2013年3月26日火曜日

高橋敏夫(牧師・表千家)     ・出会いと別れ高山右近に学ぶこと


高橋敏夫(牧師・表千家) 出会いと別れ高山右近に学ぶこと
神学校で学び悩み、考えたのは自分の目標とする日本人のキリスト教徒は誰か ということ 
千利休の弟子で戦国時代を生き抜いたキリシタン大名高山右近でした
高橋さんは高山右近の生誕の地からキリシタン禁止令で国外追放処分となってたどり着いた、フィリピンのマニラまでその足跡をお尋ね、40年以上かけて
彼の生き方を研究してきました 
そこから見えてきたのは、厳しいキリシタン追放令や禁止令の中で自分を曲げずに、生き抜いた高山右近の信念と人間的な魅力だったといわれます  
その右近に大きな影響を与えたのは千利休との出会いと彼に学んだ茶の湯の思想があったのではないかと考えています 
高橋さんの教会には大種庵という茶室があります 
高橋さんは牧師であり茶の湯の教授なのです
 
はじめは全く関心の薄い人だった 教会に仕える立場になって、最初はドイツだった  
教会のイメージとドイツの教会のイメージは全く違った
ヨーロッパ神学を一番多感なころに学んだので、日本の心を知らずの日本人になっていた
高山右近の存在は遠い存在だった  
どやされるように おれは日本人だと知らされた 
なんで日本人はこんなにもキリスト嫌いなのか
人口の1%にもなっていない  (キリスト教人口は) 
日本の教会はどこかの国のただのコピーじゃないかと思ったが、そこに高山右近があった
日本の歴史の中で生き生きと同じ信仰を表現した人は誰か 
 内村鑑三も調べたのですが、ちょっと違っていた
米国の宣教師の方が開いてくださった聖書研究会があった
その主催するキャンプに行った

一人のクリスチャンの高校性がハミングしながら便所をきれいにする人がいて
それを見て、このまま僕は生きていったら相当その人との人生の差を付けられると思った
思わず神様に本当に神様がいるのであれば、僕を便所掃除の出来るような人間にしてくださいませんかと    思い、祈った  
便所掃除のできる人間はすごいと思った
その後聖書の勉強等をするようになった ドイツ、フランス、イギリスなどで学んだ 

マニラには高山右近の銅像がある
金沢に追放された後は教会のために、教会を作りそしてキリスト教の理想の姿を実践しようとして頑張っていた人で、しかも利休の極上の人といわれて、7人高弟の第一人者です  
高山右近の手紙の内容 はぼうき 茶の世界で羽でできたほうき(清めの道具として大切な
道具) 一服差し上げる

お茶を一服差し上げる 一服は4時間半かかる茶の湯のフルコース そのもてなしの手紙
その内容がわからなくて、表千家の門をたたくことになる
武将であってなおかつキリシタン大名 人生を生き抜いた
高山右近は摂津の国 高山で生まれた  秀吉につかえる 21歳で高槻城主になる
1587年 豊臣秀吉のキリシタン追放令で大名だったのが明石城領地没収にあっても生き抜いている
師匠の千利休が秀吉の使いで宗教を捨てなさいと
大友宗麟が病をして、大阪城に来て島津に悩まされているから、島津成敗をしてくれないかと直訴する

大大名の大友宗麟が秀吉のところに来たということで、彼は黄金の茶室で彼をもてなす
大友宗麟は家来に書き残している  
彼は大友宗麟を助け日本を制覇するにはどうしても九州を制覇したいと思う
全軍を九州に送る高山右近も行っている 平定後 彼は箱崎に陣営を構えている 
そこで突如バテレン追放令が出て、その原文が松浦藩のところに残されている  
右近はバテレン追放令により全部失う  3回使者がつかわされる
秀吉の直属の部下 千利休を次に送る 武士は二君に仕えずといって、神につかえる
もう一回来るが、命を捉えると思い 明石に使者を出して、自らは福岡の島に逃れる
小西行長の領地である小豆島に宣教師達と一緒に隠れて住むようになる
そのあと前田利家がもらいうけたといういきさつがある

点々と逃れながら、前田利家の領地 能登半島の付け根あたりに領地をもらいうけた
(3万~4万石)
高山右近は秀吉の前に信長につかえていた 小西行長は秀吉の子飼い 
秀吉を選ぶだろうと小西行長に    言っていた(秀吉からの問いかけ)  
小西行長はうまくのがれた(秀吉を裏切っていたと思われる)  
右近は 前田藩の客将 八王子の城を攻めるときに汚点を残している
茶の湯の思想  茶の湯を修道することは仏を修どうすることと同じですよと言われた

修道よりも金持ちの道楽みたいになってしまったので、利休のわびさびの厳しさの世界に戻ろうとの思いで書かれたのが南方録に書かれたので、その本からの影響ですべて仏教で茶の湯の哲学、美意識が作法が語られるようになったので高山右近を調べていくうちに、もしもそうならば高山右近は利休のわびさびに傾倒するのは不思議だなあと思った
彼はお城さえも捨てることのできる潔ぎよい人ですから、茶の湯の心というのは世界は
「捨ててこその世界」なんです
いろんな欲望で固まりやすい 戦国時代は領地が欲しい 
領地が上げられなくなったら、一つの茶椀が一つの城と同じぐらいの価値が出ちゃった
その技をうまく利用したのは織田信長で、秀吉が後でいうんですが、茶の湯ご政道という方法論を秀吉は用いて天下の武将たちの心を捕まえて、その中核にあったのは、
千利休という偉大な人だった  
利休さんも商人で大富豪 最初は武器も売っていました
表千家の家元のところには信長から鉄砲の球が届いたので、ありがとうという書状が届いている
自分で茶の湯を極めてゆくに従って、その道具にしても茶室にしてもすごくシンプルになるんですよ
削り取ってゆく 最後には茶室1畳半ですよ  
お客を1畳に迎えて半畳におもてなしする利休さんがお座りになって心からのおもてなしをする
殺伐とした戦国時代で欲と何かがとぐろを巻いている中で、せめて茶の湯のこの茶室では、
上下もなく持ってるとか持ってないとか  
そんなこと関係なく心と心でありがとうと、今日も出会って、この一幅のお茶をいただいて、
命をことごうことができた
そういう思いにみんな乾いていたのではないかと思います
キリシタンが増えたが、キリシタン大名たちは利休のわび茶を実践していた
そこにキリストに従うという信仰と見事にあっていたと思います

そうでなければ高山右近のようなキリシタン茶人は起こらなかったと思います
ロドリゲスが教会史の最後の最後に高山右近のことを挙げているが、彼は小さな部屋に入って(茶室)に入って礼拝をしていた
という文章で終わっている
戦場は皆茶室を造る そこで持てなしあっている   
朝鮮出兵した以外の人はもてなしあいをやっていた
これだけ金を使って、戦う意味、秀吉のようには、秀吉の心を理解されていなかったと思います
このときもう、高山右近は追放されていた  
前田利家の客将としては名古屋城に行っていたが直接参加していないが お茶会はしている

それだけ殺伐としている、乾ききった心、命絵の乾き ぬくもりへの  
乾き 愛に乾く それをお互いもてなしあう    和、啓、静、寂
相手を敬う これは日本人の心じゃないですか  
出会いがあり、別れて、いろんな考え方が出てきたんでしょうね
戦国の封建時代に、右近は亡くなった農民の棺を一緒に大名が担ぐ、
そんなことは普通考えれませんよね
お父さんが偉かった お父さんの信仰が本物で 最初12歳で洗礼をうけている高山右近は
お父さんのただ真似をするに過ぎなかったと思うんですよ  
でも段々お父さんを尊敬するようになって、お父さんの信仰は彼の心になりましたね  
彼自身が成長している  大名親子が棺を担いだ
 
つい最近わかったんですが、それも高槻城の本丸の近くですよ
お墓が発掘された さまざまなキリシタンの装飾品が見つかった 大発見だった
博愛の気持ちがないとできない 
戦国時代 裏切りが当たり前の時代 泥水をかぶる様な時代の中で、利休という人は
あのわびさび茶を発明したというか、考案したということは、いま400年続いている わび茶はすごいですよね(普遍的なもの)
そういった普遍性の中に高山右近やキリシタン大名はキリストの心を見たんだと思います
敵さえも許す、裏切られても赦しちゃう

高山右近の生き方  得よう得ようとして、欲望を増大させてゆく  
秀吉は切腹を利休に切腹を命ずる
高山右近は日本まで捨ててしまう  
宣教師と一緒にマニラに行っちゃって41日後に病死する
人生って最後は全部捨てるわけですから、自分の骨が入る骨壷を前にしてお茶を飲んでいます  
いかに自分の欲望とか欲しいものをかなぐり捨てて、生きるか
日本は貧しくなろうが豊かであろうが日本人としての心を大切にしていったらみんな幸せに生きていくと思いますね

この社会で喜びも分かち合い、苦しも受け入れるような心をもって、そして自分自身も病と自分も一緒に生きて苦しむ
ほかの人も同じ それが憐れみ  自分自身を憐れむ 家族、周りの人たちとともに生きるということは、苦しむもの
とともに苦しむ   みんなが求めている乾いている心をもう一度よみがえらせる、
そういう思いを高山右近はキリストの心と 茶の湯の修道の中で、見事に自分の血となし、肉となして、それがちゃんと自分の人生の中で生活の中で、表現される

高山右近の苦悩、苦悩する高山右近
親友だった細川忠興への手紙にも残っている 日本決別の高山右近の書状
家康の命令でフィリピンに長崎から出るというときに 
近日船出仕り候 一じく進呈申し候志なり  
帰らじと思わばかねてあずさいむ なき数にいるなおぞとどめる
楠正成の子供の正行の四條縄手で討ち死にした時のみんなが署名したとき血書なんですね
その言葉を高山右近はさらりと手紙に記して 彼は名を天下に上げた
私は南海に赴き、命を天にかける そして名を流す すみつぎする 
いかに  (きみ、おれの人生どう思う ) 60年の苦しみたちまち このたびの古文書はなかなか申しべく候
この手紙の1ヶ月後にフィリピンに旅立つ
63歳でマニラで亡くなる 日本の貧しい人たちを援助したキリスト者の代表が来たと歓迎された 高山右近が行ったマニラはスペインの植民地だった   
加賀乙彦さんは右近はそれを知って、本当にいたく悲しみ義憤を感じたと戯曲に書いている 高山右近はローマ法王とも書簡のやり取りをした   
死は新しい出会いの出発ですから  
好きな人と一緒にいられるということが幸せなんじゃないかと思います