2012年9月9日日曜日

小田原健 (デザイナー)       ・木と森を生かすデザイン

小田原健 (デザイナー)         木と森を生かすデザイン  
1934年静岡県浜松市生まれ
父はパイロット技師、母は絵を描く 
16歳の時にアメリカのデザイナーの本に出会ってデザインになる事を決心  
日本の洋家具職人を育てた木工組合に入り、昭和を代表する木工名人 三輪磯松に出会います  
ここで身に付けた木工技術とデザイン力が小田原さんのデザイナー人生の基本となりました
若くして東京芸術大学の吉村順三教授に見出され、28歳で東京芸術大学の講師に抜擢されます 
小田原さんに活動の転機をもたらしたのは平成3年大分県を、襲った台風により倒された風倒木の扱いでした  
木は生きているという考えを持つ小田原さんは、風倒木の命を救い、森を再生する活動を始めました  
この活動は日本ばかりでなく、世界の森林関係者や木工職人と手をとりあって、木と森を生かし地球環境を蘇らすことに取り組んでいます

部屋にあるテーブル椅子は小田原さんの作品  家具、テーブルは塗装をしていない  
塗料大嫌い 針葉樹はヤニが有る ヤニは長年使っていると、外ににじみ出てくる 
それを磨いているだけで塗料は要らない  
木は生きている 生き物の上に塗料を付ける必要はない  
一枚の板がこんな形にしてくれと言ってくる  
それを受け止めてその板を使ってどういうデザインにするかを木から聞いてくる
小さい頃から工作は好きだった  
のみ、のこぎり、かんなを親がくれた  
自分で好きなように遊び道具を作るためにやっていた

中学生の頃にアメリカの工業デザイナーレイモンド・ローウィさんの本を読んで本当に感動した  こんな楽しい職業があるとは知らなかった
新聞を見たらレイモンド・ローウィが専売公社のピースの箱のデザインをしたと、あの鳩は不滅の鳩だと思った(今でも飛んでいる) 
デザイナーになろうと決心する 
どうやって勉強するかが問題  親は学校にと考えていた様だが私は全然そうは思わなかった 
東京芝家具組合に入る  
伯父が物づくりしたいのなら基礎技術を勉強したらどうかと 家具の世界で勉強したらどうかと昭和の左甚五郎と言われる、三輪磯松を知っていたので紹介してやるよと言われた  
有名な組合で伊藤博文が作った組合なんです  西洋家具です  
横浜の元町商店街は西洋家具の街 カーテン、カーペット、ステンドグラス、椅子、机、あらゆる生活関連が集まって 西洋人から教わった
伊藤博文が300人ぐらいの職人を今の新橋の赤レンガ通り に連れてくる  
ここに世界の大使館を作るんだと言って大使館を作る

国会議事堂の内部なんかも作った   
三輪磯松は弟子を取らなかったが伯父が知っていたので面接を受ける  
先ず手を見せろと言われた 
触ると良さそうだなと言われる 明日から弟子にしてやると言われた
最初の1年間は挨拶と掃除だけを教わる  見習い 見ながら習う  
道具を持たして貰った時にそのおかげで入りやすかった
3年目に家具の展覧会があるからやってみろと言われて作って出したら、最優秀賞を貰った  おまえ俺より旨くなったなと言われた
師匠から教えてもらったこと  木は生きている 
木は毎日動いているよと言われた 息をしている 
自然の素材に逆らったことをしてはいけない 縦は縦の、横は横の扱い方がある   
デザインにしても組み方によって、割れ、そったりする  
ルールにのっとってやれと言われた

反っているからほぞを0.数ミリ微妙にずらすことによってパンと組むと真っ直ぐになってしまう
どんな木材でも差別をしない どの木にも1本1本、特徴がある
吉村順三先生に可愛がられた 
(三輪磯松に習ったおかげで吉村先生に能書きを言えるようになった) 
最初お会いした時に物凄い感性をもっていたんで、先生に対する尊敬と感動を得た 
先生のいうことならば何でもついてゆくと思った 今でもそう思っている
先生の懐に飛び込んでしまった  
文化功労賞を受賞 新宮殿を設計 戦後の日本の住宅建築家としては一番尊敬されている人 箱根にホテルを作る時御縁が有った 毎日毎日が本当に感動だった 
先生の色の使い方、椅子の配置のセンス、空間の作り方 美しさは身体全体で受け止めた  
1mmの寸法でも妥協をしない この椅子にたどり着くまでに10脚作った  
毎週何日か徹夜をさせられた 原寸図をチェックしてくれるのが楽しみだった

28歳の時に東京芸術大学の講師にして貰った  あそこは職人の学校  
学長から辞令を貰った 22年間勤めたが 意義あることだった
建築家は15名の生徒 と付き合う    
人を教えるとは  どっかいいところがあったら見付けてやってくれ  どっかいいところがあったら引き出してやってくれ、どっかいいところが必ずあるから褒めてやってくれ    
優秀な人はさらっとやってしまう  
駄目な人は汗をふきふき泥だらけになってもがくが 付き合っていると、どっか光るところが見える 
そうすると君ここのところが素晴らしいよと褒めてやる  
それを先生に耳づくり?と言われた  
それが卒業の時にAクラスの生徒より上を行って卒業している   
(大体俺はお悧巧さんだよという人は駄目ですね)
そういう卒業生とはいまだに付き合っている
大分県での台風  巨大な木が倒れて仕舞いなんとかならないかと相談を受けた  
飛んで行った  巨大な量が倒れている  10万棟分ぐらいの量

杉という木に対しては深い意識は無かった  
角材にして、柱には成らないので 倒れた木は寝かしながら煉瓦のように横にして建物を作った (ログハウス)
風倒木展を開催した   国は焼却処分にすると検討していた  
私としては木が助けてくれと言っていると思った  林野庁長官のところに行って談判した
話はかみ合わず、自力でやることにした  
地元の人達と協力して行った  
マスコミを呼んで記者会見する事に成り 反響で1万人が来場してくれた(6日間)
ログハウスが10年ぐらいは暇なく売れた  一番簡単なのはフローリングを作った  
今は日本一の製材所になった

森を守らなければいけないと気が付いた  20年ちょっと前の話   
国内からの問い合わせは無く、スウェーデンからの問い合わせが有った
スウェーデンではヨーロッパに木を売りつくしたので何とか木を使ってくれないかとの話だった 
スウェーデンのは中々いい木だった
家具をつくろうと思った 日本に輸出する  
タイ、ニュージーランド から要請を受ける  東南アジアからも要請有り  日本でもようやく新潟で会いたいというところがありお会いした   その話に感動した  
地元の杉を使って木工産業を立ち上げたい  デザインが出来ない  
東京で展示会をするが貶されて戻ってくるわけです
 
魅力の無いものができている  18社の小さな建具屋  
全部ひざ詰めで話し合った  
私がデザイン、営業をやるからやるかと言ったら やるという事で、公共事業があるのではないかと言ったら 初回6000万円の温泉センターの仕事を提供してくれた  
その建具家具、総工事をした  
あまりにもいい出来具合に市長が吃驚した
  
売れなかった木が売れて、技術が再生して こんな良い施設ができたと、町の為に貢献したと 資源、技術、施設、全部その町の血となり肉となったわけです  
これが本当の産業ではないですかと言ったわけです  地場産業が芽生えた  
その一部を全国大会に出品した  最優秀農林大臣賞 と最優秀デザイン賞をもらってしまった  上越市にある協同組合「ウッドワーク」
森を大事にしながら家具をつくってゆきましょう  家具をつくることによって森が守られる  
地球環境を守る
開発という名前で環境をどんどん壊してきてしまっている  
一番の働きものは森の中にいる微生物ではないだろうか