2014年2月20日木曜日

橘 左近(寄席文字書家)    ・寄席文字 命

橘 左近(寄席文字書家)    寄席文字 命
寄席文字は寄席の看板、名前などが書かれためくりの文字、師匠の橘右近さんが、ビラ文字を
寄席文字という呼び方にして皆に親しまれるようにしました。
現在、席亭に認められる寄席文字書家は左近さんを含めては16人しかいません。
左近さんは長野県出身、昭和9年生まれ、80歳
小学生の時に父からもっらった、落語全集にはまり落語が大好きになって、高校生になってからは、毎週夜行列車で東京にでての寄席三昧と成りました。
その後は落語を聞きたい一心で東京の大学に入り、寄席に入り浸りになりました。
落語を聞くとともに寄席の全てに興味を持ち始めますが、不摂生がたたって、身体を壊して、長野の実家で闘病生活に入りますが、それでも寄席が忘れられず、完治した後再び東京に出て、会社に務めながら、寄席の文字にあこがれ、寄席文字書家を目指すことになりました。
当時の寄席文字書家の第一人者 橘右近さんの弟子として仕事をするようになり、平成7年に右近さんが亡くなり、全面的に右近さんの後を継いで仕事をするようになりました。
落語との出会い、寄席文字の魅力などについて伺います。

昔は決まった人が描くという事はなかったが、専門家が出てくる時代になってきた。
右近さんにとっては弟子は私が初めてです。
寄席文字は歌舞伎文字、相撲の文字と似ているが、どこか違うと思っていた。
総称して江戸文字と言われている。
筆の持つところは1.5cmの太さで、穂先はみじかい 、5cmないぐらい。
右近様筆 専門の筆屋さんが作ってくれる。
筆にのまれるというが、普通の習字用と比べると、根元まで墨をどっぷりをつけるので、それだけに太い字も、細い字も自在に書けるようになると一人前ですね。
4段に分けて3人ずつ、人芝居 10日間の主なる出演者、原稿が来て書き上げる。
50年前に見てほれぼれとして、何とか書いてみたいと思った。

落語は好きだから、寄席にいって生を見る、そのうちに看板に見せらて、この字の方に替っていった。
昭和4年に、上、中、下落語全集がでて、父親が買って、小学校の誕生日にお前これを読んでみろと言われて、面白いし、挿絵は面白いし、丸暗記するぐらいよく読みました。
小話などをちょっとした集まりには話したりした。
飯田市は粋な町だったので、生の話家を観たのは戦時中で、感激した。
ラジオでは随分聞いていた
高校時代に 昭和24年ころに初めて、末広亭に行った。 満員だった。
夜行を利用して、日曜日に一日聞いて 最後の夜行列車で帰ってくるというような事やっていて、
なじみになった、ただ券をやるよ、と言われたりして、寄席の文字に惚れ惚れとして、字を眺めたり、歴史物が好きで、話家の系図はどうなのかなあと思うようになり、図書館に通うようになって、文献を探し求めていったり、例えば円生は初代は誰でどこで生まれて、戒名はどういう名前でとか、調べるようになった。

系図をも普通の文字ではなく、看板を貰ってきて、見よう見まねで字を書き始めていた。
何のために大学に入ったのか判らなかった。
志ん生が大好きで、追っかけに始まる。 
ますますのめり込んでいったら、病気になってしまった。 
両肺が真黒だといわれて、田舎に帰って入院をした。(酒も煙草をやっていた)
系図は落語家の世界でも橘さんが書いたものしか、きちっとすじだって纏めたものしかない。
平成に入ってからまとまったものができた。
落語を聞いているうち、あれだけの記憶力はないだろうなと言う事と、肺をやられていたので身体的に無理だろうなと、落語家はとても無理だろうなと、一番先に感じました。
3年も寝ていると、ラジオと本を読むことだけで、入院生活を送ったので、それが非常に後になって自分には有効だったと思う。
20歳前後の一番面白い時期に、見舞いに来てくれた人には羨ましかったが、手術をして完治した。

東京に出てきて、デザインの仕事をしながら、今度は心を入れ変えて、落語を聞きましたね。
20年間ぐらい、仕事をしながら、結婚もしたし、すっかり寄席文字の方でも名前を貰っていて、やることが専門的になった。
自分の満足するようなことはとてもないと思っていた。
師匠に入門を許されたのが、結婚とほとんど同じ時期で、昭和39年だと思います。
これなら大丈夫かなと思ったのが、3年、4年だったと思います。
直接教わったのは一度もない、書くところを見ていた。
呼吸、指先、筆の持ち方、力の入れ具合、目配り、そういったものを見て覚えるんだよと、俺は直接手を取って教えることはしないからと、そういう指導の仕方だった。
師匠の仕事が終わると、鞄持ってお送りして、師匠の生きざまをずーっと見ているうちに、この人についていこうという気になりまして、熱心さでお前を弟子にしようと思ったと、後になってからですが、行ってくださいました。

いつ弟子と認められたかと言うと、昭和39年5月23日、せがれの1歳の誕生日の時に、おい、お前にこれをやるよと、色紙に橘左近を許可するというのと、名前の表札をくれました。
貰った瞬間に、手が震えるやら、本当に感激しました。
まさか、くれるとは思わなかった。
師匠は字の大家でもあったけれども、寄席の資料の収集家でも有り、落語の本はどっさりあるし、古い寄席の資料などがびっしりあって、この本棚にある本を皆貸してやるから、好きなだけ持ってっていいよと言われた。
正式な弟子になってまで、後々まで続きました。
デザイン会社で勤務はしていたころからで、生活基盤がちゃんとあったという事も寄席文字の世界に入りやすかった。
凄い道楽を始めてしまって、かみさんは大丈夫だろうかと思ったのではないかと思います。
よく辛抱してくれたので。

デザイン会社20年目に独立と言う形で、寄席文字の書家としての3人で独立を考えた。
旗揚げして、ほとんど寄席文字一本で稼ぎ出して、今日までなんとか食べてこられた。
子弟の関係は、絶対的なものなので基盤としてやらなければいけない。
そうこうするうちに、こういう字を教えてくださいとか、大学にも落研とかが出来て、教えてほしいという人たちが随分出てきた。  (昭和42、3年ごろから)
教室を始めようという事になる。 (昭和45、6年ごろから)
師匠の右近さんが亡くなったのは91歳、平成7年
前年に師匠の念願の筆塚、千躰荒神様で有名な海雲寺というお寺に「寄席文字の筆塚」と言う碑を建てるのが念願が成就して、一門、生徒たちと旅行をして、帰りに「俺もし死んだら、増上寺で葬式をやって、葬儀委員長は 小さん師匠だな」と酔って話していたが、本当になってしまって、転んで頭を打ってそれが原因で3カ月後に亡くなってしまった。
言っていた通りに葬儀が行われた。

師匠の80歳の事を考えると、まだまだだと思っている。
29歳で右近さんに認められて、弟子になってから50年と言う事で。
師匠は32,3年ぐらい、末広亭を書いていて、全面的に師匠からバトンタッチしたのが昭和53年で、私が受け継いでから長く書いているが、師匠が74歳の時に受け継いだので、もう35,6年になるが、まだまだ頑張って書けるうちは、歯を食いしばってでも、書き通すつもりでいるが、この年になって煙草はすうは、酒は飲むので、身体の方がついてこないのではないかとの不安はあるが。
後を継ぐ若い連中が、60歳代になり、皆40年ぐらいはやっているので、それぞれの仕事をやっているので、一門の作品展をやっている。