2013年4月23日火曜日

中村勝宏(名誉総料理長69歳)  ・海外修行で自分に試練を

中村勝宏(名誉総料理長69歳)   海外修行で自分に試練を
箱根と横浜のホテルで料理人として仕事をしましたが、海外での料理修業を希望 1970年スイスのチューリッヒのレストランに務めた後、どうしてもフランス料理を勉強したいと、パリを目指しました
その後料理人として働いた後、小さなレストランで総料理長を任されました
そこで高い評価を得て、1979年には日本人として初めてミシュランの一つ星を獲得しました
およそ14年間フランスでシェフとして働き1984年に帰国 2008年には、北海道洞爺湖サミットには総料理長を務めるなどフランス料理界の第一人者です

現在は、基本的にはあまり拘束されないで、全国でセミナー、講演会とか オファーがあったら出かけるようにしている
東北に、支援に行っている 新潟、能登での地震のときにチームをつくっていた
うちが食えない時期があり、自分ひとりで生きてゆくためにはどうしたらいいだろうとかと、考えて
食べる仕事なら、食いっぱぐれがないだろうと、単純な考えでこの道にはいった
うちがクリスチャンで、祖母が熱烈なクリスチャンで、小さい時からクリスマスとかあり、漠然と西洋に興味を持っていた 西洋料理をやりたいと思った 
1962年に箱根のホテルに入った 日々の仕事は観光客向けで、本物の料理ができないのではと思って、たまたま横浜のホテルに行った
フランス語のメニューでフランス語を勉強した 
フランスにどんどん憧れをもつようになった

自分でフランスに行って料理を覚えたいと思った
フランスへのつてがなくて、スイスに行くことになる(3年間手紙を出し続けて相手が根負けした)
1970年 スイスに行く 言葉は全くできなかったが、(フランス語は多少理解はできたが)
フランスに行きたかったので、納得してもらって、フランスに行くことになる(1年間でスイスを終了)
フランスではそれなりに地方風土があり、料理が違う
一流の料理人はいろいろな所を転々と修行する(1年から2年の間に)
アルザスに有名なシェフがいてなんとか、当時12軒三つ星があり、そこに手紙を出したが、返事すら来なかった 二つ星は60軒、一つ星は300軒 手紙を書きまくったが、返事は来なくてあきらめてパリに行ったが、駄目で 結局、アルザスに職を得た(二つ星)
ラセール 当時の三つ星で格式が高いところだった 日本人は研修生としてしか仕事ができなかったが(ただ働き)、交渉して、ある条件のもとに働いたが、三つ星の仕事をしているとは思えず
自分で見限って半年で辞めた 
 
一流レストランを回っていても生活が安定しない(結婚して子供もいたので)と思ったので、小さなレストランではあるが「ラ・ブールドネ」を紹介してくれた(客層はすごくよかった)
フランスでは労働履歴書みたいなものがあり、労働評価等も書かれている
会って話した時には、相手の感じは評価が悪そうだったが。その書類を後で観てくれて、二つ星、三つ星でセクションシェフとして働いた事績を見て、採用された
(通常ではそのような実績がある人はこのような小さなレストランに来ることはフランスでは考えられなかった、電話で本当に実積があるかどうかを確認したとのこと)
どんどんお客さんが増えてきて、10か月でミシュランの一つ星をとってしまった(1979年)
星をとるという事は、予約は埋まるという事 (昼も夜も) 人を増やしていって、店も綺麗にして4年半やって、次の店をやって日本に帰ってきた

日本人のハンディーはある 厳しさはあったが、その厳しさが自分の糧になる
今日本人で星とっている人が10何人いる (オーナーシェフもいる)当時70年代は日本人を隠していた
いかに信頼関係をつかめるかということ 
一つ星がなくなるという事は店を売ってしまう事になってしまう(一つ星は厳しい状況にはある)
フランスでは食は文化であると、評価されている
日本の食は、フランスの若手シェフは日本に来て食材、料理法を勉強したがっている
(日本の料理と融合させる)

若い時の特権は、ある程度の失敗は許される くそみそには怒られるけれども、それなりに観てくれる そうした意味では若い時に行って、あらゆる経験を通じて、自分自身を鍛える、吸収するという事は日本ではなかなかできない
最初の2~3年はカルチャーショックがあるし、いろいろと大変だが、厳しさのほうが多いが、自分自身しか頼りにならないので、自分自身を見つめることを含めて、自分の可能性も何とかやれるのではないかという事が芽生えてくる
3年頑張ると、生活のパターンが自分でもできるという環境が整ってくる
日本という国を外国に住むことによって、非常に意識するし、改めて日本が見えてくる