2013年6月19日水曜日

林聖子(バー経営者)       ・太宰治を想う

林聖子(風紋・バー経営者)          ・太宰治を想う
6/19 桜桃忌 作家太宰治が昭和23年に三鷹の玉川上水で入水し、遺体が発見された日です
新宿で52年間にわたってバーを経営している、林聖子さんは85歳 その林さん お母さんが太宰の知り合いで、近所に住んでいたことから太宰と親交がありました
太宰の短編小説 メリークリスマスで林さんは小説の中のヒロインのモデルにもなっています
今では太宰を直接知る人は、数少なくなってきました 
太宰治と林聖子さん どんな交流があって、太宰はどんな人だったのでしょうか
又文壇バーと呼ばれ、多くの作家や出版関係者が集まるお店の経営者として、どのように生きてこられたのでしょうか

新宿5丁目のビルの地下の一階にある林聖子さんのバーに伺っています
お母さんの富子さんが太宰と知り合いだった  母が父と離婚した後に、新宿のバーに勤めだして、そこは作家の方がお見えで、そこで太宰さんと最初にお会いしたのが、初めなんです
そのころは父の方に一緒に住んでいた  母のところに泊りがけで行っていたが、太宰さんも時々ご一緒されました
母は絵描き志望で絵を描いていた 太宰さんの似顔絵を描いていた
遮断機のところで、太宰さんに出会ったことがある 母の家でビールを飲みながら、楽しい話をしていた(父は絵描きだったので、タイプが違うと思った)

タバコを持っている手が綺麗だなあと思った 小学校を上がる前だったような気がする
昭和20年に母が焼きだされて、母の実家のある岡山県の津山に疎開する
ちょうどそのころに太宰さんも三鷹で、焼かれて、甲府の方に罹災された  青森に帰る
2通手紙が来る (おかあさんも聖子ちゃんも二人とも無事でよかったね と言うような内容)
昭和20年暮れになってから私たちは知り合いの紹介で、三鷹の社宅の一角にやっと帰れた
太宰さんも三鷹に戻ってきた(昭和21年)

駅のそばの本屋で本を探していたら、レジに聞きに行こうかと思ったら、そこに太宰さんがいて、本当に偶然本屋さんでお会いした(2年ぐらいはあっていなかった)
私の方は大分大きくなっていたので判らないのかなと思ったら、太宰さんが気がついてくださって「聖子ちゃんか」と声をかけてくれた 母が家にいるので、そのまま太宰さんを我が家に案内した
それがメリークリスマスの本屋さんから家に行くまでの会話がそのまんま書かれている
メリークリスマスは太宰の短編小説で、青森に疎開していた主人公が、東京に戻ってきて、ひさしぶりに知り合いの女性にあうと それがヒロインが「シズエ子」という
父が林倭衛(しずえ) 字で書くと全く男の名前だが、発音するとしずえなので太宰さんは女みたいな名前だねとおっしゃった事があった

雑誌を太宰さんが着流しの着物の懐からからポンと取り出して、クリスマスプレゼントだと言って渡してくれた  目次を見たら、メリークリスマスというところに、太宰さんの名前があり 太宰さんの前で読んだ (その時のことがしっかり再現されているので、その通りに書きながら、文章になって行くんだと思った)
太宰さんの紹介で、昭和22年出版社に私は勤めることになる
太宰さんが家にふらっと現れて、聖子ちゃん 出版社に勤めないかと言われる 
あの頃の太宰さんは 「斜陽」の前でしたので、いろんなところから原稿依頼が多くなってきた時だったので私を入れられると思ったのでしょうね

私は出版部に配属された 三鷹で近いので校正とか、原稿を頂きにいたり、した
太宰さんと以前は呼んでいたが、まずいと思って、「先生」と言ったが、ばつが悪くて、けじめをつけなくてはいけないと思った 
太宰さんが私よりもきまり悪そうな表情をしていた
昭和23年三鷹の玉川上水で女性と入水する  行方不明になったことは 野平さん 当時雑誌の担当だった人がご夫婦で家に朝早くいらっしって、なんか行方不明ときいた
母はその時になんか感じたようだったが、私は自殺なさるとか、ゆめゆめ思っていなかった
昭和22年 太宰さん自殺するんじゃないのかしらと 母が言ったことがあった

そのことが太宰さんに伝わったらしくて、太宰さんから 駅から帰る道で「聖子ちゃん 僕は死ぬんじゃないかと言ってるんだって」 という 私ではありません 母です と言えなくて
「僕は死なないよ あの子を置いては死ねないんだ」 とはっきりおっしゃった
あの子は  坊やがいらっしゃって、病気を持っている
その話を母にも言った  行方不明になった事を知らせた野平さんと 玉川上水のどてのところを歩いていた
しばらく行ったところに、ガラスのお皿と小さい瓶が二つ落ちていた
ガラスの皿は、山崎富栄さんの部屋で、いつもピーナツなどをちょっと載せたりして、酒のおつまみに使っていたものです(見覚えがあった)
じゃあこの瓶はなんなんだろう 茶色、緑色の小さい瓶だった
上水の左側を見たら、60~70cm 二本のレールを引いたように、草が倒れていて、下の土が黒々見えていた 

間違いなくここから入水したんだろうと感じた(えぐれ方が凄かった)
16日ぐらいに、筏を組んで上流をせき止めて、遺体を探す  当時毎日そこらをうろうろしていた
連絡が入り、走って井の頭に近いほう 崖の下に遺体があった 急なところを降りた
雨が降っていたので、2人にさしかけたが、むしろがかかっていて、そのうちに段々と人が集まってきて、ひとだかりがした
信じられなかった 新聞に連載されて、油に乗ってきたころで、書きたくて、書きたくて、しょうがない方だと思っていたので、太宰さん自身は死ぬ理由は無かったんじゃないんですか
前にも自殺未遂をしているが、その時はまだ結婚もしていなかったし、子供もいない時代、
しかしあの時には結婚もしていたし、子供もいたし、ドンドンと書きたいものがあった方ですから死にたくは無かったと思うんですが、前とは全然条件が違う
山崎さんは多分生真面目な方で、言われたことをその通りに取られてんじゃないですかね

私は一時期劇団にいた 新劇熱がおおくて、劇団の試験を受けに行った そこに入れた
収入がなくて食べられない 夜の仕事はご法度 研究生として通うと、夜しか働けない
食べていけなくなって断念する  新宿に自分の店を出す
どっかに働くにいっても、収入が少ないので、資本が少なくても済むところ、飲み屋もなかったとことなので、開店した  
出版関係の知り合いに連絡して、来てもらう  
作家も外に出かけていろいろ話をすることが多かった
最初は檀 一雄  かんずめになっている状態から解放されるために、気分展開に来てくださる
肉とか、ニンニク、野菜とかを茶色の袋に抱えてきて、店にガス台ひとつしかないガス台を使って、大きな鍋に牛たんを入れて、とろ火でことことと、煮る(ガス台を乗っ取られる)

2~3時間立たないとでき上らない とにかく時間がかかる 
大分してから、中上健次さんを檀さんが紹介してくれた
新宮の火祭りに中上さんに数人と共に、連れて行ってもらった
店は開店から52年になる 経営の方は上手くいってないのかもしれないが、近頃は皆さんお亡くなりになってしまって、25年の時に出した文集なんかも、半分以上の方がいらっしゃらない
寂しくなりました 
長男が一緒にやってくれている  私より皆さん必ず歳が下ですから、こうやって動ける間は、来て、皆さんの話を聞いたりしているのが楽しいので、毎日来ている