2014年1月7日火曜日

篠原有司男・乃り子(現代芸術家)    ・ポップアートの先駆者40年ニューヨーク生活を語る

篠原有司男乃り子(現代芸術家)  ポップアートの先駆者40年ニューヨーク生活を語る
1932年東京生まれ 日本のポップアートの先駆者 ニューヨークで暮らす現代芸術家です。 
乃り子さんは夫の仕事のサポートをしつつ、自らの芸術を発表しつつ活躍しています。
1952年東京芸術大学美術学部油画科に入学、絵具を含ませたボクシンググローブを初め、壁に張ったキャンバスをぼかすかと叩くボクシングペイントで一躍有名になりました。
乃り子さんは1953年富山県高岡市生まれ、19歳の時に美術を学ぶ為ニューヨークに渡り、美術学校に入学して、半年後21歳年上の有司男さんと出会い、恋に落ち一緒に暮らすようになりました。
乃り子さんは今キューティーと言うキャラクターを製作し、新しい境地に入っています。
2人に密着したドキュメンタリー映画「キューティー&ボクサー」が日本でも公開されています。

日本で初めてモヒカン刈りをした人 1958年だった。 
偶然、カミソリで蕎麦屋の2階でやった。 これを芸術にしてやろうと思った。
この時代には外からいろんなアートの運動がどんどんきた時代。
芸大の中はクラシックな事をやっていた。  何をやって言いかわからない時代だった。
乃り子さんは21歳年下、現在60歳      日本には時々は帰ってくる。
夜、広沢虎造なんかを聞いていて日本には帰りたいと思う。
酒は飲めない様になってしまった。  お陰で元気になった。
1969年にアメリカに渡った。 37歳  40年を過ぎた。
ボクシングペイントは1960年にやり始めたが、評論家、メディアは全然相手にしなかった。
雑誌社が来て、若者のドキュメントという事で来て、その時に初めて記者の前でやってみたら、伝統も何もないめちゃくちゃな男だというわけで、写真を観たら、結構かっこ良くて、これはアートになるぞと本能的に思った。

その後取材があって、野原でやる。 取材の2人だけの前でやる。
アクションペインティングです。 やたらぶっ飛ばすだけ。
ドキュメンタリー映画 「キューティー&ボクサー」 私たちの生活以上に綺麗にできていると思う。
最後に2人でボクシングをやる姿があるが、綺麗に取れている。(乃り子)
大不満、芸術のコンセプト、哲学を前面に押し出すのかと思ったらラブストーリーになっている(有司男)
毎週のように撮り来る。そのうちに気にしなくなってきて、後半の部分を使ったのが多い。
生活のにおいがいっぱい。 
この映画によってアーティストも普通の人間だと思ったとの新聞論評があった。
妻(乃り子さん)に対してはわたしは作品をけなしてきた。  それがばねになった。
生徒には褒めるので教師としては失格。

有司男さん 父は詩人 母は日本画家  麹町で文化地区の長屋に育った。
子供の時から母から絵の方の影響はあった。
1952年に芸大の油画科に入った。 教育が古かった。
ヨーロッパからは新しいアートの嵐が吹いて来ていた。
卒業制作で君の絵には嘘が無いといわれて、来たなと思ったが、しかし君は学校をやめなさいと言われて、学校を辞めた。
外の第一線でぶつかってみたいと思った。  
アートは成功物語をひっつけようとするが、アートに成功も何もない。
売れるとか、評価を受けたとか、賞をもらったとかは、全く関係ない。
アートはもっと深いところで、運命なんで、美は悪魔で、悪魔に引きずられている。
古典の教養、教養をしっかり身につけることが長持ちしている。
ダビンチの最後の晩餐をみてもちっとも面白くはないが、全部を見ると彼は大天才で、高い気持ちで何かに向かっている。

夫は理想を言っていただけじゃない(乃り子)
俺のは売れない、お前のは売れると、いじめられてきた。
生きていかなければいけないので、アーティストは水を飲んでいれば良い様なセリフを言うから嘘だと思っちゃう。
家賃払ってちょっと残ればそれで十分、最低限あればいい(有司男)

乃り子さん  高岡市出身 パチンコ屋と映画館をやっていた。
映画は気にいると何回も何回も見た。
末っ子だったので日曜日の絵画室に一緒に行って、そういう事が日常的にあった。
大学に落ちたので、直ぐに絵を描きたいと思ったので、アメリカに行った。
1972年の夏 1ドル 280円になり 今がチャンスだと親を説得して、行けば何とかなるだろうと思って行った。
半年後に有司男さんと出会う。
スタジオがあるから来ないかと言われて、行った。
日本での彼は全然知らなかった。   彼が絵を描くなどと言う事は全然知らなかった。
最初は尊敬したが、自分のアートが出来てくるようになるといろいろ違う事が出来てくる。
違う道を行くようになった。

昔の教育で、援助する事は当たり前だと思っていたが、ところが向こうはドンドン利用して行った。
私が妊娠して動けなくなったときに、私のキャンバス絵具を使って、描きだした。
私の絵の技法も取られてしまった。
キューティーを見つけたときは、初めて自分はアーティィストだと気がついた。
自分が皮膚から骨の髄から、頭の中までアーティストだと確信できた。
日本での活動とアメリカの活動はもう全部同じ。
便利なところで描けばいい。
アトリエを構えて、キャンパス取っ組んでいるのは珍しい、まだやってんのと言うような感じ。
デッサン力で勝負している。
2人が同じ場所で芸術をやってゆくには、お互いのある距離ができるようになった。
一つの鉢に二つの違う花が一緒に育つのは難しい。
栄養が足りなくて本当に困ることは確かで、それがうまく合えば良い物ができるし、良い展覧会も出来るし、良い花を咲かせることはできる。

同業者が夫婦になるのは、アーティスト、人が一緒に協力してというのは難しい。
アーティストは完全に独立した部屋が必要。 2000年にここから先はわたしの部屋だからと宣言して、仕事をしている間は声もかけてほしくないと言ったが、なかなか守ってくれなかったが、ある程度敷居は高くなりました。
子供は39歳になる。 絵をやっている。 皆アーティストだから一つの屋根の下では難しい。
息子の作品から刺激を受ける。
アーティストはニューヨークにいると、そんなことよくやっているなあ、偉いなあと言われる。 
文化の最先端を行っていると思う。 人間の中にある一番大事なものと、取っ組んで、人間を豊かにしているぞという一番大事な自信、喜びと言うか、出来たときに作品が万人のものであるという喜びがある。画商から言われて書いたものとは違って。(有司男)
若いころは収入がなくて貧しくてみじめだった。  私が初めてキューティーを自分で発見したときに、夫婦の問題が永遠に皆人間が持っている問題だから発表したときに、皆さんが同感してくれた。
皆に通じる事を私が描く事ができたことに凄くうれしかった。
自信を持って、自分のアートが皆に共通項を見出してくれたことによって、とっても嬉しかった。
一生描き続けてゆきたいし、何かいつも新しい物を発見してゆきたい。(乃り子)