2012年3月31日土曜日

君原健二(元マラソンランナー)       ・スポーツ名場面の裏側で

君原健二(元マラソンランナー70歳)           スポーツ名場面の裏側で  
高校時代 無名選手で八幡製鉄に入社して、マラソンランナーとして成長して、東京オリンピック(23歳)、メキシコ、ミューヘンと3回のオリンピックに出場
メキシコ大会では銀メダルを獲得しました  
首も傾けて苦しそうな走る姿がトレードマークに成りました 
引退するまでの35回のレースでは全て完走
うち12回も優勝しました  日本男子黄金期のマラソンランナーでした
32歳で現役を引退 今でもフルマラソンを走っている 
合わせて引退後60回になる  3時間53分台で完走する
円谷幸吉寺沢徹と共に 東京オリンピックに参加 円谷は3分自己ベストを更新して 銅メダルを獲得 私は3分ベスト記録よりも遅かった 8位

円谷 トラック内で追い抜かれてしまった 
そのことがメキシコに向けて練習を開始することになる 
私は8位だったのでプレッシャーを感じることなく1年間は練習しなかった
円谷は結婚したいという女性がいたが体育学校の校長先生が横から反対の言葉を言った為に上官に逆らえずに、破談になる
私は1年後に結婚することになった  
私と円谷さんには大きな別れ目が有ったような感じがします
ボストンマラソンに結婚後1カ月後に参加して優勝することができた 
競技を止めてしまおうかとも思っていたが コーチからいまからできる時にやっておかないと行けないと   コーチから引き下がることなく繰り返し繰り返し言われた 
 
燃えるような熱い情熱の説得が続きまして 説得に遂に従わざるを得なくなって競技者生活に戻って行った
(退部届けまで出してあった)  
1968年1月 円谷選手は 27歳の若さで遺書を残して、衝撃的な死を遂げる
メキシコ大会で銀メダルを獲得することになる 
宇佐美、佐々木の3人が代表に選ばれた 
佐々木選手は当時世界最高記録を出しており 宇佐美選手も国内優勝しており 私は3人の中では3番目の実力であった
責任感の余りない位置にいたのでプレシャーを余り感じることなく大会に臨めたのが良かったような感じがする

43年10月20日 メキシコマラソンが開始される   
40kmでライアンが3位 君原4位 マモがゴールに到達してから2分後に君原がゲートに姿を現す ライアンがその後 100m後にいた 
普段後ろを見ないのだが後ろを振り向いたら迫っているのに気が付いて無我夢中で走りぬいた ゴールまで10kmで腹痛を起こす  
昭和47年ミュンヘンオリンピック 5位君原  12位宇佐美 という結果になった  
10km走った時点で調子がおかしくなってもうだめと思っていたが長い経験から身体が走れと言っているようで頑張った

子供時代は 16年生まれ 終戦が4歳   運動も勉強も劣等生だった 恥ずかしいと思ってた 少しでも恥をすくなくしたと言う思いがあった
陸上は中学2年生で始めるが とっても自分を主張することのできない気の弱い人間でした
駅伝クラブに入るのに断る勇気が無かった 
勇気が無かったので駅伝クラブに入ることになる
高校時代 3年生になって初めてインターハイに出場することができました    
1500mに出場して予選落ちだった でも満足していた 参加できたことに対して
円谷さんも5000mに出場していて矢張り予選落ちだった(後で知ったこと)
5年でオリンピックに出られるような位置にまで成長する
   
高橋コーチはスパルタ式  
欲張りなのでもう練習は終りだと言っても続けて練習したり コースでも出来るだけ長い方を走った 
1日 平均20kmは走っていた  (仕事をした後なので) 当時としては長く走っていた方である 北九州市は練習環境に恵まれていた  
東京オリンピックの頃 高橋コーチとは対立するようになった 
目標のポジションの差があった(私はとてもコーチの目標には出来ないと思っていた)
平均した走り方が合理的な走り方だと思っている   
5kmごとに時間確認をすればいいと思っていた 
時計も持たない 眼鏡、靴下も履かないようにした

21歳からマラソンを始める 10年半 35回 全て完走 優勝は12回 2位が8回 3位が5回   途中でやめたいとは思った時もあるが恥だと思いもあり走り続けた
マラソンを通して教える基本→  目標を持つことが大事 努力は必ず報われるもの 何十回何百回と努力を続けることで積み重なってゆく
ボストンマラソンの優勝者は50年後(75歳)に招待されるという事があり、それが4年後に迫っている 
ただ招待されるのではなく一緒に走って完走したいと言うのが目標
実現の為に毎年2回はフルマラソンに参加している  
今2~3日に一回 10km前後走っていまして 昨年の延べ距離は2200~2300km走っている
中学から走って、55年後に16万km走った計算になります 地球4周走った計算になる
人間の一歩は小さな力ですがそれを積み重ねる事によって本当に大きなものになり仕上げる事になると感じています

2012年3月29日木曜日

牧秀一(神戸よろず相談室長)    ・神戸のよろず相談室を東北にも


牧秀一(NPO法人神戸よろず相談室長62歳)    神戸のよろず相談室を東北にも
1995年に起きた阪神淡路大震災の被災者を支えて17年になります 
神戸の定時制学校の教師をしながら ボランティアで一人暮らしのお年寄りや、障害を持つ人達に寄り添い 見守り続けています    
仮設住宅 復興住宅での訪問活動をやっている 話相手は誰でも出来る  
ずっと続けることで信頼関係ができてきて本音が出てくる 
震災で家族を無くしたり、家を無くしても回り復興して行っても その中で自分は一人ではないんだと 訪問してくれる人がいる事で一人ではない
置き去りにされてないと言う事が判るんですね
その人は孤独死は無いんだろうと思っている

私の家でも倒れそうになったが何とか大丈夫であった 
職も教師であったので職を失うことも無かった
最初避難所が近くに有り校長から了解をとりそこでボランティア活動を始めた
最初はいったらボランティアがすでに来ていてリーダーがおり、話したい人、相談したい人が一杯いるのでそちらの方をやってもらえませんかと言われたのがきっかけ
避難所には約400人がいた 最初信頼関係が無いのでよろず新聞を作った 
必要な情報を大手の新聞から取り入れてぱっと配るのではなく、教室の一か所に集まって貰って説明をしたんです  
情報を説明する繰り返しの中で徐々に信頼関係ができてきた  毎日 これからどうするのか 
風邪の問題 病院はどこにあるのかとか説明をして行った

それがよろず相談室のグループが出来上がった 5人で出来上がった 8/31までになっていた  
最後の人が避難所をでるまでやろうと言う事で最後が9/10だった
一度活動は終わった 私達は避難所よりも仮設の方が良いと思っていたが孤独死とか自殺とかが毎日報道される
仮設住宅を訪問したらよくない状況があっちこっちにでた  
ちょうど1年目にボランティアの人と被災者の人達が集まって再開しようと言う事になった
その時は13人グループになった  仮設住宅に訪問する活動を行うようになった 
東灘区 とりわけ一人暮らし 病弱な人を主に訪問する
仮設住宅では隣の人が知らない人 隣の物音がする 
じっと過ごす様な生活状況 300世帯 毎週1回廻った

5年経って仮設住宅、復興住宅を訪問するようになる  
識字教室 読み書きができない人達に対して以前は隣の人達が補助をしてくれていたが
仮設住宅では隣が知らない人なのでフォローしてもらうことができない 
その人達が孤立しているので 3ヶ所に識字教室を設けて活動した
お年寄りが多い  段々隣同志が仲良くなってきたなあと思った時に復興住宅への抽選でばらばらになる この事が2度あった(折角絆ができても分断されてしまう)
おばあさんがポツンと「ここは都会の墓場です」と言ったことがあります
ある高齢者用復興住宅の自治会長は「身内がいない人が多いわ。死んだら誰も引き取りてないんやで」「あと10年したら、みんないなくなるよ…」と寂しそうに話していました

建物の立派さ・賑わいと反比例する人々の孤独・不安の深さが、復興住宅の現実なのです
復興住宅に入ってしまうと部屋に入ってしまうと隣同志の付き合いが全く無くなってしまう  
孤独死は仮設の場合は233名だった 復興住宅では9年間で600人ぐらい
自殺はそのうちの13%なんですよ 非常に多い 孤独死は男の人が多い 
原因がアリコール依存なんです   男の人の方が女の人よりも弱い
隣近所の付き合いが無くなる状態になってしまった  TVの子守をする 
そんな状況 建物を見た時にベランダから外をボーっと見ていて隣の人とは話す様子は無かった
資金は最初無かった新聞記事を見てくれてお婆さんがぽんと230万円を出してくれた 
その後報道されるたびにカンパしてくれるようになった
辞めようと思った時は何度もあったが 東京から毎月 親子で別々に1000円送ってくれる人がいた  8年間  おそらく年金で生活されている方 それを想うと、辞められなかった 
2010年12月にNPO法人になる ぐるっと一回りするのに1カ月かかる 
その間に亡くなってしまう事がある  
そのためできるだけ多く回りたいと思うようになった 
NPOなったが資金活動費用は助成金で楽に成るかと思ったが、そう甘くは無かった
お爺さんが病院に入院していてその人は死ぬ間際で、私に対して「ありがとう」と言った光景を見て こういう関係になれるんだと思って加わった人もいます

その人も10年以上やっている   接してきて段々信頼関係ができて 止めようと思う気持ちが出る時もあるが決して止められないと思う
震災障害者 震災で障害に遭った人達 阪神淡路大震災で約1万人重症者(1カ月以上の入院) 1/4が腕を切断とかその人達に目が向かっていなかった
同じ悩みを持つ人達の場が無いのでその人達が1カ月に一度会うような場を設けた  
お婆さんが10分ほどして泣きだした ここは泣いて良い場所なんだと、皆が受けれてくれてくれる    そういう空気があるんですね    
神戸以外はいけないと思っていた 東北との被災者との係わりについては 今回は全員が行かなければいけないと言う気持ちになって、4月の中旬に宮城県に行った 
何にもなかった 南三陸の光景を見たら絶句した これでは何もできない 
仙台で一泊して石巻に行った 小さな避難所に行った
 
そこの人達とは今も付き合っている   1年経って道路ができた程度であまり進んでいない
東北の人はお茶会に出てこない人をどうするかと言う事に対して遠慮してしまう傾向にある  東北の人同士で助け合いをしたらいいなあと思っている
生活格差ができてきている 金がある人は家を建てれるが  被災者を見る目 頑張る人は良い がんばれない人は駄目なんだと言うような目線の違いが出てきてる 
切実に成ってきているのが 仕事なんですけれども 仕事をすることが生きる事なんですけれども その仕事が無い 生きれないと言う事が大きな問題としてある
「なにも要らないけど話相手が欲しいんや」と或るお婆さんが言っていた  
とりわけ一人暮らしの人達が言っている言葉です

寄り添って話相手になることは誰でも出来るんだと思います 
遠いと1回2回は会えるかもしれないが3回4回とは会うことができないが 手紙とか電話で
交流する手段はあると思うんですよ つながる事が大事  大層なことでなくていい 
文通が始まると会う事と同じ
よろず相談室に仲介してもらえれば良いと思う  
喪失感を抱えている やけくそに成って当たり前だと思う  
1年経っているのにまだあんなことをしているのかと言うような目線で見てほしくない
温かい目で見守ってほしいと思う

2012年3月28日水曜日

本川 達雄(東京工業大學生物学者) ・ナマコに学んだ私のおまけ人生論

本川 達雄(東京工業大學生物学者) ナマコに学んだ私のおまけ人生論
海の生物のナマコ、ヒトデ等の研究として知られている 本川さんの著書に 「ゾウの時間 ネズミの時間」
心臓の鼓動の数と寿命との関係を表したもの
アロメトリーという日本でなじみの少ない学問を平易に解説した『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)
はベストセラーになった
動物が打つ心拍数は寿命が2~3年のハツカネズミも 70年近いインド象もほぼ同じ15億回になる
ということです
これを人間の寿命に当てはめると医学や科学の力で1.6倍に伸びたと言われます
人間が英知で手に入れた寿命をどのように活かしてゆくのか 伺います
おまけの人生とは→昔は人間50年と言われた  縄文時代は30歳代 明治時代でも40歳代  
今みたいに80歳代はほんに最近の事

体重が大きくなると心臓の鼓動が遅くなる 大きな動物ほど長生きする 
体重と時間の長さは有る関係があって 体重の1/4乗に時間の長さが比例する
15億回 ほぼ同じになる 人間だけはそれにのらない 
食事が良くなったり、冷暖房等で環境が良くなったり 医学の進歩等で寿命が延びている
人間は計算上では41.5歳  自然界では老いた動物はいない 
我々の寿命は技術が作ってくれたおまけなんですよ  老後は人工的なもの 人工生命体 
これは本当に有り難いもの 感謝しなくてはいけない
資源を使ってしまう  次の世代が使うべきものを使ってしまっている  
年金、医療費、介護費 赤字国債でやっていると言う事は赤字のつけを回しちゃっている
文学部は人間の心、脳の中ばっかり見ているようで偏っているなと思って、理科系の理学部と言うと 
人気が有ったのは素粒子 それが判れば全てが判る

と言われても と思ってもうちょっと体を持った生き物として 真ん中ぐらいのものをやれば世の中が
見えるのではないかと考えた 
動物学 その中で出来るだけ脳みその無いものをやろうと 貝だとか、ナマコだとか ほやだとか
をやろうと思った
30歳の時に沖縄に赴任した 臨海実験所 瀬底島 ナマコがごろごろしていた 
突っついたりしても逃げない 普通の動物は逃げる 変な動物だと思った
ナマコは殆ど皮で出来ている コラーゲン 刺激すると堅くなる 皮が6割を占めている
 口の周りに触手を持っていて砂を食べる(砂に付着したものを食糧とする)
ナマコは殆ど捕食者がいない  皮の堅さを変えて身を守っている(堅くなったり柔らかくなったり)
エネルギー消費量は非常にすくない 筋肉は要らない 脳も要らない  
1/10~ 1/200(鼠のエネルギーの)しかエネルギーを使わない

余りたべなくても良い 天国の生活   サンゴ礁は生物多様性がある  
珊瑚の枝の間に一杯魚だとかがいる  生き物の宝庫  
今から30数年前だから綺麗だった 最近は汚れてきた  
省エネに徹すると世の中は天国になる  今の日本人と言うのは物凄くエネルギーを使ってこの世
に天国を作ろうとしている
資源は無限にある様に想っていたが、豊かで天国を作ろうと思ってきたが、どうも地獄になって
しまうような状況にある
まだ右肩上がりにしなくてはとの思いがあり これは資源を益々使うことであり 環境は益々悪くなる  
もう少しエネルギーを少なくして資源を少なくして行けば
実はそれほどあくせくしなくっても 世の中生きていければ 働く時間も少なくていいと言うので
あれば 幸せになれる

なにが幸せかと言う事にもなるのですが、 お金を儲ける事だけを考えるのであればそれに時間を
使ってしまって (インターネットでデイトレードとか)夜も眠れないとか
もうちょっとゆったりと自分の時間に合った生きかたをしなくてはいけないのでは 昔無かった時間
を頂いているのだから 現役時代とは違った価値観で生きるように
しなければいけないのではないかと思います
自分がちゃんと足を地に付けて、生きていける時間をもっと確保しなくてはいけないと思います
大きな動物は時間がゆったりしている 小さな動物は時間が瞬く間に過ぎてゆく   
実は大きな動物の細胞は余りエネルギーを使わないのです
細胞がエネルギーを多く使うと時間が早く進む  時間の速度とエネルギー消費量は正比例しているのです  
これが動物の身体の中で起こっている

人間も赤ん坊、子供の頃は細胞がエネルギーを沢山使っている  
20歳過ぎると少しずつエネルギーが減ってゆく
60歳ぐらいになると細胞のエネルギー消費量は子供の頃の1/3ぐらいになってしまっている
子供の頃は時間が早い 時間の世界が違うので子供の頃の世界観、価値観で歳を取っても持って
生きてゆくと言う事は間違いのもとではないだろうか
自分の時間に合った生きかたをしないと幸せに成らないだろうと  これは体の中のことなんですが
 実は 体のそと、 社会生活においてもエネルギーを使うと時間が早くなるんですよ
便利 コンピューター、携帯電話、自動車 等々 使うと速くなる  
そういう物を動かすにもエネルギーを沢山使う

現代社会はエネルギーを沢山使って時間を早めているのだと そういう社会だと思っている
便利になって時間を早めてきているが、身体の心臓の拍動は昔のまま 身体の時間が元のまま
なのに 社会の時間だけどんどん速くなってゆく
身体が付いてゆけるのか 便利に成って豊かになった割には自殺が増えたりだとか、色んな事が
起こっている 
子供達も疲れたと言っている訳ですよね    
本来の身体に合った時間で生きればストレスの掛らない幸せな時間を持てるのではないだろうかと思うんですね 
ビジネスの時間を卒業したら本来の時間に合った生きかたをした方が良いのではないんでしょうか
機械に頼らない もうちょっと自分の身体を不便にした方がいい
   
現代は筋肉を出来るだけ使わないようにするのが便利となっている
筋肉が身体の中で不平不満を訴えるのではないかと思っている  
次の世代を考えたら次世代は多分困ってしまうのではないだろうか  
個体は使っているとガタがくる ガタが来る前に次の世代を作る(子供)
生物学的には私の次の世代は次の私である  
今の私だけが良い思いをして次の世代が困ってしまうような事ではいけないので、もうちょっと
遠慮した方がいいのでは
省エネ生活をすることが大事(自分にとっても次世代にとっても)

2012年3月27日火曜日

矢崎明子(筝曲家85歳)        ・琴一筋に75年

矢崎明子(筝曲家85歳)          琴一筋に75年  
東京芸術大学で生田流 宮城道雄の指導を受けている 「春の海」「日蓮」など数々の新しい作曲をして昭和初期の頃 新日本音楽の担い手として注目されていた
矢崎さんはその愛弟子でいらっしゃいます 
1957年 モスクワでの世界青年友好祭での日本代表の一人として選ばれ世界民族楽器コンクールで金賞を受賞された
その後現代邦楽として活躍される一方で 「三弦の矢崎」とも言われ重多?(地唄)三味線の名手としても知られています
「六段」300年前に八橋検校が作られたと言われています
  
琴にはいろいろな弾く手法がある  
「合わせ爪」「わり爪」(しゃしゃてんと言って風を表わす時によく使う
「かけ爪」「すくい爪」「刷り爪」(雑音的な音 風を表したリする)「ちらし爪」(これも風を表したりする)「裏連」(花弁が散るときとかこの葉が散る時に表現する)
「ピッチカット」(指で弾く 柔らかい音を出す)「トレモロ」 これらが代表的な弾き方
桐(会津の桐がいいと言われている) 
10歳からやっている 昭和2年生まれ 当時はもっと盛んだった 
お嫁入り道具として使われていた

父母が邦楽好きだった 姉妹もやっている(東京芸大にみんな行っている  姉、妹は洋楽) 
大學に行く時に戦争で音楽をやっている時ではなかったので被服科に入る 
3月10日東京大空襲に会う  いなかに帰ってくる  切符も手に入らない状況だった
戦後東京芸大に入る 宮城道雄先生の元に入る 神様のような存在だった  
受験の前に一度会う事になった 何を弾いたのか記憶にない
とても生徒思いであった 先生は視覚障害で有った 
学内演奏の時に演奏している時に金屏風の処で聞いていてくれて、乱れそうになると手を打ってくれて、調子を合わせられるようになって 乱れが無くなる様にしてくれた  
奏楽堂はダルマストーブが有るぐらいで寒かったが、手を温めるためにお湯を用意してくれたりしてくれた

「自分で考えて弾きなさい」 と言われた 芸は教わるものではなく、悟るものだと言われた  
味のある様に弾きなさい
1956年先生は列車事故で亡くなる 扉をあける方向を間違えたものかと思われる
「泉」を先生が作曲されその曲を教えてもらってから、1週間後の出来事であった
昭和32年 NHK技能者育成会 世界青年平和友好祭で民族楽器のコンクールがあるという事で 4人推薦されてモスクワに行った
金賞を取ることができた 「六段」「落ち葉の踊り」「春の海」とかを演奏した 
新潟からソ連の船でナホトカに行き、シベリア鉄道に乗り換えて 何時間か判らないが、中途で時間に間に合わないと言う事で、飛行機に乗り換えて行った
飛行機は20人乗りで大丈夫かと思ったが、何とかたどり着いた 

新しい分野に挑戦する 洋楽の人に作曲してもらい 現代邦楽として演奏する  
時代の波に乗ったと言うか 徐々に広がって行った
明治から洋楽一辺倒だったので邦楽はずっと横に追いやられていた 
邦楽は研究所でよいという意見もあり一時邦楽は廃除されそうになったが担当先生が反対して復活した
歌、三味線もやる様になる  歌、三弦、琴 尺八が順に入ってくる  
「八重衣」  25分ぐらいかかる大曲  難曲中の難曲
若い頃は何てそっけないんだろうと思っていたが、ずっと聞いているうちに味が判る様になった
歳を取るほど機微が判る様になって面白くなってきている  
弟子からも学ぶことがある 悪い弾き方を弾いているとその様に弾くと駄目なんだなと思う  
教え過ぎても駄目だなと思う

海外の反響は→古典に興味を持っている(専門家) 
一般の人は新し物に興味を持ってくれるようだ 「春の海」とか
弾き歌いが基本 で三つやらないと駄目(歌、三弦、琴)
古典をしっかりやった上で新しいものをやる 
最初から新しいものをやる人がいるが 古典をしっかりやって良い音を出せるようにしてから新しいものに取り組んで貰いたい

2012年3月24日土曜日

丸田良昭サックス奏者63歳)        ・0歳から音楽人生まだまだ未知の世界を探訪中

 丸田良昭サックス奏者63歳)      0歳から音楽人生まだまだ未知の世界を探訪中  
鳥取県倉吉市出身のサックス奏者 88年「ハイプレッシャー」全米で大ヒット
1987年(昭和62年)にはアルバム「SPARKLING」で第一回日本ゴールドディスク大賞を受賞
予測できない事件 予測出来ない波に合った
母親は音楽に理解があった  
トロンボーンを最初中学で吹いていた 行進をするのに一番前でやるのでこれが嫌だった 
サックスが欲しかった 音楽の先生になるから欲しいと親と交渉して購入できた
グレンミラー楽団に憧れた 米国に留学 語学が判らず苦労する 
音楽に関する英語から先ず入って行った
夢で英語をしゃべっているようになった プラクティカル トレーニング ビザ で働ける 
1年後には帰国しなくてはいけない
音楽家としては働けた 或るバンドに入る  
70歳代の人は「リメンバー パールハーバー」と言われる

バンドメンバーといろいろな旅をした  当時モーテル1泊8ドル 安い旅行をした 
30歳になって 稼ぎも無く 皿洗いをしたりしていたが、音楽を止めて 売る側に立って(ミュージック ビジネス)定職に就きたいと思って始めた
色んなバンドが来る  変な凄いバンドが来る時がある 
自分達の下手さ加減が判らないバンドが来る時がある 何とか乗せてやったりする
下手なんだけれどもジーンと来るものがあるバンドにあったりする  
自分では中学の頃から先生に習って、松江まで毎週習いに行って 毎月大阪音楽大學まで  東京芸大の先生が来てレッスンに行って、 東京芸大出て ボストンに来てバークリーも出て プロになってやってて、なんか違う事を発見した
 
なんか怖さと言うか 面白さと言うか 学問一杯勉強してきたけれど 捉われている 
自分が枠の中でやってなくてはいけないと言う 
その小ささをふっと気付いて、あー音楽って結構違うなと思ったんですね  
いろいろ規則を勉強して あれをやっちゃーいけない これをやっちゃーいけない 誰かが学問で後付けで付けて 大きな楽典ができたりだとか 音楽概論とか、基礎教育なんとかとか 後付けだった  実際は判例 誰かがやってきたんだなとふっと気が付いた 
下手なんだけれども感動したというか 旨い下手じゃなくて 、心に訴えるなにか一生懸命さが有れば伝わるんだなって ここから私は目覚めちゃいましたね  
下手なバンドの中に有る意志とかやる気とか意欲とか 士気というか 戦いに行ってるような感じ よしやるぞ と言うようなそれが伝わると、威圧感ではないけれど 喜びが迫ってくる 

悲しくないんだけれども目が潤む見たいな 感動ですよね これだーっ見たいな これだーっと  
自分の人生を振り返って これから先未知の世界だけれど やんなきゃいけないなと、まだやることが一杯あるなと 一杯勉強したけど一回忘れて、兎に角真っ直ぐに未知の世界に 新しい事に出合って行って 温故知新みたいなのはあるけれど それを越えた上での芸術 美しいものに憧れるわけですよね  
なんか感動すると言うところに向かってゆこうと決めたんですね  
するとライオネル・ハンプトンというバイブ奏者からたまたま電話があった
この人は17歳で黒人で20年代初めて白人のバンドに入れてもらって演奏した人 
ベニー・グットマンのバンドで  (94歳で他界したが) 70歳ぐらいだったと思う
バンドに入る様に誘われる 
 
指が動いているかどうか確認して2週間で準備して合流した
音楽の見方が変わった 違う角度から  お前ができる事をやればいい と言うが しかし或る程度真似をしないといけない
そしてそれを忘れ、自分の個性 自分は何なんだって 自分は何のために生きているんだろうかと それを突きとめて行ってですね 自分の個性を育てる
自分を分析する 自分はどこから来たんだろう  
自分の文化はどこから来たかという事 これからやること沢山有りまして でもやる気十分で  これから好きなことをやりたいと思ってまして 鳥取県の文化が音楽的に盛り上がれば 楽しんでもらえればいいのかなと思いまして18人バンドを組んで、やろうと思っているんですけれども 音楽は色んなジャンルがあるけれども最後は其の音楽の中にどれだけの位置があってどれだけのメッセージを込められるか、やり過ぎてもいけない やりなさ過ぎてもいけない 

良い音楽を死ぬまでやっていければ良いかなと思います  
いままでサックスを何度止めようかと思ったことか  飽きると言うことはなくて プロだという意識は有って 吹かないといけないと言うところがどこかに有って、貪欲と言うか、貧乏性と言うか なんか動いていないといけないように思っていて やってないと 負けちゃうと言うか   
一つの事に飽きたら違う事をやる 自分が好きなことをやると人に迷惑を掛けると言う事があって 勝手なことをやればいいかと言うとそうではない
人に迷惑をかけないで好きなことをやる  
好きなことを見つけて好きなことに出合って それを一生やってゆくという 
最後はそこに尽きますね
やってることからエネルギーを貰う

2012年3月23日金曜日

橋本文雄(映画録音技師84歳)     ・映画録音人生 2

橋本文雄(映画録音技師84歳)        映画録音人生 2   
日活の黄金時代を経験して、その後1971年 映画の衰退に伴いロマンポルノ路線に移行する  
飛びつけなくて東宝作品等をやっていた 
ポルノになった時に名スタッフは辞めてゆく  
ポルノ映画やってゆくとTVも普通の映画も仕事ができなくなると言うような、風評がずっと立ったわけです
映画の仕事を続けてゆくには辞めざるをえないような状況だったので、辞めて行ってTVに名スタッフは流れて行った
私は運よく松竹、東宝の仕事をやらしてもらって、やっていて、現実に日活の撮影所は有るわけです
若い助監督の人達がロマンポルノをやっていた (会社を助けるがために)  

これでいいのかなあと思った  これも映画なので割り切って行こうと踏ん切りがついた
当時はその映画はアフレコでやっていた   大きな転機ではあった
音楽をロマンポルノに使用するに当たっては、作曲者の了解を得てから使用するため、了解を得るのに苦労した
素人の俳優がやっていたので俳優にも苦労する  
偽名を使ってやろうかとの話があったが、偽名を使わずにスタートした 
1979年 「赤い髪の女」 アカデミーにノミネートされ録音賞を貰った
1982年以降はフリーとして活躍始める   
森田芳光監督  身体が空いている限り、若い監督、有名な監督に係わらず対応した
監督に沿うような形で意見を言ったりする  柔軟に対応する
何十億掛る映画も、1千万の低予算でもそれなりに、柔軟性を持って対応した

海外の映画の時も違和感がなくやっていた  
出してくれるものはなんでも食べるし、用がない時にはぐっすり眠っている  
どちらかと言うと制約されるのが嫌い
音に対する感性を磨いてきたことはあるのでしょうか?→努力はしない 
育った環境は姉がレコードを好きだったので、クラッシックの音楽を聴いたりするのは
好くしていた 活発に運動する方ではなかったので 大衆文学を読んだり 純文学に行って、海外の文学 ロシア、ヨーロッパ等の文学を読んでましたね
大映に勤めるようになってから、生の音楽を聴くようになった  
演奏会とか  モダンジャズ、ポップス なんでも聞いた
音楽を聞いていないと意見が言えない
映画を見るのだったら、演奏会にいって聞きたい

「聯合艦隊司令長官 山本五十六」で最後にしたい 若い人に頑張ってもらいたいと思っている
人に迷惑をかけたくないので映画の音を支える人達に対してのアドバイスは→百人百色で監督に沿うような 音の処理方法を自分で考える 
其れを作って行くのが録音技師だと、映画は監督のものだから、自分にこだわらずに 色んな監督に対応できる 
技術、感性を磨いておけば絶対声を掛けてくれると思っている  
買い取り作品が多いのでメジャーな会社で作って欲しいと思っている 
それが人を育てる意味になる
60何年間 同じ仕事を出来て幸せだと思っている 
皆さんに感謝している バックで皆さんが助けてくれたので
過去の事は直ぐ忘れる いまの事を一生懸命やっている 
余りいつまでも引きずらないようにしている

2012年3月22日木曜日

橋本文雄(映画録音技師84歳)     ・映画録音人生

橋本文雄(映画録音技師84歳)       映画録音人生   
効果音、音楽を入れる 1954年~58年映画技師として活躍してきた   285本になる 
原稿の全体を眺め、完成本は4稿目からですね  音の構成を考える  
現実音 音楽 効果音をどこに入れるかを考えて設定する
クランクインに入る セットでやっているとノイズ、場所、環境は二の次になるので こういう音が入るよと監督、役者に伝えておく
喋り方からその環境でやっておかないとリアリティーが無くなってしまう  できるだけシンクロでやる 芝居にも影響する アフレコ(アフターレコード)では駄目
モニターを見ながら絵に合った音を出して作ってしまう アップの音とロングの音は違う 
音質が違う  遠くの方で言っているのと近くで喋っているのはちがう

ファイナルダビング 最後の音の仕上げに入る   
現実音(台詞)、音楽、効果音 をそれをダビングに向かってそれぞれの音を作る
台本に基づいた音を作ってゆく  
音楽家、監督、私と 3人で話し合いながら音楽の入れ場所を決めてゆく
1946年に大映京都に入る  
伯父が大映京都の撮影所で働いていて、募集がありそこに受けた 縁故関係でが多かった
片岡千恵蔵、市川歌右衛門、月形龍之介等が居た時代  映画には余り興味は無かった
録音部が、かちんこをやっていた  
(東京では助監督がやっていたが) 緊張した
時代劇は下からのライト(行燈とかろうそくとか)だったので上にマイクを設置することができた
日活に移動(昭和29年) スタッフ演出関係は若手が集まり混成部隊であった  
「愛と死の谷間」で一本立ちする

石原裕次郎の映画に多くかかわる  「太陽の季節」の映画化  みずのえ滝子に紹介された (学生だった) 
印象は背の高い、足の長い 育ちの良い子だなと思った  
「太陽の季節」は長門宏之が主演だった  狂った果実は一緒にはやってない  
「鷲と鷹」「俺は待ってるぜ」「錆びたナイフ」
それまでに無い日本俳優のスタイルだった  
主題歌を歌ってヒットする  
エコーを入れた方がいと判断して作った方が雰囲気が出ると思ってその様に作った
アクション映画が多い メリハリある音を全部作った  映画に合った音を作って行った 
パンチ 切る音 (現実とは違う音ではあるが)
ずば抜けた大スターは当時居なかったので、足音を出す役を俳優がやってくれたりした

2012年3月21日水曜日

佐藤忠男(映画評論家81歳)       ・私の映画人生2

佐藤忠男(映画評論家81歳)  私の映画人生    
これまで余り見なかった映画を見るようになった  アメリカ映画を主体に見ていたが、別世界の話
であり、日本映画をみると 物質的にも貧困、ひくつな人間が多い
他の国はどうなんだろうと、思うようになる  メキシコ映画に魅せられた 貧困の状況 
描かれている人物の背筋ががしゃんとしている
エミリオフェルナンディス 監督 1947年ぐらいの時代  
(アメリカ映画だと思ってたのが実はアメリカの
会社が出資してメキシコが作成した映画であった事が判った)
韓国 私と同年代は私の本を読んでいる(その人達は日本語を読み書き出来る年代)
 
その人達と付き合っていて、韓国に行くようになる
文化大革命が終わった直後、その間、10年間交渉を断っていた 講演に出掛けた 
観光旅行は存分に楽しんで下さいと言われたが
古い中国映画を見せて下さいと言った    戦前岩崎昶(あきら) という左翼の映画批評家がいて 
戦前に左翼の映画運動をして弾圧をされて失意のどん底に居た時に
ちょっと上海に遊びに行った、その時に上海で左翼映画の全盛時代であった  
その映画を何本か見て 日本で弾圧されて失敗した映画が上海に有る

今や左翼的映画が作られていると、感激して 日中戦争のはじまる直前頃には中国にも上海にも
優れた映画あることは雑誌を見て知っていました
それらの映画は無いですかと尋ねた それが素晴らしい映画だった 
ダサい映画だと思っていたら、ハリウッド直系なんです 
上海は当時の東京よりももっとアメリカナイズされていた そこで見事にアメリカ映画の良いところを
とりこんでいた (日中戦争の前)
国際交流基金 南アジア諸国に講演に行ってくださいと言われた (山田洋次監督と一緒に)
  
最近の評判になった映画を見せて貰った どれも素晴らしかった
映画が社会に活性化して生きているのだなあと思った   
知られざる国の映画を持ってきて日本で上映した方が良いのではないかと思った
面白い映画があると知らせただけで それが大ヒットした  
現代のアジアの国々の社会問題を描いたその国の映画なんて存在も知らない人達がワーッと集まった
アジア映画祭と言うものができてきて、これに係わったことが大きかった   
相談に乗っているうちに、自分でその国に行って探してこようとか、アジアの映画祭を纏めてやっ
いる処がいくつかあるので積極的に行って探そうかとか

そういった形でアジア映画の紹介に係わりましたね
福岡で(1991年~)映画祭をやっていたが 年に7~8回海外に行っていた 
韓国、中国、台湾、フィリピン、タイ、インドネシア、ベトナム、ミャンマー、インド、イラン、トルコ、
良い映画を探すのは大変 良い映画は作られる映画の10%ぐらい  
外国人の批評家と知り合いになるので 紹介して貰ったり 映画を統括する役所等もあり
或は監督協会だとか そういう団体と接触して ここ2~3年の優秀な映画を20~30本用意して
くれないかと交渉して纏めて見せてもらう事がオーソドックスなスタイル
最初にタイに行ったときに「タイではインテリは映画を見ません」と言われた 
「傷跡」観たら素晴らしかった

「傷跡」を作った監督が日本に現像に来ていて(当時現像等は日本に来ていてやっていたとの事)、
私に会いたいと言っていることを或る筋から聞く
日本の新聞にタイの映画が話題になったことがタイでは有名になって それで話あった  
それから家族ぐるみで付き合うようになった(その様なのが世界各国にいる)
日本に行ったら佐藤忠男に聞けと言われる様になった 
映画祭に出すように勧める タイで「傷跡」をヨーロッパ映画祭に出す   
イギリスの国立映画研究所のライブラリーに納められたタイの映画の最初のものとなった
モンゴルの映画を 福岡で特集をする  ベルリン映画祭のディレクターを知っていたのでちょっと見て
ほしいと言って見てもらう
 
「至福の禍」「風」・・・
全作品をベルリンで上映して世界を回って、香港で上演され この映画は大海原で拾った真珠の
ような映画であると批評が載って、我が意を得たりと言う思いであった
「至福の禍」    モンゴルとの付き合いの発端はモンゴルでノモンハン事件を扱ったドキュメンタリー映画
を作って日本に売り込みたいと言うディレクターがいて 
紹介頂いて モンゴルに行く事になる  良い映画があることが判った
バングラディッシュの映画 イスラム圏の映画 見た事が無い 
イランの映画祭に行ったら見る事ができた  
アジア映画の魅力とは→アジアには貧しい国が多い つつましい生活を描く映画は一杯ある  
遊牧民の映画 もっとも簡素な生活 具体的に判る

我々に取って非常に参考になると言うのか、勉強になると言うのか、人類が最もつつましい生活を
しなければならないと言う条件をつけられたら
遊牧民の生活が一番参考になる 日本がこれが仏教の真髄ですとまともに描く映画は余り無い 
処がスリランカとかタイに行くと有る
小乗仏教 奥さんを持ってはいけない 純粋な仏教 我々の言っている仏教は大乗仏教で、
小乗仏教をだいぶ変えたもの 
小乗仏教とはこういうものなんだと言う事がスリランカ映画なんかを見ると判りますね
スリランカの映画で「蓮の道」が有る これは非常に無欲な生きかたをした男の物語なんです 
非常に無欲で幸せなことも無かった 彼が最後に病気で亡くなる時に
自分が親切にしてあげた、面倒を見てあげた貧しい人達が彼を介抱してくれるんですよ
 
 最後に夕日が沈んでゆく丘で亡くなるのですが
仏教の真髄は欲望を断つと言う事でしょ 欲というものを捨てた人間の境地、精神的な状態 
こういうものを描いた映画と言うものはこれが仏教映画なんですね
こんな仏教映画なんて考えてみると我々、小乗仏教とはこういう精神を追求するものなんだなあと
感動しますね
我々の知らない文化というものが一杯あって、やっぱり面白いですよ 
世界を知りたい と思うのが私は映画であると思っている  
今世界を制覇しているのはアメリカ映画です アメリカ映画で最も華々しいのは商業映画で世界の滅亡映画で
昔はアメリカ映画ははつらつとして、夢を感じさせる映画だったんですけれども、自己批判する映画が
出てきて、段々絶望的に成ってきている

アメリカ映画を見ていると何回地球が粉砕されたのだろうかと、物を壊すことに情熱的で カーチェイスも
昔は2台程度の車がぶつかっていたが何十台と壊れるようになった
アメリカ映画文化の対極に小国の文化は有ります 
アメリカ文化とは違った原理、文化で動いているのが多数あると言う事を理解しないと こちらを無視
するわけには行けない
ベトナムは例えば社会主義で頑張ってアメリカと対抗したんだけれども、社会主義だけではやって
いけないと言う事がベトナム戦争に勝って10年ぐらいしてから
判って、そして彼らは彼ら流に悩みながら、新しい社会観と言うものを、つまり社会主義一辺倒では
やっていけないと、しかし社会主義で頑張ることによって
アメリカと対抗で来たんだからそれも無視できない
 
今は近代化が始まっている その辺の動きを見る事ができる
ベトナム映画を見ると 交通事故で死ぬ場面 三途の川で別れを告げる  
ベトナムも仏教国 近代化の犠牲になった幼い弟、妹に別れを告げるいうような
こういうイメージ 之を我々に作れと言ってもわざとらしくしか作れないけれども、それを極自然に
映画の中で作れるのがベトナムの映画なんですよ
国の独自の文化と言うよりはこれは人間の文化の基本の形ですよ  
人間の文化の基本の形のどういう部分がどこに今、生き生きと生きているか
と言う事を知っておく必要がある
次の世代の育成もしなくてはいけない

2012年3月20日火曜日

佐藤忠男(映画評論家81歳)       ・私の映画人生

佐藤忠男(映画評論家81歳)    私の映画人生    
日本映画大学学長  60年間 アジアを中心に世界中の映画を発掘、紹介することで映画を通じた
国際交流や映画文化の発展に貢献してきました
一時衰退が心配された日本の映画の人材育成にも尽力して去年新たにスタートした日本映画大学
では学長として忙しい日々を送っています
これまでの映画文化への貢献や著作によって紫綬褒章、文部大臣賞等数々の賞を受賞し、
韓国、フランス、ベトナム等からも文化勲章を受賞しています
100冊以上の映画関係の本を出版している 
  
映画について100冊以上出している映画評論家は世界に居ないでしょうね
本の映画評論に通底しているのは娯楽映画であろうと、、芸術的な映画であろうと 
私達のそれぞれの人生に取って、参考になる見どころと言うのを
私達に示唆してくれている 教えてくれていると そういう風に考えながら読んでたんですけれども 
出版社の方から貴方は何派ですかと問われ、何派なのかと友人のフランス人に聞いてみたところ
ヒューマニズムだと 人間派なんだと自分で気付いた 
人生論的であるし、映画による社会学であると 若い映画評論家は社会学の論文として批評してますね
例えば日本のジャンルの一つに任侠映画がある 日本の社会構造の親分子分的な面 
そう言ったものを抜きにしては任侠映画は成り立たないわけですよ

日本社会における親分子分的なものと言うのはやくざの世界だけではない 
広く悪い意味ではなく 親方 子方的な社会は広く産業社会から農村まである訳ですよ
歴史的な変化まで調べないと単純にやくざ映画だけを論ずると言うわけにはいかなくなる    
だから社会学になってしまう
映画と出合ったのは4歳 アメリカ映画の「キングコング」 が鮮明に覚えている
淀川長治 も小さい頃の映画を鮮明に覚えていると言っている
エノケンのドタバタ喜劇 、愛染かつら、・・・ 当時はあまり映画を見る事が奨励されていなかった
(戦時中)  小学校は戦争の時代

小学校卒業するときに中学に行く時に受験する 
講堂でいきなり校長が出てきて明治天皇の御声を三種朗読して挨拶もせず去って行った14歳で敗戦迎える
面接の時に出るのだろうと一生懸命覚える事にした 
試験はうまく言ったと思ったら試験に落ちていた 来年もう一度受けようと高等小学校にいく
受験担当の先生からあの学校は愛国主義者で試験成績よりも人格を見ると言う 
校長先生が話をするときに頭を下げるがそれをしないものがいるので
それを落第にすると云う  それを聞いて中学に行くのが嫌になってしまった
理由を問われて仕方なく少年兵に行くと言った (兵役に行くと言うと当時の親は逆らえなかった)
戦争に負けてどうしようと思っている時に アメリカの映画を見た 若い女性がニューヨークに行く 
若い男性が振りかえる その目がやけに爽やか、健康的に見えた
これを見て文化的に負けたと思った  (戦争の背後に有る文化の差)
  
我々は世界の事を知らなかった それからアメリカ映画を夢中に見るようになる
自分がどれだけ世界を知らないかを痛切に感じた
「キューリー夫人の映画」  文化の差を痛切に感じる    
それを理解するために一生懸命勉強した  今から考えるとファンと言うより映画の研究者だった
鉄道教習所の生徒だったのでパスを貰える 
土曜夜 夜行で東京に来て古本屋に行って映画の文献をあさり、地方では見れない新劇とか観て
夜行でまた帰って月曜の朝に教習所の学校に出席すると言う事をよくやっていましたね(3年間)
認められるようになったのが20歳を超えてから (17歳くらいから映画雑誌に投書し始めたが)
鶴見俊輔さんが「思想の世界」 投稿を歓迎すると言っていたのでこれに投稿すると 
手紙が来て之ぐらいのものを3つ書けば君はプロとしてやっていけると言われる

これが決定的だった 一般民衆の思想を哲学者が考えたりしている 「任侠について」 
「長谷川信論」 日本にまたたびもののジャンルを創り出した人
「沓掛時次郎」 ウィリアム・S・ハート アメリカの無声映画の1910年代の西部劇の大スター 
影響関係がある 原点がある さらに遡るとヨーロッパの12~13世紀の
騎士道物語が原点であると それがヨーロッパ人にとっての恋愛と言う概念の型がメロドラマに
変質してヨーロッパからアメリカに移民してきたときに
西部小説と言うような形になってそれが基本になって 西部劇が生まれる 
 
一貫して有るものは強き者は貴婦人に真心・正義を捧げる 
貴婦人に認めてもらい為に正義を行う   ここが重要なポイント   
日本の武士道物語と西洋の騎士道物語は似ていると言われるが、決定的に違うのは
騎士道物語には必ず貴婦人崇拝と言うものが付いて回る 恋愛がある   
日本では殿様に忠義を尽くすために女を捨てると言うのが日本の武士道の不動の基本
のパターンであって アッこの時に私は軍国少年を脱却できたと思った  
忠義よりも恋愛が大事と言うのは基本なんですよ  
何故日本には忠義の為におんなを捨てると言う観念があるかと言うと、これは儒教ですよね
 仏教も多少有るでしょうね

女性差別の観念と言うものがある これはアジア、イスラムから儒教文化圏 それから仏教文化圏
を含めて 東西の考え方の違いは恋愛に対する考え方の違い 
が基本でそれから一生懸命一人で考えた そのためには文学書を読んだり 歴史書をよんだり
心理学、社会学を読んだりしてした
そこに気が付いたら色んな事が判る気がしてきた
「任侠について」は自分では幼稚な文章だと思っているが、ただ色んな人が認めて下さったんですが 
(23歳) 国鉄を追い出された
何とか映画の仕事はやりたいとは思っていたが 一流大学の人でないと入れない状況だった  
脚本家の道を目指したが、片手間に書いていたものが認められた

大衆映画論者と言われた 鶴見俊輔さんは映画の評論をして哲学者も評論してくれるようにもなった
鶴見さんは偉い人だなと思った 最初に会った時に鶴見さんは「この人は分析的な文章を書く人
です」とおっしゃってくれた
俺は分析的な文章が書けるんだと思いましたね   
大衆映画と言うものは皆にているように見えるけれども、重要なところが違う 
それを分析するのが
私の仕事だと言う風に自覚しましたね
50年代終わりに評論家の地位を確立した  評論を仕事にする 60年を頂点として観客が半分に減る
駄目だと言われ続けてきたが、何とかやっている

撮影所が映画を作っていたが、スターがいてパターンが決まっていた 
撮影所がつぶれてパターンが成り立たなくなっていった てんでに作る様になる
ファンは自分の好きな映画がどれか判らなくなってしまう  映画は益々衰退した
自分で出資者を探して自分の映画を作る様になる  
一本一本の作品が非常にそれぞれ違う作品ができるようになる そうすると批評家の働き場所となる
一本一本違うと其れをどこまで分析できるかと言う事が重要になってくる
政治の映画ができなかったが出てくるようになって 左翼でもいろいろ有るのでその辺を理解しないと
評論できないような時代になってきた

60年時代にやってきた  ATG   外国映画もアメリカ、フライス、ドイツ映画しかなかったものが、
ポーランド、スエーデン映画とか型にはまらない映画が世界から
表れてくる そうなると批評家の仕事は益々重大に成ってきます 
 批評を書く事に対して力が入ってきましたね
作家の個性が重大になってくる 黒沢明論の単行本を最初に書いた 
溝口健二 小津安二郎 今村昌平 等々
監督に対してそれぞれ8冊ぐらい書いた 型にはまらない映画がどんどん出てくる  
本格的に議論できる時代が来た

2012年3月19日月曜日

安部朱美(創作人形作家62歳)    ・人形に託した昭和家族の絆

 安部朱美(創作人形作家62歳)       人形に託した昭和家族の絆  
鳥取県米子市で創作人形を製作している 
全国巡回人形展は家族の物語を紡ぎ、大切にしてきた日本人の心と姿を伝えています
この展覧会は心貧しくても心豊かであった昭和の時代の四季の暮らしを30cm前後100体の人形に今失われつつある家族の絆を訴えています
7人家族で育った 大家族の中で、いたわりとか思いやりとか愛情いっぱいの中で育ちました
周りからの昭和時代の情報、写真等からイメージ作りをして人形を作った
「悔しい」というタイトルの人形を作ったがそれを見た30代の人が感動してくれた
「悔しいだろう 悲しいだろう 辛いだろうね でも大丈夫 乗り越えられるよ君ならきっと そして本当の強さ 優しさが判る人になってゆくんだよ
あの時があってよかったと思えるように成るさ ずーっと後になってから」 と言うメッセージを描いていた
お母さんと子供達 あ―っこれ私 と立ち止まって人形を見つめていた 
人形に自分の、家族を重ねて見る

「ちゃぶ台囲んで」 大家族がちっちゃいちゃぶ台を囲んでいるもの  
作る時の自分の燃焼度が有り過ぎるといけない 想いを伝えられない
毬突き ベーゴマ チャンバラ 馬跳び 縁台将棋・・・遊びの人形   
自分の子供時代の遊びの人形 こうだったなーとお互いに話し合う
こういうふうにして遊んだと言う事を話し合う 喧嘩をする中で学んだことは多いと思う  
我慢することを覚えたが、今は直ぐに爆発する
30年前ぐらいに図書館に行って紙粘土人形の本を手にして、人形を作りたいと思った
対人関係の躓きが有り ひたすら人形を作った 半年で解決した なにも言わなくても何とか解決できた  
人形作りが前に進む手段だった  
「福必ずしも福ならず 禍必ずしも禍ならず 禍転じて福となす」  
いつの間にか座右の銘になった

深く葛藤したから今がある  人形が解決してくれる その様な気になってきた 
人形を作ることは自分の内面を探る作業 自分の内面を見つめる作業なんだと思うようになった 5年目に個展を開く 次に25年目の時だった 集大成だと思ってやった 
孫たちとの時間を増やして孫とのつきあいをしようと思った  
宝鏡寺で50年応募展があり そこに応募 受賞した   
止めようと思った矢先に昭和をテーマにした人形を3年間だ100体を作ってほしいとの要請があった
100体は今までのペースで有れば10年間分に相当するので迷ったが引きうける事にする  
私に取って底辺を流れるテーマ(絆、和み・・・)であったように思う
不思議とプレッシャーは感じる事が無くイメージが次々に湧いて来て形になった
最近悲惨な事件が多くあり(子の虐待、子殺し、親殺し、理由なき殺人・・・) この社会情勢は何だろうと思った時に昭和の時代にヒントがあるのではないだろうかと思った 
   
谷川俊太郎さんが展示会場に来てくれて詩を捧げてくれた
絆  
「一人を一人に結び 一人を一人にからませ 時に一人と一人を縛る 
見えない運命の糸 人から人へ めぐり続けるエネルギー 愛し合うものを絆は結ぶ
憎み合う者を絆は結ぶ  見知らぬ者同士すら絆は結ぶ 一人では生きていけない 
私達の命綱」
奇縁 
「同じ土地に生まれ育ったと知るだけで 初対面でも微笑みが浮かぶ 
山と川と街並みと向こう三軒両隣と ささやかだがしなやかな絆で結ばれて、
人は緩やかに日が映えと溶け合っている」
 
大震災が起こり 絆をいわれる様になった  大変な思いをしている被災者が沢山いる 
価値観が少し変わってきたのかなと思う
忘れかけていたことを思い出させてくれた 
少しでもポッと心に灯ってくれるように人形を作って行きたい

2012年3月18日日曜日

小田晋作(丹波新聞社会長)     ・故郷新聞88年

 小田晋作(丹波新聞社会長)       故郷新聞88年  
1944年生まれ 日本経済新聞社に就職 33年間務めて新聞社を辞めて、祖父、父が経営していた丹波新聞社の社長を継ぐ
丹波新聞社は京都府と兵庫県にまたがる昔の丹波の国の兵庫県側の狭い範囲の地方紙です
府県単位の地方新聞社は多くありますが、丹波新聞の様に限られた地域で戦前より80年以上続く新聞は全国でも珍しいそうです
小田さんは帰郷して3年、5階建ての新社屋を建設、展示場、ホール、教室なども備え、丹波新聞は地域の文化の拠点でもあり、郷土出身者の拠り所にも成っています
丹波市、篠山市にまたがった領域 1万3000部 販売 1924年に「丹陽新聞」の名で政党地方支部の機関紙として創刊したが、3年で駄目になり、    祖父が買収して 立ち上げた 
  
日曜日と木曜日で月に8回から9回発刊 3代目が私で4代目が社員はえぬきの人が成っている  
長く続いた新聞の背景→祖父から丹波新聞は大事なので継ぐようにと可なり言われた 
祖父が喜んでくれた
祖父は全国から新聞を取り寄せて、購読していてそれを読むようにしていた
1966年日本経済新聞 入社 96年退社  社会部 地方部が多かった 
ローカルの経験が良い勉強になった
丹波新聞を読みなおした 平成8年9月から丹波新聞のかつての記事を連載で載せるようになった(昭和9年の9月の記事から)
母子家庭に対し援助が村で有り、それに対する令状記事(わらじ10足をお礼に収め子供が大きくなったら返却します)

エストニア 国と小学校と文通していてその辺の記事   
昭和11年 アメリカからの少女からの返信 自然の美しさをたたえてくれた手紙(民間の友好)  
子供が投稿する文芸欄がある
「40ぐらいの朝鮮人の労働者が大きなこおりを持って押されながらやってきた 
その前には40ぐらいの紳士風の男の人がいた 
行李はどうした為か、急に電車が動いたためか、紳士風の人の背中に突き当たった 紳士風の人の顔は真っ赤になっていた
このぼんくらめ 朝鮮人 終わりの一言 何とひどい言葉だろう 私は吃驚した・・・  
他国に日本人も行けばあんなに侮辱されるのだろうかと思った」
これは高等小学校の女子学生の作文であるが 電車の中の情景と思われるが 同情したと描かれているが当時としては今とは全然違う人権が尊重されていない
時代ですけれども、こういう感覚と言うのは非常に感動しましたね

掲載したものには全部名前を記載してあり、欲しい人がいれば全文コピーを差し上げますと、記事を出したら 下さいとの反響が多く寄せられた
当時の皇太子の誕生日、誕生時間に一番近い人には、記念品を差し上げますとの、企画をしたら 多くの応募があった
一番近かったのは1分違いで 12月23日午前6時39分に当時の皇太子はお生まれになった様で 1分違いの40分に生まれた方がいた
昭和15年ぐらになると戦死者の一覧で覆われるようになり気持ちが暗くなった
16年10月で言論統制の為に休刊になる  
最後は神戸新聞一社になる 軍部に多少協力していた為に小さな会社としては残ったのかもしれないが休刊を余儀なくされる
最近のトピックスは→基本方針 地域活性化 人口も減る 産業も無くなってきている 

公立病院の医師不足の問題 貝原病院 多い時で40人ぐらいの医師が居たが、18人に減ってきてしまった 
小児科 1人 2人になってしまい その医師もやめるかも知れないとの話もある 
一所懸命やっている実体を知らせなければならない 
感謝の気持ちを表わそうと(やってもらって当たり前みたいな姿勢は止めよう) 深夜で有れちょっとでも熱があれば病院に飛びこむが、そう言った利用の仕方は止めようと、掛り付けの病院を確保していきなり大きな病院には行かないような利用方法を考えようと  ちょっとしたことは家庭内で対処できるように、マニュアル本を用意して、自力で対応で来るようにしようと そう言った記事を掲載したところ 市民が非常に反響を呼んで 広がってゆき 医師の方も市民はこの様に理解してくれているのだと思うように成って 18人だった医師も30人ぐらいまでに増えてきている

当時の桝添厚生大臣も来てくれて 当時のマスコミにも取り上げて貰って丹波新聞も名が全国に広がりました   
知事、市長もけむたがれる記事も出したりしているが動いてくれたりしてくれている  
「ありがとう」 の言葉の浸透運動 
4月に宮城、福島(地方支局長を務めた時代に居た)行って来た 渡町 中学校が全壊  
フルマラソンに出る 鉄人 トライアスロン 39歳の時に出る 水泳が2.9km 自転車が105km マラソンが40km 鳥取県の米子 朝の8時スタート 250人 180人完走 
15時間ビリから3番目  高石智也7位に入っている  
現在足を痛めてしまいウオーキングから再開している 

地域が元気になってほしい 山と田んぼなのでこれを生かして 欲しい
肉の小売りをやっていたが、川上の牧場経営までやる様になった人がいる
300頭 ぐらいになっている グランプリ獲得
丹波カルチャーセンターをやっている 俳句の有名な人を沢山輩出している 細見 綾子 片山桃史 西山泊雲 西山小鼓子 野村泊月 田捨女
毎年5月に句会を開催 撰者 宇多 喜代子 坪内 稔典

2012年3月17日土曜日

窪島誠一郎(著作家70歳)      ・二人の父と二人の母と

窪島誠一郎(著作家70歳)         ・二人の父と二人の母と
長野県上田市にある小さな美術館 信濃デッサン館 と無言館を創設し、その館主を務める 信濃デッサン館は村山槐多(かいた)、関根正二松本竣介と言った若くして亡くなった画家たちの作品を展示している  
無言館は戦死した画学生たちが残した作品を展示する戦没画学生慰霊館です
窪島さんの実の父は作家の水上勉さん母は加瀬えきさん そして養父母は東京で靴修理業を営む窪島茂さん、はつさん夫妻でした
窪島さんが実の父母を探して再会したのが、35歳の年でした   
二人の父と二人の母はすでに世を去りました

水上勉は福井県の若狭の出身 沢山原発がある 30数年前の本で絶対安全と信じてはいけないと 過ちは必ず起こるのでと、非常に心配していた
父が亡くなってから8年ですかね  
絵筆を持って描くというものをもう一度描き直すというか、見つめ直すと言う事です
文章を書いている人達はその言葉によって、ペンの力によって、もう一度核を自分達の電気、文明を支えてくれている原発そのものをもう一度見直す
そんな親子共同のメッセージを作りたいなと言う事を思いまして、水上先生もそんな事を話していたこともあるんですよ

北海道の泊原発という現在稼働中なんですけれども、その近く岩内に窪島誠一郎、水上勉連名で 「核を絵筆で塗りつぶせ ペンで書き改めよ  水上勉 窪島誠一郎」という石碑を建てようと思っています 現在計画中  
妻(典子)は岩内に子供の頃暮らしていた 綺麗な海に潜って、アワビなどを獲っていましたけれども、今では遊泳禁止になって、恵みの海では無くなってしまった
「飢餓海峡」 昭和29年洞爺丸が遭難、岩内に大火が起きて それを結びつけた作品 
昭和22年 昭和直後の混乱期の物語 人間の生きる切迫感が表れている
水上は9歳で京都のお寺の小僧に出て、13歳で脱走する 修行がつらかったと
   
水上氏の目の奥に有ったのは、宗教界、仏教界の真理を問うていながら、人間が真理の通りには生きていないと言う事をずーっと幼い目で見てたんですね
それが「がんの寺」という作品に表れている
育ての親の窪島茂さんは水上さんより18歳年上で1923年(22歳) 関東大震災に合い関西にゆく事になる  (九死に一生を得て)
浪曲家の一座に雇われ大工仕事をする 其の時にはつさんと出合う  
靴の修理屋として生計を立てるが、どうも本当の父母ではないと思うようになる

独自に調査を始める 父は浪曲を唸っていたがはつの(日吉川秋水の血を引いている)ほうが圧倒的に巧かったと言っていた
私に浪曲家になる様に父は進めていた(血筋が良いからと 実は血は繋がっていなかったのに) 水上夫婦との間に東中野で生まれて(昭和16年)貧しくて、ある明治大学の学生を通して子供のいない窪島夫婦に預けられた  
昭和19年から1年間石巻に疎開する 石巻の原風景は子供心に覚えている  
帰ってきたら一面の焼け野原だった

「凌」 という名前は 武者小路実篤から名を授かるが 預かり先で名前を変
あっちに女を作りこっちに女を作り大変な放蕩の時代だった
加瀬えきと言う社会主義団体の事務所に勤める聡明な女性と知り合って 転がり込んで同棲する  その後離婚する
私が窪島に手渡されたのも戦争と言う時代が有ったからでしょうね
石巻の瓦礫を見て、戦争での焼け野原とそっくりだった 
なにもかも無くなったんだなあと言う気持ち
大震災の後に自粛するムードがあったが、その時に美術館を開いていて不謹慎じゃないか、いいのかとの思いがあったが、戦時中に非国民と言われた画学生の書いた絵を守ってゆくのが我々の仕事だと思った  
其れを今の時代に伝えてゆくと言う事が我々の仕事であるならば、例えお客さんがゼロ、一人、二人の日があってもこの不謹慎の仕事を続けてゆくべきだと
これが我々の結論だったんです  大震災の数日後に有る婦人が無言館にやってきて がらんとした無言館をご覧になっていて 感想文ノートを書く場所があるんですね
[TVを見て 津波のニュースが流れるたびに 辛い思いをしていました 
何となく逃れたくなって無言館にやってきました 志半ばで戦地に行って亡くなった画学生さん の絵を見て何かこう逆に励まされる様になったんです
  
夢を果たすことなく戦争で亡くなった画学生さんの絵に励まされるなんて、とても不思議な事ですけれど」 という感想文があった  嬉しかった   
どういう風に受け取って貰えるか 判りませんけれども その「不思議さ」に賭けて見たい
3/10から4/15まで入場無料で石巻市で無言館の展示が行われる   
戦争さえなければ、水上親子として普通に生活していたであろう 又画学生も戦争さえなければ普通に絵を描いて過ごしたことであろうと思います
立派な、立派な絵描きさんになった人も居たであろうにと思うんですよ

マイナス面ばっかり考えるんですよ でもマイナスの人間を作ってゆくと言うのかなあ  
だったからこそ私は窪島茂、はつというあんなやさしい両親にも会えたわけ ですから その「逆に画学生さんに励まされました」と言う その夫人の言葉、それが私に活を入れてくれたと思います  
私の仕事も少しは何かの力になるかな という思いがしてきて 彼らが命を賭して作った国ですから この日本と言う国はこんなことでくじけては行かんぞと、かれらの残した絵を通じて、私達は励まされたいですね  
絵が好きだったが、果たせなく 好きな絵描きをせめて展示したいと思い、33年前に信濃デッサン館を作って 分館として隣接地に無言館を作った

最初はきっかけを作ってくれた野見山暁治(ぎょうじ)さんという絵描きさんと無言館は半年続くだろうかと 無名の画学生だから15年経って、おまけに第二展示館までできたし 残念なのは関係者の方々がどんどん亡くなってゆく  
無言館に提示されている作品群が若い人達に語りかけているものは→一口に言えば命 人間が与えられた命というものが どういうものなのか
私達は美味しいものを食べて、旅行に行って楽しい時間を送ると言うのが 命の喜びと言う風に思いがちなのですが、はたして命と言うものはその事だけにあっていいものだろうかと思うわけです  
あの当時 画学生さんたちは極限の状況で、速い人はあす戦地に行きなさい 残された時間をなにをするかですね 彼らは迷わず絵筆を取ったんですね
極身近な世話になった両親 可愛がった妹等を描いて、戦地に立った
命と言うのは、この年になってきざったらしいかもしれないが、何を愛したかで決まるんじゃないんですかね
戦争と言う不条理だけは絶対に有ってはいけない 
この平和な時代であっても 与えられた自分の命と言うものを、何に使いきるか 
若い子たちがボランティアで沢山 大震災で行ってますよね 被災地に行って 救われているのは被災者ではなくて行く場所の切符を求める事の出来た人達
生き先のどこの切符を求めたらいいのか判らない人達が世の中に沢山いるのではないでしょうか 
人の不幸を自分の手立てといっちゃあいけないですけど、ボランティアの人達の目の輝き 一生懸命打ちこむあの姿 
画学生が絵に打ち込む顔、姿がボランティアの皆さんの顔に重なるんですね
生れてはじめて家族の事を考えましたとの感想等を貰った
水上は若狭に群立する15基の原発銀座と呼んでましたけれども、本当にそれをうれいていました  うれいていたその子供、私は高校卒業して、電気つけっぱなし、ネオン看板ぴかぴか どこからその電源がやってくるかなんかを全く考えなかったですね
 
ただただ その光の中で 私の水商売は東京オリンピックの時に金稼ぎをして 何とか今の生活の基盤を作った男なんですけれども
あの頃の自分を振り返ると、無自覚、無智、 もう少し何か考えても良かったのではないか 
水上さんの本を読めば良かった 子供として恥ずかしいですよ
水上は福島の原発事故を知らないで亡くなりましたが、危ないよ 人間が過ちを起こさない事が無いんだからと あの叫んでいた言葉を子供として二人のコーラスにして残したいと今は考えているんですね  

信濃デッサン館(創立33年)は私の好きな絵描きの作品を展示しているのですが 立原道造という画家のコーナーを設けている
堀辰雄 津村信夫 と言った人達との交流した 東京大学の建築家としての側面を持っている 
24歳で結核で他界している  画家で詩人    その作品を預けてくれた  
「夢は何時も帰って行った 山の麓の寂しい村に 水引き草に風が立ち 草雲雀のうたい やまない 静まり返った昼下がりの林道を」

時代と言うものは決して人間だけを生かしているのではなくて、その人間が生み出した、例えば絵であり或は言葉であり音楽であり そういった文化も全て時代抜きには考えられないですよね 
これは自分の作った美術館ですから、自分の意志で作っているのですけれども、私の意志は時代が作っている意志の様な気がしますね   
突き動かしていると言うか

2012年3月15日木曜日

田中一夫(写真家62歳)      ・歌垣が生きる中国の村を見つめて


田中一夫(写真家62歳) ・(歌垣)うたがきが生きる中国の村を見つめて
男女が集って歌を歌いながら踊り結びあう相手を選びあうという行事で、古代には日本でも行われていたと言われます。
39歳の時にフリーになる 民俗学者の指導を受けながら、うたがきの風俗を守り続けている中国の村々を訪れ昔ながらの暮らしを写真と音で記録するように成りました  
 1989年(平成元年)からその様な仕事を始める 天安門事件の直後の事    
歌と共に生きるみゃお族と呼ばれる暮らしを見つめ、民俗文化の貴重な記録となる温かく、詩情に満ちた写真を撮り続けてきました
村は中国のほぼ真ん中の山間 標高が500mぐらいの場所 20数年掛って撮り続けている  みゃお(苗)族 

暮らしは農業が主体 山間部なので小さな棚田を山の上の方まで作って暮らしている
文字を持たないでこれまで生活してきた(約150年前まで)  
歌が彼らの人生若い男女が恋を語る為に歌を歌う 
それが歌垣のメインの部分ではないかと思う  
みやお族の歌を是非聞いてみたいと思って、最初入って行った
とび(飛)歌 100m~150mぐらい離れた丘で、若い男女のグループが歌い合う
「結婚している男の人は私達に近寄ってくれない 

だから未婚の男の人達は私達と一緒に山に登って歌を歌いましょう」
「歌を歌うのもいましかないんだよ  
だから一緒に歌って素晴らしい人生を過ごしましょう」 その様な意味合いを歌っている
男も裏声で歌っている   古歌も歌うがアドリブでも歌う  最初 大勢で歌い合う  
反時計回りに踊りながら廻る
2日目は恋人同士になりましょうねと言うところまで ここでは1対1の2人同士の歌い合いになる
3日目は最終的な結婚 を決める 人垣に親が現れ、娘の彼氏はどういう人か、或は息子の彼女はどういう人か、 遠いところから見守っているという
一番メインの歌垣 
収入も安定している商業写真家から方向転換した理由は→1988年前はバブル真っ盛りと言う時代だった  コマーシャル写真家として10年ぐらいやっていた(39歳)
めちゃめちゃ仕事が忙しかった  その時になにか心の中に空洞を感じた 
自分ではよく判らなかった  なんか足りないなと言う思いがあった

そんなときに上智大学 名誉教授 故鳥居龍蔵氏 1902年から1903年にかけての中国の調査報告の本をたまたま見かけた  そこでみゃお族を知った
「東南アジア山地民族誌―ヤオとその隣接諸種族」
写真家として何か残したいという思いがあって、それ目標が見付かったと言う事です  
会社を辞める 妻からは金は貴方が貯めたものだから使ったらと言われた
1989年天安門事件 直後に行った 
しかし普段の生活は見られず、これでは駄目だと思い、一人で行くしかないと思った

最初は大変だった 「ニーハオ」「シェーシェ」ぐらいしか知らず1989年の夏に行った 
3人の老人に出会い、写真を撮りに来たと言ったら、すぐに立ち去りなさいと言われた  
若い人が来て、私の家であれば構わないと助け船を出してくれた
写真を撮らせてくれと言うが、巧く伝わらない 民族衣装を着てきて棒立ちになってしまう 
自然のままの姿を撮りたいんだと理解してもらうまでには時間がかかった
子供達と遊んだり、畑仕事を手伝いながら段々と溶け込んで入って行った  
ビザのぎりぎりまで撮影する 3か月~4カ月

3回目でようやく慣れてきてくれた 最初 うたがきがテーマだったが、いろんなことが判って来る人の温かさ 他人に思いやる心を直に肌で感じて撮影のスタンスが変わって行った  
普段の何気ない生活、結婚式、葬式 の撮影もさしてもらった
思い出の深い家族→パン・シンシェンさん ろしょう(足笛)の名人 ろしょうはみゃお族の男の大事なもの  女性は歌がうまいこと、刺繍がうまい事(民族衣装)が大事
男女共に働きものでなければならないのが大事な条件となる
お土産に月餅を10個 泊った家に持ってゆき4歳の子供に渡したところ 9個は近所、来ていた友達に渡す 残った1個を1/4にして両親に1/4、1/4  
残りを1/3にして兄さん、姉さんに 残ったのを自分が舐めるように食べる 
4歳の子がどうしてこのようなことをのだろうかと感動した

「歌とともに生きる」写真集を出版している  
みゃお族の人間性の豊かさ 心の豊かさ 殆ど自給自足の生活をしている人達なのに、これほどまでに人に心をくだく民族なんてすばらしいなと思いました
段々と村人の生活の中で私に見せてくれたこと、それは人と人との繋がり、絆  村の中の家族が全部が家族 自分の家の家族が家族ではない 
皆が村人との一人一人の事を思っている  私の様によそ者が来ても、受け入れてくれるそれがみゃお族の凛とした生き方 優しさと同時に背筋をピンとはった
誇りを持った民族 それが力強く生きていると言う事が私に取って本当に感動を覚える事なんですね
だから普段の生活が普通に出来ればいいんだ 笑顔でご飯が食べられれば、それでいいんじゃないか心豊かにご飯が食べられれば、何にもなくてもそれが最高の贅沢なんじゃないんですかね  
彼らから貰うメッセージと言うのは、当たり前のことは当たり前の生活をすることが幸せなんじゃないか そうやって私に教えているのかなと思います
自分でお金を作って、自分で取材に行く それが自分でやりたいようにできると思ってましたから、確かに妻は苦労したし、大変だったと思います
感謝しています

写真集のあとがき 「僅か20年ほどの間に 急速な近代化がみゃお族の暮らしを大きく変えた  村ごとに違った髪形、髷 民族衣装が消えてゆく
今は年配の人達が辛うじて 維持している うたがきも祭りのとき以外ほとんど見られなくなってきた  
この写真集は私の意図とは別に失われゆく民族文化の記録になってしまったようである」  
日本も昭和初期まで着物文化だった それが知らないうちに今は洋服文化になっている  
それは便利だからですよね
みゃお族の人に民族衣装を着たまま、新しいものを受け入れちゃいけないなんて、誰も言えないですよね
彼らの場合には携帯電話が先に入ってきた (2002年に行った時)  
急速に変化するなと思った
スパッと変わった村から民族文化を維持しながら、新しいものと融合しながら変化してゆくそういう村もある
願わくば民族文化を維持しながら、新しいものを取り入れてくれたら、私としては嬉しいのですが 彼らから見ると難しい事だと思います
この本を届けたい 4歳だった子が現在27歳になっている  (コックとして)  その子と話したい  近代化してゆく姿も記録しなくてはいけないのかなあと思ってます

2012年3月14日水曜日

早乙女勝元(作家79歳)     ・東京大空襲の惨禍を伝え続けて


早乙女勝元(作家79歳)      東京大空襲の惨禍を伝え続けて
早乙女 勝元(さおとめ かつもと、1932年3月26日 - )は、日本の作家・児童文学作家。
東京都足立区出身
1945年3月10日 アメリカによる東京大空襲に遭いました (12歳) 
10万人の犠牲者を出した体験を生涯のテーマとして作家としての活動を続けてきました
又東京大空襲・戦災資料センター館長として、被災体験の伝承にも当ってきました 
東京大空襲から作家への道のり 岐路に立っている伝承活動について伺います
今で云う墨田区東向島  当時は寺島町 鉄工所に駆り出されていた 
空襲は連日 B29 3月9日に警戒警報があったが寝ていた

父に怒鳴られて起きた時には10日の昼と思われる程、周りが明るい  
外を観ると回り中が真っ赤 明らかに逃げ遅れた感じだった
リアカーに家具を載せて、父に従い押して行った 
周りも逃げてゆく最中で、火のこが物凄く、火のこをかき分けて行った感じ
物凄い北風の日だった 地上が乱気流状態だった 
逃げている人達が持っている鍋釜 バケツ 手を繋いでいる子供があっという間に風に吹きとばされていくという状況下です  
私達はどちらに逃げていいか判らずにいたのですが、南だ、南だ、と言う声があり 曳舟川を乗り越え、川を観たら、ひのこが山のように映っている

レールを越えて行こうとしたら、バウンドして釜が落ちてしまった 蓋を追いかけた 
その前の人が「落ちてくる」と叫んだ 
収束弾 (焼夷弾が38発集まっていて地上に落ちるとパカッとわれて38発が分散する大形焼夷弾)の一部が私の肩をかすめて電柱にぶすりと突き刺さった
電柱がマッチ棒のように火を吹き始める  
前を行く人が火だるまになって駒の様に廻っている 
父に従ってゆく 枕木も燃える 水を求めて墨田川に行く 5時30分ぐらいの時だった

住んでいた町はもうのっぺらぼうになってしまった 
浅草の松屋デパートだけが残っていたが 火を吹き始めていた
観た光景は一夜にして無くなり、町はのっぺらぼうになってしまい、一瞬にして町が無くなってしまいました
家族は何とか生きのびる事ができた
従来の空襲と違うのが、真夜中にやってきた 300機程の大編隊出来た 超低空出来た 
8000m~10000mで飛んで来ていたのが2000m 目標に対して正確
圧倒的な焼夷弾攻撃 ナパーム性の油脂焼夷弾 M69 わざわざ日本の木造家屋の為にアメリカは最も有効な焼夷弾を開発して、1機当たり6トンぐらい積んできた
総計1700トンが2時間の間に隅田川を中心に降り注いだ 明らかに無差別爆撃
爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れた

虚弱体質で内気だった 本を読むのが好きだった 遊んでくれる友達がいなかった 
朝鮮人の友達がいて、廃品回収で持ちこんだ本を読んだ
吉川英治 江戸川乱歩等が好きだった 
戦争が終わったが、学校は火事で無くなり 先生も友達もいつの間にかいなくなってしまって私だけが生き残ったような感じだった
彼らは何にも語るすべがないので、彼等に替わってと言う気持ちが少しあったかな、ものを書こうかなと思ったのは 最初は日記を書いていた
それから感想帖を書いていた 読んだ物の感想を書いていた 昭和25年に朝鮮戦争がある 
アメリカのB29が朝鮮半島に行くようになる

食うや食わずであったが、爆撃の下が気になって、何かできることはないかと考えたのですが、ありません
書く事ができると判って、自分の生い立ちを書く事にした 
原稿用紙300枚を目標に徹底的に書いてみようと思った
或る人に認められて、単行本になって書店に並ぶことができた   当時は大変なこと
ある作家が訪ねて来てくれた 浜本博  君の書いたものはすがすかしかった 面白かった 
頑張りなさいと言われる
それからは怖いもの知らずでじゃんじゃんと書いて、そこから後は恋愛小説を書きたいと思った  次々に映画化された
最初はノンフィクションでスタートしたがフィクションが面白くなり 自分の想像する世界を 自分の好きな女性を対象に自由に作品を書いていった

実は理想の人であった 20代だから書けた作品だった 
段々人間の真実味から離れて行くような感じがしてきた
これでは俗っぽい作品しか書けなくなってしまうのではないかなあと、今度は又ノンフィクションの作品を書こうと考えました
東京大空襲を記録する会を作ることを呼びかける 
組織的の東京大空襲を記録化して後の世に残そうと考えた
東京大空襲災史全5巻を作る  私としては人生の半分の仕事をしたと思った 
一般の人の体験を書ける記録 「東京大空襲」 一カ月で20万部売れて で吃驚した
2002年に東京大空襲を恒久に語り継いでゆく拠点を作りたいと思った  
民間募金で出来ないか 土地を無償提供してくれる人がいた

建物に1億円目標にスタートさせる 倍増して200人収容できる施設を目標にした 
東日本大地震が発生したため昨年は修学旅行の観覧者が例年の半分に落ちてしまった
後の人にバトンタッチしようかなと思っていたが、こんな状態なのでもうひと踏ん張りしないといけないと思っている
打開策 センターの存在をアピールしないといけない 
皆さまの前で披歴したいが、現状は原発問題
3年ちょっと前に音楽研究会にいったが、妻が不幸に遭遇してしまう 
虚血性心不全と監察医から言われる

出先の研究会の席で発作を起こす  病院へ駆けつけた時には霊安所であった
的確に継承できるのには二つある 自分が一番良く知っている事 戦中のただ事で無い貧困 教科書も買ってもらえない体たらく、 その後一夜にして10万人が、亡くなってしまうと言う東京大空襲、を生き残ったので  一番心に深く突き刺さっている事  この両面が重なれば、これは文章が多少拙くても、心を打つものになるのではないかと思う  
人間の真実が描けるのではないか

2012年3月13日火曜日

国村隼(俳優)           ・役者としての存在感 2

国村隼(俳優)         役者としての存在感 2  
「ブラックレイン」ハリウッド映画に出演 オーディションに受かる 嬉しかった 1988年11月5日に開始やくざの抗争 マイケル・ダグラス 高倉健 松田優作等と一緒に出演
勝手が違った 規模 全てしシステマイズされている 
控室もキャンピングカーみたいなものがそれぞれある スタッフも沢山いる
カメラも4台常に廻っていてどこから撮っているか役者は判らない 
平均7テークまで行っていた(悪くなくてもやる NG OK関係なくやる)
最後に良いところだけ編集するものと思う(4台カメラ×7テーク)  
慣れると余り苦に成らなくなった

自分のターニングポイントになった (これからは映像の世界でやろうと)  
松田優作から教えてもらったこと→リドリーの撮り方(監督) 
リドリーからお前イメージそれだけしか無いのかと言われている様な感じがすると思ったと言う 1テーク、1テーク 同じシチュエーションなのにも拘わらず、どうやって表現するかと言う事で もう辛いんだけど楽しいんだよ という話とか  
それを聞いたときに あーなるほどね 同じことを繰り返すことでも無いんだと思った  
リドリーから4テーク目に呼ばれ 4テーク撮ったけど全部同じ芝居をしてなかったか
と言われ、当然のことと思い「ハイ」と言ったら 別の君のナチュラルなところでやってみてと言われたそして1テークその様にやった見るとOKサインを出してくれた

松田優作としてはリドリーから7テーク 挑戦状をつけられて様な気がした (7テーク 別のイメージを出せないのかと言われている様な)
日本では同じようにしなくてはいけない  
アメリカではどう巧く編集しているか判らない 
「ガキ帝国」は制作費 1000万円   「ブラックレイン」は60億円だった  
両方とも2時間のエンターテイメント でも両方とも面白い この映像と言うものは面白いと思った
香港でも映画で延べ3年やった  
この仕事の面白い処は色んなところで色んな人と出合っている(御縁を頂く)
映画と舞台の違い まったく違う 
テクニカルな部分でまったく違う 
舞台は1回こっきりのお客さんとのコミュニケーション やってるこっちもどうなるか判らない  
映画と言うのは徹頭徹尾作りもの 舞台は人間がいると思うが 映画の場合は被写体だと割り切った方が良い
舞台はお客さんが観たいところにフォーカスを合わしてみれば良いが、映画の場合はお客さんにこの様に観て下さいよと撮り手が用意してしまう

舞台とはアナログ、ずーっと繋がっている 
映画とはデジタルかもしれない、ある瞬間にぷつぷと切れていてそれでいいと言う
俳優が映画に参加出来るのは役者の素材作りまで、処が舞台は徹頭徹尾お客さんとやり取りできる
長い台詞があるが→心理の流れを捕まえてないと駄目  
逆説的な言い方かもしれないけれど 覚えると忘れる
5ページを覚えるような所を 単に台詞だけじゃなくその時の状況を イメージを変えてゆく流れを腑に落とさないと絶対出てこない
稽古よりは舞台は怖いのですが、幕があいちゃった方が 楽しいと言えば楽しいかもしれない 
お客さんがいてくれた方が 同じ芝居をやっているのですが、本当にお客さんによって変わりますから、お客さんの反応もそうですが、なにかこう同じことを伝えようとしてても、お客さんの意識の塊のエネルギーみたいなものを頂いて、それが稽古場では発想もできなかった様なイメージのところに、ふっと乗っかって行くみたいな ですから稽古場ではでなかったようなものに乗っかちゃうと、それに対してお客さんが別の形の、エネルギーにして返してくれて 毎回お客さんによって違う空気ができるんですよ 
お客さんによって  不思議なもので、漠然としたものですが あの山に登ってみたいなあと思うことはあるが まだ漠然としている  
或る意味我々はメッセンジャーなんだよと松田優作が言ったが、映画が漠然とあっているなあとは思う 常に多くの人に見てもらいたいと思う

2012年3月12日月曜日

国村隼(俳優)          ・役者としての存在感

 国村隼(俳優)           役者としての存在感  
(くにむら じゅん、1955年11月16日 - )は、日本の俳優。大阪府出身(生まれは熊本県)
大河ドラマ「平清盛」で藤原忠実を演じています
昭和30年生まれ  個性的な脇役で活躍 
公家役は初めての役   暴力は直接的にはやらないけれど、策略家であったり、タフな、野蛮なイメージを持ってやりたいと思った
2人の子供も戦い会う 頼長を溺愛するが争いにはどちらにも加担しない
基本的に藤原摂関家 の頂点に立っていたのですが、白河上皇が実権を握っていたので 忠実は蟄居させられていたので、復権すべく動く
保元の乱が起きて、上皇方が負けて、後白河天皇が勝つと言う事で公家の時代から武者の時代にはいるという時代背景

TVドラマの作り方 は違うと思うのですが→ しかしずっと頭から最後まで続けるのでつくりかたは違う
台詞を覚えようして覚えたことはない 
台詞を覚えようとすると活字だとか字面に行ってしまうが、シーンの流れをイメージして自分の中に入れちゃうと、相手役と自分は今何を話をしなければいけないかという話の根っこみたいなものを 先ずぽんと頭の中に入れちゃうと 後は固有名詞は覚えるが以外は流れで話す  
大河ドラマは初めて 連続テレビ小説ドラマは 一杯ある   
2006年10月からのNHK朝の連続テレビ小説『芋たこなんきん』で主人公の夫、徳永健次郎(カモカのおっちゃん)を好演、ファンを増やす

1955年熊本県生まれ すぐに大阪に移り住む
役者には何と無くなってしまった 機械工学を勉強していてエンジニアになる予定だった 
学校へ行けなくなって暇を持て余していたら 友人が演劇部に居た人で、こういう募集があると一緒に行こうと誘ってくれて、行ったら受かってしまった  それがきっかけ  20歳ちょっと前  
舞台を1から教えてもらい、これも面白いなと思った  
機械を作るものと、劇を作るものは似ていると思った
俳優とは一体どういう機能を果たせば役割を果たせるのか と言う風な見方を如何してもしてしまう 
被写体としての自分のビジュアルな部分の作り込みであったり、台詞を自分の中でどういう風に消化するであったり、何より自分が表現すべきキャラクターの、人物造形のイメージをどう風にするかと言うのは 個人の作業として有るんですけれども 、結局一本の作品の中では歯車の一つである事には変わりがない  
メカニカルに考えてしまう

新劇系の芝居を最初していた 
舞台を楽しくやっていたが、それでいいのかと思うようになり、これをやっていてお金がもらえればいいなと思いだしたのが30歳ちょっと
その頃からプロとはを考えて、映像に興味を抱く、 性に合っていた様に思う
映像にシフトする 
1981年、『ガキ帝国』(井筒和幸監督)で映画デビュー  ハリウッド映画に出る 2本目であった  大阪でハリウッドの映画を撮る 

2012年3月11日日曜日

山折哲男(宗教学者)       ・自然災害と日本人

山折哲男(宗教学者) ・自然災害と日本人
中学、高校は花巻に住んでいた  実家の近くに宮澤賢治の家が近くにある
子供の頃から宮沢賢治の作品、人生からおおくを学んできました 
歳を重ねるに従って、宮澤賢治の世界も変わってきました
3/11以前の宮澤賢治では考えなかった宮澤賢治のある側面 宮澤賢治の作品のある重要な特徴
にふっと気が付きました
それは宮澤賢治が生まれた年があの明治の三陸津波が発生した時でした 
そして亡くなった年、昭和8年が今度は昭和の三陸津波が発生した年でした。

賢治と言う人は大災害の年に生まれ、大震災の年に亡くなったんだと改めて判りました 
賢治の生きた時代 東北は疲弊していました 
干ばつ、冷害、飢饉、そういう東北の疲弊した状況を背景に あの宮澤賢治の文学世界、そして彼の
特異な生きかたというものが生み出されたのだなあと、今度の災害がしたたかに私に教えてくれました
4月の16,17,18日仙台、石巻、三陸海岸、気仙沼に行きました 瓦礫の山でした  
破壊の爪痕がいたるところに展開していました
その光景を眼前にして殆ど声を出す事ができませんでした  これは地獄だと思いました
その3日間晴れていて、海が凪いでいて 遠くの方に美しい島々が見えました 
私は其の時に自然が持っている二つの相いれない矛盾する姿に直面
したような気持ちになりました
  
恐ろしい破壊力を持っている自然、なによりも美しいなによりも替えがたい優しい自然の姿です
現地の人は絶望的とも言うべき状況の中で苦しんで、悲しんでおられる  
しかしそういう方々の心の平安が回復されるためには、この美しい自然の姿
この柔らかな優しい自然の輝きが必要になるのかもしれない そう思いました
この日本列島に住む人々はこの恐ろしい自然の破壊力と、何物にも代えがたい美しい自然と 
その2つの特徴を持つ自然とずーっと付き合い続けてきたんだ
時に破壊的な暴力に襲われ、そして敗れ、挫折し、苦しみと悲しみに見舞われ、しかし、
したたかに生き抜いてきた そういう先人たちの人生が
歴史がふっと浮かびあがってきたんです

今回が初めてではない 自然の2面性と付き合い続けてきて、我々は多くの知恵と生きるための
工夫を積み重ねてきたのではないだろうか
それがおそらくこれからの我々の生きてゆくうえでの励ましになり、希望になるのかも知れない
遺族の方々が遺体を前にして茫然と涙している姿を観て私も涙しました 
そしてふっと 万葉集の或る短歌を思いだしました
「海ゆかば、みずくかばね 山ゆかば 草むすかばね  ・・・」  海には無数の屍がなげだされ
 山に行けば草のしたに 無数の屍が矢張り投げ出されている・・・
そういう光景を歌った歌です  大伴家持の歌
第二次世界大戦のときに学校で謳わされた 戦後禁じられた歌だった  のぶとき清 作曲 
歌にはかばねという言葉しか出てきません 

しかし 当時 万葉時代の日本人は死者を悼み、
その魂を鎮めるために歌を作り この「海ゆかば・・」という歌も
そういう考えに基づいて歌を作られたんだろうと思います
大伴家持は戦争の為に、若者たちがこの国土を守るために死んでいった無数の屍を鎮魂するため
にこの歌を作った
かばねと言う言葉しか使っておりませんけれども、本意はその歌で謳おうとした事柄は死者の魂が
その屍から遊離して、自然に鎮まる
美しい海のかなたに鎮まっている 山や森の中に魂が鎮まってゆく  
そういう思いを込めてこの歌を作ったんだと思いますね
挽歌が沢山謳われている  現代の日本人に取って死んだ方々の魂がこの自然の山野に鎮まる 
大海原のかなたに鎮まると言う事を
万葉人と同じように信ずることができるか 
 
魂の行方に対する想像力をいまだに持ち続けていられるかどうか、眼前に突き付けられた様な気がした
これは被災地の方々だけの問題ではないのかもしれない  現代の日本人の問題かもしれない
今度の災害で自分の肉親が波に襲われ そして自分一人が生き残る 
その不条理をどのような言葉で説明したらいいのか
万葉人は歌を作って鎮魂するという信仰の中で生きてきました  
その信仰が限りなく希薄になっているのが、近代かもしれない
今度の災害で人々の絆の問題が大きくクローズアップされました  
再確認されるような意味も持っていたのですけれども
しかしこれまで人と人の繋がり 人と人との絆と言う事だけに関心を集中させてきたのではないか 
そういう反省が私にはありました

それも大事ではあるけれども、もう一つ重要な問題が 亡くなった方と、生き残った我々との間の絆 
これがまだ回復されていないのかもしれない
そういう不安感であります   今度の災害を通して日本全体として或は日本近代社会全体の
問題として改めて考えて行かなくてはいけない問題だと思います
被災地における穏やかな被災者の表情と言うのは、阪神淡路大震災の時も同じでした  
中越地震の時も表情が穏やかでした
アメリカのハリケーンで被災した人達は怒りと悲しみと苦しみを全面的に表出して、泣き叫んでいる 
日本の被災者の穏やかな表情はどうしてなのだろうかと、疑問を持つようになった 
その背後には日本人固有の世界観 自然観 そしておそらく信仰というようなものが、
深くかかわっているだろう と段々思うようになった

寺田虎彦氏の書物 地震学の世界に入って行った人  
夏目漱石の愛弟子 素晴らしいエッセーを書く人 
昭和10年 関東大震災のあとを書きとめた 日本人の自然観 関心を持った二つがある
一つは 日本列島の自然と西ヨーロッパの自然を比較している処が有る 西ヨーロッパと言っている
地域はイギリスとフランスです
自然が本当に安定している なぜならば地震が無いからだと言っている  
従って自然を客観的に観察し、データを取り 分析をし、自然を活用し 利用し 自然を克服することができる
自然が安定しているがゆえに、自然に対して或る意味では攻撃的にふるまう事ができた 
 その中から自然科学が誕生したんだと
それに比べて 日本列島は太古の昔から地震列島である
 
非常に自然が不安定 その不安定な自然と何千年となくん万年とずーっと付き合ってきたのが
日本列島に住む人々なんだと 色んな災害に出会う 
その経験を通してそこから我々の生活を如何に守るか との知恵と工夫をずーっと積み重ねてきた
自然とともに生き、自然の脅威に身を添わせながら、自分達の生活を防衛してきた 
そういう知恵と工夫を積み重ねた結果 日本列島の学問が生み出された
日本列島に科学というものが やがて近代に成って 作られる様になった  こう言っています
今度の災害で福島の原発事故があった 日本列島に54基の原発が作られていた 事を知らされた 
同時にあのフランスで57基の原発が作られる
地震の無いフランスで57基  毎日のように地震が発生する日本で54基  
寺田虎彦の様な地震学者が今日おいでになっていたとしたら そういう選択は認めなかったんだろうと
私は思います

昭和10年に書かれたこの記録は極めて重要になるだろう と私は思っています
もう一つ 不安定な自然と太古の昔からずーっと付き合ってきた結果、この日本列島に住む人々は
 誠に自然な形で心の内に天然の無常という感覚、
考え方を育ててきたんだと言っている
「無常」とは仏教の言葉だと思っていました  仏教では この地上に永遠なるものは一つも無い 
形あるものは必ず壊れる 人は生きて必ず死ぬ
寺田寅彦はそのことを十分承知の上で 仏教で使っている「無常」という考え方は 仏教の伝えら
れるはるか以前からこの日本列島にはずーっと育くまれて
きた感覚なんだと 感情なんだと いったわけです
   
太古の昔から天然の無常と言うものが日本人の心の内に育てられてきたんだと
それは日本人の五臓六腑に浸み込んでいると 言っていますね
首から上の頭の中で考えたのではないんだと さっと気が付いたらその様に行動している 
それは何千年と地震列島が被らなければならなかった、様々な災害との付き合いの中から
生み出された、そういう感覚である
地震と言う自然災害と言うのは その内部に宗教的な契機を含んでいる 
そういう災害だと思う様になった
偶然性と不条理が自然の脅威と言う長い間付き合ってきた、この日本列島に住む人々が宗教的
でないなどとは、とても言えない

日本人の宗教心と言うのは この地震と言う自然災害によって、作られ、磨かれ、生活の隅々に
それが及んでいる と考えるべきだと思いますね
被災地の方々が穏やかな表情を佐されている、その背後に寺田寅彦いう無常感というものが
五臓六腑に浸み込んだ考え方が
ああいう 生き方、態度を生み出しているのではないのだろうか そう思うようになりました
よく日本人は無宗教と人が言って来たのですが そんなことは絶対あり得ないと言う事を、
今度の災害は我々に教えてくれたのではないだろうか
そこがまさに我々が生きてゆく為の希望になるかもしれない 
日本の可能性になるかも知れない  そう思うわけであります
日本列島の不安定さにもう一つ 台風があるかと思います

和辻哲郎という哲学者が「風土」と言う書物を書いて台風と言う災害から日本は多くのものを学び、
どうして我々の社会は防衛して行ったらいいのか
日本人の国民性とは一体何か そういう問題意識に基づいて、和辻は思索を深め、書物を書いた
と言う事を思い出しました
彼が着目したのは台風なんですね 世界を3つの文化圏に分けて ヨーロッパ等の牧場文化圏  
中近東の沙漠的文化圏   モンスーン高温多湿文化圏  
日本は北海道の寒帯から沖縄の温帯 熱帯的まで全部含んでいるんですね  
時に大雨を降らしたり、時に大雪を降らしたり 台風が毎年いくつも
季節的、突発的に来る  日本の風土に対応する様な性格 しめやかな激情
(つつましやかな 表に出る事を良しとしない 余り自己主張しない控えめな生きかた)  
 そういうものを良しと知る倫理観  しかし心の中は激情を持っている
  
我慢に我慢を重ねて気持ちが激してくる
淡々とした生きかたを良しとする  奥ゆかしい   ただし いざ 行動を起こす時には戦闘的 
 いざ戦う時には命を掛けて戦う 
いろいろな歴史の中でそう言った戦闘性を裏付けている 特に戦前の日本はあったかもしれない
台風がもたらす風土的な影響によって日本人の精神性というものが色んな形で方向付けられてゆく  
台風に対処する努力と工夫の中で日本人は独特の倫理観と言いますか 
人と人との関係性と言うものを二重、三重に考え続け、作り続けてきた 
台風が地震と違うところは 地震は予知することができませんけれども 台風は或る程度予知する
ことが出来る

方向性と季節性を台風は持っているから  南から来る 夏から秋にかけて来る
或る程度予測できるから人と人とのつながり ネットワークを作る事ができる  
人と人とのネットワークの中心になるのが家族 親子、兄弟、隣人との関係
その輪がどんどん広がってゆく  それが日本人の道徳 倫理、人間関係 の基礎を作り上げたと
 言っているわけですね
台風の災害の特色は 人間に倫理的な生きかたを教え、それを生活防衛の道具と言ったらいい
のか、工夫、知恵と言ったらいいのか
そういうものとして和辻さんは自然現象を考えてた  
ここまで考えると日本人が道徳的でないとは到底いえない

地震と台風に鍛えられ戦い続けてきた日本人が宗教的ではないとは、とても言えない  
倫理的ではないとは、とても言えない
そういう事まで今度の災害は教えてくれたのではないかと 思う
賢治 「グスコーブドリの伝記 自伝的伝記 農民を救うためには火山を爆発させなければならない 
スイッチを押すためには死ななければならない
東北3県には多くの瓦礫があるが、受け入れてくれない
 倫理観 宗教観を前提にすればじぶんも引きうけよう 
分け持とうという動きがもう少し出てきて良いと思う
いずれそうなることを信じている