2013年10月13日日曜日

山本麗子(料理研究家)      ・移住20年、自然と人とのおつきあい

山本麗子(料理研究家)  移住20年、自然と人とのおつきあい
山本さんの両親は東京大田区で大衆食堂を営んでいました
子供のころ麗子さんの周りにはたくさんの料理がありましたが、特にお父さんが作る中国料理が、大好きだったそうです
今から20数年前、離婚を期に住みなれた東京を離れ、長野で新たな生活を始めます
小高い丘の上に建つ家、その小道にはほうき草が植えられて、ほんのりと色ずいていました
移住20年、自然と人間のお付き合い 伺いました

桜が好きで、桜を家の周りに植えて、100本になる
生徒が遠いところから来る(岡山、関西、福島など)    
日常の家庭料理を教えている 
家庭も歳をとってくると、人数が少なくなるが、食べる人が一緒にいれば楽しく食べられる
楽しい食事は?→先ずは友達を作ること、誰かを呼んだり、遊びに行ったりする
ほめ上手になる  うんと褒めて帰ってくる   
其れがエネルギーになって頑張れる
東御市(とおみ)に住んでいる  
田中駅からはタクシーで1500円の距離(歩くと3時間かかる)
移り住んで22年になる   
最初この場所を案内されるが、藪の中を上がっていって、上がり終えたところで景色の良さに感動して直ぐにここだと決めた

松は残した方がいいと、言われ、桜は毛虫が出るので取った方がいいといわれたが、桜も残してもらった (6~7本)
その後毎年 5~6本植えてゆき、現在のように100本になってしまった
自分の土地は600坪  4歳から東京にいたので、東京は40年近くなる
建物を含めて、1000万円足りなくて、銀行と折衝して、何とか借りることができた
玉村豊男さんの尽力もあった  
10年ぐらいで何とか返済できた
最初 お菓子教室を開く 2年 卒業した人に料理を教えるようになり、その後料理が主体になる

大衆食堂をやっていたので、見よう見まねで、小学校の時から厨房に入って、手伝っていた
東京で15年お菓子の教室を開いていた
信州に来たら、食材の購入が東京とは違って、不便でこの土地の食材を使った方がいいと思った、其れが全国に広がるものだと考えた
身近なもので料理をすることに変更した     
土にあった野菜というものがある
ここは粘土土 水分が土に入っていかないので、味の濃いものができるので、ジャガイモなどは
いい  
適さないものは10年ぐらいかかって、土地改良をしてきた(ニンジンなどは最初味が濃すぎた)

ここで生活してゆくには何でもやらなければいけないと思って、新聞のコラムの投稿にしても、話があった時に、なんとかやってきた
地元のTV局、FMにも参加させてもらったりしている
地域の中に入り込まないといけない
現在120名がいる  2週に分けて1週目は木、金、土  2週目は金、土 でこなしている
笑顔で作らないと旨くはならない
ここに来る前に離婚して、一人になり、新しい人生をもらったんだから、もうこれっ一人で楽しく生きていこうと決めた
頑張れば自給自足ができると思った  
自分のキッチンを是非持ちたかった
一大決心をして、信州に来ようと思った

離婚のときに自分が大嫌いになっていた 離婚は自分が決めたことを壊すことだったので
そのときは幸せな顔をしていなかった
あなたは夢がかなってここにきて、楽しい顔をしないと、人はあなたが幸せなのかどうか、応援してくれた人が山本麗子が幸せで楽しくやっているって、思わないとそのひとたちに申し訳ないでしょうと言ってくれた人がいた
笑顔でいなさい、笑顔でいれば幸せに成れるからと言ってくださった
笑顔の練習をした  
いろんなことをふっ切ろうと、夢がかなったんだから、幸せそうな顔をしないと駄目だと、笑って暮らすようになったら、半年ぐらいたった時に笑顔が素敵だねと言われた
自分しか幸せにしてくれる人はいない
緑をいつも観ていたいと思い、窓を一杯作った
料理離れをしている若い人に、朝ごはんを子供に食べさせてあげるようにと話している