2012年6月30日土曜日

高樹のぶ子(作家66歳)       ・人生はミステリーと冒険

 高樹のぶ子(作家66歳)       人生はミステリーと冒険       
(1946年4月9日 - )は、日本の小説家。九州大学アジア総合政策センター特任教授 、『水脈』で女流文学賞 、『透光の樹』で谷崎潤一郎賞、『HOKKAI』
「光抱く友よ」1984年に芥川賞受賞 アジアンの国々10カ国を旅をしてエッセーを書きあげる
2004年に昭和30年代に「まいまいしんこ」に私が子供のことを書きました   
アニメ映画になって世界各地で上映された
まいまい 額につむじがある  
感動喜び怒り切なさの感情が動くとそれが立ったりざわめいたりする  
感性を錆びさせないように小説を書いていきたい
好奇心 直ぐに自分に飽きちゃう 一か所に安住できない 
スズメバチは巣を作ると 別に直ぐ作りたくなる
 
去年ミステリーを作った 絵画をめぐるミステリー フランスのロートレックが書いたマルセルと言う娼婦の肖像画をタイトルに頂いている
生涯子供ぐらいの高さしかない画家だった(病気の為に)  
歓楽街のムーランルージュ そこの踊り子たちキャバレーのポスターを書いて一躍有名になった マルセルの肖像画は 右側だけが書かれている反対の顔はどのような表情だろうと思った  
何で片側だけを書いたのだろうと思った  
これらが私の小説を書くモチベーションになった 
 
京都国立博物館に展示もされたが 最終日の朝に突然消えてしまって大騒ぎになった
当時の新聞は盗んだ動機、盗難方法等色んな推理が報道された 
結局のところ捜査は行き詰まり犯人は上げることはできませんでした
勿論マルセルも出てきませんでした  
処が時効が成立した後に或る人物が新聞社に持ちこんできます 
又色んな詮索が行われたが判らずじまいだった
人は死ななかったかと言うと一人亡くなった。 守衛さんが自殺された  
この事件が起きた時は私は22歳だった
その年の12月の初めごろには3億円事件が発生していた  
年が明けて東大安田講堂が陥落した  たて続けに起きた

マルセル盗難事件 この事件をズーと新聞記者が追いかけていた 
その資料を有り難くいただく事ができた その記者がいた新聞に連載することができた
引き受けた段階でいくつかの現代日本の問題にも通じる本質的なテーマが見つかる  
それを私なりに消化して書いてきました 
其の一つは絵画の鴈作と言う問題があります 
絵画の真鴈とは一体どういうもんなのか  
サンセルナ教会はヨセフという聖人をたたえ祭っています  
一番新しく作られた壁を見て吃驚した ラ・トゥールという画家の「大工の聖ヨセフ 」という絵 左側にヨセフが、やがてイエスに訪れる死を予感してか十字架を持っている 」右手にヨセフの仕事を助けるようにろうそくを掲げているのが幼子イエスです  
とても美しい横顔なんですね 
 
そしてろうそくの灯が消えないようにそっと手を添えている其のイエスの手をろうそくの明かりが赤く透けてみえる 
其の絵がとても神々しく美しい絵で一度見たら光の美しさが印象に残り一枚なんですが 其の絵は本来ルーブルの目玉と言っていい様な絵なんです
ルーブルに有るべき絵が何でここに有るのかと不思議に思った  
当時鴈作について調査をしていた
普通鴈作と言うとさばいてお金にするという風にしか考えないけれども そういう金銭的な価値で見るようになったのは日本が戦後 高度成長を遂げるように成って以降のことではないかと考えている  
それ以前 中世とか宗教が浸透していた時代には絵と言うのはとても大きな役目を持っていた  
サンセルナ教会にある「大工の聖ヨセフ 」は鴈作とは云えない もっと崇高な目的でここに描かれているんだと 模写した画家は物凄い腕前でもしかしたら心変わりをしたらいくらでも鴈作ができる お金を作る人かもしれない  
絵と言うものは聖なる模倣と犯罪としての鴈作 之が本当に裏表のように人の心一つで二面性を持っているという事を改めて感じました  
その違いはなんだろう 人の心のみだという事ですよね
 
マルセル盗難事件が起きた1968年当時日本人はヨーロッパに対して文化コンプレックスを持っていた 
文化コンプレックスとしての裏返しとしての国の威信と言うものがあってそこに犯罪の付けいる隙があったのではないかと言うのがわたしの推測でもあります 
警察の捜査も今から思えばずさんでした   
世間ではどういう見方をされていたかと言うとこれは美しい作品なので ファンによる愛着の犯罪だと独占欲で盗まれたのだと一斉に流された
文化庁の長官まで犯人に対して「貴方は窃盗犯ではない ただマルセルを愛しただけなのだから 返して下さい」と言うような呼びかけをした

実は日本人のメンタルティーの裏をかいた犯人がいたのではないかと今の私は推測せざるを得ません
現代から40数年前の絵画盗難事件を見ますと、逆にこの40数年間の日本の変化 日本人のメンタリティーの変化あの頃はナイーブだったなあ 心優しき日本人だった という事かも知れません もっと合理的で科学的な目を現在は備わっています 
捜査も科学的な手法は取られますし 今と40年前は全然違います   
今を生きている30代の女性を主人公にして父親が残した資料(実際には新聞記者が残した資料)を元にこの事件を訪ねるという方法で恋愛を交えて小説を書いた
科学するというのは真実に対して謙虚に成る  
謙虚さのことだろうと思っている 先入観を取り去ってものを見る それが大事なんだと思います
先入観が如何にいい加減なものであるかと言う事が長年生きていると判ってきます 
つまり疑い深くなる 

去年の大震災で色んな価値観が替わりました 安全神話も壊れました 
そこで何も信じることが無くなったかと言うとそれでは駄目だと思うんです
すべてを疑うけれど根本から自分の目で確かめたものを信じてゆこう 拠り所は自分の目で確かめたものだけだ そういう感覚が日本中に広がりつつある
大震災がもたらしたちいさいけれども大事なポイントだと思っています  
一言でいえばいろんな情報が寄せられた時に「本当にそうなのという素朴な疑問」
40数年前には無かったことです  
いま日本人は一人一人が自立し始めているのかもしれない  
大きい犠牲を払ったけれどもそういう意識を持ち始めている
のだろうと感じています  せめてそれぐらいはあの震災の一つの結果として持たなくてはならないとその様に感じています  

2012年6月27日水曜日

辰巳 芳子(料理研究家88歳)   ・生きることと食べること 2

 辰巳 芳子(料理研究家88歳)     生きることと食べること 2            
長い間結核療養を過ごす  15年間   
学問を心指したが体力がいるので諦めた  
料理の感覚は直ぐに戻った          自分の中に残ったのは料理かなと思った
42歳の頃に料理の道に進むことを決める  
母からは和食 加藤正之先生からは洋食を習った  
スープに向かう姿勢について習った
スープの基本は自然なものから其の持っている力をどういう風に貰うかであって 自然の素材と心を合わせて静かな心でやらないといけない
男の料理人は材料を人間の力でこなしてしまう 自分の思うようにしてしまう 
 
私は体力が無いのでそのものに従ってゆく方がそれらしさが出てくるというのが判ってきた   人間と人間は心を開かないと人間の関係性と言うのはそこに出てこない    
ものの世界も同じ  例えばカボチャ  カボチャに無理をさせない 
無理させないやり方とは 切り方 火加減だと思います 
かぼちゃの命は種に有る  
先に種だけを静かに煮る 種から出てきた汁を加えて それを身の方にたいて行く
そうすると違わなければいけない  
煮魚は2枚におろして骨の有る方と骨の無い方に分けてにるが、私は3枚におろす 
骨は骨 頭と 20分ぐらい焚いて、骨のうまみを出して それにもう一遍調味料を足して 魚の身をたくようにする 
そうするとおいしい
   
骨湯をかつては飲んでいた 骨のエキスを飲む  
煮魚は最初 酒をパーと掛けてやってから蒸かすと生臭みが一気に解消してしまう 
その身を魚が炊き出したものの方へと入れて一緒にしておいしい味にして頂く
日本人の脳神経はピアニシモ(音楽で、強弱標語の一。きわめて弱く)で使う 
蒔絵、の美しさ 金粉を蒔く 箔を置く 細い線を書く 
ああいう工芸は他の国に有るでしょうか?
夏の日本の羅とか紗とか絽の難しい織り方 今は全然見ないけど あれは世界の人は織れない   
貝塚ができるほど貝を食べた  神経が違う(動物を食べた神経とは違う)
スープを作るのには時間が無いというが段取りで出来る  
自然と言う実態(時間の短縮化が進んで)に関する感覚が違ってきてしまうのは問題があると思う
米を白米にしてはいけない すくなくとも胚芽米 麦も食べなくてはいけない
貝のコンソメ     無い物ねだりはしない 
自然体で生きる   父の着物に包まれて思ったこと  
命とは何かと言う事をずーっと考えた
祖父との別れ 祖父との交流で自分の存在の核の深いと事に祖父を置いて自分の魂の向け場所は祖父との関係に有った
祖父が亡くなったら魂の抜け殻 茫然として暮らしていた(5歳の時)  
笑って遊んでいても心の中には風が吹き抜ける場所を持っていた

自分の魂の置き場所をはっきりしているので夫が戦死してもそれは外側の部分であったので私は動かなかった 
私自身は変わらない 大事には思っている
叔母たちと一緒に畑で鬼ごっこをしていた  
風の音が空虚に成ってからっぽになってかぜが温かいと思って やだなあと思った 
冷たかったら良かったのにと思った
「食と命」本  つきつめて書いた本は無い それを書きたい
大豆の100粒運動(本当は小学校を訪問しなくてはいけない)   良い食材を伝える会  

2012年6月26日火曜日

辰巳 芳子(料理研究家88歳)   ・生きることと食べること

 辰巳 芳子(料理研究家88歳)  生きることと食べること
1924年 - 東京・目黒・長者丸に生まれる。
父・芳雄(大成建設常務取締役)、母・浜子の長女として生まれる
(辰巳家は加賀藩の家臣で、祖父は横須賀海軍造船校舎へ入学。18歳でフランス留学。
日本で初めての軍艦を造った。のちに三菱造船の創立に関わる)
料理家母親の手料理で育った 40歳の頃にイタリア、フランス料理を学ぶ  
父親の入院の為に毎日丹精こめたスープを作って届けました
其の命のスープを代表して家庭料理の大切さを訴えています

日本が持っていることと持っていないことを仕分けをした方がいいと思う  
そうするとこの国が生きてゆくすべを再発見するのではないかと思う
車や半導体を見ていると息が詰まってしまう  
祖父の影響があるかと思う  5歳の時に無くなった  
朝顔とか菊を作っていて植木鉢の裏を返して 根はこの様だという事を見せてくれた
ものの道理から入って行って 祖父がずっと一緒に居て教えてくれた 
父は大成建設 戦争末期 満州大倉土木に行った 
生きているかどうかが判らなかった 
毎晩母はお経を唱えていた 

お金にも逼迫していたと思われるが母は一度も言わなかった  
配給になる前から畑をやったことも無いのに母は畑を耕して麦、芋、そばだとか作っていた
母は美味しい食べ物を作るのが得意であった  
料理研究家 って嫌な呼び名だねと言っていた  母は私は職人ですよと言っていた  
主婦は管理職 
旬の動きと人間の生理とは車の両輪なんです   
蕗のとう よもぎ 順番に出てくるものを料理とする 
海のものと陸のものを一緒に作ることによってバランスが取れる

母からは料理そのものは教えてもらわなかった  母は物を見抜いて仕事をできた人  
お婆さんが河岸へ連れて行って大根の山を見せてこれは漬物 これは煮物、とかを教えてくれた私は自分を職人だとは思わない 勤勉だとか努力家とは思っていない 
興味のあるところを突きつめて行って判ったらおしまい  
非常に冷たく醒めてしまうことがある 
結核で苦しんできた 
結核で身に付けた、重荷が頭の上を通リ過ぎるのを待って、やり過ごすのを小さくなって見上げている様な そんな生きかたじゃないですかね
今でも戦う気持ちは全然ないですね 病気の時も闘病という気はなかった 
行ってくれるのを待っている 

料理を教えて行くうえで生徒をどう導いたらいいか ピアノの有名な演奏家が生徒を教える番組がありそれが参考になった
先ず弾かせる 間違ったら今そうやんなさい 最後までちゃんと正しくなるまで弾かせる  
ただちに直させますよ  料理もそうでただちに直さないと直らない
母からもらった手 動かしたいように手は動く  有り難いと思う  
佳子は私には持っていない理屈を持っていると母は言った  
食材を整える  克己心   
人は何故食べなければいけないのか 10年経っても判らなかった
呼吸も食もひとしく命の仕組みであると云う事を言ったり、自分をなだめた、故に食べなければならない
 
福岡伸一先生が食べる理論を示した     胸が高鳴るような興奮を覚えた
食べるということは油さしではない 生きてゆく為の油さしではない  
食べるということは生命の刷新である 
食べることによって古い細胞は身体の外に出て行って、新しい細胞が作られてゆく   
食べることの大事さを皆に励ますことができるようになった

2012年6月25日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(田中優子)

天野祐吉             隠居大学(田中優子) 
1952年横浜生まれ。法政大学大学院人文科学研究科博士課程  
専門:日本近世文化・アジア比較文化    法政大学教授 江戸文化研究家   
アジア比較文化論等、 「江戸の音」 「江戸の想像力」 の本が刺激的だった  
「世渡りよろず知恵袋」 最近出版の本

大学で教える時間以外は着物   江戸の隠居について話を伺います。  
現在還暦を迎えた。  定年まであと5年   江戸時代 隠居は憧れだった。 
伊能忠敬 は隠居の達人だった。  17歳で婿入り 豪農の家に。 資産を10倍にする。  
40代になってから天文学を独学で学ぶ。 隠居して江戸に出て本格的に学ぶ。
私費を使って測量をしていたら幕府からも援助を受けて進めた。  隠居仕事の業績。
井原西鶴 の活躍は全て隠居後。  大阪の裕福な商人なので番頭に任せる。 
30代で隠居して俳句をたしなみ始めてその後小説を書くようになる。  
膨大な量の小説を書く。  江戸文化は隠居文化です。   
江戸時代は個人の判断で隠居を決める。   
隠居料が出る。 (武士の場合 人口で10%程度)
 
一般は 相続の10~30%は隠居料として確保する権利がある。  
子供が全部確保したいと思った場合 裁判を起こすことができる。
老人を大事にする空気が江戸時代はあった。 
隠居屋があった。(子供と暮らす必要がなかった) 
幕府は養老手当を渡した。(80歳過ぎるとでるが、今ほど高齢者はいなかった)
「宵越しの銭は持たない」 腕のいい職人がよく使った。 
美味しいものを食べて、余ったものを他の人の為に使った、そのような話が出てくる。
落語 「文七もっとい」   50両が戻ってくると、若い男が身投げしようとしていて、それで50両をやってしまう。 死なせるわけには行かない。・・・。
「文七もっとい」芝居にもなっている。
 
俳句人口が多い。 俳句 お金が無くても遊べる。  お金のかかるレジャーが最近の傾向。  日本には無料で遊べるいろいろなものがあるのに、もったいない。 
絵を描く人も江戸時代は多かったようだ。
浮世絵 当時浮世絵安かった。 
音曲 稽古しに行かなくても 本屋さんで歌舞伎の台詞集で自分でもやってみる。  
自分でやりたがる人が多かった。
落語「寝床」  義太夫 下手な大家がやる。 無理やり聞かされる話。  
川柳 等も自分でやりたがる。
落語「あくび指南」(あくびの仕方を教える)  
俳諧 俳句ではない。人と一緒に遊んでいる光景が多い。(連句を楽しむ)  
3人ぐらいからやっていた。
  
旅  お金を使わなくても お伊勢参り  村で組んだパッケージ旅行 
自分の金を出さなくて済むような田んぼ(伊勢田)があってそこからの収益で行く(人選が必要)
一部の人しかいけないので、必ずお土産を買ってきた。 (御利益がある)
芭蕉  
全ての活動が隠居後 お金も無く 「つて」があって連句の会を催してくれる(授業料替わりに宿、食べ物を提供してくれる)
福岡の50歳と52歳の女性がお伊勢参りをするが、結局江戸まで旅をする。
手形が無くて、関所を通らず裏道を通って江戸に行く。 5か月の旅をする。 こんな旅ができた。
女性の隠居が勿論いた。  旦那が亡くなって子供に身代を譲った後  
四国88か所めぐりの街道筋ではお米をくれたり、お金をくれたりしてくれた(或る程度を決めて)
88か所めぐりは江戸時代に発生した。  
江戸時代は助け合いの精神が強かった。  ある種の信仰心がある為に。  

「江戸の音」 当時は能楽 笛、太鼓、つづみ  禁欲的な音楽がずーっと続いていたが
三味線の音が突然出てくる。    
猥雑な能感 大衆の欲望が解放された。  
三味線の音が非常に大きな役割をはたした。
文化の発展が一気に江戸に出てきた。  人
口が急激に上がる (新田開発が理由と思う)  
職人が多くなる(国の中で自分たちで作ろうという姿勢) 凄く大きな活気が出てくる。
中国から琉球に伝わり 日本に三味線が伝わる。   
最初に三味線を弾いた人は琵琶法師だった。  
琵琶のばちを小さくしたのが三味線のばちになる。
日本的な三味線の音に成ってくる(ばちの変遷により) 人の気持ちをわくわくさせる。
能の音楽は聞くと人を厳粛にさせるが、三味線は華やかになる。

120万人が一時期江戸に居た。  人口増減、経済成長率が殆ど変わらない。 (江戸時代)  
経済は成長しなくても廻っていればいい。 
成長しなくてもいいのでは、循環システムが江戸時代はあった。   
人口はある程度減った方がいいと思う。 但し活動力が減ってはいけないと思う。   
いいものをドンドン創り出してゆく。   江戸時代も流行はある。 商品はちゃんと作られる。  
クリエーティブであることが大事。  循環出来ればいい。
江戸を単に懐かしむだけでなく、未来像として江戸を見つめ直す事は大切だと思う。  
「未来の為の江戸学」発刊した。










2012年6月24日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(富山県)

五木寛之         歌の旅人(富山県)        
富山県  人間が名産  実業界の創始者が多い  
人材の王国  安田財閥の安田善次郎  丸井の創設者、青井 忠治  ホテルの大谷 米太郎  文房具、黒田善太郎  建設 清水喜助
   出版 角川 源義  新聞、正力 松太郎    信州の気風に近い     
俳優 室井滋  左幸子  柴田理恵  野際陽子   
作家 源氏鶏太 サラリーマン作家  
気骨の有る方々が生れる地域性  或る意味厳しい自然 
厳しい歴史の中で生き続けてきた県  叛骨何くそというような

「上海帰りのリル」 津村謙  時代を表す歌(引揚者を想わせる)
富山港は重要な拠点 古代の時代から結構富山は日本海沿岸の重要な存在だった   
風の盆」 昔は静かな町内のお祭りだった
「越中おわら」 難しい歌  
親友が富山出身で「越中おわら」を歌いお囃子を強要した記憶がある 
 
「風の盆恋歌」石川さゆり

踊りの流れの中に古い念仏踊りの中の所作が入っていて いろいろな独特のものがあって それが海からやってきたという感じがするんです
長崎、中国から文物が船に乗って 港から入ってきて 踊りやなんかの音楽の中に紛れ込んできている  ちょっと非常にインターナショナルな感じがする、風の盆の特徴ですね 
伝統的とは云いながら 念仏踊りの景観を引いている様な気がしますね  
艶ぽい踊りなのでいろいろな文化が入っているんですね  
海の文化と山の文化が織りなしている

伊藤敏博 「さよなら模様」  シンガソングライター(当時国鉄職員  富山車掌区の車掌)

瑞泉寺 立派 木彫とか いろいろ  一向一揆の富山の中心として為政者と対峙した  
寺内街(寺の中に街がある) 街と寺との運命共同体の様な、寺が滅びるときは街も滅びるというような  防御の街であり 信仰の街でもあるという 生活の場、戦いの場、信仰の場  が一体となっている寺内街が各地に沢山出来た  
中世の日本の歴史の中には非常にユニークな出来事  瑞泉寺は其の一つとして その当時は北陸に一大拠点として、人々から熱い視線を集めた寺であった    
現在 工芸の寺 街として栄えている    
かつては織田信長さえも畏怖させる様な力があるお寺があったんだと、13世紀~15世紀にかけて 叛骨の精神がつちかわれたようだ 
  
立山 霊峰 修行の場として山に登った  
「少年時代」井上陽水  藤子不二雄(富山出身)の映画の主題歌
食べ物  海の物  氷見の魚を食べると他のものは食えないとの話がある  
「黒部の太陽」  黒部ダム建設   土地は人 
五箇山 合掌作り  その土地に根付いた文化が大事  「はぐれこきりこ」

2012年6月22日金曜日

宮城能鳳(組踊人間国宝74歳)  ・沖縄の伝統芸能組踊を支えて40年



宮城能鳳(組踊人間国宝74歳)   沖縄の伝統芸能組踊を支えて40年
組踊は歌舞伎と同じような形式を持ち音楽、舞踊、台詞からなる舞踊劇 音楽劇です
沖縄が本土に復帰した昭和47年には国の無形重要文化財に指定されました  
2010年にはユネスコの無形文化遺産にも指定されました
子供の頃から沖縄の伝統芸能に親しみ23歳のときに本格的に師匠について勉強して平成18年人間国宝に指定されました

沖縄復帰40周年記念でいろいろ行事があり、呼ばれて忙しい  
山本東次郎先生とご一緒に能楽堂にも参加させてもらっている
以前は本土ではあまり知られていなかったが ユネスコの世界遺産にも登録されたので理解される様になった
歌舞伎、浄瑠璃 能と同じように高まっている感じがする
沖縄県立芸術大学で週3回  国立劇場組踊の研修で週 2回 やっている  
稽古場での若い連中への稽古も行っている

普段のけいこでも2時間は立ちっぱなしでやっている   
見た目にはゆったりしているが身体全体で踊るので 身体を鍛えていることになる
父は村踊りの地方をやっていたので小さい頃から舞踊のたしなみはあった 
民謡を聞いたり舞踊をやったり、父の友人が家に来て(古典音楽をやっている人)
週に2回~3回来ていて 舞踊の師匠でもあったので 踊ってごらんと一緒に踊ったりしていた  自然と琉球の芸能を覚えて行った
姉は村踊りに出掛けてリーダーをしていた そこでも一緒に出掛けたりした 
   
高校では元々音楽が好きだったので 音大に行こうかと考えて 音大に行く為の勉強をした 
声楽、ピアノ等をやっていた
3年の時に母が亡くなって経済的に大学に行く余裕が無くなって 琉球政府に就職した   
那覇に通っていた(庶務)  にしめじゅんじさんに決済を仰いだりした
最終的には琉球芸能が私の歩む道であると気持ちが湧いてきた  
宮城能造先生の舞台を拝見して身ぶるいをして感動した
女形は地方では見ることが無かったが 宮城先生がやって 女以上に色気の有る 色艶の有る色気を感じた  門をたたくまでには時間がかかった

15歳より玉城源造、宮城流・流祖宮城能造に師事し、組踊、琉球舞踊を本格的に学ぶ
23歳の時に宮城能造先生の門下になる   初対面で感じた印象 
ひ弱な人がやっていけるかなあと思ったという(47kgと痩せていた)
石橋をたたいて渡る性格だが始めると頑固いってつにやってゆくタイプ  勤めを辞める 
周囲からは頭がおかしくなったのではないかと言われた

29歳で新人賞  30歳で優秀賞 31歳で最高賞 沖縄の舞踊賞を貰った  
当時は少ない人数だったので短い時間で賞を貰えた
宮城能鳳 の名を襲名する (31歳)  昭和47年本土復帰の時は34歳 国の無形重要文化財に指定される  大きな励みになった
指定要求に女形を男性がやってゆくことになる  
歌舞伎は女形は女形一辺倒だが 組踊では青年の踊りもこなさないといけない
(車の両輪のように)

師匠も空手の有段者で女形をこなすにも男の凛としたものを持っていないといけない
役者はしっかりと舞踊を身につけていないといけない  舞踊、台詞 音楽
68歳の時に人間国宝に指定されました  組踊の人間国宝は一人  
若手の育成を担う
沖縄芸大 平成2年 から教える  今では大学院だけを見ている  教え子たち今頑張っている  世田谷のパブリックシティー 若手中心でやっている

演出、台本、脚本も若手が担当してやっている  
 最近は若手の観客が増えてきて楽しみ(演者が若返ってきている事もあって)
場所を余り選ばず 場数を多く踏んで場所にこだわれずやっていて心強く感じる
上演する演目が少ないので演目を増やすような作品作りもしたいと思う
伝統の様式美も守っていかないといけない  
 仇討ものの多い中で世話物を増やしていければいいと思う(7~8割が仇討もの)

2012年6月21日木曜日

飯塚俊男(記録映画監督)      ・日本の自然文化誇りを描く



飯塚俊男(記録映画監督)   日本の自然文化誇りを描く
(1947年9月19日 - )は、日本の映画監督。記録映画の分野で活躍している。東北大学卒業 東北大学在学中から記録映画の世界に入り 多くの賞を受賞してきました  
最新作は「プッチーニに挑む岡村喬生のオペラ人生」です

40年は記録映画を撮っている  2011年プッチーニ祭 
最近はドキュメンタリーをつくるのは非常に難しくなってきている  
岡村さんはだいぶ前から蝶々夫人の誤りが沢山あることに(日本文化の誤り) 
演出上の誤りが多い  蝶々夫人は日本を舞台にしたオペラであるのにも拘わらずイタリアの
原作オペラなので日本文化を理解してなくておかしな表現に成る 
 
台本にも誤りがあるという事を見出して(5~6年前から)直した台本を使ってイタリアに行って
プッチーニの故郷の劇場で直した台本で上演するのだと言って皆に訴えかけていた  
ほとばしるような日本人の誇りを無視されるという処に対する怒りと言うものがひしひしと伝わってくる  
一途に自分の感じた間違いに対する憤りを簡単には捨てきれずにずーっと貫いてゆく姿勢に面白い人だなと思ってポイントになる出来事があると撮影してきた  
NHKの番組になった 
 
小川紳介監督の 小川プロダクションに学生時代に入ったのがきっかけ  
若者の反乱の時代   三里塚の空港に反対する農民の姿が代表作 スタッフに段々組み込まれてゆき 政治よりも面白いなと考えるようになった  
人間に対する接し方が人間味 あったかさを感じて面白いなと思った  
マスコミの視点と小さいプロダクションとの見方は違っていて 客観的に見ることが必要であるが
 当時農民は孤立していて俺たちの気持ちはだれも判ってくれないと言うような状況だった  
そこにドキュメンタリーの集団が入っていって 主張だけでなくその背後にあることを掘り下げてゆく 村の共同体の歴史であるとか背後に有る世界を掘り下げてゆく  
農民が何でこの様な事にこだわるとか どんどん深く掘り下げてゆかなくてはいけない  
農民の映画をとりながら 民族学とか日本人とかを そういうものを勉強しながらやっていました
小川プロダクションには20年所属した  農民の歴史、考え方等を深く掘り下げようと山形県の農村(100軒ぐらいの集落) 牧野村(まぎの)に行く
15~6年はお世話になった  家族も一緒にそこで生活する  
ドキュメンタリーの手法は定点観測  一か所にずーっと止まって歴史、人間の有りよう 風土 生産 経済 ずーっと徹底的に掘り下げてゆく   
人間の暮らしの普遍性に至るというか そこをきちんと見つめ続ければどこの村とかどこの人間の暮らしも 見えてくるんだという  考え方があって 一点にこだわるという
 
経済性は捉われない  無茶苦茶だった 4~5年に一本ぐらいしかとれない  
それで一生懸命に上演したって元が取れるのではなくどんどん借金がたまっていった
稲作を教えてもらった 24アールを借りる 米を作ってそれを売ったり食べる 
普通の農民がやることを8年やりました  いい稲だと農家の人が見に来てくれた
海外にまで出て行ったのは2本しかなかった 「ニッポン国 古屋敷村」(1981年完成  
「千年刻みの日時計」1986年完成  どっちも3時間を超える大作

1991年に独立  「小さな羽音 朝鮮あかしじみ蝶の舞う里」1992年 受賞   
米沢で蝶を研究している青年がいて その方と一緒に何か 東北の自然山形の自然を撮りたいと 蝶の視線から見ると面白い言われて 蝶の生きられる環境とはどういう環境なのかというと 人間の環境とちかい環境に出てくる蝶々だった    
里山に居たのが人里に来るようになった  とねりこという木を好む蝶々だった  
江戸時代に上杉鷹山が水田開発をするのに水路を強化 そこにとねりこを植えろという政策をやっていた  どんどん里に蝶がとねりこを求めてやってきた
その後コンクリートで護岸工事をしてとねりこを切ってしまう  
蝶の生息領域が極端に減ってしまった
  
草刈さんがいろいろ調査してこれだね(とねりこ)と言う経過があった  思わぬ展開が有った 
企画があったが実際にスタートすると新たな展開がありそこが大事
1995年「土と木の王国・青森県三内丸山遺跡」   三内丸山遺跡の発掘を撮った記録映画   1994年から青森に行って 前年より本格的に発掘調査をやっていた 
とにかくい続けて 全国では全く無名の遺跡だった  野球場を作ろうとしていた  
教育委員会の方は順番にやっていかなくてはいけないといい 
作業を早めるために600人を投入した   
発掘を指導できるのは県内に何人もいないので600人を指導するのは大変で混乱する現場だった

 「小さな羽音 朝鮮あかしじみ蝶の舞う里」を撮った時に縄文太鼓を使って「てふま」(蝶)と言う曲を作ってくれた人がいてそれを映画の中に取りいれた
飯塚は縄文太鼓を知っているのであれば縄文に詳しいだろうと言ってくれた人がいてお前取ってこいと言われて青森に出掛けた
縄文には興味があったが  蝶から縄文に移った  6年ぐらいは縄文三昧の日々が続いた 1500年はほぼ定住していただろうと言われている  
縄文時代は遅れて貧しい時代だろうと見られていたが 相当に進んでいて豊かに暮らしていた  
栗林があり 発掘調査が次々に新しい発見になっていった  
栗を食べ物にして管理しながら育てていた という事が判ってきた
5000年もまえの時代を学者が言っていたのでは面白くないと思い 映像でどういう風に見せたら判るのかを考えた
発掘を長くやっていた人に聞いたが 発掘していると5000年前の葉っぱが青々としてまるで生きているように見えてくることが有るという

掘ってゆくと空気に触れて水分が抜けてゆくと一気に枯れてしまう 
1分と持たずに変わってゆく  その映像を撮りたかったが出来なかった
栗の巨木 6本  柱なのか 議論になった  
青森は雪国なので雪を利用して柱を立てたのだろうと思っていた
木の根元を掘りだしたらびっしり葉っぱがあった 冬ではない  
御柱を立てる様な皆が一致協力してやるような祭ではなかったのだろうかとある学者がいっていた
大変だけど皆が集まってきて力を発揮したのではなかろうかと  男女の出合いの場にもなったのではなかろうかと

20年ぐらいはミニシアターがありそこで上映  最近はDV  ひとりでも作れる時代になった 
個人の作家も出てきた
私は集団で録音 撮影 照明 とか専門職を持った人が集まらないと良い映画は作れないと思っている  
金が無ければという面があるが  かつての集団で映画をつくるダイナミズムを ドキュメンタリーと言っても 維持していってそういう映画を上映していくことはできないかなあとは考えている  
「プッチーニに挑む岡村喬生のオペラ人生」 オペラなので音 メジャーの劇場で 音と絵を 両方を感じて貰わないといけない

人間の生活を成立させてゆく 大事なこととは何だろうかと  縄文でも感じた  
縄文人は遥か遠い人だとは思えない 
縄文人の祭の心と言うものは 今の我々が祭を必要としている事と全く同じだと思う  
人間は経済的に成立しなければ人間は暮らしてゆけないと思いがちだけど
経済は大事なことには違いないけれど 祭る心と言うか 人と人とが一緒になって何かやるというのは そういう熱中する心が失われてゆくと衰退していっちゃいます
そういったことは縄文からも教わりますし 現代の我々が生きている処に 自分達の活力の源ですね そこのところを引き出してゆきたいですね

2012年6月19日火曜日

有森裕子(元マラソンランナー)    ・ライバルと歩んだ私のマラソン人生

有森裕子(元マラソンランナー)   ライバルと歩んだ私のマラソン人生  
(1966年12月17日 - )は、元女子マラソン選手で日本におけるプロランナーの草分けでもある
1990年 大阪国際女子マラソンに初参加 6位に入賞する  
この時に初マラソンの女子最高記録を出す  
翌年のマラソンでは2時間28分1秒を出し,当時の日本最高記録を出して2位に成りました  
バルセロナに続きアトランタオリンピックで2大会のメダリストとなりました  
怪我が絶えなかったがそれを乗り越えての栄冠でした

バルセロナから20年経つ  気持ち的にはあまり変わらない  
現在はNPO法人ハートオブゴールド 代表理事をしている 
カンボジアが荒れていてポルポト政権が終わって之からと言うような時で ランナーなら手足を失った人達のことが判るだろうと 復興にスポーツが使っていけるから,カンボジアでマラソン大会をやるから其の対人地雷で手足を失った人達の自立支援とか教育支援 そういったものをやらないかと言う話を頂いて,義足を作る現場を見て ソフトの面の支援をすることになる  
公益財団 スペシャルオリンピックス日本理事長  
スペシャルオリンピックスとは知的障害を持った人たちが対象のスポーツ団体になる
アメリカでは活動は45年の歴史になるが日本では20年にな
る   
各都道府県に組織があり4年に交互に来る(夏と冬) 2年に一度開催
来年冬の大会が韓国である   
スポーツを通して生かせる場があるので自分の勉強にもなっている
陸上競技は→高校から陸上部に入る 
中学時代はバスケットボール部に所属 中学で800m走に出場したら学年で1位になった 
結果が出せた事が自信が付いた
人見絹枝選手も800mで銀メダルだったとの事  
800mは女性には厳しいので一時中止になった

「アニモ」 スペイン語 頑張ってという意味  アリモがあだ名だった  
あだ名で応援して貰っているんだと思っていたらスペイン語の頑張れだった
この言葉に助けられた   銅像が建てられておりそこに「アニモ」と書かれている
生れた時に股関節脱臼で生れて0脚で 小学校2年の時にダンプカーにぶつかって右内くるぶしを潰して いろいろ足には怪我が絶えなかった 
人との出会いが良かった  
諦めない頑張りが先生に認められたりして 違うところを武器にすることを教えられた
落ち込まなかった 自分の身体に関して研究熱心に成ってゆく  
そういった研究は止まらなかった

物事を「なんで」といってとらえるか 「せっかく」とおもうか 人との出会いの中で教えられました ハンディーをプラスに変える  
今何をしないきゃいけない 今何を考えなくちゃいけない 今どうしなければいけない というのをメンタルで切り替えて行く  
小出監督との出会いが良かった   
本人の自信の無いところを、自信を持たせてくれた 
練習は半端じゃなく厳しかった  900km/月  多い時で1200km/月 走った   
1991年のマラソンはいくら走っても走れるような気がした  
日本記録を破った時  気力 体力ががっちり有った様な気がした
選考問題 疑問に思うことがある    
プレッシャーというより跳ね返そうという思いがあった 
「みてろ」というしかない自分がいた(自分に対して)
「自分で自分を褒めてあげたい」  高石ともやの詩の一節  これに感動して大泣きした
スタートラインに立つまでの勝負が大事だと思う  廻りの方とか含めて

2012年6月18日月曜日

川本三郎(評論家)       ・挫折への共感 文学と映画を追いかけて 2


川本三郎(評論家)     挫折への共感 文学と映画を追いかけて  2
現在、食事は自分で作っている 3食全部とは言えないが  家事の大変さを改めて判った
永井荷風  戦後の暮らしでは単身生活の大変さを味わう 
近代日記文学の最高峰  『断腸亭日乗』
永井荷風の文学は老人文学 若いうちは良さが判らなかった 
45歳過ぎたころから始めてこれは良いなあと思った 
断腸亭日乗は漢文交じりの文章 これがいい  漢語の使い方が見事  
永井荷風論は好色文学の文脈で書かれるといわれている

『断腸亭日乗』を読むと如何に東京の街を愛しているか ということ 東京の街を実によく歩いて書いている   人と人との関係もさることながら
永井荷風という人と東京の街との関係 それを描きたかった 
好色の作家と言うよりも都市の作家としての永井荷風の面を強調したかった
女性の読書は少なかった 近藤富江さんとかはいたが一般的には好色作家と言う事で読者が少なかった
段々女性に読まれる様になった 

日本の社会はどんどん一人暮らしが増えている 
全世帯の1/3が単身者(去年の国勢調査)  永井荷風は単身者の見本
単身者の生き方、ライフスタイルと言うものを我々は学びたい面はあると思う  
街歩きを出来たのは一人暮らしであったから  一人暮らしの気楽さ
映画が私は好きで 映画館に行ってみないと次に何を上映するか判らないので映画館にぶらぶら歩いた 本格的に街を歩くようになったのは45歳を過ぎてから
古い建物が段々無くなって行ったし 西東京には川が無い 隅田川を歩く  
大正時代の作家は隅田川べりを舞台にしているものが多い
(佐藤春夫 永井荷風  芥川龍之介 谷崎潤一郎 )  美しい街(佐藤春夫) 水の風景 水の東京というものに惹かれて歩いた

林芙美子  門司の生れ 女学校を卒業して東京に上京して女性で一人暮らしをしながら働くという当時としては余りない生活スタイルだった
永井荷風は高見の見物的(空いた街を見る目が通行人的)に対し 林芙美子は実際に住んでいる状況 東京の街を転々としてした
林芙美子は料理の好きな作家だった
 最後に下落合に立派な屋敷を作る 背の低い人だったのでそれに合わせて台所を作った
昭和30年代に当時新宿南口の方にどや街があってそこに若い女性では考えられないがそこに林芙美子は泊っって朝 食堂に行って労働者と一緒にどんぶり飯を食べているくだりがあるが、その描写が好きですね  
   
「マイバックページ」 新聞社の記者として出発した  ジャーナリスト  学芸部に行きたいと言ったが、政治記者になったがそれが挫折の要因ですね
1971年~2年にかけて新左翼運動のなかで 朝霞自衛官殺害事件での犯人と深く通じ会う部分があって 其の取材の過程で証拠品を譲り受けるという事になって、取材源の取得と言う事でそれを守りきって 会社を罷免される
(浦和地裁にて懲役10ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受けた)  
今はどうとらえているか→原罪みたいなもの  あの時どうしたら良かったのか 犯人の名前を言わなかったのが警察に狙われたという事ですが、結果的にあの犯人はいい加減な男だったことが判るわけですが そういう情報を踏まえ後で考えれば あの時警察に協力するのが正しかったと思うんですよね
 
あの時点ではそれができなかった じゃあどうすればいいのかと言う事が今でも判っていない 犯人への共感(社会を変える)と取材源の取得を守る との複雑な葛藤があった   
天下国家のことは語らない方向に決意(大逆事件との関連を想い)  
文学者の中には文学が無かったら犯罪者になった人もいたかもしれない
文は人なり  文章と言うのは結局其の人が背負ってきた人生 生きかたを還元するものでしかない 
其の人が抱えてきた人生というものが背後に有るんですね  
そういうことが今頃になってようやく気が付くようになりました
映画に関する批評 大半の映画評論は作品の出来不出来について語っている   
映画を見下ろすようにして何点何点と評価するそういうふうにはしたくなかった
昔の映画が好きに成ってきている
  
祖父母が生きていた時代当り(明治、大正、昭和)までの歴史が好き 
東京は大きな被害を2度受けている 破壊を経験した街はついこないだの風景が懐かしい  ノスタルジーの世界
京都は歴史を感じる都市ではあるが東京はそれは無く記憶の都市  
向田邦子 女性の目で日常的な些細なことを大事にしてゆく人  私もその様なタイプ
谷崎潤一郎の「細雪」 だけを論じたものが中断している  芦屋を中心とした関西の物語  
今まで東京のものしか書いてなかった 
細雪を通して関西文化と言うものにちょっと触れてみたいという風に思っています  
何とか単行本に纏めたい
映画監督 成瀬 巳喜男  林芙美子が好きな監督   成瀬論をきちんと書いてみたい 
一人暮らしなので体力と健康がなにより一番だと思っているので 節酒に心がけているが

2012年6月17日日曜日

川本三郎(評論家)       ・挫折への共感 文学と映画を追いかけて

 川本三郎(評論家)       挫折への共感 文学と映画を追いかけて  
(1944年7月15日 - )は、日本の評論家。大佛次郎賞、読売文学賞、サントリー学芸賞(社会・風俗部門)選考委員
新聞社の雑誌記者を経て評論家に従事して映画や文学の評論を執筆して来ました
今年2月に発表した北原白秋を描いた「白秋望景」は永井荷風を描いた「荷風と東京」 
林芙美子を取り上げた「林芙美子の昭和」に続く文学者の評伝です
第23回伊藤整文学賞に選ばれるなど高く評価されています  
北原白秋や「白秋望景」執筆中に亡くなった妻の河本恵子さんへの想いなどを伺います

評論に与えられる賞は限られている 伊藤整は文学者であり評論家でもあった  
彼は小樽の出身で地元の人が立ち上げた賞です  
なるべく誰でも知っている言葉で誰も知らなかったことを書く事を目指している  
私と言う言葉を出来るだけ使わないようにしている
なになに的という言葉は避ける  ・・・である  は避ける    こだわり
引用は心掛けている  先人が的確に言っていることはなるべく引用するようにしている
「白秋望景」  北原白秋は昭和17年に阿佐ヶ谷で亡くなる  
阿佐ヶ谷は私が少年時代を過ごした土地なんです

地元意識がある為に北原白秋に親近感があった  
荷風、林芙美子は詩も書いているが散文の作家  詩は敷居が高かったが、北原白秋は余り評伝があまり書かれていなかったので白秋を書く事にした  
「海ゆかば」 本格的な演奏会があり聴きに行って感動した  
こんな綺麗な曲が有ったとはと思った
白秋の様々な角度から見ている  連載の時の構想とはだいぶ違ったものになった  
白秋の新しい発見がいろいろあった
国木田独歩 雑木林の美しさを発見した   永井荷風 荒川放水路に美しさを感じた 
  
風景の発見が行われている  言葉の発見が近いもの
言葉と風景が交錯してそこから詩や小説が生れてくるものですね  
文芸評論の場合は 人間はどう生きるかと言うような人生論も大事だが風景 どういうものを人間が見て美しいと感じてどういう言葉でそれを表現してゆくのか 
人と人の関係もさることながら人と風景 人と街 の関係が好きなんですね   
あまりにも今までの文芸評論は人生論にこだわり過ぎたのではないかと思う  
反発して半人生論で摘出批評で表面に書かれたことだけを論じて行くという両極端になってしまっていて中間は無いのかと 探ってこういう評論集ができ上がったわけです  
自分自身挫折してきたので 順調に言った人には興味が無いんです  
永井荷風は大逆事件を通して天下国家に係わることをしては大変だと拘わらない生き方をしてきました

林芙美子は昭和の戦争が始まった時点では軍部に加担するような言動をしていたが途中で軍部がやっていることはおかしいと、はたと気がついて昭和18年くらいから沈黙してくる 
戦争末期は文章を書けなくなる   
北原白秋は人妻との恋愛事件があって 姦通罪で罪に問われて刑務所に入れられる  
そういう挫折から彼の文芸作品は生まれたのではないか
近代日本史に興味を持っていまして 何故日本は勝てもしない戦争に突入して 負けてこういう風になったのかと物凄く興味があって ずっと考え続けているのですが,いまだに答えが出ていないのですが 荷風、白秋、林 この3人に共通することは太平洋戦争を知っているという事  
戦争に対する見方、考え方、距離の置き方が皆違う  

荷風は徹底して無視(一種の国内亡命者になる 世捨て人)  林は途中から沈黙
白秋は熱狂に捉われてゆく国民に一番近いところに居た人 
あの戦争は国難だったと捉えて国民とともにいって仕舞った
今の価値観で見るのは簡単だが 白秋は単純に軍国主義と決めてしまうのもどうかとは思う
妻が癌だと判ったのが 2006年10月だった  連載中だった 
食道がんで転移している悪い状態だった
医者からもう1年は持たないと宣告された  
資料を沢山使ってやる仕事は病院で出来る様な仕事ではなかったので休載してほしいと編集長に了解を求めた
一回中断すると大変なことで何とか出版できるようになれた
子供がいないのでずっと35年二人で過ごしてきたのでこたえました。  在宅介護もした  
亡くなる2か月前家に帰りたいと言ってきた

一人で素人が介護をするのは不可能だからやめなさいと止められたが、妻の希望であったので 家に連れて帰る 1か月ちょっと へとへとに成ってしまう
妻が今度はそれを見たのか 病院に戻りたいと言ってきた 
共倒れになるのではないかと思った それを知って妻が言ったのではないかと思う
病院に戻って直ぐに亡くなって仕舞った
自分の頭がしっかりしているうちに 妻の事を書きとめておきたかったと思った  
直ぐに書き始めた   100日目=泣き納め 
短歌を初めて作った  白秋の影響が有った  葬式をしようと思った  
形式が重要かと短歌から感じた  
葬式は悲しみを封じ込めるものがあると思った
葬式だけにする  お酒は出さなかった (客が酒を飲んで談笑するのが嫌だった)

2012年6月16日土曜日

金子洋三(青年海外協力協会会長) ・世界の為に日本の為に出来ること

 金子洋三(青年海外協力協会会長)     世界の為に日本の為に出来ること     
(1947年 - )  広島県広島市出身の福祉活動家
両親は被爆者 京都大学農学部農林生物学科 青年会が気協力隊に応募  
エチオピアに赴く  エチオピアでは天然痘の撲滅のための推進に活躍
帰国後 ジャイカ職員として後方支援して ガーナにも駐在しました 
平成12年に協力隊はえぬきで初めて事務局長に就任しました
平成16年に退団 現在  青年海外協力協会会長として帰国隊員 OB,OG隊員の 力を様々な分野で生かそうと活躍されています
今力を入れているのが国内支援です  
震災の被災地での支援活動が注目されています

協力隊への参加→先輩がエチオピアで人類学をやっていた  
その方に今度エチオピアで青年海外協力隊を始めるらしい 面白そうなフィールドワークが
出来そうな仕事なので行ってみないかと誘われる  
其れがきっかけになりました
天然痘の撲滅活動  エチオピアで天然痘の病気が残っていた  
世界中で席巻して多くの人が死んできた  
60年代に天然痘を撲滅しようという運動が WHOで動きが出てきた  
非常にいいワクチンが開発されてしゅとうをすれば感染しないということで 其れを使って世界中から病気をなくそうという動きがでてその中心になたのが日本人のドクターで有田勲さんと言う方ずっと世界中の国を廻って最後にのこったのがエチオピア 急峻な地形 山岳地帯には道路もない どうしたらしゅとうできるか 

経験した医者が集まってWHO本部を作って ドクターだけではできなくて人海戦術でなければ駄目なので若いひとが大量にいると言うので日本、アメリカ、オーストラリアが手を挙げて 協力隊の派遣が始まりました  
実際には 天然痘の感染率は非常に高いが 其の人に種痘しておけば感染しない  
先ず患者を探す  4人で四国ぐらいの広さを受け持つ
市の立つ場所にいき 写真を張ってあばたの人がいないか聞いて探した(症状の新しいものを探す)
リュックを背負って野宿または農家に泊ったりして探し回った
見も知らぬ人に種痘するのも中々出来ないので徐々に親しくなってから 種痘する様になった
見付けた患者を地図にプロットしてゆく  段々と狭まってくる 
サーベランス コンテーメント 大変だったが仕事に一助 達成感があった    
ガーナにも行く  事務局で後方支援  その後現地に改めて出掛ける   
隊員が危険にさらされるのを防がなくてはいけないので 神経の休まる間が無い
政府も不安定であったので 家から出ないようにとか いろいろ策を講じたりした
パプアニューギニア 一人で赴任した人  現地の先生と2軒で一つの掘立小屋に住んで寝泊りする日本の人は物持ちなので無くなることを心配
隣の内から火事が発生して何も無くなり 茫然としていたら 近くの人達が森に行って木を切ってきて家を建ててくれた 食事の道具だとか暮らしてゆける

道具類は調達してくれた  最初はびくびくして暮らしていたが それが馬鹿見たいだった  
裸一貫になって返って交流することができて良かったと言っていた
現地の人との垣根の取り壊しができた    
現地の人と一緒に働くんだという心構えが大事  教えてやるんだという上から目線は駄目
現地の人が何故この様にしているのかを理解しなければいけない   
日本文化の柔らかさ ゆったりと受け入れてきている 多少変化をさせながら日本の人達に対して 現地の人は嬉しい 
現地のいいところを日本人は受け入れてゆく そこに現地の人は共感してくれる   
日本は国際協力に非常にむいている文化を持っていると思う

日本の大変さと世界の中で大変な国とは数、量ともに違う    
今回の東日本大震災については世界の国から支援があって温かい手が差し伸べられた  
日本が早く元気に成ってほしいとの想い
日本が世界の為になる国だ、なる人達だという事を理解していると思って心強かった
青年海外協力協会は協力隊として活躍して帰ってきて作った団体  青年海外協力隊は国が支援して国際協力するボランティア団体、経験を社会に還元する事を目的にする  
大震災を機に大きなステップを踏むことができた   
少子高齢化によって活力が落ちてきている 

恵まれた自然と環境を若い人の手で日本を元気にする 
そうすることで又海外に支援の手が差し伸べられる
地域の活性化を含めて 故郷新生プロジェクト  田んぼを再生 そこから採れる米をアフリカの持ってゆく
震災復興支援  最初は緊急支援  支援物資の仕分け 看護師派遣 被災地の後かたずけ 等をしてきたが段々と落ち着いてきて 今は 長く滞在してくれるような被災地の自治体の支援  教育、医療、仮設住宅で孤立してしまわないようにサポートセンターを作ってコミュニティー作りをしている  
1年間で300人ぐらい 2週間は泊まり込みでおこなっており被災地の方々から喜ばれる
指示が無くても自分で探してやれる  
よそから来たボランティアの人達ともすっと入ってやれる
それは異なった文化の中で苦労しながら身に付けたコミュニケーション能力があるし 大変な環境の中でも工夫しながらやってきたので1,2週間被災者と一緒に泊りこんだりしている   
誰に言われなくても探してやる  
これは日本のボランティアの凄いいいところじゃないかなと思います
 自分で自分で律しながらやってゆく
      
今後やっていきたいこと3つある  
(1)国内で国内協力隊  国内の社会の活性化に若い人達が貢献する場を作りたい
(2)その中で育って行った人達が又海外で協力できるような大きな循環を作りたい
  是非アジア、アフリカの若い人達にも同じような経験をさしてあげたい 
  ゆくゆくは双方向にボランティア活動をすると言う 双う時代を作るべきじゃないかと思う
(3)もっともっと若い人達にこういった経験をしてもらいたい  

2012年6月15日金曜日

大村智(北里研究所76歳)     ・2億人を熱帯病から守った科学者 2



大村智(北里研究所76歳)・2億人を熱帯病から守った科学者(産学連携が社会貢献をもたらした)
発見した沢山の微生物をアメリカの製薬会社が実用化を図るという産学連携を日本の医学界で初めて行ったのが大村さんです。
大村さんはロイヤリティー収入で、絵の有る病院やコンサートホールの有る病院を作り 地元山梨には山梨科学アカデミーを設立して人材育成や科学技術振興の為に力を注いでいます    

アメリカの大学に研究留学 マックス・ティシュラー先生は新たな学科を設立する スタッフも余り充実はしていなかったが、アメリカのトップクラスの研究をやっているのを見ること出来た 
イベルメクチンが出来るずっと前 1971年にアメリカに留学 1973年に日本に帰ってくる。  
日本と文化が違った。 当時日本は発展途上の国だった。 
客員教授の待遇で良かった。(自分の好きなことができた)
コンラート・ブロッホと言って 1964年にノーベル賞を貰った人がハーバードにいて 其の先生にお目にかかることができたのが良かった。
私が持って行った薬の価値が其の先生ならば判るだろうと思って 友達 ウォルター・セルマーという人がいて コンラート・ブロッホ先生が今度内の会社に来るので一緒に来いと 引き合わしてくれた。 
それが本当に良かった、今まで化学、微生物をやってきて 今度生化学(バイオケミストリー)を勉強できた。
これが私のその後の研究の基盤に成ってゆくんですね。  
1年そこそこで7つぐらいの論文を書いた。  
何年いてもいいよと言ってくれたが2年も居なかった
日本は研究費が少ない。  
アメリカの大手の製薬会社を6つぐらい訪ねて契約をする(3年間8万ドル資金を調達してくれる) 
その後20年続けてくれる、その研究の中にエバーメクチンが入っている。 
私の様な考えで研究費の導入する、特許をどうのこうのと言う様な先まで契約してやったのは無い。(大村方式と言われた) ・・・産学連携 独特の方式 だった。
お金を頂くが、いいものが見つかると特許を取る。  
ライセンスは世界のすべての国のライセンスをお宅に上げますよと、利益が上がればそのうちの何%かは私に返して下さいと ・・・そういった契約を結び、大村方式と言われた
これは信用です、マックス・ティシュラー先生の元に付いて研究したのが信用を得た。
  
産学連携では覚書の中で、優れた微生物を分離する、分離したものを培養して、この微生物はどういう風なものを出しているかなど、試験管培養まではこちらでやる、施設が無いので動物実験は向こうでやる。(製薬会社) 
エバーメクチン他 10数種類を発見したが、実用化はエバーメクチンだけだけれども研究用に使われる薬はいくつも見付けた。  
身体の中のメカニズムを調べる時に、メカニズムに特定な場所に作用する様なものがあると、其のメカニズムを説明する これがこういう理由でこうなるよという説明できる薬が必要なんですよ。  実際身体の中でどう反応しているのかと言うことが それが眼に見えないから、判らない。  
処が其の薬を使って有る物質が増えてくるとか 減ってくるということで見当を付けてくる。  
科学の実験に使う、これは沢山見付けた。

うちで見付けたスタウロスポリ これは最も世界で使われる薬の一つです・・・研究用薬  
世界で過去20年を調べてみると1年に500の学術論文にこの薬が使われている。
エバーメクチンは農業用  イベルメクチンは人用  トータルすると大変な額になった。  
円高にならなければ年間数十億円の特許料が入った。  円高で1/3ぐらいになってしまった
其れを①研究費に使う。  
②北里研究所を通して社会還元しよう、
③人材育成しようとした。   
一つのプロジェクトに10億円かけたものもある。  
エバーメクチンの生産菌のゲノムが如何なっているのか、ゲノムが物質を作る遺伝子をどのくらい持っているのか、そういったものを 片っ端から調べると 30何種類の物質を作っているとか驚きですね。  
今まで一つの微生物が何種類も薬を作るなんて考えても無かった、遺伝子を調べるとによって判った。
その後いい研究であるという事で通産省の支援も有り半額で済む。(でも数億円かかった)
研究所を何とかしたい、北里研究所の経営が難しくなり経営の立て直しをした。
抗生物質は病院で使われている、私の作った抗生物質は病院を作ったと、こういう話をする。

私と契約した会社はもっと儲けている。 
私は発想は良かったが、次の段階でまだくちばしが黄色かった。(当時  相手は専門の弁護士を立てて私が相手をして契約をしていた)
人材育成、 シンポジュームを開く、若手の研究者を海外に送るなど、特許料があったから出来た。  
私のグループで110何名は博士になっている。 27名は大学の教授になっている。 
人材育成ができたのは、産学連携での資金があったから有効にできた。
日本にいたらこのような考え方は出来なかったと思う。
20世紀は科学が最も進んだが、人の気持ちがすさんだように思った。  
出来ることは何か考えたところ病院を作った。 
病院を美術館のようにして、絵を鑑賞しながら診察を受けてもらったら、心も直せる(殺風景)と思った。 
病院の本来の機能については医者に任せて、プラスアルファは私が考えるという事でを考える、先駆けて絵を飾ったり、コンサートをやるフィーリングアートを展開する。 
癒しの空間をつくる。  私は「初めて」が好きなんです、人が考えないことをやる。   
北里に3大奇人がいるか、知っているかと言われるが、どうも其の一人がどうも私の様だ。
昔から絵が好きだった、外国に行くと最初に探すのが美術館と日本食店です。
  
病院の絵の効果として、ある脳外科の患者で重い病気が判っている人が、最後であるこの時期にこんなに絵を見ながら過ごせたのは幸せだったと 言う事が耳に入ってきました。
或る女性が絵を見て、自分は離婚して生活苦で子供と一緒に死のうかと考えていたが、その絵を見てこれではいけない自分も頑張ろうと思った、というような話も聞いた。
「芸術は人の魂を救い 生きる力を与えてくれる」  
アウシュビッツから奇跡的に生還した 医者ヴィクトール・フランクルの言葉
まさに私はその体験をしました。
1600点の絵が収蔵されている(北里研究所)、病院に掛け替えている。    
コンサートホールは初期に設計を取り入れてエントランスホール広めに取り、天井は音響効果を考え多形にして、椅子は可動式を用意して、300人ぐらいは入れるホールを作って楽しんでもらっています。

人材育成  子供を育てている、若いうちに(小学校、中学校)育成する必要がある。  
17年前に山梨科学アカデミーを発足させた。
未来科学者訪問セミナー(一流の教授等を派遣) といって訪問する会を作って、育成をする。
大学に行ってしまうと、もう個性化してしまっていてそこに鞭を打っても駄目だと思っています。 
「教育で人を作って 人が日本を作る」その教育するところが おかしければ日本を作る人間が生まれないと思います。 
東京一極はいけない、政治、文化にしても東京だけが肥大化して、そこで育てる子供だけではいけない、地方に多彩な人間が育って来るという風土を作っていかなくはいけないと思う。   
山梨科学アカデミーを作ったのが一番の狙いです。
人材育成はただ授けるだけではだめで、一番大事なことは自分が勉強しなければ駄目。  
子供を育てるには親が、先生がそれ以上に勉強しなくてはいけない。

「正師を得ざれば 学ばざるにしかず」・・・ 道元禅師の言葉   
正師になるためには自分がしっかりしなければ駄目、そうしないと学んだことにならないと言っている。
教わった方は幾つになっても勉強しなくてはいけない。  
年を取ったからもういいよと言う事にはならない。  
北里先生の実学の精神  北里研究所の精神    
産学連携も実学から来ている。  
産学連携はお互いに補完し合う(お互いの弱いところを補う)   
私は研究を経営するといっている。(資金を用意する、 人材育成する、 アイデアを出す)
資金、人材、アイデアを合わせて行かなければいけない、そして社会還元出来るようになって初めて研究を経営したことになるわけです。 
どれ一つ欠けても研究を経営したことにはならない、というのが私の考え です。

2012年6月14日木曜日

大村智(北里研究所76歳)     ・2億人を熱帯病から守った科学者



大村智(北里研究所76歳)  2億人を熱帯病から守った科学者(イベルメクチンとの出会いについて)
(おおむら さとし、1935年7月12日 - )は、日本の天然物有機化学者。北里大学名誉教授。
薬学博士(東京大学、1968年)。
微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を続け、これまでに類のない450種を超える新規化合物を発見した
夜間高校から研究者に 転じた1974年(昭和49年) 伊豆半島の土壌から採取した土壌の中から牛や馬の中から寄生虫をほぼ100%駆除する物質を発見した。
イベルメクチンと名付けた。  
この薬は犬の病気でおなじみの フィラリア症を退治しただけではなく、人間の熱帯寄生虫病で進行すると盲目になるオンコセルカ症に劇的にきくことも判りました。  
アフリカでは2つの熱帯病を撲滅寸前にまで追いやっています

オンコセルカ症とは→アフリカとか中南米で蔓延しているフェラリアの病気。  
ぶよが媒介する フィラリアが大きく育ってきますと 幼虫を一杯産む 其れが皮膚に入ったり
眼に入ったりすると 目が見えなくなったりしてしまう。  
80万人ぐらいはかつてはいた 殆ど最近は無くなった。  
1988年から本格的にイベルメクチンを使ってこの病気を撲滅しようという運動がWHOの指導のもとに始まる。     
ぶよがオンコセルカ症を感染している人の血を吸う時 血と一緒にぶよの身体の中に入ってくる 
それが別の人を刺すと其れが20cm、30cmぐらいに大きくなる。
人の身体の中で15~16年生きている訳ですよ。  
雌が何百万という小さなミクロフェラリアというんですが、産むわけです、其れが悪さするわけです。
ミクロフェラリアが皮膚に来たり、目に入ったりして 凄く痒くなる 眼は見えなくなる。 
イベルメクチンを使用するようになってから1988年から 2020年ごろまでには撲滅できるのではないかと予想できるようになった。  
イベルメクチンをはミクロフェラリアを殺してしまう、ミクロフェラリアが人の身体の中に居なくなる状態を作り出すことができるのがイベルメクチンです。  
予防と治療に使える。 
失明した人は救済はできないが 或る地域ではほぼ100%無くなっている。  
現在投与された人の数は8500万人、年に1回飲むだけでいい。 

これがこの薬の驚くべき効果です。   
其の人がフェラリアに掛かっていても他に移すことが無くなる、移す人がいなくなれば患者は段々減ってくるので撲滅出来るだろうと思われている。    
凄い薬です 
発見場所→伊東市河奈のゴルフ場近辺の土壌から採取して北里研究所で分離している訳です(それまでも世界中の土を調査した) メルクと共同研究した。  
アベルメクチンという天然のものを さらに有効に成る様に化学的に処理をする。  
水素を2つ付けるだけで効果が上がる、其れをイベルメクチンという。
元々は動物用に開発した薬で1981年に動物用に売りだされて 犬、羊、牛、馬等に瞬く間に使われる様になった。  
  
2年で動物薬 売上NO1に躍り出る。  
途中でひとにも使えることが判ってきた。  
WHOとかが拘わってきて1988年に本格的に使用するようになる 医者の関与が無くてもいい薬
一つの部落に700~800名いるがそこの長に伝えて展開するだけで良い。   
ガーナに私は行ったが、子供を学校に連れていくために大きな木の処に人が集まっていたが、そこに集まっていた大人の人達は眼の見えない人だった。
働き盛りで眼の見えない人は働く事ができないので、農業ができないが、今日使われている薬で目が見えなくなる人がいなくなってきて、今では経済的にも良くなってきている。
患者と話をしたときに、薬を飲んでかゆみは無くなった。 
そして自分は眼は見えないが、子供に移すことが無く、子供の目が悪くなることが無いのは非常に嬉しいと語った。
1800万人が虫を持っているが この薬を使って、眼の見えなくなる人はいなくなる。
神様が授けてくれたような発見だった、有効な薬を作る微生物は一つしかない、静岡県伊東市内のゴルフ場近くで採取した土壌から発見された新種の放線菌ストレプトマイセス・アベルメクチニウス」というこの菌しか作れない。 

世界中でまだ他では発見できていない。
この菌は分けて、菌核を持っています。
2~3gの土の中から発見した。
微生物を上手に分離する方法が伝統的に力があり、それと発生系統を組んだから出来たんです。
1年間に50億~60億円かけて開発してきたわけです。
1975年に菌を発見して 学会で発表したのが1979年 1981年に動物薬として発売した。   
私がいなかったら菌の発見はなかったが、多くの人々の係わりがあり、できたもの
「求めていなければ 授からない」 勅使河原蒼風のことば  
見付けよう見つけようと思っているから偶然にも見つかる、総合的な人間力ですよ。  
1億人の人に無償で薬を提供しているが、人類の歴史の中で最大のプレゼンテーションです。
或るニューヨークタイムスマガジンの新聞記者が書いているが、数多くの専門家たちがこの薬を人が使える様に持って行って、成功したというのは20世紀最大の発見だと書いている。
皆の力が総合されてこの薬になって行ったが、オリジンは私どもです。
      
土の中に微生物は1億個いる。   
一つずつ菌を抽出して菌を培養して活性が有るかどうか調べてゆく根気のいる仕事です。
動物のお腹の中には虫が一杯いて、餌を与えても太らない、飼料効率が悪い。 
それを解消しようと最初考えて取り組んだ。  
お腹の中の虫がいなくなり、競争馬等の艶が良くなる。
副作用が少量なので無い、疥癬(かいせん)→ダニによって身体に発疹が出る病気だが 
イベルメクチンで一回飲むだけで治ってしまう、皮膚科領域の医療革命だと言われる。
西アフリカ、中央アフリカトータルで20数カ国で使われ、西アフリカではほぼ撲滅状態です。
抜群の効果があり、ほかの19カ国で行われ、其れが最終段階に来ています。
中南米は元もとはなかったが、運ばれてきて、かつては感染していたが、現在は薬の為に無くなってきた。
リンパ系フェラリア症は 83カ国 1億2000万人が感染している。  蚊によって感染。 
リンパ液の流れをストップしてしまうので足が腫れて皮膚が感染しやすくなる。
足が膨らんで履くものが履けない。(3倍ぐらいに膨らむ
この病気にも効く、アルベンダゾールと一緒に飲むことによって治り、この病気の方が先に撲滅できるかもしれないと言われている。 
2億5000万人の人が使用している。
昔は熱帯地方、砂漠から持ってくるとか出来ましたが、今はできなくなって、日本のいろんなところから土を持ってきて研究しています。
分類でいうと族で言うと13族見付けている(種でいえば50種) 25種類が農薬 動物薬 人の薬
研究用薬として使われている。
 
私は農家の生まれ 長男  後を継ぐのが当たり前の世界だった。  
勉強しないでスポーツ 等やっていた。  
親が大学に行かせてくれると言うので、急に猛烈に勉強して山梨大学に受かった。  
どうせ中学、高校の先生になるぐらいだからと思って、大学に入ってもスキーだとかに没頭する。  
不景気の時代で就職口が無いので、都立高校の夜間の先生になる。  
昼間仕事をして、生徒が手に油を付けた状態で勉強に来る姿(手を洗う時間も無く)を見て感動する。
一体俺はなにしてきたんだろうかと反省する、もう一度勉強しなおそうと決意しました。  
研究の方が面白くなって、東京教育大学、東京理科大学に行って、山梨に帰って発酵生産学科(葡萄酒の研究)に入った。
微生物の勉強もできたために良かった、科学と微生物の研究をしたいと思った。 
北里研究所に入る(大学出てから7年経った)

最初北里研究所の歴史から勉強した。   
学者と言うのは研究して自己満足しているようでは駄目だと、なるべく実地に応用して世の中の役に立つべきだと 北里先生の考えだった。
北里先生は世の中に貢献しようと考えた、破傷菌の純粋培養と破傷風の予防を考えた。
血清療法を開発する。  
歴史を勉強すると明日が読めてくる、歴史は明日を語る。    
歴史を勉強して研究所の存在意義が判る。
人に役に立つというものを見付ける、工業的に使う薬を6つは見付けた。 
7つを見付けてやろうと思ったのが部屋を構えた1,973年 アメリカから帰った年でした。

八木澤 守正先生から 少し世の中を見てきた方がいいとサジェスションを貰ってアメリカに出掛けて 廻って留学を決意する。
手紙をだしたがマックス・ティシュラー先生から真っ先に返事の手紙が来るが、他からも5通来る。他にくらべて年俸が半分も無いが、安いところには何かあると思って行った。 
其の先生はあっという間に、アメリカの化学会の会長になってしまう
忙しいので先生がやってきた仕事を任され、学生の面倒を見てくれ、金はどんどん使ってもいいと言われて、1年間アメリカに居るが、日本から帰って来いと言われる



2012年6月13日水曜日

三木卓(詩人、作家77歳)     ・我が人生の出合いと別れ 2



三木卓(詩人、作家77歳)   我が人生の出合いと別れ
アーノルド・ローベルの作品 翻訳 40年になる  小さい子供向けだけでなく広い層に読まれる  
文章自体は短い 
今学校の先生が子供のころ読んだとか言われることがある  児童文学とは大事だと思う
小説 「震える舌」 映画にもなる  娘が破傷風になる(実際に有ったこと) 
 爪を噛み指をかむ癖がある そこから感染してしまったらしい
映画を実際に見て 映画は実際に派手になる  映像は強いですからね  
子供の頃から良く病気になっているので病気に対しては過敏に成っている

父親の仕事の関係で大連に行った 大連でじゃんじゃん病気をしたんですよ  
腸チフス 4歳でポリオ (左足にまひが残る) 当時満州ではポリオがはやっていた
両足ともに麻痺して全然歩けなかった リハビリをやってようやく歩くことはできた  
体操の時間が辛かった その後ジフテリア 中耳炎 敗血症 はしか
敗血症は凄かった 高熱で意識を失いましてね 母親の血を輸血して貰って助かったのですが 体中の皮膚が剥けたんです(熱の為に上の皮膚が死んでしまった) 
意識がほとんどなかった 小学校に入る前だった    
日本が戦争に負けて 其の時にしんきょうに居たが、其の時に父親が死んでしまう
母親と兄と祖父母で帰ってくる予定でしたが、今は全員いなくなってしまいました  
厳しい処を脱出してくる

夕焼け色の風景 木のざわめき 目に浮かぶような世界がある 
小説を読んでいると書いていると当人は判らないのでその様に読んでもらえると嬉しい 
心筋梗塞で大変な手術をする 1994年1月 58歳の時に渋谷で起こってしまった  
身体が曲がってしまう 心臓あたりが押されて 重苦しく物凄い力がかかってしまい
動けない感じ ただ事ではない 救急車は入ってこられない タクシー乗り場に行ってタクシーに乗って一番大きな病院を指定 病院の当直の医師が循環器系の医師であった  
直ぐに調べて皆を呼び寄せて 心臓を開けて詰まっている処を直してくれた 
こんな晩は無かった
 
いろいろな判断がすべて旨く行った状況だった  心筋梗塞は急に起こる  手術は意識がある状態だった 中途で意識が無くなり蘇生処置をしてもらい意識回復した
冠動脈3本有るが3本共に駄目だった  
自分の静脈を使って動脈手術もする(拒絶反応が無いので) 今は心臓を止めて手術をする 当時は心臓を止めないで手術するが、手術自体が難しい  
生きられるかどうか判らない中、自身を納得させていた
 
小説にも詳しく書かれているが 人間の幸せとは 不幸は 人間が生きている意味とは  急にシャッターが急に降りてダーンと落ちて明日があると思ったら  目の前に起きた  
そうすると生きていることに対する考え方が相当替わってくる 
後一年余計に生きることがそんなに意味があるのかとか  
5年生きることが意味があるのかとか そんなことが思いだします
入院生活 自分が裸になってさらされることなんです   
日赤に行った時に すっぽんぽんになり 俺はいったい誰なんだと 思う

病院は閉鎖社会  無事に生還した其れが3月 お彼岸が来る おはぎを食べるが、これがお供えるのとは大違いな事
手術をしたのは自分の静脈なので動脈よりも弱い 
5年持つかどうか判らず、仕事を早くこなさなくてはいけないと思った
少しでも時間があれば人間とはあさましいもので一生懸命作品を書いた 
中国から引き揚げてきた時からの自分の自伝を2本書いた
昭和20年代の事を子供の目で見たらどうなっていたのかを書いておきたい 
高校卒業までを書きたいと思った

静岡での暮らし  余りに水道の水が綺麗なのには驚いた
(引き上げて来てから  日本の水は素晴らしい)  感動を書いておきたかった
親等を厳しく見る目が有った  ソ連から追いかけられて大変だった 42歳で父は亡くなった  無名であったが父は詩人だった 草野心平さんの仲間だった
詩を書いて生活は出来ないので友達に呼ばれて大連に行った  
あの頃の日本人は良いものを食べることができなかった
父親が宮澤賢治が好きで話してくれた

5年が限界かと思っていたら18年になってしまった  
しかしもう冬になると具合が悪く 糖尿になってしまっておりその治療をしている
今は本を読む時間と音楽を聞く時間が多い 書く時間は3時間ぐらいが多い方で 1時間30分ぐらいやると今は良くやったなあと思う
今書かなくてはいけないテーマは→今は余りない これから生きて行く時間の中で生れてくるもの 生成してくることとかそういうものに対して自分が何かをつむぎだすか
という事になるかと思います   
だから鍾乳洞でポタンポタンとおちて来るのを待っているという 其れが一番いい作品になるのかと思います
一杯になるまで生きていれば又何か書けると思います
小説『馭者の秋』平林たい子文学賞 小説『小噺集』芸術選奨文部大臣賞 小説『路地』で谷崎潤一郎賞 小説『裸足と貝殻』で読売文学賞
『北原白秋』で毎日芸術賞、藤村記念歴程賞、蓮如賞

2012年6月12日火曜日

三木卓(詩人、作家)       ・我が人生の出合いと別れ



三木卓(詩人、作家)   我が人生の出合いと別れ
新聞記者だった父に連れられて一家で大連に移住  
敗戦で引き揚げを余儀なくされ、帰国途中で父、祖母らを亡くす
帰国後は静岡県に育ち、母子家庭の貧困と左足の障害に苦しみながら、静岡県立静岡高等学校を経て、早稲田大学文学部露文科卒業
出版社に勤務しながら詩を書き始める  詩集『東京午前三時』でH氏賞  
詩集『わがキディ・ランド』で高見順賞  「鶸」で芥川賞
平成17年妻で 詩人の福井桂子さんを亡くしました   「K」を発表  出合いから別れまで 
価値観の違いの男女が家庭を作る難しさや 年を取って伴侶の病気や死とどう向き合ううか
という内容について伺う  

亡くなって、最初の1,2年は帰ってくるんじゃないかと思っていた  
原稿のかきかけのものをどうしたらいいか判らなかった
「K」と言う小説を書く  ある程度書けるようになって来るまでに2年半掛かった  
夫と妻の関係であり 詩人であるので そうするとこの小説の一番近くに居た人間の
証明にもなるので 後で福井桂子の詩を読む人は必ずこの小説を読むに違いない 
そう思うと 少しかっこ悪いことでも特徴的なことを書いておかなければならないと思った     
福井桂子の評伝にもなっていなければならないし、夫のボヤキにもなっていなければならない  
題名が「K」余りない題名  自分の奥さんと言うだけでなく 詩人であるので 自分と切り離して客観的なものとしてみなければいけない
彼女がKと名乗っていたので24歳の時に 1959年に出合った   
私は引揚者の母子家庭であった  相手は幸せな家庭生活を営んでいた様に見えた  
2度目に会う時に中野のプラットホームで待ち合わせたが、かなり遅れてきた  
国立に私はあばら家に一人でに住んでいた(押し入れにタケノコが生えて来た)

そこに今夜泊めてくれと言われた  驚いた おたおたした  其の晩に来てくれた 
(持ってきた風呂敷堤には洗面器と歯ブラシが入っていた)  覚悟があった様だ
掃き溜めに鶴と言った感じだった 一生恩に着るという借りが出来たようなもの  
それまでは女性には常に振られていた
最初に月給を貰って渡した  
月末になってこずかいが無くなったので欲しいと言ったら「ないよ」と言われてしまった
あれ くれたんでしょう 私 洋服買っちゃったわと言われる  愕然とする 
彼女も出版社に勤めていたので給料を知っているはずなのに やりくりするという
気持ちは無かったようだ  
彼女の故郷の家は立派な商家なんです いつも金庫から必要なお金は自由に使える環境だった
夫婦は全然違う育ち方をしているから、たいていは思い描いた夢は現実ではなくてお互いにどう歩み寄るかと言う話になりますよね  普通はなるんです
どうもなかなかそうは成っていない   会社を辞めたくて、辞めたくてしょうがなかったようだ   自分を全体的に支えてくれる 
物心両面含めて そういう存在に見えたのではないかと思うが 物の方は貧弱だった  
お金に関しては彼女は非常に楽観的に思っていた (いつも何とかなるんじゃないかと) 

二人ともに詩人  詩を書くというのは非現実的な人間がやることなので其れが二人いるという事は二人とも非現実的な人間がいるという事になる
最初の頃は彼女は詩を書かなかったが段々と書くようになった 
私も小説を書くようになったが、当時は4畳と6畳の団地なんです
音は抜けるし その中で書くのは相当なプレッシャーがかかる  
サラリーマンから文筆活動一辺倒になる  彼女も詩を書くようになった  
詩について批評をしたら激怒する  私は散文的な詩  彼女は内容が飛躍する詩  
軽い気持ちで指摘したつもりであったが 以後 指摘しなくなった

小説を書くように部屋を用意してくれた   
そばに居られたら厳しいとの思い(小説を書いている人間は加害者)
それぞれの暮らしをする様になる  
妻は自分の考えを変えるような人ではなかった(或る意味純粋 一面我を張る)
生れた子と一緒に生活するようになる  病気をしたのを知る(娘から電話が掛って来た)   
夫婦をやっていけるか疑問を持っていた頃のこと発見が遅くて手術しても再発する状況だった 私自身が先に行くものと思っていた(女性は長生きするし 彼女の母親も長生きだし 
私は病弱であったし、心筋梗塞 を58歳でやっていたし)  逆に成ってしまった 

妻は癌だった    先生がそれとなく言ってるが絶対に受け止めなかった 黙っていた  
大事なことは人には言わない人だった   
彼女の兄が亡くなった時も全然おろおろしなかった  
3年ぐらいしてから 兄を思い出して寂しかったと言った
いうという事は或る程度解放された事  或る意味水臭い人ではあった  
私癌なの? と言ったのは再発した時だった(2年数カ月たった後)
判っていたはずなのに云わなかった   声の掛けようがなかった 困った   
そういう気持ちの有り方が彼女の詩を書く時の詩に向かっては表現出来た気持ち
というものはあったと思いますね   
立ち向かう姿勢は詩を書く時もそうだし、日々の暮らしの中でもそういう信念を貫いた 
145cmと身体は小さい

2度目に手術をした時には25kgぐらいしかない 如何に身長が小さいとはいえもう限界ですよ 恐ろしい  頭の判断力も限界に来ていたものと思われる
脳へ転移して お腹 脳 と手術をする (2週間で)   治療とは難しいと思った  
抗がん剤も厳しい  流石に其の時は参った  
手術を終わって何とか大丈夫だと9時ごろ判って 子供と二人で街に出て夕食を食べたが 
ビール飲んでて凄い感じに成ってきてワーワー泣いてしまった
一種の錯乱状態 です 自分でも不思議だった (こんなに成っちゃっている俺)

20年一緒に生きているそんな女性は他にいない  結局この人と一番深い関係を結んでこの世を生きてるんだなあと いいも悪いも無い この人しかないんだなと
元々は他人ではあるが だけどどっかで分かりあえている部分 とか互いに影響される部分があって そういう関係は一人としか結べない 良くも悪くも
思いやりがある人間とは思っていないが この人はここでどうしてこう存立しているのだろうか 
という事は知りたいと思った 
 
どうしてこの人はこういう形であってこれがこの人にとって掛け替えの無い存在の形であるという ことを知りたいと思ったんですね 
其れがこの小説の基本的なドライブしてゆく力になったんだと思います
妻の詩集を纏めた  これは義務だなと思った  
この小説を彼女が読んだら 怒るだろうと思う   
身体が悪くなってお互いどういう風に夫婦はいたわって助け合って暮らしてゆくのだろうかと難しいですね  
やっぱり病気とかシリアスな問題と言うのは 離れるようにはしない  
其れがむしろ一つの縁と言うものを強めると言うのか、そっちの方に必ず働くと思います
人生のシナリオを考えてみた時に こうなってゆくのは自然の終わり方だったのかなあと 
夫婦生活としてね 自然の終わり方だったのかなあとこの頃思います

2012年6月9日土曜日

カール・ベッカー(京都大学教授61歳)  ・理想の終焉を見つめて

カール・ベッカー(京都大学教授61歳)  理想の終焉を見つめて
(BECKER, Carl B 1951年 - )は米国の宗教学者。専攻はターミナルケア、医療倫理、死生学、
宗教倫理    『死の体験―臨死現象の研究』
宗教学 倫理学 が専攻   1974年に来日 40年近くに渡って日本人の死とのかかわりを
見つめてきました
日本はどこの国よりも人口密度が高く 資源の無い島国ですから 中国の倍ぐらい本来なら
日本人は努力しないとこの国の生活を支える事が出来ない
本来なら日本人が限界を痛感して頑張ってこれだけの文化を作ってきたのに 最近の日本人が
労働したいとか頑張りたいという人が少なくなりました

つい数十年前までは在宅で畳の上で看取った慣習がありました
処がバブルで裕福になった時点でどんどん皆が病院に送られて看取りすらしなくなって
 死は何であるか判らなくなります
そうすることで死を一番恐れ無い国から一番死を恐れる国に転じている  
死についても目の前の死は悲しいとか 大往生とかの感情はあっても怖いとは思わない
日本人は今死を恐れてたり怖がったりするのは死を看取れ無くなったからだと思います
以前は大家族で暮らしており 其の大家族が看護をして看取りをしていた 
子育てをするのは親じゃないんです 20~30台の世代は田んぼで労働したり
漁業で労働したり労働力となる 
 
誰が赤ちゃんの世話をするかと言うとご年配の祖父母なんです 世間社会のルール言葉の
使い方から伝説や文化まで身につけている
おまけにご年配の時間観 が若い子の時間観に妙に合っている 
処が10年もたたないうちに50~60代 その自分のおかゆを食べさせてくれた
おしめを取ってくれた方が逆に 死に向かうわけです  
其の時の伝統的な社会で介護するのは親ではない訳です 親は30代で元気に働らかなければ
いけないから 働いている親は介護をする時間が無い訳です  
10代の若い人達が今度お爺さんのおかゆを食べさせておむつを替えて 若い人達が
お爺さんを看取るわけです  目の前にさっきまでありがとうと言ったお爺さんがもう二度と
しゃべらなくなるとその死の深さを一生忘れないと思うんです
いなくなる深さを感じてしまうと嫌な相手でも死ねとはくちでは出せませんし  
処が今若い子たちが中学校 高校に行くころは何万回の鍵かっこの死を
漫画、ビデオ、ゲームを見ているにも拘らず それは嘘の死なんです 

痛くもかゆくもなく 悲しくも無い リセットボタンを押せば又生まれ変わるような嘘の死なんです 
本当の死はもっと深くて考えさせてくれるようなものなんです
日本には素晴らしい死の作法や伝統があったのに、ついバブル以降それを見失って
いるんじゃないかと思います
死は限界を感じることと同時に未来を考える事です 老病死を経験することが絶対に大事 
核家族、片親の家族では時間が無い為に其れを教えられない
其れを学校で教える時代になったのではないかと思う  どのように亡くなりたいかを考える 
自分で老病死を考えなくてはいけない時代になっているのにもかかわらず 何をどう決めていいか
判らない そうすると死は長引くなるだけでなく 国の大変な資源
財源などを食ってしまうわけですから場合によっては本人が欲しくはない形にもなりかねません
事前に其れについて考えて 其の心の準備、手続きの準備をしておけば絶対科学や英語を勉強
するよりも役に立つと思います

いずれは老病死は来るのでそれを意識することによって自分の生き方 限界に向かって如何に
生きてゆくか 懸命に生きなければならないという事に繋がって来ると思います
大きい力の強い恐竜が全滅してしまった  いつ人間も全滅してしまうか判らないと思うようになって
  一体どうやって生き残れるのか 別の次元で考えるようになった 
宗教や哲学は日本ではなになに宗なになに派と考えがちなんですが、私はむしろその根源にある
価値観 心のよりどころ 何を深い意味で信じるべきかどうか
という事に関心を持ち 広い意味で宗教に関心を持ち 哲学を勉強し出したのです
日本の仏教や生き方について判る様になりました(ハワイにて日系人と接して)
末期を看取った場面に接した(日系人の)  どうしてやるべきことを済まして他界出来るのかと
吃驚した  感銘を受けた 文化的側面等日本に興味を持った
理想的な伝統の死  潔く納得出来る様な人生を全うする様な 死に方だと思います  
やるべきことを残さず名残を惜しまず 廻りに迷惑を掛けない死に方でも有るわけです

一遍上人が亡くなる時にいろいろな書物や弟子たちの集めてる本を燃やさせる  
自分のものに束縛されたくない 人にそれ以上自分の名残を惜しんでほしくない
という思いもあったと思う  穏やかに亡くなる時に亡くなった   
心の中で準備ができているかどうかだと思う 
死が決してすべての終わりではないことが判っていたのではないかと思う  
物質だけを見ていると死がすべての終わりのように見えるかもしれないけれども
生きていることは精神 心 魂を中心にするものであると判っていれば 身体が亡くなったと
言っても精神 心 魂が亡くなるわけではない事を昔の人は知ってたんです
日本の死についての生活習慣は70年~80年代 死の観察をしている時に 一時馬鹿にしていたと
きがあった なんで食べ物までお墓に供えるのか
なんで儀式、法事などをなんども行うのかと 最近見直され始めた 
変化が生じたのは日本のお陰なんです

20年前にデニス・クラスというシカゴ大学出身の宗教心理学者が来られて 日本の家庭を廻って
 お仏壇とか祭壇とか先祖の写真等を見る
何に使うのかを聞くと 朝に行ってきますと言って 夜にただいまと言って 水やらご飯やらお酒を
捧げて 大事な事の時には仏壇に向かって相談する
静かに心の中でお父さんやお婆さんの態度や声が見えてくる  
仏壇 祭壇に向かって旨く行ったらありがとうと言う  これを見たクラス先生は眼から鱗だと言うんです
アメリカ人はまるで前の世代が無かったかのような振りをさせられて独自で 自分で
考えなければいけないと言われるんですが、折角 父母 祖父母の生きざま
知識 声なども知っているのだから 其れを心で聞いて其れに基づいて生きるのが文明ではないか 
(続く絆) 

心の中で祖父母 両親の生き方 アドバイス が聞けるということは 人類にとって貴重な資源で
あり知恵であってこれはむしろ我々が変えないと損だと
アメリカ人もヨーロッパ人も思っていたけれど口に出せなかった  日本人は羨ましい 
なぜなら 日本人はすでに其の慣習があって その場(仏壇等)
其の心の定め方を判っているから もっとわれわれは真似しなきゃ 
西洋 東洋を問わず大事な人に死なれてしまうと色んな不幸が襲ってきます
例えば事故、病気、精神異常(自殺等を含め)起こりやすいんです  
免疫力の低下だとか 精神統一不足で交通事故を起こしたりする
日本人はそれをたたりだと言っていた  たたりなどを信じてなくても 欧米では日本人の慣習を
マネしています

或る病院で患者自身が長くないと判った時点で毎月のようにパーティーを行います  
飲んだり食べたりして泣いたり笑ったり黙ったり握手したりして
そして本人がいなくなった後からも同じなかま家族を呼び寄せて 月数回ほどその儀式を続けます 
其れはどこからきているかと言うと日本の宗派でいろいろ違いますが
例えば初七日  49日 初盆  定期的に親戚 友人等を集めて一緒に笑ったり話あったり 
泣いたり 亡き故人を思いだすことによって
心の整理 精神統一が出来て其れによって 昔でいう たたり 今でいう免疫力低下 或は
鬱等を避けられて 旨く出来ていた
儀式は単なる儀式ではなくて 本当に機能的な意味があったわけでして お墓やお仏壇を通じて 
先祖様の知恵を借りることが日本人の知恵の一つであって
繰り返し集まって亡くなった人を納得するまで冥福を祈る事も日本の知恵だったと思います
日本への興味は→精密で正確で 一つの事を完成させるのにこだわりを持って誇りを持った
職人芸がいたるところで感じました

どれだけお金になるかを考える前に どれだけ綺麗な画像を作れるか どれだけ綺麗な音を
出せるか どれだけ完璧なものを作れるか という其の態度が
日本人が素晴らしいと思う一つは その金持ちになったからではなくて 根性 綺麗なもの 
素晴らしいもの 其の完成まで運びたいという其の精神が素晴らしい
自己宣伝をしないと誰も見向きをしないアメリカと(お茶が欲しいと表現しないとお茶は来ない)
お互いに気配りをする日本社会(急須を見ているとお茶を入れてくれる) 
を比べてみると日本の方がはるかに大人の社会です   
大学だけが理想であるアメリカでは中年から晩年までは自分が負け組になってしまう  
日本では体力ではなくて 芸 美 人格 精神力にウエイトを置いていた
芸 美 人格 精神力に価値を置いている限り いくら年をとっても自分を磨く可能性が残っている
例え体が丈夫でなくても人にどういう言葉で訴えたらいいのか、心で考えて次に会う時に
伝えればそれも一つの美的瞬間として相手の心に残ります

そこに日本の素晴らしい文化が表れているのではないでしょうか
今の日本人の死に方の理想は→現在日本人は畳での生活をしている人が少ないのにも拘わらず
 畳の上で或はベッドの上で死にたいというのが圧倒的に多い
多くの人が鳴き声を聞きたいという 虫の鳴き声 鳥の鳴き声などでありまして 見たいものと言うと
 青空 緑 或は川 山の自然光景がみたい
ではそういう最後をどこで過ごせるかと言うと病室ではありませんよね  
末期を在宅で過ごそうではないか  家族は我々がお世話できないという
実は全世界が日本の高齢化対策を注目しています  
日本がどこよりも早く超高齢化社会になってゆく
日本が旨くマネージメントし 運営できるようであればよし 日本型で行こうと思っている 
逆にお金をつぎ込んでも問題だらけであってしまえば
日本の失敗例をまねせずに独自で考えようという事になります

旨く行くために病院を増やすという選択肢はありません  財源的にも人材的にも資源がありません  
お互いが理解しあえる 助け合える 絆を今元気なうちから
作って行って、頼れる様な共同体、コミュニティーを考えて行かないと間に合わないと思います
日本人が持っている繋がりや絆やいたわりを意図的に繋げることによって超高齢化社会を
運営できるのではないかと思います
私の理想的な死は→周囲を視野に入れた死です  周囲に迷惑を掛けない死です  
物質的な準備と精神的な準備が必要に成ってきます
物質的な準備には事前要望書や 尊厳死宣言が必要です 
 一度でいいから其れを決めておきたい  自分の代理人決定をしておく
自分の財産についても ものについても 墓についても準備しておきたい
  
其れを済ましたひとでも生きているので毎日生きてゆく為に 潔く死ぬために 
可能な限り お世話になる人にお礼を言って 言えない時にはせめて心の中で其れを念じて 
許される限りお詫びを伝えて 望みを出来なかった場合は心のなかで
ごめんなさいと言う気持ちを思い出したい   あるがままを受け入れることが大事に成ってくる 
精神面になると如何に素直に与えられたものを受け入れるかという
側面になってくるかと思います   日本人は良く私に対してどの季節が一番好きかと聞いてくる
んですが 今日が一番好きと答えれば私が一番幸せなのです
暑い日でも学ぶことがある 寒い日を耐えても受け入れることがある  
有るがまま受け入れる心も日本人の宝の一つ 
突然亡くなる人  事故 病気 津浪 地震等で亡くなる人もいる  
 
一見 死や行方不明に見える出来事が 永遠の別れではなく あくまでもこの次元の
別れであって 別の次元で精神同士が再開できるという希望も日本人にはあったはずです  
其れを失っては震災や突然死は凄過ぎてむご過ぎて受け入れる余地が無い
何で10歳20歳で亡くならなければいけないのか 深い悩みが残ります 
人間だけでは説明がつきません
何日生きたかよりは其の生きた人生の中で何を分かち合えたのかと言う事と 
これが最後ではないんだ まだまだ別の次元にあるんだという其の知恵が
日本人を支えてくれたのではないか  
これからの生きかたをどうするかと考えると其の亡くなった方を忘れないことに学びとれる余地を
残せる訳です
日本に教わった知恵だと思います  

理想的な死を見つめながらどう生きて行ったらいいのか→結論的には物より精神 量より質 
物体より心の方が大事だと宗教はそれぞれの言葉でしゃべっていると思う
そのためにはどのようなことを心がけていったらいいのか→我々がブータンを見ると一見物質的に
乏しい 貧しいかの様に見えるかもしれないが 輝いて見える
其の輝きは年配の日本人には懐かしいと言われます  子供の頃有った記憶です  
其の輝きはものに偏らない幸福の有り方だと思います
実は其の幸せ感が日本の末期患者が教えてくれるのと同じです 
長いこと寝たきりになって動けないことになると 自分の人生を振り返ってみて
なにが良かったのか悪かったのか どこに価値があったのかと 或る意味で哲学者になってくるんです  
末期患者が語るには肩書 名声 偉く認められたときが
一番人生で良かったという人が以外と少ないんです
  
むしろ一緒に何かの催し物に汗を流した仲間と一緒だったときとか 好きな人と一緒に夕焼けや
音楽を聞いたときとか 山登りをして山と空気と一体感を感じた時 
そういう聖なる特別な瞬間を最後まで評価されます
この一瞬を大事にする知恵を日本にはあるんです 
我々の幸福が右肩上がりがあるなんてありえない  資源の限界 財務の限界 人生の限界
様々な限界がある  
右肩上がりはあり得ず むしろ聖なる瞬間を如何に魂に刻めるかが課題だと思うんです
今日一日の内に 一つ二つ 願わくば三つぐらいの輝く瞬間を心に刻めたら本当に良かった日だと
思います

逆にしまったと思ったことがあれば、其れを布団に入った時に反省して 死まで待たずに今のうちに
直したいところでもあるんです
死を視野に入れて初めて今日一日大事に生きようではないかという気持ちと同時に最後までの
生き方を考えさせられて むしろ前向きに積極的に 一瞬たりとも
大事にして生きていたくなるのではないでしょうか  
死を考えることによって生きかたを考えさせられますし 死が全ての終わりではないにせよ  
この身体では2度とやれない今日一日ですから 其れを大切にするために限界を考えることが、
きっかけになるのではないのでしょうか

2012年6月8日金曜日

寺内 タケシ(ギターリスト 73歳)   ・生涯現役サウンドの秘密 2



寺内 タケシ(ギターリスト 73歳)   生涯現役サウンドの秘密
父龍太郎は土浦市議会議長   母初茂は鶴岡流小唄と草紙庵流三味線の家元  
5歳のときよりギターを手にした
73歳   昭和37年に寺内武とブルージーンズを結成して 国内外でのコンサートやレコードCDの収録など音楽シーンの最前線で活躍してきました
60歳以降での病気との闘いや70歳を過ぎても現役として活躍し続ける秘密をお聞きしました
教育委員会がエレキギターの禁止令を出してエレキギターがピンチに陥った  
其れを救ったのが寺内氏の母校の校長先生 何とかスクールコンサートを開催する事ができた
熱気があった(皆ががんばれ頑張れという感じだった) 民謡とクラッシクを演奏したのが良かった 
徐々に考え方が変わってきた  いこじになっていた   1974年から1500校を超える学校の演奏会をやった  バスとトラックで廻ったが地球7周分の距離になった
バンドにとっては赤字では有ったが(スクールコンサート) 一般コンサート 5000円~1万円 同じにやった 北海道の学校 男子はズボンを下げて尻だしルック 女性はマニュキュアしている学校で修学旅行はどこに行くのか聞いたところ 東京都の事そんな恰好で行ったら みっともない
 もてないぞと もてる方法を教えてやると 学らんはオリジナルが最もかっこいい  
女性もピシッと制服を着た方がもてる  
お前らはもてない いざ さらばといって帰ってきた(コンサートの最後に)  
40日経ってから校長先生から手紙が来た 巻紙であの3分間の寺内さんの話で今40日経ちました
一人もいなくなりました 頭の毛やおかめんこ見たいなのが全部黒に染め直して 驚きました 服装も全部 オリジナルに戻りました 一人もいない  子供達も言う事を聞くものですよ   
出来る科目を夢中でやれとかいろいろ話をしている  自分の子供だと思って話す  
(学生たちはちょっと上の先輩だと思っている)
子供の頃から空手をやっていた 大先生でも 先輩でも 試合になると兄弟のようになってしまう 長崎でサッカーの強いところがある  寺内の言う事を聞けばサッカーで絶対に優勝できるぞといって実際に優勝してしまった 
其の監督が校長先生になって    3年に一回ずつ家に呼ぶが大赤字  それでもいい    
全て収録 7500曲   津軽じょんがら節が重要な位置付けとなっている 
日本の民謡が危機に瀕していた時だった 民謡大百科というLPを出した 
一番面白かったのが この津軽ジョンガラ節だった  何にもない テーマが 全部アドリブ  
津軽に浅瀬石 ( あせんし ) 川があって そこの集落は幸せに暮らしていた  
そこにお殿様が蝦夷征伐ということで入ってきて 断罪になったり さらし首になったりしている
其れをしのんで 浅瀬石川の上の河原 じょうがわら(上河原)で上演供養が始まった  
言葉があったからみんなやられてしまう
そのうち言葉が消えてしまった三味線の曲弾きになってゆく これが供養の音楽だったんですねこれを「じょんから」「じょんがら」とも土地の名前で言っている
これは面白い曲 その都度引き方が違う  

大腸癌、肺気腫、心房細動 この三つをたて続けに60歳を超えてから病になる いい経験だった 15cmを大腸を切断する  
手術室に入って音楽をリクエストするようには成らないのだろうかと言った  
自分が絶対治るんだと思ったら 治る    手術で鼻にチューブをされてしまい呼吸がやりにくいのを呼吸法を考えて譜面にする 呼吸が楽になった    (ワルツとか)      
人生観の変化は→ あまり変化はなかった 60歳から70歳への月日はあっという間に来てしまう
150回/年 現在でもやっている   秘密は?→判らない  判らないから面白いのかなあ  
迷いに迷って導きだされた言葉は(寺内が寺内に対して)
「ギターを弾かなければ音は出ない」 これだけ判った  のうがきを言っても駄目  
「備えあれば憂いなし」と言う言葉があるが「備えあれば嬉しい」
機材からギターから全部備えあれば絶対嬉しく弾ける     健康もそうですね 
きちっと運動して 食事もいろんなことを考えながら適正な食事をして    備えあれば嬉しい   「ギターを弾かなければ音は出ない」  
 
最近は練習をしないそうですが→ギターに触って練習をするのか ギターに触らないで練習をするのかという問題ですね
触らない方が効率がいい 引きたくて弾きたくてしょうがない  弾いた時に瞬発力が出る 
我慢して頭の中で考えて  其れがいいと思う 70歳になってから
楽しくてしょうがない そのことが   サウンドが違ってくる   これで死んでもいいやと 思うくらい嬉しい
「青春へのメッセージ」 寺内 タケシ 作詩 作曲