2013年7月12日金曜日

大内順子(ファッション評論家)    ・時代を創った女たち

大内順子(ファッション評論家)         時代を創った女たち
大内さんは上海生れです  青山学院大学在学中からモデルを勤めていました
大学卒業後は、雑誌、新聞、ラジオ、TVなど様々なメディアに、ファッションジャーナリストとして、日本にいち早く世界の最新のモードをつたえ続けてきました
大内さんの活躍に刺激されてファッションの世界に目覚めた人も数多くいます
大内さんは世界各国のファッションコンクールの審査員も務めていて、平成13年にフランスから芸術文化勲章などを受けるなど、様々な賞を受けています

大学時代にファッションモデルをしていたが、大学に入って或るときに街中で、声をかけられて、若い人の企画をやりたいので来てくれないかと言われた
高校ぐらいから漠然とジャーナリストになりたくて、雑誌だったらジャーナリストだからおもしろそうだと思っていくことにした
モデルとしていろいろ経験する
丸山明宏(美輪明宏)さん、岡田真澄さんとかと、ご一緒した
青山学院大学は出欠がめちゃくちゃ厳しくて、単位が取れないので、学校が終わるとすぐにスタジオに飛び込んでみたりしていた

大学卒業後、家がうるさくて、特に母が、許さないと言っていた
ある会社に入ったなら、いつまでもファッション担当ではいられない、経理に回されるかもしれないので、他の課に移されるかもしれないので、ファッションをやっていきたいと思ったので、フリーでやることにした
東京に住んでいて、そういった仕事はあんまりなかったような気がする
「ファッションライター」 自身が命名した 評論家は偉そうな感じがしたので
昭和33年に海外にはじめてゆく 大学卒業して翌年 パスポートが取れない時代だった
たまたまモデルを廃業して、書くことになってすぐだったが、エジプトでコットンフェアーが行われて、そこで日本人のショーをしてほしいといわれて、編集長から行ってほしいといわれて、洋服をつくって、3人で行ってくることになる

どうせ行くのなら、もったいないのでヨーロッパを回った方がいいという事で、ヨーロッパも回ることにした
ヨーロッパを一人で回った 楽しかった事、楽しかった事
一人で回っているといろいろ親切にしてもらう その時に友達になった人が現在も友達となっている
先ずローマに入り ベニス、とかいろいろ コペンハーゲンから帰ってくる
パリではオートクチュールしかなかった 朝吹登水子さんがおいでになっていて、ディオールに勤めていたので朝吹さんに連れて行ってもらって、ディオールを見ることができた
当時、カメラマンは入ってはいけないし、メモも取ってはいけなかった
(特徴、デザイン書くには許されなかった)
ホテルに帰ってから、急いでそれを書いた

日本に戻って発表する(旅行記みたいなものだったが)
その時の楽しさが本当に大きかったので、すぐにまた行きたかった
ニューヨークに友達(大学時代からの友達)がいて、アメリカに行こうと思った
自動車事故にあってしまって、2,3カ月のうちにニューヨークにいけますかと聞いたが、駄目だった(3か月入院 視力が無くなった)  日常生活も難しそうだと、先生が主人に言ったそうです
拡大鏡で見れば、片方の目だけは見えるので、なんとかなると思った
その目を使っていると、視力が少しずつ回復してくるという弱視だったので、見ているうちに見れるようになってきた

香港に行ってみようと思って、香港に行った そのうちにアメリカにもいきたい、ヨーロッパにもいきたいという事になり、どうせ行くのなら、ただ行くのではなく、コレクションを見るという事を自前で繰り返していた
そのうちにこれだけ美しいものをなんとか他のかたにも伝えられないだろうかと思って、最初は雑誌で行いたいと思った
どこの雑誌でも日本の雑誌は受けてくれないといわれて、よその国でやっているのなら、日本でもできないわけは無いと思った
編集長が変わって、あの企画は出来ますかと、言われて、できるでしょうと答えた
何もかも一人でやることになった

むこうの担当の方と仲良くなって、段々 いろんなものを見せてくれるようになった
山ほど素材を持ち帰った
コレクションを見にいっても、日本人はマーケットとして関係無かったので、席が空いていてもあっちに立っていなさいと言われたが、知り合いになると、皆さん親切にしてくれた
お互いの人間同士の、この人はこんなに一生懸命やっていると判れば、きっとそこから通じ合えるものがあるはず

段々変わってきて、カメラが入れるようになったが、TV局はどっちかと下に見られていて、デザイナーにとって、意識の中にないものだった
私の中では、コレクションに関しては動きを見せる、のがいいと思っていたが、物足りなくて映像を是非やりたいと思っていた
ファッションは視聴率が絶対取れないという大きなジンクスがあって、どこもやってくれなかった
私が撮ってきたら、その映像を放送してくれないかと、NHKにお願いした
なんとか映像を山ほど撮ってくる事ができた  編集して朝の番組に放送させてもらった
それがきっかけで、家で試写会をやった 皆さんが感動してくれて、その中の一人がある局のディレクターでフリーのタイアップした残りのチケットがあって、パリ東京のチケットを使うか、と言う事から始まって、なんかおじさんがやればできそうよと言う事になって、その局で朝の番組でコレクションをやるという事が出来た

局のほうはどうせやったって、視聴率は上がらないと思っていて、輸入元にお願いして、プレゼントを出してもらったら、申し込みが毎日4万ずつ来た 何シーズンかは続いた
そんなことから映像とつなげるという事が段々広がって行った
TVの世界は男性ばかりだったので、女性がどこに関心を持っているかか、実感の部分はわかったと思う
私はつくづく思うんですが、おせっかいなんですよ 人にもどうしても見せたくなったりするんで、おせっかい精神がそういう風に広がりを創って言ったんだろうと思います

ファッションは時代を先取りしてそれを映し出すので、経済、政治とも関係するので、男性にも見てもらいたいと思った
宮内裕氏が夫(画家)  学生、主婦、モデルの仕事がありとっても忙しかった
子供が生まれて、3歳までは絶対自分の手で育てなくてはいけないと思って、一切外国などには行っていない
宮内裕氏は2011年3月に亡くなる ベットにいる主人が良い、楽しめる話を、そばでする事が出来る状況をずーっと続けてきました
今は私一人なので、もう心配する相手がいないので、自由に飛び回っている
自分が本当にみたいもの、興味のあるものは、見に行く
ジバンシーさんは尊敬いしている  気難しい人でインタビューを一切受け付けないという習慣を持っていたが、私はインタビューする機会があり、波長があって 凄くおしゃべりをした

ジバンシーさんはオードリーヘップバーン と友達  輝くように美しかった昔よりも、病気になって、しわが多くなった歳をとられたオードリーさんの方が、もっとエレガントだったとおっしゃった
私もオードリーさんにお目にかかった時に私は実感しました
本当に誰に対しても、同じ優しさ、同じ思いやりの態度で接せられる エレガントとはそういうものだなあと、非常に教えられた
デザイナーの方は個性があって、本当に面白い
作品の良し悪しの中に、3年先、5年先の世の中の人が何を求めるかを、彼らなりにそこで感じて表現している
だからコレクションを見ると、次の時代の求められるのが、解る
だから男性にも観てもらいたかった