2012年5月15日火曜日

大田昌秀(元県知事87歳)     ・本土復帰40年 明日の沖縄を信じて

大田昌秀(元県知事87歳) 本土復帰40年 明日の沖縄を信じて 
1972年 5/15 沖縄復帰 40年になる  大田さんは久米島出身 
昭和20年3月から始まった沖縄戦では鉄血勤皇隊に遍入されて過酷な戦争体験を経験。
戦後はアメリカに留学 琉球大学の教授を歴任した後、県知事を2期務められました  
その後参議院議員を務め 現在は自ら開いた大田平和総合研究所で
沖縄問題や国際平和問題を幅広く研究されています   
「生涯を沖縄問題に賭けて」 というテーマで1回目をお話願います
やぎ料理が好きです。 山羊の皮がおいしい、昔から精気を養うと言われていた。 
(最近はヤギを食べると血圧が高くなると言われる)
平和行政の3本柱  
1.平和記念資料館が小さくて不便なところに有り 移動して内容を拡充しようということ  
2.沖縄戦で犠牲になったすべての土地の名前を刻む石をつくる
3.国際平和研究所を作りたい、東南アジアのかなめの位置に有るので軍事基地ではなくて
 国際平和を発信する平和研究所を作りたい
3番目は時間切れで出来なかったので、県庁を去って2日後に個人で大田総合平和研究所を設立した 
ゆくゆくは国際平和研究所に衣替えしたいと思った。

ノルウェーに世界的に有名な平和学者のヨハン・ガルトゥングがいて、この方を沖縄にお招きしてお話を
伺ったことがある。
私達の平和に関する考え方を改めさせるような、学問的な成果を上げた方で、どうして若い頃に
国際平和研究所を作られたのかと聞いたら、
ナチに突然父が連れ去られて、其の時に父がこんな世の中で無いような世の中を作って欲しいと
言われて立ち上げたんだとおっしゃいました。
其れを聞いて感動した。単に戦争が無い事を平和と言うんじゃなくて、他の人間に対する差別とか
賃金格差の問題、男女差別とか、そう言ったものを構造的差別と呼んで、
その構造的差別をなくすことが積極的な平和だとおっしゃっている。

そういう問題に対応しようと平和研究所を立ち上げた。   その活動の一環として20年アメリカに
通って、沖縄戦の写真、フィルム、沖縄占領の資料を集めてきた。
フィルムは重要で、1フィート運動を起こして県民の浄財を頼ってフィルムを買い取る運動を行っている 
現在も続いている。
常設展示室を設けて沖縄の人達に見てもらったり、観光客に見てもらったりしている。
3Fに30~50名入れる部屋を作って平和大学を設けたいと思っている。
19歳のときに鉄血勤皇隊に入れられた。  
22名の隊員からなる部署で大本営からニュースを受け取った。
情報を各地の部隊への情報伝達を行った。

大本営の情報に誇張とか事実に反している事があり、特に沖縄戦に関しては大本営が発表する
勝った、勝ったと言う事と一歩も出られないという現実
との違いがあり、そのうち私達が嘘を言っていると言う事になってしまって 
非常に厳しい状況に置かれてしまった。
私が戦場から出てきたのが10月23日ですが、将校がもう戦争は負けて降伏したからでてくるようにと 
住民を救いだす役割の人がいた。 
我々はそれを信用しなくて、天皇の終戦の詔書のコピーを持ってきて、それを読んでやっと出る決心をして
捕虜になった。 
情報と見た現実と余りにも考えていた戦争と違っていて、この戦争とはいったい何なのだろうと 
絶えず想い詰めて行った。 

例えほんのわずかな食糧、飲み水を自分のものにする為に敗残兵同士がいとも簡単にお互いに
手榴弾で殺し合うのを毎日のように見ていた訳ですね。
人間が飢餓に陥ったらどうという事をするかと言う事を目の当たりに見せつけられた。  
そう言ったことを見ているうちに、日本の軍隊とは一体どんなものだろうかと
同時に、一番ショックを受けたのは幼い子供達、お年寄りが壕を掘って身を隠しているのを 
兵隊がそこに入りこんで来て追い出して、みすみす砲弾の餌食にするのを殆ど毎日見ていたんですね。
何故こういう結果になったのかと、戦争についてアジアの解放、神聖なる戦争だと学校では
教え込まれていた。
そのまま信じていた、軍国主義を叩き込まれた、如何に間違っていたかを思い知らされた。 
民間人を守るために戦争が有ったと思っていた。

そうじゃなくて民間人を犠牲にして兵隊が生き残ろうとする。 
其れを見た時に一体この戦争とは何かを考えて、なぜ沖縄がこういう状態に置かれるのか
一体沖縄とは何だろうかと、日本のなかで沖縄とは一体何だろうかと考えざるを得なかった。   
其れが沖縄研究の一つになった。
本格的に眼を開かれたのはアメリカに行ってからですね。  
英語との出合い→アメリカ兵がテントで行動している時に、敗残兵が手榴弾を投げるとアメリカ兵は逃げてゆくが、
食糧は敗残兵が持って行ってしまう。 
残ったのは雑誌だとか新聞が有るのみであった。
同行していた東京の大学生の白石さんそれをスラスラ読んでいるのに吃驚した。  
白石さんは中身について話してくれた。
日本はポツダム宣言を受諾したとの事、自分が英語を読めない無知さにショックを受け、
白石さんが英語を勉強したいのなら東京に出てきたらと言われる。

その一言がきっかけとなり東京の大学の英語学科に入学して英語を体得してアメリカにも
行けるようになった。 
英語を学んだことが私の人生を変えた。
1972年 琉球大学に勤めていた。  
絶対教師にはならないと思っていたが、(戦争での経験から教師とは怖いものだと思っていた
)米軍政府の文教部長から留学費用は我々が出したのだから、我々が就職口は決めると言われ、
琉球大学の学長の特別秘書を任されて琉球大学の案内所等を作っていたら、
、そのうち講師をやってほしいと言われ、やっているうちにいつの間にか教授職になってしまった。
アメリカに行って本当の民主主義を知った。 
沖縄は植民地的な状況だと知る様になる。  
これを変えるのにはアメリカで得た知識を具体的に実施するしかないと思うようになる。
琉球大学では沖縄研究、及び沖縄タイムスが批判の解説をしていたので英字新聞を3年ほど発行した。 
アメリカの人間も違う情報を得られて喜んでくれた。
アメリカの軍人も民間人も沖縄の実情を知ることができた。(貴重な英文記録になった)  
喜ばれる一方で反発、批判も有った。
USIS 校正係を募集したが批判的なことを書くと、その校正係が文章をくしゃくしゃにしてしまうと
言うようなこともあったが、当然その人は首にした。

知事を2期務める。 知事になる気持ちは全くなくて、直ぐに断ったが4年経って又来た。  
有る人(社会党委員長)が朝日新聞等に投稿して沖縄はこうあるべきだとか
こうなってほしいと書いてあるが、その様に思うのなら自分の発言に対して自分が責任を
持ってやるのが仕事じゃないかといって この一言に参ってしまって
自分の言論に責任を持てと言われて、自分の言ったことは自らやるしかないと、受け入れて知事になった。
一番感じたのは軍事的植民地と言う位置付けが明確に成ってきたので、植民地から離脱するためには 
基地を撤去することが一番重大な仕事だと見ていた。 
1995年の9月に少女暴行事件が起こった。  
その前にアメリカ国防次官補をしていたジョセフ・ナイさんが東アジア戦略報告を発表しまして
今後30年~50年に10万人を常駐せしめると言ったので、こうなると沖縄は基地が恒久化してしまうと思った。
其の時から絶対の沖縄に基地を作らせないという決意を固めた訳なんですね。
翌年 基地返還アクションプログラムを作って2001年までに返しやすい10の基地を返してほしい、
2010年までに14の基地を返してほしいと、2015年までには
嘉手納飛行場をはじめ17の基地を全部を返してほしいと、そうすると基地の無い平和な沖縄が
取り戻せると、アメリカ、日本の政策にしてほしいとお願いした。

1996年に橋本総理クリントン大統領との首脳会談があるということで、橋本総理が最優先で
返してほしいのはどこかと問い合わせがあり、私は普天間ですと申し上げたわけです。
普天間の周辺は16の学校があるだけでなく市役所、病院があるので、2001年までに10の施設、
普天間を返還すると喜んだ。  
後から11の施設のうち7つは県内に移設すると言う事が出てきた。  
施設は老朽化してきており、移設するとコンクリートで作るので恒久化する恐れがあり
到底移設は容認できないと言った。  
グアムに立ち寄ることがありアンダーセンと言う航空基地がありB52の基地だったが
本国に移転してしまっておりがら空きだった。 
普天間の13倍の大きさで、又アファラ湾に海軍基地があるが閉鎖されて、経済的に苦しいから
沖縄の海兵隊を引きうけたいと言ってくれた。 

あるアメリカの国会議員と一緒に沖縄も視察を行い、帰った後に最初3500人を引き受けましょうと
言ってきてくれた。
非常に喜んだ と言うのは普天間は2000人ぐらいしかいなかった。    
その人(ロバート・アンダーウッドさん)にちょっかいを出す人がいたみたいで数字を出すのは
止めたいとの話があった。 
2006年になると日米再編に関する行程表が出されて8000人の海兵隊と
9000人の家族をグアムに移すと言う事を決定した。 
決定の条件として普天間飛行場の基地を辺野古に作ることが必要だと言われる。  
辺野古には設置できませんと3つの事を言った。

1.地域住民が戦争中に食べ物が無くて餓死寸前になっていた時に辺野古の海から魚を取って、
 やっと命を繋いだ 。 その後 大浦湾から魚を取ってお金に変えて子供を学校に行かせて、
 生活してゆく源になっていた。   生活の源になっている処です。
2.3年間かけて沖縄の環境調査した。  開発を認める所、一部開発を認めるところ  
  現状を保存して手を加えてはいけないところ、に全沖縄を区分けした。
 大浦湾、辺野古は開発をしてはいけない場所に第一位にランクされている。 
3.経済問題  沖縄は基地が無いと経済破綻すると本土の国会議員が言っているが、事実に反している。   
 1960年、基地から入るのは県民の総取得の52~53%だった。
 当時基地で働いていた人は52000人~55000人いた。  
 復帰の1972年時点では20000人に減る。 
 総所得の15%に落ちちゃった。  
 現在は基地から入る所得は総所得の4.6%~5.4%
 基地に勤務する従業員は9000人そこそこ、何で賄っているかと言うと観光産業です。

大浦湾等はエコツーリズムのメッカになっている。    
90歳になるお爺さんお婆さんが辺野古で、10年間も反対して座ったりしている。
沖縄は平和に対する想いが如何に強いかと言う事を学ばされました。   
平和に関する新聞の切り抜きをしているが膨大になっており、内容も積極的で
平和を沖縄から創り出してゆこうと行動の意識が感得出来る。  
沖縄では15世紀~16世紀 尚 真王 武器の携帯を禁止した。 
1609年に薩摩が琉球を侵略した時に、琉球の住民が反乱を起こすとまずいということで、
武器の携帯を禁止した。
ほぼ500年沖縄は武器が無い時代を過ごした。 
素手で身を守るということで沖縄から空手が発達した地といわれる。
沖縄の平和録を学問的に取り組んでいる処です。