2014年3月4日火曜日

大滝博子(創作人形作家)     ・人形に託した 復興へのこころ

大滝博子(創作人形作家)      人形に託した 復興へのこころ
山形市で農村の生活や姿を人形として製作している大滝さんは、(57歳)3年前の東日本大震災で親戚や友人の多くが被害に苦しんでいる姿を見て、心だけでも寄り添っていたいと、絆、命をテーマに16体の人形を作りました。
この人形は3・11を忘れないメッセージを持っていると、山形県天童市、商工会女性部の仲間が東北6県の商工会に声をかけ復興支援の展覧会を開きました。
反響は徐々に広まり、東北、関東、全国へと広がりました。
粘土とちりめんなどの古い布で人間の表情を醸し出している、30cm前後の人形は、添えられた大滝さんの詩と共に、深い感動を与えています。

かすり袢纏 作業するときに着ている。

おっぱいの奥のずー遠くから、キューっとこみあげてくる どんなに離れていても、 お前が腹をすかせている事も かーちゃん かーちゃん 呼んでいる事も かーちゃんのお乳は何でもわかるんだ  おまえのかーちゃんだから 判るんだ  いつでもどこにても判るんだよ。

家族全員で畑に行っていた。  
お乳が張ってくると中から何となく、おなかすかせているんだ、青の子はと判るんです。  
そうすると泣いているんです。 女性しかわからない本能だと思います。
 
父ちゃんが泣いた日
畳の上であたりかまわず泣きじゃくっているお父さんの姿を異業に作っている。

父ちゃんが泣いた日、皆が泣いた。 悲しすぎて、悲しすぎて涙も出てこない。
心も体も泣き過ぎて、涙さえも出て来ない。

被災地の皆の事を考えると、何となく胸が詰まってしまって。
人形作り始めたのは 結婚して出産して直ぐなんです。
子供におもちゃに作ってあげたいとの思いからはじまった。 
小さいころから絵を描くのが好きだった。
作るのが面白くなってはまっていった。
中学校の時、スカートを提出しなくては行けなくて、親に作ってもらって持って行ったが、先生から駄目だといわれて、何度もやり直して完成したときには、あなだらけ、真黒になったが、先生が褒めてくれて、その時、達成感、自信から喜び、通信簿も3から4に上がって凄くうれしかった。
嫁いだところの義理の母から、走ることと歌う事は好きかと言われて、歌は物凄く大好きだったが、口は濁した。
舅に気にいってもらう様な嫁になりたいと思って、一生懸命 作ることに努力した。
それが手作りのきっかけ、人形、おもちゃを作ってあげたい というきっかけでした。

実家は祖父母が一代で築き上げた果樹園だった。
朝は5時起きで、夜は11時半まで仕事をするような忙しい家庭だった。
祖父母の介護をするようになり、母はよくやっているなあと子供心に思った。
忙しい時には私も学校を休んで仕事を手伝った。
忙しすぎて家族が段々バラバラな気持ちになって言って、喧嘩をするようになって、父より子供
の方を向く様になった。
気付いたら、私の人生のレールの先々を引いてくれていた。
それに対して私は、嫌だと思いつつ親のレールがあると楽なんです。
私は学校、結婚を親のレールに乗ってきた。
大滝家に嫁いだら、実家とは反対でゆったりしていて、義母との出会いは、若い時に何にもできなかったことが、義母と生活をすることによって、自分が持てるようになって自信がついて強くなった。

義母ははっきりものを言ってくれて、思いやりのある言葉だった。
義母と何でも話せるようになった。
のー天気さなれ、そうするとしあわせになれるから と義母からは言われた。

人形作りは独学だった。 試行錯誤で始めた。 
独学だと斬新なものができるのでよかったと思う。
子供が小さい頃は、内職、パートをして、デパートとかに人形の販売もしたりした。
それを25年間やってきた。 かわいくないと売れなかった。
綺麗でないと駄目で、笑顔でないと駄目だった。
売れるのもいいけど、自分の手元に何も残らないといわれて、しっかりといい人形を作って公募展があるから挑戦してみたらいいんじゃないかと言われた。
趣味から、作家になるきっかけだった。
自分の為に頑張ってみようと思った。  46歳の時だった。
思いきった販売は捨てて真剣に人形に向き合った。

テーマが決まらなくて、温泉に行ったら、夫と義母が階段を昇る姿が綺麗に見えてこれだと思った。
それで人形を作ったら新人賞に選ばれた。 2007年日本手工芸展 新人賞
タイトル「偉大なちっちゃなちっちゃな母ちゃん」

「母ちゃん おれ いまもおぼえったよ 母ちゃんのおおきな背中  そうっと耳で触ると感じた。
ふわふわのぬくもり あーこの匂い 母ちゃんのにおい 母ちゃん きこえっか
俺の背中が言ってるぜ あー懐かしい   母ちゃん 有難う。」

その時一番喜んでくれたのが義父で、その時には末期癌だったんです。
今から良い人形を一杯作れと言ってくれて、その3日後に亡くなった。
2009年 第3回アートJクラフト展2009 で  「命ありがとう」が人形部門グランプリ受賞に選ばれた。
7人家族で構成されている。 父が抱っこしている赤ちゃんがいて、子の赤ちゃんが私です。
父は男の方が欲しかったが、私が生まれてがっかりしている事を周りから聞いて、父を無視するようになっていたが、嫁ぐ時も有難うの一言も言わなかった。
私が女の子を生んで、実家に連れて帰ったら、抱いて父が喜んで、女の子に生まれてきてよかった、幸せになるんだよといったので、私は誤解していたと思って、その時の情景を人形に作った。

「お父さん お母さん おじいちゃん おばあちゃん 皆がいるから私がいるんだね 
生れてきてよかったよ  命有難う。」
これを見た14歳の子とお母さんからのメッセージがあった。
「感動しました。 ぼくも母からもらった命を大切にしていたいし、生んだことは後悔させない様に生きていきたいと思います」 14歳 男
「この息子の言葉を貰い、思いっきり感動しました。 有難うございます」 14歳男の母
本当の幸せは当たり前の中にあるのかなあと、感謝の言葉をいえる人が幸せになれるのかなあと思えました。

始めて被災地の映像を見た時には、どこの国のと思うほど、信じられなかった。
16人の人形を作らなければならないと思った。
人形は人の代わりになるんだよと祖母から言われていた。
ただただ皆が無事で有るようにと作った。
出来るだけ心を寄り添いたいと、私も睡眠時間を削って、食事を切りつめて、同じ体験を作って、心だけでもと、それでなくてもそれの人形の意味がないと思った。
人形が出来て、段々見るのが辛くなっていった、いろんな思いがあり泣いて作ったものですから。
皆の悲しみはどれだけ私は判っているのだろうと、自問自答した。
3・11を忘れない様に、この人形たちは生れて来たんだろうなあと、初めて判った。

山形県天童市、商工会女性部の仲間がこの人形を見て、この人形で絵ハガキを作って、義援金にしようと動いてくれた。
次々に広がって言って、被災地の方々がこの人形に会いたいと来て下さった。
この16人の人形は私たちの代弁者だと言ってくれた。
悲しい時、辛い時はいっぱい泣けばいいといわれた、明日からまた元気が出ると言ってくださった。
被災県でも次々に出たが、具体的な話になると、「家族」がテーマなので、被災地の皆さんに悲しい思いを思い出させるのではないかと、立ち消えの方が多かった。
震災1年半後、岩手県一関 気仙沼の仮設住宅がいっぱいある処。
160体の人形展をしてくださった。
初日に、ある人が人形の前で泣いていました。 こんな人形作って御免といって、一緒に泣いて、抱きしめるしかなかった。
次の日に仮設住宅の友達を連れてきてくださって、又次の日はそのまた友達を連れてきてくださった。  
沢山のメッセージを貰った。
「私は気仙沼の仮設で生活しています。とってもいい人形展でした。震災で夫も亡くなり、実家の母や叔父叔母と6名が行方不明で、4人が見つかりましたが、、まだ2人は見つかっていません。早く家族のところに戻ってくるように祈っています。 心が和みました 有難うございます。」

この人形が少しでも役立ったのかなあと、涙しか出ませんでした。