2014年4月1日火曜日

おおつきちひろ(スペイン料理店)  ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)

おおつきちひろ(スペイン料理店オーナー&シェフ) ”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)
東京、渋谷でスペイン料理店を経営する。 30年前子供と一緒に海外を旅したいと、スペインを訪れ、スペインの素朴で素材を活かした家庭料理のおいしさに魅せられました。
その後、マドリードなどの料理学校や、各地方の料理名人たちから直接学び、レパートリーを増やし、スペインを訪れた回数は130回と言います。
その腕を活かして20年ほど前にスペイン料理店を開きました。
スペイン料理のレシピや留学中のエピソードをまとめた本を数冊執筆してきました。
スペインの魅力を語っていただきます。

契約しているお弁当の注文があると起きるのは午前5時です。 9時ぐらいまで作業する。
原稿を書いたり、支払い、メールの処理、駅で販売始めたクロワッサンを焼きながらやっている。
午後は雑誌の撮影、TVの撮影、とか食材の仕入れ、、業者との打ち合わせ、出張講師、など日に依ってやっている。
夜の11時半ぐらいまでやっている。  
小さい頃は、楽天的、おてんばで自分の考えを全て行動に移すような性格だった。
女は勉強よりも、家庭的なことをやりなさいという様な状況だった。
結婚に因って解放された。  
何でも自分の思ったことは追求してもいいんだよと言うような人だった。
自由にしてやりたいことをする、それが生きていることだよ、と言う様な人だったので、全ての事から解放された。
出産の時に、胎児の状態が横になってしまっていて、最後は吸引分娩したが、駄目で、引っ張り出す様にしてだして、子供の方も泣かないような状態で、2日後に自分のところに来た。 8日間入院した。
家に帰ったが、もう一度病院に戻ってしまって、生死がどうかという様な状況だった。

子供が生まれた頃から、自分が世界から離れていってしまうという恐怖感があって、お母さん編集者募集の記事があり、電話をかけて会いに行った。
夫の同僚が結婚する事になり、島根に家族で初めての飛行機で行って、夫はすぐにとんぼかえりだったが、私は子供と二人で、すこしずつ東京に帰ろうと、旅をすることになる。
外に行くという事は、色々なものが見えてくると思った時でした。
5歳でも父親の代わりに支えになる様にすることもある。
その後の海外旅行をすることの原点だったと思う。
小学校の3年の時に、海外に行こうという事になる。(1970年代後半)
自分を試してみたいと思ったのと、子供の計画で旅行をしたことがあるので、海外に行きたいとの思いはあった。
行き先について友達に相談したら、あなたを見ているとスペイン的だと言われて、歴史、建物、食べ物、あなたの好奇心を満足させる物が全部あると言ってくれた。
スペインとの縁みたいなものの様に感じた。

スペインに向かおうかと思った。
スペイン語を習い始めたり、知り合いの兄が脱サラして暫くスペインに住むという事で、家を訪ねてきてくれた。
行く寸前になって止めようという事になり、(3人目の子供が出来たことが解り)、でも外国でも問題なく産めると後押しをして、その人はスペインに行ったが、やり取りをしている中で、手伝いに来てほしいとの要望があり、出産予定日が10月(2学期の真ん中)と言う事で、躊躇したが、子供が腕を骨折してしまって、夫が腕だったんだからスペインに行ったらと言われた。
子供の先生も同意してくれて、出掛ける事になる。
思ったよりも出産が早くて、自分たちの時間が3週間多く取ることができた。
アルハンブラ宮殿に行きたくて、グラナダに行った。(親子二人旅と成る)
息子は白ゴリラがみたいという事でバルセロナに行くこととになる。

二人の旅になった時に全てスペイン語、しかも私は緊張した顔をしているので、言葉もあまり通じないという事もあり、息子はパニック状態になる。
外に出たがらなかったり、食べものもあまり食べない。
息子を引っ張る様にして、いろいろなものを見て歩いた。
スペインは、実家に戻るような気持ちがあり、成田についた時、日本に戻ることが嫌な思いがした。
直ぐにスペインに行きたくなる。
又直ぐ行きたいと行ったら、姑からは烈火のごとく怒られた。
自分でためたお金とは言え、もう二度と行くんじゃありませんと言われた。
語学学校に夫に勧められて、夫に入会手続きもしてもらって、学生時代よりも真面目に勉強した。
しかし、落第したが、留学していた方とかがいろんな体験を話してくれて、とても楽しかった。
二度目の親子旅 小学校6年生の夏休みを利用して、駐在員の方からのお世話になり、一週間ほどいて、その後子供とセビリアで二人で暮らす事にしようという事になり、出掛けてゆく。

マンスリーホテルの様なところだった。
買い物も非常に珍しくて、作り方を見たりして、フラメンコの友人を紹介されていて、その人たちとプールに行ったり、家に招待されたりして、スペイン人の生活がどんどん見えてきた。
生ハムのスープ、細いスパゲティーみたいなものに凄く日本の味の様に、素朴で深みのある味だった。(味噌とか醤油などは一切使っていなかったが)
その料理法を教わった。 骨をことこと煮るだけ、ちょっとオリーブ油を加えるだけ、そこから出てくる味は非常にスペイン料理に興味を持った。
小学校のお母さんたちがスペイン料理を教えてほしいとの事で、料理を教えることから始まった。
1か月に一度ぐらいの割合で始まったが、教えてほしいとの要望があり、区の料理室が増えてきた時代で、それを借りに行こうという事で申し込みに行った。
区報にのってから、是非にとあちこちから話があって、一週間が全部予定が入ってしまう様な事になる。
1980年代の事 海外に料理の目が向いてゆく時代でもあった。

仕事を持つ事は、大反対を受ける義母たちへの名目が立つという事もあるし、どうせ学ぶのなら深く広くきちんと自分の中に手を入れたいと思って、是非仕事にしたいと思った。