2014年2月6日木曜日

笹目浩之(寺山修司記念館副館長) ・ポスターが結んだ寺山修司と私

笹目浩之(三沢市寺山修司記念館副館長)  ポスターが結んだ寺山修司と私
笹目さんは1963年生まれ 寺山修二追悼公演のポスター貼りをきっかけに、24歳の時、ポスター張りの専門会社を設立、ポスター張りで培った、人の縁で演劇やイベントのプロヂューサーとしてのキャリアも積んできました。
2000年には元寺山さんの夫人の九條 今日子さんと寺山修二の著作権管理会社(寺山ワールド) を設立、2009年には指定管理者として、三沢市寺山修二記念館副館長に就任しました。

去年が没後30周年 予想を越える反応があった。
演劇がメイン、映画祭、出版、コンサート、講演会、展覧会とか多種多様なイベントがあった。
亡くなってから、没後10年の時には空前の寺山修二ブームみたいなものが起きて、出版ラッシュが凄かった。 没後20年、30年に落ちるのかなと思ったが、そうな事は全然なかった。
マルチな才能 詩人、映画監督、劇作家、評論家、写真家、俳句、短歌・・・。
晩年の活動は演劇活動 でとっつきにくいという事はあるが。
現代国語の中学校、高校の本に俳句、短歌が多くのっている。
教科書から寺山修二のファンになったというひとが2005年ぐらいから言われるようになった。
表現者の人達が寺山修二に興味を持つと、そのファンの人がまたつながってゆくという事があるかもしれない。

始めてであったのは、「家出の勧め」 単行本 タイトルにひかれた。
浪人時代の予備校の時に知り合った人で、演劇の好きな人に出会って、演劇に連れて行ってもらって、野田秀樹さんの「ゼンダ城の虜 苔むす僕らが嬰児の夜」と言う芝居で演劇の虜になった。
寺山修二の「レミング」を見に行く事になり、是が衝撃だった。 私の人生を塗り替えた作品だった。
人間の内面を扱った芝居 自分のの殻に閉じこもっていてはいけないという様な内容だった。
言葉が自分にぐさっと入ってきた。 寺山修二を追いかけるしかないなと思った。
自分で何かしないといけないと思った。  1982年12月に見た。
翌年に寺山修二が亡くなった。
イベントに行ってたりしてるうちに、九条さんとは知り合いになった。
葬式は一般のファンとして参列して、祭壇の前で花を手向けるときに、寺山修二の代わりに自分がやるしかないと、演劇界で頑張ることをその場で誓った。 (20歳の時 恥ずかしい話だが)
北村  「11人の少年」 作品を見に行ったときに九条さんに偶然会って、一緒に見た。
最初で最後の最大のチャンスだと思った。

寺山修二の追悼公演第2弾 三輪明宏、若松武史、天井桟敷の関係の方が皆いて、三輪さん等を紹介してくれた。
ポスター張りを依頼される。 
貼るところは飲食店が中心だったが、温かく対応してもらった。
演劇の世界にかかわれたのが嬉しかった。
天井桟敷が解散した事務所が渋谷にあって毎日遊びに行っていた。
偶然、パルコ西武劇場のポスター貼りの電話が入って、紹介された。
その後、30年パルコ劇場のポスターを張るようになる。
22歳に決心して会社にしようと思った(始めて2年後ぐらい)
最初は周りから馬鹿にされたが。     24歳の時に株式会社にした。
初年度 売り上げが2000万円だった。 

天井桟敷の関係があって、ささえさん?が一人芝居をやるのでプロチテデュサーをしてみないかと言われた。
「花の明け方」と言う芝居だった。 成功して、舞台美術家古川雅之さんがこんなちらしとかポスターを作られたら、こちらも負けないよいうに頑張るしかないといった。
ポスターから演劇を活性化出来るのではないかと思った。
2009年 寺山修二記念館の副館長になる。
1997年ぐらいに水戸芸術館で寺山修二の企画があり、寺山修二ブランド化計画でグッズを
作ったりしていて、その後九条さんと会社を作ったが、段々その会社が独り歩きをして行って、
寺山ワールドに仕事が移行してきて、2008年に青森県立美術館が出来て、2~3年後に寺山修二展が大規模に行われて、その時に寺山ワールドが大本の施工責任者の展覧会を仕切る事になる。
三沢記念館から連絡があり、指定管理者を引き受けてくれないかとの話があった。
2009年4月から担当する事になり、夢にも思わなかった。
情報発信をもっとやった方がいいと思っていたので、記念館の運営を本格的にやりだした。
最初にやったのがポスター貼りで、200枚程度だったのを、1500枚くらい刷って、貼りだした。
地元にどうして親しまれていないのか、難解だからというようなことは間違いで、俳句、短歌 感銘する作品が載っているので、前衛的な演劇だけ伝えるという事は間違いではないかと思い、地元の神楽、舞踏やっている人とか、俳句を作っている文芸部とかに積極的に参加してもらうようにした。

小竹信孝 舞台美術を見て創作活動を始めた。
敷居を低く、ファミリー客を呼びたいと思って働きかけたら、前代未聞の溢れだすような状況になった。
寺山修二ミュージックミュージアム コンサート が行われて大成功を収めた。
若手の才能を見いだすコンサートに育ってゆくのではないかと思う。
三沢市が寺山修二を観光資源に使いたいと方向に変わってきて、初めて没後30年で寺山修二演劇祭を開催した。
寺山修二を研究の総本山になるスタートラインになってきたのではないかと思う。
太宰治、棟方志功、寺山修二 青森の宝だと思うので、いろんな方のネットワークが必要だと思う。