2013年9月4日水曜日

山口美代子(市川房枝研究会)  ・ 市川房枝から学ぶもの 2

山口美代子(市川房枝研究会) 市川房枝から学ぶもの 2
財団法人市川房枝記念会女性と政治センター  2Fの入口に市川房枝の等身大の写真があるが、昭和56年の5月に雑誌で写真を撮られた物が、採用された
生涯の活動をDVDで紹介、愛用していた服、靴など色々展示してある
ざっと戦前で8万点 戦後その3倍はあると思っているが2/3は整理がついたがまだ1/3は残っている
私がここに声をかけられたのは1997年です
国会図書館時代、現代政治史に深くかかわってきた人たちから、これまでに公表していなかった事実をお話うかがえないか、録音テープに収めるという仕事をしていた
市川房枝さんにお願いに行った
これほどまでの資料があるとは吃驚した
国会図書館を退職した人を初め、ボランティアを含め、5人で整理している、全部で30万点近くなる
戦前の物が焼けずに残っているのが貴重だと思う
八王子の家の蔵に昭和19年に資料疎開をした

婦選獲得同盟に関する資料、 日記、婦人参政権要求に関する対議会活動の記録、幅広く其時に活躍していた人たちとの手紙のやり取り資料、市民運動資料(ごみ処理、政治浄化の問題)
戦時下の国民生活関連資料、海外の夫人との交流の資料 等
1930年(昭和5年)4月27日 第一回全日本婦選大会の写真 市川さんがかねがね要求していた婦人参政権を団体に呼び掛けて、明治神宮外苑に在る日本青年会館で行っている
参加者は482名 東京がおおいが、地方からも50人参加
大半が和服、当時の家庭事情から言ったら、そう簡単に家を出てくるのは大変だったと思う
女性だけが集まる集会であったが、文部大臣からの祝辞、犬養さんからの祝辞も頂いた
翌年5・15事件で犬養さんは亡くなってしまう

「婦選の歌」 与謝野晶子、作詞 作曲、山田耕作 歌、原信子
戦後、市川さんは一時期追放になる なかなか情勢活動ができない時代があった
日本の女性は非武装を願っているので、講和条約に対して、意見書として提出する
ガントレット恒子、平塚らいてう、野上弥生子植村 環 上代たの,ら5人
追放時ではあったが市川さんも裏方として原稿に筆を入れていた
参議院 昭和42年12月9日 支払明細書 ボーナス袋 20万936円 あらゆるものを取っておいた
1953年(昭和28年) 第3回参議院選挙に立候補して、議員になる(60歳)
27年間の議員活動 1981年亡くなるが、その間中、国会の発言が重要だと言っている
232回 発言している  政党に属さない人だったが、短い時間でも精力的に発言する

女性も政治の中核に置かなければいけないと、信念としては政策決定の中枢の場に参画することが婦人問題を解決する近道だという信念を崩していなかった
売春防止法 人権問題として大きな婦人問題であったと思う
膨大な請願書がまとまって残されている
(鹿児島県の県民の署名簿 1955年6月に集められているもの 5~6冊ある )
超党派の婦人議員に依って提出されている

緻密な方だと改めて、録音を担当したときに思った 質問に対して詳細に調査して受け答える
7時間  1回目は1978年3月29日 2回目は5月19日に行った
質問者 児玉勝子さんに質問者になっていただいたが、他にもう一人と言われ私も参加する事になる
銀行口座を持っていなかった 特定の銀行との取引をするといろいろ在るので、配慮していたと思われる(政治資金規正協議会を成立させた人だったので)
一緒に食事をしたときでも、先生と同じものを頼んだが、先生は質素なものを頼んでいた
つけとかではなく、現金で払われた

1981年(昭和56年)2月11日に亡くなる
1980年に参議院全国区で1位当選 278万票 驚異的な得票だった
日赤病院に入院 病院が困るぐらいのお見舞い客が殺到する
お通夜の沿道には普通の格好をした人などを含めてびっしりと集まってきた
絶筆となった映画の推薦文がある
「しみじみと戦争が嫌いになる美しい映画 戦後派のお母さん達も、子供たちと一緒に是非見てください」と書かれている 倒れる2日前に書かれている
市川先生から受ける大事な資料を研究者に橋渡しして行って、次の世代に伝えてゆくという、その人たちのために残して行きたいなあと、そう思いますが、まだ残っている膨大さに戸惑いを感じてはいる、でも必ず次の方たちにもそれができるものと思っています