2013年11月1日金曜日

田代美代子(歌手70歳)      ・私が見つけたやり直し人生

田代美代子(歌手70歳)       私が見つけたやり直し人生
「愛しちゃったのよ」のヒット曲で知られる田代さんは、これまでの自分の生きてきた道、これからの生きる道、そして10年間の闘病生活の話を中心に、公演やコンサート活動を進めています
病気療養中、田代さんを変えたのは野菜の大切さを知ったことでした
又ユネスコの寺子屋運動にも積極的に参加し、世界中の子供や女性の現状を知るたびに、今自分にできる事は何かを考え、早稲田大学大学院で、女性の教育史を学び、食育ソムリエの資格も取りました

2013年、大きな節目 早稲田大学大学院の修士課程を卒業、本を出すことができた
「歌が紡ぐ日本の地図」 1年ががりで作った   歌が地図の中に盛り込まれている
「愛しちゃったのよ」は大学の時で、21歳の時だった 昭和40年5月 レコード大賞新人賞を受賞ワイドショーの司会もこなすが、疲れから病気になる
地方の仕事の時にバッタリ倒れる 急性すい臓炎 物凄く痛くて、脂汗で震えるぐらい痛い
仕事はもうお終いと思った
人が怖くて、外に出るのが怖くて、皆が私を見ているようで、怖かった
毎日が、今日が終わって、ただ明日が来るようなそんな毎日でいいのと、自問自答した
病気の治療は3年、仕事を止めていた間は 、10年弱だった

病んだ心はなかなか治らなかった 勝手に傷つけられた気持ちになっていた(被害者意識)
食生活を変えたらいいのではないかと、気がついた
庭に野菜を植えて育てた きゅうり、トマト、ナス、インゲン、オクラ等
手をかけただけ、答えてくれる
野菜を育てる事で食べる事も、私の心も変える事が出来た
野菜、花、イヌ猫(拾ってきた)が一番で、私はビリっかすだと、自然に思えるようになった
(若いころは自分が一番だと思ってきていた 末っ子でしたし、仕事を始めて直ぐに、大ヒットになってちやほやされていた)

にこっと笑える様になったが、それまでに10年掛かった
陰のもの、陽のもの 色のバランスよくして食べた
せき(赤)、とう(オレンジ)、おう(黄色)、りょく(緑)せい(蒼色)らんし(紫色)
血行が良くなると、頭にも身体にも心にもいいと思う
母が過去に病気の時に、庭で花造りを始めて元気になったという事があり、私は野菜だった
食育ソムリエ 生産者と消費者をつなぐ役割 日常に密着した仕事
稲作文化、農耕文化は一人ではできなくて、地域の人が皆一緒になってやるので、そこが日本人の根本的な精神のルールはそこに在るのではないかと、思っている

ユネスコの活動  叔母が日本のユネスコ協会連盟を立ち上げたときから、参加していた
世界寺子屋運動をやっていることを聞いて、インドのスラムの中の寺子屋のビデオを頂いて、私の知らない世界があることを知って、これが大人に聞いた、映画で見た貧困なんだと、すごいショックだった
一緒に行きませんかと誘われて、一緒に出かけた
気温が45度、埃とにおいと 動物と人間が一緒く」たんで、2日目になると臭いが気にならなくなる
12日間回るが、東京に帰ってから、コンサートをやろうと思って、市のホールを借りてやった
他の人にも声を掛けて、協力を仰いで、2003年にインドのカルマータカ州の奥に入った村に、「初チャリティーコンサート田代美代子」という寺子屋を建立する事が出来た

入学する子と卒業してゆく数が合わない 途中で挫折してしまう
ようやく3年前に入学者と、卒業者がピタッと合った
勉強も大事だけど食べていかなくてはいけないと子供が言っていたが、仕事が周りには余りない
日本は恵まれすぎていると思う
寺子屋では読み書き計算ができるようにと、教えている
学校にいけないのは、子供だけではなくてお母さんもいけない  
女性に教育はいらないという思想なので吃驚したが、日本でもつい最近までは一緒だった
女性の高等教育はどう勝ち取ったのかを、勉強したいと思った
湯川告義先生の女性教育史の本を読んでいたら、明治の与謝野晶子だと書いてあって、この先生のもとで学びたいと思って勉強した
先ずは受験勉強、内緒でやっていた  65歳ごろから、3年以上受験勉強をした

最近は、大学の受け入れ体制もいろんな方法でやっている
受験したときには、周りは若い人だらけだったので、受験の撮影に来たんだと云い聞かせて、臨んだら気楽になった
落ちても皆にしゃべろうと思っていたが、落ちたら来年もまた受けようと思った
受かって、狂喜した  受かった人だけ口述試験  3人の教授に囲まれた
卒業しても難しい言葉で話さない人になってください、今までと同じ言葉で学んだことを、優しい言葉で表現して伝えてください、そういう人になってくださいと言われた
教育学研究科 学校教育を専攻 女子教育史を勉強  
修士論文は「与謝野晶子の女性教育論の実践についての一考察」
男女平等、男女同等、男女の機会均等とか、今現在よく聞く言葉を初めて訴えた人

女子の教育はあったが、裁縫、料理、花とか、良妻賢母を目指したような教育だったが、男子に劣らない様な学科にしようと女性も勉強出来るようにと、文化学院 西村伊作と組んで作った
世の中、男と女しかいない 社会は男と女で一緒になって作るもの 女性も社会に進出して男性と同等に働く、そのためには、男性と同等に教育をうけていないといけない、とおっしゃった
家庭生活も同等  与謝野鉄幹とは平等に行った  
13人の子をもうけて、2人は亡くしたが、11人立派に育てた
鉄幹を追って海外に行き、ロンドンで女性の社会進出、参政権獲得運動が行われていて、これらの事に感動して、真っ先にやらなくてはと目覚めたようだ

災い転じて 振り返って見ると、前はいい気になって不平不満を持っていて、そして病気になって神様は罰を与えたのかなと思ったが、神様はきっと軌道修正してご覧と、ヒントを与えてくださったのかなと、今は思います
プラスに考え始めると、なんでも良い方に転がってゆくような気がする
嫌なことがあっても、何かをおっしゃりたいんだなあと思います
この角を曲がったら、必ずきっと良いことがあると、自分に思っています