2013年4月30日火曜日

安藤忠雄(建築家)        ・私と直島の25年

安藤忠雄(建築家)   ・私と直島の25年
1941年 大阪生まれ  高校卒業後、独学で建築を学び 日本建築学会賞をはじめ、数々の賞を受賞 2003年には文化功労者に選ばれるなど、世界的に活躍する建築家です
コンクリート建築で知られる安藤さんが、直島の再生に取り組んだのが、1980年代でした
当時、瀬戸内の島は公害で緑が少なくなっていました
島に緑を取り戻し、文化の島にしようと、いう試みは25年たった現在は、世界の最先端をいく現代アートの島となって、多くの観光客が訪れるようになっています
ことしもこの春から秋にかけて、瀬戸内国際芸術祭が開かれています
島の活性化に取り組んできた安藤さんに25年の歩みを伺います

瀬戸内海には島が2000ぐらいあり、そのうち人間が住んでいるのは、400ぐらい
瀬戸内海は江戸時代から世界中の人が世界一の内海だと言っている
1988年に福武 總一郎さんという人が直島を買った 瀬戸内海に浮いている文化の島を孵化した
卵が産まれた 当時は島は荒れていた   島を文化の島にしたい福武さんは思った
岡山と高松に連絡船があった 岡山から最初の連絡場所が直島
島は荒れていて、亜硫酸ガス等で、禿げている 砂利や石をとって荒れている
美しい海にするという事で、山を美しくしてそのあとに、ホテルや美術館などを造るんだと
美しい棚田、美しい民家を残し、古い民家に現代美術を入れようと言いだした
非常に難しいことだと言ったが、一人の人間の情熱は凄い

大阪生まれ、大阪育ちで、大阪で仕事をしているが、学歴がない人間が、情熱があるからあの人に仕事をさしてやろうと人がたくさんいてくれたので、今までやってこられた
私の仕事は韓国、中国、台湾、アブダビだとか、なんです
ほとんどアジア、ヨーロッパ、米国等もあるが、事務所の全収入の8割が外国 残りの2割があるが、東京、北海道などで、大阪はゼロです

直島は2500人  40万人来る 
1993年 最初1年間に1万人 5年後に4万人 現在は40万人
最初のころは島の人たちは外からいっぱい人が来て嫌だと言っていた
15年後に変わった うどんや、民宿、コーヒーショップをしようと変わってきた
70歳超えた人たちが働く  日本の街作りの見本
安藤ミュージアム(100年前の古い民家を利用) 外から見ると古い民家 中に入ると現代建築
日没閉館 照明がない 自然光で見る 暗くなったら帰る

新渋谷駅 地下30mですが、駅を設計したが 上から入ってくる風と、鉄道が走る風で冷房する
私はアイディアと設計をしたんですが、これを可能にしたのは、いろんな人たちとの提携で造られた
この原点が住吉の住宅 1976年にできたもの 14坪の細長い家に真中が中庭 総工費1000万円という事で、中庭に入ってくる光と風だけで生活する 暖房は自分で考える
家の評判は悪かった 夜中にトイレに行こうとすると、雨のときは傘を差さないといけない
近頃は究極のエコハウスと言われている  これが渋谷駅、直島につながっている
自然がエネルギーになっていることをもう一度考え直したほうがいい

直島  海を綺麗にする 1985年ぐらいから、工場が外国に行くようになった
韓国、中国ベトナムなどへ  空き地には木を植える (10~20cmの苗木)
段々大きくなると養分が海に流れる それでプランクトンが発生、小魚が寄ってくる 
循環型社会であるという事が判った  手島 産業廃棄物を捨てる島 河合隼雄先生(文化庁長官)  中坊さんと私たちが、手島にも木を植えろという事で、ずーとやり続けている
自然を回復させながら、自然と生きてきた日本人の生活の在り方を風景として残してゆきたいというのが福武さんだった  私もそれに乗ってよかったと思う

棚田は美しい  外国人が明治に来た時に、多くの人たちが棚田をああいう風に作っている生活が美しい、細やかな生活が美しいと言っている  美しい風景を瀬戸内海に残したいと思うと同時に、現代美術は購入すると高いから美術家が直島を見て、俺もここで作品を作りたいと
自分で作ってもらうといいと  そういう風にしながらそこにしかできない風景を創ろうとして、割とうまくいく
地中美術館 地下に美術館がある モネの水蓮の絵がある(目が悪くなってきたころの絵)
上から光が入ってくるようになっている  全然照明していない  漆喰壁
モネの絵は自然光でしか見えない  上に上がると海が見える(綺麗な海が)

自分の原点を探す  原点になるものを若い学生は持たないといけない
20代の初めに神戸新聞の社長にどんな本を読んでいるのかと尋ねられ、建築の専門書しか読んでないというと、駄目だ、もっと考える本を読めといわれる
「宮本武蔵」 何度も読み返す 幸田露伴の「五重の塔」 和辻哲郎 「古寺巡礼」「風土」  
自分の原点になる本を持たないといけない
 
自分の原点は六甲山と瀬戸内海  六甲山は100年前 木が一本もない 木を伐採してエネルギーにした  その後植林した 全部植林 調子の悪い時には六甲山を見た
その原点が、本であったり、瀬戸内海、六甲山であったりするが、次の時代の子供たちのためにしっかりした風景を作っておきたいと思ったのが直島の風景だったんです
保育園、幼稚園、小学校、中学校は全部木造で作りたいし  作っている
子供のころは自分たちの感性は木造です 
中心 広い縁側  年齢の違う子供たちが集まって対話をする  縁側で語り合う
芸術を創っている ボランティア 4000人(常時ではないが) だいたい大学生
家も与えない、寝るところも考えてもらうというボランティア (考え方が変わる 家にいると親が全部やってくれる 10人のうち、2人ぐらいは考えが変わると思う)

先の判らないところに挑戦しているのが、芸術家
心でトレーニングすることは大事(携帯電話の時代に)  ともに生活する 自分たちで生活する
ボランティア こえび隊 3年に一回やる 段々増えてきている (いろいろな芸術大学の学生)
劇団も来たりする 演劇者は生命力がある 生命力のある人間になってほしい
お客は100万人(半年) 皆何かを求めている 今まで人生が70歳ぐらいであったのが90歳ぐらいになってきた どこかに行って刺激が欲しい、どこかに行って自分を探したい、どこかに行って美しい風景を見たい、という気持ちがあると思うが、もうひとつの自分を探したい
大体女性のほうが多い 

日本の特徴は長生き 特に女性は元気  大きな力は好奇心 男性はもう寝ていると
益々好奇心のレベルは高くなってきている  目標が持てれば人間は元気に綺麗になってゆく
日本の社会の悪いのは理想がなくなった事  民族の民度が低くなっている
心の中に青春を取り戻さないといけない
20代 こういう事をしたい、こういう事をやりたいこういう風に生きたい もう一回思いだして70代、80代でも十分に青春を取り戻せる訳ですから  100歳まで生きても寝ているだけではね
新しい世界を切り開かなければいけない

東北の大震災で、遺児育英資金「桃・栗育英会」をやっている 
1万円を10年間払い続けている人を探そうと
100人以上申し込んでくる 年で1万8000人 8割が女性  今でも突然100万円申し込む人がいる  子供たちのために自分ができることはと考えて、やるんでしょうね 今では39億円集まった
瀬戸内オリーブ基金 阪神大震災でも育英基金を行った
日本の国に何がないかというと ①ものを決断しない  ②責任取らない ③スピード無い
これではアジアの人たちと付いていけない
韓国、責任感と決断力はある   アジアと共に生きることを考えないといけない

アジア、ヨーロッパの人たちは好奇心旺盛  自分の豊かな生活は金では買えない 
自分の心の豊かさも金で買えない  好奇心しか方法がない
いくらエネルギーがある 食糧、食事もしても何の役にも立たないでしょう
国を元気にするには、個人が大事 個人が元気でないと国が元気になるはずがない
1945年敗戦のあと、1950年代に来た外国人の外交官、商社マンが日本は必ず復活するといった  なぜなら子供の目が輝いている 大人がよく働く 楽しそうだと
お金ではなくて目標があって、目標が自分の青春の心を燃やしていた あの頃元気だった
1980年代 お金が出来てきて、日本人は理想、青春だとかを全部忘れてしまった
お金があれば豊かになったと、いくら立派な洋服、時計 とか身にまとうが
バブル崩壊後ずーっと停滞している なぜかというと青春の心を持った人がいなくなった

中央の東京が元気でないと駄目だし、地方は自分たちで元気にならないといけない
大阪は大阪なりの豊かさ、元気さを取り戻さないといけない
自立心育てる  子供の教育が大事  放課後が大事  今は学校が終わった後は塾に行く
同じような人間ができる  絵、音楽、野球をするとか自分が何をするかという時間を持たないといけない そうしないと自立する心ができない
放課後がない子供たちが突然22歳で、大学を出たとたん、自分で考えていかなくてはいけない

あのはげ山を緑一杯にして、あのはげ山に現代美術があって、世界中の美術家が豹変したいと思ってやってくるという風にしたいと思った 福武さんのその思い、勇気が凄かった 
なしえた原点とは→情熱と持続力  今の日本人は情熱が薄い 持続力がない
木を植える 水をやる 上から水をやると上を向く 
やらなかったら下を向いて地下水を捕まえに行く  あんまり水をやらなかったら枯れてしまう  
日本の子供はどんどん上から水をやるように、自分たちが過保護に育つ いつも上のほうを向く
親のほうの顔をむく  これでは本当のものはできない 
自分の考え方をしっかり組み立てられないといけない

文化交流を通して、日中、日韓 国はぎくしゃくしているが 文化交流で寄与していきたい























2013年4月29日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(下重 暁子作家)

天野祐吉・隠居大学(下重 暁子作家)
NHKの名アナウンサーとしてかつて、活躍  本をいっぱいお書きになっている
さっぱりとして、ぴしぴしと割り切って考える方(男勝りというか)
最近、しょっちゅう着物を着るようになった
俳句についての本を出された 
俳句は江戸時代 連句 そこから発句が俳句になった
108人の俳人がどんな歌を作ってきたかが判る
鷹羽 狩行さんに帯を書いてもらう 「快刀乱麻 天下無敵」と書かれた
この本を読んで判ったのは下重さんは「快刀乱麻」の人だと判った
不良老年の進め  年取ったら不良老年に皆なろうよ  
野坂 昭如さんに不良老年の組合を作ろうと言われた(天野)
野坂さんから 酔狂連という皆で飲んで歩くだけの会をやろうといわれた(下重)
私と安達瞳子さんが名指しされた 私も飲ん兵衛だが、彼女はしとやかな感じだが、あの人は凄い

不良老年のすすめ
第一条 恋をしよう ときめこう (下重・私は駄目なんですが 昔の恋を引っ張っている 会った時はどうしようとセリフを考えていたが、あるときぱったりあったら、「お元気ですか」 だけで他に何も言えなかった 両方に連れ合いがいたが  ときめくのは難しい)
ボーイフレンドの作り方  出会いは老人ホームで
第二条 せめて恋愛気分を楽しむ
第三条 名刺から肩書きをなくせ(これは大事 特に男が多い)
アナウンサーは9年やる ニュースショー  本当はアナウンサーはやりたくなかった
黒田夏子さんは同級生です できれば物書きになりたかったが、女で出版社、新聞社では採ってくれるところがなく、アナウンサーしかなかった
 
NHKに入る 名古屋にすぐ転勤、野際陽子さんに会って二人で酒を飲んで、東京に帰ってきた
当時、荒田寮という寮があって、私たち二人は「荒田のおろち」と言われていた
「隠居」という名刺を作ったが、いろいろあって辞めることにした(天野)
日本自転車振興会 特殊法人だった 一時会長になる (下重)
女が何か役に立てればいいなと思った  必要とされることがうれしい 補助金として社会還元するが、これはいいなあと思った(放送関係の文化に対しての補助金)
競輪のコマーシャルの世界をがらりと変えた(それまでは見たくないようなコマーシャルだった)
このコマーシャルで賞をもらった(2位)
自分を信じてずーっときた黒田さんの生き方に感動する

第○条  電車の中で席を譲る 私より年をとっているような男の方に席を譲られて、ショックを  受けた  (このごろは優先席に行ってしまう)
第○条  年甲斐もなく、何かに狂おう 

人はみかけに依る  見かけに依らないのは、こっちに見る目がない
見る目さえあれば、どういう人かは判る  
顔は中身の一番外側 動き出すと、じわーっと顔に出てくる
男の顔は履歴書 男の顔は変わる

おしゃれは大事 
街に出て買い物をしよう (デパートは嫌い なんでもあるというのは嫌い)
  福袋 どうして購入するのかが判らない 何が入っているのか分からないのに
安心して楽しめる  これは気に入らない  (お年寄りも安心して楽しめますというような乗り物  は、面白くもなんともない)
不良は 自分がある 枠からはみ出すのは、人間としては自然











 

2013年4月28日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(岐阜県)

五木寛之・歌の旅人(岐阜県)
100回以上行っている 飛騨、美濃 有名な川と山がある  山紫水明
歴史も古い 壬申の乱 関ヶ原の戦い  稲葉山城(岐阜城)
野口五郎岳という山があって 野口五郎の名となる  「私鉄沿線」
大垣は  江戸時代で一番寺子屋が多かった所  江戸時代末期は武士でも農民でも、商人でも、女子でも 一緒に学んでもよいといわれている (信州の影響があったのではないか?)
念仏の土壌の深いところ 郡上踊り 越中風の盆  もともとは基本的には念仏踊りから出てる
江口夜詩 戦後「あこがれのハワイ航路」 等 大ヒット 「赤いランプの終列車」
円空 全国回って彫った  斎藤道三、明智光秀 坪内逍遥、島崎藤村 早船ちよ 北川悦吏子
山本寛斎 朝井 リョウ 日比野克彦 
織部賞  古田織部 モダンなアーティストに対して  土取利行(演劇音楽) 
立光学舎     
岐阜の持っている古い歴史と伝統の中に、新しいものをはぐくんで育てていこうとする気風があるんだなと実感して、それでここを活動の拠点にしようと立光学舎を作ったと思う
篠田正浩(映画監督) 松竹に入る  高橋尚子 森祇晶 高木守道
長良川慕情 奥飛騨慕情 飛騨のつり橋(山口百恵 歌 あまり世に知られていない珍しい歌) 
高山 短編小説を書いた覚えがある  高山祭  外国の人も多く来る
白川郷  世界文化遺産     美濃紙 紙作り   長良川の鵜飼(鵜匠 世襲制とのこと)
中条きよし 「わけ」   
日本三大巨桜  淡墨の桜(宇野千代作品題名にもある) 樹齢1500年
50周年(五木寛之) 「流れゆく歌」音楽アルバムの中に 最新作として「淡墨の桜」 を作詞する
木曽檜  
知る事はその街に親しみを感じる











  

2013年4月27日土曜日

八名信夫(俳優76歳)      ・悪役だからこその面白さ難しさ

八名信夫(俳優76歳)   ・悪役だからこその面白さ難しさ
プロ野球・東映フライヤーズ(日本ハムファイターズ)にピッチャーとして入団しますが、試合中のけががもとで3年で選手生活を断念、映画俳優に転向します  昭和58年に悪役商会を結成、映画やTVドラマで数々の悪役を演じてきました
最近では朝の連続TV小説「純情きらり」でおじいさん役など出演し幅広く活躍しています

俳優生活55年を迎える  岡山県出身  悪役ばっかりやってきた
いろんな方との出会いがありました いろんな職業のかたとかと話をしてきました
人の味というものを教わりました
米軍の兵隊がキャッチボールをしているのを見て、面白いと思って軍手を数枚使ってミットを作ってもらって、遊んだ  それが野球への道の元となった
高校は秋山、土井が下にいた
腰の骨を折ってしまう  東映から俳優のほうに行けと言われる
東映本社社長であり、東映フライヤーズオーナーでもあった大川博さんから言われる

当時背の高い俳優がいなかった 俳優の勉強した  
最初は新人は俳優座に半年間勉強させられる  現場で勉強させてもらう事になる
一日400円で、なかなか生活がやっていけなかった(時計とか、いろんなものを売った)
俳優を止めようと思った時があった  野球の時代は月給5万円(大学の初任給が6000円ぐらい)  いつ辞めるか考えていたが、顔が映る場面に出ないといけないと思った
監督に身体の小さいのが倒れるより、俺が倒れたほうが迫力があると訴える
ではやってみろと言われた  
倒れこむ瞬間に砂埃がバーっとでて、迫力あるシーンが撮れて、監督等に認められた  
馬に乗って追うシーン(馬に乗った事は無かったが乗れると偽ってでる) 
後ろ姿だけを悪役は映される  
馬が倒れて、俺も倒れて、スタッフが寄ってきて、先に馬に気を使った

悪役で勝負 すぐに悪役は死ぬので、すぐに次の仕事ができる  月3回死ぬ
役作り 洋画を見て研究した 悪役で俺が一番帽子が似合う
生活ができるようになったのは20年ぐらいたってから 役がつくと3000円貰えた
40年近くたった時 個室をもらえるようになる 名前も大きくなるようになる(5秒ぐらい映る)
母親が悪役はいいから善人役をやれと言われるが、スナックで数人で歌っていたら、60代のおばさんから、今映画がつまらないのはお前らがちゃんとした芝居をやらないからつまらないんだ、主役にこびているじゃないか、もう一回使ってくださいという目が画面に出ていると言われた  
タクシーで待つ間にそのことで話をした

焼け火箸を腹に刺されたよ  実際にこびてたよ そういう目をしていた(また仕事くださいという)
賛同してくれる人間だけで作ろうと思った   「悪役商会」を立ち上げる 
施設訪問する  日本全国 養老院とか まず庭を掃除しながら、回ってきた
明治大学の監督だった人から言われる
ありのまま 媚びない 飾らない 
人に好かれるという事はいいことだが、好かれようとして、生きて行くな
人に媚びて、人が何かやってくれるのを待つな、 自分からやれよ   財産になった



2013年4月26日金曜日

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)    ・ぼくが追い続けてきたもの 2

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)    ・ぼくが追い続けてきたもの
「凍」「一瞬の夏」などの作品の本が完成してからも続く、もうひとつ物語を中心に伺います
そこからはノンフィクション作家の沢木さんの生き方が見えてきます

登山家の夫婦を取材 山については全く経験のない人間だったが、山野井泰史さん夫婦がヒマラヤの8000m近い山に登って、下りて という時にかなり厳しい雪崩にあったり、してるうちに凍傷にかかって、日本に戻ってきたときに、手術を受けて 泰史さんは指4本 妙子さんは最初の関節から指10本 失うとかの状況になっているんだけれど、知り合いに一緒にお見舞いに行きませんかと言われた(知り合いではなかったが私の読者だと言われて行くことにした)

全然2人とも普通で、無理に自然にしているのではなく、嘆いたってしょうがない、今ある状況の中でどうやって生きていこうかと、言う感じがきっちりとあって、凄くかっこいい人だった
私が却って2人のファンになってしまった  その後付き合いだした  
1年後にもう一度山に行かなくてはいけないという事になった(その時に投げ捨てた荷物はごみに過ぎないと、そのゴミを引き取らなくてはいけないと、拾わないと登山は完結しない)  
一緒に行こうかなと言ってしまった

夏に富士山に行くことになる  スーッと上る事が出来た
「息は吸おうと思うな、吐こうと思って吐いてくれ」と言われた 
シェルパは強く吐くそうすると吸わなくてはいけない     
測候所に泊る事になる(山野井さんと測候所の人は知り合いだったので)
へモグロビンが血液中の空気と結びついて空気を身体中に送る 
へモグロビンが酸素と結び付きやすいと、酸素が大量に送りやすいので高地に強い
山頂に長い時間いると高山病にかかりやすいといわれるが、大丈夫だった
その秋にヒマラヤに行くことになる
5000m超える時には順化を普通やるが、大丈夫じゃないのと言われて行ってしまった
5500mにテントを張って、翌日荷物を二人は探しに行く 私はぼんやりそこで過ごす
そこでまた一泊するが、高山病になるのか心配はあった

帰るときに頭がクリアになった(ミニ高山病になっていたのかも)  これを書いてみようかなと思った
取材側に入っていく方法が違う  取材を徹底的にやる(三人称) のと 一人称 徹底して一人称として見る人間、を見つめる  私ノンフィクション 風、空気の流れまでも自分が肌で感じる物を文章として提出するというもの 
最初に完成系として出来たのが「一瞬の夏」という作品
「テロルの決算」では綿密に資料を集める 浅沼稲次郎山口二矢 二人の人物像が浮かび上がってくる

「一瞬の夏」はボクシングの元チャンピオンが30歳を前に、もう一回、再起をかけようとする
カシアス内藤  文章を書こうと思って始めたことではなかった
見るだけではなくて何かをするという願望が強かったような気がする、それがカムバックすると言ったときに内藤さんに手を貸す事が私にとっての、見るだけのものではなくて、何かするもの、行為をするものとしての 自分自身の主体を自分が満足する事だったと思う
作りごとではない(凄いこと) 内藤さんの願望だけでなく、私の願望でもあったと思う
1年間の写真を仲間が撮ってくれていて、それをスライドで見せてくれるというので、家に行って見ているうちに、凄い物語だなあと感じて、彼の写真集を出すことになり、短い文章を書いたが、朝日新聞に書くことになり、カシアス内藤の1年間を書いた

その後、ジムを作り、息子のボクシングプロデビューまで関係が続いてゆく
カシアス内藤はボクシングから退いた後に、いろいろ苦労して(いろんな仕事に赴いたり、妻を亡くしたりして生活にも苦労した)いたが、彼には人に教えるという能力にたけていることを発見した
「一瞬の夏」を少年院で読んでボクシングをやりたいという少年がいた その若者が新人王になる
日本タイトルマッチをその少年がやる事になる (一度は敗退したが)
内藤は若者を預かる事になる 1ヶ月間 内藤がジムで教える姿を見て、教えることの才能をそこで発見した  一つのことを週に一回だけ教えて行った 
勝って日本チャンピオンになったが、周りの誘惑に負けて、崩れてゆく  
フェードアウトして俳優になるが、そこでも又問題を起こして、崩れてゆく 
カシアス内藤が喉頭がんになり、急がなくてはと、ジムをバタバタと作る事になる
抗がん剤と放射線治療(食欲はあった)でステージ4のがんはそのままで、8年たったが生きている

息子がボクシングで高校のインターハイに出るようになり、プロに転向する
現在、活躍している
取材している相手、テーマが時間が感じられないぐらい、ずーっと一緒にある
果てしない長さで付き合いがある(小説の対象者の息子さんだとか、娘さんだとかとの付き合い)
山野井さんとアンデスに行きたいとの思いがあるが、1カ月間、時間がとれるだろうかと考えてしまったりする(若いころならば一つ返事で行こうと思ったと思う) 
あとどのくらい仕事ができるだろうか、考えるときもあるが、年がら年中考えているわけでもないので、ひょっとしてアンデスに行っちゃうかも知れない

偶然に対する信仰があって、偶然が常に何かを切り開いてくれるような、気がする
偶然に柔軟に対応することで、私の人生は動いてきた
偶然に対してかたくなにならない、偶然に対して柔軟にリアクションすることが、私の人生をこういう風にしてきた最大の理由だと思う
その時の偶然の出会いにきちっと、反応できる柔軟性、しなやかさをもっていたい
偶然性を楽しむ、偶然に反応する自分も楽しむ、そこで切り開かれた世界も楽しむのをできたら、結構面白い










2013年4月25日木曜日

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)    ・ぼくが追い続けてきたもの

沢木耕太郎(ノンフィクション作家)   ・ぼくが追い続けてきたもの
大学卒業後、間もなくフーリーランスのライターとして執筆を始め、「若き実力者たち」「敗れざる者たち」などの作品で注目され、1979年、「テロルの決算」で大宅荘一ノンフィクション賞 1982年には「一瞬の夏」で新田次郎文学賞を受賞、2005年にはフィクションとノンフィクションの垣根を越えたといわれる作品「凍」で登山の極限状態を描きました

著書「キャパの十字架」について  
戦場カメラマンのロバート・キャパの出世作 「崩れ落ちる兵士」を巡ってのドキュメント
旅を追っているような、推理小説のような 感じのもの
スペイン戦争で取られた作品 (写真) この写真があまりにも見事な写真(兵士が倒れかかる写真)  1936年に撮影  キャパは40歳ぐらいで亡くなっている

山登りで高い山に登った時には、当人が登ったというならば、それを信じようという事になっている   戦場で撮った写真も同様に思われてきた  
しかし本当にそうなのかを調べた所、疑わしいと思われる事があった  私も信じていた
ロバート・キャパの伝記が出版された その人を私は知らなかったので、興味を持った
「ちょっとピンぼけ」 を読んでキャパは私に似ているなと思った
(ある種のいい加減さ 自然に溶け込む姿)

20代の初めに若くして世の中に出て行った 私も22歳のときに、物書きとして世の中に出て行ってしまった  ノンフィクションを書く  
取材をして書くわけだけど、観る人間であって行為をする人間ではないわけです
キャパもいろんな現場に行って(戦場の都市、難民とか)写真を撮るのですが、行って見るだけ、撮るだけ何もできない、何もしてあげられない という悲しみがロバート・キャパにもあったみたいで
ほんのちょっとだけ、「ちょっとピンぼけ」の中に文章が出てくる
私はそれに反応したんだと思う(思いが心に奥底に残っていた)
キャパの伝記を翻訳することになる(物凄く大変だった)

ノンフィクションを書くときに、話を聞いたり、調べたりすることで、ノンフィクションが成立するが、この本の翻訳もノンフィクションだと思うと思った 判らないところは教えてもらおうと思った(永井順小田島雄志・東大教授、ドウス昌代・作家(ご主人がピーター・ドウス スフォード大学の教授))
3人にいろいろ教えてもらいながら、翻訳を進める(それでもいろいろ苦労しながらであった)
ノンフィクションを書く作業、取材作業そのもの、のような感じだった
もう一冊 キャパの決定版の写真集が出来たので、それも翻訳してほしいとの依頼があった
翻訳はそれほど問題ではなったが、今まで何にも不思議にも思わなかったが「崩れ落ちる兵士」
の写真を見たら、「あれっ」と私も思うようになった(これは本当に撃たれたのかなと疑問を感じた)伝記に、「崩れ落ちる兵士」の2枚の写真が掲載された雑誌のページを載せている

それを見ると倒れてゆくプロセスみたいに見えるが、違う人 一枚でも難しいのに、しかも同じ場所
おかしいと誰でも思う (しかし証明はできない  蔭口では流布されていた)
ウイラー(キャパの伝記作者)はおかしいけれども、いいんじゃないかと、私の言い方で逃げた
私は納得しなかった 翻訳は完成して、世の中に出た
「崩れ落ちる兵士」の写真については心残りになった
キャパの写真を撮った場所に行って同じアングルで撮ってみたいと思った
キャパの事に対して雑誌に連載するという話があり「崩れ落ちる兵士」の現場に行ってみようと、行くことになったが、途中でいろんなことが判り始めて、連載しようとしていた雑誌にはこのことは入れられないと思った ( 確かめてゆくと壁に当たったりして、ちょっと後退、又かんがえなおすと先に行っていたり)

本当のことを突き詰めるのは、本質的に彼を傷つけるとは思っていなくて、むしろ本当のことをあきらかにすることを望んでいるのではないかと思っている
彼はもういいんじゃないかと思っているかも知れない
ロバート・キャパは1903年生まれ 生誕100年(生きていれば森繁さんと同じ)
「キャパの十字架」 でほぼ証明されたと思う さらに「崩れ落ちる兵士」の写真を撮った場所は違っていて、そこから50km離れたエステホという村だとの事(スペインの大学教授が突き止めた)
確かに山の稜線がぴったりと合った   キャパの撮った写真をクリアファイルに入れて、エステホ村を何時間も歩いて、あるときに写真を見て、キャパが撮った写真ではないのではないのかと思うようになった

あの写真は撃たれていない、だから死んでもいない もしかしたらキャパではなくて彼ではなく彼と一緒にいた恋人(ゲルダ・タロー)が撮ったものではないか、かなりその確率は高いだろうと思う
(恋人は半年後になくなる) キャパは沈黙するようになったのでは
その時22歳のときで23歳のときには最初フランスの雑誌に載り、アメリカのライフという雑誌に載って有名になった  金のない無名のカメラマン  たまたま滑った所の写真でそれは恋人が撮った写真だとはいえるだろうか、そうとは思えない
(自分の手を離れて有名になって、なかなか言えなかったのでは  黙るという道を選ぶ)
NHKスペシャルでCGで崩れ落ちる兵士の状況を再現してもらった
ちょっと違った事もあり、どちらがただしいのか今後もっと検証してみたいとも、思っている



















2013年4月24日水曜日

池谷栄治(医学部生命科学科22歳) ・太陽の光を避けながら生きて

池谷栄治(医学部生命科学科22歳)  ・太陽の光を避けながら生きて
紫外線を浴びると皮膚が炎症を起こし、悪化すると肝臓にも障害を起こし、最悪の場合は死にもいたるおそれもある病気です
太陽の光を避けるため、一年中、長袖長ズボンを着たうえで、手袋、マフラーなどを身につけて生活している患者もいます
この病気を患う、池谷栄治さんは自分の病気とより向き合うため、免疫や神経など、生命科学に関する研究を続けながら、国の難病指定を求める活動を行っています  

医学部生命科学科の研究 山中先生のようなiPS細胞を使った研究や、免疫、神経そういった生命科学の生命の根本を研究して、今後の医療の発展につなげていこうという学科だと思っています
病気 小学校の2年生の時に身体の異変に気付く 晴れた日の運動会の終わって家に帰った後に、皮膚にいたみを感じて、その日は氷で冷やしたが、その翌日は顔、腕など日光に当たったところが、パンパンに腫れあがって、それが最初の発症です
皮膚の内側から針で刺されるような痛み  近所の病院に行ったが、とりあえず日焼けのひどい状態ではと、氷で冷やすようにとの指示だった
小学校4年生の時に、母が神戸大学の医学部の教授の方に、自分の子供たちの症状を話すと骨髄性プロトポルフィリン症であることを告げられる

ポルフィリンとは血液の赤血球に含まれている酸素を運ぶ働きをするヘモグロビンが作られる過程が途中で止まってしまい、ヘモグロビンにならずに発生する物質がポルフィリンです
ポルフィリン患者の私は日光を浴びることに依り、ポルフィリンが紫外線を吸収し、反応することで針で刺されるような痛みを発生して、ポルフィリンが毒素に変わり、肝臓にたまり、肝硬変や肝不全となり、最悪の場合は死に至る病気です
今は長袖、長ズボン、手袋 帽子、黒いマスク、マフラー(夏場はタオル等)という格好になる
病名を知った後では、自分だけこのような格好なので、周りの友達とは違うと感じて過ごしてきた窓ガラスは紫外線防止フィルムを張って、カーテンで覆うという様な処置を学校でしてもらった
体育は別行動で、室内で過ごす(残念なおもいであった  自分を納得させるようにした)
初めて観る人は、変な格好をしていると、好奇の目線や言葉もうけた

小学校6年のとき 放課後鬼ごっこをしているときに、隣の小学校の児童に見られて、不審者が小学生を追いかけているという通報があった 
誤解を解くためにその学校に行って(校長、担任、と私の3人で) 全校集会での説明をするはずであった
40名近いクラスメートが一緒についてきてくれた 2人の友達も発言してくれた
風邪などの病気と同じだと説明してくれる   彼は最高の友達ですと、いやなことを言ったりすると僕も嫌な気持になります、ですから嫌な事を言うのはやめてくださいと等々の話をしてくれた
クラスメート全員が応援してくれた 彼らの気持ちがありがたいと思っています
中学、高校で自分の知らない人たちに、説明するのに、小学校の時の応援のおかげで、説明する事が出来たと思う
クラスが変わったり、合同授業では理解しないでカーテンを閉めない事があったりしたが、その時に友達が病気の事を説明してくれたりして、室内の対応してくれた
ポルフィリン症は国の難病指定されていない そのため誤診や治療法、根本的な研究がまだ進んでない状況にあります

国の難病指定をしてもらって、治療法、研究が促進されるように、難病指定にしてもらえるように署名活動を行っています
難病指定になると誤診が少なくなる(医師の認識が広がる) ポルフィリン症の研究が進むことによって薬や治療法など根本的な研究が進むことがあげられる
認知度が上がる事によって健常者の認識度が上がって、心のない言葉や好奇な目線がなくなり患者の活動の幅が広がる
5年間で55万人以上の署名が集まる おととしから2回厚生労働省に署名を提出した
現状 厚生労働省からの難病指定というのは、まだ受けていない
自分より幼い人が同じ病気になってるのを全国から聞いているので、あるいは家から出られない人がいるので自分が前に立って、動ける自分が、病気を知って貰おういう気持ちで立っています
署名 北海道から九州まで多くの方が署名してくれている

鳥取県が58万人 55万人はほぼ鳥取県全員と同じ人数  感謝の気持ちでいっぱいです
署名の数もやっぱり大事ですが、それ以上に認識、社会のこういう病気があるんだという認識があれば、もっともっと難病指定(ポルフィリン症以外の難病を含めて)
自分がこれまで生きてこられたのは、地域の支え、家族の支え、学校の支え、もちろんですがそのなかでも、大半は学校の友人と生活してゆく時間が多かったので彼らの支え、助けてくれるという彼らの力に本当に助けられて生きているなあと感謝しています
医学の世界にいるので、ポルフィリン症をしっかりと自分の中で理解し、医学的な知識と認識を持って他の人達にどういう病気なのという事を聞かれたり、質問をされたりするときにしっかりと判り易く理解してもらえるような言葉で説明できるように、自分の病気であるポルフィリン症
をしっかりと理解して勉強していきたいと思います

自分の置かれた状況をしっかり理解して、病気も理解し、ポルフィリン症は友人の支えを教えてくれたり、いろんな方の支えや応援を教えてくれたものでもあるので、しっかりと病気をうけ入れ、そういった方々の努力に恩返しができるような、将来に進めたらいいかなと思います
病気を知った時は嫌なものだなと感じていたのですが、自分に、今進んでいる大学や、将来のためにどうしたらいいかという事を、このポルフィリン症が強く影響してきて、人格、考え方がいい意味でも悪い意味でも影響してきているので、自分の中で受け入れて、将来の進むべき進路に進んでいきたいと思います















 















2013年4月23日火曜日

中村勝宏(名誉総料理長69歳)  ・海外修行で自分に試練を

中村勝宏(名誉総料理長69歳)   海外修行で自分に試練を
箱根と横浜のホテルで料理人として仕事をしましたが、海外での料理修業を希望 1970年スイスのチューリッヒのレストランに務めた後、どうしてもフランス料理を勉強したいと、パリを目指しました
その後料理人として働いた後、小さなレストランで総料理長を任されました
そこで高い評価を得て、1979年には日本人として初めてミシュランの一つ星を獲得しました
およそ14年間フランスでシェフとして働き1984年に帰国 2008年には、北海道洞爺湖サミットには総料理長を務めるなどフランス料理界の第一人者です

現在は、基本的にはあまり拘束されないで、全国でセミナー、講演会とか オファーがあったら出かけるようにしている
東北に、支援に行っている 新潟、能登での地震のときにチームをつくっていた
うちが食えない時期があり、自分ひとりで生きてゆくためにはどうしたらいいだろうとかと、考えて
食べる仕事なら、食いっぱぐれがないだろうと、単純な考えでこの道にはいった
うちがクリスチャンで、祖母が熱烈なクリスチャンで、小さい時からクリスマスとかあり、漠然と西洋に興味を持っていた 西洋料理をやりたいと思った 
1962年に箱根のホテルに入った 日々の仕事は観光客向けで、本物の料理ができないのではと思って、たまたま横浜のホテルに行った
フランス語のメニューでフランス語を勉強した 
フランスにどんどん憧れをもつようになった

自分でフランスに行って料理を覚えたいと思った
フランスへのつてがなくて、スイスに行くことになる(3年間手紙を出し続けて相手が根負けした)
1970年 スイスに行く 言葉は全くできなかったが、(フランス語は多少理解はできたが)
フランスに行きたかったので、納得してもらって、フランスに行くことになる(1年間でスイスを終了)
フランスではそれなりに地方風土があり、料理が違う
一流の料理人はいろいろな所を転々と修行する(1年から2年の間に)
アルザスに有名なシェフがいてなんとか、当時12軒三つ星があり、そこに手紙を出したが、返事すら来なかった 二つ星は60軒、一つ星は300軒 手紙を書きまくったが、返事は来なくてあきらめてパリに行ったが、駄目で 結局、アルザスに職を得た(二つ星)
ラセール 当時の三つ星で格式が高いところだった 日本人は研修生としてしか仕事ができなかったが(ただ働き)、交渉して、ある条件のもとに働いたが、三つ星の仕事をしているとは思えず
自分で見限って半年で辞めた 
 
一流レストランを回っていても生活が安定しない(結婚して子供もいたので)と思ったので、小さなレストランではあるが「ラ・ブールドネ」を紹介してくれた(客層はすごくよかった)
フランスでは労働履歴書みたいなものがあり、労働評価等も書かれている
会って話した時には、相手の感じは評価が悪そうだったが。その書類を後で観てくれて、二つ星、三つ星でセクションシェフとして働いた事績を見て、採用された
(通常ではそのような実績がある人はこのような小さなレストランに来ることはフランスでは考えられなかった、電話で本当に実積があるかどうかを確認したとのこと)
どんどんお客さんが増えてきて、10か月でミシュランの一つ星をとってしまった(1979年)
星をとるという事は、予約は埋まるという事 (昼も夜も) 人を増やしていって、店も綺麗にして4年半やって、次の店をやって日本に帰ってきた

日本人のハンディーはある 厳しさはあったが、その厳しさが自分の糧になる
今日本人で星とっている人が10何人いる (オーナーシェフもいる)当時70年代は日本人を隠していた
いかに信頼関係をつかめるかということ 
一つ星がなくなるという事は店を売ってしまう事になってしまう(一つ星は厳しい状況にはある)
フランスでは食は文化であると、評価されている
日本の食は、フランスの若手シェフは日本に来て食材、料理法を勉強したがっている
(日本の料理と融合させる)

若い時の特権は、ある程度の失敗は許される くそみそには怒られるけれども、それなりに観てくれる そうした意味では若い時に行って、あらゆる経験を通じて、自分自身を鍛える、吸収するという事は日本ではなかなかできない
最初の2~3年はカルチャーショックがあるし、いろいろと大変だが、厳しさのほうが多いが、自分自身しか頼りにならないので、自分自身を見つめることを含めて、自分の可能性も何とかやれるのではないかという事が芽生えてくる
3年頑張ると、生活のパターンが自分でもできるという環境が整ってくる
日本という国を外国に住むことによって、非常に意識するし、改めて日本が見えてくる


















2013年4月22日月曜日

馬場あき子(歌人)        ・時代を創った女たち 2

馬場あき子(歌人)     ・時代を創った女たち
戦争中が女学校 5年生の時に、東伏見から三鷹にわたって、中島飛行機(飛行機製造工場)がありそこに動員されて、昼夜三交代で、機械を回せと言われた  旋盤工だった
発動機の台座を作っていた  休みになると屋上に上がって歌を歌ったりして遊んでいた
神楽坂にある三味線のお師匠さんと知り合いになり、藤娘、娘道成寺とか長唄を習った
その人は13歳で名取になった人だった
昭和20年になると負けるという事が、噂になり始める 

すぐわかる 旋盤で削る材料がなくなる  我が家も空襲で焼けてしまう
いろいろ衣料をもらったりした 代用教員になったが、泊る家がない 
代用教員はあきらめて、昭和女子専門学校に行くことになるが、やる事もなく自宅待機になった
家にいて、玉音放送も家で聞いたがさっぱり判らなかった
又短歌に出会う  秋になったら瓦礫の中から、耕して畑を作って、かぼちゃ、なす、きゅうり作った緑が瓦礫の上に生え茂ってくる そこに、こうろぎとかバッタがいる
歌集をもらった 「馬おいの 髭のそよろに 来る秋は まなこを閉じて 思い見るべし」 という歌に出会った    「まなこを閉じて」 というところに凄くひかれた まなこをとじてみえないないものが全部見えるんだと気がついた

長塚節の歌集で、真似をしようと思って作り始めた
駒込に能楽堂が残っていた  能を見にゆくことになった(国文学の単位取得のため)  
今更能なの と思っていやいや行ったが、感動してしまった  
後に人間国宝になった人が出てくる  情につられて泣く人が出てきた
たちまち家元に入門してしまった  
歌も友達に誘われて、窪田章一郎が「まひる野」という雑誌を戦後いち早く立ち上げたが、そこにすぐ入門した

昭和23年に戸井田道三 評論家がいたが、能芸論を出版した これを読んで民俗学的な見方、社会学的な能の見方に驚嘆して、今まで私が見ていたのは単なる、ドラマとして見ていただけに過ぎなかった事に気がついて、非常に大きな衝撃を受ける
歴史があるものって、私は能なんて戦後つぶれてしまうのではないかと思ったが、自分が感動したことによって、どこに何を感動したのかと思って、随分能にお金を注いで見に行きました
深い歴史のある 形や、発声に民族の声や方がある事を知ったわけなんです
中世の世阿弥とつながっているような感覚
新作能を見に行って、現在の主人と出会って、結婚したが主人が結核になったりしたが、治った
「早笛」を創刊する 出版記念会でこんな歌は駄目だと皆にコテンパンにやられた

第二芸術 開戦の時と敗戦のときに涙を流すような歌なんかは、そんなようなものは文学ではないとか、文学の様式というのはそれが完成したときに終わるもので、そのあと違う様式が生まれるべきだと、短歌と俳句だけは延々と今にやっていて、伝統というよりは、惰性で持ってそういう様式を借りて、戦争が起これば、感動して涙を流し、戦争が終われば感動して又涙を流し、そういうのは駄目じゃないかという事でしょ 文学とは何かというものがないと、そういう事を言った
その通理だと思いながら、一つだけありがたいと思ったのは、高見淳さんが反論したこと
日本の小説、詩も世界の三流ならば、短歌は何だと これは三流でも二流でも一流でもない 
独特のもので日本文学から短歌を引き算したら何が残るのだと 言う事で
論争の圏外にある日本文学の大きな地下水脈ではないかと、言う事を言ってくださった

第一歌集は否定された 戦争に負けて日本の古いものを何から何まで全部否定したような風潮があった 新しいものが全部いいような
斎藤茂吉が死に、釈迢空(折口信夫)が死んで、30年には新しい我々が第二芸術に答えを出していかなければならない  第二ではないという事を  文学としての短歌を打ち立てていかなければいけない責任があった そういう中で私が否定された事を私自身が痛烈に感じた
塚本邦雄さんとか 岡井隆さんとか 寺山修司さんとかが登場して、新しい短歌の時代が生まれてゆく中で、学校の教員になっていたので、いろいろな闘争に参加して言って、理論闘争もやるわけです
私自身も論闘争に加わっていった  昭和34年には「地下にともる火」を出した
次の転換期が出てくる 素直な歌から、技術を覚えて、闘争する姿を歌う歌集

オリンピックを機に日本全体が変わってくる 60年安保の直後に私が親しくしていた岸上大作(国学院)が安保闘争の傷を負って自殺する  自分は本当に社会派なんだろうかと自分自身が判らなくなる   あるときに伝統とは何かを書かされた  伝統派なのかと逆に思われた
古典と芸能にようやく気がついた  歌の要望は無く、芝居を書いたりしていた
「舞い歌」「はし姫」 書かせていだいた 主題を持って書くようになる
古典の読み方を唐木順三さんとか目崎徳衛さんとか角田文衛さんとかこの三人は忘れることのできない先生ですね
式子内親王」を書いた(村上一郎さんが私に式子内親王が書けますと言ってくださった)  70年安保が近づくなかで治承の乱と重ねて、兄を死なせた姫君 一生独身でその記憶と歌に生きた人だったと考えながら書いた 物書きとしての登場の場を開いてくれた
歌と芸能的なものと古典的なものとを手にすることができた
今の立ち位置が決まったと思う  回り道は大事だと思う 
「鬼の研究」にも広げる

自分のしていることに自覚を持っている「鬼」はなかなかいなくなっている 「鬼」もいなければならない
好きなものをいくつか体験して、その中に身を投じて、趣味としてではなく、苦しなければいけないし、苦しんだ数々の場面を一本の糸でつなぐと自分ができるという感じを持ちますね
これからの活動→日本の恋  恋は人が人を想うだけではなくて、世の中に恋をする 自分の未来に恋をする
さまざまな恋がある 恋はいのりですから  広い場面で恋を考えてみたいと考えている














2013年4月21日日曜日

馬場あき子(歌人)        ・時代を創った女たち

馬場あき子(歌人)     ・時代を創った女たち
日本女子専門学校 現在の昭和女子大学を卒業、中学、高校の教師を務めながら、短歌と能を学び、1955年第一歌集「早笛」を発表 昭和52年教師生活を終えて、短歌の会「かりん」を創始し、以来歌人としての活動を中心に文芸評論や新作能の創作にも意欲的に取り組む
平成15年日本芸術院賞を受け、芸術院会員になりました

正月は昔は百人一首をやったり、していた   子供の時から百人一首はやっていた
小学校は成績も悪かったり、母は結核でそばに寄せ付けないようにしていたので、あまり記憶に無かった ほしいものは意外と揃っていて、欲求というものがなかった
感情が動いたのは母が無くなったときで、6歳くらいのとき、 父は雪をかぶった南天を見ていて振りかえった時に、涙を浮かべていたことを鮮明に覚えている  
小学校は祖母が越境入学させた 池袋第五小学校 江古田から電車通学 オール乙に丙があった(当時の成績表のランク 甲、乙、丙、丁) 
 
祖母は成績なんかどうでもいいと言って、本を読むこと、百人一首は暗誦できた
叔母が数学を教えてくれる 物語にして考えてしまい、判らず、叔母からは叱られた
2度目の母が突然来て、今までの女性の世界とは違う女性が来て吃驚した
小学校の3年夏休み後 継母の家(高田馬場)から通うと祖母にいう (なぜこのように行動したのか判らなかった)
綺麗なお母さんで三味線も弾けるし、踊りもできる 教えてもらって楽しいという事を覚えた
新文化の世界に入ってしまった この母親が好きだった 感情が子供だった
こずかいはたくさんもらえるが、勝負をしてほとんど蒔きあげられた(面白かった)
戸塚第二小学校に4年のときに転校する

父は大学を出ているのに、お子さんがこんな成績では無念ではありませんか もう少しお子さんの勉強に関心を持って見てあげてくださいと、説教されている
初めて勉強しなければいけないと思った
国語と歴史だけは負けないことになる 数学は駄目だった
近所の子とも、以前は大事に扱われていたが(祖母が近所の子にこずかいをあたえていた)
新たな近所の子とはいつの間にかガキ大将になっていた
父は釣りの名手だった  一緒に連れて行ってもらって、その時に初めて歌を作った
「山ざくら 花散り果てし 木の幹を 静かに露の伝いいるかも」
自分のノートに書いておいた(親に話すことは無かった)

段々戦争が激しくなってからも、親に相談はしないで、自分が決めたことを親が承認するという子だった(私の性格だったと思う)
どんどん本を読んだり、歌を詠んだりした
昭和16年12月8日 数学の試験で何もできなかったが、開戦の日で校庭に集められ、数学の試験は不問に付された
本だけは毎日読んだ  読書会を作って、いっぱい読んだ(14歳)  女の一生はじめいろいろ
能の好きな友達がいた  寿座に2年ぐらい通い詰めた その後19年に娯楽禁止になった
その時に養われたものが、戦後に全部芽を吹く (子供の時にいいものを与えることは大事だと思った) 多感な吸収力があるときに、体験しておくということは、いろんな意味で生かされてくる
























2013年4月20日土曜日

村田久行さん(68歳)       ・傾聴にかける思い

村田久行さん(68歳)     ・聞くという生き方
傾聴  末期患者や家族、災害の被災者など心の痛みなどを抱える、人と向き合い、その人たちの悩みや苦しみなどをひたすら聞くことで、その痛みを和らげようというのが、傾聴です
研修を受けたいという人が増えて、各地で講習会が開かれています
傾聴の指導者の一人が京都ノートルダム女子大学特任教授の村田久行さん(68歳)です
青年時代に人は何の為に生きているのかという疑問がわき、今もその疑問と向き合い続けています  傾聴について学び、講習を受けたオーストラリア人の講師から、傾聴の聴 という漢字を示され、耳で聞くだけでなく目で聞く 集中した注意力で聞くという事を学びました
傾聴は苦しみの中にいる人の生きる叫びと向き合い、聞いてもらえる相手がいることで、人々は生きる力を自ら引き出せるようになると村田さんは言います
相手の話を聞いた後の無上の報酬と村田さんは言います

心を尽くして相手の話を聞く 効き目とか何があるとのではなくて、相手の人の悲しみ、苦しみを聞かしてもらうのが基本 そうして相手の人が少し気持ちが楽になったり、できれば前向きになれれば嬉しいと思う
どうやって聞くかは2番目 3番目の話で 何を聞くのかが重要 相手の人の苦しみ、悲しみを聞かしてもらうんだという事をそのつもりで聞く(聞くことが援助になる)
援助→ 苦しみなどを和らげる 軽くする 無くすこと
なぜ聞くのかという事も大事 どのように聞くのか
人が絶望的になる一番大きな要因が孤独という事 人と一緒にいても孤独を感じる
生きる意味がないという事にもなる  孤独はわかってもらえない 
特に苦しみを分かってもらえない

お年寄りはよく昔の話をする 同じ話を何回もする 家族はこれを聞こうとしない
どうすればよく聞いたことになるか 相手の苦しみを聞いてあげる 
大事な部分を相手に返すことで相手はわかってもらえると思う
(まだまだ生きたいと思うようになる)  一人ではないんだと思う  
神父さんのレポート  臨床 ターミナルケアー キリスト教、宗教をベースにした魂のケア
病気の人の魂をケアする専門職  育成するコースがアメリカの病院にある     (CPE)
このコースを受けたいと電話したら日本にはないといわれる
たまたま日本で初めてやるとのことでそこで受けた
医療者でないもの出かけてゆき魂のケアをする  訪問することが非常に大事な援助となる

病気になって自分が治る見こみがないという人 家族も来ない  そこに行くことが大事
①何にもしないでそばにいる(相手が信頼の気持ちがないと駄目)
②傾聴  聞くことが大事  (魂の援助になる)
初めての人間に対して話してくれる
最初病院に行った時、いろいろな病院にあたったが全て断られた(キリスト教という事で?)
たまたま特別擁護老人ホームの理事の方がおられて、ケアの話をしたら、うちのホームで年寄りの話を聞いてもらえませんかという事で、聞いたのが、傾聴の始まりだった
聞くことはそれだけでいいんだ それだけで援助になる と判った
シドニーにホスピスがあり2週間教育研修に行く  
聞くことは 耳で聞くだけでなく 目で聞く 心で聞く 事を教えてくれた

聴 という漢字の親戚  聖 徳  聖なるものの声を聞ける人 その人が徳のある人 
聞く力が鋭くなると、人の苦しみがまさに見えてくる それが聞くことの一番最初のサインのメッセージとして受け取る
医療の分野 末期のがんの患者 認知証のお年寄り 鬱で落ち込んでいる人 孤立と孤独の中で誰にも気使ってもらってない人  死んだほうがましだと思っている人 その人たちに対して一番できる事は聞くことなんです
聞くことは最後で最大の援助 だと言っている
全ての病気が治るわけではない  がんの患者(30万人ががんで亡くなっている)

ドクターは自分の無力に悩む  患者さんからは治るんでしょうかといわれるが
身体の苦しみ、心の苦しみ 社会的な苦しみ(治療費、家族の迷惑になっているかも知れない)
スピリチュアル的苦しみ(生きる意味がないという考え  死ぬ時は一人で死ぬ 孤独)
薬、手術、でも 放射線当てても駄目 お説教でも駄目(信じていない人) 
その時に出来るのは 傾聴なんです(スピリチュアルな痛み 苦しみ対して)
傾聴ボランチィアでの相手の人の話 昔話をするようになる 母の事がたくさん出てくる
母は冷たい人だと思っていたが、話をするようになって、母はそうではなかった事に気付く
段々雰囲気が違ってくる 母親が向こうで待っていてくれるような気がするとのこと
母親のことを祈っていますとのこと 随分落ち着く(母とのつながりの中で生きている)

死の真近な人がイライラなどが無くなり、自分が死をも越えた他者とつながっていると実感できる瞬間、それが出来たのは聞くという事を通してできたと思っています
「生の回顧」  自分自身が生きてきたことをもう一度語る事を通して、自分の大事なこと、日頃気がつかなかったこと気につくプロセス  スピリチュアルケア
魂の仕事  魂は死が真近になると、仕事を始める 
過去の事実は変えられない 過去の事実はおりなおすことができる
自分の思い出すままに語る  事実をどうやって縦糸、横糸で織りなおすかで、新たな模様が浮かび上がってくる  それはその人の一生だと 生きたとはこういうことだと実感する
そういう作業をまさに魂はするのではないかと思う

その人自身が語る事で、自らが新たな将来を生み出し、新たな死を迎えた他者を思い出し
その中で、自分がよく生きたと言うのを 織物をおりなおして生きられたなあと思うんですね
その手助けが出来たのはスピリチュアルケアだと思います
戦後お互いの事を聞こうとしない社会になっている(自分の事を言おう言おうという社会)
聞こうという事できる人が増えれば、判ってもらえたという関係、信頼の関係が増える













  

  




2013年4月19日金曜日

中里良一            ・町工場のばねが全国へ

中里良一       ・町工場のばねが全国へ
新幹線の車両から洗濯鋏まで、およそ7000種類のばねを作る、群馬県甘楽町にある社員21人の町工場の2代目です
去年ほぼ4半世紀かけて、全国47都道府県全部に取引先を作りました
注文に応じて1個でもすぐに納入するなど独自の発想で、ばねを製造し次第に種類が増え、
応急修理用から試作開発用のばねまで、準備した結果全国47都道府県で取引ができる様になりまた
中里さんは損得でなく、好き嫌いで取引するなど、独特な経営方針とユニークなアイデアの持ち主です  ユニークな経営方針はいったいどこから生まれたのか、伺います

ばね いろんな用途があるが、洗濯鋏、ボールペン等の家庭の中に浸透している
車両用新幹線のばね、大型トラック、産業機械 (くるぶしぐらいの太さのばねまである)
1台の機械で約5役をこなせるように改造して、いろいろ機械がある
1523社とお付き合いができるようになった(全国の会社 24年係る)
営業マンを一人も置かずに、私一人で営業活動をやってきた(一人当たり1000万円かかるので)
交通費相手持ち  門前払いは日常茶飯事
 
社員は物作りにプライドを持って専念してもらう(作る人はプライドがあり 営業はプライドを傷つけられるので、私が営業を担当)
10年ぐらいたって、目標である全国に取引できる会社への見通しができるかなあと思えるようになってきた
新しい基準を自分で作れば、即刻一番になれる 楽しい会社 楽しくするために愛情をかける
儲かる会社という事が目標だと気持ちが貧しくなる 
無駄を省く は確かにある面はいいが 最後はあなたはいらないよという事になってしまう(ぎすぎすしてくる) 
 
気持ちに豊かさを持つ事がないと駄目(給料+心の豊かさ 小さな会社の社員教育)
お客さんを好き嫌いで選ぶ(下請けを見下すようなお客さん、商道徳に反するようなことを要求するお客さん)  お客さんを1件断ると、3か月以内に10件新規お客さんを開拓する事が目標
ノルマは私だけ 社員にはノルマは与えていない
今までに年間50件~60件新規開拓している
自分の仕事を好きになるようにしてきた
まず眺めて会社の雰囲気をつかむ(伸びる会社かどうか)
ものが散らかっている、いろんなものが置き去りにされている→ 管理体制が良くない会社
確率を重んじるのではなく、いろんなお客さんを知るという事がまず第一
その中から自分の会社にあうお客さんを探す楽しみをもらっていると思っている
弱いものいじめをするような会社が多々ある

いやなお客さんに頭を下げて、仕事をするよりも、好きなお客さん、尊敬するお客さんの仕事を尽くすほうがやりがいを感じる(町工場の心意気であると思っている)
大事なのはどの仕事が向いているかどうかでは無くて、会社が自分を必要としているんだと思って頑張りぬけるかどうか、やり続けるかどうかが、勝負だと思っている
多数意見が常識なんですね でも時代はいつも非常識意見、少数意見が作りこんだ結果であるという風に思っていただけるといいのではないかと思っている
社員で月一回 夢を語る会議がある 夢年表を作る(達成するためにどういう行動をするか)
夢は追うものではなくて、手繰り寄せるものと思っている

夢を実現するための工程表を作る
土地、建物以外は借金すると辞めてもらう事にしている
1年間一番頑張った人にはご褒美が二つある
①社内にある装置を全部時間内に使ってもよく、材料も自由 足りない場合は100万円まで補助 して好きなものを作ってよい(ばねのアート)
②尊敬できないお客さんは社員が決定できる(私は決めてはいない)
 申請書をだせば、無条件で決定できる
新規会社は3~6カ月は私が担当して、それ以後は社員が直に窓口担当する

社員教育の原点は感じさせる 気がついたら多能工になっているように仕向ける
技術の井戸と遊び心の井戸を交互に掘ることによって、使い捨てでない 職人を育てることができる  21名いるが、19歳~60歳代  全員で役割を演じる
経営者と波長が合えば60歳以後も働ける
大きな会社は組織に幸せにしてもらうと願う、小さな会社は自分でなんとか幸せになりたいと思うので、生きざまが違うと思う

生きざまに沿ったお客さんを見つけてくるのが、私の仕事になる 
町工場はその地域でしか働けない人の受け皿になっている
ばねのアート作品は売る事が出来る 価格は製作者が決める(40万円で売れたものがある)
マンネリにならないため 次の夢 現在810の市と区があるが、そこ全てにお客さんを持つ
現在310の市、区になっており、あと500 私の代で駄目なら、次にバトンタッチをする
夢=目標=自分の行き先  現在地が分からない人が多い 迷子になってしまう
どういったことを今日やっていくのか 夢の先組が楽しい








































2013年4月18日木曜日

眞理 ヨシコ           ・四世代を越えて歌い継ぐ 2

眞理 ヨシコ     ・四世代を越えて歌い継ぐ 2
小学校5年、6年のときにラジオに出演(台本がガリ版刷りだった) 2年近くレギュラーで
「歌のお姉さん」はずっと続いている
(当時他の民放TVでも同様な番組があったが現在は無くなっている) 
日本人がいかに、子供向けの歌を大切にしてきて、次から次へと提案してきたという事がよくわかる  唱歌に始まっている 
大正7年に童謡運動 「赤い鳥」 で始まる 
子供のために何かを考えて音楽なり詩なりお話なりを提供しなければいけないと根付いた
(世界に誇れる日本の文化史遺産だという人もいる 鈴木三重吉が考えられた)  
当時の大家が作っている野口雨情 北原白秋 「金の船斎藤佐次郎   童話では西条八十
いずれにしても凄いレベルの高いものが残された
現在でもその流れは続いている
 
日本童謡協会が一生懸命やっている 地方でも自分たちの歌を作ろうと作曲コンクール、作詞コンクールをやっている
「風をください」 北九州で出来た曲  「赤い風船飛んだ」 など
その土地から生まれた自分たちの歌を作ろうじゃないかと、言うので作詞コンクール、作曲コンクールが続いている(以前よりも減ってきているが)
唱歌 曲が先に出来ていて、詩をはめ込む(外国から来た曲が多かったので)
「蛍の光 」「庭の千草」「夕空晴れて」など沢山ある
先に詩があって、それから音を紡ぎだしという作り方を、かなり守っている
イントネーションにあわせながら、作曲する

中田喜直さんとの交流 今年13回目の「水芭蕉忌」があり出演することになっている 
19代目の「歌のお姉さん」と一緒に出演することになっている  
 
「おもちゃのチャチャチャ」 放送で一方的にとコンサートでは違う 
是非小さいお子さんがいらっしゃる方は、なまの音楽会に来ていただいて、聞いていただくといろんな体験をすると思う 
 30周年記念コンサート NHKホールで行う   個人で行う  ボニージャックスが賛助出演
神崎 ゆう子さん おさむお兄さん 賛助出演 その他ひばり合唱団等
当時聞いてくれた子供が立派な大人になっている
50周年を言記念してCDを出している  昔の物を編集してだす 全部で63曲 そこまで絞るのに苦労した  
「七つのこ」  野口雨情作詩 本居長世作曲
  
子供たちにいいものを提供しなくてはいけないと思っている
提供するのは大人 大人側の態度をなんとかしないといけない
情報量が多いので、母親の意志をどう反映するか、が難しい
「泳げたいやき君」いい歌だと思う 
何をその歌から大人が考えて伝えようとするか、が大事なこと
子供にとってはある時期までは、絶対に親がそばにいてあげる時期はあると思っているので、その時期だけは我慢してくださることは出来ないのだろうかと思っています

東洋英和女学院大学で10年間先生をする 自分自身勉強になった
幼稚園の先生、保育園の先生になる人のために音楽を教える授業を持っていた
意外と童謡などの歌を知ってはいなかった 若い母親があまり歌ってあげてない
言葉 判らない言葉が増えてきた   仕方がないと思ったこともある
たとえば、歌の中にある「工員さん」 を銀行員と思ったりする人がいる 
ペットボトルのお茶しか飲まない人は茶柱が解らない 

日本青少年文化センターの常務理事を務める  
生の音楽会を学校に届けてゆく  60年間やっている  
福島県 広野町 童謡大使をしている  5000人の人が疎開してしたが除染が進んで、町役場は戻ってきた 
19年間 コンサートをやり続けてきた  地方の言葉を活かした、歌になっていたりする
四世代が一緒に来ていただいて音楽会を開催したい




2013年4月17日水曜日

眞理 ヨシコ           ・四世代を越えて歌い継ぐ

眞理 ヨシコ・四世代を越えて歌い継ぐ
1961年 東京芸術大学声楽科在学中に、NHKのオーディションに合格して、デビューしました
初代歌のお姉さんとして、童謡など子供の歌を中心に現在まで活躍し、今年でデビュー53年目を迎えたという事です
TVの「お母さんと一緒」を見ていてくれた子供がすでにお孫さんがいる時代となり、現在では四世代で眞理さんのコンサートを楽しむのが夢ではなくなったそうで、子供に聞いてもらいたい歌への想いをお聞きします

声はあまり変わらないが、年を取ると声が太くなる傾向がある
デビュー後今年で53年目になる  今はTVでは出ていないが、コンサートは月に一回ぐらいある
歌の内容は唱歌、童謡、新しい子供の歌も少し歌う
文部省 明治5年に出来て、なんとか音楽の時間を作らなければいけないという事になって教科書ができた  それにはいろんなことがあった

唱歌 外国でよく歌われてている歌 イギリス、アイルランドなどの国の民謡などが先ずたくさん入ってくる  
昭和36年にデビュー 
音楽学校で学んでいて、できればオペラを歌いたいと思っていた
声量があるわけではないので、イタリアオペラがドンときて、これはとてもかなわないと思った 
ミュージカル映画が多く入ってくる   見ているうちに自分向きかもしれないと思った
クラシック以外を勉強しなくてはいけないと思った

小学校のころにNHKラジオに出演する機会があった(歌が好きだった 両親も歌が好きだった)
小学校には珍しく音楽の専門の先生がいらっしゃった  大津三郎先生
NHKの人が訪ねてきて、その中で選んでいただいた
両親とともに童謡、唱歌を歌った(沢山の歌を覚える事になる) 小学校の学芸会ではよく歌った
素晴らしい音楽家、砂原美智子 日比野愛次(N響バイオリニスト) 山口敏子?(ピアニスト)等の人に出会う事が出来た  スタジオで生演奏をしてくれた 
出来れば音楽学校に行きたいと思った 麹町中学、駒場高校(音楽科が都立高校で唯一有る)
東京芸術大学に進む  クラシックを勉強する オペラは無理だと見切りをつけていたので
深緑夏代先生から シャンソンを習う 門下生となる   ダンスも習う(忙しかった)

NHKに、在学中にオーディションを受ける 合格する 昭和36年2月 受けて3月のニューボイス(新人が一曲歌えるコーナーがあった) 「歌の広場」で歌わせていただいた(生放送)
「桜がいの歌」 白地にピンクの貝が飛んででいるような着物で歌った TV出演
4月から始まる「歌の絵本」のオーディションがあり、それにも合格する   子供の歌一本に絞る 
朝8時30分から40分まで毎日放送する事になる  3~4曲を歌う
その後「お母さんと一緒」に組み入れられる  朝の連続ドラマがそのあとに始まった
再放送があったので1日 4回放送された
今のVTRの時代 修正は簡単だが  全部が「生」で有ったわけではないが  幅10cm以上のテープなので当時編集するためにカットはとてもできなかった(非常に高価だった)
12曲はしっかり覚えなければいけなかった

「お花が笑った」「お話指さん」等 新しい曲  作曲した歌を歌った
11カ月してから番組用の新しい歌が作曲されて歌った
作曲家は中田喜直先生  磯部俶先生  大中 恩先生(「さっちゃん」作曲) 
「歌のお姉さん」は正味1年半 子供の歌はいい加減な伴奏ではいけない 
そのためには小林道夫さん 三浦洋一さんが 専属ピアニストが担当する
(子供に対する思いが強かった)
子供の歌は余分なものを切り落として、一番大事な物を残してどう伝えるか(俳諧の世界と同様)
短ければ、短いほど 歌って難しいですね

「お母さんと一緒」は15年間  水曜、 ぬいぐるみが出てきて、ぬいぐるみと関わって歌の世界を広げてゆく 木曜日はお話いっぱい いろいろな話を一人で語ってゆく
15分間分を覚えなくてはいけなくて、大変だった 
仕事をしているうちに、子供に歌を伝える使命感見たいなものを持つようになる

当時、学校ではアルバイトとしてしか認めていなかった 一人で責任を取って出るという事はアルバイトの範疇から出るという事になってしまう  学校は辞める方向になってしまった
そこに江上ふじさんが登場してくれて、ちゃんとしたところで、ちゃんとした音楽を勉強している人が子供の歌をちゃんと歌う、ちゃんと教えてゆくことがどうしていけないのかと、学校側に対して働きかけをNHKがしてくれて、学校を辞めずに済んだ













 

2013年4月16日火曜日

甲野 善紀           ・武術の技を暮らしに生かす 2

甲野 善紀       ・武術の技を暮らしに生かす
がんになるよりも花粉症になるほうがショックだと思う  花粉症にだけはなりたくない
スポーツ界で私の手法を取り入れて成果を出してもらった人は、けがとかなんかで、今までの方法でいき詰まった人がほとんど
床に転がった甲野さんを、簡単に女性が起こしてしまう (指の形、動作で)
日本人は身体を使って仕事をすることをしなくなった
昔は山仕事、石炭運び等で仕事で身体を作っていた  
仕事で作る身体というのは、なるべく身体が疲れないようにうまく体を使うようにする 
ウエートトレーニングなどは身体を疲れろ疲れろという風にやっているので、そこは根本的に違う
疲れないようにうまく身体を使って出来上がった身体と促成で筋肉に負荷を与えて筋肉を強くするというのでは全然働きが違う

昔は機械が無いので材料から運んでこなくてはいけなかった
野村貞夫 名人大工  現場に材木を運んでくるのに建ちかけの柱があるところに、材料を運んでくるのに、絶対に柱に材料をぶつけなかったという(体に物差しが入っている)
単に力が有るのではなく働きがある
身体の使い方も昔は自然に学んだ  
大げさにいえば基本的な人間の身体をうまく使う方法がここ何十年かで断絶した 
これは二度と戻らないと思う 今は大学生で鉛筆を削るのは悲惨な状況
講習を終えた若い大工が材料の運びが格段に良くなったと言われた
必然性を持たして、身体を通して体験させながら学ばさせれば、いろいろ応用力のでる子供も出るだろうし、つまり他の事が出来なくなっている 
もっと自由に子供のころから様々な学び方があり、ジャンルがあるので、好きに学べるようにすれば、ずっと違うと思う

学校は受験の為に行っているようなもの 人が人となるために学ぶというようでは無くなっている
明治以降は西洋に倣えという事て追いつこうとしていた 学校の体育もそうせざるを得なかった
旧幕のやったことはみんな悪い様に言ったが、そうではないと思う
渡辺京二先生の本 「逝きし世の面影」 幕末から明治の日本の姿を外国人がみた世界
本当に日本は素晴らしいと これがやがて西洋の悪徳のためにこの素晴らしさがい失われるのは残念だと言っている(我々は教わらなかった)
筋トレに対して→柔道の選手たちとやってみて思う事、体全体をうまく使う という事のマイナス効果になる事が極めて感じられる 下手に筋トレをしてしまうと単純な使う方になる
微妙に体をうまく使うという事が凄く阻害されることがある
仕事というのは疲れたくないので、身体をうまく使おううまく使おうとするが、筋トレで効果を上げたいと思う人は、潜在的に疲れたいと思う 疲れたのでこんなにさぞ筋肉がつくだろうと思う
単純な動作には強くはなるが、微妙な感覚で、微妙に体をうまく使うという機能が上がるかというと相当疑問がある

部分にかかる負荷を身体全体がうまく引き受けて、部分が負荷を感じないような使い方がいいと思うので、重いものが重いように感じるにはどうしたらいいか 身体をうまく使う事で重く感じないようにするのが、うまい使い方だと思う
武術の身体運用法  バスケット部への指導 練習時間が半分か1/3でインターハイで普通では考えられないところまで行った
数学を通して、心と体を整えるという 岡潔 は数学は情緒だ といった人 一番その思想に近い
人が学問をするという原点での、数学なり物を学ぼうという事で「この日の学校」と言う、彼と2人でやっている
介護 NHK教育TVで放送された  とても同じ人とは思えないぐらい楽に、動かすことができる
手の甲をうまく当てて、(おもに親指と人差し指のあたり)行うことで楽にできる
刀とか槍とか使うのは楽器に共通する面があって、それをうまく使おうとすると、身体の自然な使い方との間の折り合い点を見つけないといけない

ダンス関係の人も来たりする  護身術にも応用できる
相手の鼻と目のあたりを手のひらと指で擦り上げる方法が有効
桑田真澄のケース  2001年二軍に落ちていたとき 月に何度か来た
最初は半信半疑だった  守備が良くなった  蹴って今までは反応していたが、蹴らないで倒れこむような動作を身に付けた  蹴るとためを作るので、遅れてしまう
牽制球 やってもらったが、こんなに遅いのかと思って、自分がやるならば、こうやるよなあと思ってやって見せた  吃驚された   私は2挙動  桑田さんは3挙動なので私のほうが早い
陸上競技 2003年 世界陸上 末次選手 手と足の動き(昔の日本人は手を振って歩かなかった)  うまく応用すると速く走れる
昔の人の身体能力は本当にすごかった
















2013年4月15日月曜日

甲野 善紀           ・武術の技を暮らしに生かす

甲野 善紀      ・武術の技を暮らしに生かす
大学では畜産、林業の道を目指しました 
しかし、効率最優先の農業の厳しい現実にショックを受け、中退 20歳の頃から人間にとっての自然とは何かを追及する中で武術に出会いました
1978年独自に武術の研究を行うために、武術稽古研究会を設立してさまざまな流儀の武術や異なる分野との交流、武術の古文書の解読や研究を積み重ねてきました
現在は武術にとらわれない、身体運用法まで研究は広がって、その技と理論がスポーツ、楽器演奏、介護の現場などに応用され成果が上がっています

身体の動きと着物との関連性はある 高い下駄はいているが 路面で転ぶ場面があるので、自然に気をつける  小石一つでも転ぶ可能性があるので注意が必要
食事は雑穀が好きで、料理と言えないような簡単なものが好き 野菜はさっと湯を通したものを食べるとか、ごく簡単な料理で食べるのが好き
1949年生まれ ひっこみ思案で、体育は通信簿2だった動きも鈍かった 野球のルールも解らない
野山で遊ぶのは好きだった  動物を相手にするしか選択肢はないのではと思っていた
弱いし引っ込み思案だったので、武術にはあこがれがあった
曾祖父(鳥海弘毅らが大日本武德會を設立に貢献)は武術の世界にいたが、他には武術に関しては縁がなかった

東京農業大学、畜産学科に入る 牧歌的雰囲気にあこがれていたので
行ってみると、工場のような感じなので、これは生き物を扱うやり方でなないと思った
実習でひよこの選別でオスをごみを捨てるような扱い方をしていて、愕然とする
効率最優先での農薬を蒔く近代農業に対する根本的な疑問が出て、自分が行こうと思っていた道が閉ざされてしまった 
途中で林業に変えたが、実際との乖離があり 結果として中退した
ずっと日々いろいろ考えていたが、21歳に人間の運命は完全に決まっているのと、自由というのが同時に存在しているという事が確信できた

自分の生涯は、21歳で気付いたことを体感、実感しようと思った
確かめていこうと、それには武術がいいと思った
アインシュタインの相対性理論 光 粒子と波  物理というのは物を決めてきたのに、物の理を究明してきたのに、それがどちらでもあるというような結論になってくるという そこが自分の中に深く影響を与えたと思う 
禅 無門関 本当に修行した人は因果の法則を超えられるだろうか 越えられないだろうか
因果の法則はを超えられるだろうか 越えられないだろうかというのは さいころの丁、半の目が同時に二つ出たようなもので、どう解釈しようとみんな間違いだという風に書いてある
それらが自分の中で融合して(気ついて)
合気道とかいろいろやって、自分で納得の行くようにやらないとだめだと判って、29歳のときにこの仕事を専門にして、これを職業にしようと思った
 
稽古法を研究しないといけないと思った  
変な自信だけあって、一人で武術稽古研究会を立ち上げた
現実に身に降りかかる事に対する対処するか に対して追及する
スポーツはルールに従ってするもの
身体と心理的な反射 認識する時の(目や耳) 特性がある
2003年に研究会を解散する 巨人の桑田投手にアドバイスをして私の名前が世の中にでる 
そうしてしまうと、会自体が権威みたいになってくるといろいろまずいと思って、やめてしまった
松聲館 
「術と呼べるほどのものへ」2012年発刊
単なる繰り返しの延長線上にはないもの 質的に転換している

単純な帆かけ船というのは風を受けて前に進む ヨット見たいな三角帆を張ると逆に進む事が出来る(ジズザグ走行すれば)  三角帆を知らなかったら不思議だと思う
身体の中にある様々な原理をうまく使って、単なる繰り返しの延長線上にない技というか
そういう面で術というものを大事に考えないと、ただ努力しろ、努力しろと言って、筋トレなんか
やって力をつけて、というだけでというような形だと、どうしようもない
身体運用法 楽器演奏のアドバイスをしている 実感を得て頼りにしてくれる人もいる
介護も、寝ていいる人を起こすのに、ちょっとした手のひらを返すだけで全然劇的に楽になる
なぜか明らかに楽になるのに広がらない 不思議だと思う

現状のやり方とあまりにも違うと、そこで記憶から削除したくなるらしい
あるJリーグのチームに呼ばれて指導したことがあるが、選手は大興奮したがコーチは困ったような顔をして二度と呼ばれなかった
有効な技は得たいと思うんですが、今までの常識と異なると、突然態度がよそよそしくなるというか,一番問題なのは、どんなことでも人間の活動は身体を使ってやる
演奏に関しても不自然なまま、繰り返しやっていて、固定化されて、腱鞘炎になったりしている
身体を使う認識が今一つ
ちょっとした手首の返しかただとか、向きとかで全身にどれだけ影響しているかという事への指摘が私があった人はそういうことを、音楽を習っていた時代にそういう事を聞いたことがあるという人は本当にいませんから,基本的なところで凄く無理な姿勢で数だけやって、なんとか体に染み込ませようとして、でも身体は拒絶しますから、絶対おかしくなる



 











  






2013年4月14日日曜日

室瀬和美(人間国宝)      ・漆ジャパンを暮らしの中に

室瀬和美                          ・漆ジャパンを暮らしの中に
東京芸術大学・美術学部・工芸科を卒業 大学院で漆芸を専攻しました
父のもとで技術を深め、日本伝統工芸展を中心に作品を発表してきました
平成20年蒔絵の技法で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました
室瀬さんは伝統技術に現代感覚を取り込んだ、創作活動の傍ら、文化財の修復や古い技法の研究にも精力的に取り組んでいます
漆は海外でジャパンと呼ばれたほど親しまれた時期がありました
その漆が日常の生活から遠くなっている現状を憂いて、なんとか日本文化再生の糸口にしたいと考えています
蒔絵の手法 漆の分野は漆の樹液を使って表現するが、塗りが基本 顔料に膠を練って絵を描く
油絵ですと顔料に油を練って、絵を描く  蒔絵の場合は金の塊をやすりでおろした金の粉を取る
その粉を使って絵にする 漆と練るのではなく、漆だけで最初絵を描く
その漆が固まらないうちにやすりでおろした、金や銀の粉を蒔きつけて、漆の接着力を使って、同時に固めてこれを絵にする
金粉も大きさも20段階も30段階もある  形も球体のものから扁平なものまでいろんな形 純金、18金だったり、

金の純度によっても違うし、組み合わせは無制限にある
細かい金粉を使うんだったら仕上がった塗面に、蒔絵をしてそのまんま定着して磨けば、もう仕上がる 平蒔絵
荒い金粉を蒔くときは、触ると取れちゃうので、そのまま蒔絵をした後にもう一回全体を漆で塗りこめる
模様は沈むが、それを研いで出して、そうすると金粉の高いところが研ぐことによって金の色が出てくる 研ぎだし蒔絵
触って、取れない蒔絵方法を古代の昔の人が考えて、1000年以上続いてきてる

父親がやっていたので、子供のころから、日常生活の中に漆器がある生活をしていた
漆は綺麗なんだけど使いずらい、とか大事だからもったいないとか言われるが、漆ほど綺麗で強いものは無い
家で使っているお椀は20年以上使っているがびくともしない
漆は水にも強く、油、火、酸、アルカリにも強い  
王水に漆を塗った金属片をつけたらびくともしない
腐るという事がないので発掘された中で最も古い 9000年前の漆器が腐らずに出てきた
考古学の方は漆を使うなんてと、概念がない(漆など使うはずはないという)

次から次に見つかって、三内丸山古墳で 6000年以上前という 縄文前期までさかのぼって、とうとう北海道の垣の島B古墳で出土した物を調べたら9000年前
中国で一番古いのが7000~7500年前と言われるが、それより前に日本で古いものが出てきてしまった
お墓の発掘から出てきた でかがり?  びかがり? とかの装飾品に繊維を編んで、それに赤い漆を塗って装飾に使って装飾したまま埋葬された
 それで腐らずに出てくる
それを調べたら9000年前の地層だった
漆を精製して顔料と練って、それを細工した物に丁寧に塗って、3回ぐらい漆を塗ったものが報告されている
専門家の仕事が縄文期の草創期に生まれている 
ある意味では日本の文化史としては重要なレベルがあった
漆は偶然の産物ではない
  
漆は、もともと油性のもの 水にはとけないものでありながら、樹液と言う水にも混ざる
樹液であるが故に、油性でありながら、水にも馴染む 科学的にも不思議だなと思うぐらい特殊な液
普通油の中に水があると、分離しやすい  漆は分離しない
水分をゆっくり抜くことにより、ゆっくりと固まる
漆の固まり方は複雑で塗料と言うと乾くとつい言ってしまうが、漆は水分で固まってゆく 重合 鎖状に固まり方をする
水分がないと硬化が起こらない
それも塗料とすると特殊な塗料 ふつうは水分が抜けて乾く(塗料の乾き方)
水分をもらいながら固まってゆく 特殊な性質を持った液です
漆の液自体が、幹に傷がつくと、自分の身を守るために、空気中の水分をもらって固まってかさぶたのようにして身を守る

塗料として使うにはゆっくり固まってほしいので、水分を抜く かき混ぜながら蒸発させる
漆の樹液そのものは水分が30%ぐらい入っているが、それを3%ぐらいまで減らして、固まる反応を遅らせる
それが漆の精製と言うが、かき混ぜながら水分を飛ばす 
そうすると数十分で固まるのが、放っておいてもなかなか固まらなくなる
固まらなくては困るので、今度はその分、外から水分を与えてやる 
それが漆風呂 戸棚の中に噴霧器で板に湿しを与えておくと、戸棚の中が80%ぐらいの湿度になる
その中に漆を塗ったものを置くと、水分をもらって固まる
人間が考えた知恵 よく昔の人が考えたと思う
そこに顔料を入れたりすると 赤 煤を入れると黒  とできたりする
ジャパン=漆と言われた時代があった

漆の技術をどんどん発達させた 蒔絵は日本独自の技術である(平安、鎌倉)
フライシスコ、ザビエルが日本に来てキリスト教を伝えて、鉄砲、カステラ、ワイン等を伝えた
その時に日本から出て行ったものは、知られていないが、彼らが来て一番驚いたのが蒔絵技法
ヨーロッパには無い 漆自体がモンスーン気候にしか生えない
漆の塗料がない 黒い漆に金で蒔絵をした美しい漆器具に感動した
宣教師が帰るときに京都で相当注文して持って帰った  ヨーロッパで一大ブームになる
江戸時代に鎖国 オランダを中心にヨーロッパ文化が入ってくるが、そうなった時でも日本の漆器はどんどんそこから
注文されて出て行って、ヨーロッパでは物凄く高価なものとして扱われて、その時に漆は「ジャパン」と呼ばれるようになった
(18世紀から19世紀にかけて) 漆は日本の代表とした扱われた

今では漆はラッカーと呼ばれるようになってしまった ラッカーとは全然違うが
漆が合成樹脂のものに変わって、漆なのか合成塗料なのか分からなくなってきてしまってきてる
本当に感性は手のひらに有って、触感で漆の質感は忘れられない さらっとしてしっとりして日本人の皮膚にぴったりする質感
是非感じ取ってほしい 
工程数が物ずごく多い  又材料も少しずつ少しずつ集めるので高い
何十年でも使えるので総合的にはやすくなると思うが
木は熱伝導率が低いので 漆の木の器は温かい味噌汁、ご飯が 温かいままで食べられる
漆を作る人、蒔絵の筆、支えてくださる方も食べていけなくなると少なくなってしまう
私たちがいくら頑張っても作れなくなる 

家庭に一つ漆器を取り込んでくれるとその人たちが助かる
漆のお椀でご飯を食べる事は少ないと思うが、 陶器、磁器はお茶碗と呼ぶ 

お茶を飲む器、陶器、磁器は熱を外に伝えやすい 熱い熱湯を入れて、さーっとお茶の葉っぱを入れて、かき混ぜてすぐに飲みごろに冷めてくれたほうがおいしくいただける
(だから陶器、磁器は適した素材)

ご飯は、ゆっくりいただくもの 早く冷める容器に入れたのでは最後のほうは冷たくなってしまう
ところが漆塗りの木のお椀だと最後まで温かくおいしくいただける(日本人の知恵だった)
ご飯茶わんと言っているが(不思議な名称となっている) 飯椀と言って 木へんのお椀を使う
素材が違う 日本の食文化が高かった  器だけが置いてきぼりになってしまった(食材等は気を使ったが)

見えないところに手をかけるのが日本文化であると思うので、もう一度思い出してもらいたい
日本の工芸の文化 自分の思うがまま主張してゆく、美術の世界と違って相手の気持ちも考えて
そこにまた美を作ってゆく 美だけではない、相手も喜ぶ、生活のなかで使える
こういう中に美を求めるのが、日本の美術の世界で、これが漆というものに置き換えれただけで
幅が広い(生活用品から美術品まで)
漆の素晴らしさを理解していただきたいと思っている
室町時代に作ったものはその時代の最先端の技術、デザインで作っている
自分が死んでも自分が作ったものは、直して愛情を持ってつなげてほしいなあと思ったら
前の人が作ったものは直してあげなさいと言うような教育受けて、一つ作ったら一つ直すというような想いで両方やりなさいと言われて、文化財の修復を始めた

直すプロセスの中で、昔の人が考えた技術が壊れたところから、たくさん見えてくる
傷んだところから見えない工程が見えてくる 各時代の人は創作活動をしていたんだなというが
手に取るようにわかった(物が先生  先生がいっぱいる)
是がまた創作活動に加わってくる やりたいことがまた沢山増えてゆく
古いものが素晴らしいと言って古いものばかり、を真似してもそれは今に取り入れられなくて
今の人がどう好んでいるのか、新しい使い方の提案、こういうものもまだ歴史から学んだものを
展開してゆきたい
世界に発信してゆきたいと思う漆は金属にも塗れる いろんなものが使えるようになると思う  強さ、美しさを兼ね備えた塗料なので

2013年4月13日土曜日

沼尻竜典            ・斬新なオペラを琵琶湖から

沼尻竜典(芸術監督)
平成10年開館した滋賀県立芸術劇場琵琶湖ホールは今年15年目を迎える(4面舞台を備える)
地方の枠にとらわれず、オペラ、バレー、ミュージカル、クラシック、演劇などジャンルを超えて多彩なステージを展開してきました 
平成19年に第二代の芸術監督に就任、常に斬新さと最上の物を求めて活動してきました

今年、ヴェルディー生誕200年 ワグナー生誕200年でもある 琵琶湖ホールでも記念した演目を用意(先日は ヴェルディーの有名な椿姫 9月にはワーグナーの人気のある有名なワルキューレを上演)
芸術監督 野球の監督見たいなことをしてるわけではなく、劇場によってもホールによっても微妙に守備範囲が違ってくる   琵琶湖ホールでは全体の企画、オペラを指揮する、コンサートの指揮、ルビーコンサートに出演したり、解説をする
最終的にはオペラのチケットを買ってみていただきたい
基本的には来てよかったなと思えるようにしていきたい

オペラの解説をやるような企画をやって理解していただくようにしている
オペラの準備は物凄く大変 半年ぐらい稽古期間があるものもある
専属のスタッフがおり、近隣に協力が得やすい環境(オーケストラ等)がある
ピアノを小さいころから弾いていた(2歳半ぐらいから) 子供合唱団にも入った
高校生ぐらいから桐朋学院 ピアノ科 大学に行くときに作曲科に変わる
作曲は自分の世界を作れるということで面白いと思って行った
限界を感じて、外国に行ったときに指揮科に行った

最初コンサートの指揮者をやっていたがオペラの世界に入ったら、やたら楽しいなと思うようになって今日に至った
或るとき演出家の鈴木啓介さんが企画されたオペラの仕事をいただいて、(30代の半ばにオペラの)それからこの世界に入った
ベルリン大学に留学して オペラの勉強もする  フランスでブザンソン国際音楽指揮者コンクールで優勝
しごとができそうだという認証をもらったような感じだった(でもあくまでスタートである)
オリンピックで金メダルをもらって、その後指導者への道というようなこととは全然違う
演出家を選ぶのも芸術監督の権限 

クラッシックに作りこまれすぎると文化の違いがあるので、日本人には合わない傾向がある
年間に4つぐらいしか上演できないので前衛的なオペラはやろうと思ってもできない
(年間10本ぐらいやれば、1本ぐらい前衛的なオペラも入れてもいいが)
指揮者自身の練習は? ひたすら譜面を読む、その作品が書かれた当時を調べる、どういう伝統があるかどうかを人に聞くとか CD、DVDを見るとか、いろいろある
手の動きはその時の気持ち、想いがあり、かなりいい加減なもの
同じ楽団でも指揮者によって全然演奏が変わってくる(不思議なもの)

海外からの招へい お金がたくさんあるわけでは無いので誠意をもって交渉する
日本の文化をもうちょっと内側から体験して見たい、日本に滞在してみたいと密かに思っている人は実は結構いる そういう人に当たるとスムースに交渉が進む
オペラハウスの特徴 京都に近い おいしいものが食べれる 温泉がある 等興味を持つように勧める(琵琶湖ホールのホームページの英語等での充実が必要)
英語での環境整備が必要
オペラは満員になっても赤字 (赤字分は県の予算のなかで賄う)
共同制作で支出を抑える事を考えている(国内、海外も含めて)
 



































2013年4月12日金曜日

佐藤弥右衛門(酒造会社社長)    ・会津の復興は手作り電力で

佐藤弥右衛門(酒造会社社長)   ・会津の復興は手作り電力で
大和川酒造9代目 原発事故をきっかけに、自然のエネルギーをもっと利用しようと会津自然エネルギー機構を立ち上げ、呼び掛けています
原発に頼らない、エネルギーの地産地消 更に自分たちの電力は、自分たちでつくってこそ地方は自立できるという 酒作りの当主  会津北方風土館の代表でもあります

会津若松は原発事故以来 修学旅行が多かったが、ほとんどゼロになってしまった
風評被害にあった  
会津地方では原子力発電はやめようと、どうしていこうかとエネルギーを考えるようになった
自然エネルギーへの変換、水力発電 240万KW 福島県全体の使用量は190万kw(都心に電力供給している)  
会津自然エネルギー機構を作った 自然エネルギーの勉強から始める
喜多方は地震の被害はなかった
飯館村の米を使って酒を造っていた みやまにしき おこし酒(村おこしのおこし おこしくださいのおこし) 飯館村との付き合いは25年になっている
原発事故でおこし酒を無くしてしまうのはもったいないので、喜多方で米を作ろうということになった  昨年5反部、米を作った
猪苗代湖、尾瀬沼、只見川 等物凄い水量がある 水力を利用していた(発電 地産地消)
戦時、企業統合例が出される 戦後 酒蔵も独立する 
電力は国と大きな電力会社が担当する
停電になった時は、東京も停電になっているのだろうと思ったら、停電になっていなかった。
我々の電気は別のところからきていた(水力発電の電気は東京に行っていた) 
素朴な疑問 
農業で地域おこしをして、有機農業でやっているのに、小学校の給食は別のところから取り入れている   じかに使用したいとの問い合わせをしたらそうであれば交付金が出ないと言われた
自分たちで電力を作ろうと、太陽光、小水力発電 検討
今までは電気はお任せ状態だった  
学校の跡地に太陽光発電、小水力発電、等それぞれの地区でやりながら、地元のエネルギーを作る



















2013年4月11日木曜日

中沢宗幸            ・奇跡の一本松をバイオリンの魂に

中沢宗幸       ・奇跡の一本松をバイオリンの魂に
東日本大震災を受けて陸前高田市の高田松原で、ただ一本生き残った奇跡の一本松は被災者などの願いもむなしく塩害のために枯れてしまいました 
しかしこの木の命をバイオリンという形に変えて生かし、将来に伝えていこうと考えたのがバイオリン製作の第一人者の中沢宗幸さんです
震災後、自分のできることは何かないかと考え、被災地の瓦礫の中からバイオリンの材料になる木材を探し出しました そして奇跡の一本松からとった材料も震災バイオリンの一部として使いました

自分が長野、兵庫等で国際音楽祭などを企画している 若手演奏家を応援したり、いろんな勉強する機会を作って皆さんと一緒に文化、芸術の世界に拘わらさせていただいている
津波バイオリン(震災バイオリン)を使ってのプロジェクトが世界でも注目されてきた
津波が世界のどこでも通用する言葉なので
表から見ると普通のバイオリン、裏から見ると高田松原の絵が描かれている  鮮やかな青(空)
被災地の瓦礫の材料が使われている 一本松の材料も使われている
津波の映像、悲惨な姿にずっと心を痛めていたが、何もできない自分にどうするか、思い心を持っていたが、妻がTVを見ていて、瓦礫が処分にも困っているというニュースに、これは瓦礫ではない、これは多くの人の思い出の山じゃない、?これでバイオリンが作れない?と行ったのがきっかけです

「私は山に立っていたとき、木陰で人を憩わせ、いまバイオリンとなって、歌って人を憩わせている」
50年ぶりに思い出して、(この詩がバイオリンの裏に書かれていた)
2011年12月に陸前高田を訪れて、1周年慰霊祭には間に合わせようと頑張った
有る形まではできるが、ニスがなかなか乾かなくて、3時間ごとに起きてやったりした
いい音が出るようにとの思いがいっぱいだった
慰霊祭のときにイスラエル人のイヴリー・ギトリス(90歳の世界的なバイオリニスト)が是非私に弾かせてせてほしいと、パリから来てくださって献奏して下さった
私の父が趣味でバイオリンを弾いていた  職業は山林業でした

父は見よう見まねでバイオリンを作ってしまった  ものつくりの楽しみを教えてもらった
初めて作ったのが8歳だった  中学のころ、夏休みの工作にはバイオリンを作って持っていった
修行でイギリスにも行く  多くのものを見聞きするのは大きな宝となった
1980年工房を開くが、毎月のようにヨーロッパに行ったり来たりしていた
現在でも最低2カ月に1回は行っている(ドクターとして  メンテナンス)
自分ですべての工程を行ったのは、150ぐらい 多少手伝ってもらったのは200を超える数
バイオリンは共鳴板となる表の板は松で柔らかい材料 横板裏板はかたい材料 楓、ポプラ
桑も使われるがほとんどは楓が使われる

木も生まれた場所での声がある
松は梁に使われていたと思われる 楓は柱とか床板、そういうものであっただろうと思われる
魂柱 魂柱を建てることによってはっきりした音になる 表板の振動を裏板に通じる役目
魂柱が入って初めて、このバイオリンに魂が入る(奇跡の一本松を使うことになる)
魂柱が0.数mmずれると音が違ってくる
次にビオラを作り始めている
プロジェクトを立ち上げた 千の音色でつなぐ絆プロジェクト 
千という言葉 願いをかなえたいときに使われてきた(千羽鶴とか  千人針)

千人のバイオリニストにリレー式に手渡されて、できるだけ多くの方々に聞いていただきたい
それが亡くなられた方々への鎮魂となり、被災された方々には励ましとなり、われわれに取ってみては震災が風化しないように、われわれの世代、我々が亡くなった後にも、日本にはこういう悲惨な出来事があったと、いうことを語り継いでいってくれる音色であり、千の音色でつなぐ絆の役目を果たしてもらいたいと思っている
多くの方が弾いてくださっている(参加の申し込みもたくさんある130名ぐらい)
被災地の小学校にいってこのバイオリンでコンサートなどもしている
このバイオリンの持っている使命は非常に大きいと思っている
津波バイオリンはイギリス、フランス、アメリカなどにも演奏に行っている
できる限り被災地に行って、悲しみ、苦しみを少しでも共有することができたらと、思っています



















2013年4月10日水曜日

池谷薫(映画監督)       ・人間を撮る、私がドキュメンタリーで目指すもの

池谷薫(映画監督)人間を撮る、私がドキュメンタリーで目指すもの
番組製作会社のディレクターとして数多くのTVドキュメンタリーを製作、15年前に自らの映画製作会社を設立、劇場公開映画を製作してきました  
今年2月に公開された、最新作「先祖になる」は東日本大震災で家をながされ、大黒柱の長男を失いながらも自らの手で元の場所に家を建て直した、老人を描き大きな感動を呼びました
作品は今年のベルリン国際映画祭でエキュメニカル特別賞を受賞 日本各地で上映されています
延安の娘」「蟻の兵隊」に続き3作目

「先祖になる」は3作目 映画は人に見てもらわないと、命が宿らないというか 見てもらって育ってゆくものなんですよ
出口まで自分で責任を持ちたいと思うので4~5年に一本ということになってしまう
「先祖になる」  東日本大震災をテーマにした映画
自分には何ができるだろうかと思って、ボランティアをしようと思ったが、友人から瓦礫のかたずけしても意味がないので、どうせ来るなら映画を取りに来いと言われて、そうかと思った
最初、気仙沼、そこで遺体の捜索をやっていて、声をかけようと思ったが、声がかけられなかった

陸前高田で、高台にあるお寺の御堂で花見をやっていた(自粛、自粛といわれていたときに)
避難所でちりぢりになっていた人達に集まってもらって元気になってもらおうと企画したものだった
それを呼び掛けたのが「先祖になる」の主人公の佐藤なおしさんだった(農林業をしている77歳)
住民の方々を前にあいさつで 復興の決意と覚悟を淡々と述べてゆく そして
「今年の桜も同じように咲く」と言った言葉を聞いて、綺麗な言葉だと思った
たとえ震災があっても日々の営みを続けて行こうと復興への決意だった
この人を撮りたいと思った  それから一年半、ずっと通って佐藤さんを撮ることになった
息子さんが消防団員でおばあちゃんを背負って逃げようとして、波にさらわれてしまった。
長男の遺体が見つかる前に「今年も田植えをやる」と決めて田んぼを借りて、そういう風に常に前をうんと早い段階から見ていた人

瓦礫のうえにそばの種をまいて、見事に芽が出る
この人を撮れば、単なる震災の被害の記録を超えた普遍的な広がりを持った映画が撮れるんじゃないかと思った
映画は「おはようございまーす 今日も一日元気に頑張りましょう」と大きな声で早朝に叫ぶ そのシーンから始まる
最初は安否確認だった(今日もいきてるかーということなんでしょうが) 声が明るい 力が湧いてくるような声で
物凄い深い悲しみを抱えているのにも拘わらず、明るかったんですよね

長男を亡くされて、家を失って、ここにもう一度自分で家を建てようと、実際に山から木を切り出す作業から始める 
なんでその土地に拘るのかということことなんですが、津波は人間の生命や財産を奪い取っていったが、実はその地域の伝統的な文化、習慣、地域のつながり こういったものまで奪い取っていこうとしている  
佐藤さんはそれが我慢できなかったんだと思います
だからまず俺はここにもう一度ここに家を建てて、ひょっとすると自分が生きている間は街の再生なんかは無理だろうと、でも何十年かして一軒、一軒と建っていけばそうやって街が再生するその礎になろうとそういう決意だったんですね

見終わって明るい気持ちになれるドキュメンタリーだった
佐藤さんと1年半一緒にお付き合いていただいたが、常に彼が言っていたのは「夢」という言葉なんですね  夢かもしれないけれど目標を設定してそこに向かっていこうということ
もうひとつ凄いことは 有言実行ですよ  
家を建てるということを、住民集会でみんなの前で宣言しちゃったわけですから
復興にかける夢を描いた映画だと言ってくれた
被災地でも上演したい

ドキュメンタリーに関心はなかった イメージ映像的なものに興味はあった
人に会って取材することになって、出会いに面白さを感じた  人物の魅力
ドキュメンタリーを作るのは恋愛と似ている 
中国を舞台にしたドキュメンタリーを多く製作した
89年の天安門事件  戦車の前に立ちふさがった人間がいた
もうこれ以上市内に入らないでほしいという思い
中国の庶民を撮りたいと思った 10年15年さすらって撮り続けた
「上に政策あれば、下に対策あり」 (中国にある面白い言葉)
改革・解放の路線に乗って、庶民たちが豊かになる夢をようやく見れるようになった時代だった

一人っ子政策を番組にしたことがある  強制中絶(役場に中絶室がある
なんで一人っ子政策にも拘わらず、二人目を産みたいという人間の気持ちをどうして撮れなかったんだろうというふうに凄く反省した
そこから作り方を変えて、主人公を決めて、その土地に長くいて、その主人公の方と長く時間を共有する中で作る そうしないと作る側の被写体に対する責任が取れないということが分かった
以来私の作り方はそのようにしている
カメラの持つ暴力性 中絶シーン 拷問のような感じがした 
頭の中は真っ白だったどうしたらいいのか解らなかった
1997年に映画の製作会社を設立   「延安の娘」

文化大革命 親と切り離されて 慰めあうように恋愛が生まれたりした 恋愛は御法度っだった
農村に産み捨てられた子が27歳になって 実の親に会いたいと北京に向かってゆく 映画
単なる悲劇としてはとらえたくなかった 
悲しみ、心の傷から人間はどうやって再生するのかがテーマだった  3年をかけて作った
どうやって世に出すかが分からなかった ベルリン映画祭に出そうと思った

グランプリ受賞 
TVは残念ながら視聴者の顔が見えない 映画は劇場に行けばじかに視聴者の反応を見られる
TVはどうしても情報中心になる 描きたいのは人間の感情、気持ち、であることに気付いた
そのためには映画のほうがいいと思った  一本撮るのにからっけつになる
「蟻の兵隊」2006年 製作 
元日本軍兵士が被害者でもあると同時に現地では加害者である  執念を描く
父は海軍の技術将校だった 父は広島で原爆にあう 
父は私が18歳まで言わなかった
あの戦争とは何だったのかを検証していない
 
国のために残留して中国で戦ったのに、日本に帰ってきたらお前たちは日本兵ではなかった
あれは援軍として戦っただけなんだ なかったことにしよう お前たちがかってに残って戦ったんだ と 実際は軍命だったのだが ポツダム宣言違反になるので、政府としては認めるわけにはいかなかった
父が原爆のことを言ってくれなかったのが、頭をよぎって、怒りと悲しみがふつふつと湧いてきた
それが蟻の兵隊の原動力となった 奥村さんが背負ってしまった悲しみを共感した

記憶の映画  奥村さんが自分の記憶を編集している(60年以上前のこと)  
裸の奥村さんが見えなくなる 
こまったなあと思った 違うのではないかと言い出すようになる
奥村さんを追いこんでしまう つらかったと思う  
残虐行為 人を殺した現場にも行った
なぜ一緒に「アリの兵隊」という映画をやってくれたかというと、中国に残留した日本兵がいたという事実を知ってもらいたいという それを一番思ったのが本人だからですよ
製作者と主人公が一緒に作る

ドキュメンタリーは撮らせてくださいと言っている間は撮れないものです
もっと一緒になって作っていくというような気構えが被写体の方に持っていただかないと撮れない
ドキュメンタリーは何が面白いか 
シナリオを簡単に越えてゆく瞬間がある ということ
予想もしなかったような出来事がある  醍醐味ですね
人間とは捨てたもんじゃないなと思う 感動をそのまま伝えられればいいと思う
震災後、自然と共生してゆく豊かな人間の心がたくさん残っていると改めて思った
佐藤さんは震災がなければ、出会えなかった人だけれども、こういう人は全国にいっぱいいるんだろうなと思った、知らないだけで、そういう日本人に又出会いたいなあと思う












 




2013年4月9日火曜日

大塚貢(元校長)         ・食事から変えよう子供たちの暮らし

大塚貢                               ・食事から変えよう子供たちの暮らし
昭和11年長野県生まれ 信州大学を卒業 、中学の教師になるが、視野を広めようと、東京の建設会社で営業課活動をして、再び長野県で教師になりました  
平成4年に校長として赴任した中学校は荒れた学校でした  
授業を改革するなど色々と学校の立て直しを取り組む中で、生徒が荒れている根源は食にあると確信し、学校給食に米飯給食を取り入れました 
当時としては全国的に珍しい試みで、ご飯と野菜、魚を中心にして、ビタミン、ミネラルを多く含まれる給食を週5日提供することにしました 
生徒たちに次第に変化をもたらし真田町の教育長に就任した大塚さんは街全体にも広げました 教育界を退きましたが、今こそ子供の食を変える必要があると、食育アドバイザーとして全国の学校を始め、自治体や会社でもお話されています
 
1200人弱の学校 廊下をバイクで走ってバイクのタイヤの跡が焼き付いてとれない、タバコは吸う、不登校は60人~70人ぐらい 
20年前は全国的には荒れる傾向にはあったが、それにしてもひどかった
荒れる原因は先生たちの授業ではないかと、思って先生の授業を見ました
授業研究をやって素晴らしい先生も大勢いましたが、教科書片手に端から読ませて解らないところをただ説明するだけ、理科の教科書の図面を説明するだけでつまらなそうな態度で机に伏せている   
授業がつまらないから机に伏せているあるいは教室からでて群れてタバコを吸ったりしていた
先生たちの授業改善をするために研究授業をする、(お互いに先生が授業を見合う)先生同士で切磋琢磨する

ほとんどの先生がそうするようになって、授業に対する、生徒の態度が変わってきた
給食に取り組んだのは、まだ無気力な生徒がいる、切れる 、学校外に出て非行を起こすその原因が、わからなかった
先生たちの努力で授業が良くなっても、まだそんな問題が生きている
運動の大会等で昼にコンビニ弁当、菓子パン、カップラーメン食べる子が多くいておやっと思ったその子供たちの名前を記録しておいた

そのほとんどの子が学習に無気力、切れる、いじめる そういうところに該当する子が多かった
食にあるのではないかと、気づいた
食の調査をやった 主に家庭での食事の調査 38%が朝食を食べてこない(該当する子が多い)
16時間食べていない 空腹になるとイライラしてくる  
はけ口がいじめ、無気力になったり、授業が面白くないので非行、犯罪を起こす
給食を変えようと、PTAを開いて、家庭でバランスのある食事をとってもらうように提案する
肝心な血をきれいにして、血管を柔らかくして、脳に酸素を供給して、人間として重要な働きをしてくれる脳に酸素や栄養分がいかない

血をきれいにしたり、血管を柔らかくするように Cl、Mg、亜鉛、鉄分をとる 
魚や野菜をとってほしいと訴えた ところがほとんど若い母親は聞いてくれない
(親自身がパンとか肉とかで育ってきているから)
パン給食から学校で米、魚、野菜等に変えるより仕方がないと思った
先生たち、子供、親が大反対をした 本当に困った
栄養士の先生が、大学病院から32歳で心筋梗塞で亡くなった方の心臓サンプルを借りてきた
コレステロールが動脈に石膏化したような状態で付いている  収縮ができない
先生たちに若くして死にたかったらこのまま続ける 

先生たちはわかってやるのだから自業自得だと、しかし子供たちの命はだれが責任を持つのか
親は責任を持たない(食べたい物を食べさせている) 
先生は子供に教えることによって給料をもらっているんじゃないかと、その給料をもらう責任があるんじゃないかと、話した
心ある先生たちが立ち上がってくれて、学校給食を変えられた
全国ではじめて栄養士が教壇に上って、食の大事さを話してくれた
(先生からは教育の時間が減るので反対はされたが)
食事が体にいいということが分かってきたので、生徒も納得して食べるようになった
米飯給食を始めて、2年目のときには軌道に乗ってきた

1年目の終り頃にはタバコの吸い殻がなくなった(自分の体を自分で考えれるようになった)  
2年目の終り頃には70人ぐらいいた、不登校が2人になった
荒れている時はほとんど本を読まないが、1年目の終り頃から図書館の120個ある椅子が瞬く間にいっぱいになってしまう(そうなると床に座って読む、廊下で読む様にもなった)
人間本来の脳の活動がでてきた
  
全国作文コンクールに応募して毎年のように1位とか2位をとるようになった
学力が上がったが、目に見えて進学の状態のレベル(レベルの高い高校に進学)が上がった
CRT(民間がやっているテスト)  A(高),B(中)、C(低)ランクへの%分布
小学校の国語 書く能力 Aが全国55% この学校では88%  C 全国が24%に対して 0
中学校の数学 計算能力 A 全国63%   82%  C全国が15% に対して3%です
花壇作り 子供たちに命あるものということで野菜や動物を飼ってもらった
荒れた学校に行ったときに心を癒すものが何にもない(荒れた学校に共通していた)
花壇作りを始めた  先生から反対された (部活ができない 時間がなくなる)
子供たちも部活ができない

親も反対(泥にまみれるので洗濯が大変で)
春花壇がものすごくきれいに咲いた  秋花壇に変えた   
水をやってと言わなくても水をやったり、雑草をとるようになった
2年目から全国花壇コンクールで毎年文部大臣賞 、文部大臣相当賞をもらった
見事な花壇だった  3万本苗を育てるが1万5000本は公民館、御宮、道路の端に地域の人と一緒に植えた、(大人も変わった)
結局大人が原因を作っていた  食事、環境等
食育アドバイザーとして現在活躍している

小浜市 子供にも問題ある 市長が食の改革に取り組んだ 地産地消 
全国テスト小学校は全国平均より21点高い 中学校は全国より23点高い ダントツの全国一位
やる気のある先生が小浜市を希望するようになった(相乗効果)
数千人の規模の会社で、安全、安心な食事を社員食堂で提供するために、会社内に農業事業部を立ち上げて、有機農法でお米を作る活動を続けている
社員がいまいちやる気がない 創造性をなかなか発揮しない 病気で休む社員がいる
原因が分からなかったが、私の情報を得て、社員に話してほしいと言われた
家庭では食を変えることが難しいので、社員食堂の食事内容を変えた
やる気が出てきたと言っている 生産性が向上 休む人がいなくなった
高校の血液検査で40%が生活習慣病予備軍 今後脳疾患、がん、心臓疾患になる人がどんどん増えてゆく可能性がある















2013年4月8日月曜日

植芝守央            ・和の武道 合気道の心を語る

植芝守央     ・和の武道 合気道の心を語る
合気道は和歌山県の田辺市出身の植芝盛平が日本古来の武術や柔術の修行を積み重ね、
さらに精神修行を取り入れて、武道の新境地を開き 大正11年その真髄を合気 それが始まりといわれます    
合気とは宇宙万物を愛で結ぶものであり、武道の根源は愛であると説いたといわれます
合気道は平和の武道だといわれます
合気道が生まれて91年 愛と和の精神に基づき今や世界95カ国 160万人が愛好する日本の武道の一つになっています  
植芝盛平の孫にあたる弟三代目守央さんにお聞きします
手を制するのではなく、自分と宇宙とが一体となって境地を求める 
精神的的なものを磨いてゆく  合気道には強弱を競う 優劣を競う ということが発想にない
合気道の稽古は一方向にならない お互い尊重し合って稽古
戦前は門戸を開いていなかった(祖父の代) 戦後になって、父の代で 門戸を開くようになった
5歳から85歳まで 女性も3割~4割を占めている
自分の体力に合わせてできるのが特徴になっている  
投げる人、投げられる人、右、左と技をかける これがバランスよくできている
稽古をすることによってお互いの調和がとれる
祖父は14、15歳のころからいろいろな武道を修行する 18歳で東京で事業したりもする
日露戦争から帰ってきてから政府の開拓団の募集があり、北海道(北見)に入植する
南方熊楠(植物学者)に共鳴していいた 四のため人のために何ができるか という思いがあり北海道の原野の開拓をする
開墾しながら武術を顕讃する  郷里へ帰る途中、帰依して精神的な修養を重ねる
合気道が出来上がってくる 昭和6年東京に道場・自宅を立ててそこを起点に行う(紹介者のみ)
茨城県に昭和15年に土地を購入 
祖父は家族と接しているときと、道場での目が全然違っていた
昭和37年に父が会社を辞めて、門戸を解放した
約50年ぐらいで50倍になってきた
武は愛なり(祖父)  
自分がやられて嫌なことは人にはしない 
健康保持、自分を律する、体力増強   稽古をすることにより、身心がリフレッシュされる
私は毎朝42年間稽古しています 
準備体操 基本動作 型稽古 気形=自分の気持ちが出ていく 
稽古は一方方向ではいけない
四方八方に気を配りながら練磨する
練習は常に愉快に実施すること(前向きにお互いに尊重しあって)
外国の方 一生懸命理解しようとする 
1952年にフランスとアメリカに指導者が行っている
1975年国際合気道連盟が発足する 4年に一度国際合気道大会をやっている
去年第11回大会が開催された 73カ国 海外から1000人近くが参加
父は昭和50年ヨーロッパの各国をまわって普及に務めた
積み重ね積み重ねやってゆくことで合気道(武は愛なり)にいい結果ができてくる(道の修養)






 


2013年4月7日日曜日

小川 和佑(国文学者、文芸評論家) ・泰平の世を桜花に願う

小川 和佑(国文学者、文芸評論家)  ・泰平の世を桜花に願う
三好達治や、堀辰雄など近代日本文学の研究をされ、文学と思想について発表されてきました 
また小説家や詩人とて知られる中村真一郎に師事して詩の世界でも活躍する一方で、教員時代には剣道部の(ニュースで中断)

暖流のそばに桜はさいた 沖縄の寒緋桜は暖流にのって、九州から黒潮沿岸に花を咲かせた(縄文時代の前だと思われる) 沖縄の前は台湾からきた(苗木を沖縄に持ち込んだ)
その前は福建省・揚子江の河口近く、 その前は揚子江をさかのぼって、
チベットまで上がってゆく
ヒマラヤ山中に桜があって、その桜の種が流れついてきたものが日本近辺に来ている
ネパールの国王から送られた桜が熱海にある  秋になると咲いている
もともとは桜は秋に咲く 
太平洋側の宮城県、青森県弘前、北海道の松前に流れ着く  北日本のほうが江戸彼岸、南のほうが、山桜 山の上に咲いているが、これは沿岸部の桜の種を小鳥が持っていった
山の桜は淡くて、花びらが小さくてかわいい

好きな桜は「かすみ桜」 山桜の高地性の桜 (標高900m以上1000mまで) 
特徴は葉っぱの後ろが白い 花の大きさはソメイヨシノと 同じぐらい
木がまっすぐに空に向かって直立する姿が魅力
6歳から剣道をやらされた  周りの友達とうまく合わず本ばかり読んでいた
雑誌の連載で桜をテーマにしたことがあった そのときに桜を読んだら100冊の中で桜に対する嫌悪みたいなものが2編しかなかった 
大きな影響を与えたのは? 最後は古事記までさかのぼった
辿り着いた作品「允恭記」(允恭天皇) そこに桜の歌が出てくるのが最初(5世紀半ば)
秋の酒宴をしたときに、小春日和のときに、咲いた花があったのが盃に残った
桜は宴会の酒と機縁が切れなくなった

貴族たちは秋の桜を愛でた 履中天皇は自分の宮殿に若桜の宮と名前をつけた
万葉集のほうには桜の歌が40数  梅の130  梅のほうがまだそのころの貴族たちが・・・
生憎誤解が通説になっているが 遣唐使が梅の実をもってくるんです
中国では梅の花を楽しむことがあるが、ほとんどは果実として、食材の一つ
ところが日本に持ってくると、花はきれいに咲くし、きれいに咲くし、花見をした
花見の伝統がなければ、万葉集にそんなに梅の歌が詠まれるはずがない
桃もそのときに持ってきている 
何故桃や梅が珍重されるかというと、先進文化 大陸の新しい文化の象徴であった
それに対するあこがれであった

万葉集 「春さらば かざしにせむと 我が思ひ し桜の花は 散りにけるかも] 
「妹が名に 懸けたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや年のはに」
古代の物語の形式の中にあるわけです  一人の少女を二人の男が愛していて
両方のせめぎあいで、少女は自殺してしまう あずま歌の中に残っている 物語りの典型です
源氏物語の浮き船がこの形をとっている(代々文学の中にそういう形がある)
現代の小説の中で一番わかりやすいのが宇野千代 薄墨の桜  継母と娘との間に葛藤を広げていくという話  瀬戸内晴美も同様なものがある
庶民が花見を楽しんだ時代は  秀吉の時代 吉野山へ花見にいった
秀吉には貴族趣味はなくて飲めや歌えの大騒ぎになって足軽まで一緒になって騒いだ
秀吉が醍醐寺に家康と出かけて行ってここで花見をしようと秀吉が言って翌年に大がかりに桜を植えて徳川家康と花見会をやった

花見という神事が、庶民の楽しみの俗なるものに変わっていった 聖から俗へと言っている
家康の政治家としてのすごさがその後出てくる
江戸時代 江戸城に組がえする 関が原で勝ってからの江戸城改築するが喧嘩ばかりする
(戦国時代の名残があるから) 一策考えたのが、花見をしようというんで、三河、伊勢の商人たちに、浅草寺の裏に花園を作って宴会をさせる(ガス抜きをさせる)   千本桜 
吉宗が再現する  紀州から入ってきたので基盤が弱い 基盤を強化するためには庶民の支持が必要、武家達を操縦するため 飛鳥山に鷹狩りに行く ここに桜を植えようとしてこれを行う
庶民が来られるようにして、庶民が来るようになる(庶民、武家が一緒に楽しめるようになる)
向島の土手に桜を植えた (土木工事のため)
そのころ植えた桜は彼岸桜 小金井の桜は山桜を植えた

ソメイヨシノは安政の大獄(1850年)が終わったころだと思われる
染井の庭師が大島桜と彼岸桜の交配した桜を育ててみたら、すごい桜ができて流行する
最初は寛永寺に植えた 次は吉原 夜ぼんぼりをつけて花見をさせる
挿し木で増やせるので、簡単   だから工業用品だって言っている
何故全国に広がったか
靖国神社を作る 京都の怨霊信仰 御陵信仰 東京に持ってくる
木を植えるのに一般的には常緑樹が普通だが、桜を植えることになり ソメイヨシノの挿し木を一杯もってきて、植えつけた

花は桜に人は武士  忠臣蔵の芝居の中のセリフ 潔く咲いて潔く散る
軍部に利用される  春、秋に大祭をする   見世物をする サーカスがくる
お参りに来ては桜だということで これが軍国の花なんだなあという風にして 日清、日露戦争のときに、忠魂碑を立てたときに桜を植えて、これが全国に広がった
ソメイヨシノは工業製品  大量生産大量販売の原型
生命美 平和、豊か 日本が安定した発展のためには、桜であったほうがいい
安定の発展を考えてゆきたい そうすると散身の桜とは反対になるのではないか
安定の発展を考えてゆくには、守り方ができてくる 
桜の国ということは非常に大切なことだとおもう
















2013年4月6日土曜日

白幡洋三郎(国際日本文化研究センター)   ・花見と日本人

白幡洋三郎(国際日本文化研究センター)  ・花見と日本人
白幡さんは日本と海外の都市文化の比較研究の権威です。
そのライフワークの一つが花見の研究です。  
桜の木の下に大勢の人が集い、酒を酌み交わし歌も出る。 
そんな花見は日本独特の文化であるといいます。    日本人の花見から何が見えてくるのか伺いました。

春の季節は必ず数か所行くことにしています、京都では八坂神社、東京では上野公園には見にゆくことにしています。
これまで行ったことのないところも一か所花見をしている。
都市文化はもともと都市計画史を勉強したいとヨーロッパに行った。 
日本に帰って花見を体験しているうちに、はっと どうも向こうの国では花を見に行く人はいるけれども、日本のように大勢いが集まってワイワイと、花を見ているという様子は少なかったと思った。
花見のルーツ、過去の歴史はどうなっているのかと探究したくなった。
鑑賞するということはある。(世界に普遍的にある)  日本の花の観賞、特に桜の花にたいする鑑賞で済むのか もっと幅広い桜の花に対する、思い、考え方が集まって日本の花見は出来上がっていると思った。

花見の要素の考え。 
①群桜 桜(花)がないと駄目 (群れ咲く 沢山咲く 一斉に咲く)
②群衆 人がたくさんいる。(大勢で花を見に出かける)
③飲食 飲み物、食べ物が必ず伴う。
この三つが集まって花見が定義できる。

これをやっているのは日本人しかいないことに気がついた。
桜の木は温帯域にはたくさんあるが、季節に食べ物、飲み物をもって出かけることはない。
日本の場合は桜という風に花を中心に命名をしている。(・・桜) 
英語はチェリー これは実のほうを指す。
チェリーブロッサム 世界では実を中心に考えている。(世界中の桜に対する見方)
アメリカには八重桜を送った。(日米友好のために送った桜)
アメリカの公園は基本的に飲食禁止になっている。(桜は贈れたが、花見はプレゼントできなかった)
奈良時代に花見はあった。  貴族たちが中国の宮廷文化を習って梅花の宴を行っていた。
梅は中国から導入されたものです。 
 
愛でて、歌を詠む 貴族文化としての花見の第一のルーツ。(梅が中心)
万葉集 「春去れば まず咲く宿の梅の花 独り見つつや 春日くらさん」 大友家持の屋敷で歌われた。  
「梅の花咲きて 散りなば 桜花 つぎて咲くべくなりにてあらずや」 桜も楽しみにしている様子が見られる歌もあるが、基本的には梅の花を高く評価して好んで愛でる様になって 梅花の宴というのが、貴族の中心的な宴になりました。
桜が登場するのは、平安時代の9世紀の初めのころ、左近の桜、右近の橘という神殿の前に2本の木が植えられている。  
めでたさの表現で左近の桜は、実は最初左近の梅だった
ある時期から植え替えられた。   植え替えるときに桜に変わっている。

日本の外来文化からの脱却、日本独特の日本文化の形成の一つの要素といわれる。
それまでの梅に対する評価から、桜の花に対する評価に変わっていった。
その一つの証拠になる。  そのことを真っ先に指摘したのが本居宣長です。
平安の半ばまで、花と言って桜ということはなかった。  梅見の宴はあったが、花見といって桜見というようになったのは、平安中期までなかった。
日本人と桜の関係を文献上、学問上、科学的に説明した。

伊勢物語に桜のことが出てくる、在原 業平が詠んだ歌。
「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけ からまし」
(桜がずっと咲いてほしい なのに散ってしまう。 残念 さびしい 世の中に桜がなかったら。こんなに心を煩わすことがないのに。)
惟喬親王の離宮に花見に行った時に詠んだといわれる。
「散ればこそ いとど 桜はめでたけれ 浮世に何か ひさしかるべき」
(散るからこそ一層桜は素晴らしいと思われる。   いったいこの浮世に久くながらえるものなんてあるのでしょうか)

この二つの歌は、日本人の桜に対する多様な思いが浮かんでくる。
複雑な感情が、桜によって日本人の心を刺激する。
客観的に分析したのが、江戸時代の本居宣長だったということになります。
花見にはもう一つルールがあるといわれている。
農民の文化から生まれたというルーツで桜は春に咲く。   ちょうど稲作の行事を開始する時期に当たる。
桜が咲く下で村中総出で飲食を楽しみ、桜の花を愛でて、「春山入り」という行事があった。
桜が咲くと神が降りてくるという考え方がある。  
神様を里にお招きして、その年よい稲が実るように、秋になれば豊作になるようにという、お願いをする。(田の神様に対する祈願)

稲作文化への定着とほぼ同時にそういう行為が始まっていたのではないかと想像される。
普通の人々へ広がって、日本の花見が完成してゆくという構図になると思われる。
この二つが庶民に広まっていって江戸時代になってからと思われる。
京都は山沿いに市民が花見に出かけるという様子を描いた、洛中洛外図屏風だとか、花見図屏風というものが室町時代からある。
農耕に携わらない人が花見に行ったのが江戸時代で、さらに加速させたのが8代将軍吉宗
吉宗は江戸の町の郊外に桜を植えて、花見の場所を作った。 
これが日本の花見を大衆化させる要因となった。

5代将軍綱吉の時代に生類憐みの令を出している。  それで鷹狩りが中止になる。
吉宗の時代に鷹狩りが復活する。  鷹狩りは野山を駆け巡る軍事訓練でもある。
田畑を荒らすので春先は鷹狩りはやめるという暗黙の了解があった。  吉宗が頻繁にゆく鷹狩りのところに桜を植えた。
軍事訓練に対する農民に対する慰撫策として行う。  農村にもにぎわいの場所を作る。(一種の経済政策)
質素、倹約の生活は幕府を運営してゆく上で(武士)、農民にも少しの収入があるように、という発想があったと思う。(余暇政策をも)
花見に着飾ってゆく、御馳走を作る、女の人は花見小袖(新しく着物を新調する) 
料理も発展する、器も漆塗り、絵画も発展する、花見をテーマにした歌舞伎、能も生まれてくる、小説、俳句、川柳も。
文学、美術、工芸、音楽(三味線等)、日本文化が花見によっていっぱい刺激された。

集いの文化が桜を介して連綿と続いてくる。  平安時代から身分の上中下を問わずみんなが歌を詠んで酒を飲んで楽しんだ。
花見の文献を読んできて翌朝的な言葉を見つけて「貴賎群衆」(きせんくんじゅ)がよく出てくる。    田の神様をみんなで里に導いてきてみんなの幸せに繋がる豊作を願う。(村人全員)
神様に捧げたものを全員でお下がりを一緒にいただく。(大勢で飲み食いをする)
今後も老人だけの楽しみでもなく、若者も自然にやっている。
花見は自然体の絆、文化だと思う。  一番大事なのは春が来て桜が咲いて、心が浮き立つ、それを友達と隣人と横のつながりを広めるような、根本的な集いの気持ちを大事にすることが必要だと思います。(共感の場)





















 

2013年4月5日金曜日

大野順二            ・リニューアルホールで心機一転

大野順二(東京交響楽団 樂団長)   ・リニューアルホールで心機一転
2011年3月11日の東日本大震災の当日、神奈川県川崎市にあるミューザ川崎シンフォニーホールのつり天井が崩落して、けが人はいなかったものの、フランチャイズオーケストラである東京交響楽団は演奏会場と練習場を失うという苦しい体験をしました 修復工事がようやく終わって2年ぶりに演奏ができるようになりました

4月から再オープンとなった  つりさげ天井の反響板にも相当する部分が、大部分が崩落、客席ステージ上に崩落して、客席も7割程度が壊れた
響きが素晴らしい 元通りの戻った  生のオーケストラを聴く場合に2000席が限度
このホールの特徴は1階席とステージと同じ大きさ すり鉢状になっている
響きが後ろに座った場合に、後ろの音しか聞こえないということのないように音響設計になっている 偏った響きはない
市長が音楽の街として推奨してくれており、ここを使用さしていただいている
フランチャイズ 拠点として使用している  リハーサルと本番まで一貫して音作りができる 

100日程度ここでリハーザルしている  本番としては20回~25回
欧米ですと、リハーサルと本番が当然であるが、日本ではなかなかできない状況にある
3月11日に地震があり、まさかホールがこういう状況にあるとは思わなかった
別のところでの演奏会があり、演奏会をどうするか考えていたが、情報があり、ホールに駆けつけたが、もやっている状況であり、天井が崩落しているのを目にした(まさかと思った)
交通機関が動いていなかったので演奏会は中止にした
これからどうするかを、演奏会は約2年前から決まっているので、いつまで中止にするんだろうかとかいろいろ解らない状況であった

とにかくやれることからやってゆくしかないと漠然と思った
6から7公演はとにかく中止、自粛ムードがあったので開催していいものかどうかも考えた
海外からの指揮者も来られず、演目を替えて、指揮者も変えて演奏会を行った
(演奏のキャンセルが多かった どう対応するか不安だった)
お客さんに聞いていただいて演奏家なので 今後どうなっていくかが不安だった
余震があったらどうしようかと思いながら演奏会を行った
演奏続けなければいけないと、お客さんの反応に感動した(一生忘れないと思った)
小林研一朗さんに指揮を依頼した 被害にあわれた方、亡くなられた方、行方不明の方に
追悼の意味を込めて、レクイエムを演奏させていただいた 

ベートーベンの三番エロイカも演奏した(皆さんを勇気つけるためにもこの曲にした)
樂団長として   事務局が一番大変だったと思う  
キャンセルの処理 ほか一からやり直さなくてはいけなかったので チケット担当は大変だった
オーケストラの入る場所をとにかく探すのも大変
500~600人ぐらいのところで演奏するしかなかった(本来は2000人ぐらいの場所)
その来てくださったお客さんに対しては感謝したい(待ち望んでいるお客さん)
釜石に演奏会を開催して大きな感動を得た

ホールの修復に対しては原因究明をしなければならず、1年間はそのままだった
2年目から工事が始まる 音響の部分がどうなるか不安だった
音響品質委員会があって、皆さんで会議をして 東京交響楽団が最後にOKを出して承認とするということになったので責任を感じた  
とにかく同じ材質(椅子とかも含めて)で工事してほしいと依頼した
12月に演奏(ベートーベン第九)して音響効果の確認を行った 元の音響に戻ったので感動した
この2年間ひとりひとりがいろんなことを思ったと思う 
東京交響楽団の熱い演奏を是非聞いていただきたい









2013年4月4日木曜日

藤嶋昭(71歳)          ・感動が科学技術を育む  2

藤嶋昭・感動が科学技術を育む  2
理科離れがあることを心配している  小さいときから理科が好きになってほしいと思って、科学系の童話に親しんでもらいたいと、子供図書館(「坊ちゃんとマドンナの絵本館」)を作った
夏目漱石の主人公の坊っちゃんが物理学校を卒業して、四国の中学校の先生になる
その物理学校と言うのが、東京理科大学の前身 坊っちゃんは架空の人物ではあるが

日本は科学技術立国でしか生きていけないので、研究者を養成したいと思っているが、まずは絵本から興味を持ってもらう
小学校5年生は7割が理科が好き 中学校2年で5割、高校2年生では3割になってしまう
7,5,3問題といわれている  これをを8,6,4にしたいと思っている
10年前から神奈川科学技術アカデミー理事長をしていた、なんとか7.53.問題を解決できればと思い、出前講義をやろうと思いついた(学校に行って) 
科学の面白さを理解してもらう 全国の学校に行って出前授業をしている(今もやっている)
 
授業  例えば 空が何故青いか?ようやく判るのが150年前
空気中に酸素と窒素がある そこに太陽の中の光が来て、特に青い光が散乱するという現象で空が青くなる、と言う事で説明できる
酸化チタンの粉を水の中に溶かして、ペットボトルに入れて懐中電灯を当てると、当てたところが青くなり、もう一方のほうが、黄色から赤になる  空の青さを実験で説明する
 
雷 ピカと光り、しばらくしてからゴロゴロと鳴る
ピカッと光るのは雲が摩擦して、静電気がプラス、マイナスに分かれてそれが放電する
なぜそのあとゴロゴロというのか   
鳴る原理は 光が流れて、空気中を凄い電流が流れるので、その部分が熱くなる
そうするとその近くの空気が熱のために揺らぐ(振動する) そうするとゴロゴロと音がする
雷が多いときは米がとれやすい  雷のことを稲妻と言うが何でか?
稲と妻(妻は生れる、取れるという意味)なのか 
お宮さんにお参りに行ったときに、しめ縄に白いびらびらがあるが、あれは雷だよ 
豊作になってほしい 雷が来てほしいと祈る 
雷が多い時にどうして米がたくさんとれるかいうと、
実際は空気中の酸素と窒素があって、雷が落ちた時に、一部窒素肥料ができちゃう
そうすると稲の出来が良くなる(空気中から自然に肥料ができてしまう)
そういう話をするとみんな感動する

学生時代にも出前授業はしたことがある
大学の2年、3年の夏休みで、有意義な旅行をしようと、友人と夏休みの特別授業をしようということになる   
いろいろのところに行って地元の中学生に講義をして、学校に泊めてもらおうとした
教えてあげる代わりに学校の宿直室に泊めてもらって、4人で出かけた
(あらかじめ手紙で連絡しておいて、実施する)  福井と島根(2年の時) 青森(3年の時)
理科の授業  赤く光る星と青く光る星の違いはわかるか?
赤い星は地球から遠ざかっている(ドップラー効果)  波長が長くなる
理科大の卒業生が校長先生をやっていたりして、現在はいろいろのところから要望がある
子供たちの反応は、素晴らしい質問をしてくる  それが楽しみですね

愛知県に疎開していた(父の実家) 小学校をそこで過ごす  小さな村だった クラスメートは14名
全校で100名にならない 小学校の5年のころに、尺貫法がメートル法に変る時期だった
1リットルはこんな量だよとビーカーに水を入れて見せてくれた 理科は実験で示すことが大事
(今でも鮮明に覚えている) 中学は東京に戻ってきた
牧野富太郎先生(生物学)などに接して、教えてもらった

本を読むのも好きだった 
子供たちの感動する心を育てていくことが大切だと強調する(執筆している本のなかで)
朝顔はいつ開くのか? 朝開くのではなくて、何を基準にして開くかと言うと、暗くなったことを知って、9時間後に開く
つるもルールがあって巻く  ねじばなだけは右巻と左巻きの両方があり、これは例外
感動を持つためには、身の回りのことに関心を持ちなさい ということ 
注目すると、不思議なことがどんどん広がる  
タンポポは明るくなって開いて、暗くなると閉じる 温度が13度において基準になっている
13度より高いときに、それに従う  以下だったら13度になるのを待って開く

蝉は7年間地中にいて出てくる  幼虫のときに、木の幹に卵を産んで、大きくなったらポロっと落ちて、地面に潜っていって、木の根を伝わっていって、根の先に行ってそこで樹液を吸って、それを食料にして、7年間過ごす   7年後に上に上がってくる (穴の位置との関係の不思議)
自然界には不思議なことが一杯ある

較べるシリーズ   金、鉄  金はさびない  鉄が多く使われる  
人類が始まって以来 金は14万トン 使ってきている  50mプールにたった3杯
鉄は1億トン(日本の1年間の使用量) 世界では1年間で10億トン 50mプールに3万杯(1年間で)
イメージが判るような比べ方が必要  
あめんぼうがなぜ、すすすっと動けるのか?(教え子で中国の江雷先生が研究) 
足が水をはじくようなうまい構造をしているから、水の上をススーッといく
蜘蛛の糸のねばねばは 横糸はネバネバが付いている 縦糸はついていない

真夏 ねばねばが乾燥してしまう どうするかというと ネバネバが朝露によって再生できる構造になっている   朝露を上手く集める糸の構造になっている 
サボテンの先のとげに水を集める作用があるのではないか(まだわからないが)
空気中から水を取り出せる作用があるのではないか
それをうまく機械化すれば、空気中の水を集めて飲み水を取れるのではないか
そういう風に広がってくる

何を目的に研究するか 「天寿を全うするための科学技術」本を書いた
「健康で快適な環境の下で、与えられた天寿を全うすること」  それに少しでも寄与できないと本来の科学技術の役割ではないのではないか
その一つが光触媒ではないかと思う
アインシュタイン 100年ちょっと前に相対性理論を構築した
強い力の前では光は曲がる  実験で確かめられた(皆既日食の時に)
人工衛星の中の時計を補正している(相対性理論によって)  それで時間が修正されている
そのお陰でGPSの精度が向上している(アインシュタインのおかげで)

すぐ役立つ研究も大事だが、基本的な研究をして将来の人類の役に立つ様にする研究も大事
いい雰囲気の中で研究して学問は進歩してきた 
良い雰囲気を作ることは大事だという事はわかりますね
いい意味での競争をする事で学問は進歩してゆく
良い本を読んだり、身の回りの事に感動、あるいは関心を持ってもらって、不思議だなあと思って、自分でやってみようかと、言う事で自分で挑戦してもらう事が大事です












2013年4月3日水曜日

藤嶋昭(71歳)          ・感動が科学技術を育む


藤嶋昭(東京理科大学長71歳)・感動が科学技術を育む
光によって化学反応を起こす、光触媒の研究で大きな成果を上げられ、世界的にも知られる科学者です
光触媒の研究は空気や水の浄化、殺菌、建築材の汚れ防止、ミラーの曇り留めなど、現在生活のさまざまな分野に応用されて、太陽光による究極のエネルギーの確保の可能性を秘めている
その光触媒の研究がライフワークになったのが、東京大学の大学院に在学中だった20代の中頃
実験室で光触媒にかかわる驚くべき現象が起きているのを発見して、大きな感動を受けたのが、きっかけだったそうです 藤島さんの研究業績は日本国際賞、日本学士院賞、旭賞などにも表れており、文化功労者にも選ばれています

朝は4時には起きて、新聞(地元紙、全国紙、と小学校新聞(これはい良い))をいろいろ読み、
6時半から近くの公園に妻と一緒にラジオ体操に出かける(元旦と雨の日以外は出かける)
大学入学は50年以上前  横浜国立大学 工学部に入る 理科系がブーム、高度成長の時
卒業後、東京大学の大学院に入る 光触媒のもとになるのを発見した
電気分解現象があるが、 光を当てたらどうなるかということをテーマにして実験した(電気を使用せず)
酸化チタンの単結晶をちょうど日本で作っていて、酸化チタンの単結晶を電気分解の材料として使っていなかったので、ぜひ使いたいと思って、手紙を差し上げて、何とか材料を手に入れることが出来た
水の中に入れた酸化チタンの表面に光を当てる(電圧を入れずに)と、ガスが出てきた
(もう一方の電極には白金を使って) 白金のほうからも、ガスが出てくる

ガスを調べると酸化チタンの表面から出たものは 酸素 白金のほうから出たガスが水素がでた
電圧をかけなくて、光だけで酸素と、水素ができた(水を分解するのに普通難しい反応)
この反応は葉っぱの表面に太陽が当たる 
根から吸った水が葉っぱの表面で分解して酸素がでる
光合成と同じ反応  葉緑素の代わりに酸化チタンが同じ働きをしていることがわかった
一番大事な反応を人工的に葉緑素の代わりに酸化チタンを使って水を分解して酸素を作った
本当にうれしかった 感動した 本当に感動した 学会で発表した みんな喜んでくれると思った
発表してだれも驚かない  みんな信用しない 理解してもらえなかった

正しいと思っていたので、イギリスで発行されている論文誌「ネイチャー」に出そうと思って、応募してみたら(通常なかなか審査することもしてもらえない 今でもそうだが)ポッと出ちゃった 
1972年 本田先生と連名でネイチャーに論文を出すことができた
翌年 第一次オイルショック 石油がなくなってもいいかもしれないとヨーロッパの人が注目する
酸素と水素 特に水素のほうに注目した  太陽光を使って水素を出せる(究極のクリンエネルギー)
その後、日本でトップ記事になって、ようやく認められるようになった
外国で注目されるとようやく日本でも注目される

春の学会で、その続きの研究を発表すると、学会の会場は満員になる(それまではガラガラ)
最初酸化チタン単結晶(高価)を使用したが、次に同じような性質をもつチタンの金属を使って10cm角 薄い板(0.1mm、0.2mm)をバーナーで炙って表面を酸化して行ったが同様の結果を得た
次に1m四方で実験をして、1日7Lの水素を取ることができた 実験を続けて安い材料で水素を取ることができた
効率を計算すると0.3%程度 効率よく無いと一つの区切りをつけた
酸化チタンは半導体の一種 ところが酸化チタンは水にも溶けない ほかの材料は溶けてしまう(シリコン等)  
酸化チタンは紫にしか反応しない (効率が悪いという欠点でもあるし特徴でもある)
エネルギー変換としてはなかなか難しい
光触媒:触媒は化学反応をさせるのにその速度を早める  
     光を当たった時のその作用をする それが光触媒  反応がおこりやすくなる

応用の一つ いろいろな物の表面に透明な酸化チタンを塗るそうすると、光が当たるとバイ菌が消えてしまう(殺菌作用)  微量(バイ菌、煙草のけむり、油汚れ)で困っているものが一杯ある、それに対して有効なので応用できる
トイレの臭い(尿酸菌によってアンモニアになる) 便器の表面に酸化チタンを塗っておいて光を当てると(蛍光灯でもいいので)尿酸菌が殺菌されて、臭いがなくなる  
応用できそうだと思って、製品化を求めるがなかなか企業が対応してくれない
直接、社長にあって、話をして製品化をしてもらう(トップの理解が得られないと製品化が難しい)
下からの理解とトップの理解があると一番いい(サンドイッチみたいなもの)

もうひとつの大発見、鏡が曇らなくなる 透明酸化チタンを塗っておいて光を当てると曇らなくなる
タイルの表面に酸化チタンを塗っておくと、油汚れなどが有ると、太陽光と雨によって常にきれいになる(セルフクリーニング)  自分で自分をきれいにしてしまう  
道路のミラーとか自動車のバックミラーとかに利用されている 建材としてよく使ってもらっている
ウイルス(インフルエンザウイルスなども)も殺すことができる  空気清浄機のフィルターの中に利用

エネルギーを得る事 太陽光を利用して水素を得ることは、盛んになってきている
(効率の問題の克服がある)  現在は紫にのみ反応 突破口をみんなで研究する 
チタンは豊富にある(酸化チタン)地球上にある元素で10番目に多い  
安全でもある(白いペンキ、歯磨き粉の中にも入っている)

実験して、酸素、水素が出たときの光合成、その時の感動は、今の力になっている
当時量子力学で日本の有名な方々がいた 朝永振一郎先生が本を書かれた
「不思議だと思うこと これが科学の根です よく観察して確かめ、そして考えること これが科学の茎です 最後に謎が解ける これが科学の花です」・・・朝永先生の言葉
108人の世界の科学者の履歴 やってきたこと 名言、の本を作った 
その本のなかにも朝永先生の事、言葉を入れさせていただいた  新入生(4000名)へ送る本

 
















2013年4月2日火曜日

井上麻矢            ・父の志を舞台へ

井上麻矢・父の志を舞台へ
3年前2010年 4月に亡くなった劇作家の井上ひさしさんが最後まで構想を練り続けていた
「木の上の軍隊」が完成し、このたび上演する運びとなりました
この演劇は沖縄戦が行われた沖縄の小さな島で、2年もの間 ガジュマルの木の上で生活した兵士の物語をつづったものです
井上さんは構想を残しただけで、台本を作らなかったために 若手劇作家の蓬莱竜太さん
に台本の執筆を依頼して舞台上演が実現したものです

昨年は、井上ひさし生誕77年 77フェスティバルを開催 いろいろ上演された
8本連続上演 忙しかった
「木の上の軍隊」 4月5日が初日を迎える
静かだけど熱い雰囲気が漂っているけいこ場だった
藤原達也、山西惇さん、片平なぎささんの3人が出演する  栗山 民也さんが演出
肺がんになって書こうとしていたものが7本あったが、書きたいものから書こうとしていた
が、これは書かなければ いけないと、いう言い方をした
沖縄と長崎を書いていないので、まず沖縄のことを書くことにしましょうということになりました
広島に関しては「父と暮らせば」 長崎は「母と暮らせば」と題名だけ決まっていた
日常のことを突然奪われた人たちのことを、書こうとしていたみたいです(未完)

「木の上の軍隊」 20年前から書こうとしていた 書かなければ死ねないと思ったようです
雑誌にこういう方が載ったとどこかでみたらしい(専門書のような雑誌)
調べ始めて、自分が思っていたことと合致したようです
構想は早くから温めていた
ちらしがあるが、井上ひさし 原案とある 蓬莱竜太さんが作(父は直接話したことはない)
まず蓬莱さんが受けてくれるか、解らなかったが、とにかくやろうということになった
アンケートで「木の上の軍隊」を要望する声があまりにも大きかったので何とかしようと思った
メモしかなかった A4縦書きに一枚程度しかなかった
この仕事をやりたいとの思いだけがあったと、後から蓬莱さんからお聞きした

心の中ではほかの人には絶対に渡したくないと思ったようです
作家を鼓舞させるエッセンスがあるようです
戦時中、ガジュマルの木の上に兵隊が2人(新兵と上官)逃げ込み援軍の来るのを
まっているが、なかなか来ない
終戦を迎えても、終戦だということにも信じたくてなくて、降りることも生き恥をさらす
ということで木の上で2年間暮らす
淡々と心理描写で描いていっている

生きてゆくこととは、どういうことなのか 戦いとはどういうことなのか、を真摯に見つめた作品
片平なぎささんは語り部で登場する  二人芝居
現代に通ずるものをここに投げかけなければいけないので 自分の今すぐ近くにいる人を
信じられるのか というそういう 大きなメインテーマをもって書いてくださいました
舞台には大きなガジュマルの木があって、その上で二人が演技する
二人の日常の会話から戦争のこと、生き方等を浮き彫りにする
(夜だけ降りてきて食料を調達したりする  現実に起きたこと)
夜の闇が安全を保証するのみ

沖縄 戦後の負の部分を背負ってきた (戦後ではない)
本土の人間の沖縄に対する罪悪感
戦争に巻き込まれた普通の人たちの暮らしをどこできちっと誰かが残して行かなければ
いけないとライフワークにした人なので、
沖縄は井上ひさしにとってライフワークの完成していない一部であると思う
木の上に昇っていた人の息子さんとも会って話すことができた

(沖縄の人は父よりもっともっと悲惨なことに、あった人がたくさんいるとのこと)
2009年より父から小松座を引き継ぐ 想定はしてなかったのでこの3年間は父の言葉によって
支えられた (仕事は仕事として解決して やだなあと悩みにすり替えない
やると決めたら絶対にやる と 後を振り返らず前に進む)
いっかいでも多く上演しようと 今では聞けなくなった父の声をみんなに届けることだから
やっぱりこれは何かきちっと伝えて行く機会を一本でも多く増やそうとそういう気持ちになりまた
父からは、あえて険しい道を歩めと言われたので、そのように突き進みたい




























2013年4月1日月曜日

風間深志(冒険家62歳)      ・障害者、キリマンジャロの登頂へ

風間深志  障害者、キリマンシジャロの登頂へ

標高5895mのキリマンジェロの登頂に成功しました
出版社に勤務した後に、1980年 キリマンジェロにバイクで挑戦、4500mまで昇りました
その後パリダカールラリーに日本人ライダーとして、初めて出場したのをはじめに、1987年にはバイクで北極点に、92年には南極点にも到達に成功しました
ところが2004年に22年ぶりにパリダカールラリーに出場したところ、事故にあい、左足に怪我をして、
して、1年に以上の入院生活を送りました
このことがきっかけで、風間さんは障害者とともに参加する冒険活動を始め、障害者による
オーストラリア大陸の横断や日本縦断駅伝などに挑戦してきました

僕は障害をもっているので障害をもっている方たちは、意外と自ら自分の行動範囲を狭め
てしまったり、夢をもっていながら蓋をしてしまうとかが多いので、もっと人生前向きに行こうよと
平たく言えば言いたい  キリマンジャロに焦点を求めた
車椅子の人が2人、左足義足が一人、左側半身麻痺、私が下肢機能不全です その5人です
ほかに健常者含め 合計14人で参加した  
ブログ等で集める(新聞広告もやる)
企業からの寄付等の援助を得て資金を調達した   理解は得られた
日本の文化に遊びの精神が浸透してきたという感じはする

自己負担は約60万円だった 今回は71名のポーターを頼んだ 合計86名の大部隊となった
車いすは頑丈でないといけないので、いろいろ工夫した(4通りの運動機能をもつような
物を作った)
新しいことをやるにはそれなりのハードは必要
段取り8分、仕事2分と職人さんの言葉があるが、準備はそれなりにすそ野が広くある
遠征は総合力が必要 決断力、頑張り方、柔軟性とか、いろいろな要素が必要
成功の確率は8割、9割はあった 気候上の問題はどうなるかわからないので
最悪の場合は撤退の視野を持ちながら、やった(ゆるやかに締めあげながら)
ゆく前には 低い山から富士山まで出かけて準備をすすめた

日本を出発したのが2月6日 2月8日から登山開始 タンザニア 
ラングーというゲートがあり、そこから出発  時間的にはきつかった
いきなり急斜面に入るのではなくハイキングのような緩斜面からのスタートだったので
よかった  気温も30度で結構暑かった
周りは鳥は鳴いているし、猿はキャキャと鳴いているしアフリカだなと思った
緊張をなくしてやるように、口笛を吹いたりして緊張感を和らげるように行動した
車椅子の歩調に合わせる様に、進める(段差の部分はポーターが担ぎあげる)
私は左足がほとんどだめなので、一番弱いと思っていた(特に下りは駄目)

自分の力で登りたいとのクレームがある人からあったが、全体での一つの遠征隊なので
助けてもらわないといけないので、話し合って了解してもらった(心底納得はなかったと思う
天候を含めて全方位で戦っていくしかないので
高度があがってゆくと、思いっきり顔がはれたり、吹き出物が出たりひどくなってくる
毎日の健康管理、規則正しい食事、排便をしっかりやる
高山病は厄介 だるくなって、気力がなくなってくる 今回はその様な酷さはなかったが
高所順化を行う  最後のステイ場所は4700m  血中酸素を下げさせないようにする
寝ると血中酸素を下げるので、寝ないでアタックに備える人が多かった
気温は-8度だった まだ真っ暗やみの中進んだ

朝6時になって太陽があがって、体を照らした時には、ぬくみを感じ気分も上がってくる
大変な斜面だった 我々は11時間かかって山頂に到達した(通常の約倍の時間)
我々は泣いたが、経験のあるポーターたちも一緒に泣いた
2004年パリダカールラリーに参加して事故にあう
僕は22年ぶりにでたが、モロッコの最初のステージでトラックと激突してしまって、
左足がぐじゃぐじゃになってしまって、長い闘病生活になってしまった
怪我をしてしまったということが初めて障害とか、健康でない自分を垣間見た
そこで生活観が変わった
元気、健康を深く考えるようになった

先生は退院するとそれではい さようなら で終わってしまうが、患者はそこからリハビリして
元気になろうと社会復帰を目指すが、先生はそこの部分を知らない
もっと先生はそこの部分を知ってもらいたい、医療の分野に入れてもらいたい
欧米の病院のシステムはリハリビとお医者さんの部分が全く同一であるんですね
日本は違う 病院から社会復帰へのハードルが高すぎる
障害者と健常者が共存してゆければいいと思う
次はゴビ砂漠でラクダに乗って星空を眺めてみようじゃないかという計画を立てている
楽しく生きようよ という感じですね  夢が引っ張ってくれる