2014年5月19日月曜日

壇太郎・晴子(エッセイスト)      ・楽しい料理を受け継いだ幸福(2)

壇太郎・晴子(エッセイスト)     楽しい料理を受け継いだ幸福(2)
島の山の標高は195m  句碑がある。 12月28日書いて 翌年1月2に他界。
「もがり笛 いくよめぐりて、 花に逢わん。」  
もがり笛 ひゅーひゅー風が竹に当たって笛の様に鳴る。 季語
5月第3日曜日に集まる。  花逢忌
自分に本当に正直で嘘のつかない人、万人に優しい人だった。
気使いが細かくて、本当に喜ばせることが好きな人でした。
父が中学時代に両親が離婚して、父は家のことを省みない人だったので、自分が3人の幼ない妹たちに食事を作って食べさせていた。
料理をを自分でやらざるを得なかった。
私は小さい時から、父から周りの植物を見ながら、食べられる植物、食べられない食物を教えてもらった。
3歳になるかならない時に、母(律子)が肺結核で死んだ。
その後父と暮らすが、全部父が食事を作っていた。

昭和22年、23年は物がなく、食べ物に苦労した。
おにぎりとめざしを貰って食べて、世の中にこんなうまいものがあると、知りました。(4歳の時)
それが美味い物の原点。
壇流クッキングはレシピがない。(経験から)
料理の本 うんちくは無い、内容の本
壇流クッキングを継承しているのは晴子です。
この家の料理は特別な料理と判ったのは、ずーと後になって判って、美味しいものは全部義父の食卓で出会っている。
美味しい物を食べたかったら、自分でやればできるのではないかと言う事を、姿勢を教えてもらった。     物を感覚で作る。

海外に行った時は食材を土産には下げてこれないが、お土産の代わりに料理して再現してくれる。
それが我が家に定着してゆく。
よそで美味しかったものを、再現してくれる。
壇流クッキング 本にない物があり、再現してみようと言う事になっている。
160種ぐらいはやらなくてはいけないが、来年には出版してみたいと思っている
お客さんがきて、父が料理を作って接待するが、一緒に来るわけではないので、遅れた人にも同じ馬刺し、をたべさせるために、新たに買いに行くがなじみの店に馬刺しがなく、食べさせたいと言う一心で汽車に乗って、信州の伊那谷まで行ってしまって、翌日は帰ってこなくて、3日目に「ただいま」と言って帰ってきた。

父が危篤の時に、親戚の方が来るが、もてなしのために、父からおせち料理の指示がある。
病院には来なくていいから、お客さんをもてなしなさいと言う事でした。
亡くなってから35年になるが、いまだに父の会があるが、何人も集まってくる。
存在を残す、2歳の孫が、おおじいじい、おおじいじいと どっかにいるといっていた、どっかにいるんだなあと思う。
父が入院する前に、もっとここにはサウナ、客間、書斎を作って、金があったら家を作りなおしたいと言っていたが、我々はその後、ほぼそのように作りなおした。
律子(母親)の歌 「つくづくと 櫨の葉朱く 染みゆけど 下照る妹の 有りと云はな
(日増しに はぜの葉っぱが赤く染まってゆくけど 美しいお前はもう此の世にはいない)
万葉風の歌  昭和23年に作っている。

「火宅の人」のイメージでとらえている方は、家庭生活を思いっきり破壊しているようなイメージだが、決してそうではない、よき家庭人、いいおやじだった。
海外旅行はよく行ったが、旅行は誰かに誘われて行っていた、過去に拘らない、後ずさりをしない人だった。
私は家を建てる材料は、北海道で20~30年前から買い集めていた。
材木を買っていたのは、この家を建てるという計画は無かった。
「なんのその 100年後は ちりあくた」 
なんだかんだ言っても100年経ったらちり、あくたになってしまう、物欲とか、財産とか持たなくていい、というようなことを言っていた。
「本来無一物」 大黒柱に書いてある。 われわれにも戒めです。

父が40畳しきのキッチンを作って、客をもてなすと言う想いがあり、自分が暇な時には大漁旗を揚げてきてもいいぞと、旗を作って、旗を立てるところも作った。
ここに来る人は時間がゆっくりと成る、言うふうに感じる。
息子たちも料理は好きです。 教えたわけではないけれども。
息子たちも、もてなすことは自然に身に付いた。
食は次世代を育むものなので、大事だと思います。