2013年8月10日土曜日

近藤紘子(68歳)         ・B29パイロットとの出会いが変えた復讐心

近藤紘子(68歳)    B29パイロットとの出会いが変えた復讐心
近藤紘子さんは生後8カ月の時に被爆しました
父、谷本清さんは、戦後の広島で平和のために尽力した、牧師として、アメリカの作家 ジョン・ハーシー が書き、世界でベストセラーになったルポルタージュ「広島」に登場する人物です
その本がきっかけになって、広島の原爆について取り上げたアメリカのTV番組に出演した際、幸子さんは、広島に原子爆弾を落とした、B29エノラゲイ号に乗っていたパイロットと対面します
その対面はその後の紘子さんの人生を大きく変えました
エノラゲイのパイロットとの対面で知ったこと、その後の人生に付きまとう、被爆による様々な苦労について伺います

子供心にも、あの時私はどうだったのと、聞けば、父も母もあの時を思い出さなければいけない
やはりとっても辛いことなので、ずーっと直接聞くことは無かった
はっきり母が私に話してくれたのは、私が40歳になった時だと思います
あの日、朝 となりに住んでいた女性が先ず訪ねてきてくださり、その方と話をし、終わって家に入ったところでまた、他の女性が母に話をしに来ました
家の中で私を抱いて話している時に、一瞬にして家がつぶれてしまった
朦朧とした中で、母が聞いたのは、赤ちゃんの泣き声だったとのこと、そしてぱたっと泣き声が止まってしまって、はっと気がついたら、腕の中にいた私が泣いていた
母が覆いかぶさった状態だったが、一生懸命体を動かして、私を外に出したら、外は全く違う光景、住んでいた家にも火が付き始めていた

爆心地から1.1kmのところ  その後ずーっと血便と高熱が出て、もうこの子は無理でしょうと言われたらしい
自分たちの体のことよりも、私のことが気がかりだったようです
子供として、B29エノラゲイから爆弾が落ちた それによって広島は焼け野原になった
多くの子供たちが親を亡くしたりした、一瞬にしてなくした  
B29に乗っていた人はなぜ落としたのかというのが私の頭の中では一杯だった
3~4歳の小さい私をかわいがってくれるお姉さん達は顔がケロイドになり、怖かったが悪いのは爆弾を落とした人と思い、私が大人になったら、かたきをうとうとずーっと思っていました

10歳になった時 広島の25人のお姉さんたちがニューヨークにあるマウントサイナイ病院が治療してくれることになり、父は付き添ってアメリカに行った
アメリカのTV番組で 「これはあなたの人生だ」という番組に出てもらう為に、アメリカに来るようにとの話があり、アメリカに出かける
舞台に知っている人が2人いた
父は神学校に学んだが、アメリカでの同級生、あと白人の女性は日本で宣教師をしていた人  
もう一人いたが、解らず聞いたが躊躇したような感じだった
あそこに立ってる人は キャプテン ロバート・ルイスといって広島に原爆を落としたB29エノラゲイという飛行機に乗っていた副操縦士だと教えてくれた

聞いて吃驚した 長年 ずーっと いつか、いつか いつか あの飛行機に乗っていた人たちを見つけ出して、かたきをうとうと思っていた
私が即取った行動は、目を一杯に開いて、睨みつけた
心の中で「あなたは悪い人だ  あなた達さえ、爆弾を落とさなければ、広島の多くの人たちは苦しまなくて済んだし、死ななくて済んだに」と、怒りが一杯で、その人の目を睨みつけていた
司会者が、ロバート・ルイスに爆弾を落とした後にどう思いましたか、と聞いた
「天えんを出発して、広島上空にいき、8時15分に爆弾を落として、そこを飛び去り、しかし落とした爆弾の威力を見てくるようにとの、指示があり、引き返して上空から広島を見た
広島が消えていた」 「神様 私たちはなんてことをしたんだと」と飛行日記に記載した
 
彼の眼を睨みつけていたら、彼の目から溢れていたのを、私はしっかりと見た
はっと気がついた その人は悪い人とずーっと思っていたが、自分のことを考えると悪いことがいっぱいあると、気がついた
7年間ずーっと憎み続けてきたが この人の涙を見たときに、この人も苦しみ、悲しみがあると言う事が心に伝わってきた
申し訳ないと言う涙に見えたので、もうそれ以上その人を敵としてということは、人間としていけないと思ったのではないか
その後憎しみは薄れていったように思う

一番つらいこと 広島、長崎にはアメリカの政府の機関 ABCCという機関を作った
原爆が人体にどのように影響するかを、研究する機関
私が対象になったのは、子供からデータを取る事
全部脱いで、木綿で出来たガウン とふんどし見たいなもの それを付けるのが嫌だった
中学生になった時に、検査室から検査室に回っていましたら、どこどこに行ってくださいと言われたが、そこは講堂だった
いろんな言語が耳に入ってきた  舞台に上がるようにと言われて、ガウンを脱ぐように言われて、ふんどし見たいなちいさな一枚しか付けていない
右、左と言われるままに、動かされて、涙があふれてきて、悔しくてしょうがなかった

何故私はここまでしなくてはいけないのか、中学生になれば、子供の体から大人の体になってゆくところ、悔し涙、屈辱感だった
同じ日本人ならば、何故助けてくれないのか、と先ず思った
解った、誰も助けてくれないのなら、もういい、もう私はこれで広島とさようならをしよう もうたくさんだと思った
私が生きてゆく限り、もう二度と広島にいたと言う事はひとさまの前では言うまいと
その時の出来事は私には大きな大きな出来事だった
広島から離れたかったので高校は東京に行った  大学はアメリカに留学する
奨学金が消えるので、日本に帰らなければいけなくなり、あのABCCの舞台のことを思い出す

アメリカの留学先の大学の人と婚約する 一旦日本に帰るが、彼から手紙が来る 
彼の専門が、放射能が人体にどう影響を与えるか という事で幸子は良くない、まともな子供を産むことはできない人だから、駄目だと家族会議で決まったそうだ
原爆乙女とは、私はケロイドもないし、違うと思っていた
東京の外資系の会社に入って、同社の人と結婚した
妊娠したが、流産してしまったが、或る日母と先生のところに言ったら、母が実は幸子ちゃんは小さい時からお医者さんに子供を授かる事は無理だと言われていたんですよと言われて、ショックだった

弟が結婚して、弟のところに子供ができたと聞いたときに、とめどもなく涙が出た
子供がこんなに欲しかったのかと改めて心底思った
人間て、涙はいいですね またそこを飛び越えられたような気がして、また前に立って歩ける
父がずーっと理解できない人だった
小学校4年生のころ、父の書いた本を書斎の本棚から取りだした
「ノーモア広島 広島の十字架を抱いて」 を読み始めた 
或るページで、父と母が広島の街で偶然に出会い、父が高木さんはどうしたかと聞く
高木さんはあの日 一緒に訪ねてゆく人だった
母が解りませんと言うと父は凄い怒る、この女は牧師の妻なのに、教会員としてのその人を見捨てて、自分だけ逃げたことに対して物凄い怒りを書いたページがある

自分の娘が助かっているのに、私のことなんてどうでもよくて、他人を大切にする
この場面で本を閉じてしまった
後に、教会で父の話を聞いて、父はあの日 大切なものをリヤカーに乗せて田舎に持ってゆくが、爆風で吹き飛ばされたが体は大丈夫だったので、街に入ってゆくと、そこから聞こえてくるのは、助けてくれ、助けてくれとの声、家で挟まった人を引っ張りだすことはできない、彼はやはり牧師で人の役に立ちたいと思ったあの日、私は、彼曰く 自分の子供、自分の妻、自分の教会の人たち自分の住んでいる町内の人たちのことしか考えなかった
それはえごです、物凄い悔いとなって残るわけ、だからこそ自分は広島のために役に立ちたいと思って生きてきた、と言う事を聞いて、それほどまでに私のことを想ってくれた
子供のころは、自分のことを想っていてくれなかったと、思っていたがそうではなかった、逆だった

父が歩んだ道を少しでも歩みたいと思っている
子供たちのこと、戦争、 子供たちを犠牲にしたことは、アメリカは謝らなければならないと、父は言っている
ずーっと子供たちのことを心にあった、だからまずは原爆乙女、彼にとっては子供のような、助けたかった
与えられた命をどんなことがあっても、奪ってはいけない
ましてや戦争の犠牲に子供たちがなってはいけない
核廃絶はどんなことをしても無くしてほしい、誰かが間違ってボタンを押したらあっちの国、こっちの国ではない

原点は 私は生き残っている 与えられた命を大事にしてほしい、ひとの命も大切にしなければいけない
本当に、ロバート・ルイス との出会いに感謝している
この私 10歳の私を変えてくれた ずーっとアメリカ、アメリカ人を憎んできたかもしれない
自分に非があれば、責められない
間違いがあってもいい、その間違いを踏み台にして歩めばいいと思っている
今の子供たちは捨てたものではない いろんな話を聞き、きっと、きっと 私は信じている