2013年4月17日水曜日

眞理 ヨシコ           ・四世代を越えて歌い継ぐ

眞理 ヨシコ・四世代を越えて歌い継ぐ
1961年 東京芸術大学声楽科在学中に、NHKのオーディションに合格して、デビューしました
初代歌のお姉さんとして、童謡など子供の歌を中心に現在まで活躍し、今年でデビュー53年目を迎えたという事です
TVの「お母さんと一緒」を見ていてくれた子供がすでにお孫さんがいる時代となり、現在では四世代で眞理さんのコンサートを楽しむのが夢ではなくなったそうで、子供に聞いてもらいたい歌への想いをお聞きします

声はあまり変わらないが、年を取ると声が太くなる傾向がある
デビュー後今年で53年目になる  今はTVでは出ていないが、コンサートは月に一回ぐらいある
歌の内容は唱歌、童謡、新しい子供の歌も少し歌う
文部省 明治5年に出来て、なんとか音楽の時間を作らなければいけないという事になって教科書ができた  それにはいろんなことがあった

唱歌 外国でよく歌われてている歌 イギリス、アイルランドなどの国の民謡などが先ずたくさん入ってくる  
昭和36年にデビュー 
音楽学校で学んでいて、できればオペラを歌いたいと思っていた
声量があるわけではないので、イタリアオペラがドンときて、これはとてもかなわないと思った 
ミュージカル映画が多く入ってくる   見ているうちに自分向きかもしれないと思った
クラシック以外を勉強しなくてはいけないと思った

小学校のころにNHKラジオに出演する機会があった(歌が好きだった 両親も歌が好きだった)
小学校には珍しく音楽の専門の先生がいらっしゃった  大津三郎先生
NHKの人が訪ねてきて、その中で選んでいただいた
両親とともに童謡、唱歌を歌った(沢山の歌を覚える事になる) 小学校の学芸会ではよく歌った
素晴らしい音楽家、砂原美智子 日比野愛次(N響バイオリニスト) 山口敏子?(ピアニスト)等の人に出会う事が出来た  スタジオで生演奏をしてくれた 
出来れば音楽学校に行きたいと思った 麹町中学、駒場高校(音楽科が都立高校で唯一有る)
東京芸術大学に進む  クラシックを勉強する オペラは無理だと見切りをつけていたので
深緑夏代先生から シャンソンを習う 門下生となる   ダンスも習う(忙しかった)

NHKに、在学中にオーディションを受ける 合格する 昭和36年2月 受けて3月のニューボイス(新人が一曲歌えるコーナーがあった) 「歌の広場」で歌わせていただいた(生放送)
「桜がいの歌」 白地にピンクの貝が飛んででいるような着物で歌った TV出演
4月から始まる「歌の絵本」のオーディションがあり、それにも合格する   子供の歌一本に絞る 
朝8時30分から40分まで毎日放送する事になる  3~4曲を歌う
その後「お母さんと一緒」に組み入れられる  朝の連続ドラマがそのあとに始まった
再放送があったので1日 4回放送された
今のVTRの時代 修正は簡単だが  全部が「生」で有ったわけではないが  幅10cm以上のテープなので当時編集するためにカットはとてもできなかった(非常に高価だった)
12曲はしっかり覚えなければいけなかった

「お花が笑った」「お話指さん」等 新しい曲  作曲した歌を歌った
11カ月してから番組用の新しい歌が作曲されて歌った
作曲家は中田喜直先生  磯部俶先生  大中 恩先生(「さっちゃん」作曲) 
「歌のお姉さん」は正味1年半 子供の歌はいい加減な伴奏ではいけない 
そのためには小林道夫さん 三浦洋一さんが 専属ピアニストが担当する
(子供に対する思いが強かった)
子供の歌は余分なものを切り落として、一番大事な物を残してどう伝えるか(俳諧の世界と同様)
短ければ、短いほど 歌って難しいですね

「お母さんと一緒」は15年間  水曜、 ぬいぐるみが出てきて、ぬいぐるみと関わって歌の世界を広げてゆく 木曜日はお話いっぱい いろいろな話を一人で語ってゆく
15分間分を覚えなくてはいけなくて、大変だった 
仕事をしているうちに、子供に歌を伝える使命感見たいなものを持つようになる

当時、学校ではアルバイトとしてしか認めていなかった 一人で責任を取って出るという事はアルバイトの範疇から出るという事になってしまう  学校は辞める方向になってしまった
そこに江上ふじさんが登場してくれて、ちゃんとしたところで、ちゃんとした音楽を勉強している人が子供の歌をちゃんと歌う、ちゃんと教えてゆくことがどうしていけないのかと、学校側に対して働きかけをNHKがしてくれて、学校を辞めずに済んだ