2012年1月30日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(荻野あんな)

 天野祐吉            隠居大学(荻野あんな 大学教授 小説家)  
(おぎの あんな 1956年11月7日 - )は、日本のフランス文学者、小説家。慶應義塾大学文学部教授
「背負い水」で芥川賞 「大震災欲と仁義」を出版
16世紀 フランソワ・ラブレー フランスの作家を研究  涙より笑いを書く
父が95歳で天寿を全うした 91歳で倒れた  最後まで楽しみを求めた 
酒(唇に酒を浸してやる)、女(寝たきりでありながら話をしていてフィアンセだと思っていたようだ)  
隠居は憧れ 定年退職後が私の青春  定住しないで転々と暮らしたい 
湯治場 (各所に茶飲み爺さんをいてもらって)
母は絵描き  
楽しみは一杯用意してある 
銭湯巡り ボクシング(型だけだったら65歳までできる) 好きな本を読む 
杉浦ひなこ(江戸研究 そばめぐり)
落語もやっている 60歳で真打ちを目標 金原亭駒ん奈を名乗る 
師匠は金原亭馬生 6~7年やっている 
落語は元々好きで 赤ちゃんの時から志ん生を聞いていた  
読んで面白いのではなく 喋って面白いのが芸 語りの芸    
「夕立ち屋」 (この商売をしている人は実は龍  冬は要らないね→それでは炬燵(子龍を連れてきます)
短い言葉にいろいろな意味が入っている事が有る
落語「頭山」 ・・・桜の木が頭の上にできる ・・・引っこ抜く・・・頭に池ができて・・その池に飛び込む 
人類はみな兄弟→兄弟はみな人類
隠居のこつ・・・死ぬまで生きる

2012年1月29日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(秋田県)


五木寛之                  歌の旅人(秋田県)      
ほかの県に比べて華やか 辛抱強い  小野の小町が出たところ 日照時間が一番少ない県 秋田美人
酒の消費量  新潟は一番で秋田が2番  美容院は1番  人口当たり
ここ20年は寂しくなってきた
石川達三 小林多喜二 成田為三(作曲家)  叙情歌
学力テストがトップグループ  スポーツが盛ん
竿灯祭り  演技が上手  大曲の花火大会
小野喬 遠藤幸雄 小池和雄 
東海林太郎(34歳で歌を歌い始める 昭和9年)  「国境の町」
思想家  平田篤胤 安藤昌益
はたはた きりたんぽ 稲庭うどん いぶりがっこ 
落合博満 「夕焼け雲」をCDで出している  山田久志(プロ野球 投手)
日本の中の異国の街のような気がする

2012年1月27日金曜日

宮田慶子(演出家)        ・常に挑戦私の演出家人生

宮田慶子(演出家)         常に挑戦私の演出家人生  
東京都出身の日本の演出家。劇団青年座(文芸部)所属
26歳で青年座 1983年『ひといきといき』作・演出でデビュー 話題作の演出を手掛ける 
オペラの演出も手掛ける 「沈黙」 遠藤周作  「朱雀家の滅亡」 三島由紀夫  
 「沈黙」 作曲は松村 禎三  13年掛ける  演劇の演出をはじめて手掛ける  
人間の内面を描いた作品  
どれほど異文化 と出会ったときに衝撃か キリシタンの迫害  現地取材もする 生月島 ここが現在もなお隠れキリシタンとしている 
現地に行くと空気が判る 何度も長崎 平戸等にいく  
生月島では祭壇もみさせて貰ったり 祈りの言葉(口伝)も聞かせてもらった
取っ掛かりがないとなかなか腰が上がらない (沈黙は学生時代から読んでおり取っ掛かりになった)
音楽の力は本当に大きい 演劇は台詞ばかり 演出家は行間を読む
台詞と台詞の間に心の中になにが起こっているのだろうと台本から読みとって役者に伝える  あらゆる可能性を考えながら最終的に絞ってゆく 
楽譜に書きこんで下さっているので読み解く  なにを求められたんだろう と言う事を探ってった  
オペラの装置として巨大な十字架が斜めにセットされている 
泥沼のような日本にはキリスト教は根付かないんだよと  宣教師がしゃべるんですが
これを元に突き刺さるように圧迫感が有り 巨大にそびえる 十字架  
お春 茂吉が原作にはない役者が出てくる 
原作は男性がほとんどで 女性の歌声をを入れたかったと思われる(松村先生が取り入れる) 「ロドリ」 ポルトガルの宣教師 アフリカ、インド、マカオを通り日本に渡って来る 幕府の役人が選択を迫る 踏み絵をするか 信者の命を救うのかの究極の選択を迫られる  
ここをきちっと演出したい
 
演出への興味は? →高校時代から文化祭等で興味を持った  
皆で力を合わせると凄い事が出来ると云う事が良かった 仕切り役が好きだった
大学から本格的に勉強して青年座に入る 
1年目は役者と一緒に役者の勉強をして2年目からは正式に演出の勉強を始める
20代の後半に 「ブンナよ、木から下りてこい」 蛙が主役 水上勉原作 の演出を担当  
食物連鎖 全ての命は強弱はあるが結局 命と言うものは繋がっているんだよ
と言うメッセージ  800校ぐらい回った 4~5年掛って上演した 
舞台と観客の関連性 こちらがゆるむと 観客の雰囲気もダラッとする 
緊張観を持ってやっていると観客もしゃきっとする この怖さを体験した 

東北のある地方のこと 農閑期に演劇を開催する事になって 準備をしていた時に 昼ごろに観客と思しき人達が座って何か食べながらしゃべっていた
こちらとしてはその人達が感違いをしているのではないかと 劇場が始まるのは夜ですよと 言ったら 「楽しみだから」と言う返事 チケットはあるし並ぶ必要がないのに
そういう風に言われて感激してしまった 
つまらないもの これはいい加減なものは見せられないぞと 精魂込めて作って持って行かなくてはいけないぞと思った 

負傷者16人」  オランダ アムステルダム パン屋を営んでいるユダヤ人の男の処に血だらけになったイスラムの青年が飛び込んでくる 
片言の会話の交流から始まって  この青年は自爆テロをしようとしている 
怪我をしているのを介抱する 自分がかつてホロコーストに親たちが送られた経験がある
つかの間一緒に住むが やろうとしていることは正しい事なのかと話し合う 
結果は衝撃的な結末になる
宗教を元にした、いさかいは 何千年も続き、一体どうしたら終わるのだろうと思う  
世界が抱えている最大の問題だと思われる

2012年1月26日木曜日

結城登美雄(民族研究家67歳)   ・東北の海に再び向き合う



結城登美雄(民族研究家67歳)    東北の海に再び向き合う
宮城県宮崎町「食の文化祭」14年度宮城県北上町での「みやぎ食育の里づくり」アドバイザー、地元学に取り組んでいる
農業漁業林業のすがたを見てこれは大切だなと思う事をとりあえず受け止めて大切だと次の人に繋げられる様にしたいものだなあと思っている
大震災を伝える 被災地を回る 最初TVの映像を見て行くのに怖気付いた
知り合いがいろいろ亡くなって言葉が空しいなあと思った
1カ月後にようやく行く事が出きた 

2度と来てくれるなと言われた人からもその後会う事が有り 来てくれてありがとうと言われる(この場は瓦礫だらけだけどここは本当に良いところだよなあと言われる)  野田村  田野畑村 陸前高田 等 知り合いがいっぱいいる 頻繁に行っている  
20年前から「東北を歩く」 本に書き出版する   
私のできる事はなにかなあとおもったが、実際出来る事は夢を聞いたり愚痴を聞いたり、
それぐらいしかできないけれども
「おめーがきてくれるとなー」と言って皆が集まって来てくれたりすると、やっぱり嬉しいんですよ
仮設に入っている人が、知っている人が少なくなって寂しいと云って嘆いている 
この人ならあそこにいるよと情報を提供してやったりしている

何でもない生活がこんなにありがたいものだとは知らなかったよ って言うんですよね  
小さい浜 浜 故に寂しいものと思ったら「ここは本当はいところなのよ」
「年が明けると、ふのり、アワビ、のり ひじき・・・ ここは私の食べ物のデパート ここはあまりお金がなくても食べる事には事欠かない金は無くても子育ては出来る 
 そんなところだと判ったよ  そんなで子育てを考えたことがなかったから、今でも忘れられない
「ここは太平洋銀行だから」と男たちはいう  「一時期は利息元本まで取り崩した時があったが 利息ないでやっとけばここは良いところだ」と言うんですね 
生産地の原点に居ると言う事が価値観を変えてしまう 
 
学んだのは今回の津浪は 自然というものはそんなに都合いいものではない 
怖いもの 恐ろしいもの 苦しさもある 牙をむく だけど 自然は恵みを与えてくれる  
優しさもあるよ 
その2つを知って生きて行く事が必要  ここを離れたいというのを当初考えていた人達が時間が経つうちに考えが徐々に変わってきた
漁師さんが 俺はもう止めた 船は無いし港は壊れてしまったし もう無理だ 借金はある 
もう無理だ それが3か月するうちに 海に沈んだ船を引き揚げたら意外と
壊れていなくて ペンチ、グラインダーを使って直して ペンキを塗ったら使えそう 
 
作業している ・・・段々昔の法螺話も出るようになった 1万9000隻が壊滅した
岩手が111の漁港がある  宮城が142 二つで約2万艘ある その約9割が流されて 
もう無理だと思われていたが 室蘭だとか三重とか日本海側から「おー頑張れよ」と  
小さな小舟を色んなところから提供されてみんな目をうるうるしている姿を見る事が有った 
身体が牡蠣の種付け時期 わかめの時期を覚えてしまってその時期に寝られない 
小舟を貰って共同でやろうかと 話が持ち上がる
身体がそわそわしてくる 自然と一緒に暮らしてきたものが身体に染みついている 
気持ちの変化が良い方向に来ているようだ

高台移転はその通りだと思う 作業場は近くに 親がいると漁に出ている時に津波があると助けられないので住むところは高台にしたい
半年前とは日に日に変わってはいるがもう一度ここで頑張ってみようと言う事なんです
苦しみ、悲しみを一緒に背負ってきたがゆえに 「あいつもつらいのに頑張ったなあ」 
「あいつもあんなに苦しいのにがんばってんだよなー」
「俺も愚痴をいえねーなー」と言いながら 人の振り見て我が振り直せなんてやつもいたけど 
あいつは俺よりとんでもない負担を持っているのに 
あいつはあんなに明るくやってんだもん これ愚痴云えねえや」 
 面と向かうとののしり合ったり 漁で競り合ったり やっていながら
影に行くと「あいつは凄いぞ」 と言っている いいですねー

今は漁師さんの家計簿は売上が950万円 経費が700万円 手取りが250万円 22~23% 
150万円が重油代(年間操業日数160日ぐらい)     最盛期は人を雇うので140万円    
お金を使う時がない 目の前に仕事が有ることが有りがたい 
収穫の醍醐味がある 勿論お金が入ればそれに越したことはないが
東北の人は自然を相手に仕事をしている人が多い 食べ物を作る人が多い  
東北の自給率は105%      自然を相手にすると恵みも多いが厳しさも多い、リスクが高い 
 自然を相手にする仕事から我慢強さが生れてくるのかも    自然、誰かのせいにしない、
自分でかぶる   その経験を積み重ねて行って収穫をきっちりやれるようになることを一人前 しっかりやっている人は尊敬される
 
金の事を考えなければこんな面白い仕事はないという 皆いう  金が安すぎる  じゃあ爺さんどうして農業なんかやってるのと言ったら  
農業なんかやるんじゃ無かったよ 農業ぐらい割の合わない仕事は無いと言うけど、おかしいじゃない 今年もやってんじゃない と言った
まずい事を言ってしまったなと思ったら 言ったっきりきりだまちゃった 
黙って奥の方に引っ込んじゃった  
爺さんがまたでてきて 手のひらに種をもってきて この種を畑に蒔くと気になるんだよね  
毎朝見に行くのさ    いつか一週間すると芽が出てくるんだよ  おっと思うよ 
 
気になるから 毎日みにゆく 間引きしてやる  残ったやつにがんばって育てよと言ってしまったりする  見に行くと双葉がぱっと開く事がある それに出っくわすこともある
其の時は何とも言えない 俺はあのぱっと開くあの時の気持ちに騙されてこれまで農業をやってきたのかなあ  其の時は聞いて泣いてしまった
戦後社会 お金を物差しにしてきましたけれど お金の有る無しで愚痴にするけれども、その一つ一つの農業の生き物を育てる こんな面白い仕事は無い

津波に遭い 二度と漁などするものかと 言いながら「最後に当たりが来たぜ おい」その嬉しさ そういうもんみたいなものがあるんじゃないのか と思う
それが自然に対する信頼とか有り難さとか、経緯とかあるんじゃないのかなあと思います
厳しいけれども優しいよ 山には山の 海には海のしんどさがある でも都会には都会のしんどさがあるんだろ 都会には都会の良さがあるが
山には山の 海には海の良さが有るよ どっちを生きてゆくかは人間の判断だ   
厳しさもあるが良さもある
「ここはいい所よ」と言った 良いところを取り戻してゆくこと もう一遍良いところにしてゆくことが復旧であり、復興である

それを応援してゆくことができたらいいと思っている  
頭の良い人達がこうやりなさいと言うんではなく、良さを知っている人達が その良さを
もう一度作り上げてゆくことが大事で周りがそれを手助けしてゆく 
それが良い復興につながると思います
私は東北を歩く事にいつも心にとどめていた言葉が有ります 
宮本常一 さんが「自然は寂しい」とおっしゃった  高度成長時代皆村から都市に行く時代がありました
過疎になり、限界集落になった それを皆かわいそうだね と言う人がいました  
それを観て宮本さんは「自然は寂しい」とおっしゃった
その後「しかし 人の手が加わると温かくなる」 と言ったんですね  東北は今瓦礫の中に有 それこそ寂しい が 土地の人或は我々外の人も加わり
手を差し伸べて行って 温かい東北にしてゆきたいですね

2012年1月22日日曜日

大方斐紗子(女優)        ・エディット・ピアフへの想い


大方斐紗子(女優)    エディット・ピアフ/シャンソン歌手
1939年生まれ      福島県出身の日本の女優・声優である。現代制作舎所属    
エディット・ピアフは 「人が不幸と呼ぶ時に最も幸せが感じられる」と語っていたと云われる 
役者人生に付いてこの仕事の素晴らしい事は 経験した幸せも苦労も全て宝になる事です、と日ごろから語っている大方さんと多いのかもしれません  
エディット・ピアフの作品をレコードで聞いて感動してから どうしても歌いたいと云う事になった 
声の質 声の出し方等 私として考える最高の芸術のような気がする
彼女の場合 下品さと聖なるものが 非常にないまぜになっている 
それがあらゆる人を救ってくれるちっぽけな人間達に向けられる愛情の深さのように感じる

私が働いていた店のママさんがあんたみたいな人はフランスのパリで歌えばいいのよ 
そういうところで歌わなくては駄目よ と言われましたと、うちの事務所の社長に云いましたら じゃあ行きましょうと言われた (40代の頃 25年以上前) 
日々の生活にずたずたボロボロになっていて骸骨のような姿形で知らない人のように 見えたらしい 働き詰めでした 
女優として働いていたのですが それプラス アルバイト 7つ 借金を返す等 もろもろ有って 100万円/月 稼いでました  
その様な時に出合ったのがピアフの歌だった 
モンマルトルでキャバレーだったところが今は画廊になっていると でキャバレーでエディット・ピアフが歌ったことが有るという話が有り、絶対行きたい と思いこんでしまった 
   
昔から歌入り芝居が有った 歌要員として歌っていた 
ピアノは佐藤雅彦さんと組んでモンマルトルに行った
私は友人の劇作家に翻訳してもらい殆ど日本語で歌った 
聞きに来てくれた人は学者が多かった なぜなら 私の友人でフランス人で古典文学の偉い先生がいるが、その方を中心にちょうど日本文学の勉強会が物凄く盛んだった 
だから日本語とか日本人とか 日本人がなにをするか 興味が沢山あった  
反響は良く 沢山拍手してくれてブラボーの連続だった
上田ちかさん 作曲家が突然訪ねてきて その時のテープを聞いて是非プロデュースしたいとの申し入れが有った 

もうちょっとピアフに迫ってみようかと思って歌う事にした
小さい頃から私が泣くとねいやさんがおんぶして映画館が向かいだったのでしょっちゅう映画を見ていた 段々目が肥えてくる
脇役に目が向かい 脇役の事を調べる  この脇役はすごいと思う人は全て舞台出身だった 
舞台へ行こうと思った(12,3歳の頃)
高校卒業後 舞台養成所に10期生として入る 中野誠也 八木昌子 西沢利明 そういう人たちのグループでした
先輩は 山本学 仲代達也 平幹次郎 市原悦子  3年間 基礎からびっちり学ぶ  
千田 是也先生 新劇の草分けの先生

千田先生に或る時に反発したら真っ赤な顔をして「お前なんか お前なんか お前なんか 養成所逆戻りだ このバカ女」 と言われた
当時演出家に対してなにも言えない状況だった 
千田先生に向かってなんという事をと 周りから唖然とされた  不貞腐れた時期が有った
先生が癌で入院してお見舞いに行き ラーメンを半分ずつ食べそれから山のようにお芝居の話をしました 
心の中では尊敬する先生だった 
今な僕はこんな事を勉強しているんだと沢山の本を見せてくれた それを見せていただいて 「よし 私はこの方の精神だけは引き継ぐぞ 死ぬまで勉強するぞ」と思いました 
1994年に亡くなる
 
葬儀の時に先生の親戚の方が耳打ちしてくれて 先生が亡くなる1週間前ぐらいに「女優で一番好きなのが大方だ」と言ってくれた との事 号泣してしまった
多分私は 歌プラス 芝居 として歌を歌っているものと思う 
素地として 身につけてものに パントマイムも影響している ギクル・コック?先生と言いまして 日本の新劇の再教育の為に呼んでくれた先生(33歳の頃)
60歳のときも受けた 2度受ける 動きの中で7段階有る
道化が頂点 シェークスピアに出てくる道化が最高  難しかった
身体全体で捉える台詞とはそういうものかを考えさしてくれたのがパントマイムでした だからパントマイムで教わったあらゆることを全部言葉の発声に置き換えて、一人で訓練してみました 
例えばカーテンの揺れの声はどんなものか とか 全部パントマイムから取り入れた 

言葉と言うものは全身のものなんだと思った  
最後の総仕上げは表現の言葉で その前段にはパントマイムの色んな動作、仕草がある それがないと本物には成れない と言う事を感じました
俳優の魅力 →人間を描く職業だと思いますから あらゆる人間を 人間とは何かをしっかり観る事ができるしっかり生きた人間でないとちゃんと見られないんじゃないかと思います 
と言う事は舞台だけじゃなくて 日常生活の面でもきちんと生きると云う事ですかね 
それがいい加減だったりすると舞台に立てないと思います   
苦労も大事 苦労ばっかりで苦しみばっかりで人とのいさかいばっかりの人だったら生きていることに値しないと思います
だからそこに何らかの調和が必要です 
それを見だしてくれるのが美術や音楽や演劇だと思います
 ピアフは凄い 子供の頃から道で歌って稼いでいた 
 
タコあし配線が原因で火災にあって 後1分も遅ければ亡くなっていたと思われる
煙で肺が真っ黒になり意識不明 2か月入院した 声が出なくなってしまった 
どうすれば声が出るようにするためにはどうすれば必死に考えた
あくびをすることで でるようになった 声帯の幅を広げる 半オクターブ上が出せるようになった ピアフの言 「人が不幸と呼ぶ時間を最も幸せが感じられる時」 「この時こそ愛が確かめられたり幸福が確かめられたりする時である」  

大方さんの言 「他者の視点に立って物事を捉えられる人」 もっといくと「人間ではなく木の目線で見るとか 全然違うところから物事を捉えられる人」
「自分の中に沢山他者を住まわしてあげられる人」 
「自分をなくすまで他者を住まわせてあげたい」 
「演劇や音楽、なんのジャンルにも捉われない水の様に人々と交わってやっていきたい」・・・理想です
「うんと辛い思いをしている人達が自死しないで この歌を聞いて生き延びてくれたらいいなと 思います それを答えられる歌い手になりたいです」

2012年1月21日土曜日

和田武(日本環境学会会長70歳)  ・再生可能エネルギードイツの取り組み

和田武(元立命館大学教授、日本環境学会会長70歳) ・再生可能エネルギードイツの取り組み
20年前からドイツの市民たちが再生可能エネルギーによる発電に自ら取り組んでいる現場を
訪問調査してきました
日本でも市民共同発電所運動があり、自然エネルギー市民の会の代表も務めています
最初デンマークで風力発電をやっているのに注目  1970年代に石油ショックが有りました 
其の時にエネルギーの自給の問題が出てきた
地域に住んでいる住民が自主的に農業機械メーカーに頼んで風車を作って貰ってそれを使い始める
わけです (発電用の風車)

風車から出てきた電気を自分の家ではなく他にも使ってもらうと云う事で買い取り制度が出来上がった
今では電力供給の20%を賄う その風車の80%が農民所有 共同或は個人所有
デンマークでは1996年(京都議定書の1年前) 2030年までに50%減らすと云う事を決めた
デンマークに出掛けてゆきニールセンさんを訪問する 
彼らは地球温暖化問題を国民的に議論して大変な影響を与える可能性があるのだから 
その防止のための
国際的な義務をデンマークは果さなければいけないと、言う事で 高い目標を決めた
こんな高い目標を本当にやれますか?と質問→この目標はやれるかやれないかの目標ではなく 
やらなければいけない目標です とニールセンさんは答えた

今の段階でやれる条件が無ければそれをこれから作ってゆく 
そういう姿勢で取り組むべき問題だと思います 
ドイツとデンマーク国境も調査 最初市民がどう取り組んでいるか判らなかったが 
再生化エネルギーを市民が取り組んでいる そういう姿勢が重要だと思うが 
そういう例が無いかと質問したら 我々はそういう姿勢でずっとやっていると ホイクト次官から言われる
現場を見せましょうとあちこち連れて行ってくれた 具体的な住民参加の姿勢を見せてもらった 
 90%以上はその州では地域住民が参加してる

北海の埋立地では1950年代の終わりころ 人が減ってきて 村人が風車を作ろうと立ち上がる
 結果現在四万KW 村の電力使用量の500倍生産している
余剰分は電力会社が購入して他に供給している 売電収入で豊かになってきている
2000年に再生可能エネルギーの20年間購入できると云う法律ができた 
ドイツでは3割が100%独自供給できるような目標を掲げている  
色んな地域で持っている資源を生かす取り組みが各地でやられている
再生可能エネルギーでの発電量はドイツでは17%ぐらい  
2050年に80%以上 (福島原発事故以後に計画) という目標を掲げた 2020年までに原発廃止 
地球温暖化 現状2010年の 大気中の温室効果ガスの伸び率が過去最高 2.2ppm増える
 非常に高い伸びを示す 

この状況がずっと続くと21世紀末 2100年にどのくらい気温が上がるかいうと 4℃前後  
産業革命から今までに上がったのは0.7℃ 
20世紀の100年間で0.6℃あがったが、それでも色んな事が起こっている 
氷河が融解したり 海の珊瑚が白化したり(死んでいったり) 海面が上昇
沙漠化 色んな変化がおきているが 0.6℃で起こっている現象  4℃上昇になると大変な事態が
予測されている
不可逆的インパクト と言いまして 地球も気温もある程度のところまでだったら それを回復させよう
とする力が働くんですけれども ある一定の気温上昇まで行きますと
回復不可能な変化が起こる 云う事が予想されています
 
もうすでにちょっとその傾向が出てきているのは シベリアの凍土地帯 ツンドラ地帯 の凍った地面が
ありますがそこには生物の死骸とか 木の倒れたものとか が腐らないまんま残っていたわけですね 
処が最近気温が上昇したので 地温が上がり始めている
凍土地帯の融解が起こります 解ける深さが以前の2倍以上になっています 
解ける期間も長くなっています そうすると生物とか木が腐り始める
腐るとそれがCO2になったり 酸素の無いところではメタンガスになったりして でてきます 
最近メタンガスの濃度が急激に上昇しています

メタンガスはCO2の20倍の温室効果が有りますので 温暖化がさらに加速されますともっと深く
解け始める 悪循環です →不可逆的インパクトとという
海洋の酸性化が起こると云われている 海水に有る程度CO2が溶けているわけですけれども 
大気中のCO2が増えてくると海水の解ける量が増えます
水にCO2が増えると炭酸水になる つまり酸になる 
海の水というものは元々アルカリ性でPH8.3ぐらいだった (産業革命時代)それが0.1下がって
PH8.2ぐらいになっている
酸性かの方向に変化している それがどんどん下がってPH8.0を切るぐらいになると海の中の
動物性プランクトンとかこういう動物の殻が溶けはじめます

そうするとそういうものが生きてゆけなくなります 食物連鎖で動物性プランクトンを食べている 
子魚が影響受けるとか それを食べている大きな魚も影響を受けるとか
生物全体が大きな混乱に陥る可能性が指摘されています  
ですから今の勢いでCO2が増えてゆきますと 21世紀の 半ばぐらいにですね 
こういう事も起こりうる
地球の人口はやがて90億人になると云われていますね 
その人達が食べて生きていかなくてはいけないわけですけれども 温暖化がすすむと食料にも影響を及ぼす
今でも異常気象で作物の出来が悪いと云う事があちこちで起こっています 
激しい気温上昇が起きると世界中で農作物ができにくくなると云う事になる
水不足も人口増加により非常に急激に増えてゆくだろうと云われている
 
人口が増えてもその食糧や水を十分に供給できなくなる そういう事態にもなり兼ねない
1998年に「日本の21世紀エネルギーシナリオ」という本を出版 最近修正して発表 温暖化による
気温上昇を産業革命から2℃以上あげるというのはさっきのような
危険性を増しますのでそれはどうしても止めなければいけない 
その事に付いては国際的には合意されています でもそれを実現するための条件については
合意されていません それぞれの国がどの程度削減するかは決まっていません 
やり遂げなければいけない目標です
省エネを進めてエネルギー消費量を少なくすることも大事なんですけれども それと同時にCO2を
出さないエネルギーに替えなければいけない

日本は原発を其の手段としてそれを増やすと云う事をやってきたんですけれども 
日本のような地震国では極めて危険であると云う事がはっきりした
原発に依存すると云う事は止めなければいけない 大量の使用済核燃料の放射性物質というのは
強烈な放射線を出すので最終的には地下に永久保存を
すると云う計画なんですが 分離した放射性物質は30年から50年 強制冷却し続けながら
貯蔵しなければいけません
そうしないと永久貯蔵をいきなりできません 地下の永久保存するわけですけれども 
その処分地がまだ決まっていない それが無害化するまでには数万年掛る
再生化エネルギーを急速に増やす必要がある 

デンマークは風力 バイオマスが殆ど   
日本は地熱 太陽 水 風力 海洋等エネルギー源が一杯ある
全国で市民共同発電所が約300か所ある
制度的に充実してくれば 持ちだしでやっている現状が改善され、普及してゆくものと思われる
再生エネルギー利用は石油資源の争奪戦にはならない 
戦争は資源紛争が原因であることがままある

2012年1月20日金曜日

大村典子(看護大学教授)      ・ピアノでつぐむぐ生きる夢

 大村典子(宮崎県立看護大学教授 66歳)        ピアノでつぐむぐ生きる夢  
<概要>
1945年 旧満州 ハルビンの生まれ  国立音楽大学院を修了 
協奏曲四季を作曲したヴィヴァルディを研究して世界的評価を得た 
その後ピアノ教育に専念    講演会やコンサートを全国で実施 
音楽を看護に活かしてほしいとの要請があり 看護学生に音楽論を指導 
おさなくして脊椎カリエスを発症 ギブスベッドで寝たきりとなり 病弱な学校生活を送りましたが ピアノと音楽との出会いが私の人生を豊かにしてくれましたとお話になります  

子供の頃に病院から帰る時に泣き叫ぶ私を見て店頭に飾ってあったおもちゃのグランドピアノを買ってくれたのが私とピアノとの出会いでした
ギブスベッドで寝ながら弾いていた 
指を動かすことでいつの間にか筋肉を鍛える事になった 歌も歌った それがラッキーだった
2歳の時に脊椎カリエスになる (満州からの帰りの時に感染したらい) 
父がトランペットをやっていたので父から音楽を教えてもらった 
母は現在91歳で有料看護で生活している 母はリハビリをやっていて手助けをしている  
ビバルディーの研究を打ち込んでやった いつ倒れるか判らなかったので
「ピアノの本」という処から連載依頼が来た ヴィヴァルディ研究しながら近所の子供にレッスンを教えていた
連載しているうちに 練習嫌いの人にはこの様なタイプがいますとか やる気の無い人はどうしたらいいとか 今までのピアノ教育には無かった 
街の子供たちを対象にした連載だったので街で教えている先生にとってはピタッと来た
 
昭和55年ごろでピアノ人口がピークになっていた頃だった ピアノ教育にのめり込む 
ヴィヴァルディの研究していたのでピアノが上手になる為の原因と対策を考えた
一人一人の子供にあった練習をした 
また大切なのは対話 その子がどういう話に乗って来るか そこにスポットを当てる 褒める事、認める事 どの子も褒められたいから,それによって変わる 
ピアノ以外の処からアプローチ 弾きやすい物からやる
(厳しいところだけでは駄目 甘いところだけでも駄目)  
きめ細かい対応をした 一家と会ってしたりすることにより家族の状況を把握することができる
楽しくと云う事を全面にだす 講演会は1700回近くを数える
コンサート、セミナー フェスティバル含めて,1980年から講演会等を始めて 5年で日本全都道府県を回ってしまった  
エネルギーが有ると云われたが、むしろ私が皆さんからエネルギーを貰う事によって達成できた  
音楽コミュニケーション :音楽をツールにしたコミュニケーション 誰でもどこの国の人でも誰でも一緒になって楽しめる  
世代間のコミュニケーション大切 ファミリー連弾 5~6人で片手指一本で弾く 
子供がリードして教える (子供は褒められる)
看護大学 宮崎看護大学が設立される 
学長からナースこそ芸術が必要と言われ乞われる 音楽を知っている人は心豊かになる
ナースになっても幅広く良い看護が出来る 看護の中に音楽を取りいれる
 
老人ホームはゆっくりやるのではなく(固定観念) 活気良くやる  ハッピーコーラス
音楽は一人でやるよりも何人もの人が一緒になってやるほうが楽しい
石巻 大川小学校 ファミリー連弾の楽譜を送る 
小学生で亡くなった人がおりその友人が手紙を書いて送ってきた 
4/1に追悼コンサートを実施する→参加することに決定した
私には音楽とピアノがあったから生きて来られた
公演をしていたら別の世界が広がってきた そこから私の活動は始まった 
それまでは静かに潜伏してたんじゃないんですか (多分準備期間とした)
だから私は病気したことを全然不幸だと思ったことは無いですもの 却って病気したおかげで今 私が有るわけで他の方には出来ない経験ができた
沢山の人との出会いも叶えることができた 
そして家族の有り難さを人一倍感じられたと思います 人一倍幸せだと思います

2012年1月19日木曜日

梓みちよ(歌手)         ・こんにちは赤ちゃんから半世紀

 梓みちよ(歌手)             こんにちは赤ちゃんから半世紀  
1943年6月4日 - は、日本の女性歌手。福岡県福岡市博多区出身
デビューから50周年 1963年(昭和38年)に、こんにちは赤ちゃんが大ヒット レコード大賞 夢で逢いましょうの今月の歌で歌われた 
宝塚 音楽学校に行く 1年半して渡辺プロダクションに紹介される 
学校卒業したら来ないかと言われて すぐ行きますと宝塚を途中で止めて行く事になる
子供の頃からクラシックバレーを習っていた 母が歌が好きで巧かった 
宝塚は苦しかった 朝から晩まで勉強させられた 寮生はピアノを確保するのに大変だった
(1台しかなかった為) 基礎を学んで貰えたので良かったと思う 

永六輔が作詩 中村八大が作曲  玉のような赤ちゃんが目の前に思い起こして歌えば良いとサジェスチョンを貰って歌う レコーディングも一発でOKだった
その年の紅白歌合戦に参加 その時の取聴率が81.4% 最高の時間帯は85%だったようだ 司会は白組が宮田輝 紅組が江利チエミ
渥美清が赤ちゃんに扮してうば車に乗ってでてくる場面が印象的だった事を覚えている
田辺靖男とは同期 で一緒にプロダクションでレッスンした 
37年 「ボサノバでキッス」でデビュー こんにちは赤ちゃんは100万枚売れる(リンゴの唄以来)
天皇陛下の前で歌う事になる 会話もかわす事が出来た 
1964年(昭和39年)5月、東京・文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待され、昭和天皇の御前でこの歌を披露    現皇后陛下(美智子様)のねむの木の子守歌 を歌う  
作曲は山本まさみ(直純氏の奥さん) 編曲が山本直純 作詩皇后陛下  
TV、映画でも活躍 司会もこなす   4年間一切歌わない時期が有った 
ヒットした歌が有ったが越えられず こんにちは赤ちゃんを歌うのを止めた
この時期は辛い4年間だった 「2人でお酒を」 この歌にたどり着くのに10年掛った  
ようやくイメージチェンジが出来た

酒に酔う事は好きで みんなで賑やかにやるのが大好きだった 
再度 こんにちは赤ちゃんを歌うきっかけになったのは ロスで歌う機会が生じて歌ったら客席 皆さん涙を流して下さって ステージから吃驚するほど涙を流してくれた
それで 何て事をしてきたんだろうと云う思いが込み上げた 
私の宝物じゃないこの歌はと気が付いて それ以降きちっと歌うようになった
抱負は?→あまりない 夢は一杯あるが云わない 愛犬家  
好きな言葉は?→母に言われてきた言葉 「人間死ぬまで修行よ」
健康法?→ 良くバランス良くたべる くよくよしない

2012年1月18日水曜日

津野海太郎(評論家)       ・若者雑誌から電子書籍まで本と時代を考える2

 津野海太郎(評論家・和光大学名誉教授73歳)若者雑誌から電子書籍まで本と時代を考える2  
最近の若い人は本を読まない 量的にも質的(堅い本)にも読まなくなった 
ずっと云われ続けてきた
70年代の終わりから80年代の初め 「活字離れ」と言う事がわんわん云われた  
事実堅い本から若い人達が離れ始めた
「軽薄短小」への移行 単行本の売り上げが雑誌を抑えていたが あの時に逆転が生じてしまって 雑誌の方が売れるようになってきて 10年、20年経つうちに、7:3ぐらいの割合で雑誌7:書籍3という割合に定着してくるわけです 
軽いもの、読みやすいものの方に人が流れてしまって 読みにくいもの ちょっと頭の筋肉を 動かさないと読めないと理解できないもの 時間がかかるもの と言うのはどんどんはねれてきたことは事実です
 
それが始まったのは少なくとも80年代には云われ始めていた 
大正教養主義で育った人たちとか、そう言った人達は当時我々に対しても 最近の奴らは電車のなかでも本なんか読まないで漫画ばっかり読んでいたと云われていた 
戦後 若者は段々本を読まなくなってきたと云われてきたことは事実ですね  
そう言ったことが重なりながら随分低いところに来てしまった事が有るわけですね
今の若い者が悪いわけではなく そういう流れが既に私が若い頃から既に始まっていて 本に自分の精神のすべてをかけて本とともに生きると云うような仕方で生きる人は私達の頃は減っていましたから 今の若者だけを責めるわけにはいかない 
あらゆる人たちが段々本を読まなくなってきていると言った方が正解かも知れない
 
今はTV、オーディオ、パソコン等が部屋に有り ケーブルで外界に全部繋がっている 
あらゆるビジュアルなものからオーディオビジュアルなものが全部そこを通じて入って来る
そんな中で活字に集中することなんてできるわけがないですよね  
そんな社会環境と言う、ものが有って 私ですら本を部屋の中で読んでいる時間はどんどん減っている
紙の本だけで支えると云う事は出来ない事は事実だと思いますね  
1997年出版危機と言われたのは→直接的には消費税ですね 
書店から出版社に返品がどんどん多く重なってしまい、売り上げが減ってしまった 
一過性のものか 不況には本は強いと云われてきた 
しかしこれをきっかけにずーっとヘリ続けてきてしまった  
1945年が270点ぐらいが8万点ですからね 
今の日本の書き手の能力を含めて編集者の能力を含めて もうそれの限界を超えているだろうと云われている
ですから質のわるいものがどんどん出てきているのは明らか 
そこまでやらないと全体が成り立たなくなってきた 

何故そうなったかは さっき言ったみたいに本が売れなくなった事は事実ですけれども 売れなくなったのをカバーするために粗製乱造する 似たような本をどんどん出す
雑誌が7割 書籍が3割 に定着した 店頭が書籍ではなく雑誌に変わった 
雑誌と言うものは定期刊行物 週刊誌、月刊誌、期間誌 基本的には書籍の場合はある
書店の場合は月刊誌ですよね ひと月たつとそれは売り物にならなくなる 
それが中心になってゆくと 全体がそれに引きずられてしまう 
そういった時代に育った人たちは 書物と言うものが生命が短いものが前提となる 
急いで買わなくてはいけないと思うと同時に急いで消えてゆくんだから、それだけの時間だけ持てばいいという風に雑誌と共に刊行本もなって行ってしまう   
本の生命が短くなってしまった 本屋さんの数もどんどん減ってきてしまった  
市場が荒れてしまった 正常なビジネスが成り立たない市場に変わってきてしまった 
「本とコンピューター」雑誌の編集者 として出したが→大手の印刷会社 電子化が早かった 
文字とコンピューターの間に有る世界、紙の本世界の人とデジタルの世界の人の言葉が全然違う 話が合わない 通じない 

コミュニケーションができる仕組みを作った方がいいのではないかと「本とコンピューター」  
を出した(両方に足を突っ込めるような) 印刷、本、デジタル 一緒に重なったような事ができないのかなと始めた
卓上出版 自分の部屋で本を作成 (パソコン プリンター)  →印刷しなくてもいいんじゃないか →コンピューターの画面がそのまま本の役割
漫画 百科事典の電子化 売れなかった 
最近の電子書籍化 インターネットで音楽を買う 当時は売り買いするシステムが無かった
流通の仕組みができた 音(音楽)がそうだとすると本も出来るんじゃないかと言う事が見えてきた  
グーグルが世界の図書館の本を全部電子化するという事を始めた
概算すると1億点(日本等含めるともっとあると思うが)ぐらいあると思う 
それは図書館の夢 実際に始めてしまった  
電子本リーダー  安価 反射タイプ画面 で アメリカで爆発的な売れ行きとなる  
日本でも展開  紙の本は絶対に無くならない
紙の本は紙に印刷し 綴じて 製本する 紙の本 これは全て物質 電子の本と言うのは物質ではない 

保存するときはともかく(ゼロと1の信号) 画面に表示するだけ 
定着感はゼロ いつまでも保持する事はできない どっちも出来る事と出来ない事がある  
共存する
紙の本にとって一番問題なのは紙の資源の問題  中国が13億人 インド他が一斉に経済成長する 経済成長と紙の使用量が比例する
日本は60年代まで世界の紙使用量 40位ぐらい 
10数年でアメリカに次いで第2位になってしまった  中国が今日本を越してしまった 
その勢いで成長するととてもじゃないけど木材が間に合わない 
ある部分は電子本に肩代わりしてもらわなくてはいけない と言う事は明らか  
電子本は恒常的に電気を供給しなくてはいけない  共存しない限り生きていけない
20世紀は異常な時代だった 紙の本がこんなにともかく社会のあらゆる層に広がって 
あらゆる層の人が読書の習慣を持つようになった 20世紀は初めて
20世紀が最高潮に達した その中に生きた事は感概に堪えない気がする 

2012年1月17日火曜日

津野海太郎 (評論家)      ・若者雑誌から電子書籍まで本と時代を考える

 津野海太郎 (評論家・和光大学名誉教授73歳)若者雑誌から電子書籍まで本と時代を考える  
福岡県生まれ。本姓・鈴木。早稲田大学第一文学部卒。2009年まで和光大学教授
1962年に『新日本文学』の編集者となる。1965年には晶文社に入社。1998年まで、晶文社の編集責任者

1960代から70代にかけてジャズ、映画といったサブカルチャーの本や雑誌を手掛けるなど編集者として活躍しました 
パソコンやインターネットと出版の有り方など考察するなど、本と時代とのかかわりをテーマに評論活動を行っています  
1962年が大学 最終年  昭和20年 1年間に出た本は260冊ぐらい (日本中で) 
焼け残った本を見ながら育った 本に対する飢えが有った
昌文社に入社 出来たばっかりだった 若い人達は新しいものに価値を見出していた
活版印刷 鉛の活字を拾うやり方 書籍の編集者になる 
60年代から70年代はメジャー マイナー企業との考えはなかった 

何とかして新しい読み物を読みたい との考えが有った  
占領下の時代には欧米の本を自由に出版すると云う事は出来なかった
装丁は当時編集者がやる(画家に依頼するとか)  デザイナーは殆どやっていなかった 
杉浦康平さん 優れたデザイナーで一緒に装丁をしたら出来が素晴らしかった
平野甲賀(武蔵野美大)が大学時代に特選を貰った 
或る縁が有って知り合って 昭文社で装丁の仕事をやってくれないかと言って仕事をしてもらう 彼一人に装丁等を全部任せる事になる   
サブカルチャー ジャズが始まりですが ジャズの本、映画の本 ロックの本 ミステリーの本とか系統的に出し始めた 平野デザインと組み合わさりながら出版社のカラーが出来てくる 
売れてる部数は変わらなかった  ハードカバーで出す

映画ですと淀川長治 植草甚一 小林信彦 等文庫本を1冊程度しか出していなかった  
大手は小説とか思想的な本とか自然科学 とかは出すが柔らかい本は出さなかった  
植草甚一 ジャズに付いて書き始める 植草さんはありとあらゆる事をやっている  
ジャズ、映画、ミステリー、酒 、おしゃれの話 競馬 都市文化のあらゆることに関心を持つ のめり込む 
小さな雑誌、ビラみたいなものに書かれるが 発表したまんま 切り抜きのまんまで終わってしまっていた  
そう言ったものを集めて再編集すると20世紀の都市文化の百科事典みたいなものができるんじゃないかと思って 話にいった
60年代 高度経済時代の始まり  淀川長治さん等の時代はダンディズム 
その時代の感覚が60年、70年代の若者(団塊の世代)と結び付いた

1973年にワンダーランドが発売される AB版 映画、音楽有 総合カルチャー的 元々は新聞の形にするつもりだった 綴じないでローリングストーン ロックカルチャーの新聞形式 の日本語版を出さないかと言う事で片岡義男を呼んで 編集部を作ったらその権利を持ってないと云う事が判ってしまった  
他が取ってしまっていた 止めるわけにもいかず新しい雑誌を出すことにした 
植草さんを中心に進めた
当時の20代には人気があった モノクロのもの 係わったものは初期のころ 
商標登録をしてなかった 4号目から宝島に変更したが売れなくなった 
オイルショックとも絡む  10冊まではからんでいたが、止める事になる  
今は雑誌が一杯出るが 広告中心的になる 読者に合わせて雑誌を作る 
私の時代には自分の思っている好みで作っていた
自分たちがやりたいようにやる事が再評価されている

2012年1月16日月曜日

坂本洋子(主婦54歳)       ・貴方と家族になりたい2

坂本洋子(主婦54歳) 貴方と家族になりたい
純平さんとの悲しい別れの後 3番目の子供を預かる 耳の聞こえない女の子 
耳の聞こえない児童養護施設が有るが定員が一杯でちょっと預かってほしいと
言われて施設が空くまで預かった子です
障害を持つ子を預かる不安は?→流石にそういう子とは私も出合ったことが無かったので
不安は確かに有ました
彼女は字が書けるわけでもないし、手話も出来ない 彼女との会話の方法がなにも無かった 
人間の気持ちだけで繋がっていた

意外に人間という者は会話が無くても気持ちは通じる物だとは思いました 
彼女は非常に頭の良い人でしたから いま何が必要なのかとか そういうことが全部判っていて
私が何か探し物をしていると彼女が本当に私が探している物をふっと持ってきてこれ 
と言ったみたいに差し出してくれたり そう言った事が沢山ありましたね
人が人と一緒に暮らすことがそんなに言葉が無くても出来るんだなと思いました 
数カ月で施設に行ったがその後も家に時々来てくれて18歳まで続きました
その後の里子も大半が障害を持った子でした 意外にハンディーを持ったお子さんを育ててみると 
あっ 自分にできるかしらと思っていたことが意外と出来るんだなと
言う事は気付かされました
 
親が育ててくれないで尚且 障害を持っていると云う事はかなり其の子供さんは負わされている
ものというものは大きいじゃありませんか 
ダブルハンディーだと思いますが 彼らに取ってみてはハンディーではない 
彼らはマイナスだとは思っていないし それを彼らは当然のように人生 生きているわけで
本当にいつも前向きですよね いつも前向きに生きているけなげさに頭が下がりますよね 
ご主人も障害を持つお子さんたちの学校の先生をしていらっしゃる→そういう主人がいたからこそ
そういう決断ができたんだろうなと思います
色んな情報を教えてくれたり こんな本が有るよととか いろいろアドバイスをくれるので非常に支え
になります

他の子は?→知的な障害もありますし、発達障害もありますし 様々です  
その子のニーズに合わせた生活をする
26年間で一番大変な時期は?→ 東京都独自にファミリーホーム制度を持っていたので 東京都独自が
10年 国が制度化して3年になる 13年間は多人数養育をしている
今の高校生が小さかった頃があって 4学年(幼稚園から小学校低学年)に5人いた 
あの時が一番手が掛っていたし大変だった 
小さいので家に置いてお留守番してねとは云えなくて 何かあると一人の子供の為に5人全員
連れて動く 一人の通院に5人がくっ付いていくという
朝の支度は大変 学校との連絡帖を4人書く 毎日 子供の体調の事 様子とか書いて学校に提出する  
食事は夜のうちに用意して冷蔵庫に入れておく 高校生は早く行くので早班と遅班がある 
主人が高校生、私が遅班の面倒をみる 

洗濯は乾燥機を使ってその日のうちに全部乾かしてしまう 
洗濯機 乾燥 →洗濯機 乾燥 →洗濯機 乾燥 →と一番洗濯機が働いている
(一日中動いている)
ハンディーのある子は家庭で育つと云う事は意味が有ると思う 
ハンディーの無い子はいつかは結婚して自分で家庭を持つことが有るかも知れない
ハンディーのある子はもしかしたら結婚出来ずに一生を終える事になるかもしれない
 そうすると家庭を持つと云う経験もなく一生を終える 
私達のようなこういう家庭が提供されてその中でハンディーのあるお子さんも家庭というものを味あう
事が非常に大事だと思います

いまはハンディーのあるお子さんを出来るだけ引き取ると云う事をしています
薫さん(長女) 2歳で家に来て20歳までいました 今は一人で生活している 
時々帰ってきて あれちょうだい これちょうだい と云ってきます
家計はどうするのか?→26年の13年間に関しては行政から頂く処置費が有るが 
それでは足りなくて全部主人が働いてきたお金でそこに補充しながら
生活をしている 子供には食べたいものを食べさせてあげたいし 色んな味わいをさせてあげたい
と思っているので 惜しみなく使うと云う事を考えています
お金に固執し始めると 色んな事を制約しなくてはいけないと云う事があるので 
我儘とはならない程度 世の中の普通の暮らしをさせてあげたいなと思います
彼らは生まれる先を選べなかった訳でもし選べる事が出来るならば 両親が揃っていて安定し
た家に生まれたかったと思います

生れてみればそうではない状況に有った その中で必死になって生きようとしている子供たちに
普通の家庭と同じようなぬくもりや物質的なものを与えると云う事は
彼らにこそさせてあげたいなと私は思います 
接し方で大事にしていることは?→一杯有るが 彼らは生れてから人間不信 そこからスタートしている  
本当に自分は生きていていいのだろうかとか
色んな思いを抱えながら生きていますね 虐待を受けた子供は特に心に傷を負っています 
そういう子供たちがマイナスの感情を持つのではなく
プラスで色んな事を考えてほしい 先ず私達里親が 子供たちから信頼される人間である 
そこが私は先ず第一だと思います

第二に子供たちは人生を終えるときに  自分の人生を振り返ってみて 結構いろんな事が
有ったけど 生れてきてよかったな まんざら悪い人生じゃなかったじゃない
そうやって人生を閉じてもらいたいので 私は出来るだけ、子供のうちにもそうだし ああしたい 
こうしたい という事には答えてあげようとしています
物質的だけじゃなく精神的のも 例えば 小学校4年生だった子がいるんですが、彼が幼稚園の時
に私達が親ではない事を伝えた(真実告知という)
親子ではないと云う事を伝えるだけでなく 私達は確かに親子ではないけれども 私は貴方
を愛しているし 貴方はずっといていいんだよ って言って そう言ったことを伝える
告知した時に彼は こう言った 「僕ねー 世界の中でママの事一番好きなんだよ 
だから僕がママ大好きと言ったら ママは僕の事をぎゅーと抱っこして
きゅーとしてね」と言ったんですね 

そういう事も子供の大切な要求ですから 私も判ったよっていう 
それから「ママ抱っこした」といったら私は必ず膝に抱っこして
ぎゅーっと抱っこして ママ大好きという彼を 「私も大好きよ」って ぎゅーっと抱きしめてあげるんです
そういう事の繰り返しをずっとし続けている その中から自分だけの大人の温もりとか 
この人によりかかっていいんだ という信頼とか そういうものが芽生えてくる
それが子供にとってはそういうやり取りが大事だなと思います
 物心両面と言いましたが そうやって色んな絆を作りながら子供を育ててゆくという事を心掛けています
18歳が期限になっています 18歳でハイさよならではなくて 子供にとっていつでも帰って来てくれる
家になっています

子供同士は直ぐなじめるものですか?→どういうわけか子供同士の方が馴染むのは早いですね
 年齢的に近い子がいる方が早く馴染んでゆく
全体的に同じ境遇だと云う意識が有るのではないかと思います
26年間で子供との確執は?→いろいろ有ました 矢張り過酷な状況で生きてきた子供たちは
私達大人に対して怒りが出るような誘いの仕方をして来るんですね
其の挑発に乗ってしまうと私達も かーっとなって怒りが込み上げたりする訳です 
その挑発に乗らないように距離を取りながらやらなくてはいけないが
抑えようの無い怒りが噴出することはよく有ました 
ですからそういうお子さんに対してはわたしも有る程度までは出来ますが 
ここからは出来ないんだという
自分なりの決断を迫られると云う事は何度もありました 

ですから途中で私達の家から保護施設に移って行ったと云う子も何人かいましたし 
中途半端に終わってしまったこともありました 
長女は放浪癖があった 小学校の頃からまずランドセルを背負って帰ってきた事が無かった 
毎日ランドセルをどこかに置いてあって ランドセルを探してそれから
彼女を探すという事を毎日やっていました どこかの公園に居たりとか 友達の家に入りこんでいたりとか 
気に入らない事が有ると そのまんまプイとどこかに
いってしまう これは相当大きくなるまでずーっと続きましたね 20歳まで続きましたね 
彼女は怒りだすと止まらないと云うところが有って 相当彼女と取っ組み合いもしましたし 
首を両手で絞められた時もありました 鉄パイプで殴られた事もあります
其の時に思ったのはこの子を犯罪者にしてしまってはいけない という事だけでした 
ひどい事は沢山ありましたね でも大人になれば段々落ち着いてきますし
今はお母さんといって家に来ますし 手離さなくて良かったと思います

実の親と一緒になれたのが一人います 今は29歳になったと思います 
今はお母さんのところで幸せに暮らしています 
彼が高校生になった時に引き取りたいと云ったんですけれども 子供の方が高校を卒業したら戻る
から って言って ここで卒業したい 当時養護学校でしたけれども
養護学校高等部を卒業してから帰ると云ってその通りにして 就職して今はとってもいい関係に
なっています
里親としても悩みは尽きないのでは?→心配をあげればきりがない 2003年からですが
 私の家で里親サロンを開いています
2003年に宇都宮で里母さんがお子さんをあやめてしまったという事件が有りましてその事件を
聞いたときに こんな悲しい事は2度と有ってはいけないと思いまして
里親同士が気兼ねなく 色んな事が吐き出す場所を作ろうじゃないかと思いまして そこから
里親サロンを作りました

今では里親サロンてあちこちに有りますが (行政もその大切さを知って下さって) 
当時はどこにもなかった
遠くから (自動車、夜行バス、飛行機)来てくれて 色んな事を話し合いました 
里親は守秘義務が有って子供の事は色んな事を話してはいけないという守秘義務が
課されている やたら子供の事をあちこちで話せない 又里子独特なものがある 普通の人には
理解してもらえない
里親ならではの共感できる部分が有る サロンでいろいろ情報交換、アドバイス等をする 
(話をするだけでも里親は気持ちがふーっと楽になって アー良かったと
明日からがんばれそうですと 云って帰って行かれました)

当時は周2回 今は周1回 里親、虐待防止センターの方 、臨床心理士、大学の先生等が参加される
5人超えると制度的にサポートしてくれるようになった 
平日5日間色んな形で助けてもらっている
里親になってから個人の時間はない 子供と一緒に過ごせるこの毎日が宝だと思っているし 
この人生を与えていただいた事とーっても有りがたいと思っているんです
子供にとっての掛け替えの無い大人の一人にさせていただいているというのは これは何を
差し置いてもとっても有りがたい事ですね
子供たちの成長を何人も何人も見る事ができて手ごたえ有るわけですから 
凄い映画を見るより楽しいです

坂本さんを駆り立てているものは?→私はこれは自分の人生に与えられた これが定められた道
だと云う風に思っているので 子供たちと過ごすこの日々は
なにものにも代えがたい宝だと思うし 凄い人生与えられて感謝だと思いますね 
子供たちと言うのは非常に前を向いて生きていて 私にとっては本当に健気でとても愛おしい存在
なんです  彼らは文句を言えば限りなくあると思うんです
如何してお母さんは迎えにこないのかとか なんでこんな人生なんだ だったらやけになってやる
 もう知らない と言う事も可能なのに 彼らはそんな文句を一つも
云わず 健気に前を向いて 自分の将来を見据えて生きている 

私は彼らから教えてもらう事が沢山あって 彼らと一緒に生きていることが有りがたいと思っています
ある時 有る子供が 学校の先生に 「先生 どうも僕は産んだママに棄てられちゃったらしいんだよね 
でも 今のママは色んな物を買ってくれるし
色んな事を聞いてくれるし 幸せだから まあこれでいいかと思って」 と先生に言った 
言った後に子供が「でも このことはママには云わないでね」 って言ったから
先生は「判った 云わないよ」 っておっしゃったそうです その後先生は私にその内容をメモに
書いて 云わないで私に渡してくださった
8歳の子供がそう思ったのは 本当に素晴らしいと思った 
 「まあ いいか」と思ったこところをずーっと支えていてやりたい

「まあ いいか」と言うところがが「僕の人生素晴らしかったよ」と思うところまで 私はこの子供たち
を支えてあげたいんです
大きくなった高校生の子供が 或る時にこう言ったんです 「人は誰から生れたか なんて関係ない
んだよね どう生きたか なんだよね それが大事なんだよねお母さん」 
私は本当にそうやって生きてもらいたい 自分の過去 ルール それも大事かもしれないけど 
そういうものに捉われる事無く どう生きたか
自分の事をどう活かしきったか そうやって生きてもらいたいし そうやって活かしきる事ができる
ように 私は彼らを育ててあげたいし これからもずっと支えてあげたい 

2012年1月15日日曜日

坂本洋子(主婦54歳)       ・貴方と家族になりたい

坂本洋子(主婦54歳) 貴方と家族になりたい
<概要)
八王子市で親に育ててもらえない幼児院や児童養護施設の子供たちを預かって育てる里親を
1985年(昭和60年)から続けています
この26年間で坂本家の家族になった子供たちの数は15人 その体験を一冊の本「ブドウの木」に
纏めて2005年に出版しました
里子を預かって育ててきたいろいろな経緯 経験を語る
今は里子が6人いる 高校3年(女) 高校2年(男) 高校1年(男) 小学4年(男) 小学1年(女) 
3歳(男)  26年間で15人の子供を預かって育てた
自立した子もいれば 児童養護施設に移って行った子とか 親御さんの処に戻った子とか 
様々な子供がいますね
私は養子縁組の里親ではなく 養育の里親ですから お子さんを籍に入れることはできない 
お母さんの処に戻るとか もう一回親子や家族の再統合ができる
というお子さんも私の家に来る訳です ですから親御さんの処に戻って本当に幸せになっている
子供さんもいます

養育里親になった理由は?→結婚をしたときに新婚旅行先でそういう話をした 
もし子供を授からなければ親御さんのいないお子さんを引き取って育てようと
数年経っても子供は授からなかった 不妊治療もしたのですが 何かそこに自然の摂理とは違う力
が加わると云う事を私達夫婦はあまりよしとしなかった
里親登録をした 養子縁組の里親と養育里親が有る事を知る 
養育里親として登録して26年がたちました(結婚してから5年後ぐらい)
登録後すぐに来た(研修は当時は短く 一日で終了)  こういうお子さんですと紹介され 
面会をする 時間を徐々に長くしてお泊りしてOKかどうか決める
「純平」(仮の名前) 乳児院に居た子供 行ったときに小さい子供たちが沢山いてガラス窓に
集まり 誰が来たんだろうって 向こうからじーっと見てるんですね

あの時ははじめての経験でショックだった こんなにも大人を待っている子供たちがこの世に
居るんだなと 誰を迎えに来たの 誰に会いに来たの 
沢山の目が同じ位置で横一列にその目がザーッと並んでこっちを見ていた 
あの目は矢張り忘れられない
実の親が育てない 育ててもらえない子供たち  
純平君は当時3歳2カ月だった  幼児園に迎えに行ったときにちょうど養子縁組里親が1組
来ていて海外に行くことになっており(ハワイ) この子は海外に行くんだなと思った
勝手に大人の都合で色んなところで生きる場を変えてゆく 
そういう子供の運命ってどういう風になるのだろう ってなんだか切ない想いで
その子を見送った記憶が有ます 

親になるのは実際大変でした 当時28歳だったので本当に私自身がまだまだ出来た人間では
なかったので 正直申し上げて東京都がよく私を里親として認定してくれたなと思います
覚悟していたとはいえ大変だった 先の事を考えると胃が痛くなった 
不安で押しつぶされるような気持ちでした
人には十月十日という妊娠の本当に大切な時期があり そこで母になる覚悟や親になると云う事
など色んな事を考えながら過ごしているのでしょうが
私にはそれが無かったわけですから でもかんがえていてもしょうがないからやってみようと思った訳です
いざ来てみると子供も大変だったでしょうし 私も大変な思いをしました  
子供の説明は簡単には有った これこれこういうことで生まれたお子さんです 
お母さんはこういうところでこういう事をなさっています 

これこれこういうことで一緒に暮らして過ごすことはできないんです と説明は頂きました
生れてからずっと乳児院でした 殆ど親の愛を知らないで3歳まで来た  
育てる上で日ごろ大変だったことは→当時は大変なことだらけでした
車に乗った経験があまりないので車酔いが凄かった 全てが初めての経験 
スーパーに行っても切り身 野菜が丸毎有るのは初めて見る
乳児院では料理したものが出てくる その前の状態 調理している事も知らない
 卵を取って落としてみたり ラップで包装されたものに指で穴をあけたり
有とあらゆることをしていた 公園にいっても一緒に子供たちと遊べなかったり 
彼は初めてこの世の中にデビューしたものと言える
私も親としては初心者だったので私も非常にドキドキの毎日でした 

幼稚園には情報を聞きながら入れた 集団に入ることはよくわかっていなかった 
集団生活は知っているはずなんですけれども生活をすると云う事と幼稚園は
別物なので彼にとっては戸惑う事が多かったようです 
お弁当を持ってゆくわけですけれども 友達のお弁当を食べてしまったり お友達のものに自分の
名前を書いて自分のものにしてしまったり 人のものと自分の物の区別ができない
という事が有りました・・・乳児院の生活が投影されてしまった
乳児院では誰のものをつかってもいい みんなの物である 一緒に使うと云う生活でしたから彼に
とって人のものと自分の物が有ると云う生活はしていなかった

家の子が幼稚園バスから降りた時に靴下を履いてなくて どうしたの靴下は?といったら 
あっと云って友達のマンションに行って靴下を履いてきた 
何故こんなことをするんだろうと思った時に 彼の乳児院の生活では誰がなにを着てもいいと云う
事になっていた 
幼稚園では問題児になっていて先生から涙ながらに訴えられた 小学校でも大変だった 
当時引き目がなく堂々と生きてほしいと思っていたので 前面に押し出す気持ちが有ましたけれども 
当時は養子縁組ではない里親なんていうのは知られていなくて
説明をするところからしなくてはいけないと云う辛さはかなり大変でした 
純平さんのトラブル 段々世の中の目が育ってゆくに従い厳しくなった  
私や子供たちが悪いわけではないのに貴方達は悪いと云われることが増えてきた
理不尽だなあと思うような扱いも沢山ありました 小さなトラブルが沢山有った 

友達のランドセルを隠したとか 後ろからランドセルを引っ張って転倒させたとか
そういう事が度重なっていくに従って厳しい事を沢山云われるようになって 施設から来たから
ああなんだ あの子は里子だから違うんだと 相当言われた
あの当時の事を思いだすとよく世の中の人達はあれだけの事を小さい子供に対して厳しい事を
言うなと思いましたし、又学校の現場はどうだったのかというと
現場でも先生たちは決して優しいとは言えなかったですね 
普通の子供達の事が先ず頭に有って トラブルを起こす里子に関しては気の毒だとは思っていても
その子に対しての特別な手当てというものはされませんでしたね 
当時私達夫婦は学校に伺って色んな事を相談したんですけれども学校の方からお返事をいただくのは
お宅のお子さんだけは特別にすることはできません という事はよく言われた 案外今も言われる 
子供たちは私達の家庭に来る前に本当に色んな重荷を背負っていて そのことからいろんなものを
身につけている そこに対する配慮をしてほしいとお願いをしている

だけなんですけれども 特別扱いはできませんという返事を何度も頂いて じゃあどうしたら
いいんだ と途方に暮れる事が沢山ありました
彼自身も辛い思いをしてご夫婦も地域から偏見というか 受けながら子供を守らなきゃとの思い
→しかし残念ながら守りきる事が出来なかった
この26年間 どこでどうしたら良かったのか ずーっと私に付きつけられた宿題で答えがまだ出せて
いない感じですけれどもそんなことまで言われるのかと地域の人達に言われる
「でも」と言いたいが言わせてくれない世の中の現実が有って 地域の目が有って 
自分では理不尽だと思いながらも「申し訳ありません
子供にはよく言い聞かせますから」と言って 頭を下げ続けた 

(頭を下げるのはタダだから この子を守れるのなら下げ続けよう)
結果としてはあの子を守り切れなかった 
小学校2年の時には無理という事で子供を手放すことになる 
学校に行かなくなる(私達も学校にいかなくてもいいと思った) 子供が痛んでゆく姿を見るとも
う耐えられなかった 
どうしたらここをクリア出来るのかを本当に色んな事を考えた 
なにも答えを見つけられず 誰も手を差し伸べてくれず 最終的に学校を休ませることに決めた
休んでいる時には穏やかに過ごすことができたが 学校に行っていないと云う事が児童相談所のほう
からまずいと云う事でした
(通学させる事が親の役割) 当時は学校に行かない事はとんでもない事だった


2人目の里子もいた(女の子) 幼稚園の子供が見聞きしたので彼女は本当に痛んでいると思います 
一緒に風呂に入った時に彼女は私は大きくなっても
結婚しない 私が子供を産んだら又私と同じような子供ができるだけだって 
幼稚園の子供が言ったんですよ 私は胸がふさがりました
私達の存在はこういうものなんだ 彼女なりに幼な心に思ったんでしょうね
純平さんは養護施設に戻る 小学校まではそこにいた 教護院(児童自立施設)に移る  
生活が落ち着かないと云う理由でその間私達の家に休みの日はしょっちゅう戻って来ていた
(この家の長男は僕だ 親の面倒は僕がやる と云っていた)

彼が帰った後はトイレが 浴槽が綺麗になっていたりして 恩返しというか 
お礼の気持ちというか出来る事を一生懸命にやってくれた
17歳で亡くなりました  いまだに咀嚼できない苦しみなんですけれども 15歳で自立したがいい
仕事が有るわけではなし その時にバイクに乗っていてヘルメットを
被っていなくて交通事故に会って即死しました いまだに納得できない 
もう里親を止めようとは思わなかったのか?→こんなに里親って辛い思いをするんだったら 
やっぱり止めようかなって心がへこんでしまうし 心が砕けてしまう
という事は有ります  そう思うんですが私は他の人生へのスイッチを入れ替える事が出来るんですよ 
ここでやーめたと云って止める事が出来る  選択が出来る
でも彼らは選択がない こうやって生れてしまった それを背負って生きて行かなくてはいけない 
その時に彼らには後が無い 私にはまだまだ他の事を選択できる 
余地がある 貴方達の事はもう見ない とは私には出来なかった 

2012年1月14日土曜日

坂本廣子(食育料理研究家65歳)  ・地震に備える家庭の極意

 坂本廣子(食育料理研究家65歳)  地震に備える家庭の極意  
幼児期からの食育を35年も前から実践する食育料理研究家 17年前の阪神淡路大震災ではライフラインが途絶えた中で不便な生活を強いられ、知恵と工夫で乗り切りました 
この体験をきっかけに日ごろから災害に備えることの大切さを広く伝えようと活動しています 災害に備えるポイントと心構えをお聞きしました
 
平成7年1/17(火)午前5時46分 地鳴りがして目が覚めた 
布団を丸めて防御姿勢でかぶった (仰向けではない) 
娘は仰向けにかぶり本棚がかぶさって呼吸が出来ない状態であった 
気道を確保して心肺蘇生をしたら意識を取り戻した 心肺蘇生の講習を受けていた     
茫然としていた 逃げてくる人を助けたりしていた 指定避難所には絶対入れない 
(すぐに一杯になる) 近所の家に行って身を寄せて貰った

3日目に電気が通るようになったが私の家では1週間が掛った (ブレーカーの確認に)
食べ物 食品等は先ず冷蔵庫の中のものをカセットコンロで火を通して長く保蔵できるようにしておいた 
キッチンに有るサラダオイルをアルミホイルに入れ ひもを入れて、それに火をつけてコンロ代わりにした    ビールの缶をハサミで切って容器にする  
灯りはアルミ缶で作る(観音開きの形状にする)    灯心はタコ糸(油は燃えない)   
カセットコンロで鍋で焚く 電気が来てからは普通に使える 
IHが有ると便利 (カセットは無くなると購入は不可能と考えるべき)
救援物資は食事として入ったのは一週間後であった 
運ぶ手段がなかなか無いので(道路が使えない為)

1か月経つと配給は終わってしまった 友人から送って貰ったりして、又電車が通じるようになったので買い出しに行って食糧をそろえた
焚きだしは避難所のみ (早く行った人達だけが保護される)  
焚きだしも普通のご飯が良い (同じ豚汁がずっと続くとしんどい)
水は運ぶのに苦労する ダンボールをガムテープで補強してその中にビニール袋(ゴミ袋)を入れて水の容器として使用する 
20L用のものは結構重いので毎回台所用として使うのは厳しい 
2L用のペットボトルの空き瓶に10本とか20本とかに分散して利用する
食器が洗えない場合はラッぷをその上にかぶせて使う 
折り紙でコップを作ってアルミホイルで蔽って容器を作る

まな板を使わない料理法 手で直接持って切断する (生のものはラップを介して切断する)
食材は乾物を用意する 大事な食べ物は→豆 タンパク質が多く含まれている 
必須アミノ酸が含まれている 子供の脳はコンスタントに脳を作ってゆく
必須アミノ酸が必要 脳が発達しない 防災カレンダー 家族がどこに居るのかを判るように 
携帯電話が使えないと連絡方法が無くなってしまう場合があるので住所をちゃんと控えておく必要がある
下水が壊れた時に備えて水をためておく 水洗トイレが壊れた時はペットボトルを利用してじょうろを作り空いたペットボトルに入れて蓋をする

便は紙を折って箱を作ってそこにして又別の大きなポリ袋に貯めてゆく
落とし紙は落とし紙 箱容器は箱容器で別々に大きなポリ袋に保管する
普段持っているもの→ 貴重品 家の鍵 LEDライト 笛 鈴 財布(小銭を入れる) 
自分を証明するもの(運転免許証コピーとか) 洋裁品 紙のマッチ 塩 
あめ 歯ブラシ(口の中はバイ菌が多い) 箸 スプーン 毛抜き 虫眼鏡 ハサミ 爪切り 小さいペットボトル(水) 自分の薬 ポリ袋 油性ペン(連絡の為に書くため)

避難袋→ リュックサックに入れる 水 懐中電灯 タオル(古い) 着替え 洗面用具 ラップ アルミホイル 乾電池 携帯電話の充電器 携帯ラジオ ポリ袋(大、小) 
紙コップ 包丁 小さいまな板 歯ブラシ 石鹸 
兎に角命を失わないために準備はするが先ずは逃げる(準備したものに捉われないで欲しい) 不便の日を作って実践してみる 普段の中から地域で知恵を絞って、対応する 
普段の暮らしの中できっちり生活をする それが防災の力になる 
地域が強ければ大きな災害に有った時に再生が早い

2012年1月13日金曜日

和波孝禧(バイオリニスト)        ・夫婦で歩むバッハへの道  2

 和波孝禧(バイオリニスト)     夫婦で歩むバッハへの道 2
土屋美寧子(ピアニスト)  
聴衆の反応は敏感に感じている 
それが無ければ演奏できない  「気」の漂いを感じる
1977年に結婚(王選手の世界新記録の年  父親が亡くなった年でもある) 
その5~6年前から知り合った 生徒としてバイオリンのレッスンの人と一緒に付いてきた 
先生として生徒に変わってバイオリンを弾くが一緒にすぐに弾いてくれた 
機転が利くし頭の良い人だなと思った  
ドイツに2年留学して帰ってきて父が具合が悪かったり、勉強したかったので ソナタを誰かと一緒に勉強したいなあと思っていた時期だった それで誘ったんです 
下心が有ったのかもしれないが レパートリーも増やしたかった
 
そのうち結婚したいと思うようになった  音楽的に納得できる演奏だと思った 
音も良かった(土屋) 1回目から私(先生に)に注文を付ける 生意気な奴だとは思った
私の音楽演奏に対しては結構辛辣 な言葉で批評された 凄く耳が良かった  
NHKのラジオでバッハのシャコンヌという曲を私が放送したが 聞いてって和音が出てくる
時に和音の二つの或は三つの音のバランスはどういう風に考えているんだと云うんですが  
私はそんなことなにも考えていなかったからね
きめ細かい聞き方の出来る人なんですね 
自分の音を磨く事が出来る様になったとおもいます

音楽と日常生活の関係は →家事はやり始めるときりがないので如何に音楽の練習時間を作るかだとおもいます 
日常生活でなにを今日は優先しなくてはいけないか、優先順位を付けるのが与えられた課題だとおもいます 
今はもうベテランなのでうまくやっている よく喧嘩した 3日ぐらいは口をきいてくれなかった  盲目なので口をきいてくれない事に対してはどんな攻撃をされるよりも辛い  
係わりたくないと云う心境かな(土屋)  
似たもの夫婦 音楽に対する気持ち 音楽の品質に向かってゆく姿勢が似ていると思った  
いずれは家庭中心の人になってくれるとおもっていたが彼女はピアノを続けて行きたかったが段々一緒に弾くようになって来てピアノを続けるようになる 

ピアノはピアノ 伴走者ではない 対等なパートナーとは  経験の差があって 自分が仕切らなくちゃあとおもっていたが、段々やっているうちに 今はもう気持ちは楽、でも対立はするけれども 美寧子はソロを大事にした方がいいと先生から言われて2年に一度演奏をしている  
先生との出会い 取り立てて言うのは難しい 
音楽家というのはある程度 キャリアを積んできてしまうと 本当に一人になっちゃうんですよね 音楽的なことを話しますけれどスポーツ選手だったらトレーナーとか、監督とかコーチとかいますよねそういう人がいなくなっちゃうという でも絶対そういう人は必要で   
美寧子は常に進歩していこうという思いがある 

プレッシャーに感じるときもあるが、八ヶ岳コンサートが25周年になる 
長年教えてきた生徒たちが集まってくれて一緒に演奏会をして過ごす  
このコンサートでこれからの勉強に役立ってほしいとおもっている  
音楽が持つ力→心の中にいつも残っているものじゃないかと思う 
芸術作品全部がそうかもしれないけれど そういうものを大事にして育てていくことで社会全体の 風潮というもの 精神的に豊かな方向に変わって行って ひいては経済力も回復する元になってくれればいいなと思っています  
僕にとって音楽とは生きることそのものというのかな 
音楽をやっても、聞いてもお腹が膨らむわけではないし それで金持ちになれるわけでもないかもしれないが、生きる力だとか 気持ちを豊かにするだとか ちょっと思いつめていたことが楽になるとか色んな事が有るとおもうんですね 

悲しい人が音楽によって癒されたり、逆に嬉しい人が嬉しさが2倍にも3倍にもなってゆくと云うような そういう作用をする 
とても美しい世界を作曲家たちは描いて自分たちを表現しようとしたいたわけですよね  
だから美しいものに皆さん心を向けていただくと云う事で何かが変わっていけるようなものを期待しますよね 
そのために自分たちにはなにができるんだろう
音楽活動を通して皆さんに何かできたらなあと思います 

2012年1月12日木曜日

和波孝禧(バイオリニスト)       ・夫婦で歩むバッハへの道

 和波孝禧(バイオリニスト)         夫婦で歩むバッハへの道  
土屋美寧子(ピアニスト)
和波 1945年生まれ 生来の視力障害者 4歳でバイオリンを始める 
9歳の時、第6回全日本盲学生音楽コンクールで第1位特賞を受賞。
1958年、中学校1年生の時、第12回全日本学生音楽コンクール全国大会中学生の部で第1位を受賞
1962年、第31回日本音楽コンクールで第1位、特賞を受賞  
1963年日本フィル定期公演ソリストとしてデビューしました
オーケストラとの共演 リサイタル等半世紀に渡る演奏活動は 国際的に高く評価されて2005年には紫綬褒章を受章している

土屋 1972年 東京芸大音楽学部を卒業 1971年にはクロイツアー賞受賞 
定期的に開いているリサイタルは毎回テーマを設けて企画と演奏の面で高い評価を得ている  和波さんは1991年から毎年年末にクリスマスバッハシリーズのリサイタルを開催 無伴奏作品を演奏してきました 去年は20回目を迎え全6曲を生演奏するという  
初めての試みに挑戦しました 
ソナタ3曲(宗教的な面がある) マルティータ3曲(舞曲風) 6曲で3時間以上かかる  
この種の音楽は娯楽ではないので慣れてないと少し難しい
バッハの音楽だから演奏者にも力を与えてくれる 子供の頃からバッハの曲に親しんでいた
バッハの生誕200年の時に40歳だった 
まさか20年やるとは思わなかった  5回目からはプレッシャーを感じるようになった 
新しい何かを吹き込まなくてはいけないのではないかと 思った 
 
人からアドバイスして貰う  2000年にバロックバイオリンに出会う
 17世紀の楽器だ練習を始める 音が小さいが楽しかった   
やっぱり熟練度が違うので普通のバイオリンに戻った
全て点字の楽譜を使用してやって来た 
小学校に入る時には楽譜はすらすら読めたし文字も理解出来てこれが強みになった
最初は母から楽譜を点字にしてもらった 
昭和63年に母が手を怪我して点がちゃんと出無くなって ボランティアの人達にやって貰うようになる( PCで出来るようになる) 
無伴奏のCDは世界にいくらでもあったが 又音が違うとの話もあり 妻に協力してもらい(耳がいい)CDを出すことになる

三重県の文化センターを無償で提供してくれる事になり録音することができた 
(震災で計画停電も予定されたりする中でCD製作の話が有り東京での仕事が難しかった)
編集(ミスが有った場合に対応する) 
CDの良さは自分が好きな時、好きな場所で聞くことができるのでいいのでは
CD録音は凄く勉強になる それによって自分が改革出来ると云う 喜びはある  
バッハは1685年生まれ 1750年没 活躍したのは18世紀前半 
以前は戦うような感じでバッハと向かい合っていたが今は仲よく慣れたかなという感じです 
力を抜いて特にバロックバイオリンのような無重力のような楽器を使って弾く事、を通してバッハと仲良くできるようになった  
バッハの音楽には語りかけが多い 最初伝えるために音楽は生まれてきた 
言葉に替わるものとして音楽は生まれた 

バッハの音楽を通して自分の心を語ると云う点では尽きるところが無い 
バッハの音楽の根底に有るのは 罪へのゆるし を乞う心 謙虚さ   
知らないで犯している罪が一番問題 
(知らない間に人の心を傷つけたり そういう事っていろいろ有ると思うんですね 
日常的に有るかもし知れない) 
それに対して心をまっさらにしてゆるしを乞う だから自分も人の為にやらなければいけない という気持ちになって演奏する そういうメッセージが一杯 色んなバッハの音楽の中に入っているそれはきっとバッハがそんな人間だからだと思うんです
宗教くさいと云うんじゃなくて もっと人間の根源的なものをまっすぐにしてくれるような 或は洗い流してくれるような そういう種類の音楽だから、私は今の日本でこういう音楽は絶対必要だし沢山の方に届けたいなあと思います 特にこんな時だから(大震災後)

2012年1月11日水曜日

村田吉弘(和食料理人)      ・日本の食文化を世界遺産へ


村田吉弘(和食料理人)       日本の食文化を世界遺産へ
京都・祇園の老舗料亭「菊乃井」の長男として生まれる 現在NPO法人日本料理アカデミー理事長
京都の老舗料亭の経営者 フランス料理トンコラボレーションや東京への出店等様々な取り組みに意欲的  世界の食文化と日本の食文化の違い等を聞く
昨年 フランスが美食技術で遺産登録がされた 何カ国かが遺産登録されている 
ギャルソン ソムリエ 美食をする為の技術 
メキシコ、スペイン、イタリア 南仏 モロッコ地中海沿岸のオリーブオイルで構成された料理 
メキシコは紀元前からのスパイスを使っている事
韓国は登録されるはずだったが補足説明が必要で1年間伸びる 宮廷料理
日本では和食料理にしようとして活動を開始しようとしている 

うまみを中心にしてきている 霊長類が同じものばっかり食べていると 食べる種が絶滅する
(コアラのユーカリ)
リス等の小動物は同じものを食べても問題はないが 大きな動物はいろいろなもんを食べるように出来ている
同じものばかり食べると飽きる  赤ちゃんは飽きたら困る 3か月間はミルクを飲む 
うまみ成分と甘みと油脂分はそれらの縛りをはずす鍵がある
世界中の食べ物はその3つのうちのどれかを中心にして料理を構成する 
日本以外は全て油脂分を中心に構成している
唯一うまみ成分を中心にしているのが日本料理ですね 
油を一滴も使わずに日本料理は出来るけれども他の国の料理は油を一滴も使わずに料理を作れと云っても出来ない

うまみ成分とは→甘い、からい、酸っぱい、苦い、  これは4味ですね 
その他にうまみが有る 舌の中の味を感じるみらいと云う細胞が有るがその中に受容体5つある 5つの味を感知しておいしい、まずいと云っている    
100年前に池田菊苗先生が「うまみ」を発見されて それがグルタミン酸です 
こぶから出てくるのがグルタミン酸 カツオから出てくるのがイノシン酸
シイタケとか乾燥きのこから出てくるのがグアニル酸 貝から出てくるのが コハク酸  
このうまみをうまく使うように活動している これらを使うと油の使用量が減る
日本料理65品目で1000キロカロリー カルボナーラよりも少ない かつ丼より少ない 

フランス料理23品目で2500キロカロリーある イタリア料理も21品目で2500キロカロリーある
世界に役に立つ料理 世界遺産に登録して利用してもらう  
なにをもって日本料理とするのか 器、 おもてなし を英語に直せない
頂きます・・・このものを私の命として頂きます  
勿体ない・・・その命を粗末にしたら勿体ない 食べられるものと食べるものが同等の立場に捉えるのが日本人  
お箸 中国で一番良い箸を持ってきてくれといったら金の箸か象牙の箸 韓国では銀の箸でしょうね 日本では亭主自らが手削りにした両細の杉の箸ですよ
それは一回きり 一期一会 その人の為だけに削ってそれを一番良い箸とする  
おもてなしの心 思いやり

シンガポールに行くと向こうの人達は日本人はヨーロッパの方ばっかり向いているという(ヨーロッパ人になりたいのだろう) 気が付かないが気が付いてみるとそうだと思う
食事までつながっている フランスのチーズの食べごろを気にするのだったら ちゃんと糠付けの食べごろを気にして自分で糠つけを漬けなさいという話ですよね
彼らは牛の乳を飲んで牛の肉を食べる民族ですから牛の乳で発酵食品チーズを作ったわけです 我々は米の飯を食って野菜をおかずにする民族ですから、野菜の発酵食品を作ったのです 
漬物は日本で云ったらチーズですよね   
登録をすることで自国民が考えるチャンスになると思っている  
食べ物を登録するわけではない バックボーンの文化登録するもの おもてなしの心

食に関して古い歴史はあるし沢山の文献が有る 
食に関して文化勲章とか文化功労章はない アカデミックにするようになってきた
検定をして試験を受けて公平に どこにいようが勉強して技術力を付けたら段々上がってゆく制度にしたいなと思っている
調理師免許は地方条例で国家試験ではない 料理学校卒業すれば誰でも貰える  
2年制にして安全面 食品管理もみんなちゃんと勉強して国家試験を受けた 
調理師を世の中に排出してくださいと云っているんです 一向にそうは成らない  
制度上の問題が登録するあたりにある

日本ほどうまい食材に恵まれた処は世界にどこにもない 
日本人が食文化を誇るべき文化であること 次の時代を守ってゆく文化であることを日本人自体が思わないといけない 
発酵調味料で味付けするのは日本人だけ 味噌汁  発酵食品を中心に味付けする
通りやすいものを検討する  
日本の料理を世界の料理にしたい  
若い頃フランス料理を勉強して改めて日本料理の素晴らしさ また世界に知られていない事を感じたので日本料理に入って行った 

2012年1月10日火曜日

樋口恵子(東京家政大学教授79歳) ・老いて働き お役に立って幸せに

 樋口恵子(東京家政大学教授79歳)   老いて働き お役に立って幸せに  
1937年生まれ東大卒業 若くして夫をなくす 
評論活動 東京家政大学教授となる 
1983年NPO法人高齢者社会を良くする女性の会を50歳の時に立ち上げる
昨年「女一生の働き方」を出版 
超高齢者社会 65歳以上が4割を越す時代が来る 
社会全体がどんなビジョンを持ってゆくのか見えていない
心臓を止めての大手術を経験した 
4時間を越す手術 病気をすることによって 健康 食べること 運動をすることが大事だと感じた
人生100年を生きようと思ったら それなりの責任と努力をしなくてはいけない

2010年「女一生の働き方」 
BBからHBへ  BB→貧乏ばーさん HB→ハッピーばーさん 花咲かばーさん   
人生が長くなるなればなるほど その前の時代のつけがが老いに回って来る 
人生50年60年の頃はある意味でそれで辻褄が合っていたことが、人生100年 90年 6割増しになっている 
50年60年の時代にはいろいろな制度もそれなりにかつては成り立っていて世の中は回っていた  
80歳前後は6万円 一人暮らしの場合には女性の方が貧困率が高い 
女性の方が長く生きなければならない
ボーボワール 「人は女に生まれない 女になるのだ」 
私は「女は貧乏に生まれない 女を生きて貧乏になるのだ」 女を貧乏にさせるシステムがずっと有って、女は誰かの配偶者としてやっと保障される 
戦後サラリーマンを中心にしているので底からこぼれおちる女達はかなり多く貧乏に落としこまれてしまっている 
 
これから本当にその様な女性たちが長生きしますから つい最近も生活保護世帯が今までにない数になったと云われそのうちのかなりの比率が高齢者なんですね
現実に示されている資料から言うと貧困な高齢者の女性が沢山入っている、国家社会の問題  
老働力 女は外で働かなくていいと家の事だけしてればいいとかつては位置付けられてきた 
中高年女性は未開の沃野と言ったらいいと思われる 
これからは人生100年時代はワーク、ライフケア (広い意味での) の三身一体の社会だと思うんです 祖母力 祖母が孫の面倒をみる事によって母親が仕事を出来るようになる 
よりよい自立を助けてゆく これからの社会に必要になって来る  
生身の人間を支えてゆく より良く命を花咲かせるようにする ケアの仕事が必要になる 
3本柱の一つ 生活を支える仕事がお金になる時代になった
年を取って来ると妻も病むことが有るし 男の生き方を考え直す良いチャンスだと思います 

手を差し伸べてゆく社会 セルフケア 他者へのケア 女性がリーダーシップを取れる場が出来つつある
70代で介護、家事労働 意欲的に労働している 挑戦している 
介護系の資格を取る  無償の労働が有償の労働になって来た 
所得の高い人ほど寿命が長い傾向がはっきりある 
男性は特に顕著  女性は男性ほど顕著ではない(身の回りの生活を自分でこなせる)
農村地 組織しやすい 
安曇野 JAと繋がり畑を借りて 菜種油を作って学校給食に その他に利用したりする
会員同士の助け合い ワゴン車を購入して移動販売車として活用 働く事 近所の人に褒めてもらう事がうれしい
一人ぼっちにしない 人に役に立つ 働く事こそ これから人生100年社会特に高齢の女性たちを中心に日本を良くしてゆくことなんじゃないかと思う
人と人との係わりの中で自分も元気になってゆく 

2012年1月9日月曜日

上 高子(事務局長)       ・アジアの日本語学習舎を支えて

 上 高子アジアの新しい風事務局長)   アジアの日本語学習舎を支えて  
認定NPO(特定非営利活動法人) 国税庁によって認定された  
この団体に寄付される約4割が税額控除されるという特典が有る
全部で4万ぐらいあるNPOのうち1割にも満たない限られたNPOです 
交流校 の日本語学習舎と新し風の会員等を1対1でメール交流して日本語学習をささえるというもの 交流校は現在3校ある 中国は清華大学  タイはタマサート大学 ベトナムはハノイの貿易大学 いずれも日本語教育のレベルは非常に高いと云われている  
日本語授業の参観等も行っている  
会員の数が200名程度なので各学校で90名から100名程度
最近留学生が増えてきている 
その支援をもしている 2007年からスタートしている

理念は多文化共生
日本語学習の教師になって気付いた事がある 
いろいろ歴史、文化等に付いて質問を受ける 
教師の立場としていろいろ勉強しなければいけない
日本てこういう国だったんだと合わせ鏡のように感じる訳です 
そうすると新しい発見をする 意識改革が有る こういう体験をしてもらいたいと思う 
日本を見直しきっかけになる 日本語の見直しにもなる 
会員の大半は退職者 しかるべき地位にいる人は対応が難しい場合が有る
(内容が難しかったり 自分の経験をひけらかすような内容になってしまう場合が有るため)

専門は英語 航空会社勤務  45歳で早期退職 日本語学校で3年教える 
中国で福沢諭吉の生誕100年の記念講演が有った
日本の研究者が話した テーマは「福沢諭吉の功罪」 脱亜入欧に付いて話す 
アジアを顧みなかった・・・これは私の事だと感じた
2003年からNPO立ち上げ メール交換の発想は 清華大学でレクチャーしていた時に突然家にメールが入った これは面白いと思った
震災後大槌町に日本人の貢献している姿 被災者の静然と対応する姿を留学生にみてもらいたかった  30名で1泊2日でいった

ステージしたり掃除 被災者の人から話を聞く  
日本人が規律正しく避難生活をしていると云う事を本当にこの目で見てきた  
小学校のトイレが綺麗なのに吃驚した  
復興が遅い 瓦礫の撤去 仮設住宅の設営遅いと批判が有った 
老人が一杯いるが如何して子供の処に行かないのか 戦後の日本の社会の変化というのは非常に個人の自由を尊ぶ それは大事なことですけれども、反面失っていると云うのは 家族の絆コミュニティーの絆を失なわれつつあるなと彼らのコメントから感じた訳ですけれども、自分の失意等大したものではないなと感じた      勇気と元気を貰った  
 
足尾銅山の植林 共同して留学生と植林をした
理事長が(林雄二郎先生)昨年亡くなる 林先生との出会いが無ければ 「アジアの新しい風」のたちあげは無かった
文化の多様性 一方的に自分の文化を押しつけるのは良くないとおっしゃっていた
日本人は日中戦争に付いて余り学んでいないようですねとの質問 →歴史教科書 受験勉強なのでそこまでいかないうちに終わってしまう 試験に出ない
何故試験問題に出さない 加害者は軽く見る  ギャップを感じる
(中国 韓国では歴史の中で詳しく習う) 互いに語り合う事が大事

「井戸と大海」本を出版 ハッピーミディアムを捨ててはいけない
(アメリカのスティ先のお婆さんから言われた言葉) 中庸  が大事
話し合う中で折りあい点を見出す
効率、能率を優先して日本人は来てしまった
クールジャパンを売りだそう (かっこいいと云う意味) 
官民財が一緒になって取り組みましょと云う運動が有る
良く知られているのがアニメ、漫画、ゲーム等  
私は日本人のライフスタイルやシステムそのもの 例えば学校給食の制度、宅配便の制度 交番 に憧れがあるんじゃないか

日本では当たり前だが  日本人の倫理観や精神的な強さ 真面目 規律を守る 
・・・日本人の気質というのも 今回の大震災で外国の方々がとても評価しているので
そういったものが日本人の売りではないかなと思います
「アジアの新しい風」もこういったところに目を付けて行かなければいけないと思います
そのためには我々一人一人がきちんとした生活をしなければいけないと思います
お互いが自分良さを発揮しあって又 向こうの良さを学びハッピーミディアムを目指したい

2012年1月8日日曜日

斉藤民雄(画家65歳)       ・ウイーンで音楽を描いて40年


斉藤民雄(画家65歳)       ウイーンで音楽を描いて40年
オーストリアに在住 40年 ベートーベンをテーマにした絵画を日本で展示予定
ウイーンは立派な教会が沢山ある シュテファン寺院等大みそかは花火、爆竹で大騒ぎする  
正月は2日から仕事 クラシック音楽を聞いて絵の作業に取り掛かる
クリムト に憧れた
高校時代に病気をして 落ちこぼれて 文学とか音楽とか美術に投資した 
受験勉強はしなかった  ドイツ語学科の出身 
大学の4年間に室内楽の小さなグループを作ったり 造形美術に関心が有ったのでポスター作りをしたりした
卒業後は矢張りヨーロッパに行きたいと云う非常に強い思いが有り 一度ヨーロッパに行きたいとグラフィックデザインを勉強したいと行った

絵画の勉強にウイーンへ行く 1カ月美術館旅行をして決めた  
ウイーン大学のドイツ語講座に入り 6か月間勉強する 応用美術大学にその後入る
最終的には美術画家をしたいとの結論に達した 
アルバイトをしながら生活した スイスに出稼ぎに行く(3か月働くと半年は生活で来た)
若い時はお金がなくても生活は出来る 
最初に里帰りをしたのは4年後 いろいろの葛藤が有り 最終的には風景画に到達した
(静かな時のながれ を書きたかった)
昔からクラッシックが好きだった どうしても音楽家の足跡を抜きに描けなくなった  
今テーマとしてウイーンに関係のある音楽家の足跡とか関連づいたところが主なモチーフ

例えば今描いているのは 歩いて5分ぐらいのところに有るサミター教会 こちらはベートーベンシューベルトの葬式を出したところ ベートーベンが亡くなった家も10分ぐらいの処に有る 
マーラーが住んだと云う家が10分ぐらいの処に有る 
モーツアルトの魔笛の脚本家も同様  
モーツアルト紀行 ハイドン紀行 モーツアルトが旅した処を描く  
その間は其の作家の曲をずっと聞いている  其の作家に浸りきり
作家 作家によって色の使い方とか変わって来る  
技法は卵テンペラ技法 卵1個に或る一定量の水と油を撹拌させて溶液を作る 
これと粉絵具を混ぜ合わせ
下絵を作る 水が入っているので乾きやすい その上に油絵の具で描く 
さらっとした油絵が出来る

ウイーンでは静かに描ける 
今年の課題は秋に個展を考えている 
ウイーンでのベートーベン を描いている 20点ぐらい考えている
一番好きなのはモーツアルト  シューベルトの冬の旅をテーマに描きたい 
ウイーンは雪が降るとまるっきり違う空間になる シューベルトは10年前は描けなかった
「冬の旅」を聞くと やりきれなく思いが有る