2013年4月10日水曜日

池谷薫(映画監督)       ・人間を撮る、私がドキュメンタリーで目指すもの

池谷薫(映画監督)人間を撮る、私がドキュメンタリーで目指すもの
番組製作会社のディレクターとして数多くのTVドキュメンタリーを製作、15年前に自らの映画製作会社を設立、劇場公開映画を製作してきました  
今年2月に公開された、最新作「先祖になる」は東日本大震災で家をながされ、大黒柱の長男を失いながらも自らの手で元の場所に家を建て直した、老人を描き大きな感動を呼びました
作品は今年のベルリン国際映画祭でエキュメニカル特別賞を受賞 日本各地で上映されています
延安の娘」「蟻の兵隊」に続き3作目

「先祖になる」は3作目 映画は人に見てもらわないと、命が宿らないというか 見てもらって育ってゆくものなんですよ
出口まで自分で責任を持ちたいと思うので4~5年に一本ということになってしまう
「先祖になる」  東日本大震災をテーマにした映画
自分には何ができるだろうかと思って、ボランティアをしようと思ったが、友人から瓦礫のかたずけしても意味がないので、どうせ来るなら映画を取りに来いと言われて、そうかと思った
最初、気仙沼、そこで遺体の捜索をやっていて、声をかけようと思ったが、声がかけられなかった

陸前高田で、高台にあるお寺の御堂で花見をやっていた(自粛、自粛といわれていたときに)
避難所でちりぢりになっていた人達に集まってもらって元気になってもらおうと企画したものだった
それを呼び掛けたのが「先祖になる」の主人公の佐藤なおしさんだった(農林業をしている77歳)
住民の方々を前にあいさつで 復興の決意と覚悟を淡々と述べてゆく そして
「今年の桜も同じように咲く」と言った言葉を聞いて、綺麗な言葉だと思った
たとえ震災があっても日々の営みを続けて行こうと復興への決意だった
この人を撮りたいと思った  それから一年半、ずっと通って佐藤さんを撮ることになった
息子さんが消防団員でおばあちゃんを背負って逃げようとして、波にさらわれてしまった。
長男の遺体が見つかる前に「今年も田植えをやる」と決めて田んぼを借りて、そういう風に常に前をうんと早い段階から見ていた人

瓦礫のうえにそばの種をまいて、見事に芽が出る
この人を撮れば、単なる震災の被害の記録を超えた普遍的な広がりを持った映画が撮れるんじゃないかと思った
映画は「おはようございまーす 今日も一日元気に頑張りましょう」と大きな声で早朝に叫ぶ そのシーンから始まる
最初は安否確認だった(今日もいきてるかーということなんでしょうが) 声が明るい 力が湧いてくるような声で
物凄い深い悲しみを抱えているのにも拘わらず、明るかったんですよね

長男を亡くされて、家を失って、ここにもう一度自分で家を建てようと、実際に山から木を切り出す作業から始める 
なんでその土地に拘るのかということことなんですが、津波は人間の生命や財産を奪い取っていったが、実はその地域の伝統的な文化、習慣、地域のつながり こういったものまで奪い取っていこうとしている  
佐藤さんはそれが我慢できなかったんだと思います
だからまず俺はここにもう一度ここに家を建てて、ひょっとすると自分が生きている間は街の再生なんかは無理だろうと、でも何十年かして一軒、一軒と建っていけばそうやって街が再生するその礎になろうとそういう決意だったんですね

見終わって明るい気持ちになれるドキュメンタリーだった
佐藤さんと1年半一緒にお付き合いていただいたが、常に彼が言っていたのは「夢」という言葉なんですね  夢かもしれないけれど目標を設定してそこに向かっていこうということ
もうひとつ凄いことは 有言実行ですよ  
家を建てるということを、住民集会でみんなの前で宣言しちゃったわけですから
復興にかける夢を描いた映画だと言ってくれた
被災地でも上演したい

ドキュメンタリーに関心はなかった イメージ映像的なものに興味はあった
人に会って取材することになって、出会いに面白さを感じた  人物の魅力
ドキュメンタリーを作るのは恋愛と似ている 
中国を舞台にしたドキュメンタリーを多く製作した
89年の天安門事件  戦車の前に立ちふさがった人間がいた
もうこれ以上市内に入らないでほしいという思い
中国の庶民を撮りたいと思った 10年15年さすらって撮り続けた
「上に政策あれば、下に対策あり」 (中国にある面白い言葉)
改革・解放の路線に乗って、庶民たちが豊かになる夢をようやく見れるようになった時代だった

一人っ子政策を番組にしたことがある  強制中絶(役場に中絶室がある
なんで一人っ子政策にも拘わらず、二人目を産みたいという人間の気持ちをどうして撮れなかったんだろうというふうに凄く反省した
そこから作り方を変えて、主人公を決めて、その土地に長くいて、その主人公の方と長く時間を共有する中で作る そうしないと作る側の被写体に対する責任が取れないということが分かった
以来私の作り方はそのようにしている
カメラの持つ暴力性 中絶シーン 拷問のような感じがした 
頭の中は真っ白だったどうしたらいいのか解らなかった
1997年に映画の製作会社を設立   「延安の娘」

文化大革命 親と切り離されて 慰めあうように恋愛が生まれたりした 恋愛は御法度っだった
農村に産み捨てられた子が27歳になって 実の親に会いたいと北京に向かってゆく 映画
単なる悲劇としてはとらえたくなかった 
悲しみ、心の傷から人間はどうやって再生するのかがテーマだった  3年をかけて作った
どうやって世に出すかが分からなかった ベルリン映画祭に出そうと思った

グランプリ受賞 
TVは残念ながら視聴者の顔が見えない 映画は劇場に行けばじかに視聴者の反応を見られる
TVはどうしても情報中心になる 描きたいのは人間の感情、気持ち、であることに気付いた
そのためには映画のほうがいいと思った  一本撮るのにからっけつになる
「蟻の兵隊」2006年 製作 
元日本軍兵士が被害者でもあると同時に現地では加害者である  執念を描く
父は海軍の技術将校だった 父は広島で原爆にあう 
父は私が18歳まで言わなかった
あの戦争とは何だったのかを検証していない
 
国のために残留して中国で戦ったのに、日本に帰ってきたらお前たちは日本兵ではなかった
あれは援軍として戦っただけなんだ なかったことにしよう お前たちがかってに残って戦ったんだ と 実際は軍命だったのだが ポツダム宣言違反になるので、政府としては認めるわけにはいかなかった
父が原爆のことを言ってくれなかったのが、頭をよぎって、怒りと悲しみがふつふつと湧いてきた
それが蟻の兵隊の原動力となった 奥村さんが背負ってしまった悲しみを共感した

記憶の映画  奥村さんが自分の記憶を編集している(60年以上前のこと)  
裸の奥村さんが見えなくなる 
こまったなあと思った 違うのではないかと言い出すようになる
奥村さんを追いこんでしまう つらかったと思う  
残虐行為 人を殺した現場にも行った
なぜ一緒に「アリの兵隊」という映画をやってくれたかというと、中国に残留した日本兵がいたという事実を知ってもらいたいという それを一番思ったのが本人だからですよ
製作者と主人公が一緒に作る

ドキュメンタリーは撮らせてくださいと言っている間は撮れないものです
もっと一緒になって作っていくというような気構えが被写体の方に持っていただかないと撮れない
ドキュメンタリーは何が面白いか 
シナリオを簡単に越えてゆく瞬間がある ということ
予想もしなかったような出来事がある  醍醐味ですね
人間とは捨てたもんじゃないなと思う 感動をそのまま伝えられればいいと思う
震災後、自然と共生してゆく豊かな人間の心がたくさん残っていると改めて思った
佐藤さんは震災がなければ、出会えなかった人だけれども、こういう人は全国にいっぱいいるんだろうなと思った、知らないだけで、そういう日本人に又出会いたいなあと思う