2013年11月10日日曜日

川岸美枝子(和栽技能士)     ・着物の文化を世界に広げたい

川岸美枝子(和栽技能士)   着物の文化を世界に広げたい 
群馬県前橋市出身 高校を卒業後、和裁の仕事がしたいと東京の老舗のデパートの和裁養成所に勤めました
6年間、全寮制で生活をしながら、修業をし、厳しい指導の元、メキメキと腕をあげて行きます
川岸さんはそこで男仕立てと言う仕立て方を覚えました 
男仕立てとは、胡座をかいて左足の親指に反物を挟んで裁縫をする仕立て方で、この方法で仕立てると張りのあるしっかりとした着物ができるという事です
養成所を出てから、東京で独立、和裁教室を作ります  
30歳で前橋に戻って結婚、様々な技能の日本一を競いあう大会、技能グランプリ4回目の挑戦で見事優勝、平成18年には46歳の若さで現代の名工に選ばれ、去年は黄綬褒章を受賞しました
しかし、その一方で夫が53歳という若さで亡くなってしまいます
川岸さんはいま、二人の子供を育てながら一家を支えています

今、一日、午前中3時間、午後3時間を仕事をするようにしている
小学校の卒業式の時には羽織を着ている方が結構いたと思う
私の下の子の小学校の卒業式には和服は2人だった
着物は日本の文化だと思っているが、なかなか見る姿が減っているのは寂しいです
行事の時に着るとか無いと、なかなか袖を通さないのが現状だと思います
子供のころは負けず嫌いだった   出来ないことはできるまでやろうとやっていた
お裁縫道具を学校で購入した時期があり、親に買ってもらったが、興味があった
最初単純なものを作っていた 母親にもアドバイスしてもらった
中学、高校時代 洋服を作ったりしていた
先生から和裁の方に進んだ方がいいのではないかと勧められ、そのまま受け入れた

実用裁縫養成所で6年間修行をした
和裁 先輩たちのまねをする  見よう見まねでやってきた
同期は17名 一番遠くは秋田から来ていた
100畳敷きに120名が入ってそこで黙々とやっていた
手は器用だと云われていたが、実際に行ったらとんでも無かった
絹針を使うが、縫えない、触れば針は欠ける  兎に角駄目続きの毎日が続いた
出来ないので、一番隅のほうでしばらくいて、3カ月ぐらいが過ぎた
全寮制なので、生活の部でも隅の方に行くことになる
負けず嫌いのところもあって、
追いつくためには人の何倍もやらなければならないと思った
寮のおばさんに頑張れと、諭されたこともあった

自分に危機が迫るといつも助けてくれた人がいるので、本当によかったなあと常に感じる
同期の人では1人、2人やっているかどうか、判らない
いろいろな積み重ねが有ってのことなんだけれども、昨日のことは今日無駄にしてはいけないと教わったような気がする
やってきたことは無駄にしてはいけない 昨日より今日より明日 と言う想いがいつもあったので続けられた
周りの人が喜ぶ姿を見ると、あーやってて良かったなあと思う 
そうすると自分のところに喜びが回って来る

男仕立て →裁縫養成所の先生から教えてもらった
胡座をかいて、左足の親指に反物の布を挟んで、左手で引っ張って、張って仕事をする
胡座をかくだけでも疲れるが、メリットがあったのでクリアしたいと思った
先輩の何人かは男仕立てはやっていたし、仕事も早く技術も良かった
仕上がりが綺麗に縫いあがる
昭和61年まで裁縫養成所で過ごして、独立する
1級の資格がある人がグランプリが受けられるが28歳で1回目を受けてみるが失敗する
29歳の時に4位入賞(2回目)  3度目で3位 4度目に出て、優勝する事ができた

結婚して1年して夫が糖尿病になってしまう
平成22年に6月に亡くなる(53歳)  子供は中学、高校生の時だった
入退院を繰り返して、徐々に悪くなっていったので、自分がやらなければとい言う想いがあった
46歳で現代の名工に選ばれる(全国で最年少  平均60~70歳)
去年、黄綬褒章を受賞  和裁をやってゆく上で、普及とか物を伝えてゆく作業とかを含めて、いろんな範囲が広がってゆくので、頑張ってゆきたい
若い人たち、一般の方々に和裁ってこんなもの、着物の良さとはこんなもの、とかが専門家が判る言葉で伝えていければ良いかなと思います
和裁は日本だけの技術、世界にこの技術を運べたら良いなあと思います