2014年4月4日金曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   ・自分にもできることからの出発(1)

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   自分にもできることからの出発(1)
石川県輪島市の生まれ 69歳 中学校を卒業後、タンスなど和家具を作る仕事に就きましたが、思うところあって、20歳のころに漆工芸の道に進路を変え、輪島塗の師匠の弟子と成りました。
地元に設立された漆芸技術研修所で、人間国宝松田権六さんを始め、優れた指導者の教えを受け漆工芸の作家を志す様になりました。
しかし作家への道は厳しく登竜門とされる公募展に6回連続して落選し、鳴かず飛ばずの苦しい生活が続きました。
そうした苦境を小森さんは独自の道を切り開く作品で乗り越え、漆の道に進んで、およそ40年後の
2006年漆塗り技の重要無形文化財保持者に認定され、人間国宝と成りました。


輪島市 能登半島の中ほどのところ  輪島塗として有名。
漆芸作家として漆器作りをしている。 
塗師 漆器のボディーがあってその上に布着せをして、下地を付けて、中塗りを付けて、上塗りをする、色々な過程を経て、最後の上塗りをするまでの工程を行う。
ほぼ30畳の工房、20年前にここに引っ越してきた。
下地を付けるとき、上塗りをするのにいい時期があるので、時期的なタイミングを合わせながら行う。
工房展にだす、中塗り、上塗りを現在はやっている。
日本伝統工芸展 それが一番大事な展覧会です。 
7月の終わりに展覧会の締め切りがあり、8月の前半に監査、審査があり、9月の20日前後に東京の百貨店で開催される。
自分の作品を見たり周りの人の作品をみて、帰ってくるときに、来年1年間の製作のスケジュールを自分の中で組み立てる。
日本伝統工芸展の審査委員も行っているが、毎年では無い。(審査委員、監査委員を担当)

気温が24度、湿度は65~70%ぐらいが、漆を塗るにはベストな状態です。
漆は湿度が低いと乾かなくて、湿度が高いと乾く。
漆を取ることを「かく」と言うが、かかれた時期、かいた木の性質によって乾きは微妙に違う。
一桶に集めるので、桶一個一個に依って、その乾き、艶、が微妙に違ってくる。
湿度が高すぎると乾きが早く乾きすぎてしまって、それはまた困る。
中が乾かないと「うむ」というがそれは又よくない。
時期、時期に合わせながら仕事をするのが大事。
10年ほど前に能登空港が出来て、東京に来るには凄く便利になった。
羽田~能登空港まで1時間 家から2時間で都内に行けるようになった。

挨拶状(一昨年の個展)
「20歳の頃、私にもできると思い、漆の道に入りました、30歳40歳私だから出来ると思い頑張り、50歳、私にしかできないという事を意識し、又目指してきました。
60歳、いまの私にしかできない仕事を、そして今の私の精一杯の仕事でございます。」
仕事の歩みと人生が凝縮されてもの。
中学校を卒業して大工になりたいと思っていたが、身体は小さくて、大工は諦めて家具屋さんに務めた。
身体は小さくて、長い板を削ったり、タンスを担いだりするのがきつくて、家具屋での仕事に一人前になったころから、体力的に長く続けられないと思い、自分で出来る仕事は無いかと探したら、漆の「沈金」という仕事なら出来るのではないかと、夜だけ1年間通ったのがきっかけでした。
「沈金」 仕上がった輪島塗の器物の上に「ちんきんとう」と言うのみで彫って、そこの上に漆を引いて、漆をあらかたふき取って、そこに金箔なり、金粉、顔料などをいてれ、余分な金粉なりを取ってしまう、彫ったところに金を沈めるという事です。

夜だけ樽見幸作という師匠のところにいくが、昼間も来て弟子にならないかと言われて、家具屋をやめて、3年間の修行奉公、1年間のお礼奉公をすることになる。
最初は商品には触らしてもらえなくて、まず朝から晩まで点を掘れるようにするのが第一の修行、お客さんへの対応も行う。(人にかわいがってもらう事は一番大事だと言われた)
さらに腕を磨く為、地元に新設された漆芸研修所に入る。
そこで松田権六先生との出会いがあった。  
輪島塗だけが塗りものではないよと言う事を色々な形で教えてくれた。
漆器と言う塗るものは器地があって、器地がいい形でいい骨格があって、その上に下地という漆を塗ることをやる、いい着物を着せる、最後に沈金なり、蒔絵でお化粧をする、それが漆器と言う塗りものだよと、教えてもらった。
お化粧だけではなく、大事なのは骨格、着物もちゃんと着ることだと教えてもらった。
器地のデザインをよく知って漆を塗る、それが輪島塗には欠けている世界ではないかと、40何年前に言っていた。

見方が変わってきて、分業化されていたが、自分のサインの入れられる物を作りたかった。
工芸展に6回連続して出品したが、入選しなかった。
7回目に落選したら、漆の仕事ができれば好いなと覚悟して出品したら、7回目で入選出来た。
当時、結婚して子供ができたりして、生活を支えるという意味では厳しかった。
彼女は研修所の後輩で、先に彼女が入選したが、私が2,3回入選したころから、彼女は漆の仕事からはスパッと止めて、専業主婦になった。  本当に貧乏だった。
昭和52年、32歳の時に日本伝統工芸展に初入選、その後10年にNHK会長賞を受賞 「曲輪造籃胎喰籠」曲輪造 という技法は「あての木」の原木を薄い2mm、3mmの厚みに製材した材木で、直径を計算して、両脇を三角に削って、三角をうまく合わせることに依って、同じ厚みの曲げた板ができる。
それを3重なり、4重なりに組みあわせて、器地を作る技法 赤地友哉先生に習う。
籃胎(らんたい) 竹を編んだボディー(太田儔先生に教えてもらう。) 
その二つを融合させ器地を作った。 
喰籠(じきろう) 器物の形 昔は食べ物をいれたが、今はお茶道具のお菓子を入れる器として使われている。

色が大変素晴らしい 溜め塗りと言う技法 朱の漆を塗って、最後にすき漆という 透明度の高い漆を塗る。  
竹を編んだ網目の引っ込んだところに漆が余分に溜まる、そうすると網目に陰影が出てくる。
側面の曲げ輪の部分には朱の溜めから、うるみ色の溜めにグラディションに作って、その上にすき漆をかけると言うやり方をしている。
41歳の時にNHK会長賞を受賞。
自分のやりたいことが見えてきた時。 両方融合してやるのは当時私しかいなかった。
竹は伸び縮みが少ない材料で、狂わない。 
網目が表に出ない様に濃い漆で塗るが、受賞作品の場合は網目を塗りこめなかった、網目をデザインとして生かした。

私自身輪島の中にしかいなくて、一体世の中、どのような漆器が流通しているのか、昭和50年代、百貨店で漆器を売る時代になってきていて、百貨店では一体どういうものが並んでいて、どういうものが売れるのか、みたいと思った。
東京、名古屋、大阪、京都、神戸の百貨店を全部見て回った。
漆器は使ってもらって なんぼかと思っているので、毎日毎日使っていただける汁椀などは漆の大事な世界だと思っているので、そういうのを改めて確かめたかった。
作家という事よりも、塗師と言う生きざまも大事だと思っているので、手の中に入れて慈しんでもらえるもの、毎日毎日使ってもらうものはもっと大切だと思います。

目標は無かったという事ではないが、とりあえず自分のやりたいことが次々に見えてくる。
自分の今できることをやりながら、もう少し先の自分を見る目を持つ事が当時の私には大事でした。
一番になりたいとの考えはなかった。
自分のやりたいことだけをやってきた事が良かったと思う。 後悔はなかった。
自分を裏切らなかったという事でしょうか。