2013年4月11日木曜日

中沢宗幸            ・奇跡の一本松をバイオリンの魂に

中沢宗幸       ・奇跡の一本松をバイオリンの魂に
東日本大震災を受けて陸前高田市の高田松原で、ただ一本生き残った奇跡の一本松は被災者などの願いもむなしく塩害のために枯れてしまいました 
しかしこの木の命をバイオリンという形に変えて生かし、将来に伝えていこうと考えたのがバイオリン製作の第一人者の中沢宗幸さんです
震災後、自分のできることは何かないかと考え、被災地の瓦礫の中からバイオリンの材料になる木材を探し出しました そして奇跡の一本松からとった材料も震災バイオリンの一部として使いました

自分が長野、兵庫等で国際音楽祭などを企画している 若手演奏家を応援したり、いろんな勉強する機会を作って皆さんと一緒に文化、芸術の世界に拘わらさせていただいている
津波バイオリン(震災バイオリン)を使ってのプロジェクトが世界でも注目されてきた
津波が世界のどこでも通用する言葉なので
表から見ると普通のバイオリン、裏から見ると高田松原の絵が描かれている  鮮やかな青(空)
被災地の瓦礫の材料が使われている 一本松の材料も使われている
津波の映像、悲惨な姿にずっと心を痛めていたが、何もできない自分にどうするか、思い心を持っていたが、妻がTVを見ていて、瓦礫が処分にも困っているというニュースに、これは瓦礫ではない、これは多くの人の思い出の山じゃない、?これでバイオリンが作れない?と行ったのがきっかけです

「私は山に立っていたとき、木陰で人を憩わせ、いまバイオリンとなって、歌って人を憩わせている」
50年ぶりに思い出して、(この詩がバイオリンの裏に書かれていた)
2011年12月に陸前高田を訪れて、1周年慰霊祭には間に合わせようと頑張った
有る形まではできるが、ニスがなかなか乾かなくて、3時間ごとに起きてやったりした
いい音が出るようにとの思いがいっぱいだった
慰霊祭のときにイスラエル人のイヴリー・ギトリス(90歳の世界的なバイオリニスト)が是非私に弾かせてせてほしいと、パリから来てくださって献奏して下さった
私の父が趣味でバイオリンを弾いていた  職業は山林業でした

父は見よう見まねでバイオリンを作ってしまった  ものつくりの楽しみを教えてもらった
初めて作ったのが8歳だった  中学のころ、夏休みの工作にはバイオリンを作って持っていった
修行でイギリスにも行く  多くのものを見聞きするのは大きな宝となった
1980年工房を開くが、毎月のようにヨーロッパに行ったり来たりしていた
現在でも最低2カ月に1回は行っている(ドクターとして  メンテナンス)
自分ですべての工程を行ったのは、150ぐらい 多少手伝ってもらったのは200を超える数
バイオリンは共鳴板となる表の板は松で柔らかい材料 横板裏板はかたい材料 楓、ポプラ
桑も使われるがほとんどは楓が使われる

木も生まれた場所での声がある
松は梁に使われていたと思われる 楓は柱とか床板、そういうものであっただろうと思われる
魂柱 魂柱を建てることによってはっきりした音になる 表板の振動を裏板に通じる役目
魂柱が入って初めて、このバイオリンに魂が入る(奇跡の一本松を使うことになる)
魂柱が0.数mmずれると音が違ってくる
次にビオラを作り始めている
プロジェクトを立ち上げた 千の音色でつなぐ絆プロジェクト 
千という言葉 願いをかなえたいときに使われてきた(千羽鶴とか  千人針)

千人のバイオリニストにリレー式に手渡されて、できるだけ多くの方々に聞いていただきたい
それが亡くなられた方々への鎮魂となり、被災された方々には励ましとなり、われわれに取ってみては震災が風化しないように、われわれの世代、我々が亡くなった後にも、日本にはこういう悲惨な出来事があったと、いうことを語り継いでいってくれる音色であり、千の音色でつなぐ絆の役目を果たしてもらいたいと思っている
多くの方が弾いてくださっている(参加の申し込みもたくさんある130名ぐらい)
被災地の小学校にいってこのバイオリンでコンサートなどもしている
このバイオリンの持っている使命は非常に大きいと思っている
津波バイオリンはイギリス、フランス、アメリカなどにも演奏に行っている
できる限り被災地に行って、悲しみ、苦しみを少しでも共有することができたらと、思っています