2014年7月7日月曜日

江戸屋猫八(ものまね師)    ・親父から受け継いだ芸ともうひとつの事(1)

江戸屋猫八(ものまね師)   親父から受け継いだ芸ともうひとつの事(1)
64歳、父の3代目江戸屋猫八に弟子入りして、芸を学び、江戸屋子猫という芸名で若いころから舞台に立つとともに、TV、ラジオ、映画などで幅広い活躍をしてきました。
父である3代目江戸屋猫八はNHKの人気番組だった、お笑い三人組を初め、鬼平犯科帳など数多くのドラマに出演し、温かみのある真面目な演技の持ち味の俳優でもありました。
3代目、猫八が戦時中に徴兵されて出征し、広島で原爆に遭遇した兵士であったことは必ずしも広く知られていません。
今日は猫八さんに、先代の江戸屋猫八さんの事を、師匠、父、と両面から語っていただきます。

季節感、もっとも重要、鶯、虫の音、田んぼの蛙の声など、季節感の上に乗って鳴きまねができるぐらい重要。
初代猫八は私のおじいさんで、蛙の鳴き声をするのが得意だった。
父が3代目、私が4代目、息子がいずれ5代目になると思う。
初代が亡くなった時に昭和7年、父は12歳で子供だったので、初代の弟子が2代目を継いだ。
初代は歌舞伎の役者をやっていた。 (脇役)
20代後半、身体を壊して、動きの激しい役者はできなくなり、その後物マネを始めた。 
大道で最初はものまね芸を築いていった。  
寄席芸人がそれを聞いて寄席でも受けるだろうと、寄席の方に上がれるようになった。
私は猫八を襲名して5年になる。

江戸屋子猫でずーっとやってきた。
長野県の熊の湯で舞台をやっていて、親父から言われて、猫のものまねをおやじとやったのが初舞台。
虫の声は吸って音を出す。 中学になってやっと音が出るようになる。
蛙の音、両手を使いながら音を出す。
高校卒業後、修行に入る。 (父のもとで3年は付き人)
他の人が、立ち振る舞いをみて、今度来たお弟子さんはなかなかよくやりますね、と言われるような立ち振る舞いをするようにと言われた。(弟子であること)
一番重要だったのは、芸そのものは教えようがない、技術的なことはある程度教えることはできるが、舞台でのしゃべる事などはお前自身が考えろと言われた。

父は本を何冊か書いている。(7冊 自分の体験談) 
年賀状は多い時で1000通は書いていた。(筆まめだった)
父は50代ぐらいから、原稿用紙に向かう様になる。
ことわざが好きだった。  「一事が万事」 失敗を厳しく言っていた。
全ての事の考え方とか、自分のプランと言うものは、関係ないこと(写真を撮る)でも、こういうところに出てくる。(いい加減な撮り方をしたら、芸にも影響する 「一事が万事」)  
「覆水盆に還らず」  失敗すると済みませんでは済まない。
子供心に厳しすぎると思っていたが、芸の場数を踏んできたら、やっぱり親父の考え方は正しかったんだと思う様になった。

私には弟子であっても、父が芸のちょっとした評価、体調のことなどを聞いてきたりはした。
お笑い三人組、昭和30年代の初めから40年代にかけて。
一龍齋 貞鳳、三遊亭小金馬、江戸屋猫八の3人が主役。
お笑い三人組が始まった時は、小学校1年生の時だった。
父の身体の具合は必ずしも調子のいい状況ではなかった。
船舶兵だった、陸軍だが輸送船を守るために、船に乗ってゆくが、いろんなところにいった。
終戦を迎える前に、広島の宇品に駐屯した。
その時に、原爆に遭遇する。 (付き人になった頃には、ぼつぼつと話す様になった)
特に、駐屯して原爆に遭遇(24歳)して、その話は壮絶と言うか、すごい話だった。
原爆が投下されて、ピカッと光って、すずーんと凄い響きで、宇品にいて、爆風で数m飛ばされたと言っていた。  爆心から4~5km。

上官から見に行くように言われて、市内に出掛ける。
歩いていると、廻りの家が全部倒れて、煙がいぶってる中から、人の悲鳴、上半身がやけどして、お互いが家族を呼びかう、倒れている数が凄くて、惨状の中で、直ぐに又戻って中隊長に報告して、本格的に救助活動に出向いた。
手立ての仕様がなかった。
テントに運んであげて、一日中その中で、やけどの手当てを、その場で出来る程度の処置をする程度だった。
親父のその言葉を聞くだけで、すごいことだと思った。
全身やけどで、喉が渇くが、水をあげると、死を早めてしまうが、どうしようもない状態の時は、水をあげて看取ってやるしかないと、軍医が目で合図する。
ごくっと一口飲んで「あー、美味しい」と言って、亡くなるんだそうです。

昭和58年、NHK広島放送局 「爆心地の夜」 で先代の猫八師匠が証言をこうでしたと、語っていているうちに、「地獄ですよ、こんな凄惨な姿はどこに在りません」と、絶句してしまった。
途中から言葉が詰まって、「済みません」と、番組のディレクターに謝ったが、「師匠の気持ちがあの絶句された中から十分に汲みとれました、あの姿を拝見したことが、あの当時のことを想わせてくれました」、と言ってくれました。
猫八さん自身が原爆の後遺症に悩まされた。(周りに判らない様に頑張っていたんだと思います)
最初白血球が2000以下に落ちてしまい、髪の毛が抜ける。
身体がだるい、寝ても起きていても、だるさが続く。
調べるために血だけは取られて、注射は打ってくれない薬はくれないし、病院は行くのは止める。
食べる事だけは、何とか調達して、食べて体調を維持しようとして、状態はそのうちやや良くなってきた。(非国民と言われるほど食べたと言っていました。)
ベンチが有ればベンチに座ったし、壁に寄り掛かって休んだりして、やっていたと聞いています。

父は80歳で亡くなる。 
原爆症の不安と闘いながら50数年間過ごしてきた。
お笑い三人組が終わるころ、お袋が亡くなりまして、親父は頼って生きてきたが、落ち込んでいて
身体を元気にさせるのは歩く事だと、競歩の選手だった細川俊夫さんから言われて、本格的に教えてくれて、身体を鍛えた。
自信がついてきて、その自信そのものが親父をさらに助けてくれた。
運動を取り入れて体力を気遣いながら、段々体に自信を持てるようになって治って行った。
後半は恐怖心とかの自律神経的なものが合わさっていたのではないかと思います。
芸を習うと言う事=父から人生、生きざまを学んだと言う事だと思います、何事に対しても凄くまじめでした、一生懸命頑張るんだと言って、その言葉を厳しくしたのが、「覆水盆に返らず」「一事が万事」であって、一生懸命頑張ってもまだ足りないんだと、芸に対しても、ここまで出来たら大したもんだと言う様なことは無くて、芸事はいつも山登りで言えば常に途中だと、僕にとってみれば全て自分の芸をやらせて頂く中での、全部基本になっています。