2013年7月17日水曜日

国松俊英(児童文学作家)     ・宮澤賢治の願い、鳥と人間の共生 2

国松俊英(児童文学作家)   宮澤賢治の願い、鳥と人間の共生 2
これまでだれも書かなかった宮澤賢治と鳥の世界を紹介しました
最近では佐渡の朱鷺を題材にした、「朱鷺よ未来にはばたけ」を発表して、江戸文学の第7回福田きよと賞を受賞されました
宮澤賢治の願い 鳥と人間の共生について伺いました

岩手県にも朱鷺はいた 古い文献によると、江戸時代 徳川吉宗が生きていた時代に、各地の産物帳を作って残されている 北海道から九州の日本各地にいた
田植えが終わった田んぼに、あまりたくさん来て、苗を踏みあらすので、鉄砲を貸してほしいと記録に残っている(当時は害虫 かえる、さわがにとかが大好きだった)
江戸の葛西で、将軍が鷹狩りをやって、朱鷺を捕まえたという記録がある
盛岡高等農林学校 標本類がかざってあるが、朱鷺の標本もある
朱鷺が段々少なくなっていったのは、明治の中ごろから大正時代にかけて、と言われる
江戸時代は鳥とか獣を捕まえるという事は許されなかった
明治になって、許可をとれば狩猟ができるようになった

鉄砲がドンドン作られるようになって、雁、白鳥、朱鷺とかおおきな鳥が対象になった
朱鷺の場合は羽根は柔らかで高級なので、羽毛布団 女性の帽子の飾りとかで外国に輸出した
朱鷺の肉を食べると、貧血が治るとか言われたので、病気の人が食べたということも記録された
残ったのが佐渡、能登半島にもすこしいる程度になってしまった
佐渡島に昭和28年に28羽いたという記録がある
太平洋戦争の時に材木が切り出されて、山の木が無くなってしまった
大きな木で朱鷺は営巣するので、そういう事もあって1981年には野生の朱鷺は5羽しかいなくなった(朱鷺飼育センターにあと1羽  合計6羽)

朱鷺との付き合いは 1981年 初めて佐渡にわたって、朱鷺保護センターを訪ねて、ちらっと見た(きんちゃんと言う名の朱鷺が 1羽残る   歳をとった状態だった)
1998年に朱鷺の本を出したら、翌年中国政府が朱鷺を2羽 プレゼントしてくれた
中国もすくなっていたが、中国科学院が全国を調査したら、陝西省(せんせい)洋県(ようけん)の渓谷に野生の朱鷺が7羽いた
中国政府は保護に力を入れていって、増えていった 100羽を越えて、これだったらプレゼントしようという事で1999年にヤンヤン、ヨウヨウが日本にきて、2羽から雛がかえって、「ゆうゆう」という名前になって、その3羽から増えて、現在では200羽を超える

DNAを調べると中国の朱鷺と日本の朱鷺は全く同じ 地球の朱鷺
子供のころは川で魚を追いかけたりしていた
故郷の守山市は源氏蛍が有名だった  小学生のころは源氏蛍がいっぱいいた
大学を出て、東京に来て、安いアパートに住んでいた
千葉県の船橋の公団住宅の募集があり、応募したら当たったのでそこに入居した(結婚直後)
裏はすぐにハゼ釣りとか潮干狩りができるというので、会社の仲間が来て、いいところに住んだなあと言われたが、翌年から埋め立てが始まり、工業用地、住宅用地にしようとした
干潟を残してほしいとの運動を始めた (千葉の干潟を守る会)

共鳴して参加した  その会で自然観察会を行った(自然のPRを目的)
望遠鏡をのぞいたら、ゴミだと思っていたものが、鳥だった
くちばしを泥の中に突っ込んでカニを捕まえたら、振り回して、足、鋏を全部もぎ取ってしまって、水で洗って、飲みこんでしまい、風景を見てなんと面白いんだろうと、思って吃驚した
5月の春の渡りのシーズンで、南の方からしぎとかチドリが東京湾で休養して、シベリヤとかに飛んでゆくとう場面だった
2,3日して、自分で望遠鏡、鳥の図鑑を購入して、自分で観察を始めた、それが鳥との出会いだった
東京湾とは違う鳥を見てみたいと思って、野鳥の会にはいる
ちょうど初めての本の出版のころに、観察会で鳥に出会った(サラリーマンの時代)

埋立地のところに「せいたかしぎ」が巣を作った 綺麗な鳥で 調べてみたら、日本でまだ2度しか繁殖した記録が無い
仲間に話したら、みんなが吃驚した 調べたら、まれに日本に来る鳥だった
埋立地には野犬が徘徊したり、魚釣りの人が来たり、リモコンで飛行機を飛ばす人が来たりで、
誰かが巣を見つけて、持って行ってしまうかもしれないので、見張りをして、巣立ってゆくまで守ろうと、報道陣にも知らせないようにしようと、やっていた
たまたま私の観察中に親鳥の足もとに雛が見えた(2羽 4個の卵のうちに2羽孵り、翌日に残りの2羽が孵った)  本当に感動した
車の中から観察する分には驚かないが、一歩外に出ると反応するので、車の中で観察を続けた

親鳥は身体を張って一生懸命生きている、おまえは一生懸命生きているのかと、毎日精一杯生きているのかと、ふっと考えてしまった
おまえは何を一番やりたいのかと、自問 一冊目の本を出して、長編を書きたいと思っていたが、自分としては児童文学をやりたいと、だけど給料をもらい、いきてゆくと、だましながら生きていると、そんなことでいいのかと、本当に児童文学をやりたいのなら、サラリーマンを辞めて児童文学に挑戦したらどうなのかと、人生は一回しかないんだぞ、本当にやりたいことがあるのだったら、一回挑戦してみようと思った
駄目だったら、またやり直しができると思って、やってみようと思った
その年の終りに会社を辞めた

会社を辞めましたという手紙を出したら、10中9人が、お前何をやっているんだ、無謀だと言われた
厳しかったが、楽しかった  
好きな時にバードウオッチングができるし、好きな時に図書館に行って調べ物ができるし
それから34年が経った 
鳥の観察が生活の一部になった 鳥の観察をしていると、物凄い発見とか、感動がある
そういうものを誰か人に伝えたいと、思う

カラスはごみを荒らしたり、繁殖期になると人を襲ったりする
面白いなあと思ったのは、1996年ごろに、横浜市内のJRの線路に何者かが、石を置く 置き石事件があった  
犯人捜しをしていたら、線路に石を置くのはからすだと、言うのが解った
からすは物を隠す習性がある 敷石の中にパンを隠しておいて、食べたい時に食べるが、パンを食べようとしたときに、石とくっついていてしまって、石を線路において、パンだけを食べて、石だけが残る
鉄道マニアの人がたまたまビデオに撮っていた

宮城県仙台 東北大、キャンパス クルミをとってきて、道路の真ん中に置く 交差点で車が牽いてそれをカラスが食べる
道具を使うカラスがいる  頭がいいし、面白いことをする
カラスかんじょう 正月休みの終りに餅とか米を田んぼに持って行って、撒いてカラスを呼んで食べてもらうという行事をやっていた
今年も豊作になりますようにとやっていた    1960年からやられなくなった 
和歌山県熊野大社 カラス文字で書いたお札が分けてもらえる カラスが神様の使い
江戸時代からずーっと伝わってきている
祖先が大切にしてきた、生き物に対する気持ちを大切にした方がいいのではないかと、カラスのことを勉強して私は学んだ

宮澤賢治は生き物も人間もおんなじ命だと、言う事を大正、昭和の初めに気が付いていて、そういう気持ちで作品を書いている
そういう事を、今の私たちも、しっかり考えた方がいいのではないかと思う
人間と動物が共に生きてゆくためには、もっと動物の気持ちになって考えなければいけない
宮澤賢治は生きものの目から書いているのが、他の作家たちとは違う
「鳥も人もみんな地球の仲間だ」と、宮澤賢治が書いているが 、私が小学校に行った時などに何か書いてくださいと、言われた時には、そういう風に書いている
みんな、ひとりずつ好きなもの、いいものを持っているから、それを思いっきり伸ばすんだと、思いっきりやってゆくといいよと言っている
それぞれ個性を伸ばしていってくれたらなあと思います

大人に対しては、弱い者の目で見てほしいなあと思います
人と人が和やかになってゆくと思います