦から船に乗って京都にでるのが目的だったけど船は来ないで追手が来た 徳島藩に名乗りを上げた
この決定をしたのが「船津」と言うところ  そこに姥ユリが咲いていて私がそのユリのスケッチをしていた(そこが彼らの生き死にの場所だと後で知って) 
この想いをユリの絵に託して 23士の絵を書こうと思って書いた 
 
其れを彼に話したら 「ゆく夏や 別れを惜しむ ゆりの昼」という俳句を絵に書いてくれた
其れを陶板(1m×3m)に23のゆりを書いた その横にドナルド・キーンは後でわざわざ来てくれて 「ゆく夏や 別れを惜しむ ゆりの昼」と書いてくれた
其れを2人で相談して図書館に寄贈した  
出会い 毎日何かに出会う(風景、物、人等)  人との出会いが私はしたい  
究極は自分との出会い     自転車や車では駄目  歩くと言うのは考えると言うのとペースが近いし、人と直ぐ声を掛けられる だから山の中を歩くのではなく人家を歩く  
出会い(道であう) 出合い(出会って話して親しくなって心が通じる)  
「出合い」の出来る人は一時の「出会い」を大切にする

独学の道を選んだ理由?→何か人に教えて貰うより人生のページを毎日、本をめくる様にさあ次は何が出てくるのかなと思いながらめくってゆくのが楽しい事でしょう
子供達に言っているんですけれど、学校の先生になるのなら大学に行きなさい、アーティストを目指すなら一日も早く家を出て自分の道を探せと言っている
自分が人生を学ぶと言う事は誰も知らないことを一つ学ぶこと  皆が知っていることを沢山学ぶよりも皆が知らないことを一つ学ぶ方がそれだけで飯が食えると
一人は18歳でもう一人は20歳で家を出てそれぞれの道を探しました 
一人はシルバーの作家(彫金) 弟は革 (革の財布とか アクセサリーとか) 家を出てゆきました
地域での活動 地方の百貨店と共同で個展をやっている
  
110回になる 30年掛ったが、3m×8m壁面に大皿を100枚 並べて夜桜の絵を書いた
 皿の大きさは40cm~70cm 素焼1回本焼き一回 後絵が4~5回 合計6~7回 
これを100枚、600回~700回 梯子を登ったり降りたりした     
これからは毎年一作ずつ10年間やりたい これが夢です  
次は鶴の千羽鶴 組絵皿、今は知識を教える  私は生きる知恵を教える 
今は知恵を教える場が無い   
私は女運がいい 特に母親 12年間母は植物人間状態だが母には感謝している 
色んな意味での生きる力を示してくれている