2013年8月7日水曜日

米倉 斉加年(舞台役者ほか)     ・戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった

米倉 斉加年(まさかね、舞台役者、演出家、俳優、画家)  戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった
昭和29年 福岡から上京し、3年後に劇団民芸に入り、宇野重吉さんのもとで数多くの芝居を演じてきました
NHKの大河ドラマや、寅さんシリーズに欠かせない俳優でどんな作品に出ていても、独特の存在感のある方です
そんな米倉さんの小学校時代は太平洋戦争の真っただ中、戦火を逃れた先で待っていた、ある出来事を絵本にしました
30年経ったいまでも中学1年生の教科書に採用されています

昭和9年生まれ 江戸時代に近い生活 江戸時代の井戸を使用していた 
かまどで米を炊いていた
敗戦が小学校5年 今では完全に切れているが、でもそれは繋がっている
母親が死んだときにまだつながっているなと思った 
やっと楽になったのに、泣いてはいかん、悲しんではいかん、一人戦争を背負い続けたと思うと
もう楽になってくださいと泣いてはいかんと、53歳の時
父は戦地に行く 子供は私と妹、生れたばっかりの乳飲み子(弟)

普通の生活の中に戦争がある 
母親は祖母、私や妹に食べさせるので、自分が食べないからおっぱいが出ない、だから弟はおっぱいが飲めないので死んでゆきます
それが戦争だなあと、戦争は戦場だけで有るのではなく、私の戦争は弟が死んだこと、これが一番大きいですね だからなかなか終わらない
ミルクと弟さん、米倉さんの関係が教科書に載っている
大人になれなかった弟たちに

私が4年生のころ 夢を見て泣いて泣いて枕がびっしょりになるくらい泣いた
弟の夢を見ていて、弟のことを描かないといけないと思った
家の中に防空壕があった 家は福岡城の真裏だった 
福岡城は西部軍司令部になっていて、空襲が来たら一番狙われるという事で、母は疎開しようと思って居たが、疎開が1年遅れた、縁故疎開、田舎に親戚が無いので行くところが無いので、母が或る人に頼んで20km離れたところに疎開した
配給はもらえなかった(本当は配給はあったが、都会から疎開したものには配給されず)弟は栄養失調で亡くなった
福岡の時は練乳とかがあったが、粉ミルクは戦後 練乳は弟にあげるものだから、といわれたが解っていたが隠れて、飲んだりした
その罪悪感は79歳になっても思う

弟(ひろゆき)のことを書かないといけないと思った
戦争孤児は同世代の人 中国に残った残留孤児  弟たちのことを言いのこさないといけないと思った
絵本が先で、1年後に教科書に載った
ひろゆきはどうしたら死なないですんだかと言うと、父親がいれば死なないですんだと思う
夫婦がいれば、子供3人ぐらいは食べさせられる
なんで父親がいなかったかと言うと、戦争に行っていたから
あの年から、地球上で戦火が絶えたことがない

母親は胸を患って、死にそうだった、父が帰ってきてから、毎日のようにレバー、夏ミカンを父が必死でたべさせたので、命を長らえた(父が帰ってこなければ、母は亡くなっていたと思う)
本の最後に「戦争では沢山の人たちが死にます 老人、女、子供と、飢えて死にます
そのことを私たちは忘れてはならない
忘れると平和は守れないでしょう」と書いてある
40歳代に書いたもの
ひろゆきの毎日に牛乳を捧げるのを忘れてしまう時がある
毎回夏になると読む 忘れないように読む 忘れると平和は来ないでしょう

私の先生は戦争中、教職にあったものとして責任を取って学校をやめるとおっしゃった
(戦争中に辞めると思っていた)
小学校1年生の時の担任の先生で、怖い「耳なし芳一」の話をした先生
或る日朝礼台から今日限りこの学校から辞めますと言って、(校長をぶん殴って ) そのあと校長が長々と訳の解らない話し始めていた
40歳を過ぎて、その先生の息子から手紙があったが、その先生は止めてはいなくてとなりの学校に転勤しました、ただし米倉さんのおっしゃったことは、80%合っています
戦後に先生をやめていますとのことです

耳なし芳一 伝説がある 目の不自由な少年の琵琶法師
なんで耳が無いのかと言う話 怨霊に耳を取っていかれる話
怨霊に 少年の琵琶法師は平家の語りをするが、素晴らしいので来てくれと言われて、頼まれて毎晩出かける
和尚さんが或るときにみると、ふっと顔をみると死相が出ている
小僧に付けさせて行ってみると、少年の琵琶法師は墓の前で弾いていた
人玉が飛び交って、平家の落人、女官らが、しくしく泣いている 
これはいかんと和尚さんは、芳一を裸にして、経文を身体全身に書いて、怨霊には見えないから一言も声を出してはいけない言われる
(この話が怖くて夜便所に行けなかった)
芳一、芳一と幽霊が来るけど、見えない
耳だけがぽっかりと浮いていた(耳だけ経文を書いてなかった)
怨霊は耳だけを切り取って持って行って、死を免れた

先生(梅林先生)がなんでこの話をしたのか、47歳に成るまで解らなかった
絵本を描きだしたが、やっぱり童話の神髄は恐ろしい話だ、生きることにつながる
怨霊は死、死から生を勝ちとった
戦争中は、死ね、死ねと死ぬことが、美しく清いことだと、少年航空兵で皆散っていった
それを送り出す教師の気持ちはどうだったろうと、思った
そうしたら、教師が死ぬのは怖い怖いと言っている
世の中が戦争の方を向いて、大概全員が戦争の方を向いているときに、教師が背中を向けて、子供たちに向かって、生きなさい、生きなさいと言っている
怖い話は生きる本能を与えるんだなあと 「生きよ、生きよ、生き続けなさい」と言っている

一番怖いのは、何だろうかと、たまたまそこに戦争があった  一番怖いものは戦争
宇野重吉 (劇団に入ってから) おじいちゃんの昔話 故郷の学校に全部くばったりなさった
その中に 耳なし芳一があった (私の先生は二人ともこれを読んだんだ と思った)
二人とも優しいけど、怖い 
梅林先生のことを新聞に掲載したら、物凄い反響だった
松永伍一も 同じ先生に教えてもらった
自分の好きなことを子供に与える
グリム童話 (ドイツ) ピノキオ(イタリア) 東南アジアの話  当時、三国同盟の影響で入ってきた

破壊 戦争と言うものは人を殺す 兵器、武器は人を殺すためだけにある
平和は簡単だと思う 皆が生きること 平和は殺しあわない、こんな簡単なことをなかなかできない
次にバトンタッチして、伝え続けなくてはいけない(忘れないために)