2012年9月5日水曜日

楊逸・ヤンイー(作家)      ・憧れの地 日本で自らの人生を作る

楊逸・ヤンイー(作家)     憧れの地 日本で自らの人生を作る  
国交回復してから40年になる節目の年  1987年(昭和62年) 来日 
ちょうど25年になる (22歳の時来日) 
日本の大学を卒業し 、中国語を教えるかたわら、小説も書き始めるようになります 
結婚や、離婚を経験しながら2008年には芥川賞を受賞するまでになりました
母国語を日本語としない受賞作家として注目されました

気が向いたら書くような感じ すらすら書けるときと書けないときがある 
一気に書いてしまうのが好きなタイプだと思っている
『流転の魔女」を連載している   大学でも教えている  
日本に来て25年なる あっという間の時間だった
1964年ハルビン生れ(東京オリンピックの歳)  貧しい生活だった
 日本では高度経済成長を始める年  生きる環境は違っていた
1966年から文化大革命が始まる  
記憶には無いが  文化大革命の嵐の中で有ったが、そんなものだと思っていた(後で考えると凄い時代だったとは思う)

父親が大学の教授、母親が小学校の先生だったので所謂 知識階級に属しており 、やり玉に挙がった  
母親の方は親とかが地主なので父親と兄さん皆で台湾に逃げてしまった   
父はハルビンの大学で漢文を教えていたが 1970年1月に文化大革命で蘭西県の農村に下放され、1973年9月にハルビンに戻る  
小学校の2年生の時だった  家は住むところが無かった 苦労はいろいろ有った 
日本に来るまで平和な日々は無かった
一番上の姉が鉄道事故に遭って亡くなった  兄が学生下放して 先で血を吐いたりした  
苦難が続いた 穏やかな日々は無かった
伯父が(母親の方の)1949年の時に 台湾に逃げて うちの母親の家系は皆国民党系なので 連絡が断って音信不通だった 

日中国交回復のニュースを知った時に、なんとなく風の便りに、伯父が日本に渡っていたのは知っていた 
もしかして会えるかもしれないと思った かすかに期待を持てるようになったと思う  
大分後になって1970代の終わりごろにようやく連絡取れるようになった  
飛躍的な展開だった
一番びっくりしたのが連絡取れるようになって 叔父たちから写真が来たがすべてカラー写真だった  見た事も無かった  
非常にショックで同じ世界にいる人間 なのかなと思った  
当時は常に口癖のように社会主義は一番優れたシステムで資本主義の社会は人間が人間を食う社会で搾取を受けて苦しんでいるんだよ  
と言われ 我々はアメリカを解放して、日本も解放して 資本主義を一掃するという宣伝をしてきたので信じていた

写真を見た途端に資本社会で良い服装をして 良い家に住み 幸せそうな顔をしていて どう見ても幸せそうで我々よりどう見ても良い生活をしているという
ショックは大変なものだった   
(中学生の頃、日本にいる親戚が送ってきた日本の都会の風景写真等を見て日本に憧れる) 日本に行く方法を考えて 伯父が横浜にいるので 日本語学校を探して貰って入学志願書を出した  
日本大使館に提出して待つ  全く期待していなかった  
教師一家だとコネが無く (今もそうかもしれないが) 絶望的ではあったが 運よくおりた
日本はコネの効く社会ではないと後で知ったが 当時は判らなかった 非常に嬉しかった
卒業も待てずに2週間後には日本に来てしまった
   
日本の印象は→綺麗で穏やか 空気が違う ざらざら感が無い しっとりしている
夜 小田急線に乗り 凄い満員電車の中でも良いにおい(シャンプーとか)がする 
当時中国はおしゃれ、化粧をしてはいけないという習慣だった
昼間は日本語学校に通い、夕方から早朝まで仕事をする  辛くはなかった  
その時期が一番充実していた様に思う
好奇心があるのでいろいろ見たかった    
15時間労働して日本語学校にゆく繰り返しだった   すべて新鮮だった  
お金が無くって なにも無かったが、 駅からアパートまで歩いて30分の処に住んでいた 
ゴミ収集場にいろんな家具、電化製品が捨てて有り、吃驚して、いいものばっかりで新しくて、冷蔵庫も捨てて有ったりした 
 
お茶の水大学に入学 卒業後就職する 
繊維関係の会社 一旦止めて 在日中国人向けの新聞社勤務する  
前から書くのが好きでそういう仕事がしたいと思った
新聞に一回きりで載せるミニ小説みたいなもの、エッセー、詩とかを書く  仕事は楽しかった 
読者からの投稿をのせなければならなかったが、紙面を人に使わせるのが 、勿体なく 、人の文章を直すのが嫌で、こんなのを使うなら自分で書くと当時5ページを担当していたが、毎回自分の文章を一つずつ入れていた  
書くのは凄く早かったので直ぐ帰れた    同僚は朝まで掛かっていたりした  
私は定時に来て定時に帰っていた  そのうちに6ページになる

一旦その仕事を止めた(離婚するために) 収入が減って 暇人になって、生きる意味が無いんじゃないのと感じるようになって 転職するか 副業をやるかという様になって 子供も2人居て そう簡単に 中国人で中年女が転職は凄く難しいところが有って、悩んで どこかのフリーライターとして書けたらなあと思って、日本語の小説を書き始めた 
自己アピールする為に書き始めた  
編集者の目に留まれば今度頼もうなあというような気持ちになってくれればいいと思った  
「ワンちゃん」(最初の作品)で文学界新人賞  
時が滲む朝」(3作目)で芥川賞受賞する    
窮地に立たされていたが救われた
「ワンちゃん」が一番人生の大きな転換点、「時の滲む朝」は天安門事件がテーマになっている
「時の滲む朝」は中国社会を気になると言う前に この自分の身をもって体験した歴史というものなんですね
今になって思うんですけれど、我々日々生きている中で何となく生きて行っているんですけれど、すべて歴史なんだよと思えるようになりましたけれど
だけどつい前までは、矢張り私の中で 文化大革命を経験したとか何とかは 凄い生れた時の環境がずっと続いたわけで何度もまずかったわけですね
一番ショックでこれは本当に歴史だという意識を持ったのは天安門事件ですね  
中国の転換期に合って矢張り大きな私の歳にしても 天安門事件に参加した
学生たちとは変わらない歳で思いはよくわかる  
我々は本当に中国の現代を生きて
きて余り良い目に有って無くて、余り個人的な恨みやら、いやみやら、というものは持っていない  
純粋で国によくなってほしいという愛国心というものは天安門事件からその後しばらくまで持っていたんだと今になって自覚する  
そういう気持ちも本当に全部含めてですけれども、一つの記念としてこの小説を書きました
私の中にも有ったという事を作品として残したかった
先年日本に帰化した  
今後の作品は→  普遍性  個性的な作品でありながらも普遍性を反映できるような物を書きたい
実践的な作品というかいろんなパターンを挑戦してやっていきたい  
書くのを楽しみに仕事をしたい
日中がからんだ作品が多かったんですが、純粋に中国だけ あるいは中国でも無く日本でも無く 別の域に行きたいと行けたらなあと思います