2014年3月19日水曜日

山下正臣(元・琴平町長)     ・こんぴら大歌舞伎30回~こうしてわが町は復活した

山下正臣(元・琴平町長) こんぴら大歌舞伎30回~こうしてわが町は復活した
今年4月5日 四国香川県、琴平町で金毘羅歌舞伎大芝居が始まります。
今年は30回目の記念講演になるという事です。
街の高台にある芝居小屋、金丸座で上演されます。
今も残る芝居小屋としては、日本でもっとも古い金丸座は江戸時代そのままの花道、せり、回り舞台などを持ち、客席に雪や花吹雪を降らせるぶどう棚とか、俳優が中のりをするための欠け筋などもそろえており、国の重要文化財にも指定されています。
この金毘羅歌舞伎をあまり知られていなかった琴平町で開く為に、最初は町議会議員、後は町長として力を尽くした、山下正臣さんに歌舞伎を招き、上演する苦労話、今回の芝居の見どころ、将来の街おこしの夢などを伺います。

出し物は『菅原伝授手習鑑』 近松門左衛門原作の『女殺油地獄』 (という出し物)
琴平町の知名度 金毘羅さんもあまり知られていないのが現実 若い女性に聞くとほとんどが知らないというのが答えです。
琴平町は資源もない、資金もないという事で、琴平でなければできない事に着眼して、色々試行錯誤した。
金毘羅参り昭和30年、40年代は段々と老舗旅館が廃業して、諸店はシャッターを閉めるという様な、過疎化的な現象も起こってきました。    当時売りだすのがなかった。
瀬戸大橋時代まで5年と言うような時だったので、何とかしないといけないと思った。
金丸座と言う古い芝居小屋があった 1835年天保6年に建築されて現存する最古の芝居小屋と言う事で、江戸時代の雰囲気を残す芝居小屋だった。
歌舞伎の原点である江戸歌舞伎を復活してはどうかと考え付いた。

少年時代は金丸座で遊んでいた。 終戦直後昭和20年代ですね。
東京の歌舞伎を琴平に呼ぶ事ができるのか、
金丸座は国指定の重要文化財と言う事になっているので、この文化財を使えるのか、受け入れ体制、ボランティア、スタッフ、と言うものをどう組み立てるかという問題に繋がってゆく。
昭和58年定例議会で一般質問に立って、金丸座を活用する事を提案した。
当然答えはいかんともしがたい。  田舎の芝居小屋に誰が来るんだろうと、失敗して赤字を出したらどうするのかとの、意見もあり喧々囂々のぎろんがあった。
江戸時代の芝居小屋で復活をさせるという事に大きな価値観があるという想いが自分の脳裏から離れることができなくて、どうしてもやりたいと思っていた。

昭和59年民放の番組で3名の役者がきました。
金丸座のマス席に座って対談をしたが、素晴らしい芝居小屋だと、役者の血が騒ぐという事で、やってみたいという事で、できそうな感触を得た。
松竹の会長に話が届いて、金丸座を活用させてほしいと文化庁にお願いしたが、なかなかそういう風に利用できることはできなかった。
東京へいった回数は10数回にわたった。
地方を元気にする為に文化財を活用しながら、保存をする、年に1回ぐらいは風通しをしないといけない。  
寝かせて、見学するだけでは芝居小屋じゃないとの想いもあるので、そのあたりを随分訴えてきた。
最終的には年1回ぐらいで重要文化財の名に沿う内容のもので有れば活用してもいいんじゃないかと言う事に落ちついていった。
金丸座は回り舞台、セリ は全部手動(人力) 明かり窓の開け閉めなども全て人が行うので相当な人数が必要とする。
商工会の青年部 当時40名ぐらいいたので、それを引き受けることになる。
住民参加で街おこしをやるんだという事で3日間で有ればボランティアをしてもらった。
お茶子をどうするか、旅館の仲居さんたちにやってもらう事になる。

昭和60年6月27日に初演を迎える。  身震いがするような思いだった。
巧く行くかどうか不安が半分、期待が半分だった。
中村吉衛門が主演、自らが琴平向けのお芝居を作ってくださった。
再桜遇清水』、という芝居で、すさまじい芝居だった。
金丸座の機能を最高に生かしている。
臨場感を高めて、お客さんの隣りにお化けがいたりして、キャーッと悲鳴を上げたり、お客さんは大満足だった。
歌舞伎成田屋18番の「しばらく」  舞台が狭い、花道が短いという事だったが、俳優さんに熱意が伝わり、市川海老蔵さんが金丸座の寸法を自分で計って、書いて金丸座と同じ、とやという物を自分のけいこ場に持ち込んで、衣装ででれるかできないか東京で練習して、ちいさい芝居小屋に大きな衣装が映えて、生きた「しばらく」ができた、記憶に残る非常にインパクトの強いお芝居でした。

第1回は730名しか入れない芝居小屋で5回 合計で3650枚しか入れない。
欲しいのに券が手に入らないというような苦情も多く出た。
回数を増やせないかという事で2回目は6回にしたが、第3回は14回公演した。(1万220名)
多くの人に琴平に来ていただきたいというのが目的なので、順次公演回数を増やしてきた。
商工会青年部、仲居さんの人達にはよく頑張って頂いたとおもった。
5回目ぐらいまではボランティアの方たちもやりがいを感じて頂いたが、回数が増えるにつれて、自分の家の仕事ができないという事で、問題も出てきた。
年数がたつにつれて、歳も取ってゆくので、青年部が青年部で無くなり、瀬戸大橋が出来てお客さんは増えたが、商店街の方はさっぱりと言うのが現実だった。
四国学院大学の方から学生の社会研修の場として参加していただけないか、と言う話があり、提携して学生20名送り込んでいただく事になる。
お茶子も仲居さんだったが、やはり仕事の関係で難しくなり、近郊の人がやってみたいという声が出てきて、全国へ募集をかけてみてはどうかと、声をかけたところ全国で約400名のお茶子
が登録している。

需要と供給の問題、現在は16日間 32回公演で推移している。
旅行会社との提携で全国から迎えたいと思っていたが、これだけでは全国の需要にこたえられないので、ネット販売も行う様になった。
琴平町の町おこしには成るのかどうか、歌舞伎をマスメディアが特番を流していただいたので、見学者が年間を通じて数が増えてきた。
知名度を高めたという事では非常に大きな効果があったと思う。
回を40回、50回と重ねてゆきたい。
歌舞伎は世代交代期になって来ているので、市川染五朗が来ていただける。
俳優さんのとのつながり、人間関係を作ってゆく。
情熱を俳優さんたちにも伝わってゆけるように、我々も動いていかなければいけないし、伝わることに依って俳優さんのモチベーションも高まる、そして舞台を演じて頂く事に依って、お客さんに受けることにつたわるので、モチベーションは大切だと思います。