2014年7月14日月曜日

村岡恵理(作家)         ・祖母 村岡花子が伝えたかったこと

村岡恵理(作家)    祖母 村岡花子が伝えたかったこと
花子のアンの原案となった、「アンのゆりかご」の作品の作者  昭和42年東京生まれ。
大学を卒業した後、ライターとして活躍しますが、平成3年年から翻訳家の姉と共に、祖母、村岡花子の著作物の研究や保存に取り組みます。
赤毛のアンの著者、モンゴメリの子孫やカナダとの交流に力を入れ、アン誕生 100周年、村岡花子没後40年の平成20年に村岡花子の生涯をたどったアンのゆりかごを書きあげました。
絵里さんは祖母の足跡をたどるなかで、歴史のうねりの中に巻き込まれながらも、新しい時代を開拓してきた女性の生き方に、多くのことを学び、文学や読書が人生をどれだけ豊かにし、力となってくれるかを再認識したと言います。

「アンのゆりかご」 2008年に書きました。 
展覧会に合わせて、この本を出そうと、あわただしくして、やることはやったと思っていたが、思いがけなく朝ドラが決まった。
赤毛のアンの原作者モンゴメリーの生誕140年、記念すべき年だった。
カナダとの友好関係を結んだ85周年 記念すべき年。
展覧会をやりましょうと、ちょうど上がっていた。
村岡花子の原稿、原書を貸し出して、モンゴメリさんの遺族も協力して、カナダとと日本の友情のシンボルとして、赤毛のアンがどうやって、日本で出版されたかと言う事を含めて、展覧会をやりましょうとの企画が進んでいた。
思いがけなく「アンのゆりかご」が原案として、朝ドラが決まって、企画会社などは大喜びしています。

女性の生き方として、明治時代、学問を勉強して、英語を先駆者として学ぶ。
本だけは沢山ある家だった。
石井桃子渡辺茂男乾富子絵本だとか子供の読み物と一緒に祖母の作品があった。
亡くなる2日前の随筆に、私のことも書いてある。 
祖母が私の子守りを頼まれて、祖母が途方にくれるぐらい、泣き叫んだようだ。
大学を卒業後、ものを書く仕事を始める。 姉は翻訳の仕事。
村岡花子記念館 祖母が女学校時代からノートとか、歌を読んだもの、英文学の本とかが全部残っていた。
祖母の書斎がそっくり残っていて、資料が残っていた。
母の方が、公開してもいいと言う事になり、始まった。

タイトルが問題になり、編集者と話し合い、「窓辺による少女」に決定していたが、出版社の社長から連絡があり、「赤毛のアン」でどうかとの問いあわせがあり、祖母は気にいらなかった。
家族で話し合って、子供の意見では、「赤毛のアン」の方がいいと言う事だった。
ギリギリセーフで「赤毛のアン」に決まった。
戦争中に、敵国の翻訳をしていたことは聞いてはいたが、細かな足跡でどういう風に仕事をしていたのか、どういう風に生きていたのか、そこまで振り返ることはしていなかった。
記念館をきっかけに、母と整理をしながら、母は記憶のファイルを開いていく様に話始めて、いろんなことのきっかけでした。
3年後に母が突然亡くなる。
母は、祖母と私の結び目でもあったので、非常に悲しかった。
私がいつかおばあちゃんの物を書こうと宣言した。(26歳) それから14年後になるが。

先ずは本の整理、手紙類、資料の整理。
祖母、母が生きていた時代の事は何にも知らないと言う事に愕然とした。
先ずはそこから知ること、時代背景、生活感情、教育、考えている事等を知らないと書けないと思った。
一番驚いたのは、読む本がなかった。 教育の機会が均等では無かった。
今当たり前だと思っている環境、制度がなかった。
花子の父親はいろんなことに興味があって、キリスト教にも入っていた。
父は行商 母は農業の設定だが、父(静岡の茶商人)も母も商人だった。
父親は商人だけれど商売は苦手だった。 新しい思想、キリスト教、だとか本が好きだった。
宣教師都の流れで、実家を捨てて静岡から甲府にうつって、結婚して生まれたのが花子。
花子は2歳の時に幼児洗礼を受けている。   カナダの教会の流れだった。

赤毛のアンと出会う運命みたいなものが動き始めた様に思う。
甲府教会で幼児洗礼を受けるが、そこの教会の牧師さんが東洋英和女学校の創設者だったりして、その縁があって、10歳で東洋英和女学校のカナダ系ミッションスクールに特別に入れてもらえると言う事になる。
そこで様々な出会いがあり、才能が開花する。
出会いに恵まれた人だと思う。
実際は花子が5歳の時に一家で、東京に来ていた。
クリスチャンのヒューマニズムと言うものを叩きこまれて、日本文学を勉強したいと思っていたときに、白蓮さんとであって、歌、日本文学を勉強していて、佐佐木信綱先生、歌の先生にもついていた。
白蓮さんの導きもあって、佐々木先生の門下生になる。
歌を一生懸命に勉強した。 一時期は歌人になろうと思った。
英語力と同じように、歌を読むことで、研さんされた日本語の感覚と言うものを磨いた。
翻訳家の道の上では、非常に大切な文学的素養だと思う。

佐々木門下で培われた、日本語を選ぶ感覚は、すごく大事だったと思う。
今、英語は大事だと言う様な傾向はあるが、日本語の豊富さをもう一度見直されるべきだなあと思うし、英語ができる人は増えているが、何が明治の人と違うかと言うと、漢文の素養、短歌、俳句 日本語の豊かさを勉強している。
子供時代に沢山の本を読んで、想像力を養って、主人公がどんな境遇でも一生懸命頑張っていれば、誰かが見ていて、必ず報われる、一筋の光明が見える、と言う様な物語が多いが、祖母自身がそういったものをたくさん読んで、そういうものから生きる力、精神を得たんだと思う。
生きる力を与えてくれるような本を若い人たちにも、届けたいという想いが、実体験からより強くなったんだと、思います。
40歳で書いて、これからどう生きるか、と言う事を考える上で、歴史を知ることは大事な時期だったと思う。