2012年10月10日水曜日

今井幹夫(館長78歳)       ・富岡の生糸の歴史をひも解く

今井幹夫(館長78歳) 富岡の生糸の歴史をひも解く
富岡製糸場は養蚕の盛んだった富岡市に官営の工場として、明治5年に 建造され今年で
140年を迎えます
フランス式の赤レンガは当時のままで残る工場は世界的にも珍しい  
製糸を通じた海外交流により、近代日本の経済を支えた事などが評価され、文化庁から
世界遺産に推薦され、2年後の登録を目指すことになりました  
近代以降に建造された産業施設が、世界遺産に推薦されるのは国内では初めてです
群馬大学で考古学をまなび、40年に渡り富岡製糸場の歴史を研究されました  
製糸場の建設のいきさつや、殖産工業における役割、当時の生糸の流通
さらに製糸場で働いた女工の実態等、丹念に調査されました 
その長年の研究が世界遺産推選へと繋がりました
一日 600~700人が見学に来るようになった  
平成8年にボランティアで説明する組織が出来て、現在90名が担当している
1年中 操業できるように倉庫ができた 104mを越える倉庫 2つ  木骨レンガ蔵  
木の間に煉瓦を積む、フランス積み  長いレンガと短いレンガを交互に一列の中に積んで行く方式
フランスの北部で発達した方式   昭和48年ごろから研究を始めた 
世界遺産条約に批准したことにより 推薦が可能になった
明治政府の殖産興業の一環として富岡工場が作られた  
現在まであることを知らない人が多い
1872年(明治5年) 140年前に操業開始  昭和62年まで操業していた 
蚕業界は機械が段々大型化してくるが、富岡工場は建物が大きかったために
建物を再建築しなくて済んだので、建物自体はそのまんま残った
閉鎖する時  売らない、貸さない、、壊さないといういう事で今に至っている 
 
主にフランス向けに輸出されていたが、その後アメリカにも輸出される様になった    
徳川幕府の時代 鎖国令出していたが 安政6年 1859年に函館、横浜、長崎に港を開く
以降日本の生糸がどっと輸出されていった   フランスでは蚕の病気がでて、生産ストップに
追い込まれ、需給のバランスが大幅に崩れる
清国からの輸入で賄ったが、清国ではアヘン戦争太平天国の乱で生産が落ちた そこへたまたま
日本が港を開いた 特に横浜に貿易商社が立ち並ぶようになった
そこから生糸の輸出が始まった  1860年の輸出量 我が国の全輸出量の60%が蚕の種と
生糸だった 年年増えてゆく 

江戸末期から明治初期は生糸が輸出の主力だった  粗製乱造問題が起きる  
外国の機織り機械にかけれないものが出てくる苦情が出てくる
明治元年、2年に生糸が暴騰する  原因を究明するために派遣する   
日本の生糸を良くするためには、早くヨーロッパの機械を導入する必要があると記載有り
指導者としては外国人を雇う事  長野と群馬を指定して明治政府に出している  
明治政府は富国強兵、殖産興業の育成 を目指す    その中でも養蚕工業が一つの柱となる
女工を全国から集める  技術を学んで地元に戻して貢献する様な方針だった   
日本社会を大きく変えて行った
イギリスの調査団の中にフランスのポール・ブリュナーがいた  
埼玉、長野、群馬を調査して富岡が最適だと判断した

条件は 原料の繭が確保できる事   5.5ヘクタール 広い敷地が容易に手に入った   
製糸するには大量な水が必要だが近くの川から入手できる
燃料としての石炭が近くで採掘できる 
日本の体格に合った、気候に合った機械を作らなくてはいけないのでポール・ブリュナーは調査を進めた
設計は明治3年開始  操業は明治5年 と速かった  横須賀の製鉄所に勤務していた人に
設計図を書かせた  横須賀の製鉄所の図面と富岡製糸場の図面は瓜二つに成っている
設計図が仕上がるのに50日位  ほぼ製鉄所のコピーと言っていい
明治4年の3月に工事着工  明治5年の7月に完成する  突貫工事で仕上げる   
人数は膨大と思われる
  
なんでそんなに急いだのか  生糸の生産を兎に角速く進めたいとの一心から  
土台石のレベルは100個以上あるが、その誤差はプラス、マイナス 2cmしかない  
砂利と粘土を下敷きにしていたが、素晴らしい技術だった
女工 全国の士族の娘を集めた  廃藩置県で士族の地位も落ちた  実際は其のほかにも 
古着商、小間物商の娘等も集めた でも多くは士族の娘が多かった  
日記から日常生活から49項目の事が書かれている  
ノウハウを持ち帰る意志を持っていた
平均して7時間45分の労働時間 日曜日は休み  (明治8年に政府では導入) 
当時のフランスの労働時間を調べると12時間  自分達の理想像を描こうとしていた
給料は能率給  年齢給ではない  1等工女 は1円75銭  2等工女は1円50銭  
以下はそれに従う  現在の 3~4万円相当か  三度の食事は工場持ち 
寄宿舎もすべて工場持ち  病気、けがをした場合は治療を受けられる
 
無料で福利厚生が進んでいた  
夜は女工は勉強した(夜学制度)日曜も学校を開いた
読む、書く、算数を勉強  15歳~25歳(中には11歳の子もいた)  
地元に学校制度が組み入れてない子もきている  あえて夜学、日曜学校を開いた
産業の中心になったのがこの富岡工場   せめて国の重要文化財にしなければと思っていたが、
その上を目指せそうなので感無量の感がある
片倉さんが経営したのが昭和14年~62年まで  その来歴はまだはっきりしていない  
2014年に登録したい
施設群をどのようにしてゆくか→単なる観光資源としてではなくて、どのように活用してゆくかが問題  
昭和62年のままでで保存されているが実際に機械を動かすとか、
体験して貰うとか、考えて行かないといけない
   
リピータが生れてこないといけないので、今後の課題
絹、生糸  高価になり過ぎて我々の生活から離れてしまった  
どうブランド化してゆくか、考えないといけない
量産をどう位置付けるか   世界遺産に登録されたら、富岡のお菓子、ブランド品 どうするか 
名物に旨いもの無 どう思うか  伝統の上にあぐらをかいている  
嗜好は変わってきているので、考えないといけない 自分の店で試して欲しいと訴えた
若手経営者も動き出した  町おこしに繋がっていけばいいと思う