2014年1月14日火曜日

ヤマザキ マリ(漫画家)      ・人生なんでも行動してみるもんだ(1)

ヤマザキ マリ(漫画家)   人生なんでも行動してみるもんだ(1)
1967年東京生まれ 46歳 人生は波乱万丈 指揮者だった父を早くに亡くし、ビオラ奏者の母と妹の3人で北海道で幼少期を過ごした山崎さんは14歳の時に、母の勧めでドイツとフランスを一ヶ月間一人旅をします。
この旅の途中で偶然マルコさんというイタリア人のお年寄りに出会ったことがきっかけで17歳の時に高校を中退し、絵の勉強の為イタリアのフェレンツエに行きます。
仕送りはあったものの何故か食うや食わずの貧しい生活が続いた11年間、その終わりごろ、シングルマザーになります。
子供のため、生活の為にと始めたのが漫画でした。
人生なんでも行動してみるものだ、世界を旅し、そこで暮らす、その経験は決して無駄にばらないというヤマザキさんの話を伺います。

今は北イタリアに住んでいます。
祖父は1915年~1925年までアメリカに暮らしていたし、母も音楽家なので海外に足しげく行く人間でしたし、海外のお客さんも来たし、海外文学が子供のころから好きだった。
海外に対するあこがれは子供のころから増長していった。
絵が描きたいと母親に言っていて、海外の絵をいずれ身に行くだろうと思った。
14歳の時に母と行く予定で有ったが、急に母がいけなくなって、イタリア、フランス、ドイツを回って最後の一週間だけ一人で旅をすることになる。(一か月の旅だった)
言葉は全然できなかった。 
ドイツへ向かう時に判らなくて、途方に暮れて人生に頼るのは自分しかないと思った。
1981年 当時の14歳としては、どう見ても10歳ぐらいにしか見られなかった。
よく旅を全うできたなあと思った。 
自分とあう接点が何もなかったし、誰も助けてくれる様な事はなかった。
この旅のせいで一遍に成長した様に思う。

フランスでは、有る家でクリスマスでピアスをもらっって付けろと言われて、、耳に穴を開けなくてはいけなく、そこの主婦が美容師で、パーマをかけられ頭の恰好からピアスを付けられたり、してしまった。
あの旅が私の人生を大きく決めるきっかけになった。
旅行の途中で、マルコおじいさんに出会い、お前は家出しただろうといわれて、事情を説明しろと言われて、ヨーロッパに絵を見て来いと母から言われた経緯を話した。
女の子一人で旅をさせる親の気持ちが解らないと、心配だから帰ったら親から自分に手紙をよこす様に言われる。
そこから母親との文通が始まる。
進路について、語学をやりたい思っていたら、騙されたと思って一回イタリアによこせとおじいさんから言われて、母親から行ってみたらと言われて、イタリアに行くことにした。
マルコおじいさんは陶芸家だった。
絵をやるというのは技術力だと、技術力をきちんと磨いておけば、お前がどんな創造力を持ってそれを形にしようとしたときにも、技術が助けてくれる、と言ってくれた。
17歳の夏にフィレンツエに行った。
まずおじいさんが迎えに来てくれて、画家を紹介されて、ドンドン継続してしまって11年になる。

最初は美術を学ぶ学校に通って、フィレンツエで吸収できるものは吸収しようと思った。
仕送りは貰っていたが、好きな人がいて、(詩人)教養が高くいい人で、刺激を与えてくれる。
一緒に暮らすようになったが、経済力が全くない人だった。
日本でバブルの始まる時期だったのでイタリアでも日本人のアルバイトは沢山あって、働いた。
似顔絵、革製品屋さん、洋服屋さんとかいろいろやった。
相手は金銭感覚の全然無い人だったので、常にお金がない。
文壇のサロンにも顔を出したが、そこでもあまりお金がない人が結構いた。
物質的なもので心が満たされる事はないという事、定義が定着したし、周りもそういう人達だった。
一番厳しいときにはインフラが止められてしまう。(電気、ガス、水道など)
冬は大変、布団を何枚もかぶって、電気が無いのでろうそくを一杯買ってきて、鏡に前の行くと明かりが倍になる。(エジソンが既にやっているといわれた)
いろいろやっていると困った時に応用できる。 なんだかんだと生きていけると思った。
ボランティアで、後でキューバとか、南米に行くことになるが、何にもないような状態だったが、キューバは一番大事な時間に停電してしまう。
皆が外に出て楽器を持ち出して来て、音楽が流れ、おじいさんおばあさんが踊り出してきたりして楽しんで、お金は人間の幸せとか、楽しみとは全く関係ないとキューバで確証された。
子供の頃、キューバの音楽が好きで、マラカスを担当して、やっているうちにキューバの風景が広がってくるので一杯絵を描いた。
南米音楽が凄く好きになってしまった。  キューバに対する思いが強くなった。
自費でならボランティアがあるというので、稼いで出掛ける事になる。

サトウキビの収穫の手伝いに行ったりして、やってきた。
キューバでは踊りに出かけるが、踊りの踊れないことは、女としてはキューバでは最悪だといわれて、ステーしていた家のお嬢さん(踊りの名手)から踊りを学ぶ。
当時キューバでは月収が一般的に1~2万円/月ぐらいだった。 
チョコレートを買ってきたが、皆でワーッと食べるが、そのあとで包んだ紙をポケットに入れておき、後でその紙を取り出して、匂いを嗅ぐ。 
匂いを嗅ぐだけで子供たちは幸せになれる。(感動した)
帰りの飛行機の機内食の残りを見たりすると、切なくなる。(キューバの子供たちを思い出す)
詩人の彼とは10年間暮すが、彼がキューバに来て、一旦帰って行くが、その時に妊娠している事が判る。
赤ちゃんができるという事にいろいろ考えてしまって、この人の子供なら一生大事に育てられると思って、喧嘩をしたり、お金がない事ですさんでいるという状況をこの子供には見せられないと思い、詩人の人とは別れようと思った。

子供は現実として大きなものなので、生き方を変えてみないといけないと思った。
私は一人で産婆さんを呼んだが、本当に駄目なことになったら行きますとのことで、タクシーで大学病院に行って、運ばれてから3時間で生れた。
その時に、人生幸せだよと見せてゆくためには、この子が物心つくまでは人生が辛いという事を
なるべく見せないようにしようと、詩人の人とは別れようと決心する。
油絵では食べてはいけないので、友人から漫画を何故描かないのと言われて、描き始めた。